本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





砂守勝巳

没年月日:2009/06/23

読み:すなもりかつみ  写真家の砂守勝巳は6月23日、胃がんのため東京都内の病院で死去した。享年57。1951(昭和26)年9月15日、沖縄本島浦添に生まれる。57年フィリピン出身で沖縄駐留米軍基地の軍属であった父が任を解かれ、母の故郷奄美大島に移り少年時代を送る。8歳になる直前に父は妻子をおいて帰国。15歳で母が死去、大阪に移り18歳でボクシングを始める。69年から71年までプロボクサーとして活動。引退前から現像所に勤務していたことをきっかけに写真に関心を持ち、74年大阪写真専門学院に入学。75年に卒業し写真家として活動を始める。82年に大阪、釜ヶ崎のドキュメントによる個展「露地流転」(キヤノンサロン銀座、大阪、広島他)を開催、84年同じく大阪・釜ヶ崎に取材した「大阪流転」で『プレイボーイ』誌(集英社)主催の第3回プレイボーイ・ドキュメントファイル大賞奨励賞を受賞。1889(平成元)年に写真集『カマ・ティダ―大阪西成』(IPC)を出版。86年に撮影の仕事で29年ぶりに沖縄を訪れたことをきっかけに、たびたび沖縄に撮影のため通うようになり、沖縄で出会った混血のパンク・ロッカーや自身の生い立ち、父との再会などについてつづった写文集『オキナワン・シャウト』(筑摩書房、1992年、のち『沖縄シャウト』と改題、講談社文庫、2000年)を出版。93年の個展「漂う島とまる水」(銀座および大阪ニコンサロン、奄美文化センター他)で発表された作品にもとづく写真集『漂う島とまる水』(クレオ、1995年)は、出生地であり幼少期を過ごした沖縄、母の出身地で少年時代を過ごした奄美、そして生き別れとなった父を訪ねたフィリピンという島をめぐる私的な旅を主題に、島嶼の自然や暮らし、現代史に翻弄された沖縄の現実へのまなざしなど重層的な構造を持つ作品として評価され、同作により96年第15回土門拳賞および第46回日本写真協会賞新人賞を受賞した。その他の著作に写文集『オキナワ紀聞』(双葉社、1998年、のち『沖縄ストーリーズ』と改題、増補、ソニーマガジンズ、2006年)、写真週刊誌時代の経験などをつづった『スキャンダルはお好き?』(毎日新聞社、1999年)がある。

佐々木崑

没年月日:2009/03/27

読み:ささきこん  写真家の佐々木崑は3月27日、脳出血のため埼玉県飯能市の自宅で死去した。享年90。1918(大正7) 年11月2日中国・青島に生まれる。本名幸一。23年に家族とともに神戸に移り、1937(昭和12)年神戸村野工業学校(現、神戸村野工業高等学校)を卒業、上京し日本理化工業(現、大陽日酸株式会社)に勤務する。39年より42年まで従軍、終戦を神戸で迎えた。中学時代より写真に関心を持ち、アマチュア写真家としてのキャリアを積み、戦後の51年に撮影行で神戸を訪れた木村伊兵衛の知遇を得、師事する。55年神戸でカメラ機材店を開業、57年には大阪に移り商業写真スタジオを経営するかたわら、神戸の麻薬地帯や遊郭、未就学児童といった社会問題をとりあげたルポルタージュを『アサヒグラフ』誌などに発表した。木村の誘いもあり60年にふたたび上京しフリーランスの写真家となり、木村の撮影の助手や62年に来日したW.ユージン・スミスの暗室助手も務めた。63年、科学映画の制作会社東京シネマに入社、スチル写真を担当、顕微鏡写真など特殊な科学写真の撮影に従事する。66年、『アサヒカメラ』1月号より「小さい生命」の連載を開始(80年6月号まで)、「続・小さい生命」(83年3月号より91年12月号まで)とあわせ、同誌上で256回の連載を通じ、昆虫や小動物の脱皮や羽化、誕生などの様子を接写した写真を発表し、自然科学写真の先駆者としての評価を確立する。同連載により72年第22回日本写真協会賞年度賞を受賞。68年には個展「小さい生命」(銀座ニコンサロン)を開催、以後、同題の個展は日本全国および海外でも開催された。主な写真集に『小さい生命』(朝日新聞社、1971年)、『ホタルの一生』(フレーベル館、1981年)、『MORPHE 花の形態誌』(アイピーシー、1988年)、『新・小さい生命』(朝日新聞社、1992年)、『誕生物語』(データハウス、1994年)など。また撮影に必要な機材を自作するなどカメラ機材や撮影技法についても深い知識を持ち、カメラ雑誌での機材テストや技法書の執筆などもてがけた。78年には竹村嘉夫らと日本自然科学写真協会(SSP)を設立、副会長に就任。81年より2002(平成14)年まで会長を務め、退任後名誉会長となる。また各地の写真団体の指導にあたるなどアマチュア写真家の育成にも尽力した。92年、勲四等瑞宝章を受章。2000年には第50回日本写真協会賞功労賞を受賞した。

稲越功一

没年月日:2009/02/25

読み:いなこしこういち  写真家の稲越功一は2月25日、肺腺がんのため東京都中央区の病院で死去した。享年68。1941(昭和16)年1月3日岐阜県高山市に生まれる。本名幸一。広告会社にグラフィックデザイナーとして勤務した後、70年有限会社イエローを設立し、フリーランスの写真家として活動を始める。71年、アメリカに取材した最初の写真集『Maybe, maybe』(求龍堂)を出版。繊細な感覚のストリートスナップで注目され、73年の『meet again』(写真評論社)ではテレビ画面のみを撮影するなど、社会性や政治性を捨象した新鮮な映像感覚の初期作品により評価を得た。雑誌等のエディトリアルな仕事も多くてがけ、とくに芸能人や歌舞伎役者を中心とする肖像写真には定評があった。シリーズ「男の肖像」(写真集は集英社刊、1981年)により80年第11回講談社出版文化賞写真賞を受賞。主要な写真集に『男の肖像』(集英社、1981年)、『女の肖像』(文藝春秋社、1984年)、『Ailleurs』(フランス コントルジュール社、1993年)、『使いみちのない風景』(朝日出版社、1994年、のち中公文庫、1998年)、『平成の女たち』(世界文化社、1996年)、『三大テノール日本公演公式写真集』(選択エージェンシー、1997年)、『アジア視線』(毎日新聞社、1999年)、『野に遊ぶ魯山人』(平凡社、2003年)、『まだ見ぬ中国』(NHK出版、2008年)など。文章の書き手としてもすぐれ、多くの写真集に自らつづったエッセイを収載した。『風の炎 稲越功一―印度朱光』(キヤノンクラブ、北欧社、1980年)や『記憶都市』(白水社、1987年、同年同題の個展を渋谷西武シードホールで開催)、『Out of Season INAKOSHI 1969―1992』(用美社、1993年)などにまとめられた叙情的な風景写真の仕事は、ライフワークとして続けられ、晩年は松尾芭蕉の足跡をたどる旅をモティーフとした「芭蕉景」と題するシリーズにとりくんでいたが、生前最後の個展となった「芭蕉景」(ライカ銀座店サロン、2009年)の会期中に死去。当初は自らも企画に加わっていた個展「Mind’s Eye 心の眼―稲越功一の写真」(東京都写真美術館、2009年)が死去の半年後に開催され、あわせて同題の写真集(求龍堂)が刊行された。

