本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





坪井清足

没年月日:2016/05/07

読み:つぼいきよたり  考古学者で元奈良国立文化財研究所所長の坪井清足は5月7日、急性心不全のため死去した。享年94。 1921(大正10)年11月26日、大阪府大阪市に生まれ、その後は東京都で育つ。父は実業家の傍ら在野の考古学者として梵鐘研究を開拓した坪井良平。41年に京都大学文学部に入学。43年に学徒動員により兵役に従事し、台湾に送られた。台湾では台北帝国大学医学部の人類学者である金関丈夫と交流を持った他、鳳鼻頭遺跡近くの陣地に派遣された折には、壕の壁面の上層に黒陶(新石器時代後半期)、下層に彩陶(新石器時代前半期)が包含されていることを確認し、戦陣にあっても考古学研究から離れることはなかった。 46年に京都大学復学。49年に京都大学大学院進学。平安中学校・平安高等学校教諭などを経て、55年に京都国立博物館に採用。同年、奈良国立文化財研究所に転出。それ以降、65~67年に文化財保護委員会(現、文化庁)への出向、75~77年に文化庁文化財保護部文化財鑑査官の任を務めた時期を除くと、77年の奈良国立文化財研究所所長就任を経て、86年の所長任期満了退職に至るまで、奈良国立文化財研究所を拠点として考古学研究の推進と埋蔵文化財行政の確立に邁進した。退職後は、86年に財団法人大阪文化財センター理事長就任、2000(平成12)年に財団法人元興寺文化財研究所所長就任を経て、13年以降は公益財団法人元興寺文化財研究所顧問を務めた。 役職としては、文化財保護審議会第三専門調査会長、学術審議会専門委員、宮内庁陵墓管理委員、日本ユネスコ国内委員会委員などを歴任した。叙勲等は、91年に勲三等旭日中綬章、99年に文化功労者に叙せられ、死後、従四位に叙位された。受賞歴としては、83年に日本放送協会放送文化賞、90年に大阪文化賞、91年に朝日賞を受賞している。 坪井は奈良国立文化財研究所および文化財保護委員会・文化庁での職務に従事する中で、現在に至る埋蔵文化財行政の枠組みを構築するために尽力した。当時、高度経済成長期の我が国においては、高速道路網計画や住宅団地建設などの大型開発が各地で進み始めていた。それらの工事にともなう事前の発掘調査体制や、発掘経費の捻出方法など、埋蔵文化財行政の課題が山積していた。坪井は、事前の発掘調査を義務付け、発掘調査費用は開発者側が負担する「原因者負担」の原則を確立する上で中心的な役割を果たした。この原則は、埋蔵文化財行政を進展させる礎となり、その後、地方自治体の文化財担当者の増強を促すきっかけとなった。 坪井は文化庁文化財鑑査官、奈良国立文化財研究所所長を歴任して辣腕をふるったことから、多くの人から畏怖される存在であったが、実際に口が悪いことは有名で、「清足(きよたり)」ではなく「悪足(あくたれ)」と呼ばれることもあった。このあだ名は、本人もまんざらではなかったようで、「飽多禮(あくたれ)」という雅号を自ら用いることもあったという。 主な著書は以下の通り。『古代追跡―ある考古学徒の回想』(草風館、1986年)『埋蔵文化財と考古学』(平凡社、1986年)『東と西の考古学』(草風館、2000年)『考古学今昔物語』(金関恕・佐原真との共著、文化財サービス、2003年) またインタビュー記事「戦後埋文保護行政の羅針盤」(2009年8月17日収録)が、日本遺跡学会編『遺跡学の宇宙―戦後黎明期を築いた十三人の記録』(六一書房、2014年)に所収されている。

中部義隆

没年月日:2016/04/05

読み:なかべよしたか  日本絵画史研究者の中部義隆は、4月5日、膵臓がんのため、大阪市の湯川胃腸病院で死去した。享年56。 1960(昭和35)年1月29日、大阪府大阪市大正区に生まれる。78年3月に大阪府立市岡高等学校を卒業し、同年神戸大学文学部へ入学。その後、85年3月に同大学を卒業し、同年4月神戸大学大学院へ進学、87年3月に同大学院文学研究科修士課程を修了した。同年4月からは同大学院文学研究科博士課程へ進学、同年12月に同課程を中途退学し、翌88年1月に神戸大学文学部の助手となるが、同年4月に財団法人大和文華館学芸部員として採用される。以後28年間、同館での勤務を続け、2000(平成12)年6月に同館学芸部課長、06年4月に学芸部次長、12年に学芸部長となり、常に同館の展覧会を主導していった。 専門分野は、広く江戸時代の絵画全般に及んだが、とくに俵屋宗達や本阿弥光悦、尾形光琳など琳派に関する多くの展覧会や研究は、ライフワークとして最も重要な業績である。研究面では、琳派の装飾技法における版木の活用を指摘するなど、きわめて実証的な手法を用いたが、同時に、琳派の工芸品等の持つ造形感覚への鋭い理解は、直感的でもあり、その冴え渡る大胆な直感を、緻密な作品観察によって、実証的に裏付けていく研究スタイルにこそ真骨頂がある。また、展覧会を通して、従来あまり注目されてこなかった画家を取り上げることにも意欲的で、大和文華館で企画した松花堂昭乗、渡辺始興、冷泉為恭の展覧会や図録は、美術史の研究上でも、とりわけ高い評価を受けた。 一方、後進の指導や育成にも積極的にあたり、02年4月からは神戸大学大学院客員助教授、05年4月からは同大学院客員教授を務めたほか、奈良大学、京都造形芸術大学、佛教大学、大阪大学、大阪府立大学などでも非常勤講師として教鞭をとったが、むしろ、大和文華館のみならず、関西を代表する学芸員として各方面から慕われた点も見逃せない。繊細でありながらユーモアにあふれた作品への語り口は独特で、ギャラリートークは鑑賞者から常に好評だった。また、厳しくもあたたかい人柄に惹かれ、その薫陶を受けた学芸諸氏も多い。一流の研究者でありながら、作品と鑑賞者に親しく寄り添う学芸員らしい姿が、後進に与えた影響は絶大である。 なお、企画に関わった主要な展覧会としては、「俵屋宗達―料紙装飾と扇面画を中心に―」(大和文華館、1990年)、「松花堂昭乗―茶の湯の心と筆墨」(大和文華館、1993年)、「東洋美術1000年の軌跡 福岡市美術館«松永コレクション»«黒田資料»の名宝を中心に」(大和文華館、1997年)、「渡辺始興―京雅の復興―」(大和文華館、2000年)、「松花堂昭乗の眼差し 絵画に見る美意識」(八幡市立松花堂美術館、2005年)、「復古大和絵師 為恭―幕末王朝恋慕―」(大和文華館、2005年)、「大倉集古館所蔵 江戸の狩野派―武家の典雅」(大和文華館、2007年)、「茶の藝術」(岡崎市美術博物館、2007年)、「大和文華館所蔵 富岡鉄斎展」(大和文華館、2007年)、「松花堂昭乗 没後370年 先人たちへの憧憬」(八幡市立松花堂美術館、2009年)、「女性像の系譜―松浦屏風から歌麿まで」(大和文華館、2011年)、「乾山と木米―陶磁と絵画―」(大和文華館、2011年)、「琳派 京を彩る」(京都国立博物館、2015年)などが挙げられる。 また、主要な論文としては、「木版金銀泥刷料紙装飾について―版木とその活用法を中心に―」(『大和文華』81、1989年)、「伝宗達筆 草花図扇面散貼付屏風をめぐって」(『大和文華』87、1992年)、「新出の伝宗達下絵光悦書四季草花下絵三十六歌仙和歌色紙について」(『国華』1219、1997年)、「渡辺始興展望」(『大和文華』110、2003年)、「「舞楽図屏風」と「風神雷神図屏風」の画面構成について」(『美術史論集』5、2005年)、「新収品紹介 春秋鷹狩茸狩図屏風」(『大和文華』122、2010年)、「松花堂昭乗作品の木版雲母刷料紙」(百橋明穂先生退職記念献呈論文集刊行委員会編『美術史歴参 百橋明穂先生退職記念献呈論文集』中央公論美術出版、2013年)、「沃懸地青貝金貝蒔絵群鹿門笛筒の意匠構成」(『大和文華』126、2014年)、「光琳と乾山―町衆文化の精華―」(河野元昭監修『年譜でたどる琳派400年』淡交社、2015年)、「藤田美術館所蔵の光琳乾山合作銹絵角皿をめぐって」(『陶説』749、2015年)などがあり、江戸時代の絵画のみならず、漆工、陶芸など多様な分野の造形表現に精通していたこともうかがえよう。

