本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





清水善三

没年月日:2012/07/16

読み:しみずぜんぞう  京都大学名誉教授で、日本彫刻史研究者の清水善三は、7月16日、虚血性心疾患のため京都市内の自宅で死去した。享年81。 1931(昭和6)年5月13日、静岡県浜名郡鷲津町(現、湖西市)に生まれる。50年愛知県立豊橋時習館高等学校卒業、同年京都大学文学部に入学。大学2年の時に結核にかかり、4年間の休学を余儀なくされた。その病床で出会ったのが仏像であったという(「ひと 新世紀 仏の顔」『京都新聞』1985年12月19日)。京大教養部で教鞭をとっていた、インド美術史を専門とする上野照夫の「美学はやるな。飯が食えんぞ」という口癖を乗り越えて、58年に同大学院文学研究科修士課程(美学専攻)に進学。芸術の自律的原理および芸術の自律的研究方法を追求した植田寿蔵を師とする井島勉、文化財保護委員会や奈良国立博物館等を歴任し、平安初期彫刻と室町水墨画など多ジャンルにわたる研究をおこなった蓮實重康のもとで、仏教美術を学んだ。くわえて学生時代には、当時、京都国立博物館学芸課に勤めていた毛利久に調査手法を学び、また京大文学部で「平安初期密教美術」を講義していた佐和隆研の授業に出席し、佐和のお伴で醍醐寺をはじめとする全国各地の調査に加わったという。 63年京大大学院文学研究科博士課程(美学専攻)単位取得満期退学、68年4月京都精華短期大学助教授に着任。71年4月に京大文学部助教授、79年11月学位論文『平安彫刻史の研究』を提出。翌年に教授となり、着任より24年間にわたって後進の指導に従事した。1995(平成7)年3月に定年退官。退官後は、さらに東海女子大学文学部教授(2002年まで)、文化庁文化財保護審議会第一専門調査会専門委員(2000年まで)を務めた。 清水の彫刻史研究は、彫刻様式の発展過程を跡づける様式論と史料読解にもとづく仏師論に大別され、またいち早く「場」の問題(仏像と空間の関係)に言及したことも特筆される。清水の様式論は、当時、優美性や情緒性などの印象批評的な評言で語られることの多かった彫刻史への批判に発し、彫刻の様式の概念を明確に規定して、その様式概念にもとづいて彫刻史全体を体系化しようとするものであった。作品のもつ固有の特質・視覚的造形的な本質・内的な形式を見極め、美術の固有の歴史を解明しようとする京大美学の学風を色濃く受け継ぐもので、様式論を完全に美学的に昇華させた点に特色がある。一方、様式史の対象とならないとみなされた、個々の彫刻がもつ特殊性(尊格や図像の相違、作者の違い等)にも目配りをしており、仏師と仏師組織に関する研究が、様式論を補完する役割として展開されることになったと想像される。 立体物としての彫刻がもつ「物理的量」と、それに独自な彫刻的手法をほどこすことによって造形化される「視覚的量」の関係を彫刻の「様式」と規定し、時代様式として完成しているものについては両者の一致がみられ、過渡期においては両者に齟齬が生じるという独特の彫刻史観は、仏像の美的価値の構造を客観的に真摯に追究しようとした清水の到達点であった。 主著に『平安彫刻史の研究』(中央公論美術出版、1996年)、『仏教美術史の研究』(同、1997年)があるほか、解説・書評等多数。大宮康男による追悼文「清水先生の思い出」(京都大学以文会『以文』57、2014年)より、誠実温厚な人となりがうかがわれる。

赤澤英二

没年月日:2012/05/23

読み:あかざわえいじ  美術史家の赤澤英二は5月23日、心不全のため死去した。享年82。 1929(昭和4)年6月22日東京府に生まれる。54年東京大学農学部水産学科卒業後、57年3月東京大学文学部美学美術史学科卒業、同年4月東京大学大学院人文科学研究科(美学美術史専攻)修士課程に入り、翌58年6月中退。同年7月東京学芸大学教育学部助手、65年4月講師、68年4月同大学大学院教育学研究科造形芸術学担当、同年6月助教授、76年4月教授。93年3月東京学芸大学を定年退官、5月同大学名誉教授号授与。この間、84年4月から88年3月まで同大学学部主事(第4部長)、1991(平成3)年4月から93年3月まで同大学教育学部附属野外教育実習施設長を務める。95年4月実践女子大学文学部教授に就き、2000年3月同大学を定年退職。 日本中世美術史、ことに室町時代水墨画史、とりわけ雪村周継の研究で多くの業績を残した。また各地の寺院所在中世絵画の調査を精力的に行ったことも特筆される。 60年に「応永詩画軸研究1応永詩画軸の前提」(『東京学芸大学研究報告』1巻11号)、「詩軸と詩画軸」(『美術史』40号)を発表。室町時代水墨画研究の基本問題を追及する姿勢を明らかにした。「応永詩画軸研究」は、「2詩画軸画題考」(1961年)、「3山水画構図論」(1963年)と続けて基本問題を追及する一方、「「李朝実録」の美術史料抄録(一)~(五)」(『国華』882~898号、1965~67年)を発表して中世美術史の分野ではじめて朝鮮美術史料をとりあげ、今日では当然となった東アジアを視野に収めた中世絵画史研究の必要性を提起するなど、後年の幅広い研究姿勢を早くから表している。最晩年の論文も「室町水墨画と李朝画の関係」(『大和文華』117号、2008年)である。 赤澤の業績の視野は広かったが、特筆される業績のひとつは、室町の代表的な画人である雪村周継の研究を一貫して進めたことにあった。「雪村の人物画における様式展開の一つのケース―用墨法の問題に関連して」(1975年)を初めとして多くの論文を発表し、85年『国華』の雪村特集号では編集と執筆の中心となるなど研究を進め、2003年にはその集大成である『雪村研究』(中央公論美術出版)を刊行した。これは、生没年など不確定な要素の多かった雪村の伝記について有力な仮説を提示し、模作などを含む百点に及ぶ作品を精査して、様式や落款印章の形式の比較検討を経た編年を試みた大著である。さらに2008年には人物評伝『雪村周継―多年雪舟に学ぶといへども』(ミネルヴァ日本評伝選)を著した。 また大きな業績のひとつは「地方寺院伝来の中世絵画調査」をテーマとして精力的な実地調査を行い、多くの資料の発掘・顕彰を行ったことである。調査は71年から95年までで北海道を除く全国44府県の350ヵ寺、調査作品は1,100点以上に及んだ。調査により発見された優れた作品を「海西人良詮筆仏涅槃図について」、「徳報寺蔵宗祇像について」、「室町時代の絵師「土蔵」詩論」などとして数多く発表。さらに長年にわたるこれらの成果は、その中から279点155ヵ寺1神社2博物館の作品を選択し収録した大著『日本中世絵画の新資料とその研究』(中央公論美術出版、1995年)、及び数多くの涅槃図の作例を通観することによってその図像の展開を論じた『涅槃図の図像学―仏陀を囲む悲哀の聖と俗千年の展開』(中央公論美術出版、2011年)に多くの図版とともにまとめられた。幅広い実作品を互いに連関させながら学術的に紹介したこれらの成果は、今なお日本美術研究上貴重な資料である。『新資料とその研究』の後序「模倣から引用へ」では、仏画と漢画の「模倣性」と「引用性」によってその展開をみる赤澤の日本絵画史観が記されている。他方、その精力的な実地調査は文化財行政に寄与し、結果として、赤澤によって見出された多くの文化財が各自治体や国の指定となった。福井・本覚寺蔵仏涅槃図や愛知・冨賀寺蔵三千仏名宝塔図などが国指定重要文化財となったのも赤澤の学術論文によって世に知られたことによる。 共著、報告書を含む著書に上述のほか『日本美術史』(共著、美術出版社、1977年)、『日本美術全集16室町の水墨画』(共著、学習研究社、1980年)に始まる11本、主要論文は室町水墨画、雪村に関するものはもとより「縄文前期筒型土器・口付土器」(『国華』854号、1963年)や「十五世紀における金屏風」(『国華』849号、1962年)などをも含む69編におよぶ。 他方、東京学芸大学の教育学部という場にあって、教育活動にも力を注いだ。とくに4年間にわたる学部主事の時代には、88年からの新課程の設置に伴う学部再編に尽力し、この結果、既成の教員養成課程に加えて環境、国際、情報などをふまえて学校教育以外の分野でも社会貢献できる人材養成の過程が造られ、これは広く基本モデルとなった。 小金井市文化財専門委員、同専門委員会副議長、小金井市文化財審議会会長、国華賞選考委員、文化庁文化財買取協議会委員等を務めた。小金井市市政功労表彰(1983年)、東京都功労者表彰(1996年)、正四位叙位・瑞宝中綬章受章(死亡叙位叙勲)。美術史学会、美学会に所属。道子夫人との間の3男の父。