今井寿恵

没年月日:2009/02/17

読み:いまいひさえ  写真家の今井寿恵は2月17日、急性心不全のため東京都新宿区の病院で死去した。享年77。1931(昭和6)年7月19日東京市に生まれる。52年文化学院美術科卒業(油絵専攻)。父が銀座松屋の営業写真室を運営しており、父の知人の勧めもあって、文化学院卒業後に写真制作を始め、56年に初個展「白昼夢」(松島ギャラリー)を開催。カラーフィルムを用いた幻想的な作風で注目され、ファッション雑誌などの仕事と並行して、「心象的風景」(富士フォトサロン、1957年)、「ロバと王様とわたし」(月光ギャラリー、1959年)、「オフェリアそのご」(小西六ギャラリー、1960年)などの個展を開催。フォトモンタージュなどの技法を用いたフォトポエムと評される作品は、50年代初頭に隆盛したリアリズム写真運動から、主観主義写真など、より写真家個人の視点や内面に立脚し、造形的な側面も重視する写真表現へと移行していく当時の日本の写真界において高く評価され、59年には第3回日本写真批評家協会賞新人賞(個展「ロバと王様とわたし」に対して)、60年にはカメラ芸術賞大賞をそれぞれ受賞した。62年には評論家福島辰夫が中心になって企画した「NON」展(銀座松屋)に参加。しかし同年に交通事故に遭い、一時失明状態になるなどの後遺症のため制作活動を数年間休止する。交流のあった寺山修司の誘いで競馬場を訪れたことなどをきっかけに馬に関心を持ち、70年にイギリスで当時全盛期を迎えていた競走馬ニジンスキーに出会ったことからサラブレッドという新たなモティーフを得て、写真家としての活動を本格的に再開、71年個展「馬に旅して」(ニコンサロン)を開催した。以後、サラブレッドや騎手など、世界各地で競走馬をめぐる撮影を重ね、新たな評価を確立した。77年に出版した写真集『通りすぎる時―馬の世界を詩う』(駸々堂)により78年第28回日本写真協会賞年度賞を受賞。また2004(平成16)年にはJRA(日本中央競馬会)創立50周年に際し、特別表彰を受けた。主な写真集に『テンポイント』(駸々堂、1978年)、『シンボリルドルフ』(角川書店、1985年)、『サラブレッド讃歌』(玄光社、1987年)、『夢を駆けるトウカイテイオー』(角川書店、1994年)、『武豊』(角川書店、1994年)などがある。

小川隆之

没年月日:2008/10/08

読み:おがわたかゆき  写真家の小川隆之は10月8日、肺気腫のため川崎市内の病院で死去した。享年72。1936(昭和11)年10月3日東京に生まれる。59年日本大学芸術学部写真学科卒業、文藝春秋社に入社、写真部に配属される。65年に同社を退社しフリーランスとなる。67年4月より68年3月までニューヨークに滞在して制作活動にとりくみ、帰国後『カメラ毎日』1968年9月号に滞米中の作品「New York Is」を巻頭32ページの特集により発表、同年にニコンサロン(東京、銀座)において同題の個展を開催。ベトナム戦争期のニューヨークの多様な現実をとらえた同シリーズにより68年、第12回日本写真批評家協会賞新人賞を受賞する。以後、東京を拠点に報道、広告など広い分野で活躍し、コマーシャル・フィルムのカメラマンとしても多くの仕事を手がけた。代表的な仕事にオーソン・ウェルズをモデルに起用したニッカウヰスキーの広告シリーズがあり、写真およびテレビ・コマーシャル映像の撮影を担当した。82年にADC賞を受賞。また自らの作品制作にも継続的にとりくみ、主な個展に「オーソン・ウェルズ」(シードホール、東京、1987年)、「魂のメサ」(フォト・ギャラリー・インターナショナル、東京、1999年)、「沈黙の肖像」(ギャラリーSOL、東京、2000年)などがある。90年代後半には、癌を患った経験から生まれた「Beyond the Mirror」と題する、レントゲン写真や自らの身体を題材とするフォトグラムによるセルフポートレートのシリーズを発表、新境地を開く。同シリーズは同題の個展(ヒューストン写真センター、アメリカ、1998年)で発表された他、東京都写真美術館で開催された「ラヴズ・ボディ ヌード写真の近現代」(1998年)にも出品された。

柳沢信

没年月日:2008/06/02

読み:やなぎさわしん  写真家の柳沢信は6月2日、喉頭癌のため鎌倉市内の病院で死去した。享年71。1936(昭和11)年8月23日東京市向島区(現、東京都墨田区)に生まれる。本来の読みは「まこと」。疎開先の埼玉県を経て、戦後神奈川県に転居、55年神奈川県立湘南高等学校を卒業、57年東京写真短期大学(現、東京工芸大学)技術科卒業。同年桑沢デザイン研究所に入学するが数ヶ月で中退し、以後フリーランスの写真家として活動する。58年ミノルタのPR誌『ロッコール』に初めての作品「題名のない青春」を発表、59年に立木義浩、笠貫節との三人展「ADLIB 3」(富士フォトサロン、東京)を開催。60年には「現代写真展1959」(国立近代美術館)に出品。61年結核が見つかり約一年半の療養生活を送る。復帰後はファッションや広告などの仕事を手がけるかたわら写真雑誌に作品を発表し、『カメラ毎日』に発表した「二つの町の対話」(1966年12月号)「竜飛」(1967年3月号)により67年第11回日本写真批評家協会賞新人賞を受賞。74年には「15人の写真家」展(東京国立近代美術館)に参加。79年に初の個展「都市の軌跡1965-70」(オリンパスギャラリー、東京)を開催、同年初の写真集『都市の軌跡』(朝日ソノラマ)刊行。以降、個展として「北陸紀行」(ミノルタフォトスペース、東京、1980年)、「柳沢信写真展」(CAMERA WORKS EXHIBITION、東京、1981年)、「写真・イタリア・柳沢信」(コニカプラザ、東京、1994年)、「写真に帰る」(クリエイションギャラリーG8およびガーディアン・ガーデン、東京、2001年)、「柳沢信写真展」(ときの忘れもの、東京、2008年)がある。また写真集として『北陸紀行』(現代日本写真全集 日本の心 第11巻、集英社、1981年)、『写真・柳沢信 1964―1986』(書肆山田、1990年)、『写真・イタリア』(モールユニットNo.3、モール、1994年)がある。他に「写真に帰る」展に際して写真雑誌に発表した作品を網羅的に収録した小冊子が刊行された。都会的な主題をめぐる初期から、次第に高度成長のなかで変化をとげつつあった地方にも関心を広げ、60年代から70年代にかけて写真雑誌に発表した日本各地をめぐる連作(68年『カメラ毎日』に連載の「新日本紀行」、72年『アサヒカメラ』に連載の「片隅の光景」など)において、旅の途上で出会った風景を独特の距離感と映像感覚でとらえる作風を確立。写真界の動向に左右されず、確かな写真技術に裏打ちされつつも、決して技巧に走らない作品は、独自の位置を占めるものとして評価された。93年には初の本格的な海外での撮影をかねたイタリアへの長期旅行に出るが、その途上、体調を崩して帰国。喉頭、食道に癌が見つかり手術を受け、療養生活の中で新たな撮影は中断されていた。死去後の2009年「写真・柳沢信」(JCIIフォトサロン、東京)が開催された。