河原由雄

没年月日:2016/03/23

読み:かわはらよしお  美術史家・河原由雄は3月23日、急性大動脈解離のため死去した。享年80。 河原は1936(昭和11)年1月30日、京都市に生まれた。京都大学大学院文学研究科美学美術史学専修において修士論文「平安初期彫刻の作風展開―和様への成立過程―」を執筆・提出し、65年3月修士課程を修了。同年4月1日付で奈良国立博物館に文部技官として採用・着任。以来、75年4月1日付で学芸課資料室長に昇任、80年4月1日付で仏教美術資料センター資料管理研究室長に配置換え、82年4月6日付で同センター仏教美術研究室長、87年4月1日付で学芸課美術室長、1993(平成5)年4月1日付で学芸課長に昇任し、97年3月末に定年を迎える。同年4月より愛知県立大学教授に就任(2002年3月まで)。この間、特筆されるのは82年に創設された密教図像学会において、当初より常任委員にとして運営にあたり、以来、2000年まで編集委員として会誌『密教図像』の刊行に尽力するとともに、95年より同学会副会長(2000年まで)、01年より会長をつとめた(2003年まで)。専門は仏教絵画史、とくに浄土教絵画の研究を中心に行う。09年には『当麻曼荼羅の研究』をまとめ、京都大学において学位申請し、10年3月23日付で博士の学位を取得する。主な論文に「たけ高き女性―平安時代」(『国文学 解釈と鑑賞』367、1965年)、「〓州会本尊像」(『大和文化研究』93、1966年)、「敦煌浄土変相の成立と展開」(『仏教芸術』68、1968年)、「勧進の美術」(『日本美術工芸』381、1970年)、「新資料紹介 当麻曼荼羅」(『古美術』42、1973年)、「敦煌画地蔵図資料」(『仏教芸術』97、1974年)、「西域・中国の浄土教絵画」(『浄土教美術の展開 仏教美術研究上野記念財団助成研究会報告書第1冊』1974年)、「観経曼荼羅図」(『國華』1013、1978年)、「祐全と琳賢」(『南都仏教』43・44、1980年)、「当麻曼荼羅下縁部九品来迎図像の形成」(『密教図像』1、1982年)「変相図の源流」(『図説 日本の仏教 第3巻 浄土教』新潮社、1988年)、「浄土曼荼羅礼賛」(『日本美術工芸』642、1992年)、「肖像を奉祀する時代以前―栄山寺八角堂の追善堂的性格」(『大和文華』96、1996年)、「牙をなくした阿修羅」(『阿修羅を極める』小学館、2001年)、「招福の神と仏」(『仏教図像聚成 六角堂能満院仏画粉本』法藏館、2004年)などがある。単著に『浄土図(日本の美術272)』(至文堂、1989年)、共著に『日本の仏画 第二期』第二巻(学習研究社、1977年)、『粉河寺縁起 (日本絵巻大成5)』(中央公論社、1977年)、『当麻曼荼羅縁起・稚児観音縁起(日本絵巻大成 24)』(同、1979年)、『西山派寺院の寺宝調査―とくに證空系観経図の形成と発展に関する図像学的研究(報告書)』(奈良国立博物館、1980年)、『薬師寺 白鳳再建への道』(薬師寺、1986年)、『奈良県史』第15巻(名著出版、1986年)、『当麻寺(日本の古寺美術11)』(保育社、1988年)、『我が国における請来系文物の基礎的資料の集成とその研究―古代中世の仏教美術を中心にして(報告書)』(奈良国立博物館、1993年)、『法隆寺再現壁画』(朝日新聞社、1995年)、『帯解寺』(同寺、1998年)などがある。このほか監修に『大和の名刹 信貴山の秘宝信貴山縁起と毘沙門天像』(ニューカラー印刷、1998年)、『仏像の見方 見分け方―正しい仏像鑑賞入門』(主婦と生活社、2002年)がある。

石原悦郎

没年月日:2016/02/27

読み:いしはらえつろう  ツァイト・フォト・サロン創設者の石原悦郎は2月27日、肝不全のため死去した。享年74。 1941(昭和16)年11月15日、東京市王子区(現、東京都北区)に生まれる。立教大学法学部卒業。研究生として大学に残り法律の勉強を続けるとともに、少年期より芸術への志向を持ち続け、68年頃にはギャルリー・ムカイに出入りするようになった。70年には同画廊、ついで自由が丘画廊で働きはじめる。71年に語学習得を目的にパリに留学。この時は短期で帰国するが、以後、渡欧を重ね画商としての経験を積む。のちミュンヘンにも語学留学。 70年代半ば、写真家で日本大学芸術学部教授の金丸重嶺らの示唆を得て、写真を専門とするギャラリーの設立を決意。パリに渡り写真家ロベール・ドアノーやアンリ・カルティエ=ブレッソン、写真プリント制作の第一人者ピエール・ガスマンらの知遇を得、作品を購入するなどして準備を進め、78年4月にツァイト・フォト・サロンを日本橋室町に開業した。 日本で初の、写真のオリジナル・プリントの展示・販売を専門とするギャラリーとして、ツァイト・フォトは海外作品の紹介とともに国内の写真家の展示にも力を入れた。植田正治、桑原甲子雄など戦前から活動歴のある作家の展示の他、同時代の一線で活動していた森山大道、荒木経惟、北井一夫らを作品の売買を通じて支え、また80年代以降は新進作家の発掘にもとりくむようになった。そうした写真家には、いずれも後に木村伊兵衛賞を受賞する柴田敏雄、畠山直哉、オノデラユキ、松江泰治、鷹野隆大らがいる。1990(平成2)年には夫人の石原和子をオーナーとするギャラリー「イル・テンポ」が高円寺に開設され、ツァイト・フォトと役割を分担しつつより幅広い写真家の紹介を展開する(イル・テンポは2004年閉廊)。2002年、京橋にギャラリーを移転、展示スペースが拡大したことを機に、写真に加え現代美術作家も手がけるようになった。14年ビルの建替えにともないギャラリーは京橋の別の場所に再移転、16年の石原の死去をうけ、追悼展を開催したのち同年末に展示活動を終了した。 日本において美術館など公的機関による写真作品の評価が確立しない状況下、石原は早くから写真美術館設立を構想し、82年には自身のコレクションで構成した「フォトグラフィ・ド・ラ・ベルエポック:花のパリの写真家たち 1842―1968」を神奈川県立近代美術館で開催した。ついで85年筑波科学博覧会の会期に合わせ、つくば写真美術館’85を開設し「パリ・ニューヨーク・東京」展を開催(採算が合わず会期終了後閉館)。写真史上の主要作を概観する450点で構成された意欲的な内容で、同館のキュレーターチームに参加した飯沢耕太郎、伊藤俊治、金子隆一、谷口雅、平木収、横江文憲はその後、研究者・評論家・学芸員等として日本の写真界を支えることとなった。89年には「オリエンタリズムの絵画と写真」(世界デザイン博覧会、ホワイト・ミュージアム、名古屋、のちひろしま美術館、滋賀県立近代美術館他に巡回)を企画する。仏文学者阿部良雄の助言を得つつ、石原所蔵の19世紀のヨーロッパ絵画や写真におけるオリエンタリズムの傾向を示す作品と、現代の日本の写真家が中東やアラブアフリカで撮影した新作から構成された展覧会で、西洋美術における異文化表象への批評的な視点を提示しただけでなく、石原のサポートにより現地の撮影に赴いた写真家たちの中には、その際の制作が作家活動の転機となるものが出るなど、ユニークな成果を残した。 90年代末以降、石原はたびたび中国に渡航、写真展の開催に協力するなど現地の写真・美術関係者と親交を深めていく。07年には上海美術館でツァイト・フォトのコレクションによる「Japan Caught by Camera」を開催、この機に約400点の写真作品を同館に寄贈した。また幼少期よりクラシック音楽に親しみ、第二次大戦前のSPレコードのコレクターでもあった石原は、06年には上海でレコードコンサート「1930 BERLIN」(ZEIT-FOTO上海事務所・heshan arts)を開催するなど、晩年まで多方面にわたり精力的な活動を展開した。 一連の活動による写真界への貢献に対し、03年日本写真協会賞文化振興賞を受賞。2000年代に入ると、石原自身が日本写真界に果たした役割への評価・検証が進められるようになり、「85/05―写真史:幻のつくば写真美術館からの20年」(せんだいメディアテーク、2005年)展が開催され、粟生田弓・小林杏編『1985/写真がアートになったとき』(青弓社、2014年)が出版された。評伝に粟生田弓『写真をアートにした男 石原悦郎とツァイト・フォト・サロン』(小学館、2016年)がある。

裾分一弘

没年月日:2016/02/17

読み:すそわけかずひろ  美術史家で学習院大学名誉教授の裾分一弘は2月17日、老衰のため死去した。享年91。 1924(大正13)年11月21日岡山県に生まれる。1951(昭和26)年九州大学文学部哲学科を卒業、同年同大学大学院に入学、美学・美術史学を専攻しのち中退。同大学文学部美学・美術史学研究生を経て58年、同大学文学部助手(文部教官)に着任。61年武蔵野美術大学講師に転任、翌62年助教授に昇任。64年に学習院大学文学部助教授に就任、以後67年に教授昇任を経て1995(平成7)年に退官するまでの30年以上、同学にて教鞭を執った。同時に東京大学、慶應義塾大学、成城大学など数多くの大学に非常勤講師として出講したほか、93-94年には日独ベルリン・センターの招聘によりジェノヴァ大学科学史研究所客員教授を務めた。 裾分は九州大学での学士論文以来一貫してレオナルド・ダ・ヴィンチを研究対象とし、とりわけレオナルドの手稿および素描・素画に関する研究に長年にわたり携わった。その分野においては国際的にも高く評価される存在であった。世界各地に散在するレオナルドの大量の手稿や素描を丹念に調査し、文字の読解、書誌学的検討から多岐にわたる図やモチーフの分類、同定、筆跡や描線の分析まで浩瀚な研究を手掛けた。その集大成は、『レオナルドの手稿、素描・素画に関する基礎的研究』(2巻、中央公論美術出版、2004年)として出版されている。また手稿研究に端を発してレオナルド及びイタリア・ルネサンスの芸術理論研究にも功績を残し、77年に『レオナルド・ダ・ヴィンチの「絵画論」攷』(中央公論美術出版)を、86年には『イタリア・ルネサンスの芸術論研究』(中央公論美術出版)を刊行している。同時に、『レオナルド「マドリッド手稿」』(共訳、岩波書店、1975年)、『レオナルド「解剖手稿」』(共訳、岩波書店、1982年)『レオナルド「パリ手稿M」』(岩波書店、1989年)、『レオナルド「パリ手稿L」』(岩波書店、1990年)などの訳書を通じ、レオナルドの手稿の日本語での紹介にも尽力した。 裾分の言葉によると、手稿および素描・素画に対する関心は、絵画作品と並んでそれらの研究の上にのみ真のレオナルド研究は成立する、との確信に基づいていた。それは、「片や美術作品を凝視し、片や制作者の身辺あるいは周辺・前後に遺るリテラルな資料・記録を視野に加える」両眼を備えることにより、美術史は「作品の単なる印象批評による美術史」を超克し、「美術史学としての資格を得る」という、学問の最も基本的な問題にたいする厳格な意識に裏付けされていた(『レオナルドの手稿、素描・素画に関する基礎的研究』537-38頁)。 裾分の真摯で密度の高い学風、誠実な性格と熱心な指導は、長年の奉職先であった学習院大学の内外を問わず多くの学徒を引き寄せ、とりわけイタリア美術史の分野を中心として数多くの後進を育てたことも特筆に値する。 その履歴、業績については上掲の『レオナルドの手稿、素描・素画に関する基礎的研究』に含まれる「著者の履歴および研究業績等一覧(平成14年4月現在)」に詳しい。

