本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,073 件)





村松秀太郎

没年月日:2018/11/21

読み:むらまつひでたろう、 Muramatsu, Hidetaro※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  日本画家で元創画会会員の村松秀太郎は11月21日に死去した。享年83。 1935(昭和10)年1月5日、静岡県清水市(現、静岡市清水区)の材木商の家に11人兄弟の末っ子として生まれる。横山大観の「夜桜」に感銘を受けて日本画の世界を志し、56年東京藝術大学に入学、61年同大学美術学部を卒業し、同大学専攻科に入学する。この年、卒業制作で60年の安保闘争に取材した裸体群像「六月」が再興第46回日本美術院展に入選、また「人体A」が第25回新制作協会展に入選し、以後同展に毎年出品する。63年東京藝術大学日本画専攻科修了。63、68、71年に新制作展新作家賞、63、64、73、74年春季展賞受賞。新制作展に引き続いて創画展に出品し、76年春季展賞および第3回展の創画会賞、77年春季展賞を得て、翌78年創画会会員となる。一方で73年に市川保道、大山鎮、滝沢具幸、戸田康一、松本俊喬とグループ展メガロパを結成、78年までに5回の展覧会を開催した。人間群像を大画面に繰り広げ、生と死、男女の業といった根源的なテーマに取り組んだ村松は、油彩画のような重厚なタッチやマチエールの作風でありながら、箔押しの技術を導入し、カオスを感じさせる大胆な表現のうちに日本画のリアリティを追求した。また64年にカンボジアのアンコールワットを訪ねて以来、世界各地へ精力的にスケッチ旅行に出かけ、とりわけアンコールワットやインドのカジュラーホーで出会った官能的な人体表現は、性愛を主題とした制作に大きな影響を与えている。81年には山形県金山町役場大壁画「団結、力、調和」、83年清水市新市庁舎陶板大壁画「海の子讃歌」、87年立教高等学校図書館陶板壁画「騎馬民族説」といった公共施設の壁画を制作。90年代には中国の桂林や黄山に取材した山水画を手がけ、個展で発表。また1995(平成7)年9月から1年余にわたり『日本経済新聞』に連載された、渡辺淳一による小説「失楽園」の挿絵を担当し、97年『失楽園』挿絵石版画集を刊行。この間、96年に茨城県近代美術館で開催の「交感する磁場―6つの個展」でエネルギッシュに活躍する作家の一人として作品8点が展示される。98年には日本橋高島屋にて新旧の大作を交えた自選展を開催。同年から2002年にかけて岡村桂三郎、斉藤典彦といった世代の異なる作家とともにMETA展を開催、全5回の展覧会に毎回出品する。99年東京芝の増上寺中広間の襖絵「双龍と天女」および天井画「牡丹」を完成させる。2006年美術年鑑社より『村松秀太郎画集 愛と生の讃歌』を刊行。07年創画会を退会。09年、14年に市川市芳澤ガーデンギャラリーで「村松秀太郎展」を開催。75~81年多摩美術大学講師、88年筑波大学助教授、92~98年同大学教授、2000~04年千葉商大政策情報学部講師、00~08年大阪芸術大学教授を務めた。

岩倉壽

没年月日:2018/10/11

読み:いわくらひさし、 Iwakura, Hisashi※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  日本画家で日本芸術院会員、日展顧問、京都市立芸術大学名誉教授の岩倉壽は10月11日、敗血症性ショックのため死去した。享年82。 1936(昭和11)年6月30日、香川県三豊郡山本町(現、三豊市山本町)に生まれる。旧姓門脇壽。55年京都市立美術大学(現、京都市立芸術大学)美術学部日本画科に進み、在学中の58年、第1回新日展に「芭蕉」が初入選する。59年同大学美術学部日本画科を卒業。同年晨鳥社に入塾して山口華楊に師事。61年京都市立美術大学美術学部日本画科専攻科修了。63年京都市立美術大学日本画科助手となる。同年の第15回京展で「里」が京都市長賞を受賞、以後71年まで同展に出品を続ける。この間、70年に京都市立芸術大学の講師となる。72年第4回改組日展で「柳図」、76年第8回改組日展で「山里」が特選を受賞。この間、73年にフレスコ壁画の日本画材による摸写研究のためイタリアへ出張、トンマーゾ・ダ・モデナの「聖オルソラ物語」連作(トレヴィーゾ市立美術館蔵)等を摸写。75年に京都市立芸術大学助教授となる。77年京都市芸術新人賞を受賞。82年日展会員となり、88年第20回改組日展で「沼」により日展会員賞、1990(平成2)年第22回改組日展では「晩夏」が内閣総理大臣賞を受賞。この間、87年に京都市立芸術大学教授となる。96年第9回京都美術文化賞、98年京都府文化賞功労賞を受賞。2002年に京都市立芸術大学を定年退官し、同大学名誉教授となる。03年「南の窓」(第34回改組日展出品)により日本芸術院賞受賞。同年日展理事に就任。04年京都日本画家協会理事長となる。同年京都市文化功労者として表彰。06年日本芸術院会員となる。07年日展常務理事に就任。17年京都府文化賞特別功労賞受賞。風景や花鳥を対象として、中間色を主とする微妙な色調で表現。微細な筆触により創出された画面は澄明な精神性を宿し、確固たる存在感を放つ。京都画壇日本画秀作展には85年第1回展より毎年招待出品。他に79、83年昭和世代日本画展、97、98、01年日本秀作美術展出品。個展としては09年高島屋美術部創設百年記念「岩倉壽展」、10年笠岡市立竹喬美術館「岩倉壽」、11年京都・ギャラリー鉄斎堂「岩倉壽・エスキース展」、15年京都府立堂本印象美術館「京都現代作家展Vol.5 岩倉壽 エスキースと日本画」が開催されている。また11年には笠岡市立竹喬美術館館長の上薗四郎の監修により作品集が刊行された。

川﨑春彦

没年月日:2018/10/02

読み:かわさきはるひこ、 Kawasaki, Haruhiko※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  日本画家で日展顧問の川﨑春彦は10月2日、老衰のため死去した。享年89。 1929(昭和4)年3月17日、東京都杉並区阿佐ヶ谷において、日本画家の父川﨑小虎と母清子の間に、5人兄弟の末子として生まれる。曾祖父は明治時代の大家として知られる川﨑千虎。また4歳上の兄鈴彦は日本画家で、長姉澄子は40年、春彦11歳の折に東山魁夷に嫁している。41年3月に東京府豊多摩郡杉並第一尋常小学校(現、杉並区立杉並第一小学校)を卒業、4月には日本大学第二中学校に入学する。同年12月には太平洋戦争がはじまり、道路工事や立川飛行機工場での作業に従事。44年12月には一家とともに山梨県中臣摩郡落合村へ疎開した。45年3月に日本大学第二中学校を卒業すると東京美術学校(現、東京藝術大学)予科へ進学。食糧難や社会情勢への不安などから、学校へはたまに行く程度であったといい、終戦後も疎開先に留まり、父小虎や兄鈴彦、義兄の東山魁夷らと山梨の山野を写生して歩き、絵を描く喜びを覚えたという。46年4月東京美術学校日本画科に入学。48年7月には父とともに東京へ戻り、50年3月、東京藝術大学を卒業した。同年4月第10回日本画院展に「山の湖」「十一月の頃」が初入選、10月には自宅近くに取材した「阿佐ヶ谷風景」が第6回日展で初入選を果たした。日本画院展ではその後、第11回展(1951年)で奨励賞、第12回展(1952年)で日本画院賞第一席、第13回展(1953年)で魚菜園賞、第14回展(1954年)で友の会賞、第15回展(1955年)でG氏賞を受賞し、第16回展(1956年)では日本画院賞受賞とともに、同人に推挙されている。51年3月には東京美術学校日本画科第60回卒業生10名による研究発表会「縁日会」の結成に参加、同年の第1回展から54年の第4回展まで毎年出品する。また同年6月には小虎塾の有志が研究会「森々会」を結成、その第1回展へ「四月の頃」「森」「高原」「丘」を出品した。同会へはその後も、56年まで毎年出品している。この頃から川﨑は全国の山や森林を写生して回るようになった。57年3月17日上田陽子と結婚。59年12月には長女麻子が誕生した。61年4月、兄鈴彦との二人展を文藝春秋画廊で開催。同年6月には栃木県会館で「川﨑春彦日本画展」を開く。さらにこの年の第4回新日展では、丹沢山麓でスケッチした、台風前の強風に揺れ動く森のようすに着想を得た「風の森」で特選・白寿賞を受賞した。この頃の作風は大量の写生をもとにした写実的なもので、ごまかしがきかないと自ら語る枯れ木をモチーフにした作品をしばしば手掛けている。62年には第5回新日展に「冬愁」が入選、同作は翌63年2月の第4回みづゑ賞選抜展に招待出品された。また63年には日展無鑑査となり、64年にはインドネシアに取材した「孤島」で再び特選・白寿賞を受賞、65年からは出品委嘱となる。「孤島」は暗く荒れた海と低く垂れこめた雲で構成された作品で、これ以降、川﨑は風や雲を中心テーマとして制作をするようになっていく。69年6月「空をテーマに―川﨑春彦近作展」(フジ・アート・ギャラリー)を開催。73年には日展会員となる。74年11月には「風をテーマに―川﨑春彦展」を日本橋・髙島屋にて開催。同展はさまざまな風の姿を描き分けようと、日本や外国で出会った風のスケッチをもとにした作品で構成された。76年10月の改組第8回日展には、雲間から射す光に照らされた富士を描いた「燿く」を出品。この頃より川﨑は富士山を描きはじめるが、写生だけでは絶対に描けないと、心で見た富士の姿を描き出していった。78年5月、横綱昇進した若乃花(二代)の化粧まわしをデザイン。80年5月には日展評議員となる。83年10月の改組第15回日展では英国に取材した「野」で文部大臣賞受賞。87年の改組第19回日展には富士山を背に勇ましい姿を見せる龍を描いた「天駆ける」を出品。翌年にかけて龍を描いた作品を複数制作する。これ以降、それまで自然の厳しさを表現してきた川﨑の作風が、1990(平成2)年の改組第22回日展へ出品された「天」のように、自然の優しさや美しさを感じさせるものへと変化していった。90年には日本相撲協会より横綱審議委員会委員を委嘱され(2003年まで)、95年に貴乃花が新横綱となった際には、明治神宮での奉納土俵入りに出席。その化粧まわし「日月赤富士」をデザインした。99年に若乃花(三代)が横綱昇進した折には、下保昭とともに化粧まわしのデザインを行い、2000年9月の断髪式には3番目にはさみを入れた。04年改組第36回日展に「朝明けの湖」を出品、翌05年6月同作に対して、恩賜賞・日本芸術院賞が贈られた。同年日展理事となり、06年12月には日本芸術院会員となった。07年には日展常務理事に、09年には同顧問となる。18年5月旭日中綬章受章。没後の10月27日には従四位に叙された。 長女の川﨑麻児も日本画家として活躍している。