桑原甲子雄

没年月日:2007/12/10

読み:くわばらきねお  写真家、編集者、写真評論家の桑原甲子雄は12月10日、老衰のため死去した。享年94。1913(大正2)年12月9日、東京市下谷区に生まれる。1931(昭和6)年第二東京市立中学校(現、東京都立上野高校)卒業。家業の質店の仕事に従事するかたわら、隣家に住む幼友達でそれぞれ写真評論家、写真家となる濱谷雅夫(のち田中)・浩兄弟の影響で写真趣味にとりくみはじめた。34年にライカC型を入手してからは熱心にカメラ雑誌への作品投稿をするようになり、『アサヒカメラ』、『フォトタイムス』など各誌で入選を重ね、37年には『カメラアート』2月号が「桑原甲子雄推薦号」として特集を組むなど、昭和戦前期を代表するアマチュア写真家のひとりとなる。戦時下、40年には南満洲鉄道主催「八写真雑誌推薦満洲撮影隊」に加わり満洲にて撮影、44年には太平洋通信社に入社、対外宣伝用の写真撮影に携わる。終戦後の47年写真家集団銀龍社の結成に参加。48年アルスに入社し『カメラ』9月号より編集長を務める(54年3月号まで)。以後、『サンケイカメラ』(54年創刊、59年発行元が産業経済新聞社から東京中日新聞社に移り『カメラ芸術』に誌名変更、64年に廃刊)、『季刊写真映像』(69年創刊、71年10号で休刊、写真評論社)、『写真批評』(73年創刊、74年7号で休刊、東京綜合写真専門学校)で編集長を歴任。『カメラ』では50年に土門拳を月例写真の選者に起用、その選評と土門の実作により展開されたリアリズム写真運動は、戦後の写真表現の再出発にあたって画期となった。また『カメラ芸術』編集長時代には、荒木経惟をいちはやく評価するなど、編集者としてつねに先進的な姿勢を示した。65年に東京中日新聞社を退いて以降、再び写真撮影に本格的にとりくみはじめる。68年日本写真家協会が主催した「写真100年 日本人による写真表現の歴史展」(西武百貨店、池袋)において戦前の写真が再評価され、73年個展「東京1930-40―失われた都市」(銀座ニコンサロン)開催。74年写真集『東京昭和十一年』、『満州昭和十五年』(ともに晶文社)を刊行。76年の個展「東京幻視」(フォトギャラリー・プリズム)では戦前の作品とともに新作を発表、以降90年代半ばまで、作品発表と評論活動を並行して行う。1993(平成5)年には荒木経惟との二人展「ラブ・ユー・トーキョー」(世田谷美術館)、95-96年には「桑原甲子雄写真展 東京・昭和モダン」(東京ステーションギャラリー)、2001年には「桑原甲子雄写真展 ライカと東京」(東京都写真美術館)が開催された。二・二六事件の翌日、戒厳令下の皇居周辺を隠し撮りした写真がよく知られるが、戦前および60年代半ば以降に撮影された作品はともに東京を中心とした街中でのスナップショットによるものがその大半を占める。下町を中心とした市井の風俗や生活を、過度に表現的になることなく撮影した戦前の作品は、当時としては異色であり、70年代以降の再評価の時期には、貴重な時代の記録であることとともにその現代性が注目された。75年『東京昭和十一年』に対して第25回日本写真協会賞年度賞、91年第41回日本写真協会賞功労賞を受賞。写真集として前記の二作の他、『一銭五厘たちの横丁』(児玉隆也との共著、晶文社、1975年、岩波現代文庫版、2000年)、『夢の町 桑原甲子雄東京写真集』(晶文社、1977年)、『ソノラマ写真選書15 東京長日』(朝日ソノラマ、1978年)、『東京1934~1993』(新潮社、1995年)、『日本の写真家19 桑原甲子雄』(岩波書店、1998年)、『桑原甲子雄 ライカと東京』(朝日ソノラマ、2001年)、『東京下町1930』(河出書房新社、2006年)、評論集に『私の写真史』(晶文社、1976年)がある。

藤本四八

没年月日:2006/08/19

読み:ふじもとしはち  写真家の藤本四八は、8月19日、脳出血のため北海道小樽市の病院で死去した。享年95。1911(明治44)年7月25日、長野県下伊那郡松尾村(現・飯田市松尾)に生まれる。長兄は『アトリエ』、『美術手帖』などをてがけた美術編集者で後に三彩社を興した藤本韶三。飯田町立飯田商業学校(現・長野県飯田長姫高等学校)を中退し1927(昭和2)年に上京、画家を目指すが断念し、31年、長兄の勧めで商業写真スタジオ金鈴社に入り写真技術を習得した。日本デザイン社を経て、37年名取洋之助の主宰する日本工房に入り『NIPPON』や『COMMERCE JAPAN』などの対外宣伝グラフ誌の撮影に携わる。38年土門拳らと青年報道写真研究会を結成。39年陸軍報道班員として従軍、中国大陸にて取材。40年帰国、日本工房が改組した国際報道工芸(43年国際報道へ社名変更、45年の終戦時に解散)の写真部長となる。47年、『週刊サンニュース』にスタッフ写真家として参加、49年に同誌が休刊、以後フリーランスとなる。報道写真家としての仕事の一方、1941年に唐招提寺を撮影したことをきっかけに古寺建築、仏教美術などの撮影にとりくみはじめた。44年には初の個展「仏像写真展」(松島画廊、東京銀座)を開催。45年に『唐招提寺―建築と彫刻』、『薬師寺―建築と彫刻』(ともに北川桃雄との共著、日本美術出版)を刊行。以後、51年から52年にかけて刊行された『日本の彫刻』(美術出版社、全6巻のうち第3巻白鳳時代、第6巻鎌倉時代を担当、52年に第6回毎日出版文化賞受賞)、『桂』(柳亮との共著、美術出版社、1961年)、『装飾古墳』(小林行雄との共著、平凡社、1964年、1965年に第15回日本写真協会賞年度賞、第19回毎日出版文化賞、アサヒカメラ年鑑賞を受賞)、『日本の塔』(平凡社、1972年)など、仏教美術を中心に、日本の伝統文化をめぐる多くの仕事をてがけた。『装飾古墳』が、適切な保存体制もとられぬまま放置され消滅しつつある九州北部の古墳壁画の現状に危機感を覚え、記録撮影を企図したものであるように、一連の仕事には報道写真家として現実に向かい合う姿勢が基本にあった。失われゆく町屋を取材した『京の町屋』(駸々堂、1971年)や、伝統的な信仰が現代に伝えられている姿を追った『高野山』(三彩社、1973年)、『三熊野』(学習研究社、1978年)、『白山―信仰と芸能』(朝日新聞社、1980年)などには、主題を幅広い視点から見てゆく報道写真家としての視点が反映され、優れた仕事として評価された。美術写真や美術家の肖像も多く手がけ、『美術手帖』、のちに『三彩』に連載された美術家の肖像のシリーズは、『画室訪問』(藤本韶三との共著、三彩社、1969年)、『画室訪問第二輯』(同、1972年)にまとめられた。1975年紫綬褒章、83年勲四等瑞宝章を受章、1996(平成8)年第46回日本写真協会賞功労賞を受賞した。また88年から95年まで日本写真家協会会長を務めた。95年に故郷飯田市の飯田市美術博物館に全作品のフィルムを寄贈。97年飯田市藤本四八写真文化賞が制定され、没後の2008年に飯田市美術博物館で「藤本四八回顧展 美を追いかけた写真家の生涯」が開催された。

