ヨシダ・ヨシエ

没年月日:2016/01/04
分野:, (評)
読み:よしだよしえ

 美術評論家のヨシダ・ヨシエは1月4日、埼玉県鶴ケ島市の病院で脳梗塞のため死去した。享年86。
 1929(昭和14)年5月9日、東京都千代田区麹町に生まれる。本名吉田早苗、父は逓信省の官吏だった。2歳のとき母と死別。番町小学校、鎌倉臨海学園に学ぶ。父の転勤にともない新潟中学へ転校、その後、現在の神奈川県立湘南高校に在籍中に敗戦。しばらくは家出をし、上野の浮浪者と生活を送る。その後、小林秀雄や林達夫ら鎌倉文化人を知り、地域雑誌『緑地帯』の発行に関わり、3号まで刊行。50年頃、片瀬目白山に在住の丸木位里・俊夫妻を尋ね、藤沢の旅館で「原爆の図」を展示する。以後3年間、丸木夫妻らと「原爆の図」5部作の全国巡回展示を行う。52年劇団前進座に参加。56年詩集『風と夜と』(私家版250部、吉留要画)をヨシダ・ヨシエ名で刊行。同年「小山田二郎の芸術」(『美術批評』、8月号)で美術評論デビュー。58年詩画集『ぶるる』(岡本信二郎画、亜紀社)。61年「瀧口修造覚え書き」(『現代芸術』、5.6~9月号)では、瀧口の戦中期の活動について論述。62年「靉光伝」(『AVECART』、58号から9回連載)は、ヨシダのこの頃の中心的なテーマ「戦争と美術」が展開される。靉光については、77年から82年まで『デフォルマシオン』で「わたしの内部の靉光」を長期連載する。
 65年目白駅近くにモダンアートセンター・ジャパンを設立、展示や出版を手掛ける活動を開始するも、半年あまりで解散した。68年ギャラリー新宿の機関誌『反頭脳』を編集。71年尾崎正教や小本章と人間と大地の祭り展(代々木公園)を企画。72年『戦後前衛所縁荒事十八番』(ニトリア書房、同書は82年『解体劇の幕降りて』として増補版が造形社より刊)刊。74年コスモス展(サンパウロ大学現代美術館)を組織。75年アーティスト・ユニオンに参加。77年より日本・アジア・アフリカ・ラテンアメリカ美術家会議に参加。同年『琉氓の解放区』(現代創美社)刊。83年松沢宥『プサイの函』(造形社)の監修。86年より原爆の図丸木美術館評議委員(1994年まで、95年から97年まで常務理事)を務める。同年『エロスと創造のあいだ』(展転社)刊。1989(平成元)年『手探る・宇宙・美術家たち』(樹芸書房)刊。91年より池田20世紀美術館評議委員(1994年まで、以後2007年まで理事、10年まで評議委員)を務める。93年『修辞と飛翔』(北宋社)刊。96年ライフワーク的な『丸木位里・俊の時空・絵画としての「原爆の図」』(青木書店)刊。2005年『ヨシダ・ヨシエ全仕事』(芸術書院、全著述が収録されてはいない)刊。08年細江英公による写真集『原罪の行方 最後の無頼派ヨシダ・ヨシエ』が刊行される。ヨシダの評論活動はファインアートだけでなく舞踏や人形、人類学、サブカルチャーへ幅広い領域にわたる。没後、舞踏関連を中心に蔵書の一部が、アメリカ、ロサンゼルスのUCLAに寄贈され、「ヨシダ・ヨシエ文庫」として開設されている。

出 典:『日本美術年鑑』平成29年版(532頁)
登録日:2019年10月17日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「ヨシダ・ヨシエ」『日本美術年鑑』平成29年版(532頁)
例)「ヨシダ・ヨシエ 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/818646.html(閲覧日 2024-04-26)

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