成瀬不二雄

没年月日:2012/04/26

読み:なるせふじお  日本の洋風画研究者成瀬不二雄は4月26日、死去した。享年80。 1931(昭和6)年10月16日、福岡県福岡市に九州帝国大学仏文科教授成瀬正一の長男として生まれる。東京の森村学園小学校を卒業して、神戸甲南学園中学に学び、同高校を1年にて修了し神戸大学文学部に入学。53年3月神戸大学文学部芸術学を卒業し、翌54年3月同大学文学専攻科を終了。同年5月から神戸市立神戸美術館(後の神戸市立南蛮美術館)の嘱託となるが、同年11月に退職して神戸大学文学部芸術学助手となる。61年4月大和文華館学芸員となり、学芸係長、同課長、学芸部長を経て、同館次長となった。神戸大学在職中は、「ボードレールの詩的世界の成立とアングル及びドラクロアの影響について」(『近代』14号、1956年4月)、「ボードレールの詩「灯台」についての序説」(『近代』17号、1956年12月)、「ルーベンスとボードレール」(『近代』18号、1958年1月)、「レンブラントとボードレール」(『近代』19号、1957年5月)、「ゴヤとボードレール」『神戸大学文学会研究』(18号、1959年2月)に見られるように、ボードレールとそれに関わる美術家について研究を行っていたが、大和文華館に入った後、日本における西欧美術の受容を対象とするようになり、「桃山時代童子肖像画の一資料」(『大和文華』44号、1966年12月)、「日本洋画のあけぼの・秋田蘭画」『(美術手帖』283号、1967年6月)など、その後のライフワークとなる洋風画に関する論考が発表されるようになった。秋田蘭画における西洋的な空間表現の受容を論じ、近景を画面の前面に大きく描き、中景を水面などのモティーフとして、遠景を小さく描く特色ある構図を「近像型構図」と名づけてその系譜を跡づけ、また富士山が描かれた洋風画を悉皆的に調査し、実景と比較することによって、司馬江漢ら近世の洋風画の絵師たちが西洋風の写実を学びながらも、絵になる構図を求めて富士山を実景とは異なる位置に描いていることを実証するなど、洋風画史に大きな足跡を残した。それと並行して、従来、日本文化の近代化という文化史的側面から見られる傾向の強かった洋風画の美術的価値への理解を広めることに寄与した。1993(平成5)年、『国華』1170号掲載の「司馬江漢の肖像画制作を中心として-西洋画法による肖像画の系譜」によって第5回国華賞を受賞。97年3月に大和文華館次長を退職し2年間同館嘱託として在職、99年4月に九州産業大学大学院芸術研究科教授となり、洋風画史を講じた。晩年の著作となった『司馬江漢-生涯と画業』本文篇・資料篇(八坂書房、1995年)、『日本絵画の風景表現 原始から幕末まで』(中央公論美術出版、1998年)、『江戸時代洋風画史』(中央公論美術出版、2002年)、『日本肖像画史 奈良時代から幕末まで、特に近世の女性・幼童像を中心として』(中央公論美術出版、2004年)、『富士山の絵画史』(中央公論美術出版、2005年)は半世紀近い調査研究の集大成となっている。主要著書『東洋美術選書 曙山・直武』(三彩社、1969年)『原色日本の美術25 南蛮美術と洋風画』(坂本満・菅瀬正と共著、小学館、1970年)『日本美術絵画全集25 司馬江漢』(集英社、1977年)『江戸の洋風画』(小学館、1977年)『百富士』(毎日新聞社、1982年)『司馬江漢-生涯と画業』本文篇・資料篇(八坂書房、1995年)『日本絵画の風景表現 原始から幕末まで』(中央公論美術出版、1998年)『江戸時代洋風画史』(中央公論美術出版、2002年)『日本肖像画史 奈良時代から幕末まで、特に近世の女性・幼童像を中心として』(中央公論美術出版、2004年)『富士山の絵画史』(中央公論美術出版、2005年)

中川幸夫

没年月日:2012/03/30

読み:なかがわゆきお  生け花作家の中川幸夫は3月30日、老衰のため香川県坂出市内の介護施設で死去した。享年93。 1918(大正7)年7月25日、香川県丸亀市に生まれる。幼名は恒太郎。生家は代々土地持ちの農家で、母方の隅家も裕福な農家であり、祖父隅鷹三郎は樟蔭亭芳薫と号し、池坊生花の讃岐支部長を務めた。幼くして脊椎カリエスを患う。1932(昭和7)年、大阪の石版画工房へ入社、ここで映画、文学、文楽などに眼を開く。同社を6年ほどで退職したのち、大阪の印刷会社2社に務め、雑誌、映画ポスター制作などに従事。41年、身体を壊し帰郷、翌年伯母隅ひさの勧めにより本格的に池坊を習い始める。終戦後から53年にかけて、印刷会社に勤務。このころ、池坊・後藤春庭に立華を学び、草月流・岡野月香を知り草月の花に感銘を受ける。49年、丸亀市の大松屋で初個展「花個展 中川幸夫」を開催、出品作品が『いけばな芸術』第2号に掲載される。50年、「白東社」に参加。この年、池坊全国選抜展(東京都美術館)に出品。52年、第2回日本花道展(大阪・松坂屋、主催は文部省)に出品するが落選、池坊を脱退。以後、流派に属さず、個人の生け花作家となる。同年、第1回白東社展(大阪・三越)に出品(55年第3回展まで出品)。54年、モダンアートフェア(大阪・大丸、主催は朝日新聞社、第1回展)に招待出品(第2回、第3回も出品)。55年、自費出版で『中川幸夫作品集』を刊行。56年、東京都中野区江古田へ転居、半田唄子(白東社同人、元千家古儀家元)との結婚挨拶状を友人・知人に送る。六畳一間のアパートに暮し、喫茶店、バーなどに花を活けて生計を立てたという。58年集団オブジェ結成に参加。61年第13回読売アンデパンダン展に出品(第14回、第15回も出品)。68年東京での初個展を銀座・いとう画廊で開催。84年銀座・自由ケ丘画廊で個展を開催、花液を海綿を介して和紙にしみこませる手法を用いた作品をはじめて発表。この年、半田唄子死去。93年、大野一雄舞踏公演「御殿、空を飛ぶ」(横浜・赤レンガ倉庫)の舞台装置を制作。98年、1年間、山口県立萩美術館・浦上記念館で茶室のインスタレーション«鏡の中の鏡の鏡»を展示。同年、「Etre Nature」展(カルティエ現代美術財団)に写真作品15点を出品。2002年、大地の芸術祭において新潟県十日町市信濃川河川敷でパフォーマンス「天空散華 中川幸夫『花狂い』」を実施。2003年ころから郷里丸亀に転居、故郷に拠点を移していた。ザ・ギンザ・アートスペース(2000年)、鹿児島県霧島アートの森(2002年)、大原美術館(2003年)、宮城県美術館、丸亀市猪熊弦一郎美術館(ともに2005年)などで個展を開催した。作品集に上記のほか『中川幸夫の花』(求龍堂、1989年)、『魔の山 中川幸夫作品集』(求龍堂、2003年)など、評伝に森山明子『まっしぐらの花 中川幸夫』(美術出版社、2005年)、早坂暁『君は歩いて行くらん 中川幸夫狂伝』(求龍堂、2010年)、また中川幸夫をモデルとした小説に、芝木好子「幻華」(『文学界』1970年11月号)などがある。『華 中川幸夫作品集』(求龍堂、1977年)で「世界で最も美しい本」国際コンクールに入賞。1999年織部賞グランプリ受賞、丸亀市文化功労者となる。2004年、第20回東川賞(北海道東川町)を受賞。2014年にはドキュメンタリー映画「華いのち 中川幸夫」(企画、監督、編集=谷光章)が公開、各地で上映される。花の生命力そのものを鮮やかに浮かび上がらせた作品の数々で美術界からも高い評価を受けた。

川上貢

没年月日:2012/03/20

読み:かわかみみつぐ  建築史家で京都大学名誉教授の川上貢は3月20日午前10時45分、大阪府高槻市内の病院で肺炎のため死去した。享年87。 1924(大正13)年9月6日大阪府に生まれる。1946(昭和21)年京都帝国大学工学部建築学科に入学。49年に卒業後、同大学院の特別研究生として村田治郎に師事、53年に京都大学工学部講師、55年に助教授、66年に同教授となる。88年に定年退官し、同大学名誉教授。同年より1990(平成2)年まで福井大学工学部教授、同年より95年まで大阪産業大学工学部教授を歴任。 京大助教授時代の58年に、「日本中世住宅の研究」にて同大より工学博士号授与、翌59年には同論文に対して日本建築学会賞(論文賞)を受賞した。 近世の書院造より以前の、実物遺構が現存しない鎌倉・室町時代の住宅建築の平面形式とその空間の具体的使われ方を歴史史料に現れる記述の分析を通じて解明するとともに、寝殿造から書院造に至る支配階級の住宅の変遷過程を初めて提示した学位論文は、『日本中世住宅の研究』(墨水書房、1967年)として公刊され、建築史学にとどまらず関連学会からも基本文献として評価されることとなった。実物遺構の調査に基づく研究としては、学部生当時から禅宗寺院の塔頭建築の意義と構成の考究に力を注ぎ、その成果は『禅院の建築』(河原書店、1968年)として刊行されている。 後年には、近世や近代の建築調査を主導することを通じて、多くの建造物の文化財指定、保存に貢献したほか、教育や学会活動の面でも大いに活躍した。76年から94年まで文化庁文化財保護審議会の専門委員を務めたほか、京都府をはじめとする地方自治体でも文化財保護審議会委員として文化財保護行政に助言した。さらに、日本建築学会の理事、監事や、87年より89年の間は建築史学会会長を務め、学会の発展に貢献した。94年より財団法人京都市埋蔵文化財研究所所長として、また98年より2006年まで財団法人建築研究協会理事長として、考古学調査や文化財建造物の保存修理にも指導的役割を果たした。これらの業績により03年に旭日中綬章を受章、10年には「日本建築史に関する研究・教育と建築文化遺産保存活動の功績」にて日本建築学会大賞を受賞した。 上記以外の主な著作に、『室町建築』(日本の美術199 至文堂、1982年)、『近世建築の生産組織と技術』(編著 中央公論美術出版、1984年)、『建築指図を読む』(中央公論美術出版、1988年)、『近世上方大工の組・仲間』(思文閣出版、1997年)などがあり、調査報告書の執筆や編集も数多く担当している。

