本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





松本哲男

没年月日:2012/11/15

読み:まつもとてつお  日本画家の松本哲男は11月15日、石川県立美術館での第97回院展オープニングに出席するため金沢市に滞在中、呼吸不全のため死去した。享年69。 1943(昭和18)年7月29日、栃木県佐野市に生まれる。61年栃木県立佐野高等学校を卒業後、日本画家の塚原哲夫に絵を学ぶ。はじめは東京藝術大学建築科を志望、2年間浪人の後、宇都宮大学教育学部美術科に入学。68年同大学を卒業後、栃木県立那須高等学校に美術教師として赴任、那須の自然の魅力にうたれて本格的に日本画を描き始める。72年には栃木県立今市高等学校に異動し、79年まで高校教師を続けながら制作に励んだ。69年第54回院展に「冬山」が初入選、以後院展に出品を続ける。72年第57回院展に「叢林」を出品、院友に推挙され今野忠一に師事、74年第59回院展で「山」が日本美術院賞・大観賞を受賞、特待に推され郷倉千靱に師事。75年第1回栃木県文化奨励賞を受賞。76年第61回院展で日光の金精山をテーマに山岳風景を心象化した「巌」が二度目の日本美術院賞・大観賞を得る。一連の山岳シリーズでは、山肌や樹林を細密に描写して独自の画風を示した。77年には第4回山種美術館賞展で「山」が人気賞を獲得。その後79年「壮」、80年「天壇」、81年「トレド」、82年「山水譜」、83年「大同石仏」と連続して院展奨励賞を受賞し、83年日本美術院同人に推挙。「大同石仏」は84年に芸術選奨文部大臣新人賞を受賞。87年「悠久の宙・中国を描く―松本哲男展」が西武アートフォーラムで開催。1989(平成元)年第74回院展で「エローラ(カイラ・サナータ寺院)」が文部大臣賞、93年第78回院展では「グランド・キャニオン」が内閣総理大臣賞を受賞。那須の自然に始まりスペイン、ネパール、中国、アメリカの大自然を題材に、繊細な筆線で画面を埋め尽くし、モティーフの感触を確かめながら自然に近づく制作態度を一貫して保つ。93年に東北芸術工科大学芸術学部助教授(95年より教授)となって後進の指導にあたり、2006年から11年まで学長を務めた(11年には同大学名誉学長に就任)。94年、栃木県文化功労者として表彰。同年にパリ・三越エトワールで「地と宙へ 松本哲男展」を開催。05年には、90年代半ばより取り組んでいた世界三大瀑布(ナイアガラ、ヴィクトリア・フォールズ、イグアス)のシリーズを完成させ、宇都宮美術館で記念展を開催。08年には同シリーズにより第16回MOA岡田茂吉賞絵画部門大賞を受賞。この間06年には日本美術院理事となる。没後の13年から14年にかけて、佐野市立吉澤記念美術館にて師の一人であり終生親交を結んだ塚原哲夫との二人展が開催されている。

宇佐美圭司

没年月日:2012/10/19

読み:うさみけいじ  画家で、武蔵野美術大学、京都市立芸術大学等で教授として教鞭をとった現代絵画家の宇佐美圭司は、10月19日食道がんのため福井県越前町の自宅で死去した。享年72。 1940(昭和15)年1月29日、大阪府吹田市に生まれる。幼少期を和歌山県和歌山市で過ごした後、58年大阪府立天王寺高等学校を卒業、同年に上京、東京藝術大学受験を目指した。しかし受験に向けた素描、油彩からはずれた抽象化された繊細なドローイング、油彩画を描くようになり、不定型なフォルムが画面をおおい尽くすアメリカ抽象表現主義の影響を感じさせながらも、青年らしい繊細さと鋭さがあるオールオーヴァーな平面作品を製作するようになる。63年には南画廊で初個展開催。66年、初めてニューヨークを訪れる。以後、72年までたびたび同地に滞在した。現代美術の潮流が、抽象表現主義から、ジャスパー・ジョーンズ、ロバート・ラウシェンバーグ等を中心に、ネオ・ダダ、ポップアートへと伝統的で形骸化した「絵画」という形式に対する懐疑と否定を主張する表現を前にして、決定的な影響を受けた。そうした転換期にあって画家自身が、たびたび以下のように述懐するように、一枚の報道写真のイメージがその後の創作にとって大きな要素となった。「1965年、アメリカ各地で黒人暴動があり、『アメリカの暑い夏』と言われた。私の絵に使用している形はロスアンゼルス郊外のワッツ地区のもので『ワッツの暴動』といわれた報道写真から抜け出してきたのである。(中略)私はその写真に強くひきつけられた。街路樹、看板、襲撃を受ける店、道いっぱいに広がる群衆。私はその風景をなかば抽象化して『路上の英雄』というシリーズの作品を発表した。それ以来記号化した人間の形は、私の作品のかわらぬモチーフになってきた。」(「思考空間」、『思考空間 宇佐美圭司 2000年以降』カタログ、財団法人池田20世紀美術館、2007年10月-08年1月)以後、画面のなかの人型が、軽快な色面としての記号として反復、変容しながら、感情表現を排した一見概念図ともみられるような構成をとる絵画をシリーズとして制作するようになった。 68年、第8回現代日本美術展(東京都美術館)で大原美術館賞受賞。69年、J.D.ロックフェラー三世財団より奨学金を受ける。72年、第36回ヴェネツィア・ビエンナーレの日本館出品。81年、多摩美術大学芸術学科助教授となる。1989(平成元)年、第22回日本芸術大賞受賞。翌年、武蔵野美術大学油絵科教授となる。91年、福井県越前海岸に「海のアトリエ」を作る。92年、セゾン現代美術館(長野県北佐久郡軽井沢町)他にて「宇佐美圭司回顧展」開催。93年、『心象芸術論』(新曜社)を刊行、翌年同書掲載の「心象スケッチ論 宮澤賢治『春と修羅』序 私註」により第4回宮澤賢治奨励賞を受賞。96年、武満徹とのコラボレーション「時間の園丁」制作。2000年から05年まで、京都市立芸術大学教授を務める。01年6月から10月まで、「宇佐美圭司・絵画宇宙」展を開催。10代の初期水彩作品から近作まで251点から構成された回顧展となった(福井県立美術館、和歌山県立近代美術館、三鷹市美術ギャラリー巡回)。02年、芸術選奨文部科学大臣賞受賞。07年10月から08年1月には、池田20世紀美術館(静岡県伊東市)において「思考空間 宇佐美圭司 2000年以降」を開催。2000年以降制作の水彩、油彩の大作22点によって構成された展覧会となる。12年3月から6月まで、大岡信ことば館(静岡県三島市)において、新作2点を含む41点による「宇佐美圭司 制動(ブレーキ) 大洪水展」が開催されたが、前年の東日本大震災以後ということを強く意識した同展が生前最後の展覧となった。13年10月から12月まで、セゾン現代美術館にて「没後一年 宇佐美圭司」展が開催された。 アメリカ現代美術がもっとも熱気と変革の思想をはらんだ時代である1960年代から70年代のアメリカ現代美術の影響をうけながら、独自の絵画思考を深めることができた美術家であった。その点からも、同時代の日本の現代美術の展開を回顧するうえで欠くことのできない作品を数多く残した。それらの作品においては、記号化され、シルエットのように平面化された人間の形は、現代における人間存在の危機的で象徴的な記号(フォルム)として変容、変化しつつも、画家にとって終生にわたるモチーフ、あるいは表現、構成の要素であった。 さらに多くの著述のなかで記された芸術論は、絵画の歴史をふりかえることで深められた思考として、すぐれた現代美術論ともなっている。また晩年にいたる展開は、文明論的なスケールの大きさを感じさせる旺盛な創作に挑んでいた。 なお、主要な著作、作品集は下記にあげるとおりである。『絵画論―描くことの復権』(筑摩書房、1980年)『線の肖像―現代美術の地平から』(小沢書店、1980年)『デュシャン(20世紀思想家文庫)』(岩波書店、1984年)『記号から形態へ―現代絵画の主題を求めて』(筑摩書房、1985年)『心象芸術論』(新曜社、1993年)『絵画の方法』(小沢書店、1994年)『20世紀美術』(岩波書店、1994年)『絵画空間のコスモロジー―宇佐美圭司作品集 ドゥローイングを中心に』(美術出版社、1999年)『廃墟巡礼―人間と芸術の未来を問う旅』(平凡社、2000年)