笠木實

没年月日:2018/08/27

読み:かさぎみのる、 Kasagi, Minoru※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  春陽会会員の洋画家笠木實は、8月27日に没した。享年98。 1920(大正9)年1月1日、群馬県桐生市に、市内でも有名だった魚問屋「魚萬」を経営し、さらに冷凍工場やバスやタクシー会社を経営していた笠木萬吉の次男として生まれる。はやくから美術に関心を寄せるようになり、桐生中学校在学中の1935(昭和10)年の夏休みに東京にあった西田武雄が主宰するエッチング研究所に通い、銅版画プレス機を購入した。同年12月、西田の紹介で同舟舎研究所に入所して田辺至の指導を受けた。37年、東京美術学校油絵科入学。同期には清宮質文、また一学年下には駒井哲郎がいて交友。同学校在学中から、日本版画協会、国画会展にエッチングを出品。41年12月、同学校を繰り上げ卒業。翌年6月には、桐生倶楽部(桐生市)にて個展を開催。同年7月には第3回日本エッチング作家協会展に出品。43年には、日本版画協会の会員となる。44年、45年とつづけて応召するが、同県下高崎の部隊に配属後に終戦となり除隊。戦後は、前橋市出身の南城一夫に師事し、油彩画に専念することをすすめられ、48年から南城と同じ春陽会に出品するようになった。また、49年には桐生美術協会結成にあたり副会長となり、同年開催の群馬美術展で知事賞を受賞。50年に上京して、岡鹿之助宅に寄寓。51年には春陽会賞を受賞、55年に同会会員となる。64年に武蔵野美術大学の共通絵画研究室に赴任して、以後1990(平成2)年に定年になるまで指導にあたった。68年に東京都小平市にアトリエを設けて転居、以後武蔵野の自然をモチーフに柔和な作品を描きつづけた。 2001年4月、渋谷区立松濤美術館にて「今純三・和次郎とエッチング作家協会」展が開催され、草創期の同協会の画家として青年期のエッチング6点が出品された。また12年12月には、和歌山県立近代美術館に寄贈した作品をもとに、コレクション展として「笠木實と日本エッチング研究所の作家たち」が開催された。17年6月には、桐生歴史文化資料館(桐生市)にて回顧展「笠木實の足跡と魚萬笠木萬吉」展が開催された。また、はやくから雑誌の挿絵、絵本のための絵を描き、若いころからスキー、釣り、山歩きを趣味としていたところから、画文集『魚狗の歌』(二見書房、1974年。96年に平凡社ライブラリーから『画文集 イワナの歌』として再刊)、『岩魚の谷、山女魚の渓』(白日社、1994年)等を残した。

下保昭

没年月日:2018/08/07

読み:かほあきら、 Kaho, Akira※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  中国や日本の自然を題材にした幽玄な水墨画で知られる日本画家の下保昭は8月7日、肺がんのため京都市の病院で死去した。享年91。 1927(昭和2)年3月3日、富山県東砺波郡出町神島(現、砺波市神島)の裕福な農家に生まれる。絵心があり旅絵師とも交流があった祖父の影響で画家を志す。43年、44年と京都絵画専門学校(現、京都市立芸術大学)を受験、学科と実技は合格するも、正科であった軍事教練の成績が悪かったため不合格となる。44年隣町にある呉羽航空に徴用。45年の終戦を機に京都と富山を頻繁に行き来し、家人の知り合いであった石川県松任出身の日本画家、安嶋雨晶を訪ねる。46年第1回富山県展に出品した「白木蓮」が最高賞の富山市長賞を受賞し、これを機に画家として身を立てることを改めて決意。翌年の第2回展に出品した「かぼちゃ」でも市長賞、その後第4回展、5回展、6回展で第二賞、7回展で第一賞、53年の第8回展に出品した「河岸」で三度目の富山市長賞を受賞。この間48年に京都へ出て下宿するようになり、第4回京都市美術展に「雪どけ」が入選するが、同年の第4回日展と翌年の第5回展に出品した「斜陽」は落選。この時期、京都市内の博物館や美術館へ行き池大雅や浦上玉堂、富岡鉄斎等の作品に接する。49年安嶋雨晶の紹介で西山翠嶂の画塾青甲社に入る。画塾で開かれる月一回の研究会に出席する傍ら、大阪釜ヶ崎のドヤ街や横浜、長崎、鹿児島等の港町を転々とし、終戦後の貧民街や場末の風景をスケッチする。50年第6回日展に「港が見える」が初入選、イギリスの画家ベン・ニコルソンの感化による構築的な作風により、以後入選を重ねる。54年第10回日展「裏街」、57年第13回日展「火口原」がともに特選・白寿賞を受賞、61年第4回新日展「沼」で菊華賞を受賞。翌年日展審査員をつとめ会員となった。この頃より大自然と対峙し、そのエネルギーを孕んだ心象風景を描くようになる。62年に日本橋高島屋で初個展を開催。67年第10回新日展で「遙」が文部大臣賞を受賞し、69年には日展評議員となる。この間、63年第7回日本国際美術展、64年第6回現代日本美術展に招待出品。街並みを描いた初期の構築的な作品からモノトーンの風景表現を経て、水墨を基調とした幽玄の画趣深い山水画へと移行し、現代の水墨表現の可能性を追究していく。81年より何必館・京都現代美術館において度々個展発表を行なうようになり、82年、前年の「近江八景」連作(個展、何必館)により第14回日本芸術大賞を受賞。また同年第1回美術文化振興協会賞を受賞。83年中国の壮大な自然に触発された「水墨桂林」連作、翌年には「水墨黄山」(ともに個展、何必館)を発表し、85年新鮮な水墨画の開拓を試み、力と生彩に富む独自の表現をつくり上げたとして芸術選奨文部大臣賞を受賞した。85年画集『中国水墨山水―江・黄山』(新潮社)が刊行、また東京・大阪(〓島屋)、京都(何必館)で「中国山水・下保昭」展が開催された。87年富山県立近代美術館で回顧展を開催。88年画業に専念するため日展を退会、無所属となる。1989(平成元)年京都府文化賞功労賞を受賞。90年には前年の何必館個展で発表した「冰雪黄山」の連作に対して第3回MOA岡田茂吉賞絵画部門大賞を受賞。91年京都市文化功労者となる。92年笠岡市立竹喬美術館で「下保昭1981―1991 水墨画の可能性を求めて」展開催。93年に作品100点が何必館・京都現代美術館の梶川芳友館長より富山県へ寄贈され、99年に開館した富山県水墨美術館に常設展示「下保昭作品室」が設置、同館では2000年、03年、10年にその画業を紹介する展覧会を開催している。2000年、大津市本堅田にある海門山萬月寺浮御堂に八面の襖絵「紫気東來」を奉納。01年茨城県近代美術館で「時代を超える日本画 山水新世紀―下保昭・色彩七変化―川﨑春彦」展が開催。同年ビジョン企画出版社より画集『下保昭』が刊行。02年京都府文化賞特別功労賞を受賞。03年、北京の国立中国美術館にて「日中平和友好条約締結25周年記念 下保昭画展」が中国文部省の主催で開催される。04年旭日小綬章を受章。岳父は日本画家の小野竹喬。

