本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





岡本唐貴

没年月日:1986/03/28

戦前の前衛美術及びプロレタリア美術運動の推進者の一人として活躍した岡本唐貴は、3月28日急性心不全のため東京都線馬区の自宅で死去した。享年82。岡本は明治36(1903)年12月3日、岡山県倉敷市に生まれる。本名登喜男。大正9年上京し、同11年東京美術学校彫刻科塑造部に入学するが、翌年中退した。同12年第10回二科展に立体派の影響を示す「静物」他で初入選。同13年には前衛集団アクションに加わり、アクション第2回展にデ・キリコやカッラの形而上絵画を参考にした「失題」を出品する。同年、三科造形美術協会結成に参加し、翌14年第1回三科展に「ペシミストの祝祭」(昭和48年復元)、第2回展に「ルンペンプロレタリアA」「同B」を出品。三科解散後は浅野孟府、矢部友衛らとグループ造型を結成する。昭和4年、日本プロレタリア美術家同盟(PP)結成とともに中央委員となり、同年の第2回プロレタリア美術大展覧会に「争議団の工場襲撃」を出品、同作は300号位の大画面で、ダイナミックな群像表現に成功したプロレタリア美術の一例とされる。同8年には小林多喜二のデスマスクを制作した。翌9年、PPの後身のJAPが解散し、以後は研究グループを結成し活動する。戦後は、同21年現実会を結成、また日本美術会の創設にも参加し、日本アンデパンダン展、平和美術展などに出品する。同37年全ソ美術家同盟の招きでソ連を訪問。翌38年日本橋・白木屋で回顧展を開催する。同43年、丸木位里らと創作画人協会を結成するが、同45年には退会し、以後は旧作の復元に同49年まで費した。漫画家白土三平(本名岡本登)は子息である。

石本秀雄

没年月日:1986/03/09

日展参与、佐賀大学名誉教授の洋画家石本秀雄は、3月9日心不全のため佐賀市の県立病院好生館で死去した。享年77。明治41(1908)年12月8日、長崎県西彼杵郡に生まれる。昭和3年長崎東山学院中学を卒業し東京美術学校師範科に入学、同5年一九三〇年協会第5回展に「我が家」他で入選、翌6年美校図画師範科を卒業した。同年、佐賀県立小城中学校に赴任し、以後教鞭をとる。同9年第2回東光会展に「冬の女」他を出品しK氏奨励賞を受賞、また第15回帝展に「校庭の春」で初入選した。同13年東光会会員、同18年からは佐賀師範学校で教え、同24年新制佐賀大学発足にともない教育学部教授となる。戦後は東光会展、日展に制作発表し、同26年第7回日展に「画家の家族」で特選、朝倉賞を受け、同35年には改組第4回日展に「対話」で菊華賞を受賞、同38年日展会員となった。この間、佐賀大学教育学部に特設美術科を開設することに尽力する。同43年には佐賀美術協会理事長に就任。同49年、佐賀大学を停年退官し名誉教授の称号を授与された。後年は男性的な力強い筆触による一連の風景画に独自の造形力を発揮し、「熔岩桜島」(昭和52年)、「桜島晩夏」(同58年)、「黒神雨後」(同59年)などの作品がある。佐賀新聞文化賞、西日本文化賞なども受賞した。

阪本文男

没年月日:1986/02/26

モダンアート協会会員の洋画家阪本文男は、2月26日午後零時5分、肺ガンのため川崎市の市立川崎病院で死去した。享年51。昭和10(1935)年2月14日、東京都港区に生まれる。19年に新潟県柏崎市に疎開し、同28年柏崎高校を卒業するまで居住。高校在学中絵画部に入り油絵を始め、同校で教鞭をとっていた国領經郎に学ぶ。29年東京芸術大学油画科に入学し、小磯良平教室に学んで33年卒業。34年第9回モダンアート協会展に「記号」で初入選。36年同会会友、38年会員となる。初期から抽象画を描いたが、この頃より人体の一部が幾何学的にモティーフの中に組みこまれる「ヘルマフロディトス」の連作を始め、42年国際青年美術家展に「ヘルマフロディトス-青い帯」を出品してストラレム優秀賞第一席を受賞。43年より安井賞展、現代日本美術展にも出品する。45年頃より水色を背景とし、紙のしわや乾いた花・果物、剥製の鳥などをモティーフとする独自の画風を展開。「アリスの遊び」「バラの座」などのシリーズを制作、発表する。58年、代表作となった「余白の系」を制作するが、59年に肺ガンで入院して以後入退院をくりかえしていた。枯れゆくものの中に存在の本質の顕在化を見出し、明快で乾いた幻想的作風を示した。没後の63年4月横浜市民ギャラリーで「阪本文男回顧展」が開催された。