室井東志生

没年月日:2012/10/05

読み:むろいとしお  日本画家で日展理事の室井東志生は10月5日、胃がんのため死去した。享年77。 1935(昭和10)年2月25日、福島県下郷町に生まれる。本名利夫。中学時代より日本画に憧れ、高校卒業後に上京して東京都内の美術学校に通うも身体を壊し帰郷。中学教師を勤める傍ら県総合美術展覧会(県展)に出品、審査員の大山忠作と交流を深め再び上京、大山の紹介で58年橋本明治に師事する。60年第3回新日展に東志生の雅号で応募した「緑蔭」が初入選し、以後毎年入選。67年法隆寺金堂壁画再現模写で橋本明治班に加わり11号壁の普賢菩薩像模写に従事。69年には橋本明治の助手として皇居新宮殿正殿松の間杉戸絵「桜」制作に携わる。69年改組第1回日展で「家族」が特選・白寿賞、78年10回展で「女人」が特選を受賞。83年日展会員となる。85年には院展の高橋常雄、大矢紀、日展の中路融人とともに異歩騎会を結成。1995(平成7)年「夢結」で第27回日展会員賞受賞。99年日展評議員となる。2004年第36回改組日展で舞妓と孔雀を描いた「青曄」が内閣総理大臣賞を受賞。12年日展理事となる。気品のある中に妖しさをはらんだ作風を追究、舞妓や、五代目坂東玉三郎、五代目柳家小さんら著名人をモデルとした作品を発表し人気を博した。

森秀雄

没年月日:2012/09/20

読み:もりひでお  エアブラシによる写真のような画面で青空を背景とする人物像を描いた洋画家森秀雄は9月20日、大腸がんのために死去した。享年77。 1935(昭和10)年7月27日、三重県鈴鹿市江島町に生まれる。父は伊勢型紙の彫り師であった。59年東京藝術大学絵画科油画専攻を卒業。小磯良平に師事した。学生時代、塗り重ねによる重厚な絵肌の油彩画の制作が不得手であると認識し、写真を画面に写し取り、エアブラシで着色する方法の研究を始める。62年第12回モダンアート協会展に「SAKUHIN「P」」を出品して奨励賞受賞。63年、第13回同展に「美学の裏側」を出品して新人賞受賞。66年、モダンアート協会を退会し、翌年から一陽展に出品。67年、リキテックス絵の具の輸入を高松次郎とともに奨励し、絵の具を画面に吹き付けるためのスプレーガンの改造を北伸精器と重ねる。同年第13回一陽展に「PARALLEL-オンナ」、「PARALLEL-赤の帯」を出品して一陽賞受賞。68年、第14回一陽展に「SUN WARD SUN WARDS (彼女とバラと)」「LISING SUN(彼女とバラと)」を出品して一陽会会友となる。69年、紀伊国屋画廊にて個展「偽りの青空」を開催。エアブラシによる写真のように平滑な色面で、青空を背景に人体石膏像を描く「偽りの青空」シリーズは、材料・技法の新しさと斬新な表現で注目された。69年第15回一陽展に「青の広告(白による)」「青の広告(青による)」を出品して、同会員に推挙される。70年から76年までジャパンアートフェスティヴァルに出品。同展は70年には米国のグッゲンハイム美術館他で、71年はリオとミラノで、72年はメキシコとアルゼンチンで、73年は西ドイツほかで、74年はカナダで、75年はオーストラリア、ニュージーランドで、76年は米国で開催された。74年、日本国際美術展(毎日新聞社主催)に招待出品して優秀賞を受賞。80年、青空と波立つ海を背景に左胸部が破損したミロのヴィーナスの像をエアブラシによって再現的に描いた「偽りの青空-蘇えるヴィーナス」で第23回安井賞特別賞受賞。81年、「10人の画家たち展」(神奈川県立近代美術館)に「偽りの青空」シリーズの6点を出品。84年、池田20世紀美術館で「森秀雄 青の世界」展を開催。87年、第10回東郷青児美術館大賞を受賞。88年には池田20世紀美術館に800号の壁画「My Dream(一碧湖)」を完成させる。画面にスプレーによって絵の具を吹き付けて白い雲の浮かぶ青空を背景に石膏像のような人物像を描き、フォトリアリズムとシュールレアリズムを融合した画風を示した。その作風は、同様の傾向を示した三尾公三の作品とともに、広く受け入れられたが、高度成長が進み、都市に高層ビルが林立する一方で、軽薄短小な傾向が評価され、人間性が疎外されていった1960年代後半からの日本社会を反映しているようでもある。2001(平成13)年にはニューヨークのウエストウッドギャラリーで個展を開催。翌年にはジャパン・インフォメーション・カルチャー・センター(ワシントンDC)で日本大使館主催による個展「偽りの青空」を開催した。05年、東京芸術劇場にて「森秀雄展 偽りの青空」を開催。06年、一陽会代表となる。10年には中国美術館にて同館主催の個展「偽りの青空 森秀雄」展が開催され、国際的にも知られた。