田中三蔵

没年月日:2012/02/27

読み:たなかさんぞう  ながらく朝日新聞東京本社にて、同紙の美術記事を担当したジャーナリスト田中三蔵は、膵臓がんのため2月27日死去した。享年63。 1948(昭和23)年8月2日、神奈川県川崎市に生まれ、幼少期を東京ですごす。67年3月、東京教育大学附属高等学校を卒業。74年、東京藝術大学美術学部芸術学科を卒業、日本彫刻史を専攻した。同年4月、朝日新聞社に入社、高松支局に配属される。79年5月、同社大阪本社学芸部に異動。同社では、家庭面を担当した後、主に娯楽面で落語、漫才を中心とする大衆芸能を担当した。88年10月に東京本社に異動するまでの間、寄席から小さな落語会まで取材にまわり、やがて関西の落語家桂米朝、その一門の落語家たちをはじめ、多くの落語家、漫才師とも親しく交友しながら記事を執筆し、やがて落語家からも一目を置かれるようになった。 東京本社異動後は、はじめ家庭面を担当し、1990(平成2)年1月に雑誌『アエラ』編集部に勤務。91年5月、東京本社学芸部に戻り、文化面にて美術を担当することになる。95年7月に美術担当の編集委員となる。2008年8月2日に定年退職し、引き続き同本社専門シニア・スタッフとなる。病気療養中の10年12月、在職中に執筆した数多くの記事の中から107件を選定してまとめた『駆けぬける現代美術』(岩波書店)を刊行。また、日本大学芸術学部大学院(2002年4月から)、女子美術大学大学院で非常勤講師として教育にあたった。 田中は在職中、とりわけ美術担当記者として同紙に展覧会評、時評、論説等にわたる記事を1500件以上執筆した。90年代から2000年初頭の在職中に執筆した記事の中には、日本の近代美術の見直しと並行して「日本画」概念の再検討と新しい表現の出現のレポート、国立博物館、美術館の独立行政法人化の問題に関する連載、アジア諸地域の経済的な台頭を背景にしたアジアの現代美術のレポート等々、いずれも問題提起をこめた内容であり、現在でも印象に残る。美術ジャーナリストとしての視点は、上記の著作の「後書きにかえて」中で記されているとおり、「美術は進歩しない。拡大する」という認識と「美術の歴史は作家だけではなく、享受者がともに作る」という確信に基づくものであった。その確信は、田中自身「愚直に」を念頭に書いているが、地道な取材をもとに思考しながら書き続けたことから築きあげたものであった。つねに広い視野からの平衡感覚と、目まぐるしく変転する同時代の美術を見ながらも歴史意識をわすれていないために、田中の執筆した多くの記事は、今後も同時代の証言として残ることであろう。没後の12年4月12日、関係者により東京中央区銀座にて「田中三蔵さん お別れの会」が開催され、多くの美術関係者が集まった。

山口桂三郎

没年月日:2012/01/17

読み:やまぐちけいざぶろう  浮世絵研究者で国際浮世絵学会会長の山口桂三郎は1月6日、東京国立博物館での中国故宮博物院展開会式出席の後に転倒して救急治療を受けたが、1月17日未明に心不全のため死去した。享年83。 1928(昭和3)年11月3日、東京千代田区に生まれる。生家は駿河台ホテルを営んでいた。本名は昭三郎。桂三郎は自らの好む桂の字を入れた筆名である。明治大学史学科で神道美術を中心に学び、57年、明治大学大学院史学専攻修士課程を修了。59年に「雪舟」(『駿台史学』9号)を発表。60年、同博士課程を修了。59年12月「垂迹画の特長」(『美学』43号)を、61年には「拝殿と能舞台-万祥殿の建築について-」(『風俗』1巻2・3号)、62年には「板絵春日曼荼羅・仏涅槃図解説」(『国華』840号)、「風俗資料としての神道絵画」(『風俗』2巻2・3号)を発表するが、藤懸静也と出会って浮世絵の研究に進む。日本浮世絵協会に所属して、研究者のみならず、浮世絵版画の工房や技術者、愛好家や美術商をも含む浮世絵界全体を盛り立てるべく尽力し、会誌『浮世絵芸術』の編集発行に長く携わった。61年より日本大学、戸板女子短期大学、東洋大学、明治大学等にて非常勤講師をつとめて浮世絵について教授し、76年に立正大学教養学部助教授となり、80年に同教授となった。1991(平成3)年に日本浮世絵協会理事長となり、また同年から10年間、櫛形町春仙美術館館長をつとめた。98年日本浮世絵協会が国際浮世絵学会に改組されるにあたり、同会会長となり、国際浮世絵大会の実施、平成の浮世絵事典の編集刊行、学会企画の浮世絵展の実施を目標に掲げ、国際学会の開催や2008年に学会編による『浮世絵大事典』(東京堂出版)の刊行を実現させた。一方、衰退していく浮世絵制作技術を残し、次代に継承しようと、日本の伝統工芸品としての浮世絵の評価の確立に尽力。浮世絵の支持体である和紙製造、木版画の版木作成、摺りの技術の伝承のために、92年の東京伝統木版画協会の発足に参加し、「江戸木版画」が東京都伝統工芸品の指定を受けるのに寄与した。また、98年から04年まで安藤広重の「名所江戸百景」120景の復刻事業に参加し、それらの復刻作品の展覧会開催にも尽力して浮世絵作成技術の伝承と作品の普及につとめた。07年に「江戸木版画」が経済産業省の「伝統的工芸品」に指定される際にも、同省への説明に出向いている。99年3月に立正大学を定年退職して同名誉教授となり、長年の研究をまとめた「浮世絵における美人・役者絵の史的研究」で04年、立正大学より文学博士号を取得した。能楽にも造詣が深く、特権階級の文化や信仰にまつわる造形への理解を踏まえて、市井の人々の生活と深く結びついた浮世絵について考究し、その普及につとめた。著作には以下のようなものがある。『浮世絵名作選集19 江戸名所』(日本浮世絵協会編、山田書院、1968年)『東洋美術選書 広重』(三彩社、1969年)『浮世絵大系7 写楽』(編集製作:座右宝刊行会、集英社、1973年)『浮世絵大系11 広重』(同上、1974年)『浮世絵概論』(言論社、1978年)『浮世絵聚花4 シカゴ美術館 1』(鈴木重三と共著、小学館、1979年)『浮世絵聚花11 大英博物館』(楢崎宗重と共著、小学館、1979年)『浮世絵聚花12 ギメ東洋美術館・パリ国立図書館』(小学館、1980年)『原色浮世絵大百科事典6-9巻』(浅野秀剛と共著、大修館書店、1980-82年)『肉筆浮世絵 清長 重政』(集英社、1983年)『写楽の全貌』(東京書籍、1994年)『東洲斎写楽』(浅野秀剛・諏訪春雄と共著、小学館、2002年)

辻佐保子

没年月日:2011/12/24

読み:つじさほこ  西洋美術史研究者で、初期・中世のキリスト教美術研究において多大な功績を残した辻佐保子は、12月24日東京都港区高輪の自宅で死去した。享年81。 1930(昭和5)年11月21日愛知県名古屋市に生まれる。50年3月愛知県立女子専門学校英文科卒業、同年4月東京大学文学部美学美術史学科に入学。吉川逸治に師事する。 54年4月、同大学大学院人文科学研究科修士課程(美術史学専攻)に入学、57年4月同博士課程に進学する。同年10月、フランス政府給費留学生としてパリ大学高等学術研究所(エコール・デ・オート・ゼチュード)に留学、アンドレ・グラバアルに師事。1961(昭和36)年10月、パリ大学に博士論文(Etude iconographique des reliefs des portes de Sainte-Sabine a Rome,Paris,1961)を提出し、博士号を取得。同年12月に帰国し、62年より日仏学院(~66年)、64年より武蔵野美術大学(~66年)で講師を勤める。1966(昭和41)年4月、フランス政府招聘研究員として再度渡仏。パリ大学高等学術研究所に在籍し、『コトン・ゲネシス』(ブリティッシュ・ライブラリー所蔵)の研究にあたった。同年12月の帰国後は、東京教育大学、聖心女子大学、広島大学、武蔵野美術大学、日本女子大学の非常勤講師を歴任。1971年11月より名古屋大学文学部美学美術史学科助教授、77年5月に同教授となる。1989(平成元)年4月、お茶の水女子大学文教育学部哲学科教授に転任、96年3月に退官。 95年、イタリア政府より国家功労賞カヴァリエーレ・ウフィツィアーレ(上級騎士勲位章)、2003年、フランス政府より教育功労賞オフィシエ勲位章を受章。名古屋大学およびお茶の水女子大学名誉教授。 東西初期キリスト教美術、ビザンティン美術、西欧初期中世美術、ロマネスク美術を主な研究対象とし、なかでも、古代から中世の転換期におけるキリスト教美術の図像成立について、誕生の契機や主題の解明に心血を注いだ。聖書、外典、教父の説教集などのテキストに密着した図像の成立を自ら「イコノゲネシス」(図像生成)と命名、写本挿絵、石棺、カタコンベ、教会堂装飾、象牙浮彫などを綿密に比較検討し、時に複雑に絡み合い発展していくキリスト教美術成立期の様を明らかにした。それらは、主著5冊、日本語論文50点、欧文論文11点等に発表されている。 『古典世界からキリスト教世界へ―舗床モザイクをめぐる試論―』(岩波書店、1982年)では、床面モザイク装飾を対象に、初期キリスト教美術が、古典古代からあるいはユダヤ教を通じて取り入れた図像を詳細に検討し、図像解釈やプログラムの解明にあたるとともに、「上下の投影」「90度の投影」という独自の視点を用いて、床面装飾と壁面及び天井装飾が相互に及ぼす影響関係を明らかにし、同年のサントリー学芸賞を受賞した。 また、仏語の博士論文は、半世紀にわたる追記の末、2003年に日本語版として『ローマ サンタ・サビーナ教会木彫扉の研究』(中央公論美術出版)を出版、2004年度の地中海学会賞を受賞している。主要な研究書はほかに『ビザンティン美術の表象世界』(岩波書店、1993年)『中世写本の彩飾と挿絵―言葉と画像の研究』(岩波書店、1995年)『ロマネスク美術とその周辺』(岩波書店、2007年)。このほか美術全集などの執筆にも数多く携わり、名も無き画家たちに時に温かなまなざしを向けながら、その魅力を世に広めた。 また、作家辻邦生の妻として公私にわたり夫を支え、『辻邦生のために』(新潮社、2002年)『「たえず書く人」辻邦生と暮らして』(中央公論新社、2008年)などを刊行している。 2012年、故人の遺志により、遺産の一部が美術史学会に寄付された。同学会は辻佐保子美術史学振興基金運営委員会を設立。2013年度よりこの基金を用いて、日本における美術史学の振興のため、毎年1回、高名な外国人研究者等を招聘し、Sahoko Tsuji Memorial Conferenceが企画、実施されることとなった。

