中野淳

没年月日:2017/03/23
分野:, (洋)
読み:なかのじゅん

 洋画家で武蔵野美術大学名誉教授の中野淳は3月23日、急性心臓死のため死去した。享年91。
 1925(大正14)年8月22日、東京府の両国に生まれる。1938(昭和13)年に安田学園中学校に入学、在学中から油絵を描きはじめ、川端画学校洋画部でデッサンを学んだ。43年に同中学校を卒業すると、川端画学校、本郷洋画研究所に通った。同年11月、第2回新人画会展で松本竣介の出品作「運河風景」(出品時の題名であり、現在の「Y市の橋」東京国立近代美術館蔵である)に感銘を受ける。その後、知人の紹介で松本竣介のアトリエを訪ね、以後親しく批評などを受けるようになった。47年、戦後再開した第21回国展、第11回自由美術展、第31回二科展にそれぞれ初入選した。同年、松本竣介の依頼により、通信教育の育英社の仕事を手伝った。48年、自由美術家協会の会員に推挙され、以後64年まで、同展に出品をつづけた。57年7月、モスクワで開催された世界青年学生平和友好祭国際美術展に参加、出品した「風景」によってプーシキン美術館賞受賞。64年、自由美術家協会を退会し、退会した画友たちと主体美術協会創立に参加。79年、武蔵野美術大学教授となる。86年7月、東京富士美術館にて約70点からなる「中野淳展」を開催。同年9月には、『中野淳画集』(アートよみうり)を刊行。1994(平成6)年1月、主体美術協会を退会、新作家美術会を結成。同会は、後に新作家美術協会と改められ、2016年の第23回展まで毎年出品をつづけた。同年、第9回小山敬三美術賞を受賞、7月に受賞記念展を日本橋高島屋で開催。95年9月、同大学退職を記念して「中野淳教授作品展」を同大学美術資料図書館にて開催。99年8月、『青い絵具の匂い―松本竣介と私』(中公文庫、中央公論新社)を刊行。
 長い画歴のなかで、その時代ごとの思潮に敏感に反応しながら画風を変えていったが、堅実な写実表現に徹して、油彩画の構成、技法等の骨格を見失うことはなかった。それは青年期に出会った松本竣介や戦後知己となった岡鹿之助からの教えを守ったためであろう。松本竣介との交流については、上記の本に詳しく回顧され、貴重な記録となっている。また、同書の続編として企画されながら、没後に刊行された『画家たちの昭和―私の画壇交流記』(中央公論新社、2018年3月)も、中野の画家として生きた時代の私的な記録として貴重な内容となっている。

出 典:『日本美術年鑑』平成30年版(436頁)
登録日:2020年12月11日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「中野淳」『日本美術年鑑』平成30年版(436頁)
例)「中野淳 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/824201.html(閲覧日 2024-03-29)

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