並河萬里

没年月日:2006/05/07

読み:なみかわばんり  写真家の並河萬里は、5月7日肺がんのため神奈川県鎌倉市の病院で死去した。享年74。1931(昭和6)年10月29日東京に生まれる。父は英文学者並河亮。55年日本大学芸術学部写真学科卒業、KRテレビ(現、東京放送)に入社し、報道部に配属されるが約半年で退社、渡欧してフリーランスの写真家として活動をはじめる。62年シリアのパルミュラ遺跡が道路工事により破壊される現場を見て、文化財の撮影にとりくむようになる。以後、シルクロードを中心に、中近東や中央アジア、地中海などユーラシア大陸の各地を取材、その成果として刊行されたシルクロード関連の写真集、書籍は50冊以上にのぼった。またインドネシア・ボロブドール遺跡や中米のマヤ、アステカの遺跡など、約40年間にわたって世界各地で取材した文化遺産は2500ヶ所以上に及び、美術史、考古学、文化人類学などの豊富な知識に裏打ちされた作品は、国際的に高い評価を受けた。晩年は島根県出雲地方や、奈良・薬師寺など、日本国内での撮影にもとりくんだ。主要な写真集に『アルハンブラ宮殿』(講談社、1970年、71年に第21回日本写真協会年度賞受賞)、『シルクロード』(新潮社、1976年、第18回毎日芸術賞受賞)、『トプカプ宮殿博物館』(護雅夫監修、全5巻、トプカプ宮殿博物館全集刊行会、1980年、81年に第31回日本写真協会賞年度賞受賞)、『イスファハン』(グラフィック社、1986年、第40回毎日出版文化賞受賞)などがある。日本大学芸術研究所助教授(1982―87年)、京都芸術短期大学(現・京都造形芸術大学)客員教授(1981―92年)などを歴任したほか、トルコ、イスタンブール国立芸術アカデミー客員教授(1971―73年)や同国立ミマル・シナン大学特別講師(1981)を務めた。文化遺産の保存や修復のためにも尽力した。1994(平成6)年紫綬褒章、2002年に勲四等旭日小綬章を受章。また72年イラン王室文化章、73年トルコ共和国文化功労章など、海外でも多くの受章がある。93年には、島根県に自らの作品を寄贈、94年に島根県並河萬里写真財団が設立された。

渡辺克巳

没年月日:2006/01/29

読み:わたなべかつみ  写真家の渡辺克巳は、1月29日肺炎のため東京都狛江市の病院で死去した。享年64。1941(昭和16)年10月17日岩手県盛岡市に生まれる。61年岩手県立盛岡第一高等学校(定時制)を卒業。57年から61年まで毎日新聞社盛岡支局で事務補助員を務め、基本的な写真技術を習得。62年上京し、東條会館写真部に勤務(67年退社)。65年、夜の盛り場をまわり、三枚一組二百円でポートレイトの撮影の注文を受け、翌日届ける「流しの写真屋」を始める。そうして撮りためた写真を『カメラ毎日』1973年6月号の公募欄「Album’73」に「新宿・歌舞伎町」と題して発表、新進の写真家として注目され、この年の「Album賞」に選ばれる。同年、写真集『新宿群盗伝66/73』(薔薇画報社)を刊行。また74年には初の個展「初覗夜大伏魔殿」(シミズ画廊、東京・荻窪)を開催、「15人の写真家」展(東京国立近代美術館)に参加した。70年代に入って、時代の変化により、流しの写真屋としての営業が成り立ちにくくなった後も、写真館の経営(76年から81年まで)などのかたわら新宿、歌舞伎町界隈に通い、街とそこに集まる人々を撮影し続けた。それらの作品は、『新宿群盗伝伝』(晩聲社、1982年)、『ディスコロジー』(晩聲社、1982年)、『新宿 1965―97』(新潮社、1997年)、『新宿グランドパレス』(新潮社、1998年)、『Hot Dog―新宿1999―2000』(ワイズ出版、2001年)などの写真集や、「真夜中のストリートエンジェル」(銀座ニコンサロン、1980年)、「新宿群盗伝伝」(銀座および新宿ニコンサロン、1982年)、「ごちゃまぜ天国」(コニカプラザ、1993年)、「LIVE」(プレイスM、2002年)などの個展で発表された。1998(平成10)年日本写真協会賞年度賞を受賞(前年の写真集『新宿 1965―97』に対して)。2006年個展「Gangs of Kabukicho」(Andrew Roth、アメリカ、ニューヨーク)開催、同題の写真集がPPP Editionsから刊行された。08年には回顧展「流しの写真屋渡辺克巳1965―2005」(ワタリウム美術館)が開催された。

中川政昭

没年月日:2005/07/18

読み:なかがわまさあき  写真家の中川政昭は、7月18日脳出血のため、東京都江東区の自宅で死去した。享年61。1943(昭和18)年10月6日岡山県真庭郡久世町(現・真庭市)に生まれる。戦後、兵庫県芦屋市に転居し、甲南中学、同高等学校を経て、67年甲南大学文学部卒業。少年時代より映画や写真に関心を持ち、大学在学中の65年頃、写真を本格的に撮り始めた。大学卒業後、広告制作会社勤務を経てフリーランスの写真家となり、ファッション関連の広告写真などを手がけるかたわら、カメラ雑誌に作品を発表するようになった。74年、『アサヒカメラ』に掲載されたヌード作品「かもめ」が「フォトキナ1974」(ドイツ・ケルン)の招待作品となる。「周縁の街から」(新宿および大阪ニコンサロン)など81年に開催した3つの個展により、82年、第32回日本写真協会賞新人賞を受賞。以降、都市とヌードをモティーフとする作品を中心に、晩年に至るまで、国内外で個展を開催、またグループ展にも多く参加した。80年代にはポートフォリオ形式の写真集『刺青』(日本芸術出版社、1983年)、『頌(ほめうた)-海辺にて-』(日本芸術出版社、1985年)を刊行している。70年代末に大判ポラロイドを用いた制作を始め、ピンホールカメラと大判ポラロイドの組み合わせによる肖像写真「高僧」シリーズなど、独自の手法を試みた。またピンホールカメラの発展として、空気をレンズ兼フィルターとして使用する撮影システム「Air Filter System」を開発するなど、写真をめぐる原理的な思考と実践を深めた。80年代後半からは、破壊したガラスネガからプリントした作品や、フィルムに物理的な加工を施し、ガラス瓶に封入したり、光源や光ファイバー等と組み合わせたりした立体作品を制作、「光学画像」としての写真と人間の視覚の接点をさまざまなかたちでさぐる仕事を展開した。制作と並行し、80年代初めより、光学、電子工学などをも視野に入れた画像を巡る基礎的な研究を続け、画像技術についての著述、講演を多く行う。1989(平成元)年からは桑沢デザイン研究所の非常勤講師として「画像文化論」を講じた。97年には光学、電子関連の専門家、評論家らと「画像文化研究会」を結成、主宰した。またインターネットにも早くから関心を示し、桑沢デザイン研究所でのインターネットを介した遠隔授業などにもとりくんだ。