遠藤幸一

没年月日:2011/12/07

読み:えんどうこういち  美術史研究者で、高岡市美術館長であった遠藤幸一は12月7日肝不全のため、東京都内の病院で死去した。亨年61。 1950(昭和25)年東京に生まれる。本名宮野幸一。69年3月、東京都立日比谷高等学校を卒業。74年3月、東京藝術大学美術学部芸術学科を卒業。77年3月、同大学大学院美術研究科修士課程(日本東洋美術史専攻)を修了。同年4月から9月まで同大学院研究生、翌10月から78年3月まで同大学非常勤講師を務める。78年4月から富山大学教育学部講師(美学・美術史担当)となる。82年12月、同大学同学部助教授となり、1995(平成7)年3月まで勤務。教育活動としては、他に金沢美術工芸大学、山野美容芸術短期大学、群馬県立女子大学、東京理科大学等で非常勤講師を務めた。93年6月から2002年3月まで、高岡市美術館収集美術品選考委員を務め、02年4月から同美術館長となり、長らく館長として勤務していたところ現職で急逝した。 大学では教育にあたりながら、専門とする長谷川等伯研究では、生誕地である能登の地域と時代背景を検証考察するために、作品と文献資料を丹念に渉猟し、下記の諸論文等において春信時代の実像に迫り、斯界の研究の進展に寄与した。また、高岡市美術館の館長に就任してからは、美術館人として、近世から現代美術まで多岐にわたる企画展を担当しながら、同美術館「友の会」をはじめ、市民の視線にたちながら美術の普及事業に熱心にあたった。没後の平成24年2月5日に高岡市内で開かれた「遠藤幸一館長を偲ぶ会」には、個人の明るく温厚な人柄と美術館における幅広い活動を偲んで、300人をこえる参加者があった。主要論文・評論等「長谷川信春と能登(一) 信春の出自及び能登の政治的文化的宗教的状況」(『富山大学教育学部紀要A(文系)』28号、1980年3月)「長谷川信春と能登(二)」(『富山大学教育学部紀要A(文系)』29号、1981年3月)「長谷川信春と能登(三)」(『富山大学教育学部紀要A(文系)』30号、1982年3月)「新出「信春」印・「法印日禛」銘高僧図について」(『富山大学教育学部紀要A(文系)』31号、1983年3月)「長谷川信春筆大法寺仏画攷-日蓮宗十界曼荼羅の伝統と信春作品」(久保尋二編『芸術における伝統と変革』、多賀出版、1983年12月)「第四章 戦国期の越中 第五節 戦国期の社会と文化」(分担執筆)(『富山県史 通史編Ⅱ 中世』、富山県、1984年)「長谷川信春と能登(四)」(『富山大学教育学部紀要A(文系)』36号、1988年3月)「第一章 御細工所の沿革」(分担執筆)(『加賀藩御細工所の研究』(一)、金沢美術工芸大学 美術工芸研究所、1989年)「批評 洋画 四人から洋画の問題を考える」(『展』2号、能登印刷・出版部、1991年12月)「展評 洋画 『完成度』の上に求めるもの」(『展』3号、能登印刷・出版部、1992年6月)「展評 洋画 芸術家の才気とは」(『展』4号、能登印刷・出版部、1993年3月)「第五章 御細工所と加賀の工芸 第二節「御用内留帳」に見る工芸職種 四 象眼細工、六 塗物細工、七 絵細工」(分担執筆)(『加賀藩御細工所の研究』(二)、金沢美術工芸大学 美術工芸研究所、1993年)分野別専門委員(美術・工芸)(『富山大百科事典』上、下巻、北日本新聞社、1994年)「結城正明の画業と大観」(『富山県水墨美術館開館記念特別展 横山大観展』図録、富山県水墨美術館、1999年4月)「大角勲芸術の歩み」(『大角勲 天・地・生・命』展図録、高岡市美術館、2004年6月)「沿革と十年の総括・展望」(『高岡市美術館年報 2004年』、高岡市美術館、2005年)座談会「第三十七回日展-新たなる歩み」(『日展ニュース』119号、2005年12月)「『若き日の長谷川等伯』展によせて」(『若き日の長谷川等伯』展記録集、2006年10月)「富山県俊英作家にみる日本画の最前線」(『日本画の最前線―富山・俊英作家たちの軌跡』展図録、高岡市美術館、2007年2月)シンポジウム「日本画の最前線―富山・俊英作家たちの軌跡-シンポジウム『日本画の可能性』」(『PATIO』25号、2007年5月)「左右は展示のポイント」(『PATIO』26号、2008年3月)「嶋田しづの作品とあゆみ」(『嶋田しづ 第15回井上靖文化賞受賞記念-画業60年の歩み』展図録、高岡市美術館、2008年6月)編集委員『ふるさと美術館 愛蔵版』(北國新聞社、2009年8月)「~鳳凰鳴き文化の華ひらく~『高岡の名宝展』によせて」(『高岡の名宝展~鳳凰鳴き文化の華ひらく~-前田家と瑞龍寺・勝興寺を中心に-』図録、高岡市美術館、2009年9月)「池田太一さんの画業」(『池田太一展』図録、滑川市立博物館、2009年10月)「(コラム)能登畠山家の文化と盛衰」(『別冊太陽 日本のこころ166 長谷川等伯 桃山画壇の変革者』、2010年2月)「東山庵グループコレクションの精華」(『安土桃山・江戸の美~知られざる日本美術の名品~東山庵グループコレクション』展、高岡市美術館、2010年9月)「日本美術のススメ 今月の逸品『桜下遊楽風俗図』」(『美術の窓』325号、2010年10月)

杉山二郎

没年月日:2011/11/30

読み:すぎやまじろう  美術史家の杉山二郎は11月30日、膵臓がんのために死去した。享年83。 昭和3(1928)年9月14日、東京府に生まれる。54年東京大学美学美術史学科を卒業し、55年奈良国立文化財研究所美術工芸室に勤務した。この時期は、天平時代の美術を中心に研究していたが、一方で、正倉院御物などを通じて東西交渉史に強い関心を覚え、中央アジアの発掘、イランのサーサーン朝やパルティア朝の美術、ヘレニズムの東漸などに関わる種々の書物を読みふけり、これがその後の学問的関心の素地を作った。 60年東京国立博物館学芸部に転じ、東洋課の東洋考古室長、西アジア・エジプト室長などを勤めた。『東京国立博物館図版目録 大谷探検隊将来品篇』の編集刊行(1971年)、『特別展観 東洋の古代ガラス―東西交渉史の視点から―』の開催(1978年)及び図録刊行(1980年)など、東洋美術や東洋考古に関する陳列品の収集、保管、展示、種々の展覧会の企画、運営に関わった。68年の東洋館開館に関わる諸事業にも携わった。 この時期に、西アジアやシルクロード、中国などにおける現地調査を数多く行ったが、とくに東京大学のイラク・イラン遺跡調査団に参加し、現地の発掘調査を行ったことは貴重な経験となった。江上波夫を団長とする第一次遺跡調査では、65年とその翌年のテル・サラート遺跡第1号丘と第5号丘の発掘、タル・イ・ムシュキの発掘、ターク・イ・ブスターンの測量調査などに参加、深井晋司を団長とする第二次遺跡調査では、76年のハリメジャン遺跡の発掘、テル・サラート遺跡第1号丘、第2号丘の発掘に、78年のラメ・ザミーンの発掘調査、ターク・イ・ブスターンの測量調査に参加した。 彼は多くの著作を残した。68年に刊行した『大仏建立』により、69年に毎日出版文化賞を受賞した。彼の関心は美術や考古にとどまらず、日本における人間性(ユマニテ)の育成の歴史、芸術よりみた日本精神史の研究にまで及んでおり、それに関わる多くの著作がこの時期に成っている。もともと医科志望であったためか、木下杢太郎や森鴎外など、医者であり、かつ文化や芸術の探究者に対して強い親和力をもつ。木下杢太郎を対象として、近代における日本人の人格形成のプロセスを追った『木下杢太郎 ユマニテの系譜』(1974年)はまさにその傾向を強く映している。 博物館を退いた後、88年に長岡技術科学大学工学部教授、1991(平成3)年に佛教大学文学部教授、96年に国際仏教学大学院大学教授を勤め、2002年に退任した。主な著書『天平彫刻』日本の美術15(至文堂、1967年)『大仏建立』(学生社、1968年)『鑑真』東洋美術選書(三彩社、1971年)『カラー大和路の魅力 寧楽』(写真:入江泰吉)(淡交社、1972年)『木下杢太郎 ユマニテの系譜』(平凡社、1974年)『正倉院 流沙と潮の香の秘密をさぐる』(ブレーン出版、1975年)『西アジア南北記 沙漠の思想と造形』(瑠璃書房、1978年)『オリエント考古美術誌 中東文化と日本』NHKブックス(日本放送出版協会、1981年)『オリエントへの情熱 自叙伝的試み』(福武書店、1983年)『仏像 仏教美術の源流』(柏書房、1984年)『極楽浄土の起源 祖型としてのターク・イ・ブスターン洞』(筑摩書房、1984年)『風鐸 歳時風物誌』(瑠璃書房、1985年)『大仏以後』(学生社、1987年)『遊民の系譜 ユーラシアの漂泊者たち』(青土社、1988年)『真贋往来 文化論的視点から』(瑠璃書房、1990年)『日本彫刻史研究法』(東京美術、1991年)『遊牧と農耕の峡にて ユーラシア精神史考』(学生社、1993年)『天平のペルシア人』(青土社、1998年)『仏教文化の回廊』(青土社、1994年)『大仏再興』(学生社、1999年)『善光寺建立の謎 日本文化史の探究』(信濃毎日新聞社、2006年)『仏像がきた道』(青土社、2010年)『山紫水明綺譚 京洛の文学散歩』(冨山房インターナショナル、2010年)共編著 『批評日本史 政治的人間の系譜1 藤原鎌足』(梅原猛、田辺昭三と共著)(思索社、1972年)『批評日本史 政治的人間の系譜4 織田信長』(会田雄次、原田伴彦と共著)(思索社、1972年)『毒の文化史 新しきユマニテを求めて』(山崎幹夫と共著)(講談社、1981年)『世界の大遺跡7 シルクロードの残映』(共著)(講談社、1988年)翻訳『考古学探検家スタイン伝』(J.ミルスキー著、共訳)(六興出版、1984年)『長春眞人西遊記 王観堂静安先生校注本』(李志常、校註)(国際仏教学大学院大学、2002年)