南嶌宏

没年月日:2016/01/10

読み:みなみしまひろし  美術評論家の南嶌宏は、1月10日、脳梗塞のため松本市内の病院で死去した。享年58。 1957(昭和32)年10月4日、長野県に生まれる。本名は南島宏。兄は彫刻家の南島隆。長野県立飯田高等学校、筑波大学芸術専門学群芸術学専攻卒業。インド放浪を経て、いわき市立美術館に赴任。85年、自身最初の展覧会として「もうひとつの美術館―解体を巡って」を企画。87年、広島市現代美術館に赴任。30代の始めからは青山・スパイラル、佐賀町エキジビット・スペースなど、所属する美術館の外での展覧会もいくつか手掛ける。1990(平成2)年に広島市現代美術館を退職、東京に拠点を移す。のちに熊本市現代美術館設立準備室に籍を置くまでインディペンデントとして活動し、この間にライフワークともいえるテーマ、「東欧の美術」「女性アーティスト」「いけばな」など現代美術が扱うことのなかった分野をじっくりと育む。93年、カルティエ現代美術財団奨学生としてパリへ留学。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のなか、戦場に近い東欧全域を訪問。またこの留学中に中国人キュレーター、ホー・ハンルーと知遇を得る。留学の成果のひとつとして97年「分析と解釈 中央ヨーロッパの現代美術」(資生堂ギャラリー)を企画。2000年から熊本市現代美術館の運営に参画し学芸課長兼副館長、館長を歴任。同館では「ATTITUDE 2002 心の中の、たったひとつの真実のために」(2002年)、「生人形と松本喜三郎 反近代の逆襲」展(2004年)、「ATTITUDE 2007 人間の家:真に歓喜に値するもの」(2007年)などを企画、美術を通したハンセン病への社会的偏見に対する活動や、生人形や見世物文化の価値を再発見する取り組みを行った。08年に熊本市現代美術館館長を退任、女子美術大学芸術学部芸術学科教授に就任。同年、第1回プラハ国際芸術トリエンナーレ国際キュレーター。09年第53回ベネチア・ビエンナーレ日本館コミッショナー。全国美術館会議理事、国際美術評論家連盟など歴任。第3回西洋美術振興財団学術賞受賞(2008年)。単著に『ベアト・アンジェロ 天使のはこぶもの』(トレヴィル、1992年)、『サンタ・マリア』(トレヴィル、1993年)、『豚と福音』(七賢出版、1997年)、共著に『現代美術入門』(美術出版社、1986年)、『日本藝術の軌跡』(夏目書房、2003年)、『美術批評と戦後美術』(ブリュッケ、2007年)など。歿後、2月28日に杉並区の女子美術大学杉並キャンパス110周年記念ホールでお別れ会が催された。

ヨシダ・ヨシエ

没年月日:2016/01/04

読み:よしだよしえ  美術評論家のヨシダ・ヨシエは1月4日、埼玉県鶴ケ島市の病院で脳梗塞のため死去した。享年86。 1929(昭和14)年5月9日、東京都千代田区麹町に生まれる。本名吉田早苗、父は逓信省の官吏だった。2歳のとき母と死別。番町小学校、鎌倉臨海学園に学ぶ。父の転勤にともない新潟中学へ転校、その後、現在の神奈川県立湘南高校に在籍中に敗戦。しばらくは家出をし、上野の浮浪者と生活を送る。その後、小林秀雄や林達夫ら鎌倉文化人を知り、地域雑誌『緑地帯』の発行に関わり、3号まで刊行。50年頃、片瀬目白山に在住の丸木位里・俊夫妻を尋ね、藤沢の旅館で「原爆の図」を展示する。以後3年間、丸木夫妻らと「原爆の図」5部作の全国巡回展示を行う。52年劇団前進座に参加。56年詩集『風と夜と』(私家版250部、吉留要画)をヨシダ・ヨシエ名で刊行。同年「小山田二郎の芸術」(『美術批評』、8月号)で美術評論デビュー。58年詩画集『ぶるる』(岡本信二郎画、亜紀社)。61年「瀧口修造覚え書き」(『現代芸術』、5.6~9月号)では、瀧口の戦中期の活動について論述。62年「靉光伝」(『AVECART』、58号から9回連載)は、ヨシダのこの頃の中心的なテーマ「戦争と美術」が展開される。靉光については、77年から82年まで『デフォルマシオン』で「わたしの内部の靉光」を長期連載する。 65年目白駅近くにモダンアートセンター・ジャパンを設立、展示や出版を手掛ける活動を開始するも、半年あまりで解散した。68年ギャラリー新宿の機関誌『反頭脳』を編集。71年尾崎正教や小本章と人間と大地の祭り展(代々木公園)を企画。72年『戦後前衛所縁荒事十八番』(ニトリア書房、同書は82年『解体劇の幕降りて』として増補版が造形社より刊)刊。74年コスモス展(サンパウロ大学現代美術館)を組織。75年アーティスト・ユニオンに参加。77年より日本・アジア・アフリカ・ラテンアメリカ美術家会議に参加。同年『琉氓の解放区』(現代創美社)刊。83年松沢宥『プサイの函』(造形社)の監修。86年より原爆の図丸木美術館評議委員(1994年まで、95年から97年まで常務理事)を務める。同年『エロスと創造のあいだ』(展転社)刊。1989(平成元)年『手探る・宇宙・美術家たち』(樹芸書房)刊。91年より池田20世紀美術館評議委員(1994年まで、以後2007年まで理事、10年まで評議委員)を務める。93年『修辞と飛翔』(北宋社)刊。96年ライフワーク的な『丸木位里・俊の時空・絵画としての「原爆の図」』(青木書店)刊。2005年『ヨシダ・ヨシエ全仕事』(芸術書院、全著述が収録されてはいない)刊。08年細江英公による写真集『原罪の行方 最後の無頼派ヨシダ・ヨシエ』が刊行される。ヨシダの評論活動はファインアートだけでなく舞踏や人形、人類学、サブカルチャーへ幅広い領域にわたる。没後、舞踏関連を中心に蔵書の一部が、アメリカ、ロサンゼルスのUCLAに寄贈され、「ヨシダ・ヨシエ文庫」として開設されている。

ウィラード・G・クラーク

没年月日:2015/11/22

読み:Willard GClark  アメリカの実業家で日本美術収集家のウィラード・G・クラークは、11月22日にカリフォルニアで死去した。享年85。死因は公表されていない。通称のビル・クラークと記されている記事や資料もある。 クラークは1930(昭和5)年10月2日、カリフォルニア州ハンフォードで乳牛飼育業を営む家の5世代目として生まれる。12歳の頃、中学校の地理の授業で日本の地図を見て他のどこの国よりも強い印象を受けたということを、クラークは晩年まで語っており、生涯を通じて日本に対する親愛を寄せていた。48年、カリフォルニア大学バークレー校に入学し、建築を学んだ後、カリフォルニア大学デイビス校農学部に編入し、畜産学の学位を取得した。大学卒業後、クラークは徴兵を受け、ロード・アイランド州のニューポートにある海軍士官学校へ入学。この頃、クラークはニューヨークの近代美術館の庭園で日本の家屋の展示を見て、日本の建築や文化に対して興味を持つようになったという。士官学校後、ハワイでの駐屯時代にクラークは来日し、当時の印象として「日本の土地を初めて踏んだ時、故郷へ戻ってきたような気持になった」と述懐し、前世は日本人であったに違いない、と日本への愛着を語っていたという。海軍退役後の71年、クラークは優秀な乳牛の遺伝子を世界に輸出するワールドワイド・サイアス社を設立し、国際的な事業経営を行った。 クラークはロサンゼルスで行われた展覧会“Birds, Beasts, Blossoms, and Bugs: The Nature of Japan”に基づく同名の書籍(Harold P. Stein, 1976年)や同展に出陳されたプライス・コレクションに影響を受け、自身も本格的に日本美術を蒐集するようになったという。77年にクラークは、専門家の助言を求めるため当時クリーブランド美術館で館長を務めていたシャーマン・リーを訪ね、その後長く親交を持つようになった。リーの助言と尽力により、クラーク・コレクションは次第に形成されていった。 1995(平成7)年、ハンフォードにクラーク財団の美術館を建設し、作品の展示公開をするとともに、若い学生を対象とした学芸員の研修制度や奨学金制度を設け、次世代を担う専門家の育成に貢献した。2002年4月から03年2月にかけて、東京・大阪・大分・愛媛・千葉の全国5か所の美術館を巡回した展覧会「アメリカから来た日本―クラーク財団日本美術コレクション」展が開催され、選りすぐりの絵画89点と彫刻5点が披瀝された。09年4月には、クラークが日本美術の紹介および日米間の文化・教育交流の促進に寄与したことを賞して旭日中綬章が叙勲された。 クラーク・コレクションには、鎌倉時代の大威徳明王像など10数点の仏教彫刻、屏風絵約50点、掛幅約550点、浮世絵約250点、漆工品約50点、現代陶芸作品約300点、その他染織品などの工芸作品など、中世から現代に至る多種多様な日本美術作品が含まれ、作品総数は1700点に及んだ。とりわけクラークは自身の家業とも所縁の深い牛を表した作品を好んで蒐集し、上述の牛の背に座す大威徳明王像のほか、幕末から明治にかけて活躍した望月玉泉による「黒牛図屏風」、三畠上龍「黒牛図」や上田耕冲「牧童図」などの掛幅作品がクラーク・コレクションとして精彩を放っている。クラークは著名な作家や評価の高い作品でなくても、自身の審美眼に叶う作品であれば、ほとんど無名の作家の作品であろうとも積極的に蒐集した。カリフォルニアのカウボーイであるクラーク独自の視点により、純粋に自らの楽しみのために形成された日本美術コレクションと賞賛された。 13年6月、クラークは将来的により広く、安定的に保存公開するために、そのコレクションをミネアポリス美術館に移譲した。このコレクション移譲の経緯は、Willard G. Clark and Matthew Welch, How and Why the Clark Collection Moved to Minneapolis, “Impressions‐The Journal of the Japanese Art Society of America” 35(2014年)にまとめられている。15年2月10日~6月30日にハンフォードのクラーク財団美術館での最後の展覧会“Elegant Pastimes: Masterpieces of Japanese Art from the Clark Collections at the Minneapolis Institute of Arts”が開催された。クラークの歿後、サミュエル・C・モースおよび小林忠による追悼記事が“Orientations” 47, No. 5,(2016年)に掲載されている。