片山攝三

没年月日:2005/03/23

読み:かたやませつぞう  写真家の片山攝三は、3月23日肺炎のため死去した。享年91。1914(大正3)年3月22日、シベリアに生まれ、福岡県久留米市に育つ。1932(昭和7)年福岡県立中学明善校を卒業、同年東京の写真師疋田晴久のもとで写真技術を修得し、35年福岡市内で営業写真の仕事を始めた。そのかたわら、「日本写真大サロン」等の公募展に肖像写真を出品、入賞を重ねる。終戦後、福岡・観世音寺の仏像を撮影、これをきっかけとして昭和20年代に数次にわたり九州大学美学美術史研究室の仏像調査に参加、観世音寺や大分・臼杵の石仏などを撮影した。その成果はいずれも同大教授谷口鉄雄との共著『日本の石仏』(朝日新聞社、1958年)、『観世音寺』(中央公論美術出版、1964年)などにまとめられた。57年には石橋美術館で「カメラの眼 日本の石仏」展を開催、また昭和40年代にカラーフィルムで撮影した作品による『国宝 富貴寺』(大佛次郎、平田寛との共著、淡交社、1972年)が刊行されるなど、九州を中心に多くの仏像写真をてがけた。昭和30年代後半には美術家、文芸家の肖像を集中的に撮影した。35mmカメラを用い、主にその場にある光源だけを使用して撮影されたそれらの肖像は、多くがモデルの自宅や仕事場などで撮影されたこともあり、たくみな明暗の扱いとともに、自然にふるまう被写体の個性を過不足なく伝える仕事として高く評価された。一連の作品は個展「現代美術家の肖像写真展」(日本橋三越、1964年)などにおいて発表され、以後もライフワークとして継続、1994(平成6)年には『芸術家の肖像』(中央公論美術出版)にまとめられた。また福岡出身の彫刻家冨永朝堂、豊福知徳らの作品写真にも優れた仕事を残した。67年には九州産業大学教授に就任、92年まで同大学および大学院で教鞭を執った。78年には第28回日本写真協会賞功労賞、86年には第11回福岡市文化賞を受賞している。その業績を回顧する展覧会として、89年には「片山攝三写真展 モノクロームの軌跡 50年」(福岡県立美術館)が、96年には「芸術家の肖像 片山攝三写真展」(三鷹市美術ギャラリー)が開催された。 

秋山庄太郎

没年月日:2003/01/16

読み:あきやましょうたろう  写真家の秋山庄太郎は、1月16日心筋梗塞のため、東京都中央区の病院で死去した。享年82。1920(大正9)年6月8日、東京市神田区に生まれる。東京府立第八中学、第一早稲田高等学院を経て、1943(昭和18)年早稲田大学商学部卒業。中学時代にカメラを手に入れたことを機に、写真に熱心にとりくむようになり、大学でも写真部に所属、大学卒業の年、卒業後の応召を見据え「青春の墓標」として写真集『翳』を自費出版する。東京田辺製薬に入社後、陸軍に応召し中国戦線に赴き、45年内地に転属となり終戦を迎えた。復員後の46年、写真を職業とすることを決意、東京・銀座に秋山写真工房を設立するが、資金難のため47年解散、工房時代に知己を得た林忠彦の推薦で近代映画社に入社し、女優のポートレイトに才能を発揮する。同年林忠彦らが結成した銀龍社に参加、53年にはそのメンバーを中心に二科会に新設された写真部の創立会員となる。51年近代映画社を退社、フリーランスとなり、『週刊文春』、『週刊サンケイ』など数誌の週刊誌の表紙写真やグラビア連載を並行して担当するなど、女性写真を中心に活動を展開。71年第1回日本広告写真家協会展・東京ADC賞受賞、74年には『週刊現代』表紙連載および『週刊小説』の「作家の風貌」連載により第5回講談社出版文化賞を受賞した。雑誌の表紙写真の女性ポートレイトにはタブーとされていた黒い背景を最初に採り入れるなど、新鮮で明解な表現により大衆的な人気を博したが、人物の撮影においても過度な技巧や演出に走ることなく、上品な抒情性のうちに対象の美を発見しようとするその作風は、モティーフの如何を問わず、初期より晩年まで一貫していた。写真家としての評価を確立した女性写真に加え、『作家の風貌―159人』(美術出版社、78年)、『画家の風貌と素描』(サン・アート、80年)などにまとめられた男性の肖像にも優れた仕事を残し、四十代半ばからとりくみはじめた花の写真は、ライフワークとして晩年まで続けられ、新たな代表作群となった。日本写真家協会(50年設立)、日本広告写真家協会(58年設立)の創設に参加、日本写真家協会副会長(63―64年)、日本広告写真家協会会長(71―79年)などを歴任した他、日本写真協会やアマチュア写真家の団体である全日本写真連盟などでも要職を務め、写真界の発展・普及に尽力した。また日本写真芸術専門学校の校長を長く務めるなど写真教育にも携わった。86年紫綬褒章、93年勲四等旭日小綬章を受章。1991(平成3)年には横浜市民ギャラリーで「往時茫々:秋山庄太郎写真展」、98年には徳山市美術博物館で「秋山庄太郎展:美しい記憶」、2002年には東京都写真美術館で「遊写三昧:秋山庄太郎の写真美学」展など、その業績を回顧する展覧会が開催されたほか、99年に開館した町田市フォトサロンには「秋山庄太郎常設展示室」が設けられている。