田中千秋

没年月日:2011/09/30

読み:たなかちあき  兵庫県立美術館保存・修復グループリーダーの田中千秋は9月30日に死去した。享年54。 1957(昭和32)年7月5日、鳥取県米子市に生まれる。76年大阪府立千里高等学校を卒業後、77年に早稲田大学第二文学部美術科に入学、西洋美術史を専攻し82年に同大学を卒業。81~83年に老舗額縁店である古径、83~84年に八咫家での勤務を経て、85年に山領絵画修復工房に入り、油彩画修復に携わる。88年からはブリヂストン美術館学芸部で保存修復を担当。2001(平成13)年に兵庫県立美術館に移り、保存修復グループのリーダーとして活躍した。93~98年に女子美術大学、2000年より東北芸術工科大学で非常勤講師を務めている。 ブリヂストン美術館では、86年より進められていた同館所蔵のレンブラント「聖書あるいは物語に取材した夜の情景」(旧題「ペテロの否認」)共同研究プロジェクトに参加。93年には特集展示「隠された肖像―美術品の科学的調査」を担当し、東京国立文化財研究所の協力のもと科学的調査に基づいた油彩画の展観を行なった。95年1月17日に発生した阪神大震災に際しては、全国美術館会議に働きかけて被災地の美術館・博物館への救援隊を結成、所蔵品の救援活動や被害調査を率先して行なう。その後の同会議による被害の総合調査でも保存担当学芸員として中心的な役割を果たし、同年9月と翌96年5月に報告書を刊行。所属するブリヂストン美術館の館報でも、被害調査をふまえた具体的な地震対策を講じている。一方で「日本の美術館、ここが悪い」(『あいだ』53号、2000年)からうかがえるように、その言動は日本の美術館を取り巻く現状への批判的な眼差しに貫かれたものだった。 01年に兵庫県立美術館へ移った後も、所蔵品の保存修復や本多錦吉郎「羽衣天女」(同館蔵)等の光学調査を実施。また11年3月11日に発生した東日本大震災に際しても、全国美術館会議の文化財レスキュー活動に参加、4月には津波の被害を受けた石巻文化センターの絵画・彫刻約200件を移送、応急処置を始める。同じく津波で甚大な被害を受けた陸前高田市立博物館のレスキューでも、救出した作品の応急処置を行なう旧岩手県衛生研究所の環境整備を検討するなど貢献するが、その最中での突然の死は関係者に大きな衝撃を与えた。

町田章

没年月日:2011/07/31

読み:まちだ あきら  考古学者の町田章は7月31日、肺がんのため死去した。享年72。 1939(昭和14)年2月5日、香川県善通寺市に生まれる。62年に関西大学文学部史学科東洋史専攻を卒業後、立命館大学大学院文学研究科に進学。64年4月に奈良国立文化財研究所に入所する。86年平城宮跡発掘調査部長に就任、1994(平成6)年からは京都大学大学院人間・環境学研究科文部教官を四年間併任。98年に文化庁文化財保護部文化財監査官となり、翌年4月から奈良国立文化財研究所長、独立行政法人文化財研究所理事・奈良文化財研究所長(2001年)、文化財審議会専門委員、同法人理事長(2004年)をへて、2005年3月に同理事長・所長を退任する。 立命館大学大学院在学中には、白川静に師事して東洋史、東洋思想史を学び、中国古代墓葬の研究をおこなった。一方、奈良国立文化財研究所の榧本亀治郎の指導のもと『楽浪漢墓』の報告書作成に関わったことで、榧本に推挙され64年に奈良国立文化財研究所に入所する。前年に設立したばかりの平城宮発掘調査部に配属されるが、65年から二年間、文化財保護委員会事務局記念物課に出向し、全国的な開発に伴う埋蔵文化財保護行政の基礎づくりに携わった。研究所に戻ってからは平城京の発掘調査に従事した。発掘調査報告書では、平城宮の東北に位置するウワナベ古墳と平城京条坊との関係を明らかにし(『平城宮跡発掘調査報告書Ⅵ』、奈良国立文化財研究所、1974年)、平城宮の中枢部である第一次大極殿地区の発掘成果をまとめ、その変遷と歴史的意義を世に問うた(『平城宮跡発掘調査報告書Ⅺ』、同所、1981年)。86年『平城京』(ニューサイエンス社)では、三十年ちかい平城京調査の全容をまとめ、専門家だけでなく一般読者にむけて平城京の重要性を紹介した。 高松塚古墳の壁画が発見された72年に「唐代壁画墓と高松塚古墳」(『日本美術工芸』405号)を発表し、この壁画が唐の影響を強く受けていたことをいち早く指摘した。この研究は、のちに東アジアにおける装飾墓を総括した86年『古代東アジアの装飾墓』(同朋舎)に結実する。95年「胡服東漸」(『文化財論叢Ⅲ』、奈良国立文化財研究所)は高松塚古墳の人物像に代表される日本古代の服装を東アジアの服制に位置づけたものである。 研究所で金属器・木器を中心とする遺物整理を担当したことから、日本古代の装飾具や武器へと関心を広げる。70年「古代帯金具考」(『考古学雑誌』第56巻第1号)では、古墳出土の帯金具の系譜を中国、朝鮮にもとめた。帯金具に端を発した研究は古墳時代の装身具全般におよび、97年『日本の美術 第371号 古墳時代の装身具』(至文堂)を刊行した。姫路市宮山古墳出土の鉄器類を整理する過程で環刀を発見し、76年「環刀の系譜」(『研究論集Ⅲ』、奈良国立文化財研究所)では、中国における環刀の変遷を明らかにした。 平城京の調査研究に従事する傍ら、70年代には漢墓を中心とする論考もいくつか発表する。文化大革命終結後間もない78年には、関西の文化財行政に携わる考古学者を率いて北京、安陽、洛陽、西安、広州の遺跡・遺物を調査した。81年「隋唐都城論」(『東アジア世界における日本古代史講座』第5巻、学生社)は、文献史料と発掘成果から隋唐都城の構造を明らかにしたもので、日本古代都城との構造比較を見据えた論考である。 91年には奈良国立文化財研究所と中国社会科学院考古研究所との間で「友好共同研究議定書」を取り交わし、「日中古代都城の考古学的比較研究」を課題とする本格的な日中共同研究を実現した。今日にいたるまで二十数年におよぶ共同研究の礎となった。98年『北魏洛陽永寧寺』(奈良国立文化財研究所)は共同調査の最初の成果報告である。また、ユネスコ世界文化遺産保護機構の参与として、唐長安城大明宮含元殿や中国新疆ウイグル自治区の交河故城の保護に尽力した。所長就任後は、漢長安城桂宮、唐長安城大明宮の発掘調査、唐三彩、三燕時代金属器の調査を指揮し、共同研究を推進した。こうした業績が評価され、03年には外国人として初の中国社会科学院栄誉教授となる。 所長の重責を負いつつも研究への情熱は衰えず、職務の合間をぬって完成させたのが、02年『中国古代の葬玉』と06年『中国古代の銅剣』の単著である。2つの大著は90年代以降の共同研究、70年代の刀剣研究に源を発し、それらを集大成したものといえよう。 町田の研究は中国考古学を基軸としている。平城京の調査、古墳時代から古代に至る遺物の研究では、その淵源を中国、朝鮮にもとめ、東アジア全体のなかに遺跡や遺物の歴史的意義を見出そうとする視点が常にあった。この背景には、文化大革命によって中国の遺跡や遺物を実見できない時期が長く続いたという不運な境遇もあっただろう。しかし、そうした逆境のなか、眼前にある日本の遺跡や遺物を中国考古学の知見と結びつけ評価する努力をつづけ、最終的に中国との共同研究を実現するまでに至ったのである。これら一連の業績により、09年には勲三等瑞宝中綬章を受章した。