伊藤延男

没年月日:2015/10/31

読み:いとうのぶお  元東京国立文化財研究所(現、東京文化財研究所)所長、東京文化財研究所名誉研究員で文化功労者の伊藤延男は10月31日、心不全のため死去した。享年90。 1925(大正14)年3月8日、愛知県に生まれる。江戸時代から続く尾張藩の名工伊藤家の血筋を引く。1947(昭和22)年9月東京帝国大学第一工学部建築学科を卒業。同年10月から東京国立博物館保存修理課技術員に採用され、古建築の保存修理に従事。50年9月文化財保護委員会の創設とともに同事務局保存部建造物課に文部技官(研究職)として奉職。64年文化財調査官、67年奈良国立文化財研究所に出向し、同研究所建造物研究室長、71年6月文化庁に戻り文化財保護部建造物課長、77年同部文化財鑑査官、78年4月東京国立文化財研究所長を歴任し、87年3月退官。同年4月から2年間、慶応大学非常勤講師を務め、1989(平成元)年4月神戸芸術工科大学教授に就任、95年4月同大学名誉教授。99年財団法人文化財建造物保存技術協会理事長に就任、2001年同顧問となる。 この間、78年7月から94年8月まで文化財保護審議会第2専門委員会の委員を務めたほか、日本ユネスコ国内委員会委員、財団法人明治村・永青文庫・成巽閣等数多くの組織・機関の要職に就くなど文化財保護の分野を中心に幅広く活躍し、文化財保護行政・建築史の研究・文化財保護の国際貢献の各分野で顕著な業績を残した。 文化財保護行政の分野では、50年の文化財保護法の成立とともに、旧「国宝保存法」時代の指定文化財建造物や「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」にかかる重要美術品(建造物)の現状を調査し、学術的な判断に基づき整理等を行い石造物や民家等も含め重要文化財等に読替える業務を短期間のうちに精力的にこなした。 日本の高度成長期に市街地再開発や地域開発が進む中で、明治洋風建築や民家の保存が行政課題となったが、前者は日本建築学会歴史意匠委員会の力を借り、また後者は全国の建築史研究者の協力を得て都道府県を事業主体とする調査事業を立ち上げ、全国規模での遺構の把握に努めるなど新たな分野へも積極的に挑戦し、重要な遺構について文化財指定を促進するなど建造物の保存に努めた。民家調査の進展とともに、地域的特色を保つ集落や町並についての保存対策が求められるようになると、72年に建築史、都市計画、歴史学、社会学、行政等の関係する学識経験者等による集落町並保存対策研究協議会を設置し、保存対策を検討した。その傍ら、高山市、倉敷市、萩市の3市を対象に町並調査を実施、保存のための方策を探り、75年の文化財保護法の改正による伝統的建造物群保存地区制度の創設に結びついた。同時に、文化財の保存に欠かせない修復技術等(選定保存技術)の保存制度についても技術面からその成立に尽力した。 建築史の研究分野では、博物館や文化財保護委員会に在職中に全国の社寺建造物を調査した経験に基づき、特に各地に分布する和様の様式を備えた中世の社寺建築の特色を分析しその成果を取りまとめた「中世和様建築の研究」で、61年に工学博士(東京大学)の学位を取得、さらにそれに関連する研究業績により、66年に日本建築学会の学会賞(論文)を受賞した。研究者としての専門的な論考を発表するとともに、多くの美術全集等で古建築について平易に解説し、建物としての見所や鑑賞の仕方についても気配りするなど普及に努めた。 国内の文化財保護行政に関わりながら、恩師の一人である関野克(元東大教授兼建造物課長、東京国立文化財研究所長)からの薫陶もあって海外の文化財事情にも高い関心を持つようになった。国際的な活動としてはローマに設置されたユネスコ関連機関、イクロム(ICCROM;国際文化遺産保存修復センター)の理事を83年から90年まで務めたほか、日本政府代表顧問として80年第21回ユネスコ総会等の国際会議に出席し、また78年から93年までイコモス(IKOMOS;国際記念物遺跡会議)の本部委員、93年から3年間同会議の副会長を務めるなど活躍し、持ち前の誠実で実直な人柄もあって国際的に幅広い人脈を培った。この間、法隆寺や姫路城が世界文化遺産に登録されたが、日本の文化財保護の全般的な姿勢についての理解が必ずしも十分でないことを痛感し、持ち前の人脈を活かして94年奈良市で「オーセンティシティに関する奈良会議」を開催し、日本の文化財保護についての基調講演を行ない理解を求めた。その結果、それぞれの国や地域に培われた文化の多様性を尊重すべきことや、地域に見合った独自のオーセンティシティ(真正性)概念がありそれを認識する必要性について確認することができ、その成果は95年の世界遺産会議で承認されて以降の世界遺産登録の作業指針で生かされることになった意義は大きいものがある。 こうした文化財保護に関する内外への多大な貢献によって、95年に勲三等旭日中綬章を受章、04年には文化財保護の分野で文化功労者に選ばれたほか、11年には文化財保護に関する国際社会における多大な貢献により、イコモス本部からガッゾーラ賞を贈られた。 主な著作等;『中世和様建築の研究』(彰国社、1961年)、『古建築のみかた―かたちと魅力―』(第一法規出版、1967年)、『中世寺院と鎌倉彫刻』(共著、原色日本の美術9巻、小学館、1968年)、『密教の建築』(日本の美術8巻、小学館、1973年)、『文化財講座 日本の建築Ⅰ~Ⅴ』(共著、第一法規出版、1976年)ほか多数。

前田正明

没年月日:2015/10/17

読み:まえだまさあき  美術史家で武蔵野美術大学名誉教授の前田正明は10月17日、肺炎のために死去した。享年83。 1932(昭和7)年3月3日佐賀県唐津市に生まれる。53年関西大学経済学部卒業後、大阪豊中市立第四中学校の教諭となり、5年間英語教師として教壇に立つ。教職に従事するかたわら、国立大阪外国語大学別科フランス語学科を56年に修了。その後学習院大学で美術史を学び、61年、同大学院人文科学研究科修士課程を修了する。修士論文は「ギリシア・アルカイック彫刻の研究」(富永惣一主査)。ほどなくして前田はギリシャに渡り、アテネ大学哲学部美術考古学科でニコラス・コンドレオン教授の薫陶を受け、さらにアメリカ・ミシガン大学に留学して研鑽を積み、63年に帰国。 65年、武蔵野美術大学造形学部助手に着任、74年に同助教授、80年に同教授に昇任し、1999(平成11)年の定年退官に至る約34年の長きにわたり、同大学にて研究、学生指導、大学運営に尽力する。67年、「クーロス像の研究2―そのプロポーションについて」(『武蔵野美術大学研究紀要』4)、71年に「クーロス像の研究1―腹部の表現について」(同7)を発表し、古代ギリシャ彫刻の様式的発展の端緒を開いたクーロス像の研究に打ち込む。同時に、ギリシャ美術の最も重要なジャンルのひとつであるギリシャ陶器の研究にも勤しみ、71年、「ギリシア陶器の技法」(『陶説』218)を発表。するとやがて、前田の陶器への関心はギリシャを超えて欧米各地にも及び、「英国中世陶器の魅力」(同255、1974年)の発表を皮切りに、『西洋陶磁物語』(講談社、1980年)、『タイルの美・西洋編』(TOTO出版、1992年)、『西洋やきものの世界:誕生から現代まで』(平凡社、1999年)、『西洋陶芸紀行』(日貿出版社、2011年)等を刊行し、西洋陶磁器を中心とする工芸世界の魅力を生涯にわたり紹介した。 古代ギリシャ研究においては80年、「クーロス像の研究3 膝関節部の表現について」(『武蔵野美術大学研究紀要』12)、98年に「彫刻とは何か:ギリシア彫刻の誕生―西洋美術の源流として」(『武蔵野美術』107)を発表して、クーロス像に始まるギリシャ彫刻を最重要テーマとする、一貫した研究姿勢を示す。その一方で、彫刻、絵画、工芸など種々のジャンルに表された数々の神話と多種多様な図像に関する「ギリシア神話の空想動物とその図像」(『世界美術大全集西洋編3―エーゲ海とギリシア・アルカイック』小学館、1997年)は、古代文化に対する幅広い視野に裏打ちされた研究の所産である。 研究・執筆活動以外にも、72年に創立会員として日本ギリシャ協会に加わり、93年には同協会理事に就任したほか、78年、朝日新聞社主催「ギリシア美術展(仮称)」の対ギリシャ政府交渉代表としてギリシャに渡航し、展覧会の実現に寄与するなど、日本とギリシャの文化交流の促進に多大な貢献を果たした。 その履歴・業績については櫻庭美咲作成「前田正明先生履歴・業績目録」(武蔵野美術大学造形文化・美学美術史研究室『美史研ジャーナル』12、2016年)に詳しい。