佐藤明

没年月日:2002/04/02

読み:さとうあきら  写真家の佐藤明は、4月2日肝腫瘍のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年71。 1930(昭和5)年7月30日東京市麻布区(現・東京都港区)に生まれる。53年横浜国立大学経済学部卒業。在学中写真部に在籍、卒業後フリーランスの写真家として出発、主としてファッション写真の分野で活動する。57年には第1回「10人の眼」展(東京・小西六ギャラリー)に参加、59年東松照明、奈良原一高らと写真家の自主運営によるエージェンシー「VIVO」を結成するなど、戦後世代の旗手の一人として注目される。 大学在学中、占領軍CIE図書館(後のアメリカ文化センター)に通って海外のグラフ誌やファッション誌を濫読、欧米の写真表現の動向を研究し、「VIVO」結成時には、生命を意味するエスペラント語をグループ名に提案したといったエピソードにも現れているように、佐藤は伝統的な美意識にとらわれない、鋭敏で無国籍的な映像感覚によって日本のファッション写真に新たな表現を切り拓いた。 61年の個展「女たち」(東京・富士フォトサロン)や『カメラ毎日』に連載した「サイクロピアン」(62年)、「おんな」(63年)など、女性をモティーフにした連作で独自の作品世界を展開、また63年にはニューヨークに渡り、ヨーロッパを経て65年帰国。以後北欧を中心にヨーロッパの風土をテーマとする作品を多く手がけるようになる。 66年第10回日本写真批評家協会賞作家賞を受賞(「白夜」「おんな」などに対して)。1998(平成10)年第48回日本写真協会賞年度賞受賞(写真集『フィレンツェ』に対して)。主な写真集に『おんな』(中央公論社 1971年)、『ウィーン幻想』(平凡社 1989年)、『フィレンツェ』(講談社 1997年)など。遺作となった作品をまとめた『プラハ』(新潮社)が2003年に刊行された。

大辻清司

没年月日:2001/12/19

読み:おおつじきよじ  写真家で筑波大学名誉教授の大辻清司は、12月19日脳出血のため東京都渋谷区の自宅で死去した。享年78。1923(大正12)年7月27日東京市城東区大島(現江東区大島)に生まれる。戸籍上の出生日は8月15日。1942(昭和17)年東京写真専門学校(現東京工芸大学)芸術科に入学。在学中の43年に陸軍に応召、終戦まで軍役に就く(44年9月卒業の認定を終戦後受ける)。終戦後に勤務した写真スタジオで斎藤義重と出会い、斎藤の勧めで『家庭文化』誌編集部に入り撮影を担当。47年新宿で写真スタジオを開業。49年第9回美術文化協会展に「いたましき物体」を出品、同協会員となる(52年の第12回展まで出品し退会)。52年「小川義良・大辻清司写真二人展」(タケミヤ画廊)開催。53年より実験工房に参加、同年グラフィック集団の結成に加わる。55年の第2回グラフィック集団展(銀座・松屋)には石元泰博、辻彩子との共作、武満徹・音楽による実験映画「キネカリグラフ」を出品。同年石元泰博との共著『カメラが把えた朝倉文夫の彫塑』(朝倉彫塑塾)刊行。56年「第1回国際主観主義写真展」(日本橋・高島屋)に出品、同年『芸術新潮』嘱託(60年まで)となり、以後90年代前半まで美術雑誌や企業PR誌、展覧会図録などさまざまな出版物のための写真撮影を担当する。58年シカゴに渡った石元泰博の後任として桑沢デザイン研究所の講師となり(75年まで)、以後、東京綜合写真専門学校(1960~70講師)、東京造形大学(1967~72助教授、1972~76教授)、筑波大学(1976~87教授)、九州産業大学(1987~96教授)などで教鞭をとる。1960年代から『カメラ毎日』、『アサヒカメラ』などの写真雑誌に写真評論やエッセーを多く寄稿。77年個展「ひと函の過去」(フォトギャラリープリズム)、87年「大辻清司1948-1987」展(筑波大学会館)、同年「大辻清司展」(東京画廊)開催。1989(平成元)年『写真ノート』(美術出版社)刊行。96年日本写真協会賞功労賞を受賞。99年「大辻清司写真実験室」展(東京国立近代美術館フィルムセンター展示室)において初めてその業績の本格的な回顧がなされる。同年「大辻清司・静かなまなざし」(写大ギャラリー)開催、『日本の写真家21 大辻清司』(岩波書店)刊行。2000年作品掲載や執筆文章の書誌情報等を集成した『大辻清司の仕事1946-1999』(モール)が刊行される。02年「大辻清司写真作品展」(福岡アジア美術館交流ギャラリー)開催。戦前期の前衛写真運動に写真雑誌を通じて触れたことをきっかけに写真家を志した大辻は、シュルレアリスムと抽象を軸に展開した前衛写真の影響下に、被写体となるモノの存在を見つめる実験的写真で出発、実験工房やグラフィック集団の活動を通じて、メディアの枠を越えた表現を試みる一方、雑誌の嘱託としての撮影や商業写真、建築・美術・工芸作品写真などの仕事も数多く手掛け、多面的に写真に対する経験と思考を深めていった。また教育者、書き手として、後続の世代の写真家たちや同時代の写真表現に対する観察者・理解者としても重要な役割を果たした。60年代末に若手写真家のなかから現れた「コンポラ写真」に注目し、その動向に触発されるように、自らも小型カメラを用いたスナップショットによって表現主体としての「私」の位置を問い直していった一連の仕事に見るように、その写真家としての姿勢にはつねに、既成の写真表現の成果を踏まえつつ新たな展開を探ろうとする実験の姿勢が貫かれていた。

緑川洋一

没年月日:2001/11/14

読み:みどりかわよういち  写真家の緑川洋一は、11月14日胃がんのため岡山市の病院で死去した。享年86。1915(大正4)年3月4日岡山県邑久郡裳掛村(現邑久町)に横山知(さとし)として生まれる。1936(昭和11)年日本大学専門部歯科医学校卒業。37年岡山市内に横山歯科医院を開業。学生時代に写真を撮影するようになり、39年頃から緑川洋一の作家名で写真雑誌の月例懸賞に応募を始める。同年、中国写真家集団に参加。47年東京の写真グループ銀龍社に参加。53年銀龍社を母体に二科会に新設された写真部に出品、第1回二科賞を受賞。54年「植田正治・緑川洋一展」(東京・松村画廊)、55年「秋山庄太郎・林忠彦・緑川洋一・植田正治4人展」(東京・松島ギャラリー)、個展「大阪」(松島ギャラリー)開催、同年二科会写真部会員となる。57年秋山庄太郎・岩宮武二・植田正治・林忠彦・堀内初太郎と「6人展」(東京・富士フォトサロン)開催。62年写真集『瀬戸内海』(美術出版社)を刊行、同書により第6回日本写真批評家協会賞作家賞、昭和37年度中国文化賞、翌年の日本写真協会賞年度賞などを受賞。78年作家名として用いてきた緑川洋一名で戸籍登録。80年代以降はカメラメーカー系ギャラリーを中心にほぼ毎年個展を開催。2001(平成13)年から翌年にかけ5会場を巡回した「光の交響詩 緑川洋一の世界」(岡山・天満屋、呉市美術館、他)が生前最後の個展となった。90年勲四等瑞宝章、第23回岡山県三木記念賞、99年日本写真協会功労賞を受賞。92年岡山市内に緑川洋一写真美術館が開設され、館長に就任する(2001年末より休館)。緑川は、中国写真家集団以来の盟友であった山陰の植田正治と同様、戦前のモダニズム写真の影響下に出発し、地方を拠点に独自の制作活動を展開した写真家であった。戦中期から50年代にかけては、瀬戸内の農漁村や塩田、大阪の商人町などをテーマとしたドキュメンタリー写真も手掛け、またヌードや群像などの人物写真にもとりくむ。59年の四ヶ月にわたる欧州11カ国歴訪を契機に、風景写真に集中するようになり、瀬戸内海をモチーフに、フィルターや多重露光などの技法を駆使した構成的なカラー作品により独自の作風を確立した。『国立公園』(中日新聞社、1967年)、『日本の山河』(矢来書院 1975年)など、日本各地の景勝地に取材した風景写真による写真集を中心に作品集・技法書・随筆集など著書は79冊に及んだ。73年以降18回に渡ってアマチュア向けの海外撮影旅行を主催、81年には全国組織の写真集団・風の会を結成、主宰するなどアマチュア写真家の指導にも熱心にとりくんだ。