梅原龍三郎

没年月日:1986/01/16

昭和洋画の巨匠、文化勲章受章者の梅原龍三郎は、1月16日肺炎のため東京都新宿区の慶応病院で死去した。享年97。故安井曽太郎とともに昭和洋画界の双壁をなし、恵まれた資質が自ら成熟し豪華絢爛たる独自の芸術境を拓いた梅原は、明治21(1888)年3月9日、京都市下京区に、染呉服業を営む梅原長兵衛の子として生まれた。兄姉は七・八名いたというが多くは早世し、事実上次男、末子であった。はじめ龍三郎、のち良三郎と改め、26歳のとき再び龍三郎を名のった。同36年、京都府立第二中学校を三年で中退し、伊藤快彦の画塾鐘美会で洋画の手ほどきを受け、同年聖護院洋画研究所設立にともない鐘美会も併合されたため、同研究所、さらに同39年創設の関西美術院を通じ安井曽太郎らとともに浅井忠の指導を受ける。同41年田中喜作とともに渡欧し、パリのアカデミー・ジュリアンでバッセの教室に通うが、到着早々その作品に接し感動したルノワールを、翌年カーニュに訪れ以後師事した。同年、ルノワールに勧められブルターニュに赴き、同地で斉藤豊作、和田三造と交友、秋からはアカデミー・ランソンに通った。同44年ピカソを知りそのアトリエを訪問、また、プラド美術館でティツィアーノ作品の自由模写などを行う。翌45年から帰国直前にかけて盛んに制作した。大正2年、ルノワールの影響を示す初期の代表作「首飾り」を制作し帰国。同年、白樺社主催で梅原良三郎油絵展覽会をヴィーナス倶楽部で開催、滞欧作110点他を出品し画壇に大きな衝撃を与えた。翌3年二科会創立に会員として参加、また、新設された巽画会洋画部の審査員をつとめる。その後、一時画風を模索したが、同5年作の「ナルシス」あたりで独自の画風をつかんだ。同6年二科会を退会。同9年再渡欧し、サロン・ドートンヌのルノワール回顧展に接した。翌年帰国後鎌倉市に居住し、長与善郎、岸田劉生との親交をはじめる。同11年春陽会創立に会員として参加したが、同14年劉生の意見に同調し春陽会を脱会、翌年川島理一郎らと国画創作協会に入り第2部(洋画部門)を創設し、さらに昭和3年同協会第1部(日本画)解散にともない、国画会を結成し主宰するに至った。同8年、後藤真太郎が組織した清光会に安井らと会員として参加し、以後同展へも出品する。同10年、帝国美術院会員(12年帝国芸術院会員)となり、同19年には東京美術学校教授に就任、また、帝室技芸員に任じられた。この間、同8年から台湾、鹿児島、同14年に北京をはじめて訪れ、とくに北京へは同17年まで5回赴き、国画会展に「桜島(青)」(10回)、「竹窓裸婦」(13回)、「雲中天壇」(15回)、「北京秋天」(18回)など戦前の代表作を発表した。戦後は、同21年の第1回日展審査員をつとめたが、翌年から国画会の日展不参加を表明した。また、同26年には国画会名誉会員となって会の運営から離れた。翌27年安井とともに東京美術学校を退官、同年共に文化勲章を受章する。同年、第26回ヴェネツィア・ビエンナーレ展の国際審査員をつとめた。戦後間もなくから、富士と浅間を題材にとりくみ、琳派や南画の伝統を摂取した豊かな装飾性と自在なフォルムによる、生命感あふれる絢爛たる画風を展開、安井の写実主義との画風の対照を示しながら、安井・梅原時代を築きあげた。同31年第30回国画会展に久しぶりに出品し、絵具をチューブから絞り出し直接描く手法をみせ話題を呼んだ。同32年、前年作「富士山図」で第27回朝日文化賞を受賞。一方、同年日本芸術院会員を辞任した。日本国際美術展、現代日本美術展へもそれぞれ第1回から出品し、また、同27年以来しばしば渡欧し、ヴェニスやカンヌの景観を好んで描いた。同44年東京国立近代美術館へ自作「自画像」など14点を寄贈、同48年にはフランス政府からコマンドール勲章を授与され、翌年、ルノワール作品ほかの愛蔵品を国立西洋美術館などに寄贈した。同35年の画業50年記念回顧展をはじめ、多くの回顧企画展が開催され、画集も数多く刊行された。同59年、文集『天衣無縫』を出した。没後自筆の遺言状が明らかにされ、「葬式無用弔問固辞する事 梅原龍三郎 生者は死者の為に煩わさるべからず」とあった。この遺言に従い公的な葬儀、告別式は行われず、1月18日午後1時から東京都新宿区の自宅で冥福を祈る集いが行われた。また、遺作の管理、遺作展の開催などについては、故人の遺志により河北倫明に一任され、昭和63年3月初期から晩年までの作品187点による梅原龍三郎遺作展が東京国立近代美術館で開催された。