北野治男

没年月日:2018/07/29

読み:きたのはるお、 Kitano, Haruo※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  日本画家で日展理事の北野治男は7月29日、転移性肝がんのため死去した。享年71。 1946(昭和21)年12月5日、大阪府に生まれる。70年京都教育大学特修美術科卒業、71年同専攻科修了。同大学で西山英雄に学び、在学中の67年第10回日展に「フラミンゴ」が初入選、以後入選を重ね、73年改組第5回日展「赤い月」、翌74年「森の中」が連続して特選、同年日春展「幻映」で奨励賞を受賞。この間70年に京都の若手日本画家によるグループである真魚(MAO)を結成、同会の中心的存在として活躍。鳥をモティーフとし、71年に初めて北海道西別の原野を訪れ、大自然に生きるカラスの群れを見て衝撃を受けて以来、北海道の原野に題材を求める。カラスをメインモティーフとした夢幻的な作風から、写実を基調とした表現に変化しながらも、大自然の神秘、生命に対する畏敬の念と共感に根ざした作品を描き続けた。76年第1回京都市芸術新人賞受賞。77年京都・朝日画廊で初個展開催。84年日展会員となる。80年代よりアメリカ南部を度々訪れ、とくにテネシーの風景を描くようになる。2004(平成16)年「道」で第36回日展会員賞受賞。05年日展評議員となる。10年「樹」で第42回日展内閣総理大臣賞を受賞。13年には京都府立堂本印象美術館で「テネシーへの想い 北野治男素描展」が開催される。13年日展理事となる。16年第34回京都府文化賞功労賞を受賞。17年京都市文化功労者として表彰された。

村田省蔵

没年月日:2018/07/14

読み:むらたしょうぞう、 Murata, Shozo※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  日本芸術院会員の洋画家村田省蔵は7月14日午前1時8分、肝臓がんのため、神奈川県鎌倉市の自宅で死去した。享年89。 1929年(昭和4)6月15日、金沢市上堤町に生まれる。生家は生糸問屋を営む。42年、金沢県立第二中学校に入学。44年海軍飛行予科練習生として滋賀航空隊に入隊する。45年の終戦により金沢第二中学校に復学。同年10月に金沢地方海軍付属海軍会館を石川県美術館として開催された第1回現代美術展を訪れて宮本三郎の作品に感動し、画家を志す。46年10月金沢美術工芸専門学校予科に入学し、洋画を専攻して高光一也、宮本三郎に師事。同校での同級生に鴨居玲がいる。49年第35回光風会展に金沢美術工芸専門学校の中庭に集う学生たちを階上から見下ろした「昼近き中庭」で初入選。また、同年、同作と並行して制作していた「診療室の女医さん」で第5回日展に初入選。50年金沢美術工芸専門学校(現、金沢美術工芸大学)洋画科卒業、引き続き研究科に在籍。同年第36回光風会展に「窓辺の女」を出品してムーン賞受賞。同年から小絲源太郎に師事。51年上京し、引き続き小絲の指導を受け、59年第45回光風会展に「渡船場」を出品して会友賞受賞。61年第4回日展に「河」を出品して特選受賞。65年3月日本橋三越で初個展開催。66年光風会を退会する。67年秋、横浜港からモスクワ経由でパリに渡り、ヨーロッパ、アメリカを訪れて68年に帰国。同年、第11回日展に「箱根新涼」を出品して菊華賞受賞。72年および74年にメキシコに旅行する。74年日展審査員となり75年に同会員となる。79年、フランス、スペインを旅する。81年訪中。82年イタリアへ、84年、アメリカ旅行。86年に北海道富良野を訪れ、以後、北海道シリーズを描く。1989(平成元)年、インドネシアのバリ島、イタリアのシチリア島へ旅行。90年から日展評議員をつとめる。93年新潟県長岡市岩室には稲架木の取材に訪れ、以後、稲架木のある風景を好んで描く。98年第30回日展に稲架木のある冬景色を描いた「春めく」を出品して内閣総理大臣賞受賞。2005年第37回日展にやはり稲架木のある冬景色を描いた「春耕」を出品し、06年に同作によって恩賜賞、日本芸術院賞を受賞。同年12月に日本芸術院会員となる。07年に『村田省蔵画集』(北国新聞社)が刊行される。09年9月東京日本橋三越にて「村田省蔵 画業60年 傘寿記念展」を開催。11年5月北國新聞社主催により北國文化交流センターで「画業60年の軌跡」展を開催。12年イタリア、ボローニャに取材旅行。13年1月、郷里の石川県立美術館で「村田省蔵 画業60年の歩み」が開催され、1948年制作の自画像から2012年第68回現代美術展出品作「冬野」まで94点が展観される。年譜は同展図録に詳しい。金沢市が戦後、市民の昂揚のために設立した現代美術展には48年の第4回展から出品を続けたほか、00年に金沢学院大学美術文化学部教授、12年には同名誉教授となるなど、郷里の美術活動に長らく寄与した。初期には人物を主なモチーフとしたが、50年代後半から風景画を中心に描くようになり、67年の渡欧、72年のメキシコ旅行を経て、明るく豊かな色彩を特色とする都市風景画を多く制作した。80年代には北海道の大地を、90年代以降は稲架木のある景色を好んで、自然と人の営みが織りなす風景を描いた。没後の2019(令和元)年6月、石川県立美術館で所蔵作品27点を展観する「没後1年村田省蔵展-大地を描く」展が開催された。

村上肥出夫

没年月日:2018/07/11

読み:むらかみひでお、 Murakami, Hideo※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  画家の村上肥出夫は、7月11日、岐阜県下呂市の老人福祉施設で 敗血症のため死去した。享年84。 1933(昭和8)年12月19日、岐阜県土岐郡肥田に生まれる。45年、警察官だった父の定年により、実家のあった岐阜県養老郡養老町に戻る。48年、同県養老郡高田中学校を卒業、卒業後さまざまな仕事をしながら、ゴッホに憧れて絵を独学する。53年に画家を志望して上京、コック見習い、サンドイッチマンなどの仕事をしながら絵を描きつづけた。61年4月頃、銀座並木通り路上で自作を販売していたところ、彫刻家本郷新に見いだされ、本郷の紹介で兜屋画廊社長西川武郎を知り、以後西川の援助で都内にアトリエを持つことになり制作に専念。62年5月、毎日新聞社主催第5回現代日本美術展に、「タワー」、「九段」の2点入選。同年12月の第6回安井賞候補新人展(会場、東京国立近代美術館)に「タワー」、「本郷」が出品され、最終審査まで残るが受賞には至らなかった。63年2月、「村上肥出夫油絵展」(銀座、松坂屋)開催、150点余りの新作を出品。同展は、名古屋市、大阪市にも巡回。同展を契機に、新聞雑誌に取り上げられるようになった。同年4月から8月、パリに遊学。64年4月にはニューヨークに旅行。同年11月、「村上肥出夫 油絵・素描展 巴里・紐育・東京を描く」展(銀座、松坂屋)を開催、油彩画100点、素描・水彩画50点余りを出品。見いだされた「放浪画家」  、「放浪の天才画家」などとジャーナリズムで再び評されるようになった。71年6月、「村上肥出夫新作油絵展」(銀座、松坂屋)開催。この個展に際し、すでに村上作品を数点コレクションしていた川端康成は、「構図の整理などに、多少のわがままが見えるにしても、豊烈哀号の心情を切々と訴へて人の胸に通う。」(「『村上肥出夫新作油絵展』に寄せて」)と評した。72年、パリに滞在して制作、同年のサロン・ドートンヌに出品して銀賞受賞。79年、岐阜県益田郡萩原町の下呂温泉近くに自宅アトリエを構え、東京より移住。1997(平成9)年2月、自宅アトリエ一棟が全焼、98年3月失火により自宅居間が焼ける。この火災による精神的なショックにより体調を崩し、岐阜県高山市の病院に入院。2000年以降、毎年、兜屋画廊をはじめ各地の画廊で展覧会が開催され、04年9月には、「村上肥出夫と放浪の画家たち―漂泊の中にみつけた美」展が大川美術館(群馬県桐生市)にて開催。また、16年4月には、「村上肥出夫―魂の画家」展が東御市梅野記念絵画館にて開催された。 60年代、ジャーナリズムから一躍脚光を浴びて美術界に登場したが、抽象表現主義やダダ的な前衛美術の興隆のなかで、新たな具象表現を模索する流れを背景に、純粋でいながら大胆な表現をつづけた独創の画家だった。生前には、エッセイ集『パリの舗道で』(彌生書房、1976年)があり、また池田章監修・発行『愛すべき天才画家 村上肥出夫画集』(2016年)、ならびに同画集『補遺小冊子』(2016年)、『補遺小冊子2』(2019年)、『補遺小冊子3』(2021年)が刊行されている。