八賀晋

没年月日:2015/10/06

読み:はちがすすむ  考古学者で三重大学名誉教授の八賀晋は10月6日、肺がんのため死去した。享年81。 1934(昭和9)年5月15日、岐阜県高山市に生まれる。50年3月高山市立第2中学校卒業。同年4月斐太高等学校入学、53年3月同校卒業。同年4月岐阜大学学芸学部史学科入学、57年3月同科卒業。59年4月名古屋大学文学部研究生となり、翌年4月同大大学院文学研究科史学地理学専攻修士課程に入学、63年3月同課程修了後、同年4月奈良国立文化財研究所歴史研究室に入所した。奈良国立文化財研究所では、平城宮跡発掘調査部、飛鳥藤原宮跡発掘調査部にて諸遺跡の調査に当たった後、76年4月京都国立博物館学芸課考古室長に転出、さらに85年4月に三重大学人文学部の考古学研究室教授に就任し、1998(平成10)年同大を退官して名誉教授となった。また三重大学のほか、35年にわたった岐阜大学や、関西学院大学・同志社大学においても教鞭をとった。 八賀は大学学部生時代より数多くの発掘調査に従事し、調査指導を行なった。岐阜大学から名古屋大学大学院在籍時の主な調査には猿投古窯址群や岐阜県域の古墳などがあり、奈良国立文化財研究所在職時には平城宮跡を始めとして、興福寺、大安寺や岐阜県内の国分寺・地方古代官衙・寺院跡、またその瓦窯跡などの調査に携わった。京都国立博物館在職時には考古学関係展覧会の企画実施といった博物館業務を中心に活動し、三重大学に移ってからは熱心な教育活動に加え、以前より行なってきた岐阜県内の飛騨国分尼寺といった寺院跡や美濃国府などの調査、また船形埴輪を出土したことでも著名な松阪市宝塚1号墳など三重県内の諸古墳を始めとする多数の遺跡調査を精力的に実施した。 八賀の研究や業務実績は幅広い。大学在籍時に行なった業績としては、水田土壌の特徴に着目して弥生時代から古代にかけての集落分布の変化と水田開発との対応関係を指摘した先駆的研究が著名であり、奈良国立文化財研究所在職時では、特定の古瓦様式を持つ寺院の分布と政治勢力との関係を論じた研究などが広く知られている。また京都国立博物館在職時では、美術史展覧会が主体となってきた同館において77年に企画した展覧会「日本の黎明―考古資料にみる日本文化の東と西―」で全国から出土した旧石器時代から古墳時代までの考古遺物によって日本列島の東西文化の違いを示したことで注目を浴び、またこれ以降、〓製三角縁神獣鏡をはじめとする青銅鏡の研究にも取り組んだ。三重大学赴任後は、森浩一らと共に長期に亘って参画した「飛騨国府シンポジウム」や「春日井シンポジウム」、また愛知・岐阜・三重県史編纂を始めとする中京圏を中心とした地域史研究とその広範な普及への積極的な参加がこの時期の八賀の姿勢を示していよう。 学問的な厳しさと社交性を兼ね備えたその人柄は年齢を問わず多くの人々に愛され、発掘調査、遺物・遺構に対する綿密な観察力と図化能力、さらに長年の経験に裏付けられた文化財写真撮影の優れた技術力は、生きた学問として在籍した職場の同僚や学生らに現在も伝えられている。2010年には地域文化功労者文部科学大臣表彰を受けた。

大河直躬

没年月日:2015/09/13

読み:おおかわなおみ  日本建築史(特に中世の建築生産組織や近世民家)の研究者であると同時に、歴史的な建造物や集落・町並等に関する実証的な調査研究を通して培った理念から、早くから人とものとのかかわりのなかで文化財を活かす保護のあり方の必要性を説き、文化遺産の保存と活用に関する指導的役割を担った研究者の一人として知られた大河直躬は9月13日、肺炎のため死去した。享年86。 1929(昭和4)年4月24日石川県金沢市に生まれる。52年東京大学工学部建築学科卒業後、同大学院に進学し太田博太郎教授の指導のもと日本住宅史の研究に携わる。58年3月東京大学大学院数物系研究科専門博士課程修了、翌年4月日光二社一寺国宝保存工事事務所嘱託となり、当時行われていた日光東照宮や二荒山神社、輪王寺の社殿の昭和大修理事業に関わる。60年5月東京大学工学部助手、65年4月東京電機大学建築学科助教授、翌年10月千葉大学工学部建築学科助教授、77年4月同教授、また、87年から2年間東京大学教授を併任、1995(平成7)年3月定年退官、千葉大学名誉教授となる。 学部学生の時から農村建築研究会(農村建築に関する住宅改善等の諸問題を研究するため50年に創設。今和次郎、竹内芳太郎、高山英華、西山卯三、太田博太郎等が参加)に加わり、主として農村建築の形成に関する歴史的分析を行うため、岐阜県白川村や静岡県井川村、さらには奈良県橿原市今井町の民家調査を行った。同研究会での研究成果としては、各地に残る古民家の実証的な研究を通して民家においても復原と編年という建築史学の基本的視点が通用することを見出したことによって、民家研究を建築史の一分野として位置づけることに成功したことがあげられる。その実務経験から生み出された数々の知見は、一部を分担執筆した文化財保護委員会監修の『民家の見方調べ方』(第一法規出版、1967年)として著され、その後の民家の調査研究の発展に大きく貢献することになった。 この時期、現地調査を基本とする民家の実証的な研究を共同で進める一方、かねてから関心の高かった中世工匠の生産活動についての研究も進め、主に『大乗院寺社雑事記』の記述を中心に大工集団の生産組織について建築の立場から掘り下げ、大家族的な血縁関係がその生産活動の原動力であることを突き止めた。この研究は「中世建築の制作組織に関する研究」としてまとめられ、61年に東京大学から工学博士号を授与された。中世大工に関する研究はその後も継続し、研究成果として『番匠―ものと人間の文化史』(法政大学出版局、1971年)を著すなど日本中世大工の生産組織や生活様態を明らかにした。これら一連の業績である「日本中世工匠史の研究」により、74年に日本建築学会賞(論文賞)を受賞した。 また、日光社寺建築に関しては、昭和大修理事業の修理工事報告書の刊行に尽力し、後にその経験を生かしてまとめた『桂と日光』(日本の美術20、平凡社、1964年)、『東照宮』(SD選書、鹿島研究所出版会、1970年)などによって、近世初頭における彫刻及び彩色を多用する煌びやかな日光の社寺建築群の建築史における評価を確立し、霊廟建築に対する関心を高めた。 大学で教鞭をとる傍ら、文化財保護行政にも関わり、長野県(1976~2001年)や千葉県(1981~1982年)の文化財保護審議会委員として活動する傍ら、千葉県や長野県等の民家の研究にも引き続き取り組み、民家等の持つ形態美・構造美を追求していった。この間、90年から2000年まで、国の文化財保護審議会第二専門調査会の委員も務め、数多くの歴史的建造物の指定や保存修理事業に関わった。一方で、74年の佐原(千葉県)や89年の須坂(長野県)の町並調査の主任調査員として関わるなど、商家の町並の保存にも尽力した。こうした文化財建造物の保存への関心は79~80年にかけてドイツやオーストリアの大学に在外研究員として派遣され、西欧建築の研究に従事したことも絡んでいた。 当時の西欧の建築事情は、75年の欧州会議で宣言された欧州建築遺産年の理念に基づき戦後の都市開発等に絡んで歴史的建造物の保存再生事業が数多く展開されていた時期であり、市街地復興や歴史地区再生事業に関する事例を数多く見聞し、帰国後はその経験を加味して経済の高度成長を続ける国内において歴史的建造物の保護について数々の保存論を発表し、後進にも強い影響を与えた。後に『歴史的遺産の保存・活用とまちづくり』(共著、 学芸出版社、2006年)などにまとめられた歴史的建造物の活用に関する数々の論考は、今日の文化財建造物の保存・活用を考える上での指針ともなっている。主な著書(既述を除く)『日本の民家―その美しさと構造―』(現代教養文庫383、社会思想社、1962年)、『日本の民家』(山渓カラーガイド83、山と渓谷社、1976年)、『住まいの人類学―日本庶民住居再考―』(平凡社、1986年)、『都市の歴史とまちづくり』(編著、学芸出版社、1995年)、『歴史ある建物の活かし方』(共同編著、学芸出版、1999年)ほか多数

長谷部満彦

没年月日:2015/09/08

読み:はせべみつひこ  東京国立近代美術館工芸館の開館に尽力し、福島県立美術館館長、茨城県陶芸美術館館長を歴任した長谷部満彦は9月8日死去した。享年83。 1932(昭和7)年3月31日宮城県仙台市に生まれる。父は、東京大学理学部教授を勤めた人類学者で学士院会員、文化財保護委員会専門委員等を歴任した長谷部言人。元東京国立博物館次長で東洋陶磁研究の長谷部楽爾は実兄。逗子開成高等学校卒業、1956年東京藝術大学美術学部芸術学科卒業。神奈川県立博物館勤務を経て、東京国立近代美術館分館として計画されていた工芸館の設立準備室に採用された。77年7月工芸課主任研究官・陶磁係長(併任)となり、11月わが国で近・現代工芸を専門とする初の美術館となった工芸館の開館に尽力した。以降、近代工芸の作品収蔵と展示・普及活動を牽引し、「現代日本工芸の秀作―東京国立近代美術館工芸館・開館記念展―」をはじめ、79年「近代日本の色絵磁器」展や81年「石黒宗麿:陶芸の心とわざ」展等の企画展を担当した。82年工芸課長に就任して以降も、84年「河井寛次郎:近代陶芸の巨匠」展や1991(平成3)年「富本憲吉展」等、陶芸関連を主に多数の展覧会を企画し開催した。またイギリス・ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館を主にした在外での研究を踏まえて、明治時代初期の日本を訪れた初の工業デザイナーであるクリストファー・ドレッサーの作品収蔵と紹介に努め、工芸館に工業デザイン部門開設の基盤をつくった。さらに、その頃に日本の近代工芸を海外に紹介し文化として発信する事業が活発となり、82年ボストン美術館他アメリカ各地を巡回した「人間国宝展」をはじめ、89年ユーロパリア’89・ジャパンの催事としてベルギーで開催された「日本の現代陶芸展」や、90-91年北欧4カ国を巡回した「心と技―日本の伝統工芸」展、フランス・パリの三越エトワールで開催された92年「日本の陶芸―百選展」や94年「人間国宝展―日本工芸の華」等を監修した。また現代を代表した藤本能道や清水卯一ら数々の陶芸家の国内回顧展のほか、海外でも90年「三浦小平二の青磁」展や94年「十三代今泉今右衛門展」、96年「清水卯一の陶芸」展、98年「鈴木蔵の志野」展を監修し開催した。92年福島県立美術館館長就任、2000年開館の茨城県陶芸美術館館長を歴任し、近・現代の陶芸に関わる展覧会等を企画・開催した。文化庁の文化財保護委員会専門委員をはじめ日本陶磁協会理事や永青文庫評議員等を勤めたほか、82年以降日本伝統工芸展の鑑審査委員、83年以降日本陶芸展審査員・運営委員、県展等の各地で開催された多数の展覧会の委員も務めて、近代陶芸の発展を検証し陶芸を主に現代の工芸家らの制作を評価した。編集・著作に、『近代日本の色絵磁器』(淡交社、1979年)、『陶芸 石黒宗麿作品集』(毎日新聞社、1982年)、『松井康成 陶瓷作品集』(講談社、1984年)、『日本の美術11 No.306 陶芸―伝統工芸』(至文堂、1991年)、『原色日本の美術33 現代の美術』(小学館、1994年)、『富本憲吉全集2 富本憲吉の東京時代』(小学館、1995年)等がある。