渡辺義雄

没年月日:2000/07/21

読み:わたなべよしお  写真家で文化功労者、日本写真家協会名誉会長、日本大学名誉教授の渡辺義雄は、7月21日肺炎のため東京都三鷹市の病院で死去した。享年93。1907(明治40)年4月21日新潟県三条町(現 三条市)に生れる。1920(大正9)年新潟県立三条中学校の入学に際し、父から祝いとしてカメラを贈られたことをきっかけに写真を撮り始め、独学で現像・印画などの技術を習得する。25年中学を卒業し上京、小西写真専門学校(翌年に東京写真専門学校と改称。現 東京工芸大学)に入学し写真を学ぶ。1928(昭和3)年同校を卒業、オリエンタル写真工業に入社、写真部に配属され乾板のテスト撮影などを担当する。30年同社が発行していた『フォトタイムス』誌の編集主幹木村専一を中心に新興写真研究会が結成されるとこれに参加し、31年宣伝部に異動、『フォトタイムス』の編集などに従事する。同誌などを拠点に30年代に急速な盛り上がりを見せた新興写真の運動の中、同誌上に小型カメラによって都市風俗を躍動的に捉えた「カメラウヮーク」と題する組み写真のシリーズ(32年から34年にかけて6度にわたり掲載)や、初期の代表作となる「御茶の水駅」(33年1月号掲載)を発表。日本におけるグラフ・ジャーナリズムの先駆というべき前者、建築家・堀口捨巳の示唆により、幾何学性を強調することで当時の代表的なモダン建築であった御茶ノ水駅舎の造形を大胆に描写した後者などによって写真家としての評価を確立する。34年にオリエンタル写真工業を退社し、外務省の外郭団体・国際文化振興会写真部、中央工房の外郭団体・国際報道写真協会に参加、国際文化振興会の依嘱による37年のパリ万国博会出品の写真壁画「日本観光写真壁画」(構成・原弘)や、同年外務省の依嘱で木村伊兵衛らと取材した中国大陸での写真による38年の国際報道写真協会主催の「南京・上海報道写真展」など、各種対外宣伝や報道に携わる。45年東京大空襲によりネガやプリントを焼失。  終戦後は次第に建築写真を専門とするようになり、53年伊勢神宮の第59回式年遷宮に際して、写真家として初めて許可を受けて内宮、外宮の御垣内を撮影。以後73年、1993(平成5)年の式年遷宮に際しても撮影を行った伊勢神宮(写真集に共著『伊勢 日本建築の原型』朝日新聞社 62年など)をはじめ、「奈良六大寺大観」として知られる法隆寺、東大寺などを撮影した一連の作品(『奈良六大寺大観』岩波書店、68~73年、全14巻のうち6つの巻を担当)など、多くの古社寺を撮影し日本の古建築写真の第一人者となった。また東宮御所(『東宮御所』毎日新聞社 68年)、皇居宮殿(『宮殿』毎日新聞社 69年)、帝国ホテル(『帝国ホテル』鹿島研究所出版会 68年)など近・現代建築を撮影した写真にも優れた仕事を残した。写真の機械的機能に立脚した表現を目指した新興写真の運動を通じて確立された写真観は戦後の建築写真の仕事にも引き継がれ、その建築写真はつねに、細部や質感の明解・精緻な描写、建築のフォルムの的確な把握、理想的な光線条件のもとでの豊かな諧調表現など、写真の機能を厳格かつ十分に生かしきることを基礎として、対象の造形美に迫ろうとするものであった。  50年に日本写真家協会が結成されると総務委員となり、53年には副会長に就任、58年から81年まで会長を務めた。日本著作権協議会の活動にも携わり71年に日本写真著作権協会が設立されると会長に就任、また78年発足の日本写真文化センター設立準備懇談会(のち日本写真美術館設立促進委員会と改称)の代表を務めるなど、写真著作権や写真の文化的価値の確立といった社会的な活動においても尽力し、90年に開館した東京都写真美術館の初代館長を務めた(95年退任)。58年より77年まで日本大学芸術学部写真学科教授として教鞭をとり、78年名誉教授となる。89年に新潟県美術博物館、91年に横浜美術館、96年には東京都写真美術館で回顧展が開催された。69年に紺綬褒章、72年に紫綬褒章、78年に勲三等瑞宝章を受章、90年には写真家としては初の文化功労者に選定された。 