宮崎進

没年月日:2018/05/16

読み:みやざきすすむ、 Miyazaki, Shin※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  多摩美術大学名誉教授の造形作家宮崎進は5月16日心不全のため死去した。享年96。 1922(大正11年)2月15日、山口県徳山市(現、周南市)に生まれる。1928(昭和3)年徳山尋常高等小学校に入学。35年に岸田劉生の画友であった徳山在住の洋画家前田麦二(米蔵)の指導を受け、油彩画を学ぶ。芝居小屋に出入りする前田の影響で地域の舞台の書割、大道具等も手掛ける。38年、上京して本郷絵画研究所に入り、39年日本美術学校油絵科に入学して大久保作次郎、林武らの指導を受ける。42年、同校を繰り上げ卒業して応召し、外地勤務を希望してソ満国境守備隊に所属。45年8月に東北満州の鏡泊湖付近に野営中に終戦を迎え、ソ連軍によって武装解除し、同年12月にシベリア鉄道にて移送される。以後、各地の収容所を転々とする中で、抑留生活3年目頃から美術品の模写や肖像画の制作を行う。49年12月に徳山に帰還。宮崎はシベリア抑留について「ここにあった絶望こそ、私に何かを目覚めさせるきっかけとなった。生死を超えるこの世界で知った、人間を人間たらしめている根源的な力こそ、私をつき動かすものである」と記している(『鳥のように シベリア 記憶の大地』岩波書店、2007年)。50年に広島、長崎を訪れる。51年に上京して雑誌のカットなどを描く。56年寺内萬治郎に師事し、57年第43回光風会展に「静物」を出品。同年第13回日展に「静物」を出品。以後、これら二つの団体展に出品を続ける。59年第45回光風会展に「〓東」を出品してプールブー賞受賞。60年の同会に「〓東A」「〓東B」を出品して光風会賞を受賞、同会会友に推される。61年第5回安井賞候補新人展に「〓東」を出品。63年第49回光風会展に「廃屋」を出品し、同会会員に推挙される。65年6月、資生堂ギャラリーにて初個展を開催し、「石狩」「さいはて」など16点を出品。同年11月、第8回新日展に「祭りの夜」を出品して特選受賞。同年第9回安井賞候補新人展に「北の祭り」「祭りの夜」を出品。67年第10回安井賞展に「見世物芸人」を出品し安井賞を受賞。この頃の作品は祝祭的な場の中に刹那的で漂泊する人間をとらえたものが多い。72年4月第58回光風会展に「よりかかる女」を出品。同年7月に渡仏し74年10月までパリを拠点にオーストリア、スイス、ノルウェー、ドイツ、イタリア、スペイン、ポルトガル、チェコスロバキアなどを巡遊。この渡欧は、多くの西洋美術作品に触れ、人体や光の表現について捉えなおす契機となった。72年より日展への出品をせず、73年より光風会へも出品せず77年に同会を退会して無所属となる。以後、個展やグループ展で作品を発表。77年第16回国際形象展に「おどる女」を出品し、以後、80年まで同展に出品を続ける。79年第1回「明日への具象展」に「ラブリーガール」を出品し、以後84年まで出品を続ける。同年、ソ連各地を旅行。風景画や抑留を主題とする作品は50年代から継続的に描かれていたが、80年ころから主要なテーマとなり、「TORSO」など多様な材料を用いた重厚なマチエールの作品が制作されるようになる。86年9月池田20世紀美術館にて「宮崎進の世界展」を開催し、「さいはて」「冬の光」ほか54点を出品。76年から多摩美術大学講師となって後進を指導し、1992(平成4)年に退任し、以後、客員教授を務める。同年6月に同学美術参考資料館にて「宮崎進 多摩美術大学退職記念」が開催される。93年、ニューヨークのアルファスト・ギャラリーにて「宮崎進」展を開催し、ニューヨーク、ワシントン、ボストンなどアメリカ東海岸を訪れる。94年「漂う心の風景 宮崎進展」を下関市立美術館ほかで開催。95年小山敬三賞を受賞し、「小山敬三賞受賞記念 宮崎進展」を開催。97年、京都市美術館にて「シベリア抑留画展」を開催。98年芸術選奨文部大臣賞を受賞。同年、多摩美術大学附属美術館館長となり、99年に同学名誉教授となった。2004年第26回サンパウロビエンナーレ国別参加部門に日本代表として「シベリアの声」という主題のもとに「冬の旅」「泥土」ほか12点を出品。抑留体験を畳み込んだ重厚な質感を持つ力強い作品で注目される。05年8月、周南市美術博物館にて「宮崎進展 生きる意味を求めて」、14年4月神奈川県立近代美術館にて「立ちのぼる生命 宮崎進展」が開催された。郷里の周南市美術博物館に初期から晩年まで200点を超える作品が収蔵されており、宮崎は09年4月から没するまで同館名誉館長を務めた。

加古里子

没年月日:2018/05/02

読み:かこさとし、 Kako, Satoshi※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  『だるまちゃんとてんぐちゃん』『からすのパンやさん』等の作品で知られる絵本作家で児童文化研究家の加古里子は5月2日、慢性腎不全のため神奈川県藤沢市の自宅で死去した。享年92。 1926(大正15)年3月31日、福井県今立郡国高村(旧、武生市。現、越前市)に生まれる。本名中島哲。1933(昭和8)年、7歳の時に東京に転居。中学時代に航空士官を志すも近視が進み断念。後に子供と向き合う創作活動を続けることとなったのは、軍国少年だった自分のような判断の過ちを繰り返さないように、という悔恨が根底にあったという。技術者を目指し、45年東京帝国大学工学部応用化学科に入学。在学中に大学の演劇研究会に入会し、舞台装置と道具類のデザイン・製作を担当。地方公演の際、子供達の反応に感動して童話劇の脚本を書き始める。48年昭和電工に入社。会社勤務の傍ら、焼け野原にバラックが立ち並ぶ川崎市で、地域福祉の向上を図るセツルメント活動に従事し、紙芝居や幻燈作品の制作から子供の心をつかむ物語作りを身につける。セツルメント活動で知り合った仲間の紹介により、59年にダム建設の仕事をテーマにした『だむのおじさんたち』(福音館書店)で絵本デビュー。化学を専門としていたことから多くの科学絵本の依頼が舞い込み、地球や生物、人間の身体、土木、気象等、様々な分野の絵本を手がける。『かわ』(福音館書店、1962年)は63年に第10回産経児童出版文化賞大賞を、『海』(福音館書店、1969年)は70年に第12回児童福祉文化賞を受賞。一方で67年の『だるまちゃんとてんぐちゃん』(福音館書店)をはじめとして、累計389万部発行された“だるまちゃん”シリーズでは、日本の子供に馴染み深いだるまや天狗等の伝統的なキャラクターを生かし、想像の世界へとつなげる物語を創作。60年代後半よりテレビに出演し、教育テレビ等の司会やコメンテーターを務める。73年に昭和電工を退社。同年初版の『からすのパンやさん』(偕成社)は240万部を超えるロングセラーとなった。75年に幼少期の暮らしと遊びの体験をもとにしたエッセイ集『遊びの四季』(じゃこめてい出版)で第23回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。79年から数年にわたり東京大学教育学部等で非常勤講師を務め、実地で学んできた子供と教育について講じる。児童文化研究家としても知られ、絵かき歌、石けり、鬼ごっこ、じゃんけんの資料を収集、分析した全4巻の『伝承遊び考』(小峰書店、2006~08年)を執筆、2008(平成20)年に同書と長年の児童文学活動の業績により菊池寛賞を受賞した。13年、生まれ故郷の福井県越前市にかこさとしふるさと絵本館「■」が開館。亡くなる年の1月には、東日本大震災で被災した東北地方に思いを寄せた『だるまちゃんとかまどんちゃん』(福音館書店)等、“だるまちゃん”シリーズ3冊を同時刊行、生涯現役を通し600冊を超える著作を残した。19年より「かこさとしの世界」展がひろしま美術館を皮切りに全国各地で開催されている。

