第一回連合展開催
1947年06月毎日新聞社主催の第一回美術団体連合展が一〇日から三〇日まで東京都美術館で開催された。一水会・二科会・独立美術協会・光風会・国画会・春陽会・新制作派協会・東光会・旺玄会・創元会・現実会・自由美術家協会の一二団体が参加し、在野をふくむ日本洋画壇の展望を示した。会期中の二八日には天皇皇后両陛下が行幸啓になつた。
毎日新聞社主催の第一回美術団体連合展が一〇日から三〇日まで東京都美術館で開催された。一水会・二科会・独立美術協会・光風会・国画会・春陽会・新制作派協会・東光会・旺玄会・創元会・現実会・自由美術家協会の一二団体が参加し、在野をふくむ日本洋画壇の展望を示した。会期中の二八日には天皇皇后両陛下が行幸啓になつた。
法隆寺五重塔の解体工事が一四日から始められたが、天井板落書の発見、さらに九月には一階壁面漆喰下から新しい壁面が現われるなど法隆寺研究上重要な資料が次々と発見された。
一七日京都東山の智積院から出火、本堂・寝殿その他の建物を焼失した。一部の床貼付等は建物と共に灰燼となつたが、国宝の襖絵は持出され焼失を免れた。
一九日から二四日まで銀座三越に於て現代中国木刻画展が開かれた。
一〇日東京美術学校彫刻科学生によつて彫刻科石井鶴三教授反対の声明書が学校当局・文部省などに提出され問題となつたが、平櫛・石井二教室制が採用され、六月山本豊市・菊池一雄が迎えられて解決した。
一〇日京都博物館で展観中の仁和寺所蔵金盒子が盗まれた。大正三年仁和寺境内から発堀され昭和一三年国宝に指定された平安朝末期の遺品である。
帝室博物館は皇室財産の整理とともに国有となり、三日の新憲法実施の日から文部省の管轄下に国立博物館として発足した。文部省の美術研究所、国宝調査室と奈良帝室博物館を併せ、新しい活動を始めた。館長には安部能成、次長には谷川徹三が就任した。
三日大阪府三島郡福井村において京大考古学教室の梅原末治らによつて竪穴式船型石室の前方後円墳が発掘された。中国製王恭鏡、和製の鏡その他貴重な資料が多数発見された。
東京都と朝日新聞社の共同開催で第一回現代美術綜合展覧会が一日から二〇日迄東京都美術館で開催された。第一部日本画、第二部油絵、第三部彫塑、第四部工芸に分かれ全美術界に渉つて出品招待制をとつた。会期中の一四日には天皇皇后両陛下が御覧になつた。
金沢市に市立の美術工芸専門学校が設立され、元東京美術学校教授森田亀之助が校長に就任した。
勤労大衆の文化的意欲を基調とする新美術の創造を目ざして、美術文化協会を脱退した丸木位里、赤松俊子、山下菊二、井手則雄らは前衛美術会を結成し、五月第一回展を東京都美術館で開催した。
昭和二〇年新発足をした二科会と別れて、旧二科会々員の正宗得三郎・熊谷守一・黒田重太郎・中川紀元・鍋井克之・宮本三郎・栗原信らによつて第二紀会が創立された。二八日発会式をあげ、九月東京都美術館で第一回展を開催した。
帝国芸術院第一部会員の補充として工芸の海野清の推薦が決定した。
労働組合文化活動の一翼として各会社工場等で美術部をもつものが多くなつたが、京浜地区の組合が発起団体となつて二〇日職場美術協議会が結成された。専門美術家の協力を得て、文化的技術的に向上させることを目ざし、六月東京都美術館で第一回勤労者美術展を開いた。
衆議院の文化関係者による日本社会文化協会によつて宮城内の国有地に劇場・博物館・美術館等の国営文化施設を建設しようとする計画案がたてられた。
帝国芸術院では一七日総会を開き、日展の規則を一部改正して第三回日展から出品招待者制をとることに決定した。第二回日展に際しての改組に無鑑査廃止制をとつたため無鑑査級作家の出品拒否となつたので折衷案として新制度採用となつたものである。
一八日天皇皇后両陛下は帝室博物館の本館陳列、表慶館の日本古美術工芸複製品展覧会と東京都美術館の泰西名画展を御覧になつた。
東京駅の待合室に石膏の浮彫壁画が飾られることになり、中村順平のデザインで本郷新・建畠覚三・田畑一作らの彫刻家が一〇日から原型の製作を始めた。日光・東海道・奈良等の光景を画き浮彫としては日本一の大きさを持つ壁面で四月二〇日に完成された。