織田廣喜

没年月日:2012/05/30

読み:おだひろき  日本芸術院会員で二科会名誉理事長の洋画家織田廣喜は5月30日、心不全のため八王子市の病院で死去した。享年98。 1914(大正3)年4月19日、福岡県嘉穂郡千手村(現、嘉麻市)に生まれ、17年に隣村の碓井村に転居する。1929(昭和4)年、碓井尋常高等小学校高等科を卒業。麻生鉱業に勤務していた父が病気になったため、家計を助けるため陶器の絵付けなどをして働き、福岡市の菓子店に勤めたのち、碓井村に戻り郵便局員として勤務。31年から同村に住む帝展作家犬丸琴堂(慶輔)に油彩画の指導を受け、同年の福岡県美術展にゴッホの影響を示す「ひまわり」という作品で入選する。32年に上京し34年に日本美術学校絵画科に入学。当時は大久保作次郎が指導しており、後に藤田嗣治、林武らにも師事する。在学中、3年ほど美術雑誌『みづゑ』の編集発行を行っていた大下正男のもとで発送作業などを行う。39年日本美術学校西洋画科を卒業。1940年第27回二科展に「未完成(室内)」で初入選。43年、徴用により横川電機製図部に入る。45年の終戦後、進駐軍に雇われ兵舎のホール等に壁画を描く。46年、100号のカンヴァスに3人の着衣の女性の立像を白と黒のペンキで描いた「黒装」を第31回二科展に出品して二科賞受賞。47年第1回美術団体連合展に「憩ひ」を出品。以後、同展には第5回まで出品を続ける。49年第34回二科展に「楽」「立像」「群像」「黄」「静物」が入選し、二科会準会員となる。翌50年第35回同展に「讃歌」「曲」「女」を出品して同会会員に推挙される。「讃歌」は800号の大作で、当時、画力向上のために大画面制作を奨励していた二科会で高い評価を得た。51年、二科会の画家萬宮(まみや)リラと結婚。52年、第1回日本国際美術展(毎日新聞社主催)に「無題」「女」「静物」を出品し、以後も同展に出品を続ける。同年、第37回二科展に「酒場」「風景」「女」を出品して会員努力賞受賞。54年第1回現代日本美術展(毎日新聞社主催)に「群像」「風景」を出品し、以後も出品を続ける。60年に初めて渡仏し、それまで夢見ていたフランスを実見して、現実と想像の差異を認識するとともに、その認識を踏まえた上で想像力をもって描くことの重要性に思い至る。対仏中にサロンドートンヌに出品して翌年帰国。62年にも渡仏し、スペイン、イタリアを訪れて翌年4月に帰国。62年、第1回国際形象展に「パリ祭」「モンマルトル」を招待出品し、以後、同展に出品を続け、72年に同展同人となる。66年4月から9月まで渡欧し、スペイン各地を旅行して制作する。68年第53回二科展で「小川の女たち」「サンドニーの少女」を出品して内閣総理大臣賞受賞。71年第56回同展に「水浴」を出品して青児賞受賞。同年、パリのエルヴェ画廊で初めての個展を開催。70年、73年にも渡仏。80年11月、「パリの女を描いて20年、織田広喜展」が日本橋三越で開催される。82年3月、福岡市美術館で「憂愁の詩人画家 織田広喜」展が開催される。1995(平成7)年3月に前年の二科展出品作「夕やけ空の風景」によって日本芸術院恩賜賞・日本芸術院賞を受賞、同年11月に日本芸術院会員(洋画)に選ばれた。96年碓井町立織田廣喜美術館が開館。2003年フランス政府より芸術文化勲章(シュヴァリエ章)を受章。2006年二科会理事長となり、12年には名誉理事長に就任した。現実そのままを描くのではなく、「想像し嘘をつく」ことが絵の制作には必要であると語り、初期から晩年まで、デフォルメされ浮遊するような女性像を特色とする幻想的な作品を描き、人気を博した。主な画集に『織田広喜画集-作品1940-1980』(講談社、1981年)、『織田広喜』(田中穣著、芸術新聞社、1993年)などがある。

横尾茂

没年月日:2012/05/03

読み:よこおしげる  自由美術協会会員の画家、横尾茂は5月3日午後1時40分、肝不全のために死去した。享年78。 1933(昭和8)年5月16日、新潟県東頚城郡浦川原村横住に生まれる。53年に上京し、働きながら56年4月に文化学院に入学して山口薫、佐藤忠良に学ぶ。60年3月に同校を卒業後、大森絵画研究所で人体デッサンを中心に研究。61年、第25回自由美術展に「野」で初入選。64年第28回同展に「遊歩」「帰路」を出品して佳作作家に推薦され、翌65年に同会員となる。74年第38回同展に「季の唄」「あひるちゃん」を出品して自由美術賞を受賞。同年には石彫「がんこもの」も出品している。日本画郎で行われる自由美術協会の井上長三郎、山下菊二、一木平蔵らによるグループ展に幾度も参加し、76年10月同画廊で初めての個展を行った。77年に線描による山水画のような背景にふたりの少女の顔をデフォルメして描いた「里のひろみとうちのはあちゃん」と、同じく線描による風景画「雨季」を出品し、前者で第20回安井賞を受賞。同作品について審査員であった本間正義は、油彩画でありながら「白描的な味わいで」「素朴でユーモラスな土俗的なにおいを発散しているところが、なんとも愉快である」と評している。79年第1回「明日への具象展」に「裾野」を出品。80年の第2回同展には「よこたわり」を、81年第3回同展には「里へ御出座の大威徳明王」を出品。85年に郷里の新潟浦川原にて「横尾茂の世界 雪と土とそしてふるさと」展を開催。88年にも浦川原芸術祭で「横尾茂と郷土の作家達展」を開催する。身近なモティーフに取材しながら、変化の激しい現代社会の表層を穿つ作品を描き、再現描写的な対象の把握を踏まえ、曲線を多用した有機的なかたちにデフォルメする独自の画風を示した。1950年代から、支持体に絵の具を塗り重ねていく油彩画技法に疑問を抱いており、70年代には塗り重ねた絵の具層を削る絵づくりが行われるようになった。学生時代に様々な技法を学ぶ中で、立体造形において粘土をつけていく塑像よりも彫りこんでいく彫像制作の作業に共感しており、絵の具層を削る技法は、「本質的なものだけを現出させる東洋の美学」に通ずるものと位置づけていた。郷里の浦川原区に横尾茂ギャラリーが開設されている。自由美術展出品略歴25回(1961年)「野」(初入選)、28回(1964年)「遊歩」「帰路」(佳作賞)、38回(1974年)「季の唄」「あひるちゃん」(自由美術賞)、40回(1976年)「おてんば」、45回(1981年)「望郷」「姉妹」、50回(1986年)「淡雪」、55回(1991年)「女の視線」、60回(1996年)「やだな娘」、70回(2006年)「悪夢(9.11)」