中根寛

没年月日:2018/01/17

読み:なかねひろし、 Nakane, Hiroshi※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  点描による穏やかな風景画で知られた洋画家の中根寛は1月17日に死去した。享年92。 1925(大正14)年3月26日愛知県額田町(現、岡崎市)に生まれる。1939(昭和14)年旧制岡崎中学校2年生を修了して岡崎師範学校に入学し、44年の9月に卒業予定であったが、前月の8月に陸軍宇都宮飛行学校に入所。1945年除隊し、郷里に戻り小学校教師となる。49年東京藝術大学美術学部油画科に入学し、上京して同郷の荻太郎を頼り、荻のアトリエに住む。大学では硲伊之助、寺田春弌、2年生から安井曾太郎、伊藤廉に師事。52年3月に安井が辞任したため、同年4月から後任となった林武に師事する一方、小磯良平、山口薫、牛島憲之の指導を受ける。53年東京藝術大学美術学部油画科を卒業。卒業制作によって大橋賞を受賞。54年、母校に新設された美術学部専攻科に進級し、55年に同科を修了して同学美術学部副手となる。57年同美術学部教務補佐員、58年同助手となる。美術団体展出品に否定的でグループ展を奨励した林武の教えを受けて団体展には出品せず、59年に同学の若手画家によって黒土会を結成し、毎年日本橋髙島屋で展覧会を開催。同展には第1回展に出品した「腕を組む」(1957年)から65年の第7回展出品の「かげ」まで、人体を主要なモチーフとし、暗色を塗り重ねた重厚な作品を出品し続ける。60年第3回国際具象派美術展に「コンポジション」を招待出品し64年まで出品を続ける。62年第5回現代日本美術展に「こかげ」で入選。63年東京藝術大学美術学部専任講師となる。63年から77年まで国際形象展に招待出品。64年第8回安井賞候補新人展に人体と動物で構成した「星」を出品し、70年の第13回まで同展に出品を続ける。68年日動サロンにて初めての個展を開催。69年東京藝術大学美術学部助教授となる。69年に半年間、ヨーロッパ・エジプトを研修旅行。70年7月から8月まで北ヨーロッパ、71年3月から4月までスペインに旅行。多数の西洋の古典絵画を実見し、西洋絵画の奥深さと多様性を知るとともに、自然と調和した人の営みが窺える町や村の景観に魅かれる。これ以降、風景画を中心に描くようになる。また、師の林武のように油絵具を混ぜあわせ、塗り重ねる画法から、点描のように絵具を並べる画法へと変化する。75年、訪中美術家代表団の一員として初めて中国を訪れ、以後80年までほぼ毎年中国に取材旅行。また、同年12月から76年1月までインド、ネパールを旅行。76年スイスへ、77年ヨーロッパへ取材旅行。78年東京藝術大学美術学部教授となる。79年3月日本橋髙島屋、4月大阪髙島屋にて「中根寛展」を開催。84年に伊藤廉記念賞が開設されるとその選考委員となり、1993(平成5)年の最終回まで毎回選考に当たる。86年東京藝術大学美術学部長となり、90年に退官して名誉教授となる。93年郷里にある岡崎市美術館で「中根寛自選展」が開催され、また、同年5月に母校の藝術資料館で「中根寛展」が開催された。2000年9月に『中根寛画集』(求龍堂)が刊行され、同月から11月まで「中根寛画業50年展」(朝日新聞社ほか主催)が髙島屋(日本橋、横浜、京都、大阪なんば)、松坂屋美術館(名古屋)を巡回した。生涯、美術団体に所属せず、東京藝術大学で美術教育に携わりつつ制作を続けた。少年時に郷里で三河湾を見下ろす景色に親しみ、風景画でも俯瞰する構図を好んだ。「その社会に参加していない異国の景色を描いていると、後ろめたさはつきまとう」(「中根寛・画論を語る」『アートトップ』129)という言葉にあらわれるように、描く対象と自らの関わりを重視した。1990年代以降は、北海道の湿原、浅間山、富士山、瀬戸内などの景色を広やかに俯瞰する構図で描いた優品を残している。

松樹路人

没年月日:2017/12/19

読み:まつきろじん、 Matsuki, Rojin※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  独立美術協会の画家松樹路人は12月19日、肺炎のため死去した。享年90。 1927(昭和2)年1月16日、北海道留萌支庁苫前郡に生まれる。本名路人(みちと)。小学校教員であった父の任地によって転居し、33年佐呂間の武士尋常小学校に入学、その後、女満別尋常高等小学校に転校する。1940年北海道立網走中学校に入学するが、翌年一家で上京。東京府立第十五中学校(現、都立青山高等学校)在学中に小林万吾の主宰する同舟舎絵画研究所に通う。44年東京美術学校油画科に入学し、45年から梅原龍三郎に師事。同年、三浦半島の長井にある武山海兵団に配属される。49年に東京美術学校を卒業し、梅ヶ丘中学校の図工教諭となり、53年まで勤務。この間の50年、連合国要人の夫人によって運営されていたサロン・ド・プランタンの第2回展に原爆と浮浪児を描いた「失われた世代」を出品して第3席に選ばれる。また、同年の第18回独立美術協会展に「S町の酒場付近」で初入選。53年第21回独立展に褐色系を基調色とし、人体を簡略な形でとらえ、着衣の女性像の背後に二人の男性像を描いた「三人」、および「秋」を出品してプールブー賞受賞。同年、網走中学校の先輩で独立美術協会会員であった居串佳一と出会い、交遊を始める。この頃、アンドレ・ドラン、ゲオルグ・グロス、ベン・シャーンに共感を抱く。54年第22回独立展に「家族」「行ってしまった小鳥」を出品して独立賞受賞。57年から60年3月まで鴎友学園女子高等学校教諭を務める。60年独立美術協会会員となる。この頃、「具体的なかたち」を求めて苦悩しつつ、人体を幾何学的形体に還元してから再構成し、白を背景に用いた作品を描く。64年、それまでの自作への不満から、初期以降の大作十数点を自ら焼却。これを機会に、少年時代から惹かれていた藤田嗣治の画風に学んだ静物画を多く描くようになる。66年から71年まで女子美術大学非常勤講師としてデッサンを指導。69年、第37回独立展に白いタイルを背景に、植物や陶器などを配置した「タイルの静物」を出品する。70年第5回昭和会に「木の実の静物」「車輪の静物」を出品して昭和会賞を受賞したほか、前年の独立展出品作「タイルの静物」ほかを第13回安井賞展に出品。同年、武蔵野美術大学講師となり、71年、同助教授となる。また、同年、東京都稲城市に転居しアトリエを構える。この家は「別れ道の白い家」(1977年)のモチーフとなり、その後も画中にしばしば登場することとなる。73年第16回安井賞展に白いタイルを背景に赤茶色のドラム缶と瓶などを描いた「ドラム罐」ほかを出品して佳作賞受賞。同年ヨーロッパに旅行しパリ、ローマ、トレドを訪れる。77年、武蔵野美術大学教授となる。79年、独立美術協会の有志と十果会を設立し、以後同展に出品を続ける。81年、前年の第48回独立展出品作「わが家族の像」(1980年)などにより第4回東郷青児美術館記念大賞受賞。また、同年第3回日本秀作美術展に横向きの少年とボクサー犬を描いた「少年とボクサー」を出品し、以後、2003(平成15)年第25回展まで同展に連続して出品。80年代半ばから、ポール・デルヴォー、ジョルジュ・デ・キリコなどシュール・レアリスムの作家の作風を取り入れる。86年イギリスへ旅行。87年、前年の第54回独立展出品作「美術学校―モデルの一日」により第5回宮本三郎記念賞受賞。同年、「第5回宮本三郎記念賞 松樹路人展」が開催され、学生時代の作品から独立展、十果会展等の出品作を中心に70点が展観される。また、同年より長野県茅野市蓼科のアトリエで秋の独立展に向けた制作を行うようになる。91年第41回芸術選奨文部大臣賞受賞。97年武蔵野美術大学を退任。98年『ミュージアム新書18 松樹路人-はるかへの想い』(苫名真著 北海道立近代美術館編)が刊行される。2002年に郷里北海道にて「北方風土記回顧録―地平線の彼方へ 松樹路人展」(網走市立美術館)、2011年に制作拠点のひとつであった茅野市にて「松樹路人展 終わりなき旅」(茅野市美術館)が開催される。年譜は同展図録に詳しい。「職人のようにひたすら描く」という言葉を好み、幼年期を過ごした北海道の広大な大地と空、清澄な空気を愛して、それらを絵画空間に表した。一貫して具象画を描き、日常生活に身近なものに取材して、70年代からは家族や自画像を主要なモチーフとしつつ、構成力の強い作品を描き続けた。

