鎌倉秀雄
日本画家の鎌倉秀雄は3月14日、呼吸不全のため死去した。享年86。
1930(昭和5)年10月27日、東京・麹町に生まれ、その後すぐ田端へと転居する。父は73年に型絵染の重要無形文化財保持者に認定された鎌倉芳太郎、母は帝展洋画部で活躍した山内静江で、幼少期より院展や帝展、戦争画展などに親しみ、独学で武者絵などを描いていたという。43年東京市桃園第三国民学校卒業、東京都立石神井中学校(現、東京都立石神井高等学校)へ進む。戦後の46年夏、父の故郷である香川県を訪れた帰り、奈良の斑鳩で古寺をめぐり、阿修羅像を見て感動を覚えた。同年11月には朝日新聞の美術記者遠山孝の紹介で大磯の安田靫彦を訪問、持参した作品を見せ、入門を許される。鎌倉は東京から大磯へ毎週通い、写生を見てもらったり、天平時代の乾漆像の話などを聞いたりしたという。また、靫彦の勧めで若手の勉強のために開設された一土会に参加。新井勝利、加藤陶陵、森田曠平、沢田育、松田文子、宮本青架、友田白萠らと研鑽を積んだ。47年東京美術学校の受験に失敗、師靫彦の助言で進学を止め、中学校も退学、画道に邁進する。49年には火燿会に入会。また、44年まで東京美術学校助教授であった父の関係で、自宅によく来ていた里見勝蔵、清水多嘉示らから西欧美術について教示を受け、彫刻家の川口信彦から裸体デッサンやエジプトのレリーフなどについて教えを受けた。
51年師靫彦の許しを得、第36回院展に自宅の黒い犬を描いた「黒い犬と静物」を出品、初入選を果たし、以後も入選を重ねる。一土会解散後は靫彦門下の有志とともに青径会を結成、吉田善彦、郷倉和子、小谷津雅美、吉澤照子、小市美智子、西川春江らと研鑽を積む。鎌倉の交友関係は院展内部にとどまらず、日展系の作家にまで及び、戦後のさまざまな新しい傾向を会得していった。61年には第46回院展へ「天河譜」を出品して奨励賞を受賞、翌年の第47回展でも「月花」が奨励賞となる(第60、62、64、65回展でも受賞)。72年はじめてインドへ旅行し、同年の第57回院展に「熱国の市」を出品、特待に推挙される。以後もインドを主題とした作品を出品し、78年第63回院展の「乳糜供養」が日本美術院賞となった。またエジプトにも訪れ、81年の第66回院展へ古代エジプト墓室内の王妃と侍女を描いた「追想王妃の谷」を出品、2度目の日本美術院賞受賞。同年11月24日付で同人に推挙された。この頃より鎌倉は日本美術家連盟の委員を務めている。その後も「奏」(第67回院展、1982年)、「回想」(第68回院展、1983年)、「望」(第69回院展、1984年)、「砂漠へ」(第70回院展、1985年)、「樹精」(第41回春の院展、1986年)などエジプトを主題とした作品を次々に発表するが、87年からは一転して日本の伝統的な美へと目を向けるようになった。87年の第72回院展へは奈良・興福寺の阿修羅像を描いた「阿修羅」を出品、文部大臣賞を受賞。鎌倉はこの年の1月より、東京国立博物館で行われていた「模造古彫刻」の展観に出ていた阿修羅を連日写生し、興福寺へも実際に足を運んで出品作の制作にあたったという。同作は翌88年3月、文化庁の買い上げとなった。1989(平成元)年には第74回院展へ出品した「鳳凰堂」で内閣総理大臣賞を受賞。同年11月には日本橋三越にて個展を開催する。92年の第47回春の院展には鼓を打つひとりの舞妓を描いた「豆涼」を出品し、秋の第77回院展にもふたりの舞妓で構成した「豆千鶴・豆涼」を出品。鎌倉は舞妓の姿に、幼少期に見た歌麿の美人が重なるとして、以後も「豆涼・如月」(第48回春の院展、1993年)、「豆涼・新緑」(第78回院展、1993年)、「春宵豆涼」(第51回春の院展、1996年)、「豆千鶴」(第53回春の院展、1998年)などを出品している。一方で引き続き、古寺や仏像をテーマにした作品にも取り組み、「大仙院雪色」(第49回春の院展、1994年)、「法華堂内陣」(第79回院展、1994年)、「平等院阿弥陀如来像」(第80回院展、1995年)などを制作。96年の第81回院展には、5年来描き続けてきた京都・浄瑠璃寺の集大成として、「緑風浄瑠璃寺」を出品した。この間、94年6月には日本美術院監事となり院の運営にも尽力する(のち常務理事、業務執行理事)。99年の第54回春の院展には再び舞妓を描いた「豆菊・春陽」を出品、2003年頃まで「羅浮梅少女」(第84回院展、1999年)や「木花之佐久夜毘売」(第85回院展、2000年)、あるいは唐美人を描いた「胡楽想」(第87回院展、2002年)など、古典的な女性像の表現に取り組む。さらに06年からは第91回院展へ出品した「この実に裕美」のように、日本の現代女性を題材に作品を制作。晩年には梅や椿に猫を配した作品を多く展覧会へ出品した。
幼少期から抱き続けた天平というテーマを軸としつつも、インドやエジプトに取材した作品や、さまざまな女性像など、多彩なモチーフを手掛けた画家であった。
登録日:2020年12月11日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「鎌倉秀雄」『日本美術年鑑』平成30年版(435-436頁)
例)「鎌倉秀雄 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/824196.html(閲覧日 2024-12-04)
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