福王寺法林

没年月日:2012/02/21

読み:ふくおうじほうりん  日本画家で文化勲章受章者の福王寺法林は2月21日午後1時27分、心不全のため東京都内の病院で死去した。享年91。 1920(大正9)年11月10日、山形県米沢市に生まれる。本名雄一。生家は上杉藩の槍術師範の家系。6歳の時、父親との狩猟の折に不慮の事故で左目を失明。8歳で狩野派の画家上村廣成に絵の手ほどきを受ける。1936(昭和11)年画家を志して上京。41年召集を受け中国戦線に配属、45年香港で捕虜となって46年復員。49年第34回日本美術院展に「山村風景」が初入選。この頃、同郷の美術評論家今泉篤男と出会い、以後その指導を受けることとなる。51年日本美術院同人の田中青坪に師事。55年の第40回院展「朝」が奨励賞・白寿賞となる。以後院展で56年第41回「かりん」、57年第42回「朴の木」が日本美術院次賞・大観賞、58年第43回「麦」が佳作・白寿賞、59年第44回「岩の石仏」が再び奨励賞・白寿賞、60年第45回「北の海」が日本美術院賞・大観賞を受賞、同年同人となる。翌年、奥村土牛が法林に預けた門下生と、法林門下生により組織された画塾濤林会を結成。65年第50回院展出品作「島灯」で第1回山種美術財団賞(文部省買上げ)を、71年第56回「山腹の石仏」で内閣総理大臣賞を受賞。74年ネパール、ヒマラヤを旅行し、同年よりライフワークとなるヒマラヤシリーズに着手、ヘリコプターや飛行機による取材を重ね、鳥瞰の視点によるスペクタクルな風景作品を発表し続けた。77年、前年の第61回院展「ヒマラヤ連峰」により芸術選奨文部大臣賞を受賞し、84年には前年の第68回院展「ヒマラヤの花」により日本芸術院賞を受賞。1991(平成3)年日本美術院理事に選任。同年大回顧展が日本橋高島屋他で開催された。94年日本芸術院会員となる。98年文化功労者となり、2004年文化勲章受章。この間01年に米沢市上杉博物館、02年に茨城県近代美術館他にて、次男で同じく日本美術院同人の一彦との親子展が開催されている。

小泉淳作

没年月日:2012/01/09

読み:こいずみじゅんさく  日本画家の小泉淳作は1月9日午前10時8分、肺炎のため横浜市内の病院で死去した。享年87。 1924(大正13)年10月26日、政治家で美術蒐集家としても知られる小泉策太郎(号・三申)の七男として神奈川県鎌倉市に生まれる。5歳の時より東京で育ち、慶應義塾幼稚舎、普通部、文学部予科(仏文)に通う。予科では小説家を志望するも、同級で後に小説家となる安岡章太郎の作品に衝撃を受け、画家を目指すようになり、東京美術学校日本画科の助教授だった常岡文亀のもとに通って日本画を習い始める。1943(昭和18)年慶應を中退、東京美術学校日本画科に入学する。44年応召するが結核を患い、療養生活を送る。48年に東京美術学校に復学、山本丘人のクラスで学び、52年に卒業後も生涯の絵の師と慕うことになる。卒業後はデザインの仕事の傍ら画業に精進し、54年第18回新制作展に「花火」「床やにて」が初入選、以後新制作展に出品する。50年代から70年代半ばにかけて、数多くの「顔」と題した人物像や「鎌倉風景」などの風景画を新制作協会展や個展に発表。この間美術評論家の田近憲三より中国の唐宋絵画の複製を見せられ感銘を受け、画業の転機を迎える。73年第2回山種美術館賞展に「わかれの日」を出品、77年の同第4回展では「奥伊豆風景」が内にこもる力強さを評価され、優秀賞を受賞。この間74年に新制作協会日本画部が同会を離脱し創画会を結成するが、その1回展に出品したのを最後に同会を辞し、個展を中心に作品を発表するようになり、画壇と距離を置いた姿勢から孤高の画家とも評された。78年「山を切る道」が文化庁買上げとなる。84年銀座のギャラリー上田で開かれた個展において大作「秩父の山」をはじめとする水墨山水を発表。以後も「霊峰石鎚」「積丹の岩山」「早春の積丹半島」など中国文人画研究の成果による水墨山水や、院体画の研究をうかがわせる花卉図を発表。88年に『アトリエからの眺め』(築地書館)、『小泉淳作画集』(求龍堂)を刊行。1996(平成7)年より鎌倉・建長寺開創750年記念事業の一環として法堂天井画の雲龍図を手がけ、2000年に完成。引き続き京都・建仁寺慶讃800年記念行事に奉納する法堂天井画の双龍図を制作。01年に東京ステーションギャラリーで回顧展「ひとり歩き その軌跡―小泉淳作展」が開催。02年には北海道河西郡中札内美術村内に小泉淳作美術館が開館。同年『小泉淳作作品集』(講談社)を刊行。04年第14回MOA岡田茂吉賞絵画部門大賞を受賞。06年には奈良・東大寺の聖武天皇1250年御遠忌記念事業の一環として制作を依頼された«聖武天皇・光明皇后御影»対幅が完成、大仏殿で奉納式が営まれる。引き続き10年には同寺本坊の襖絵四十面を完成、その途中で椎間板ヘルニアを患い、胃がんを切除しながらの制作だった。11年8月には『日本経済新聞』に「私の履歴書」を連載、没後の12年に『我れの名はシイラカンス 三億年を生きるものなり』(日本経済新聞出版社)として出版されている。

吉田カツ

没年月日:2011/12/18

読み:よしだかつ  イラストレーター、画家の吉田カツは12月16日、肺気腫のため兵庫県篠山市の病院で死去した。享年72。 1939(昭和14)年11月4日、兵庫県多紀郡城北村(現、篠山市)に生まれる。本名勝彦。大阪美術学校(現、大阪芸術大学)デザイン科を卒業後、デザインの仕事に従事。71年上京。74年『ローリング・ストーン』誌の仕事をきっかけに各誌のイラストレーションを手がけるようになり、77年からはアートディレクターの石岡瑛子と組んでPARCOのポスターや雑誌『野性時代』表紙、西武劇場「サロメ」のポスター等を制作。エネルギッシュな筆致を駆使した人物像のイラストやグラフィックは、70年代後半から80年代を通じて、若い世代やデザイン、音楽、広告等の関係者の間に根強いファンを生んだ。79年には青山のグリーン・コレクションズで初の個展を開催、以後、個展や画集を通してイラストレーションの領域に留まらない絵画活動を展開。85年にはフジサンケイグループのシンボルマークを描いた他、全日空グループ機内誌の『翼の王国』表紙イラストを担当。2005(平成17)年、東京から故郷の篠山市へ仕事場と居を移す。作品集に『吉田カツ・セクサス』(美術出版社、1980年)、『PICARO:吉田カツ絵画集』(リブロポート、1988年)等。