音部幸司

没年月日:1985/12/05

国画会会員の洋画家音部幸司は12月5日午前7時54分肺炎のため名古屋市瑞穂区の新生会第一病院で死去した。享年67。大正7(1918)年2月28日愛知県蒲郡市に生まれる。杉本健吉に師事し、昭和18(1943)年第18回国画会展に「春日」で初入選。以後同会に出品を続ける。戦後の同22年第21回同展に「椿と梅」「裏の道」「池畔雪景」を出品して国画奨学賞受賞。同24年同会会友、同28年同会員に推される。初期には風景画を多く描いたが、昭和30年代中頃から抽象画を国画会展に出品する。名古屋に住み、昭和26年中部美術展最高賞受賞、40年代中頃には中部国際形象展に出品。同26年より28年まで名古屋金城女子大学美術講師をつとめるなど美術教育にもたずさわった。

伊勢正義

没年月日:1985/11/18

新制作協会会員の洋画家伊勢正義は、11月18日腎不全のため東京都目黒区の東邦医大付属大橋病院で死去した。享年78。明治40(1907)年2月28日秋田県鹿角郡に生まれる。昭和6年東京美術学校西洋画科卒業。藤島武二に師事。同8年20回光風会展に「女性」他3点を出品しK夫人賞を受け、翌九年光風会会員となり、同年の15回帝展に「カルトン」が初入選する。同10年22回光風会展に「無花果のある静物」他2点を出品、最初の光風特賞を受賞した。同10年松田改組に伴う第二部会展に「集ひ」を出品し、特選、文化賞を受けたが、翌年同志と官展を離れ、同年猪熊弦一郎、佐藤敬らと新制作派協会を結成、第1回展に「バルコン」「キャバレー」を出品した。同12年日動画廊で初の個展を開催。その後新制作協会の主要メンバーとして同協会展に制作発表を行い、近年はアラブ、アフリカの生活を題材にした作品で知られていた。また、日本貝類学会会員、国際教育振興会理事でもあった。