藤田慎一郎

没年月日:2011/05/20

読み:ふじたしんいちろう  岡山県倉敷市の大原美術館の館長を30年以上にわたり務めた藤田慎一郎は、5月20日に呼吸不全のため亡くなった。享年91。 大正9(1920)年4月19日に東京都に生まれる。昭和13(1938)年3月、旧制広島県立福山誠之館中学校を卒業。その後結核を患い、療養生活後の47年8月に、親戚にあたる大原総一郎のすすめにより大原美術館に就職。大原美術館は、倉敷紡績株式会社などを経営する実業家大原孫三郎(1880-1943)によって30年11月に開館し、孫三郎の長男総一郎(1909-1968)によって継承発展した。50年11月、同美術館20周年記念行事を開催、梅原龍三郎、安井曾太郎、浜田庄司、河井寛次郎、武者小路実篤、志賀直哉、柳宗悦等を東京から招き、公開の座談会等が行われ、学芸員として諸行事の進行に務めた。以後、大原総一郎の片腕として、展覧会の企画実施、コレクションの拡充のための作品購入にあたった。51年2月、「現代フランス美術展(サロン・ド・メ日本展)」(日本橋高島屋)が開催、戦後のフランス美術が紹介されたことから、その出品作6点を購入したのをはじめとして、以後国内外の現代美術の収集に力を入れるようになり、藤田はその選定と購入につとめた。この現代美術収集は、戦後から現代につらなる国内美術館における先駆的な活動として特筆されるものである。61年7月、同美術館の副館長となり、64年に館長に就任。在職中は、近現代絵画をはじめ、民芸、工芸、古美術等にわたる広範な領域のコレクションの充実につとめるかたわら、展示室の拡大にも積極的にあたり、新館(現在の分館、1961年5月完成)、陶器館(現在の工芸館、同年11月完成)にはじまり、本館増設(現在の本館新展示室、1991年9月完成)まで、現在の同美術館のほぼ全体の施設作りを担当した。1998(平成10)年4月に館長を退任、相談役に就任。2002年に相談役を退任。 91年7月から97年6月まで全国美術館会議の会長を務め、また、ひろしま美術館、財団法人成羽町美術振興財団、倉敷民藝館等の理事などを歴任した。褒賞については、80年11月、フランス政府よりシュヴァリエ芸術文化勲章を受章。翌年11月に文部大臣表彰。88年に第46回山陽新聞賞(文化部門)受賞。89年、平成元年度倉敷市文化連盟賞、91年には文化の向上に貢献したことで第44回岡山県文化賞を受賞。98年10月、公共奉仕の精神をもって地域社会に貢献した者を顕彰する岡山県の第31回三木記念賞を受賞。 編著には、『大原美術館 岡山文庫10』(日本文教出版、1966年)をはじめ、同美術館、ならびにコレクションに関する刊行物についての著述が多い。その中で『大原美術館と私―50年のパサージュ―』(松岡智子編、山陽新聞社、2000年)は、長時間にわたるインタビューをまとめたものであるが、内容は同美術館の戦後からの歴史と同時にコレクションの形成史になっており貴重な証言である。

有光教一

没年月日:2011/05/11

読み:ありみつきょういち  朝鮮考古学者で京都大学名誉教授の有光教一博士は5月11日、膿胸のため死去した。享年103。 1907(明治40)年11月10日、山口県豊浦郡長府村(現、下関市)に生まれた。1925(大正14)年3月大分県中津中学校卒業、同年4月福岡高等学校入学、1928(昭和3)年4月京都帝国大学文学部史学科入学。翌年、当時日本で唯一同大に開設されていた考古学専攻に進学し、31年3月に卒業する。専攻進学以降、大学に在籍した三年半にわたり主任教授の濱田耕作、また梅原末治から指導を受けたことが朝鮮考古学に傾倒する大きなきっかけとなった。 31年4月、引き続き京都帝国大学大学院に入学するとともに副手として考古学研究室に勤務するが、同年8月には濱田の斡旋により朝鮮古蹟研究会助手として採用され、朝鮮半島に赴く。さらに9月には慶州勤務の朝鮮総督府古蹟調査事務嘱託となり、二年ほどの間、慶州皇南里82・83号墳、金仁問墓碑、忠孝里古墳群、南山仏蹟、皇吾里16・54号墳、路西里215番地古墳などの調査・整理作業を実施する。33年1月に京城の総督府博物館勤務指示を受け3月にソウルに転出した後は、半島各地での調査のほか、遺跡遺物の文化財指定に関する準備作業、博物館の展示などを担当する。37年10月に朝鮮総督府学務局技手嘱任、41年6月には藤田亮策の後を受け、朝鮮総督府学務局社会教育課古蹟係主任および朝鮮総督府博物館主任兼務となり、実質的な総督府博物館長として戦時下の博物館運営管理を担った。さらに戦況の悪化により館に被害が及ぶ危険性が高まると、総督府の協力が得られない中、わずかな人数の館員で手持ち、列車輸送による収蔵品の扶餘・慶州分館疎開を行った。 日本敗戦直後の45年9月、米軍政庁統治下で氏以外の日本人博物館職員はすべて罷免され、韓国側担当となった金載元博士を補佐して疎開品の回収や国立博物館への引継ぎと再開館準備を行った。12月に軍政期国立博物館は無事開館したものの、その後も博物館運営および発掘調査指導のため米軍政庁文教部顧問として残留を余儀なくされ、この間には混乱下にあった民間所在文化財の散逸拡散防止に腐心し、また好太王の銘が鋳出された青銅椀が出土したことで知られる路西里140号墳(壺 塚)の発掘を国立博物館メンバーと行い、調査を終えた46年6月にようやく帰国を果たした。 引揚後の同年10月にG・H・Q九州地区軍政司令部顧問(民間教育課文化財担当)、また49年10月に福岡県教育委員会事務局嘱託となり九州各県の文化財調査を実施、50年3月に京都大学講師、また同年9月にはカリフォルニア大学ロサンゼルス校東洋語学部講師として渡米、帰国後の52年12月に京都大学文学部助教授、56年8月に京都大学文学博士学位を授与され(学位論文「鉄器時代初期の朝鮮文化:石剣を中心とした考察」)、57年3月京都大学文学部教授就任、71年3月に京都大学を定年退官する。73年6月に奈良県立橿原考古学研究所副所長に迎えられ、80年11月に同研究所所長就任(1984年3月まで)、また1989(平成元)年11月には創設者である鄭詔文たっての希望により高麗美術館研究所所長となり、以降亡くなるまでの二十二年間、同研究所所長を務めた。 氏は、戦前は現地において、戦後は梅原考古資料(朝鮮之部)の整理などによって、新石器時代から青銅器時代を中心に、朝鮮半島各時代の幅広い遺跡遺物について調査研究を精力的に進められ、単著には『朝鮮磨製石剣の研究』(京都大学文学部、1959年)、『朝鮮櫛目文土器の研究』(京都大学文学部、1962年)、『有光教一著作集』第1~3巻(同朋舎出版、1990~99年)、『朝鮮考古学七十五年』(昭和堂、2007年)などが、また多数の共著や論文がある。発刊に携わった発掘調査報告には、氏が戦前の発掘時に勤務地の異動や戦前戦後の混乱といった事情のため報告できずにいた慶州皇吾里16号墳他の発掘調査記録を、齢90歳を超えてから韓国語を主語として発刊した『朝鮮古蹟研究会遺稿』Ⅰ~Ⅲ(東洋文庫、2000~03年)を始め、戦前に朝鮮総督府や朝鮮古蹟研究会から出版された多くの報告書類等がある。 これら一連の業績により、78年に勲三等旭日中綬章、2000年に京都新聞大賞文化学術賞が授与された。 氏は一般に、朝鮮考古学者として標榜されることが多いが、その活動は上述のように、朝鮮半島における戦前の総督府博物館の維持管理から戦後の国立博物館の成立に至る博物館業務、さらに大学退官後の橿原考古学研究所所長・副所長、高麗美術館研究所所長としての長年の活動など、様々な文化財の保全や博物館・美術館の維持発展に尽力された博物館人でもあった。 自身の半生を回顧した「私の朝鮮考古学」(1984-87年、『季刊三千里』に連載)の最後で氏は、「「私の朝鮮考古学」のすべてが現代史である」と述懐されている。日本と大韓民国にとって最も困難な時代をその中心で生き抜き、そして終生両国の人々からの信頼と敬愛を保ち続けたその生き方は、学問業績に勝るとも劣らない大きな価値を放っている。

多木浩二

没年月日:2011/04/13

読み:たきこうじ  評論家の多木浩二は4月13日、神奈川県平塚市の病院で肺炎のため死去した。享年82。 1928(昭和3)年12月27日、兵庫県神戸市に生まれる。57年東京大学文学部美学美術史学科卒業。名取洋之助のスタッフとして『岩波写真文庫』の制作、編集に携わる。59年博報堂に入社。61年編集デザイン事務所ARBO(アルボ)を設立、旭硝子の広報誌『ガラス』の企画、編集、執筆、撮影を行なう。同誌関連での60年代におけるヨーロッパの建築体験が後に建築を考察する基盤となる。 美術評論では、55年第2回美術出版社芸術評論で「井上長三郎論」で佳作入選(『みづゑ』1955年8月号掲載)。その後、『美術手帖』、『デザイン』などに執筆をするようになる。60年代末の活動としては、日本写真家協会が主催した「写真100年展」(『日本写真史1840-1945』平凡社1971年に結実)の仕事を経て、中平卓馬、高梨豊らと68年に刊行した同人誌『PROVOKE―思想のための挑発的資料』(季刊、プロヴォーク社、3号まで)がある。彼らのブレボケ写真は既成のリアリズム写真を批判した。しかし90年代後半からの同誌への過大評価に対して、晩年多木は嫌悪に近い感慨をもっていた。 多木が扱う領域は建築、写真、美術、デザイン、都市と幅がひろい。主に関わった作家たちには、篠原一男、坂本一成、磯崎新、倉俣史朗、桑山忠明、楠本正明、大橋晃朗らの名があがってくるが、ミニマル系の系譜がみえてくる。彼の方向はジャンルを重層的に捉えているが、物と空間、そして社会との関係を深層の域から意識化していくことであった。初期の重要な著作『生きられた家』(田畑書店、1976年)は、初出は篠山紀信の写真集『家』に掲載されたテキストだが、単行本化、改訂を4度行ない、記号論的な思考を深化させていった。さらに『天皇の肖像』(岩波新書、1988年)、『写真の誘惑』(岩波書店、1990年)は、写真の芸術性よりも社会のなかに写真メディアが位置づけられる過程を問い、ベンヤミンを援用して論じていく。80年代に到り、モチーフは広がり、『絵で見るフランス革命』(岩波新書、1989年)で歴史論へと向かい、「やっとここまできた」と述懐していた。40数冊の書籍の多くが、青土社と岩波書店から上梓されており、身体論やキャプテン・クックなどへの広がりは、編集者三浦雅士との信頼関係によるところがある。1994(平成6)年からは八束はじめと季刊誌『10+1』(INAX出版)の編集を始める。美術論では、『神話なき世界の芸術家―バーネット・ニューマンの探究』(岩波書店、1994年)でアメリカ抽象表現主義の絵画を、『シジフォスの笑い―アンセルム・キーファーの芸術』(同、1997年、芸術選奨文部大臣賞)で歴史と絵画について考察した。さらに、60年代からモチーフとしていたデ・ステイルのなかから身体論(例えばリートフェルトの椅子)を含め、20世紀の特異な表象「抽象」について、モンドリアンの絵画をとおして考察していくことが晩年の課題であったが、形にはならなかった。日本近代絵画についての論考としては、靉光論「絵画というものの探求」(『靉光』展図録、練馬区立美術館他、1998年)などがある。教育者としては、67年和光大学助教授就任をはじめ、東京造形大学教授、千葉大学教授などを歴任した。著作目録については『建築と日常・別冊(多木浩二と建築)』(2013年)が参考となる。