桂川寛

没年月日:2011/10/16

読み:かつらがわひろし  画家の桂川寛は10月16日、肺炎のため死去した。享年87。 1924(大正13)年8月20日、北海道札幌市に生まれる。幼少のころより絵に興味を持ち、グラフ誌に掲載された帝展出品の日本画を模写することを楽しみにしていた。37年札幌商業学校に入学し、美術部に入部。同年第13回北海道美術協会展に初入選。当時の美術教師のアトリエにあった雑誌を通してダリ、キリコ、ピカソなどヨーロッパの絵画を知る。戦中戦後、札幌気象台技師としておもに高層気象観測に従事。45年には新潟県高田通信隊に入隊、半年間兵役につくが、身体を壊し療養生活を送る。戦後は職場で文学サークル運動を始める。48年上京、多摩造形芸術専門学校(現、多摩美術大学)に入学。49年「世紀」に参加。当時、石版版下作成のアルバイトをしていたが、それだけでは学費を払うことができず、同専門学校は自然退学となる。「世紀」では、瀬木慎一とともにパンフレット『世紀群』の制作責任者を務めたほか『世紀ニユゥス』創刊、花田清輝訳『カフカ小品集』(「世紀群」第1冊)刊行などに携わる。50年第2回日本アンデパンダン展(読売新聞社主催)に「開花期」を出品、東京で初めての絵画作品の発表となる。51年より草月流機関誌『草月』に携わり、その創刊準備から三年間編集部員を務める。同年「世紀」が解散したのち、「人民芸術家集団」に参加。52年前衛美術会に入会。同年山下菊二、尾藤豊、勅使河原宏らと小河内村の「文化工作隊」へ参加。53年第6回日本アンデパンダン展(日本美術会主催)に「欺かれた人」(後に「小河内村」と改題)などを出品、後に「ルポルタージュ絵画」と呼ばれる運動の端緒となる。同年青年美術家連合の発足に参加、第1回ニッポン展に「やがて沈む村(西多摩郡小河内村)」などを出品。54年パンとバラの会・5人展(タケミヤ画廊)に出品。58年日本美術会事務局長に就任。同年清水アンデパンダン(清水市)に出品。同年『批評運動』同人となり、絵画論を発表(16号、17号)。59年第12回日本アンデパンダン展に「都市VI」(後に「都市」と改題)を出品。尾藤豊、中村宏との共同で戦後美術運動史をまとめ「特集・抵抗と挫折の記録」として『形象』4号(1960年)に発表。60年「超現実絵画の展開」展(国立近代美術館)に「都市」を出品。63年日本美術会を退会。64年前衛美術会事務局責任者となるが、翌年同事務局を辞退、同会を退会。65年初めてのまとまった個展「現実世界」を不忍画廊で開催。66年第1回戦争展(日本画廊)に出品、以後同画廊での67年戦争展、68年反戦と解放展、69年戦争展に出品。70年現代思潮社「美学校」で戦後美術論の講義を行う(翌年まで)。73年雑誌『詩と思想』の表紙画を担当。80年「私の戦後」展を地球堂ギャラリーで開催。82年「第三世界とわれわれ」展へ出品(以後1992年第8回展まで)。83年『社会新報』に「自由と抵抗の画像」を連載する。また「1950年代―その暗黒と光芒」展(東京都美術館、1981年)、「日本のルポルタージュアート」展(板橋区立美術館、1988年)、「戦後文化の軌跡」展(目黒区美術館ほか、1995年)、「戦後日本のリアリズム1945-1960」展(名古屋市美術館、1998年)、「Tokyo1955-1970」展(ニューヨーク近代美術館、2012年)など多数の日本戦後前衛美術を回顧・検証する展覧会で作品が展観され、さらに「前衛芸術の日本」展(パリ、ポンピドゥセンター、1986年)などに「世紀」で作成した印刷物などが展示された。作品集に『桂川寛作品集』(アートギャラリー環、1994年)、著書に『廃墟の前衛』(一葉社、2004年)がある。2010(平成22)年には代表的な油彩作品50余点を東京都豊島区に寄贈・寄託し、翌年豊島区立熊谷守一美術館において桂川寛展が開催された。12年ニューヨーク近代美術館が編纂した戦後日本美術批評選集『From Postwar to Postmodern』に論考「集団としての芸術家は何をなすべきか」(『青年美術家連合ニュース』創刊号、1953年)が収録された。鋭い批判精神で社会を捉える姿勢は生涯一貫し、反戦思想と反画壇的運動のなかから生まれたルポルタージュ絵画は戦後日本美術の大きな動向に位置付けられている。

小谷津雅美

没年月日:2011/10/11

読み:こやつまさみ  日本画家で日本美術院同人の小谷津雅美は10月11日、肝細胞がんのため死去した。享年74。 1933(昭和8)年2月3日、東京都新宿区下落合に日本美術院の日本画家小谷津任牛の長男として生まれる。高校時代に母が脳溢血で倒れ、その看病のため高校を中退。在宅の間、父の手伝いをしながら絵を描くようになる。53年再興第38回院展に「夢の調べ」が初入選。55年高校の先輩である鎌倉秀雄の紹介で安田靫彦に師事。同年日本美術院院友に推挙。58年黎会展(高島屋)へ参加。60年第45回院展で「花と女」が奨励賞を得て以来、62年第47回展「粧い」が日本美術院次賞、63年第48回展「燦歌」、64年第49回展「樹精」、68年第53回展「船を待つ日」、69年第54回展「浜の話」、70年第55回展「燦」、71年第56回展「待つ」が白寿賞・G賞、83年第68回展「静韻」、85年第70回展「白韻」、86年第71回展「浄韻」、87年第72回展「文殊」、1989(平成元)年第74回展「梵天(東寺)」、91年第76回展「大威徳明王(東寺)」が奨励賞、98年第83回展「終宴」で天心記念茨城賞を受賞し、日本美術院同人となる。2003年第88回展「松花遊悠」で文部科学大臣賞を受賞。06年第91回院展出品の「桜韻」で内閣総理大臣賞受賞。人物から仏画のモティーフを経て、1990年代からは四季折々にうつろう日本の自然の美しさを描き出した。