中路融人

没年月日:2017/07/18

読み:なかじゆうじん、 Nakaji, Yujin※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  日本画家の中路融人は7月18日、ホジキンリンパ腫で死去した。享年83。 1933(昭和8)年9月20日、京都府京都市に生まれる。本名、勝博。46年、京都市立第一商業学校に入学。同年、学制改革に伴い京都市立洛陽高等学校付設中学校に転入、49年に同校を卒業する。同年、京都市立美術工芸高等学校絵画科に入学。同校は同年4月に京都市日吉ヶ丘高等学校美術科となった(現、京都市立銅駝美術工芸高等学校)。 52年に高等学校を卒業、デザイン会社に就職し、テキスタイルデザイナーとして勤務をはじめる。同時に、須田国太郎が主宰する独立洋画研究所でデッサンを学び、作品制作に打ち込む。54年、第10回日展に三人の漁師を描いた「浜」を出品、落選。同年から山口華楊が主宰する晨鳥社に入塾する。翌年には、「牛」を第11回日展に出品。落選であったが、2頭の牛を俯瞰した大胆な構図は、師の強い影響を感じさせる作品として知られる。 56年、第12回日展で風景画「残照」が初入選する。この作品から以後、おもに湖北の雄大な風景をテーマにした作品を発表した。同年に晨鳥社の研究会、あすなろを結成。62年には、第15回晨鳥社に「郷」(個人蔵)を出品し、京都府知事賞を受賞する。そして、同年の京展に「樹林」を出品し、京都市長賞を受賞。若手の日本画家として頭角を現す。ついに同年の第5回日展において「郷」(株式会社石長蔵)が特選・白寿賞を受賞する。63年の第6回日展からは無鑑査出品となり、「薄暮」を発表。そして、66年には、第1回日春展が開催され、中路も同展に参加した。68年の第3回日春展では、「待春」が入選、外務省買上となる。この時期までの作品は、力強く大胆な色彩による色面構成で描かれている。 73年、雅号を勝博から融人と改める。同年に新雅号の御披露目もかねた初の個展を京都大丸で開催。75年に第7回日展に「冬田」を出品し、二度目の特選となる。この作品を境に作風が大きく変化し、静謐で穏やかな風景画を描くようになる。79年には、京都〓島屋、日本橋〓島屋、滋賀県立長浜文化芸術会館において個展を開催。また、同年から日展新審査員を務める。83年には、京都府主催の個展が開催され、京都、東京、滋賀を巡回。86年には、第18回日展に「爛漫」を出品、文化庁買上となる。87年に東京と京都で個展を開催。同年に日春会運営委員に就任する。1992(平成4)年に新現代日本画家素描集『中路融人―湖北賛歌』(日本放送出版協会)を刊行。95年に第27回日展で「輝」が文部大臣賞を受賞。それに伴い文部大臣賞受賞記念中路融人素描展を東京と京都で開催する。また、同年に京都府文化功労賞を受賞した。 そして、97年に前年の日展出品作「映象」が日本芸術院賞を受賞した。同年に日展理事、晨鳥社会長に就任。98年に京都市文化功労者、99年に五個荘町の名誉町民となる。2001年に日本芸術院会員に任命。02年に日展常務理事となる。06年には、滋賀県文化賞を受賞。また、同年の第38回日展では、審査主任を担当する。10年に奈良県立万葉文化館にて「平城遷都1300年記念特別展 中路融人展」を開催。12年に文化功労者、14年に日展顧問、15年に東近江市名誉市民となる。16年には、東近江市に中路が寄贈した作品を展示する東近江市 近江商人博物館・中路融人記念館が開館した。

中野淳

没年月日:2017/03/23

読み:なかのじゅん、 Nakano, Jun※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  洋画家で武蔵野美術大学名誉教授の中野淳は3月23日、急性心臓死のため死去した。享年91。 1925(大正14)年8月22日、東京府の両国に生まれる。1938(昭和13)年に安田学園中学校に入学、在学中から油絵を描きはじめ、川端画学校洋画部でデッサンを学んだ。43年に同中学校を卒業すると、川端画学校、本郷洋画研究所に通った。同年11月、第2回新人画会展で松本竣介の出品作「運河風景」(出品時の題名であり、現在の「Y市の橋」東京国立近代美術館蔵である)に感銘を受ける。その後、知人の紹介で松本竣介のアトリエを訪ね、以後親しく批評などを受けるようになった。47年、戦後再開した第21回国展、第11回自由美術展、第31回二科展にそれぞれ初入選した。同年、松本竣介の依頼により、通信教育の育英社の仕事を手伝った。48年、自由美術家協会の会員に推挙され、以後64年まで、同展に出品をつづけた。57年7月、モスクワで開催された世界青年学生平和友好祭国際美術展に参加、出品した「風景」によってプーシキン美術館賞受賞。64年、自由美術家協会を退会し、退会した画友たちと主体美術協会創立に参加。79年、武蔵野美術大学教授となる。86年7月、東京富士美術館にて約70点からなる「中野淳展」を開催。同年9月には、『中野淳画集』(アートよみうり)を刊行。1994(平成6)年1月、主体美術協会を退会、新作家美術会を結成。同会は、後に新作家美術協会と改められ、2016年の第23回展まで毎年出品をつづけた。同年、第9回小山敬三美術賞を受賞、7月に受賞記念展を日本橋高島屋で開催。95年9月、同大学退職を記念して「中野淳教授作品展」を同大学美術資料図書館にて開催。99年8月、『青い絵具の匂い―松本竣介と私』(中公文庫、中央公論新社)を刊行。 長い画歴のなかで、その時代ごとの思潮に敏感に反応しながら画風を変えていったが、堅実な写実表現に徹して、油彩画の構成、技法等の骨格を見失うことはなかった。それは青年期に出会った松本竣介や戦後知己となった岡鹿之助からの教えを守ったためであろう。松本竣介との交流については、上記の本に詳しく回顧され、貴重な記録となっている。また、同書の続編として企画されながら、没後に刊行された『画家たちの昭和―私の画壇交流記』(中央公論新社、2018年3月)も、中野の画家として生きた時代の私的な記録として貴重な内容となっている。

鎌倉秀雄

没年月日:2017/03/14

読み:かまくらひでお  日本画家の鎌倉秀雄は3月14日、呼吸不全のため死去した。享年86。 1930(昭和5)年10月27日、東京・麹町に生まれ、その後すぐ田端へと転居する。父は73年に型絵染の重要無形文化財保持者に認定された鎌倉芳太郎、母は帝展洋画部で活躍した山内静江で、幼少期より院展や帝展、戦争画展などに親しみ、独学で武者絵などを描いていたという。43年東京市桃園第三国民学校卒業、東京都立石神井中学校(現、東京都立石神井高等学校)へ進む。戦後の46年夏、父の故郷である香川県を訪れた帰り、奈良の斑鳩で古寺をめぐり、阿修羅像を見て感動を覚えた。同年11月には朝日新聞の美術記者遠山孝の紹介で大磯の安田靫彦を訪問、持参した作品を見せ、入門を許される。鎌倉は東京から大磯へ毎週通い、写生を見てもらったり、天平時代の乾漆像の話などを聞いたりしたという。また、靫彦の勧めで若手の勉強のために開設された一土会に参加。新井勝利、加藤陶陵、森田曠平、沢田育、松田文子、宮本青架、友田白萠らと研鑽を積んだ。47年東京美術学校の受験に失敗、師靫彦の助言で進学を止め、中学校も退学、画道に邁進する。49年には火燿会に入会。また、44年まで東京美術学校助教授であった父の関係で、自宅によく来ていた里見勝蔵、清水多嘉示らから西欧美術について教示を受け、彫刻家の川口信彦から裸体デッサンやエジプトのレリーフなどについて教えを受けた。 51年師靫彦の許しを得、第36回院展に自宅の黒い犬を描いた「黒い犬と静物」を出品、初入選を果たし、以後も入選を重ねる。一土会解散後は靫彦門下の有志とともに青径会を結成、吉田善彦、郷倉和子、小谷津雅美、吉澤照子、小市美智子、西川春江らと研鑽を積む。鎌倉の交友関係は院展内部にとどまらず、日展系の作家にまで及び、戦後のさまざまな新しい傾向を会得していった。61年には第46回院展へ「天河譜」を出品して奨励賞を受賞、翌年の第47回展でも「月花」が奨励賞となる(第60、62、64、65回展でも受賞)。72年はじめてインドへ旅行し、同年の第57回院展に「熱国の市」を出品、特待に推挙される。以後もインドを主題とした作品を出品し、78年第63回院展の「乳糜供養」が日本美術院賞となった。またエジプトにも訪れ、81年の第66回院展へ古代エジプト墓室内の王妃と侍女を描いた「追想王妃の谷」を出品、2度目の日本美術院賞受賞。同年11月24日付で同人に推挙された。この頃より鎌倉は日本美術家連盟の委員を務めている。その後も「奏」(第67回院展、1982年)、「回想」(第68回院展、1983年)、「望」(第69回院展、1984年)、「砂漠へ」(第70回院展、1985年)、「樹精」(第41回春の院展、1986年)などエジプトを主題とした作品を次々に発表するが、87年からは一転して日本の伝統的な美へと目を向けるようになった。87年の第72回院展へは奈良・興福寺の阿修羅像を描いた「阿修羅」を出品、文部大臣賞を受賞。鎌倉はこの年の1月より、東京国立博物館で行われていた「模造古彫刻」の展観に出ていた阿修羅を連日写生し、興福寺へも実際に足を運んで出品作の制作にあたったという。同作は翌88年3月、文化庁の買い上げとなった。1989(平成元)年には第74回院展へ出品した「鳳凰堂」で内閣総理大臣賞を受賞。同年11月には日本橋三越にて個展を開催する。92年の第47回春の院展には鼓を打つひとりの舞妓を描いた「豆涼」を出品し、秋の第77回院展にもふたりの舞妓で構成した「豆千鶴・豆涼」を出品。鎌倉は舞妓の姿に、幼少期に見た歌麿の美人が重なるとして、以後も「豆涼・如月」(第48回春の院展、1993年)、「豆涼・新緑」(第78回院展、1993年)、「春宵豆涼」(第51回春の院展、1996年)、「豆千鶴」(第53回春の院展、1998年)などを出品している。一方で引き続き、古寺や仏像をテーマにした作品にも取り組み、「大仙院雪色」(第49回春の院展、1994年)、「法華堂内陣」(第79回院展、1994年)、「平等院阿弥陀如来像」(第80回院展、1995年)などを制作。96年の第81回院展には、5年来描き続けてきた京都・浄瑠璃寺の集大成として、「緑風浄瑠璃寺」を出品した。この間、94年6月には日本美術院監事となり院の運営にも尽力する(のち常務理事、業務執行理事)。99年の第54回春の院展には再び舞妓を描いた「豆菊・春陽」を出品、2003年頃まで「羅浮梅少女」(第84回院展、1999年)や「木花之佐久夜毘売」(第85回院展、2000年)、あるいは唐美人を描いた「胡楽想」(第87回院展、2002年)など、古典的な女性像の表現に取り組む。さらに06年からは第91回院展へ出品した「この実に裕美」のように、日本の現代女性を題材に作品を制作。晩年には梅や椿に猫を配した作品を多く展覧会へ出品した。 幼少期から抱き続けた天平というテーマを軸としつつも、インドやエジプトに取材した作品や、さまざまな女性像など、多彩なモチーフを手掛けた画家であった。