高晟埈

没年月日:2015/08/25

読み:コソンジュン  ビザンティン美術史、北東アジア近現代美術史の領域でめざましい活動を続けていた新潟県立万代島美術館主任学芸員の高晟埈は、8月25日午前8時15分(現地時間)、トルコ共和国でのカッパドキア壁画調査旅行中に心不全で急逝した。享年40。 韓国籍の特別永住者であった高は、1974(昭和49)年9月19日に埼玉県川口市に生まれる。81年5月から84年7月の間、大韓民国の済州島で過ごし、同地の済州西国民学校(現、初等学校、日本の小学校)に通った。日本に帰国後、1990(平成2)年に埼玉県立浦和高等学校に入学。93年同高等学校卒業後、優れた成績で東京芸術大学美術学部芸術学科に入学。入学時の新入生挨拶で「エルミタージュ美術館の学芸員になりたい」と語るなど、はやくから美術史家・学芸員となることを強く意識していた。在学時には西洋美術史の越宏一教授に師事。ロシア美術、ビザンティン美術を主たる研究対象とした。96年5月に安宅賞受賞。97年に卒業論文「«クルドフ詩篇»に関する覚書」で第1回杜賞受賞、同年に東京芸術大学美術研究科修士課程芸術学専攻に進む。この頃から、自分が書く氏名をそれまでの通名(日本名)である大家晟埈(おおやせいしゅん)から本名の高晟埈(コ・ソンジュン)に変更。大学院では、芸大が60年代に実施した中世オリエント遺跡学術調査団による調査資料を出発点に、現地調査を行ったトルコ・カッパドキア壁画アーチ・アルト・キリセシを包括的に考察した修士論文「カッパドキア岩窟修道院壁画の研究――アーチ・アルト・キリセシ(ウフララ渓谷)」が研究室保存論文となる。99年から2002年まで同大学美術学部芸術学科西洋美術史研究室助手、あわせて00年から02年には東京国立博物館資料部助手も務める。02年4月から新潟県教育庁文化行政課 新美術館開設準備室に学芸員として赴任。翌03年4月に開館した新潟県立万代島美術館の美術学芸員となる。09年4月には新潟県立近代美術館に異動、12年4月には新潟県立万代島美術館に異動。そして15年7月には新潟県教育庁文化行政課に異動(新潟県立万代島美術館兼務)となっていた。 学芸員としての高は、様々な展覧会企画に関わっていた(詳細は末尾の業績一覧参照)が、特筆すべき企画は07年から08年に新潟県立万代島美術館ほか五会場を巡回した特別展「民衆の鼓動――韓国美術のリアリズム 1945-2005」である。新潟県立万代島美術館は準備室時代より、アジア美術、特にロシアを含めた北東アジア地域を対象とする企画展を検討していたが、高はそのなかで、自らの出自である韓国の美術、特に80年代の韓国民主化運動の時代に展開したリアリズム系民衆美術に焦点をあてる企画を立ち上げた。強いメッセージ性と諧謔性を有する韓国の民衆美術を紹介するという、日本では極めて難易度の高いこの展覧会は、多くの展覧会紹介や専門的な展覧会評のなかで極めて好意的に評価され、美術館連絡協議会(美連協)の07年美連協展部門の「優秀カタログ賞」(美術館表彰)を受賞している。ちなみに、民衆美術が展開した80年代とは、高が済州島で多感な少年時代を送っていた時代であった。 高は美術館学芸員としての活動の他、ビザンティン美術史家としての研究活動を旺盛に進めていた。修士論文の研究に基づく論文「カッパドキア岩窟修道院聖堂アーチ・アルト・キリセシの装飾プログラム」『美術史』第154冊(2003年)をはじめとして、膨大な調査に裏打ちされたビザンティン美術、およびロシア美術研究を展開させた。高のビザンティン美術史にかかわる最後の論考は、16年に刊行された「天の元后と地の女王―ダヴィト・ガレジ(グルジア)、ベルトゥバニ修道院主聖堂」(越宏一監修、益田朋幸編『聖堂の小宇宙』竹林舎所収)であった。 特別永住者としての国籍問題など複雑な背景を抱えながらも、高は文字通り身を削るように調査・研究を続けていた。彼の早すぎる死は関係者に大きな衝撃を与えた。彼の墓は、多感な時代を過ごした済州島の先祖代々の墓所に置かれている。【関わった代表的な展覧会】「チャイナ・ドリーム」(兵庫県立美術館他、2004年)「ロマノフ王朝と近代日本」(長崎歴史文化博物館他、2006年)「民衆の鼓動―韓国美術のリアリズム 1945-2005」(新潟県立万代島美術館他、2007年)「ポンペイ展 世界遺産―古代ローマ帝国の奇跡」(福岡市博物館他、2010年)「ミュシャ展」(森アーツセンターギャラリー他、2013年)「国立国際美術館コレクション 美術の冒険 セザンヌ、ピカソから草間彌生、奈良美智まで」(新潟県立万代島美術館他、2014年)「日韓近代美術家のまなざし―「朝鮮」で描く」(神奈川県立近代美術館 葉山他、2015年)【主な研究論文・執筆活動】「カッパドキア岩窟修道院聖堂アーチ・アルト・キリセシの装飾プログラム」(『美術史』154、2003年)「聖ゲオルギオスの奇跡伝―イクヴィ(グルジア)、ツミンダ・ゲオルギ聖堂の北翼廊壁画を中心に」(『新潟県立万代島美術館研究紀要』1、2006年)「«フルドフ詩篇»(モスクワ国立歴史博物館所蔵Cod. gr.129d)に関する諸問題」(『新潟県立万代島美術館研究紀要』2、2007年)「亀倉雄策旧蔵イコン「キリストの復活と十二大祭」についての覚書」(『新潟県立近代美術館研究紀要』8、2008年)「「民衆の鼓動〓韓国美術のリアリズム 1945-2005」展の開催にいたるまで」(『あいだ』152、2008年)「彫刻家・戸張幸男の朝鮮滞在期の制作活動について」(『新潟県立近代美術館研究紀要』10、2011年)「旧李王家東京邸内の武石弘三郎作大理石浮彫について」(『新潟県立近代美術館研究紀要』11、2012年)「ニコーディム・コンダコフとチェコスロヴァキア」(『新潟県立近代美術館研究紀要』12、2013年)「在朝鮮日本人漫画家の活動について―岩本正二を中心に」(『新潟県立近代美術館研究紀要』13、2014年)「天の元后と地の女王―ダヴィト・ガレジ(グルジア)、ベルトゥバニ修道院主聖堂」(『聖堂の小宇宙』越宏一監修、益田朋幸編、竹林舎、2016年)【翻訳】久保田成子、南 禎鎬『私の愛、ナムジュン・パイク』(平凡社、2013年)

川添登

没年月日:2015/07/09

読み:かわぞえのぼる  建築評論から民俗学に至る分野で活躍した建築評論家の川添登は7月9日肺炎のため死去した。享年89。 1926(大正15)年2月23日東京駒込染井に生まれる。早稲田大学専門部工科(建築)、文学部哲学科を経て、1953(昭和28)年、理工学部建築学科卒業。同年より新建築社勤務。53年より『新建築』の編集長を務めていたが、1957年に独立して建築評論家となる。60年世界デザイン会議日本実行委員。69年大阪万博博覧会テーマ館サブプロデューサー。70年京都に加藤秀俊などとともにシンクタンクの株式会社CDI(コミュニケーションデザイン研究所)を設立し、所長を務めた。72年日本生活学会を設立し、理事長・会長を歴任した。81年つくば国際科学技術博覧会政府出展総括プロデューサー、87年から1999(平成11)年まで郡山女子大学教授、93年より96年まで早稲田大学客員教授、99年より2002年まで田原市立田原福祉専門学校校長。日本生活学会・日本展示学会・道具学会名誉会員。 川添が残した日本建築界への多大な功績のうち、特筆すべきは1950年代から60年代にかけて建築界の言説を牽引し、建築批評と建築評論の両面から建築ジャーナリズムを確立していったことが挙げられる。川添が編集長を務めていた『新建築』の中で建築家に論考を促し、建築の背景にある思想を記述させた。また、50年代半ばには紙面にて集中的に伝統論をテーマにするよう仕掛け、言説を煽った。これは「日本建築のルーツはなにか」、さらには「日本建築をどう表現すべきか」を問うものであった。さらには、編集のみに留まらず川添は「岩田知夫」のペンネームで、新建築および他の建築雑誌『国際建築』と『建築文化』にも寄稿して議論を盛り上げ、建築ジャーナリズムを通して、現代に通じる日本建築とは何かを日本の建築家に問い続けた。 また、特筆すべきは中心メンバーとしてメタボリズム運動を生み出し、牽引したことである。60年に開催された世界デザイン会議においては実行委員の中心メンバーとして参画し、他国から著名な建築家を招聘するだけではなく、それを迎え撃つように、菊竹清訓、大高正人、槇文彦、黒川紀章らとメタボリズムの概念を練りあげ、『METABOLISM 1960 都市への提案』(美術出版社、1960年)を出版し、日本発の世界的な建築理念を発表するに至った。50年代当時において、海外ではオリエンタリズムの観点から形態について述べられるに過ぎなかった日本の現代建築を、現代建築思想の観点を含めて世界的な建築批評の壇上に持ち上げることに成功した。 このように川添は建築の実作をつくらずして、日本の建築思想を牽引し、日本の建築家の作品や考え方に影響を与え続けた。 川添は生涯に渡り、数多くの著作を執筆した。受賞歴として、60年『民と神の住まい』により毎日出版文化賞、82年『生活学の提唱』により今和次郎賞、民間学である生活学を体系したことで97年南方熊楠賞を受賞している。主要著書:『現代建築を創るもの』(彰国社、1958年)、『伊勢 日本建築の原形』(丹下健三、渡辺義雄と共著、朝日新聞社、1962年)、『メタボリズム』(美術出版社、1960年)、『民と神の住まい大いなる古代日本』(光文社、1960年)、『建築の滅亡』(現代思潮社、1960年)、『日本文化と建築』(彰国社、1965年)、『建築と伝統』(彰国社、1971年)、『生活学の提唱』(ドメス出版、1982年)、『象徴としての建築』(筑摩書房、1982年)、『「木の文明」の成立』(上下 NHKブックス、1990年)、『木と水の建築 伊勢神宮』(筑摩書房、2010年)など多数