工藤甲人

没年月日:2011/07/29

読み:くどうこうじん  日本画家で東京藝術大学名誉教授の工藤甲人は7月29日、老衰のため神奈川県平塚市内で死去した。享年95。 1915(大正4)年7月30日、青森県中津軽郡百田村(現、弘前市)の農家に生まれる。本名儀助。少年の頃は詩人に憧れていたが、16歳の頃から画家への志が芽生え、1934(昭和9)年に上京、翌年より川端画学校日本画科で岡村葵園の指導を受ける。同校では友人の西村勇より西洋の絵画思想や理論を叩き込まれ、とくにシュールレアリズムに興味を持ち始める。39年第1回日本画院展に「樹」、第2回新美術人協会展に「樹夜」を工藤八甲の号で出品、後者は推奨作品となる。新美術人協会展への出品をきっかけに福田豊四郎の研究会に出席し、指導を受ける。40年、42年と応召、中国大陸の戦線へ渡り、45年の敗戦直前に復員。しばらく郷里で農業に従事した後、福田豊四郎の呼びかけに応じて制作活動を再開する。50年第3回創造美術展に「蓮」が入選し、翌51年創造美術と新制作派協会の合流による新制作協会日本画部設立後は同会に出品。51年第15回新制作展にヒエロニムス・ボッシュの影響が色濃い「愉しき仲間」2点、56年同第20回にも「冬の樹木」「樹木のうた」を出品し、ともに新作家賞を受賞した。62年に弘前市から神奈川県平塚市に転居。63年第7回日本国際美術展「枯葉」が神奈川県立近代美術館賞、翌64年第6回現代日本美術展「地の手と目」が優秀賞を受賞。さらに64年新制作春季展「秋風の譜」「枯葉の夢」により春季展賞を受賞、同年新制作協会会員となる。樹木や動物、蝶などをモティーフに、郷愁や宗教感を感じさせる鮮麗で夢幻的な心象世界を描き出し、現代日本画に新生面を切り拓く。71年東京藝術大学助教授、78年教授となり、73年同大学イタリア初期ルネサンス壁画調査団に参加。83年退官後、名誉教授となった。また74年新制作協会日本画部会員による創画会結成に参加し、会員となる。82年第1回美術文化振興協会賞受賞。87年東京・有楽町アート・フォーラムにて「いのちあるものの交響詩―工藤甲人展」を開催、同展での透徹した自然観照と豊かな詩的幻想を結合させた独自の表現が評価され、翌年芸術選奨文部大臣賞を受賞。88年より沖縄県立芸術大学客員教授。1991(平成3)年平塚市美術館他で「画業50年 工藤甲人展―夢幻の彼方から」を開催、同展に対し翌年毎日芸術賞を受賞。99年に増上寺天井画「華中安居」を制作。2007年には郷里の青森県立美術館で「工藤甲人展―夢と覚醒のはざまに」が開催された。

曲子光男

没年月日:2011/07/19

読み:まげしみつお  日本画家で日展参与の曲子光男は7月19日、老衰のため死去した。享年96。 1915(大正4)年3月12日、北海道磯谷郡蘭越町港に生まれる。旧姓赤井。5歳で父を失い、9歳で石川県河北郡七塚村秋浜にある祖父の実家に預けられた後、10歳で遠縁にあたる京都の友禅業曲子光峰の養子となる。1927(昭和2)年京都市立美術工芸学校に入学。次いで京都市立絵画専門学校で西山翠嶂、川村曼舟らの指導を受け、35年より堂本印象に師事、その画塾東丘社に入る。36年京都市立絵画専門学校本科を卒業し、同年の文展鑑査展で「濱木綿の丘」が初入選、選奨となる。38年第1回東丘社展に「鳥の群」を出品し東丘賞を受賞。同年応召し、41年まで華北に派遣。43年再び出征、バンコクに赴く。46年復員後、47年第3回日展に「秋陽」が入選、続いて48年第4回「入汐」、49年第5回「彩秋」と出品し、51年第7回日展で「製鋼工場」が特選・朝倉賞を受賞した。52年同第8回に「港」を無鑑査出品。以後55年初の日展審査員をつとめ、58年会員、70年評議員、1995(平成7)年参与となる。いっぽう84年より東丘社幹事長をつとめ、92年顧問となる。84年京都府文化賞功労賞を受賞。生を受けた北海道の雄大な自然や、幼年の一時を過ごした北陸の風土を思わせる重厚な風景を描き続けた。93年石川県立美術館において特別陳列「日本画家 曲子光男の世界」が開催されている。長男は日本画家で日展会員の曲子明良。

福本章

没年月日:2011/07/06

読み:ふくもとしょう  1960年代後半からフランスを拠点として活動を続けた洋画家福本章は7月6日、胃がんのため死去した。享年79。 1932(昭和7)年5月16日岡山市に麺類製造業を営む福本勘吉の三男として生まれる。本名章一(しょういち)。49年頃に独立美術協会会員の洋画家中津瀬忠彦(1916-73)を知り、絵を描き始める。52年東京藝術大学美術学部油画科に入学。林武教室に学ぶ。56年、同学を卒業して油画専攻科に進学。同校の絵画学生の奨学金のひとつである大橋賞を受賞する。57年第25回独立展に「追はれる子」を初出品して入選するが、以後は不出品。58年、油画専攻科を修了し、同科副手として62年まで同校に在籍する。59年、黒土会の創立に参加し、同年第1回展に「横臥裸婦」を出品し、以後、65年まで毎年出品を続ける。60年第3回国際具象派展覧会(朝日新聞社主催)に重厚なマチエールで裸婦坐像を描いた「赤の裸婦」を出品。61年新樹会に「樹」「裸婦」を招待出品し、以後64年まで出品を続ける。62年第4回国際具象派展に「黄の中の二つの裸婦」「黄の中の裸婦」を出品。63年第2回国際形象展に「樹」「裸婦」「靴下の裸婦」を招待出品し、不出品の年もあるものの1981年まで7回、同展に出品する。抽象表現が盛んに行われる洋画壇にあって、具象画における表現を模索して注目され、63年、第7回安井賞展に「裸婦」が出品される。64年東京の日動サロンで初めての個展を開催し、風景や静物を描いた作品を発表。65年に国立近代美術館京都分館で開催された「具象絵画の新たなる展開」に「靴下の裸婦」「樹間」「泰山木のある静物」他を出品する。また同年第9回安井賞展に「風景」を出品。66年第1回昭和会展に「静物」「卓上静物」を出品し、翌年の同第2回展では「模様の上の裸婦」で昭和会賞を受賞。同年渡欧し、ローマを経てパリに居を定める。69年日動サロンで滞欧作展を開催。70年、スペインを訪れる。また同年フランスのサロン・ドートンヌに「オンフルール」を出品する。72年フランスのニースにアトリエを持ち、南仏での制作を開始する。73年にヴェニスを訪れて以後たびたびに同地に旅行。74年、パリ郊外に居を定める。同年、第1回東京国際具象絵画ビエンナーレにヴェニスに取材した「河口(ヴェニス)」「運河」を招待出品。75年には日動サロンで個展を開催し「運河」「リアルト橋」などヴェニス風景を主題とする作品を発表した。76年毎日新聞夕刊に掲載された辻邦生による連載小説「時の扉」の挿絵を担当。78年第21回安井賞展に「運河」を出品する。80年パリ郊外に居を定める。85年、朝日新聞朝刊の連載小説、辻邦生「雲の宴」の挿絵を担当。同年、野村本社ビル(京都)のモザイク壁画「レダ」を制作。1990(平成2)年立軌会に参加し2007年の退会まで出品を続ける。91年、「在仏三人展―福本章、桜庭優、小杉小二郎」の第1回展を名古屋画廊で開催。同展は以後第3回展まで開催された。93年に東京藝術大学出身の画家たちによる「杜の会」展に初出品し、以後同展に出品を続ける。97年小山敬三賞を受賞し、同年日本橋高島屋で受賞記念展を開催。同年から2002年までヴェニスにアトリエを構えて制作する。98年倉敷芸術科学大学芸術学部教授となり04年まで教鞭を取る。00年より「両洋の眼」展に出品。同年第23回安田火災東郷青児美術館大賞を受賞し、同賞記念展覧会を開催する。01年郷里にある大原美術館にて「福本章」展を開催。02年週刊朝日の連載小説、山崎朋子「サンダカンまで」の挿絵を担当。没後の13年5月「二都物語~プロヴァンスからヴェネツィアまで~」と題して日仏会館で「福本章-青の世界」、イタリア文化会館で「福本章-ヴェネツィアの光」展が共同企画として開催された。一貫して具象絵画を描き、対象のかたちを幾何学的形体に分割して捉えた上で再構成し、簡略化した色面であらわす作品を描いた。1960年代には赤や黄といった原色に近い色も用い、厚塗りのマチエールを示したが、60年代後半から青を基調とする穏やかな中間色を主に用いるようになり、次第にマチエールも平滑になっていった。画面全体が紫を含んだ柔らかい青灰色に包まれる独自の画風で知られた。画集に『福本章画集』(日動出版部、1981年)『福本章画集 パリの空』(朝日新聞社、1986年)、『福本章画集 1956-2005』(求龍堂、2005年)がある。