春日部たすく

没年月日:1985/09/16

水彩連盟の創立会員春日部たすくは、9月16日東京都豊島区の要町病院で死去した。享年82。昭和初年以来一貫して水彩画を描いた春日部は、明治35(1903)年5月26日福島県会津若松市に生まれた。本名弼(たすく)。会津中学校卒業後、大正13年に上京、川端画学校洋画部に学ぶ。昭和3年日本水彩画会展に入選。翌4年10回帝展に水彩画「山湖」が初入選し、同年日本水彩画会会員となる。同5~8年の12~14回帝展に連続入選、同11年の文部省美術展に「早春」、同13年の2回新文展に「五月の高原」が入選するなど、官展における水彩画家として活躍した。同15年小堀進、荒谷直之介、小山良修、萩野康児ら7名と水彩連盟を結成、以後官展、日本水彩画会への出品を止め戦後も水彩連盟及び個展で制作発表を行った。水彩連盟委員の他、日本美術家連盟委員、日本山岳画協会会員、日本ガラス絵協会会員でもあった。水彩画壇を代表する作家の一人で、風景画を得意とし鮮かな色彩と情趣ある画情を持ち味とした。代表作に「回想の四季」「たそがれ」などがある。

鴨居玲

没年月日:1985/09/07

元二紀会委員の洋画家鴨居玲は9月7日午前4時半頃自宅で死去した。享年57。持病の狭心症によるものと見られる。孤独な人間を卓抜な描写力で描いた鴨居玲は、昭和3年2月3日長崎県平戸に生まれた。姉はデザイナーの鴨居羊子。新聞記者であった父の赴任に伴って、韓国京城で小学校卒業、金沢の旧制中学を経て、同地に疎開中であった宮本三郎に師事。同23年金沢美術工芸大学洋画科在学中に、第2回二紀会「青いリボン」で初入選し、翌年同大を卒業。同年第3回二紀会で褒賞を受け同会同人に推される。同29年第8回同展に「空気の層」「あるく」を出品して同人努力賞受賞。同34年渡仏。同36年パリのジュヌ・パントゥールに入選して帰国する。同40年ブラジルへ渡り、のち渡欧。翌41年イタリアより帰国。同43年二紀会会員に推挙される。翌44年「静止した刻」で第12回安井賞受賞、同年昭和会優秀賞受賞、翌年より52年までスペイン、フランスに滞在。この間の同48年第27回二紀展で文部大臣賞を受けるが、同56年会員でありながら長く出品していなかつた同会を退く。同59年在住地である兵庫県より兵庫県文化賞受賞。素描集『酔って候』を54年刊行し、『鴨居玲画集夢候 作品1947-1984』が60年7月に刊行されて間もなくの急逝であった。酔っぱらい、廃兵、流し、老婆など人生の悲哀を滲ませるモチーフを、褐色や暗い青緑色などの染み入るような色彩と洗練されたタッチで描き、長い滞欧中に培った確かな素描力にはスペインの画家ゴヤ、ベラスケスらの影響が指摘されていた。二紀展出品歴 第2回(昭和23年)「青いリボン」、4回「赤い裸婦」、5回「夜」「夜の風景」、6回「三人」「二人」、7回「不安」、8回「空気の層」「あるく」、9回(同30年)「順を待つ」、10回「時計」「コワレタ時計」、11回「喜劇日本(B)」「喜劇日本(C)」、12回「腕時計」「食事時」「夜の海」「昼寝」、13回「ひるね」「象使い」「月と魚」「鳥」、14~19回(同35~40年)出品せず、23回「サイコロ(A)」「サイコロ(B)」、24回(同45年)「ドアはノックされた(アンネの日記より)」、25~30回(同46~51年)出品せず、31回「ダイス(A)」「ダイス(B)」、32回「教会(A)」「教会(B)」、以後出品せず。