鷹見明彦

没年月日:2011/03/23

読み:たかみあきひこ  美術評論家の鷹見明彦は3月23日、群馬県前橋市の病院で肝臓がんのため死去した。享年55。 1955(昭和30)年7月19日、北海道富良野市に生まれる。幼少時は広島で過ごし、10歳頃に東京都立川市に転居。絵を描くのが好きな少年だった。74年桐朋学園高校卒業。80年中央大学文学部哲学科卒業。20代後半から、音楽雑誌『中南米音楽』(後に『ラティーナ』と改称)に音楽、本、美術などの評論を執筆するようになる。84年同人誌『砂洲』を刊行。題字は中央大学在学中に交流をもった小川国夫が書いた。87年、作家の蔡國強と知り合い、『砂洲』に彼のテキスト「硝煙の彼方より」(山口守訳)を掲載する。90年代から、ギャラリー美遊、ガレリアラセンなどの企画に参加し、王新平、渡辺好明らの評論を執筆。90年頃から『美術手帖』に展覧会評を始め、評論活動が活発化する。1997(平成9)年から2000年まで、岩手芸術祭の現代美術部門の審査員を務める。98年、第3回アート公募’99企画作家選出展(天野一夫、西村智弘とともに)の審査に関わり、第6回まで務める。99年から東京藝術大学美術学部の油画科、以後同大先端芸術表現学科、彫刻科などで、また2000年からは茨城大学教育学部の非常勤講師を務める。03年から、表参道画廊の企画に関わり、水野圭介、坂田峰夫らの展覧会を企画する。同年、アートプログラム青梅の企画に参加。04年から07まで、武蔵野美術大学日本画学科の非常勤講師を務める。05年から『ホルベイン アーティスト ナビ』に毎月書評と映画評の連載を始める。鷹見は、環境、自然、神秘といったモチーフをもとに文明論を構想していた。書籍のかたちには至らなかったが、美術評論の数々は、彼と並走していた若い作家たちへのエールであり、その活動は病によって突然切断されてしまった。残された資料の一部は、東京文化財研究所に所蔵された。

瀬木慎一

没年月日:2011/03/15

読み:せぎしんいち  美術評論家の瀬木慎一は3月15日、肺炎のため死去した。享年80。 1931(昭和6)年1月6日、東京市京橋区(現、中央区)銀座に生まれ、豊島区目白台で育つ。生家は銀座で飲食店を営み、父が骨董収集を趣味としたため、近所の骨董屋によく同行した。幼少のころより教会に通い、初歩的な英語を習得する。10歳の時に父が戦死。44年から王子区(現、北区)十条の東京第一陸軍造兵廠で働く。このころ文学書、教養書を多読、特に万葉集や古今和歌集、世界名詩選のようなものに惹かれる。詩作もし、戦後は同人誌などに発表する。47年中央工業専門学校に入学、学制改革に伴い翌々年中央大学法学部に入学する。東宝の契約社員としてアニー・パイル劇場(現、東京宝塚劇場)に派遣され、脚本の翻訳、音楽の訳詩などの仕事に携わる。劇場の横にあったCIE(民間情報局)図書館で数年間アメリカの映画雑誌や美術書を読み、特にニューヨーク近代美術館の叢書などで西洋美術の勉強をする。一方自作の詩を見てもらったことを契機に小説家野間宏の知遇を得、野間の紹介で花田清輝、安部公房らを知る。岡本太郎、花田清輝らの前衛芸術運動「夜の会」に参加。49年「世紀」管理人となり、桂川寛とともにガリ版刷りパンフレット『世紀群』の制作責任者を担う。50年『世紀群』第3号でピート・モンドリアンの著述を翻訳した「アメリカの抽象芸術―新しいリアリズム」を発表。51年「世紀」が解散したのちに結核を患い、2年間秦野で療養生活を送る。大学を中退し、53年から『読売新聞』の展覧会評を執筆、のちに他紙でも執筆する。同年『美術批評』に初めての美術批評論文「絵画における人間の問題」を発表。54年「現代芸術の会」に参加。このころから養清堂画廊、東京画廊などの展覧会企画に携わる。57年渡仏、ミシェル・ラゴン、ハンス・アルプ、ジャン・デュビュッフェらと交友、同年イタリアで開催された国際美術評論家連盟会議に日本代表として参加。75年「現代美術のパイオニア」を『古沢岩美美術館月報』に連載開始、この連載を軸に翌々年東京セントラル美術館で「現代美術のパイオニア展」が開催される。77年東京美術研究所を西新橋・東京美術倶楽部内に創設し(1980年に総美社と社名変更)、『東京美術市場史』(東京美術倶楽部、1979年)の編纂にあたる。1990(平成2)年から『新美術新聞』で「美術市場レーダー」連載を開始(2011年まで)。この他に「今日の新人1955年」展(神奈川県立近代美術館、1955年、作家選出)、「世界・今日の美術」展(日本橋高島屋、1956年、展覧会委員)、シャガール展(国立西洋美術館ほか、1963年、実行委員)、ピカソ展(国立近代美術館、1964年、展覧会委員)、現代日本美術展(1964年から1971年まで、選考委員)、日本国際美術展(1959年から1965年まで、選考委員)、選抜秀作美術展(1966年まで、作品選定委員)、東京国際版画ビエンナーレ(1957年から1964年まで、展覧会委員)、東京野外彫刻展(1986年から1995年まで、選考委員)などの展覧会に携わる。また和光大学、女子美術大学、多摩美術大学、東京藝術大学で教鞭をとった。国際美術評論家連盟会長、ジャポニスム学会常任理事、国際浮世絵学会理事などを歴任。おもな著書に『現代美術の三十年』(美術公論社、1978年)、『戦後空白期の美術』(思潮社、1996年)、『国際/日本 美術市場総観』(藤原書店、2010年)など、総合美術研究所での編書に『全国美術界便利帳』(総美社、1983年10月)、『日本アンデパンダン展全記録1945-1963』(総美社、1993年6月)などがある。現代美術やデザインを論じる一方、社会的・経済的な視点から美術品取引の実態や、美術商・オークションの動向など美術市場を実証的に研究した。2009年日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴによりインタビューが行われ、同団体のウェブサイトに公開された。

中原佑介

没年月日:2011/03/03

読み:なかはらゆうすけ  美術評論家の中原佑介は3月3日、死去した。享年79。 1931(昭和6)年8月22日、兵庫県神戸市に生まれる。本名江戸頌昌(えどのぶよし)。神戸市立成徳国民学校、兵庫県立神戸第一中学校を卒業。中学校時代に相対性理論の解説書を読み理論物理学に惹かれる。48年旧制第三高等学校理科に入学、学制改革に伴い翌年京都大学理学部に入学。このころ理論物理学研究のためにロシア語を学び、エイゼンシュタインの映画論やマヤコフスキーの詩に傾倒。また当時「まやこうすけ」というペンネームで詩作もした。53年同物理学科を卒業、同大学院理学研究科に進学、湯川秀樹研究室で理論物理学を専攻。55年修士論文と並行して書いた「創造のための批評」が美術出版社主催第2回美術評論募集第一席に入選、雑誌『美術批評』に掲載される。湯川の紹介で平凡社に就職、『世界大百科事典』嘱託編集部員となるが、一年ほどで退職。上京してまもなく、安部公房に誘われ「現在の会」に参加、のちに「記録芸術の会」に参加。56年から『読売新聞』の展覧会週評を担当。63年「不在の部屋」展(内科画廊)を企画。このころから内科画廊、東京画廊、サトウ画廊、おぎくぼ画廊などの展覧会企画に携わる。66年「空間から環境へ」展(銀座松屋)に参加。68年「トリックス・アンド・ヴィジョン」展(東京画廊・村松画廊)を石子順造と、「現代の空間’68光と環境」展(神戸そごう)を赤根和生と共同企画。70年に第10回日本国際美術展(東京ビエンナーレ)「人間と物質」のコミッショナーを務める。75年から草月流機関誌『草月』に「現代美術入門」を執筆。82年から伊奈ギャラリー企画委員会に参加、その中心となり作家選定、会場構成、リーフレット『INA-ART NEWS』(1985年社名変更に伴い『INAX ART NEWS』と改題)への作家解説の執筆を行う。その他東京国際版画ビエンナーレ(1957年から1979年まで、展覧会委員、実行委員、組織委員)、長岡現代美術館賞(1964年から1968年まで、出品者選考審査員、受賞者選考審査員)、現代日本美術展(1966年から2000年まで、選考委員、ただし12回は除く)、パリ青年ビエンナーレ(1967年、コミッショナー)、サンパウロ・ビエンナーレ(1973年と1975年、日本館コミッショナー)、ヴェネツィア・ビエンナーレ(1976年と1978年、日本館コミッショナー)、現代日本彫刻展(1977年から2011年まで、選考委員、運営委員長、選考委員長)、富山国際現代美術展(1993年と1996年、日本セクションコミッショナー)、越後妻有アートトリエンナーレ(2000年から2009年まで、アートアドバイザー)など現代美術の展覧会にさまざまなかたちで携わる。京都精華大学学長、水戸芸術館美術部門芸術総監督、兵庫県立美術館館長、国際美術評論家連盟会長などを歴任。おもな著書に『ナンセンスの美学』(現代思潮社、1962年)、『現代彫刻』(角川書店、1965年)、『見ることの神話』(フィルムアート社、1972年)、『人間と物質のあいだ』(田畑書店、1972年)、『大発明物語』(美術出版社、1975年)、『80年代美術100のかたち』(INAX、1991年)などがある。2011(平成23)年大地の芸術祭における企画「中原佑介のコスモロジー」として、旧蔵書約3万冊が川俣正によってインスタレーションとして展示された。また同年から現代企画室とBankARTにより『中原佑介美術批評選集』が全13巻の予定で刊行されている。前出の「創造のための批評」では、批評は作家の創作の秘密を説明するにとどまらず、それを変革するためのものであると説き、戦後の美術批評の地平をひらいた。針生一郎、東野芳明と並んで美術批評の「御三家」と称され、若い世代の作家たちを大いに刺激し、晩年まで日本の現代美術界を牽引した。