廣瀬賢治

没年月日:2017/01/26

読み:ひろせけんじ  西陣織・廣信織物の代表取締役で、表具用古代裂(金襴等)製作の選定保存技術保持者の廣瀬賢治は1月26日、膵臓がんのため死去した。享年73。 1943(昭和18)年8月4日、京都・西陣で代々続く織元の家に生まれ、23歳で家業の世界に入り、同じく選定保存技術保持者であった父の敏雄(故人)のもとで研鑽を積み、半世紀にわたり掛幅や〓風の表装に用いる古代裂の製作に取り組み、数多くの国宝や重要文化財などの修理に貢献した。古来、東洋の書画は掛幅や〓風などの形式に仕立てることが、鑑賞や保存において必要不可欠であり、特に掛幅は裂地の印象が作品鑑賞に大きく影響するため、裂の選択には特別な注意が払われてきた伝統がある。現代においても古美術作品の修理には、その作品の品質や格にふさわしく、より豊かな鑑賞をもたらすために、古い時代の裂(古代裂)を復元することが求められることが多い。古い時代とは様々な材料や道具、織機などが異なる状況において、廣瀬は常に古代裂の文様や組織、糸の状態などを綿密に調査した上で復元的に表装裂を織り上げることに精魂を傾けた。初めて中心的に裂の調製を担当した国宝修理は、85~87年に行った京都国立博物館所蔵の「釈〓金棺出現図」(11世紀)で、同館職員や修理担当者などと協議を重ね、聖護院所蔵の平安時代の錦を参照して復元的に表装裂を製作し、修理に用いた。そのほか「山越阿弥陀図」(永観堂禅林寺)、尾形光琳筆「燕子花図屏風」(根津美術館)など、数多くの重要な作品の修理に、廣瀬による手織りの金襴や錦、緞子が用いられている。図版などでは表装部分をのぞく本紙のみを切り抜いて掲載されることがほとんどであるが、寺院や美術館などで作品が展示される際、観覧者はその作品を裂とともに鑑賞している。古書画を物理的に保護し、その作品のもつ魅力を最大限に引き出しつつ、決して作品よりも目立たないのがよい表装であると言える。廣瀬は実際の作品や古い裂を丹念に観察し、より質の高い裂を作り上げる努力を常に惜しまなかった。こうした功績などにより、2007(平成19)年に表具用古代裂(金襴等)の選定保存技術保持者の認定を受けた。社会環境の変化などで着物産業が著しく衰退し、西陣織の織元や生産量、売上高が減少する厳しい状況下においても、「できないとは言わない。必ず挑戦する。」が廣瀬の信条で、数々の古代裂の復元に取り組み、16年には文化財の保存・修復に大きな功績のあった個人や団体を顕彰する第10回「読売あをによし賞」の本賞を受賞した。また国宝修理装〓師連盟による定期研修会において廣瀬が行った講演「織(羅)について」の内容が、『平成24年度 国宝修理装〓師連盟 第18回定期研修会』報告書に収載されている。

不動茂弥

没年月日:2016/12/15

読み:ふどうしげや  日本画家の不動茂弥は12月15日、呼吸不全のため死去した。享年88。 1928(昭和3)年1月11日、昭和3年1月11日兵庫県三原郡賀集福井(現、南あわじ市)に生まれる。父、栗林寅市、母、この。父方の叔父は日本画家の栗林太然。生後間もなく母方の叔父で、当時京都画壇で活躍していた淡路島出身の日本画家、不動立山の養嗣子として迎えられ、以後京都で育つ。44年、京都市立絵画専門学校(45年に京都市立美術専門学校と改称。現、京都市立芸術大学)に入学。戦時中、東京近辺の陸軍の諸学校へ教材用掛図の作成に学生の勤労動員として派遣される。敗戦後の47年、学内で行なわれた作品展への出品をきっかけに三上誠や山崎隆、星野眞吾らと新たな絵画運動を唱えるグループ結成に向けて話しあうようになる。48年同校日本画科を卒業。同年3月には三上、山崎、星野、不動、田中進(竜児)、日本画に席を置きながら洋画を描いていた青山政吉、陶芸の八木一夫と鈴木治を含めた8名によるグループのパンリアルを結成し、同年5月に京都の丸善画廊でパンリアル展を開催(この時には不動と田中は作品未完のため不出品)。7月には八木と鈴木が陶芸の前衛グループ走泥社を結成するため脱退。メンバーを日本画に絞り、新たに大野秀隆(俶嵩)や下村良之介らを交え、翌年、日本画壇の旧弊打破と膠彩表現の可能性追求を掲げてパンリアル美術協会を結成、5月に京都の藤井大丸で第1回展を開催する。不動は第1回展から74年の同会退会まで出品を続けた。戦後の混乱した社会状況を捉えた「物語」(1949年)や「机上の対話」(1950年)等の人物情景にはじまり、50年代後半から布、セメント、砂、焼板等を取り入れたアッサンブラージュによる作品「自潰作用」(1957年)や「焚刑」(1962年)、古い浄瑠璃本を曼荼羅のようにコラージュした「籠城」(1966年)等を発表。67年作の「落ちる文字」以降は、日本画の特質は描線・色面・記号性にあるとする自論に基づき、エアブラシやアクリルも積極的に取り入れる。パンリアル美術協会退会後は中村正義の呼びかけに応じて75年の東京展、また星野眞吾の从展に非会員として出品する以外は、無所属で個展による発表を続ける。日本を擬人化して変容する文明の渦中にある都市をモティーフとした「極地」(1985年)、「望郷」(1987年)、「何処へ」(1987年)、記号の象徴として専ら“→”を採用し、20世紀末の世界の混迷をテーマとした「情報化時代」(1991年)、「都大路の菩薩様」(1994年)、「落ちた偶像」(1995年)を制作、一貫して日本画の現代性を追究した。 制作の一方で72年に三上誠が結核で没した直後より、星野眞吾、批評家の木村重信、中村正義と4人で編集委員会を立ち上げ『三上誠画集』(三彩社、1974年)刊行に奔走。また晩年の三上の遺志を受け、80年代には福井県立美術館学芸員の八百山登らの協力も仰ぎながら、パンリアル美術協会設立時の記録を編集、88年に『彼者誰時の肖像 パンリアル美術協会結成への胎動』を自費出版し、同協会創成期の証言者としての役割を果たした。 没した翌年の2017(平成29)年には、京都国立近代美術館で追悼展示が行なわれている。