松谷敏雄

没年月日:2015/06/12

読み:まつたにとしお  文化人類学者で、東京大学東洋文化研究所所長、東京大学名誉教授、古代オリエント博物館評議員などを務めた松谷敏雄は、6月12日死去した。享年78。 1937(昭和12)年3月4日、福岡県に生まれる。東京都の私立武蔵中学、武蔵高校を卒業後、東京大学教養学部教養学科に進学し文化人類学を学んだ。大学院では、東京大学大学院生物系研究科人類学専門課程に進んだ。65年、東京大学東洋文化研究所の助手に奉職する。以後、1997(平成9)年3月に東京大学を退官するまで同研究所に勤務し、講師(1972年就任)、助教授(1974年就任)、教授(1984年就任)、所長(1992年就任)職を務めた。 東京大学の故江上波夫教授が、西アジアにおける文明の起源を解明するために56年に組織した東京大学イラク・イラン遺跡調査団の発掘調査に、64年以降、団員として参加する。85年以降は、故江上波夫教授、故深井晋二教授につぐ3代目の調査団の団長として、西アジアにおける発掘調査を指揮した。 西アジアにおける農耕の起源を終生の研究テーマに掲げ、イラクのテル・サラサート遺跡やイランのタル・イ・ムシュキ遺跡、シリアのテル・カシュカショク遺跡、テル・コサック・シャマリ遺跡など、数多くの原始農耕村落址の発掘調査に従事し、学界に多大な貢献をした。 著書に、『図説世界文化地理大百科 古代のメソポタミア』(監訳、朝倉書店、1994年)、『テル・サラサートII』(共編、東洋文化研究所、1970年)、『マルヴ・ダシュトIII』(共編、東洋文化研究所、1973年)、『テル・サラサートIII』(共編、東洋文化研究所、1975年)、『Halimehjan I』(共編、東洋文化研究所、1980年)、『Telul eth-Thalathat IV』(共編、東洋文化研究所、1981年)、『Halimehjan II』(共編、東洋文化研究所、1982年)、『Tell Kashkashok』(東洋文化研究所、1991年)、『Tell Kosak Shamali vol. 1』(共編、東京大学総合研究博物館、2001年)、『Tell Kosak Shamali vol. 2』(共編、東京大学総合研究博物館、2003年)など多数。

松井章

没年月日:2015/06/09

読み:まついあきら  奈良文化財研究所埋蔵文化財センター前センター長で、京都大学大学院人間・環境学研究科前併任教授の松井章は、6月9日、肝臓がんのため死去した。享年63。瑞宝双光章を授与され、従五位を叙された。 1952(昭和27)年5月5日、大阪府堺市に生まれる。76年に東北大学文学部卒業。77年からアメリカ・ネブラスカ大学に1年半の留学。80年に東北大学大学院修士課程を修了。82年に奈良国立文化財研究所に入所。 専門は環境考古学。幼少期を過ごした大阪では、有名な弥生遺跡や古墳で遺物を収集する「考古ボーイ」であったが、東北大学進学後は縄文時代の貝塚に興味を持ち、そこから出土する魚骨、動物骨や貝殻といった自然遺物に興味を持ち、動物遺存体の研究に取り組み始めた。しかし当時の国内では、動物遺存体を研究する動物考古学は未開拓の分野であったため、指導教授である芹沢長介の紹介を通じてアメリカに留学し、海外の動物考古学の基礎を習得した。 帰国後、奈良国立文化財研究所(当時)に職を得、埋蔵文化財センターにおいて動物考古学の研究の進展に取り組み、同研究所が動物考古学のナショナル・センターとなる基礎を築いた。彼が中心となって収集した膨大な原生動物の骨格標本は、出土した自然遺物の同定における基礎資料として、国内外の多くの研究者に活用された。また1994(平成6)年からは京都大学大学院人間・環境学研究科の併任教員となり、後進の指導にも尽力し、多くの動物考古学の専門家を輩出した。 奈良文化財研究所では古代や中・近世の遺跡にも関心を高め、歴史時代の獣肉食や皮革生産の実相に迫る画期的な成果を挙げた。また89年のイギリス・ロンドン自然史博物館での在外研究を経て、トイレ考古学や湿地考古学にも関心を広げ、動物考古学に止まらない、環境考古学の確立を志向するようになった。 2011年の東日本大地震に関わる文化財レスキュー活動では、奈良文化財研究所の先陣を切って被災地へ駆けつけ、自らの手で瓦礫を撤去し、貴重な文化財の救出に努めた。その後は被災した博物館・資料館から自然遺物関連の資料を預かり、その整理作業に携わった。 学会での活躍や研究交流は国内外を問わず、93年には国立歴史民俗博物館の西本豊弘らと共に動物考古学研究会(現、日本動物考古学会)の設立にも携わった。05年には国際湿地考古学研究会(WARP)にて学会賞大賞を受賞、11年には濱田青陵賞を受賞した。 09年に奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長に就任。13年に奈良文化財研究所を定年退職したが、その後も特任研究員として研究活動を継続した。病を得てからも、最期の日を迎えるまで研究を続けた。 自身、「一人っ子やったし、子どもの頃から好きなことしかせえへんかったなぁ」と発言するように、幅広い分野に関心を持ち、自由闊達にフットワーク軽く活動するタイプの学者であった。ヨーロッパ出張の飛行機の中で、機内食用のワインの小瓶20本を空けたというエピソードは今でも語り草となっている。 主な著書は以下の通り。『考古学と動物学』考古学と自然科学②(西本豊弘との共編著、同成社、1997年)『古代湖の考古学』(牧野久美との共編著、クバプロ、2000年)『環境考古学』日本の美術423(士文堂、2001年)『環境考古学マニュアル』(編著、同成社、2003年)『環境考古学への招待』岩波新書930(岩波書店、2005年)『動物考古学―Fundamentals of Zooarchaeology in Japan―』(京都大学学術出版会、2008年)

樋口隆康

没年月日:2015/04/02

読み:ひぐちたかやす  考古学者。京都大学教授、泉屋博古館館長、奈良県立橿原考古学研究所所長、シルクロード学研究センター長、財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター理事長、斑鳩町文化財活用センター長などを歴任した樋口隆康は、京都薬師山病院にて4月2日老衰のため死去した。享年95。 1919(大正8)年6月1日、福岡県田川郡添田町に生まれる。第一高等学校文科甲類卒業後、1941(昭和16)年に京都帝国大学文学部史学科に進学し、考古学を専攻した。43年に京都大学大学院に進むが、徴兵され海軍予備学生として土浦海軍航空隊に入隊する。終戦後の45年10月に大学院に復学し、京都大学の故梅原末治教授の副手となる。その後、83年4月に京都大学を退官するまで、助教授(1957年就任)、教授(1975年就任)職などを務めた。 京都大学退官後は、泉屋博古館館長および名誉館長(1983~2015年)を務め、また奈良県立橿原考古学研究所所長(1989年~2008年)、シルクロード学研究センター長(1993~2008年)、斑鳩町文化財活用センター長(2010~15年)などの役職を歴任した。 ユーラシア大陸全般にわたる研究を提唱し、研究テーマは多岐におよんだ。日本国内では、魏が卑弥呼に下賜したとされる三角縁神獣鏡が多数出土したことで有名な京都府椿井大塚山古墳や奈良県黒塚古墳の発掘調査に携わり、古墳時代や邪馬台国の研究に大きく貢献した。 海外では、57年に、訪中考古学視察団の一員として、日本人考古学者として戦後初めて敦煌石窟などを調査した。58年には、京都大学インド仏蹟調査隊のメンバーとして聖地ブッダガヤを調査し、62年にはガンダーラ仏教寺院址の発掘調査に参加した。70年からは、京都大学中央アジア学術調査隊を率い、アフガニスタン、バーミヤーン遺跡の仏教石窟群の調査を行った。また、90年から2004年にかけては、シルクロードの隊商都市であるシリアのパルミラ遺跡の発掘調査を指揮した。 また、作家の司馬遼太郎や井上靖、陳舜臣、考古学者の江上波夫などともにNHK特集「シルクロード」の番組製作に参加し、日本中にシルクロード・ブームを巻き起こした。 死後、15年5月8日に、従四位、瑞宝小綬章を受章している。 著書に『古代中国を発掘する―馬王堆、満城他―』(新潮選書、1975年)、『バーミヤーン:京都大学中央アジア学術調査報告1-4』(共著、同朋舎出版、1983-84年)、『ガンダーラの美神と仏たち―その源流と本質』(NHKブックス、1986年)、『始皇帝を掘る』(学生社、1996年)、『三角縁神獣鏡と邪馬台国』(共著、梓書院、1997年)、『シルクロードから黒塚の鏡まで』(学生社、1999年)、『アフガニスタン遺跡と秘宝-文明の十字路の五千年』(NHK出版、2003年)など多数。

