水彩連盟創立
1940年05月水彩画の発展の為、日本水彩画会の荒谷直之介、春日部たすく等八名により水彩聯盟が創立された。
水彩画の発展の為、日本水彩画会の荒谷直之介、春日部たすく等八名により水彩聯盟が創立された。
陸軍の十二作家現地派遣の第一陣として川端竜子は北支方面、ソ満国境方面へ画材を求めて五月二十八日出発した。尚竜子は六月二十六日帰京した。
再開紐育万国博は五月十一日開会され、欧洲の動乱に依り欧洲諸国の出品がなかつたが、吾が国は特設日本館並に日本部を開設した。又桑港博も紐育に対応して六月二十三日より開会された。
産業美術の向上発展をはかる為、大阪毎日新聞社により日本産業美術協会が成立し、その発会式が五月十一日大阪本町染工聯会館で挙行された。
日本木彫会を脱退した沢田晴広、三木宗策等二十二名は次代の木彫芸術の確立を期し、五月七日正統木彫家協会を結成、公募展を開催することとなつた。
先年帝国美術院改組後その私塾環堵塾を解散した小室翠雲は、五月五日心印画塾を改めて創設し、同日その自邸に於て門下生参集発会式を行つた。
工芸美術界に於て新人の発見、新素材の研究奨励、我が国固有技法の保存等を目的とし、川崎克を会長、侯爵細川護立、子爵岡部長景を顧問として四月現代工芸作家協会が結成され、十一月二十七日より十二月七日迄公募展を開催した。
福岡日々新聞社は紀元二千六百年を記念し新に文化賞を創設し、その第一回として西日本出身の学者、発明家、芸術家から五名が選ばれたが、画家としては堅山南風の第二十六回院展に出品した「千里壮心」に授賞された。
陸軍省に於ては今次聖戦を如実に伝へる為、日本画家より川端竜子、川崎小虎、吉村忠夫、洋画家より中村研一、田村孝之介、小磯良平、田中佐一郎、清水良雄、硲伊之助、伊原宇三郎、橋本八百二、宮本三郎を中、南、北支へ軍嘱託として派遣することとなり、四月三十日これ等従軍作家の打合せを兼ね壮行会を永田町星ヶ岡茶寮で行つた。尚これ等の作品は昭和十六年三月十日の陸軍記念日を中心に開催さるる戦争美術展覧会へ出品の予定である。
十三松堂故正木直彦の追善会が、芸苑の友五十四名の発起により、四十九日の命日にあたる四月十八日小石川区音羽護国寺の月光殿に於て催された。
中支派遣軍の招聘に依り約二箇月に亘り長江一帯の風景描写をなす為野口謙次郎は、四月十六日出発し、六月十八日帰還した。
川端竜子の主宰する青竜社は、さきに在野団体として独自の展覧会を開催する主旨より九月より開始さるる紀元二千六百年奉祝美術展覧会には不参加を声明したが、これに関する会期問題より爾今上野公園内東京府美術館を使用せざることを四月十二日声明した。
工芸の進歩向上を図り、東西工芸家の親睦をはかる為、四月十二日東京、京都、大阪を中心とする工芸家五十余名を以て三都工美会が組織された。
小杉放庵、石井鶴三、田中青坪は支那華北鉄道株式会社の招聘により四月五日前後して出発した。一箇月の間上海、楊州、南京、蘇州、杭州等を旅行して写生した。
横山大観は彩管報国の熱情からさきに「海」及び「山」を主題とする二十点の連作を完成したが、四月四日其の売上金五十万円を陸海軍省へ夫々飛行機整備費として折半して献納した。
五月再開さるる紐育万国博覧会へ出品の日本画が、商工省及び紐育、桑港万国博覧会主催で四月二日より四日迄日本橋三越に於て内示された。尚同十日より十二日迄女子高等師範学校講堂に於て紐育、桑港両万国博覧会に出陳さるべき壁面写真が内示された。
明治時代の由緒ある建築物として知られた鹿鳴館は、広大な敷地の有用な使用を目的として取毀さるるに至つた。
染織家磯部陽等に依り三月臈和会が結成された。
濠洲シドニーに於て、予て日本純国産品の展示会が計画されてゐたが、貿易組合中央会、日濠協会、国際文化振興会の協力により蒐集された資料が三月二十七日現地発送に先立ち高島屋本店に於て展示された。これは文化資料と一般国際品に分けられたが、前者には日本の風物を示す版画、光筆画の現代画家の作品、古代風俗を示す鏑木清方の文展出品作「春の愁ひ」、江戸時代小袖等があり、後者はその主旨として美術的工芸ではなく、日本人が普通に使用してゐる布帛、陶磁器、硝子工芸、金属工芸、七宝、木工品等であつた。