三輪良平

没年月日:2011/04/20

読み:みわりょうへい  日本画家の三輪良平は4月20日、肺炎のため死去した。享年81。 1929(昭和4)年10月29日、京都市東山区の表具師の次男として生まれる。51年京都市立美術専門学校を卒業後、同校専攻科に進み、53年修了。在学中の51年より山口華楊に師事し、華楊が主宰する晨鳥社で研鑽を積む。52年第8回日展に「憩ひ」が初入選し、56年第12回日展で「裸像」が特選・白寿賞を受賞。この頃、中路融人ら晨鳥社の若手と研究会「あすなろ」を結成。60年第3回新日展では、現代的感性により舞妓三人の坐像を描いた「舞妓」が再び特選・白寿賞となり、62年第5回展では人物の形と色を単純化した「裸婦」が菊華賞を受賞。翌63年は審査員をつとめ、64年日展会員となる。若い頃より肺疾患や肝臓病等と闘いながら、裸婦や舞妓、大原女等を題材として清麗な女性美を描いた。84年日展評議員となる。1993(平成5)年京都府文化賞功労賞受賞。没後の2011年に遺族より東近江市近江商人博物館へ作品が寄贈、翌年同館で回顧展が開催された。

大西博

没年月日:2011/03/31

読み:おおにしひろし  東京藝術大学准教授の大西博は3月31日、滋賀県長浜市の琵琶湖上で釣舟転覆水難事故に遭い死去した。享年49。 1961(昭和36)年6月18日、徳島県池田町に生まれる。東京都立保谷高等学校を卒業し、82年に東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻に入学。テンペラ絵画と油絵具の併用技法である混合技法を学び、1989(平成元)年に同大学大学院美術研究科油画技法・材料第一研究室を修了。フランドルやドイツの絵画に憧れ、92年から97年にかけてドイツのニュルンベルク美術大学絵画科に留学。ドイツ滞在中、自らが外国人であり日本人であるという認識から、キャンバスや油絵具等、それまで慣れ親しんできた画材と距離を置き、和紙に日本画の技術で描くことを試みるようになる。帰国後は東京藝術大学油画研究室、続いて油画技法・材料研究室の非常勤講師を担当し、2002年より同研究室の常勤講師となる。03年には東京藝術大学アフガニスタン文化支援調査団第三次調査団に参加、カブールでのラピスラズリの原石との出会いをきっかけとしてその精製法に取り組み、画材メーカーと水彩絵具「本瑠璃」を開発。自身の制作においても、同画材を使用したモノトーンの静謐な作風に到達する。06年、東京藝術大学美術学部絵画科(油画技法・材料)助教授となる。死の前月に開催された個展(表参道画廊)では南禅寺塔頭天授庵に設置される襖絵十二面を発表。没後の12年には東京藝術大学大学美術館陳列館で、同大学油画技法・材料研究室の主催により「大西博 回顧展 ―幻景―」が開催された。

石田武

没年月日:2010/12/24

読み:いしだたけし  日本画家の石田武は12月24日、腎不全のため横浜市の病院で死去した。享年88。1922(大正11)年4月27日、京都市の西陣織職人の家に生まれる。本名武雄。1935(昭和10)年京都市立美術工芸学校図案科に入学、図案を山鹿清華、日本画を森守明、洋画を太田喜二郎に学ぶ。40年に同校を卒業し、大阪丸高商事宣伝部に入社。43年より45年まで応召、復員ののち、46年より翌年にかけて京都新制作研究所に学び、主に桑田道夫の指導を受ける。50年頃より児童図書のイラストを描き始める。59年東京に居を写し、この頃より動物図鑑などの挿絵の仕事に専念するようになる。67年小説家の戸川幸夫とともにアフリカ、ヨーロッパに旅行。その生態を研究し、翌68年『世界の動物』『世界の鳥』をフランスなど数か国で出版した。71年日本画に転向し、翌年三越の新鋭選抜展に「冬の風景」を出品、73年第2回山種美術館賞展で「林」が大賞を受賞する。74年第6回日展に「雪晨」を出品。80年第2回日本秀作美術展に「虚空」が選ばれ出品。79年、85年に東京セントラル絵画館で、1992(平成4)年に西武アート・フォーラムで個展を開催。個展を中心に、明快かつ鋭い筆致と安定した描写力による写実的な作品を発表し続けた。