頼富本宏

没年月日:2015/03/30

読み:よりとみほんこう  密教学・密教美術研究を専門とし、ことにインド・チベット・中国の密教遺跡と遺品の調査研究に数多くの業績を残した頼富本宏は3月30日午後9時31分 膵臓がんのため死去した。享年69。翌日、真言宗より「大僧正」を追贈。葬儀は近親者で密葬を執り行い、本葬を4月29日に神戸市内の本願寺神戸別院で営んだ。 1945(昭和20)年4月14日、本信・房子の長男として香川県に大川郡大川町に生まれる。幼名は本宏(もとひろ)。神戸・實相寺開山で第一世住職であった父を師僧とした。59年7月、同寺において得度。64年3月兵庫県立神戸高等学校を卒業後、4月より京都大学文学部に入学し勉学に勤しむ傍ら、5月には東寺真言宗より度牒を得る。66年8月には淡路・万福寺にて4ヶ月に及んだ四度加行を成満する。68年3月、京都大学文学部(仏教学専攻)を卒業、4月より同大学大学院文学研究科修士課程(仏教学)に進学するとともに、12月21日には京都・醍醐寺に於いて伝法灌頂入壇(三宝院流憲深方)を果たす。70年修士課程修了のち、そのまま同大学大学院博士課程(仏教学)に進学。73年3月単位取得満期退学。4月より種智院大学仏教学部専任講師となる。76年4月同学部助教授に就任するとともに、日本密教学会理事となる。この頃より本格的に密教美術に及んだ論文を執筆することを心がけ、当初は「ラマ教」関係に留まったが、80年代以降、日本を見据えての東アジアにおける密教の伝播・受容に関する研究へと視野を拡大してゆく。82年7月インドに現存する密教遺跡・遺品の研究で朝日学術奨励賞を受賞。10月より密教図像学会常任委員となる。83年10月に實相寺住職(第二世)を継職。87年12月より仏教史学会評議員となる。翌88年3月京都大学より文学博士の学位を得る。1992(平成4)年4月種智院大学仏教学部長に就任するとともに、日本仏教学会理事、日本印度学仏教学会理事となる。95年10月密教学芸賞を受賞。97年10月密教図像学会副会長となる。98年3月種智院大学の職を辞し、4月より国際日本文化研究センター研究部教授に就任するとともに、総合研究大学院大学文化科学研究科教授、種智院大学の客員教授を兼務する(いずれも2002年3月まで)。99年4月には国際日本文化研究センター評議員となる。2002年4月種智院大学第十代学長に就任、日本私立大学協会評議員となる。04年4月より人間文化研究機構国際日本文化研究センター運営委員となる。08年「権僧正」補任。10年3月に種智院大学長を退き、同大学の名誉教授の称号を得る。この間、京都所在の大学を中心に非常勤講師(集中も含む)として関西大学(1976~78、95~97年)、京都大学(1979~81、90~92年)、大谷大学(1979~81、91~93、00~01年)、龍谷大学(1994~2001年)、同短期大学部(1987~99年)、佛教大学(1992~93年)、岡山大学(同)、金沢大学(1993~94年)などに出講した。 頼富は文字通り密教学僧であり、インドから日本に及ぶアジアの密教文化・密教美術の研究としては泰斗的な存在であった。その性格は非常に温厚・篤実であり、腰の低い人柄は諸方面より慕われ人望が厚かった。生涯の業績において特筆されるのは佐和隆研(1983年没)の遺志を継ぎ、以来、約30年にわたって密教図像学会の発展に尽力し、佐和隆研博士学術奨励賞の維持に努め、門戸を開いて後身研究者の育成を目指すとともに、同学会の行く末・発展に最期まで腐心した点にある。著書・論文は仏教哲学、密教文化に及んで専門的なものから一般啓蒙書まで多岐に及ぶが、美術に関わるものに限定して単独で発表した代表的なものをあげるならば、単著に『庶民のほとけ―観音・地蔵・不動―』(日本放送協会、1984年)、『マンダラの仏たち』(東京美術、1985年)、『密教仏の研究』(法蔵館、1990年)、『曼荼羅の鑑賞基礎知識』(至文堂、1991年)、『マンダラ講話』(朱鷺書房、1996年)、『密教とマンダラ(NHKライブラリー)』(NHK出版、2003年)、『すぐわかるマンダラの仏たち』(東京美術、2004年)がある。主要論文については、『頼富本宏博士還暦記念論文集 マンダラの諸相と文化』上(法蔵館、2005年)所載の「頼富本宏博士略歴・業績目録」を参照されたい。このほかNHKメディアを活用し、市民大学「密教とマンダラ」(1963年放送)、人間講座「空海―平安のマルチ文化人―」(2015年)、BS夢の美術館「アジア仏の美100選」(2017年)等に講師として出演し知名度を上げるとともに、ともすれば深淵難解と敬遠されがちな密教教学と文化をわかりやすく一般に説いた。

渡邊明義

没年月日:2015/03/30

読み:わたなべあきよし  美術史家で文化財保護行政にも多年にわたり貢献した渡邊明義は、3月30日、横行結腸がんのため死去した。享年79。 1935(昭和10)年、8月4日栃木県氏家町(現、さくら市)に生まれる。48年宇都宮市立中央小学校卒、51年宇都宮市立旭中学校卒、54年宇都宮高等学校卒。62年東京藝術大学美術学部専攻科修了(芸術学専攻)。同年、文部省文化財保護委員会美術工芸課に採用される。以後長く現文化庁に席を置き、文化庁美術工芸課絵画部門主任調査官を経て、1989(平成元)年、文化庁文化財保護部美術工芸課長。92年東京国立博物館学芸部長。94年文化庁文化財保護部文化財監査官。96年東京国立文化財研究所長、2001年独立行政法人文化財研究所理事長を経て、04年東京文化財研究所長を辞し、同年公益財団法人平山郁夫シルクロード美術館顧問(後に理事)。08年一般財団法人世界紙文化遺産支援財団紙守を設立。その代表理事となる。 美術史家としての専門は中国及び日本の中世絵画史で、鈴木敬の影響が大きかった。論文に「倪雲林年譜(上)(下)」『国華』829・830(1961年)、「伝夏珪筆山水図について―夏珪画に関する二三のノート―」『国華』931(1971年)、「張路筆 漁夫図」『国華』981(1975年)をはじめとする多数の論文のほか、『瀟湘八景図』日本の美術124(至文堂、1976年)、『水墨画 雪舟とその流派』日本の美術335(至文堂、1994年)、『水墨画の鑑賞基礎知識』(至文堂、1997年)等の著書がある。 文化財保護委員会から文化庁にわたり長年を過ごし、絵画の修理担当を長年勤めて指導的立場に立つようになり、それまでの古典的な修理方から、現在では当然となって引きつがれている地色補彩のあり方、乾式肌上げ法等、修理技術者と密な関係を保ちつつ、近代的な修理の方法論と哲学を築き上げた功績は大である。一方で国宝修理装〓師連盟の資格制度導入と国際的活動拠点化の糸口を作った。神護寺像「伝源頼朝像」ほか三幅、東寺蔵「伝真言院曼荼羅」をはじめ、多数の重要な修理にたずさわった。その中で絵画の素材、技法などを含む装〓について研究を積んだ。『古代絵画の技術』日本の美術401(至文堂、1999年)等の著書のほか、『装〓史』(国宝修理装〓師連盟編、2011年)で全9章のうち5章を担当した部分は、装〓の歴史をも含めた該博な長年の経験と知識に裏付けられた貴重な著作といえよう。 また、72年の高松塚古墳壁画の発見にともない、その保存対策を文化庁にあって三輪嘉六(元九州国立博物館長)らとともに実質的に担ったことも大きな出来事であった。各国から専門家を招き、「高松塚古墳応急保存対策調査会」を組織してさまざまな意見がある中で現地保存の方針をかため、保存施設を構築し、壁画の手当を東京国立文化財研究所とともに手さぐりで行わなければならない、それまでに例のない難事業であった。保存施設は当時にあって能う限りのものであり、完成、引き渡しの当日、渡邊は前日から作業小屋に泊まり、帰途、涙したと述懐している。保存対策の経緯は後に『国宝高松塚古墳壁画―保存と修理』(文化庁、1987年)に子細に報告されているが、渡邊は同書のいくつかの項目を担当した上で、中心となってこれを編集した。施設内では時折カビの発生がみられ、ことに白虎の描線が薄れるということがあった。その後落ち着きがみられたものの、2001年、保存施設と石室を連結する「取合部」の剥落止め工事を契機に再びカビが大量発生し、また虫類の侵入が顕著になったことを受けて、「国宝高松塚古墳壁画恒久保存対策検討会」が文化庁に設けられ、その座長を務めた。後に高松塚古墳壁画は結局石室ごと取り出され、保存修理が行なわれることとなったが、生前叙勲を辞退したことには、壁画を守りきれなかった思いがあったと推測され、その真摯な人柄を物語る。 東京国立文化財研究所の改築、独立行政法人化にあたってもその長として責務を果たした。また、日米経済摩擦の最中の90年、平山郁夫東京藝術大学長(当時)が海外に保管されている我が国の美術工芸品の修理を官民協力で援助する事業を提唱し、文化庁側の担当としてこの事業を担い、これを期に平山郁夫との親交を得た。さらにユネスコのアフガニスタン復興会議で我が国が名乗りを挙げたバーミアンの仏教遺跡の保存事業を東京文化財研究所事業として率先して引き受け、戦争により被害を受けた文化相の調査と専門家養成事業を行ない、文化財保護の国際的協力体制の足掛かりを作った。 他に文化庁文化財調査会文化財文化会長、ユネスコ日本国内委員会委員、芸術文化振興基金運営委員、公益財団法人文化財保護・藝術研究助成財団評議員、一般社団法人国宝修理装〓師連盟顧問等をつとめ、熊野古道の世界遺産化のとりまとめ等の重責を果たし、『「地域と文化財」ボランティア活動と文化財』(勉誠出版、2013年)の編者となるなど、晩年まで活躍した。没する数か月前に文化庁主催の講習会に病身を押して車椅子で「装〓史」の講義を行なうなど、身体的には必ずしも頑健ではなかったにもかかわらず終生精力的であった。 没後の2015年9月5日、東京プリンスホテルにて「渡邊明義さんを偲ぶ会」が催され、大多数の出席をみた。照会先―東京都中央区日本橋本町4-7-1 三恵日本橋ビル2階 一般財団法人 世界紙文化遺産支援財団 紙守

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