植田正治

没年月日:2000/07/04

読み:うえだしょうじ  写真家の植田正治は7月4日、急性心筋梗塞のため鳥取県米子市の病院で死去した。享年87。1913(大正2)年3月27日鳥取県西伯郡境町(現 境港市)に生まれる。県立米子中学校在学中に写真に興味を持ち、1931(昭和6)年に中学を卒業後、地元のアマチュア写真団体米子写友会に入会する。32年上京しオリエンタル写真学校に学び、同年帰郷して営業写真館を開業。新興写真の影響を受けた作品を制作、『カメラ』、『アサヒカメラ』などの写真雑誌の月例懸賞に応募し入選を重ねる。33年日本海倶楽部、37年中国写真家集団の結成に参加。39年の第3回中国写真家集団展に出品した「少女四態」が第13回日本写真美術展で特選を受賞。40年第4回中国写真家集団展に「茶谷老人とその娘」を出品。これらは初期の代表作であり、複数の人物を画面に配した演出写真による、戦後確立される作風の先駆となる。戦時体制の進行とともに写真制作を中断。38年、43年の2度応召するがいずれも即日帰郷、また海軍工廠へ徴用されるが体調不良により帰郷する。終戦後、46年に写真作品の制作を再開し、47年写真家集団銀龍社に参加(会員に桑原甲子雄、石津良介、緑川洋一ら)。49年『カメラ』編集長桑原甲子雄の企画で鳥取砂丘での土門拳らとの競作が行われ、その作品が同誌9月号に掲載される。この鳥取砂丘での作品と、同誌10月号に掲載された、境港の自宅近くの砂浜で家族をモデルに撮影された「パパとママとコドモたち」他の作品などによって、砂丘や砂浜を天然のスタジオとする群像写真のスタイルを確立する。50年山陰地方の写真家たちによる写真家集団エタン派を結成。54年二科会写真部に出品した「棚の下の水面」「湖の杭」で第2回二科賞を受賞し、55年二科会写真部会員となる。以後も一貫して自宅のある境港およびカメラ店を構えた米子を拠点に活動を続け、「童暦」シリーズ(写真集、71年)や「小さな伝記」シリーズ(『カメラ毎日』連載、1974~85年)など、山陰の風土をモダンな造型感覚と独特のユーモア感覚でとらえた作品を、写真雑誌等を通じて発表。また74年『アサヒカメラ』に連載した「植田正治 写真作法」)、78年『カメラ毎日』に連載した「アマチュア諸君!」などの文章を通じてもアマチュア写真家たちに影響を与えた。75年から94年まで九州産業大学芸術学部写真学科教授、79年から83年まで島根大学教育学部非常勤講師を務める。83年メンズ・ビギの広告のために砂丘でファッション写真を撮影。これをきっかけに90年代にかけて「砂丘モード」シリーズを制作、自ら「砂丘劇場」と呼んだ砂丘での群像演出写真を現代的なモード写真として展開、それらを紹介する「植田正治 砂丘」展(渋谷PARCO 87年)が開催されるなど、広範な注目を集めた。それらと並行して、80年代半ばからは「植田正治 50年の軌跡」展(ペンタックスフォーラム 84年)、「植田正治とその仲間たち 1935-1955」(米子市立美術館 92年)、「植田正治の写真」展(東京ステーションギャラリー 93年)などの大規模な回顧展が開催され、あらためてその仕事への評価が高まり、1995(平成7)年鳥取県西伯郡岸本町に本人より寄贈を受けた作品を収蔵する植田正治写真美術館が開館した。第9回および第18回アルル国際写真フェスティバル(フランス 78・87年)、第17回フォトキナ(ドイツ、ケルン 82年)、フォト・フェスト’88(アメリカ、ヒューストン 88年)など海外での発表も多く、その独自の画面構成感覚が「UEDA-CHO(植田調)」と呼ばれ高い評価を受けた。95年から97年まで『アサヒカメラ』に「印籠カメラ写真帖」を連載するなど、晩年も、急死する直前まで新たな作品に取り組み続けた。75年日本写真協会年度賞、89年日本写真協会賞功労賞を受賞。96年フランス文化芸術勲章を受章。主な写真集に『童暦』(「映像の現代」第3巻、中央公論社 71年)、『音のない記憶』(日本カメラ社 74年)、『砂丘・子供の四季』(朝日ソノラマ 78年)、『新出雲風土記』(「日本の美 現代日本写真全集」第5巻、集英社 80年)、『植田正治ベス単写真帖 白い風』(日本カメラ社 81年)、『昭和写真・全仕事10 植田正治』(朝日新聞社 83年)、『砂丘 植田正治写真集』(PARCO出版局 86年)、『植田正治作品集』(全2巻、PARCO出版局 95年)、『植田正治写真集』(宝島社 95年)、またその文章をまとめた『植田正治 私の写真作法』(金子隆一編、TBSブリタニカ 2000年)などがある。

鈴木清

没年月日:2000/03/23

読み:すずききよし  写真家の鈴木清は、3月23日多臓器不全のため川崎市中原区の病院で死去した。享年56。1943(昭和18)年11月30日福島県いわき市に生れる。69年東京綜合写真専門学校卒業。同年『カメラ毎日』に6回にわたって発表した「シリーズ・炭鉱の町」で写真家として出発し、看板描きを生業としながら写真を撮り続ける。自らが生まれ育った環境である炭鉱をテーマとしたデビュー作以降、日本やアジア各地で撮影を行い、独特の強度を持った眼差しでさまざまな風土や時代に生きる人間の生を浮き彫りにする作品を発表する。72年最初の写真集として、炭鉱や旅役者などの複数の主題をめぐる写真をまとめた『流れの歌』を刊行。以後、インドに取材した『ブラーマンの光』(76年)、路上生活者を主題とする『天幕の街』(82年)、潜在意識=夢をキーワードに港町を撮影した『夢の走り』(88年)、昭和の終わりの社会を見つめた『愚者の船』(IPC 91年)、金子光晴の小説をテキストとして編まれた『天地戯場』(92年)、自伝的な写真集と位置づけられた『修羅の圏』(94年)、小説家マルグリッド・デュラスとベトナムの風土に触発された『デュラスの領土』(98年)を刊行。八冊の写真集のうち『愚者の船』をのぞいてはいずれも自費出版。編集・装丁も自ら手がけ、さまざまなフォーマットの写真を組み合わせたり、引用を含む文章を挿入したりした重層的な「書物」としての写真集作りや、壁だけでなく床面、天井なども使った立体的な空間構成を試みた個展でのインスタレーションにも独自の方向性を示した。83 年個展・写真集「天幕の街」で第33回日本写真協会賞新人賞、1989(平成1)年写真集「夢の走り」で第1回写真の会賞、92年個展「母の溟」で第17回伊奈信男賞、95年個展・写真集「修羅の圏」で第14回土門拳賞を受賞。85年から東京綜合写真専門学校の講師を務め、多くの写真家を育てた。死去の直前まで新たな発表の構想を練り続け、死去の半年後、遺された展示構成プランによって新作も含む回顧的な個展「千の来歴。」(コニカプラザ 2000年)が開催された。

濱谷浩

没年月日:1999/03/06

読み:はまやひろし  写真家の濱谷浩は3月6日午後2時57分、肺炎のため神奈川県平塚市の杏雲堂平塚病院で死去した。享年83。1915(大正4)年3月28日東京に生まれる。関東商業学校(現関東第一高校)在学中に写真部をつくるなど写真に熱中する。33(昭和8)年同校を卒業後、実用航空研究所を経て、オリエンタル写真工業に勤務。東京の下町風景を撮影、37年フリーのカメラマンとして独立。翌年瀧口修造、兄の田中雅夫らと前衛写真協会を、また土門拳らとともに青年報道写真家協会を結成する。41年政府の広報機関ともいえる東方社に入社、対外宣伝誌『FRONT』の写真を担当するが、上部と衝突して退社。44年新潟県高田市(現上越市)に移り、ここを拠点に日本海側の風土や人々の営みの記録に力を入れ、55年『カメラ』に「裏日本」を連載した。60年国際的な写真家集団マグナムの会員となる。60年代後半から目を世界の自然に向け、約8年間で六大陸を踏破、自然の妙を撮り続けた。五十年間の活動の軌跡をまとめた『濱谷浩写真集成―地の貌 生の貌』で81年日本芸術大賞を受賞。86年には米国の国際写真センターより世界最高峰の写真家に与えられるマスター・オブ・フォトグラフィー賞を、翌年には日本人写真家として初めてスウェーデン、ハッセルブラッド財団の国際写真賞を受賞した。この間90(平成2)年川崎市民ミュージアム、97年東京都写真美術館で個展を開催。終生反骨精神を貫き、教科書検定に反発、81年度芸術選奨文部大臣賞を返上したほか、戦争の罪滅ぼしの念からアジア諸国に図書を寄贈するなどの活動もした。作品集に新潟県内の村で行われる小正月の行事を民俗学の面からとらえた『雪国』(1956年)、『裏日本』(1958 年)、『見てきた中国』(1958年)、60年安保闘争を徹底取材した『怒りと悲しみの記録』、『日本の自然』(1975 年)、『學藝諸家』(1983年)などがある。

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