濱田台兒

没年月日:2010/09/01

読み:はまだたいじ  日本画家で日本芸術院会員の濱田台兒は、9月1日に死去した。享年93。1916(大正5)年11月5日、鳥取県気高郡浜村町に生まれる。本名健一。1935(昭和10)年19歳の時に伊東深水の内弟子となり、翌年日本画会展に「厨」が初入選。37年応召するが、翌年中国の台児荘で戦傷を受けて内地に送還。39年陸軍病院入院中に二科展に水彩画「慰問の少女」を出品して入選。41年第4回新文展に「黄風」が初入選する。翌42年第5回新文展で軍隊での体験を生かした「黄流」が特選となり、戦後46年第2回日展「夢殿」も特選を受賞した。以後も日展を中心に活動し、47年招待、50年より依嘱出品となり、50年第6回展に「斑鳩の門」、51年第7回展に「澗泉」等を出品する。いっぽう50年伊東深水、児玉希望らにより結成された日月社に参加し、その第1回展「父の肖像」が奨励賞を受賞。62年日展会員となり、翌年三カ月間ヨーロッパ11カ国を取材旅行。伊東深水門では塾頭を務めたが、日展評議員となった72年に深水が死去、翌年より橋本明治に師事する。76年第8回改組日展で沖縄女性を描いた「花容」が内閣総理大臣賞となる。79年ソ連文化相の招きにより日ソ美術家友好使節団の一員としてソビエト連邦各地を旅し、その折の取材に基づき第11回改組日展に「女辯護士」を出品、翌年同作により日本芸術院賞を受賞。優れた色彩感覚とモダンな形態把握による人物画で個性を発揮した。72年日展評議員、81年より理事。83年に松屋銀座、1990(平成8)年に郷里の鳥取県立博物館で回顧展を開催。その間89年に日本芸術院会員に就任。94年に日展事務局長、95年から97年まで理事長を務めた。

山田正亮

没年月日:2010/07/18

読み:やまだまさあき  画家の山田正亮は7月18日、胆管癌のため死去した。享年81。1929(昭和4)年1月1日、東京に生まれる。本名正昭。43年、陸軍兵器行政本部製図手養成所に入所。44年、同養成所助教となり、同年創立の都立機械高等工業学校第二本科機械科に入学。翌年終戦にともない陸軍兵器行政本部を退職。50年、東京都立工業高等専門学校卒業。53年に、長谷川三郎に師事。この頃より、東京京橋にあったGKスタジオに勤務、主にデザインの仕事に従事。出品歴としては、49年2月の第1回日本アンデパンダン展に出品、52年、2月第4回日本アンデパンダン展、同年10月、第16回自由美術展に出品。58年11月、教文館画廊(東京)で初個展開催。64年、東京の上北沢にアトリエを設ける。初期から1950年代には、セザンヌ、キュビスムを意識した静物画を中心に制作がつづけられた。50年代中ごろにモンドリアンを想起させるように抽象化がすすめられ、そのなかで1956年より「Work」のシリーズがはじまった。ジョーゼフ・アルバース、フランク・ステラの表現にも似た、画面に規則的な矩形の色面が占める作品を経て、ストライプに覆われた画面に到達した。ストライプの絵画作品は、ある規則性に添ったものではなく、抑制された色彩の選択と画面全体の均一性を志向しながらも、色彩の帯は、微妙に揺れ、また絵の具の滴り、厚み等、きわめて感覚的で繊細な表情をつくりあげていた。ミニマルアート以後の絵画表現として、早くから一部の識者から注目されていた。81年、「1960年代―現代美術の転換期」展(東京国立近代美術館、京都国立近代美術館)に出品。80年代に入り、60年代のストライプの絵画作品の評価が高まり、あわせて79年以降、毎年(97年まで)開催された個展(佐谷画廊)等において発表される新作は高い評価を受けるようになった。また公立美術館等における戦後美術、もしくは現代絵画の企画展にしばしば出品を要請されるようになり、日本の現代絵画を語る際に、山田の作品は重要な位置を占めるようになった。同時期の作品は、青緑色の大画面のなかの引かれたグリッドをベースにして、グリッドの直線に添いつつ、捕らわれることのない柔軟な線と鮮やかな色彩が覆う構成がとられていた。87年、第19回サンパウロ・ビエンナーレに出品。90年、『山田正亮作品集 WORKS』(美術出版社)を刊行。95年に、およそ40年間にわたってつづけられた「Work」のシリーズを終えた。その後、2001年に「Color」の連作を発表した。このシリーズの作品は、単一の色彩が画面を覆っているが、画面の端に表面下に塗られた別の色相をのぞかせることで画面の重層性を示し、絵画が薄い表面ではなく、ただならぬ平面であることを観る者に感じさせるものであった。2005年6月、府中市美術館にて「山田正亮の絵画 から―そしてへ」展開催、初期の静物画からストライプの絵画作品、さらに最新作として「Color」シリーズ、139点からなる個展が開催された。山田は、一切の組織、運動に与することなく、また世界の流行に流されることなく、自律的な思考を深めながら、現代の日本絵画の可能性を示すことができた美術家であった。

岩崎巴人

没年月日:2010/05/09

読み:いわさきはじん  日本画家の岩崎巴人は5月9日、千葉県館山市にて間質性肺炎のため死去した。享年92。1917(大正6)年11月12日、東京都新宿区に生まれる。本名彌寿彦。1931(昭和6)年川端画学校夜間部に入学、日本画を専攻する。34年玉村方久斗が主宰するホクト社第5回展に「少女」「風景」を出品。37年第9回青龍社展に岩崎巴生の名で「海」が初入選。翌年小林古径の門に入り、38年第25回院展に「芝」が入選、横山大観から高い評価を得る。42年に出征、復員後の47年に再び院展に入選し、院友となるが50年に脱退。一方で新興美術院の再興に参加、会員となり、以後同展に「情熱の終末」(1952年第2回)等を出品。58年谷口山郷、長崎莫人らと日本表現派を結成、68年に脱退するまで出品を続ける。この他、現代日本美術展、日本国際美術展、「これが日本画だ」展等にも出品。71年インド、スリランカへ旅行し、以後、仏伝画や仏教的テーマの作品を制作するようになる。77年には禅林寺で出家、得度し、その後も異色の画僧として活躍。南画的フォーヴの画風を展開し、「河童屏風」(1979年)、「降魔成道」(1983年)等飄逸さを加えた作品を発表する。70年上野の森美術館で岩崎巴人大作展、84年高岡市立美術館で岩崎巴人展、86年には青梅市立美術館、87年には奈良県立美術館で回顧展が開かれた。87年から翌年にかけてNHK趣味講座「水墨画入門」の講師を務める。著書に『芸術新潮』や『三彩』等に掲載のエッセイを集めた『蛸壺談義』(神無書房、1978年)。没後の2012(平成24)年には富山県水墨美術館で追悼展が開催されている。

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