小野寺久幸

没年月日:2011/03/01

読み:おのでらひさゆき  文化財(仏像)修理技師で、財団法人美術院常務理事であった小野寺久幸は3月1日、肝不全のため死去した。享年81。 1929(昭和4)年5月18日に宮城県本吉郡本吉町(現、気仙沼市)に生まれる。同県本吉郡小泉高等尋常小学卒業。小野寺の文化財(仏像)修理技師としての力量発揮を知らしめたのは、51年、神奈川県鎌倉市覚園寺における重要文化財の木造薬師如来および日光菩薩、月光菩薩の各坐像の保存修理からとみられる。54年には、東京国立博物館内の文化財修理室に勤務。翌年、美術院国宝修理所に就職した。以後、国宝・重要文化財の彫刻作品の修理に専従するとともに、現場において後進の育成に努めた。75年、財団法人美術院国宝修理所所長・常務理事に就任。79年、岐阜県文化財保護審議会委員に、1989(平成元)年には、財団法人川合芳次郎記念京都仏教美術保存財団理事に、91年には、東京藝術大学美術学部保存技術客員教授に、97年には、財団法人仏教美術協会理事に就任する。2000年、財団法人美術院国宝修理所所長を退き、常務理事専務に就任する。この間、88年から5年の歳月をかけて東大寺南大門の国宝金剛力士像二軀の本格解体修理に当って陣頭指揮を行う。その功績により、93年には、東大寺から「東大寺大仏師」の称号が授与された。また、文化庁長官表彰、および、第11回京都府文化功労賞を受ける。翌94年には、宮城県本吉郡本吉町名誉町民となる。95年には、第44回河北文化賞を受賞。96年には、長年にわたる文化財(仏像)修理と後進の育成の功績を認められて紫綬褒章を、03年には、勲四等旭日小綬章の栄誉を受ける。 この間の主な仏像修理は以下の通り。京都・妙法院三十三間堂・重要文化財木造千手観音立像1001軀(昭和48~61、平成2~12年度)、同・国宝木造千手観音坐像(湛慶作、昭和62年~平成元年度)、大分・国宝臼杵磨崖仏(昭和53・55~61、63~平成5年度、同10~12年度)、奈良・法隆寺国宝木造観音菩薩立像(百済観音、昭和55年度)、同・国宝木造観音菩薩立像(救世観音、昭和62年度)、同・国宝銅造薬師三尊像(金堂所在、平成2~3年度)、京都・教王護国寺講堂の国宝を含む諸尊像20軀(平成9~11年度)の本格修理を行う。また、大阪・観心寺如意輪観音像の模造(昭和49~56年度)、京都・寂光院地蔵菩薩立像の模造(平成13~17年度)をはじめ、兵庫・清澄寺大日如来坐像(平成2年度)、東京・長仙寺金剛力士像(同6~9年度)、愛知・鳳来寺薬師如来立像(同10年度)、奈良・桜本坊木造天武天皇坐像(平成19~21年度)の製作を手がけた。仏像修理を通じての知見については、「文化財の保存修理」(『美術院紀要』創刊号、1969年)、「「明月院塑造北条時頼像」の修理について」(『同』2号、1971年)、「群馬県・不動寺の石仏修理について」(『同』3号、1973年)、「文化財の損傷と修理について」(『同』5号、1980年)。「THE REPAIR OF THE WOODEN SCULPTURES」(『International Symposium on the Conservation and Restoration of Cultural Property』東京文化財研究所編、1983年)、「文化財の保存修理」(『日本藝術の創跡2010』世界文藝社、2010年)などがある。

門倉武夫

没年月日:2010/12/26

読み:かどくらたけお  保存科学分野の研究者である門倉武夫は12月26日、自宅にて急逝した。享年76。 1934(昭和9)年8月27日、東京都八王子市に生まれる。57年工学院大学を卒業後、同年、東京国立文化財研究所(現、東京文化財研究所)保存科学部化学研究室に就職。その後、78年以降、保存科学部主任研究官を経て、1993(平成5)年から保存科学部生物研究室室長を務める。また、東京国立文化財研究所を退官後は、東京国立文化財研究所名誉研究員となり、東京都埋蔵文化財センター嘱託研究員として研究を続けた。またその間、明治大学、和光大学、女子美術大学、東京学芸大学等で講師として文化財の保存科学について教鞭をとった。一貫して文化財の保存科学に生涯を捧げた。とくに、文化財を取り巻く大気環境調査や、大気汚染や酸性雨が文化財に及ぼす影響などについて調査を行い、大理石やブロンズ彫刻など、屋外の文化財の保存環境の研究に取り組んだ。また、ひたちなか市(旧勝田市)の虎塚古墳については、71年から文化財保存対策委員を務め、発掘の際の古墳の環境調査を担当するとともに、その後も毎年の点検に欠かさず参加し、その保存対策に終生貢献した。文化財の保存科学や人間に向き合う真摯な姿勢と、その温かい人柄から、年齢を問わず、多くの親交があり慕われた。 主要な研究業績は以下の通りである。  「上野公園内の大気汚染」(『古文化財の科学』17 1953年) 「大気汚染が文化財の及ぼす影響」(江本と共著、『分析化学』12,11 1963年) 「古文化財と空気汚染の諸問題」(『産業環境工学』31 1964年) “Exhibition of the wall-paintings on the tumulus Torazuka;The7th International Symposium on the Conservation and Restoration of Cultural Property and Analytical Chemistry,1966) 「如庵(国宝)及び旧正伝院(重文)の被覆燻蒸」(森八郎と共著、『古文化財の科学』20-21 1967年) 「ガスクロマトグラフィーによる収蔵庫内外の文化財環境調査」(江本と共著、『保存科学』8 1972年) 「奈良国立博物館における正倉院展展示環境調査」(江本と共著、『保存科学』8 1972年) 「万国博覧会美術館の展示環境調査」(江本と共著、『保存科学』9 1972年) 『虎塚古墳「保存整備報告書」』(共著、茨城県勝田市(現、ひたちなか市)、1977年) 「文化財周辺の塵埃に関する研究(1)-奈良国立博物館における収蔵庫、展示室、ケース内塵埃調査-」(『保存科学』12、1979年) 「文化財周辺の塵埃に関する研究(1)-走査電子顕微鏡、X線マイクロアナライザーによる銅版葺屋根の汚染物質の測定-」(『保存科学』18、1975年) 「緑青成分による大気汚染解析」(加藤、秋山と共著、『古文化財の科学』27 1982年) 「高松塚古墳壁画修理用剤蒸気除去対策」(『国宝高松塚古墳壁画-保存と修理-』文化庁、第一法規出版、1987年) “Concentration of nitrogen dioxide in the museum environment and its effects on the fading of dyed fabrics”(Kadokura,Yoshizumi,Kashiwagi and Saito,Preprints of the contributions to the Kyoto congress,19-23September,The Conservation of Far Eastern Art,987-89,The International Institute for Conservation of Historic and Artistic Works,1988) 「非破壊式蛍光X線分析法による蒔絵柱の分析」(共著、『国宝中尊寺金色堂附旧組高欄・附古材保存修理工事報告書』(財)文化財建造物保存協会、中尊寺、1990年) 「文化財環境と汚染因子の挙動」(『環境技術』20-8、1991年) 「建築装飾金具の耐久性の研究」(青木・斉藤・鈴木・木下と共著、『保存科学』31、1992年) 「文化財の保存環境と汚染因子」(『環境と測定技術』19-10 1992年) 「遺跡保存と公害による影響」(『地理・歴史』62、帝国書院、1992年) 『「酸性雨の科学と対策」文化財への影響』(共著、(財)日本環境測定協会、環境庁大気保存局大気規制課、監修、溝口次男、1994年) 「文化財と環境問題」(『産業と環境誌』23-10 1994年) 「東アジヤ地域を対象とした酸性大気汚染物質の文化財および材料への国際共同影響調査」(辻野らと共著、『全国公害研究誌』20-1 1994年) “Acidic mist in the surrounding of cultural property and its effect on restoration of cultural property -Cultural property and environment-(Tokyo National Research Institute for Cultural Properties,p53-66,1995) “Study on the influence of environmental pollution on the cultural properties.- Researching test on copper and bronze test plates by acid rain-(Kadokura,Ninomiya,Ono and Udagawa,Proceedings of the36th International Seminar on the Environmental Acidification,2Dec1997,National Institute of Public Health,1995) 「文化財への影響」(共著、『「酸性雨」-地球環境の行方-』環境庁地球環境部監修、中央法規出版、1997年)

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