島田章三

没年月日:2016/11/26

読み:しまだしょうぞう、 Shimada, Shozo※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  日本芸術院会員の洋画家、島田章三は11月26日、すい臓がんのため死去した。享年83。 1933(昭和8)年7月24日、神奈川県三浦郡浦賀町に浦賀ドックのインテリアデザイナーであった父英之の三男として生まれる。40年大津尋常小学校(現、横須賀市立大津小学校)に入学するが43年に肋膜炎となり休学。同年、祖父の住む長野市に疎開。45年、横須賀に帰り、46年大津国民学校高等科に入学。在学中に佐々木雅人、金沢重治、熊谷九寿に絵を学び、神奈川県内の絵画コンクールで受賞を重ねる。49年横須賀高等学校に入学。52年に同校を卒業し東京藝術大学進学を志して川村伸雄のアトリエに通う。54年東京藝術大学油画科に入学。1年次は久保守、2年次は牛島憲之、3年次は山口薫、4年次は伊藤廉に師事。在学中の57年、柱時計を胸に抱き、顎に釣り合い人形を乗せた上向きの女性を描いた「ノイローゼ」で第31回国画会展に初入選。以後、同展に出品を続ける。同年10月サヱグサ画廊で「林敬二・島田章三二人展」を開催、12月には福島繁太郎の推薦によりフォルム画廊にて初個展を開催する。58年東京藝術大学油画科を卒業。同期生には後に前衛作家として活躍する高松次郎、中西夏之、工藤哲巳、具象画家の橋本博英、林敬二、油画修復家となった歌田眞介、山領まり、パルコのポスターで一世を風靡した山口はるみらがいる。同年、専攻科に進学し、第32回国画会展に「ひるさがり」を出品して同会会友となる。60年、同学専攻科を卒業。61年第35回国画会展に抽象化された形体と重厚なマチエールによる「うしかなし」「とりたのし」を出品して同会会員となる。同年第5回安井賞候補新人展に「うしかなし」「とりたのし」で入選。61年、大学の同級生であった田中鮎子と結婚。66年、新設された愛知県立芸術大学に恩師伊藤廉に請われて講師として赴任。67年第11回安井賞候補新人展に馬と母子を描いた「母と子のスペース」、牛に乗る女性を描いた「エウローペ」を出品して前者により安井賞を受賞。68年愛知県在外研究員として渡欧しパリを拠点にスペイン、イタリアにも巡遊。古典から現代まで広く西洋美術に接し、特にピカソ、ブラック、レジェなどキュビスムの作家らが「絵を思考している」ことを知り、「形態を再構成していく立体派を、日本人の言葉(造形)で翻訳してみたいものだ」と考え、色面・線・画肌を軸に再考。また、西洋の芸術運動がその地の生活に根ざしたものであることを知り、自らの身の回りの日常に取材してかたちを生み出す「かたちびと」のテーマへの契機を得る。69年9月に帰国し、愛知県立芸術大学助教授となる。79年藤田吉香、大沼映夫ら10名の洋画家で「明日への具象展」を設立して同人となり、同年の第1回展に「炎」「波」を出品する。同展には84年まで毎年出品。80年、「島田章三自選展」を丸栄スカイルおよび東京銀座の和光で開催。また同年、「炎」(1979年)などの作品により第3回東郷青児美術館大賞を受賞し、東郷青児美術館にて展覧会を開催する。同年アメリカへ、83年ブラジルへ旅行。また、同年池田20世紀美術館にて「島田章三の世界展」を開催。1990(平成2)年、前年の第63回国画会展出品作でブラックの名が記された鳥の絵を画面上部中央に配した室内人物画「鳥からの啓示」により第8回宮本三郎記念賞を受賞。同年愛知県立芸術大学芸術資料館館長に就任。92年同学教授を退任し、96年に名誉教授となり、2001年から07年3月までは同学学長を務める。99年、前年の第72回国画会展出品作「駅の人たち」により第55回日本芸術院賞を受賞し日本芸術院会員となる。04年文化功労者となる。07年4月から10年12月まで愛知芸術文化センター総長を務める一方、07年から11年3月まで郷里の横須賀美術館館長を務める。1950年代以降、前衛的な表現が次々と生み出される中で、島田は「表現とは形にならないものから形をつくるもの」(『島田章三』、芸術新聞社、1992年)と語り、古賀春江、香月泰男、山口薫らによる「形をリリシズムで扱う、日本に芽生えた、モダニズムの仕事」(同上)を引き継ごうと試みた。93年5月に郷里の横須賀市はまゆう会館で「島田章三展」、99年に三重県立美術館ほかで「島田章三展 かたちびと」、11年に愛知県美術館、横須賀美術館で「島田章三展」が開催されている。11年の展覧会図録には詳細な年譜と作家自身による作品解説が掲載されている。著書に『島田章三画集』(求龍堂、1980年)、『S. Shimada essays & pictures』(大日本絵画、1984年)、『島田章三 かたちびと』(美術出版社、1988年)、『島田章三画集』(ビジョン企画出版社、1992年)、『島田章三』(アートトップ叢書、芸術新聞社、1992年)、『島田章三:現代の洋画』(朝日新聞社、1996年)、『島田章三画集』(ビジョン企画出版社、1999年)、『ファイト:島田章三画文集』(求龍堂、2009年)がある。

原田治

没年月日:2016/11/24

読み:はらだおさむ、 Harada, Osamu※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  イラストレーターの原田治は11月24日、死去した。享年70。 1946(昭和21)年4月27日、東京都築地で輸入食料品の卸売商を営む家に生まれる。小学生の頃より洋画家の川端実に師事。抽象画家を志すも、生計のための制作であってはならないという川端の助言で諦め、多摩美術大学のデザイン科に進学する。69年、同大学グラフィックデザイン科を卒業。卒業後渡米し、ニューヨークでプッシュピン・スタジオによるイラストレーションに刺激を受ける。帰国後の70年、アートディレクター堀内誠一の起用により雑誌『an・an』の創刊号でイラストレーターとしての活動を開始、以後、出版や広告の仕事が舞い込むようになる。70年代前半は雑誌や広告の内容に合わせて約10種類のスタイルを編み出し、様々な仕事の需要に応えるが、75年にコージー本舗の石井静夫が原田のイラストレーションを使った雑貨商品の製作販売を依頼したことにより、キャラクターグッズの“オサムグッズ”を開発、オリジナルのスタイルを確立する。欧米の絵本や50年代のアメリカ文化の要素を取り入れた“オサムグッズ”は、80年代にファンシーグッズ店の増加とともに全国的なブームとなった。79年、ペーター佐藤、安西水丸、新谷雅弘等とともにパレットクラブを結成。1997(平成9)年には築地にパレットクラブ・スクールを設立、エンターテインメントとしてのイラストレーションの心構えを講じる。著書に『EXTRAORDINARY LITTLE DOG』(PARCO出版、1981年)、『ぼくの美術帖』(PARCO出版、1982年)、『オサムグッズ・スタイル』(ピエ・ブックス、2005年)等。児童向け絵本の挿絵も手がけ、『かさ』(福音館書店、1992年)、『ももたろう』(小学館、1999年)、『ハイク犬』(学習研究社、2008年)等がある。没する直前の2016年7月1日から9月25日まで、弥生美術館で「オサムグッズの原田治展」が開催。また07年から10年まで『芸術新潮』に連載の美術エッセイを中心にまとめた『ぼくの美術ノート』は、没した翌年の17年2月に亜紀書房より刊行された。

堀越千秋

没年月日:2016/10/31

読み:ほりこしちあき、 Horikoshi, Chiaki※(※を付した表記は国立国会図書館のWeb NDL Authoritiesを典拠とします)  スペインを拠点に活動した画家の堀越千秋は10月31日、多臓器不全のためマドリードで死去した。享年67。 1948(昭和23)年11月4日、東京都文京区駒込千駄木町に生まれる。祖父は日本画家滝和亭に師事した画家、父も小学校の図工の教師であった。69年東京藝術大学油画科に入学、田口安男のテンペラ画の授業を受ける。また在学中に解剖学者三木成夫による美術解剖学の講義に感銘を受け、その理論・思想は以後の堀越の画業のバックボーンとなる。73年大学院に進学、その年8ヶ月間にわたりヨーロッパを放浪、とくにスペインの地に魅せられる。プラド美術館ではロヒール・ファン・デル・ウェイデンの「十字架降下」を模写した。75年東京藝術大学大学院油画専攻修了。翌年スペイン政府給費留学生として渡西、マドリードの国立応用美術学校で石版画を学ぶ傍ら、テンペラ画等の様々な技法に挑戦。80年最初の個展をマドリードのエストゥーディオ・ソト・メサで開催。82年に帰国し、日本で初めての個展(東京、セントラル絵画館)を開催。84年にニューヨークに約一ヶ月間滞在、ソーホーでニューペインティングに刺激を受け、制作上の転機となる。奔放な筆致と明るい色使いで、抽象と具象の入り混じった世界を描いた。1995(平成7)年頃より埼玉県児玉郡神泉村(現、神川町)に居を構え、スペインと日本を往来するようになる。03年からは同村に“千秋窯”を拵え、焼き物に興じた。03年、装丁画を担当した『武満徹全集』(全5巻、小学館)が経済産業大臣賞を受賞、ライプチヒの「世界で最も美しい本コンクール」に日本を代表して出品される。05年絵本『ドン・キ・ホーテ・デ・千秋』(木楽舎)刊行。07年から16年まで、ANAの機内誌『翼の王国』の表紙絵を連載。また07年以降、世界的なフラメンコの踊り手である小島章司の舞踊団のための舞台美術を手がけるようになる。14年スペイン国王よりエンコミエンダ文民功労章を受章。旺盛な文筆活動でも知られ、フラメンコ専門誌『パセオフラメンコ』への連載(1986~2012年)をはじめ新聞・雑誌にエッセイを多数執筆。『渋好み純粋正統フラメンコ狂日記』(主婦の友社、1991年)、『スペイン七千夜一夜』(集英社文庫、2005年)、『絵に描けないスペイン』(幻戯書房、2008年)、『赤土色のスペイン』(弦書房、2008年)等の著作がある。14年3月から16年11月に『週刊朝日』に連載された古今東西の名品をめぐるエッセイ「美を見て死ね」は、没後の17年にエイアンドエフより単行本として刊行された。フラメンコで歌われるカンテの名手としても著名で、逝去の際、スペインの新聞はカンテ歌手の死と報じられている。生前より企画されていた画集は18年に『堀越千秋画集 千秋千万』(大原哲夫編集室)として刊行された。

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