桃山障壁画名作展
1957年05月日本経済新聞社では二八日から六月九日まで、日本橋高島屋で、国宝永徳筆梅ニ小禽図(聚光院)、同等伯筆松ニ草花図(智積院)、同宗達筆風神雷神図(建仁寺)、御物友松筆浜松図、同永徳筆花鳥図その他の桃山障壁画の名作と、この時代の意匠をこらした工芸品を集めて展観した。
日本経済新聞社では二八日から六月九日まで、日本橋高島屋で、国宝永徳筆梅ニ小禽図(聚光院)、同等伯筆松ニ草花図(智積院)、同宗達筆風神雷神図(建仁寺)、御物友松筆浜松図、同永徳筆花鳥図その他の桃山障壁画の名作と、この時代の意匠をこらした工芸品を集めて展観した。
日本芸術院会員の欠員は、現在美術三(日本画二書一)、文学一、芸能一計五名であるが、この補充を年度内に決めるため会員選考委員を二三日の総会で選出した。美術関係左の通り 西山翠嶂、山口蓬春、辻永、石井柏亭、北村西望、斎藤素巌、岩田藤七、山崎覚太郎、豊道春海、吉田五十八。
こどもの日を記念して産経時事新聞社が制定した児童出版文化賞は、その第四回授賞が決定し五日発表された。美術関係では今泉篤男著「西洋の美術」がある。
洋画家梅原竜三郎は「自由な立場で自由な仕事をしたい」との理由で、高橋芸術院々長のもとに会員辞任を正式に申入れた。梅原は昭和二三年第四回日展が芸術院主催で開催が決定された際、「官展には反対なのに、その日展の審査を芸術院がやるのでは止めざるを得ない」と辞表を出して居り、このときは芸術院側の慰留で「審査に出ない」ことで会員として止まり現在に至つた。今回も芸術院への不満が取沙汰されたりして居り、芸術院側は極力その慰留に努めたが意をひるがえすことは出来ず、同月三〇日付で、辞任が発令された。
東大イラク・イラン遺跡調査団のテルサラサートに於ける第二期発掘は、三月はじめから開始されたが、多くの発掘品を得て二五日終了した。
没後二〇〇年を記念して、奈良国立博物館では二〇日から五月二〇日まで柳里恭展を開催した。柳里恭を中心に、諸大家の代表作約八〇点を集めて初期南画の形成過程を示そうとする試みで、偽作、模作の多い柳里恭研究に一つの規準を示そうとしたものである。
東京国立博物館では二〇日から五月一九日まで近世初期から江戸中期にわたる風俗画の代表作七六点を集めて春の特別展を開催した。風俗画を通じて浮世絵版画や肉筆浮世絵の源流をさぐろうとしたものである。
第一美術協会では創芸協会の神津港人ら全会員と、また美校師範科出身者よりなるベラ会をも合併し、新たに第一美術協会として再発足した。
日本・イラン文化協定は十六日日本側岸首相兼外相とナカイ駐日イラン大使との間に調印された。これは戦後我国が結んだ文化協定としては九番目のもので、前文と本文六条からなり、文化交流のあらゆる面での協力を約束している。有効期間は五年間でテヘランでの批准書交換後一カ月で発効する。なおこの協定によりイランでの日本映画祭、日本でのイラン古美術展の開催などが計画された。
中国科学院の招きにより原田淑人を団長とする九人の考古学視察団が十六日中国に向け出発した。学問的に重要な地点十七個所、全行程一万キロに亘る視察を行い、博物館、文物管理委員会の参観、発掘の現場視察、中国の考古学者、歴史学者と学術交流をはかるなど、多くの成果をあげて、六月四日帰国した。
創元会の木下幹一、小野彦三郎他七名は、先月末グループ十一会を結成し、創元会に在籍のまゝ自由な制作活動を行うことを意図したが、都合で小野彦三郎、山野正、木下幹一ら七名は創元会を脱会して十一会を再結成した。
ブラジル、サンパウロ国際美術展の審査委員である日本代表は、日本美術家連盟、美術評論家連盟、外務省の間で選考中であつたが、第二紀会々員栗原信、春陽会々員水谷清(現在メキシコ滞在中)の両名に決定した。
第三回文芸春秋漫画賞(賞金一〇万円)は、選考の結果加藤芳郎の最近の漫画作品に決定した。
三〇年夏以来継続して行われた大阪四天王寺の発掘は、一〇日から五月一七日までの第三回発掘を以て一応終ることになつた。創建以来七回も建てかえられている為創建当時の模様を明かにすることは困難とされたが、地表から土層を区切る焦土や灰の線を辿つて、各時代の構造を発掘、礎石、柱あとなどから創建当時の規模を推定するに至り、建築史に資する大きな成果をあげた。
「考古学上の発掘に際しては外国の学者も国内の学者も同じ立場で発掘できるように国際的な原則を立てよう」というユネスコからの勧告が近く加盟国に出されるというので、日本考古学協会では六日第一九回総会において、日本の態度をきめる為の討論を行つたが意見が対立して結論は出なかつた。
ニューヨーク、メトロポリタン美術館では、四日から五週間富岡鉄斎展を開催し、兵庫県宝塚清荒神清澄寺の所蔵品より選んだ作品五三点を出陳した。会場には同寺坂本法主が連日作品説明にあたり、ボストン・ワシントン等米国各地を巡回した。
ニューヨークのナショナル・アカデミー・ギャラリーでは四日から二一日まで米国務省と日本近代美術館の後援で日本水彩画展が開催された。同展は米国水彩画協会の第九〇回年次展覧会の行事の一つとして開かれたもので、石井柏亭、猪熊弦一郎他五〇数点の作品が出品された。
三年毎にイタリヤのミラノで開かれる国際的なデザインコンクールで、日本デザイン研究所の荒木繁が七部門のうち織物図案で最高賞(賞金二五万リラ)を受領した。
江東区深川の富岡八幡宮では、昨秋新社殿が完成したが、これを飾る壁画九枚を石井柏亭、伊東深水、松林桂月、堅山南風、野田九浦、服部有恒、福田浩湖、川崎小虎等に依頼した。その第一号である石井柏亭作の「ごうのいけ」が完成し、二六日運びこまれた。同作は鹿島宮の神池の風致を、四尺×六尺の桐板に油絵で日本画風にまとめたものである。
昭和三一年度(第七回)芸術選奨文部大臣賞の受賞が決定し、二七日文部省から九名、一団体が発表された。これはその年間における最もすぐれた業績と新分野を開いたものに受与されるもので、美術部門は左の通り。 福沢一郎 第一線の画家として独自の幻想的画風をもつて、多年にわたりわが美術界の 発展に大きな役割を果したばかりでなく、ことに最近メキシコ、南米を巡り帰朝後、その総決算として開いた大規模な作品展はまれにみる迫力にとんだものとして画壇に新風を送つた功績に対して。 吉阪隆正 ベニス・ビエンナーレ展覧会日本館の建築に当り、幾多の障害を克服してよ く短期間のうちにすぐれた作品を完成し、日本建築技術の粋を世界に紹介した功績に対して。 なお一三日文部大臣室で授賞式が行われ、灘尾文相から各賞状と賞金が授与された。