野崎利喜男

没年月日:1985/09/04

元一水会会員でフランスでも活躍した洋画家野崎利喜男は、9月4日午後3時42分、肺がんのため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年75。明治42(1909)年11月21日横浜市に生まれ、昭和4(1929)年本郷絵画研究所、二科技塾などで洋画を学ぶ。翌5年硲伊之助に師事。同12年フランスに渡り翌年より第二次世界大戦勃発によって同15年に帰国するまでアンリ・マチスに師事する。帰国の年第4回一水会展に初出品し、同22年同会会員に推される。同27年第14回同展に「朝食の後」「春雨」を出品して会員佳作賞(1賞)受賞。同33年同志数名と斑会を結成。同41年10月再び渡仏し、同年12月のニース南仏展でグランプリ金賞を受ける。翌42年一水会を退会。同年のカンヌ・ビエンナーレ国際美術展に「ロゾレンの家」を出品してグランプリ・カンヌ市賞を受賞する。同43年帰国し三越等で滞欧作展を開く。同51年第3回目の渡欧。同年のコート・ダジュール国際美術展に招待出品する。初期には師硲伊之助の影響を強く見せたが、渡仏後フォービスムに学んで明るい色彩を使うようになり、陽光の降り注ぐヨーロッパ風景を穏やかな筆致で描いた。代表作に受賞作のほか「卓上静物」「飛翔」などがある。 一水会出品略歴-第10回(昭和23年)「きび」「むくげ」、15回(同28年)「嵐」「吾が家族」、20回(同33年)「桜並木」、25回(同38年)「三宝寺の水蓮」

土岐国彦

没年月日:1985/09/02

二紀会参与の洋画家土岐国彦は、9月2日午後5時、肺炎のため兵庫県西宮市の熊野病院で死去した。享年78。明治40(1907)年1月13日福岡県小倉市に生まれる。小倉中学校卒業後、太平洋画会研究所に学んで昭和11(1936)年第23回二科展に「黄昏れ」で初入選。以後同展に出品を続けるが、同22年二紀会の創立に参加して同会同人となり二科会を退く。同37年渡欧しパリのアカデミー・グラン・ショーミエールに学びアメリカを経由して帰国。同47年第26回二紀展に「若草山」「斑鳩」を出品して菊花賞、同51年第30回二紀展に「東大寺」「三月堂」を出品して総理大臣賞を受賞する。同56年より二紀会参与をつとめる。風景を主に描き奈良などの古い鄙びた社寺や家を好んだ。柔かいオークル系の色調で歴史を思わせるモチーフを描きしみじみとした趣を画面に漂わせた。 二紀展出品略歴-第5回(昭和26年)「朝のバルコニー」「あぢさい」「静物」、10回(同31年)「杉の木」「森」、15回(同36年)「円形劇場」「壁の断片」「コロセウム」、20回(同41年)「村の中」「田園」、25回(同46年)「東大寺残照」「若草山と東大寺」、30回(同51年)「東大寺」「三月堂」、35回(同56年)「陽だまり」「土蔵と柿の木」

吉仲太造

没年月日:1985/07/26

前衛芸術家として常に実験的制作を行なってきた吉仲太造は、7月26日午前3時40分、食道静脈りゅう破裂と肝硬変のため東京目黒区の東邦大学医学部付属大橋病院で死去した。享年56。昭和3(1928)年11月8日京都市に生まれ、京都の行動美術研究所に学ぶ。同21年第1回行動展に出品。同26年同会会友に推され、同28年第8回展に「作品A」「作品B」「作品C」を出品して行動美術賞受賞。同29年瀧口修三の選考による初個展を開催。翌年岡本太郎の招きにより行動美術協会を退会して二科会会友となり九室会に参加する。同31年神奈川県立近代美術館「今日の新人」展に「白い物体」「いきものK」を出品。32年世界今日の美術展に「作品6」を出品する。同36年岡本太郎とともに二科会を退き、以後団体に属さずに独自の活動を展開。同36年国立近代美術館の「現代美術の実験」展、40年の「今日の作家」展(横浜市民ギャラリー)、「現代美術の動向」展(京都国立近代美術館)などに招待出品。同41年朝日秀作展に出品。同43年第8回現代日本美術展に「真昼のエロス」「昼間の改惨」を出品。同49年第11回日本国際美術展に「空白」を出品する。同50年横浜市民ギャラリーに於て「吉仲太造55-75」展を開催。晩年はモノトーンの表現の可能性をさぐり同56年個展「非色の逆説」を開催した。代表作に「生きものK」「生きものH」「地球人」「窮鼠」「カルナー」「死の売り声」「或る時空間」などがある。

山田栄二

没年月日:1985/07/05

独立美術協会会員の洋画家山田栄二は、7月5日午後3時30分、甲状せんがんのため、福岡市の九州がんセンターで死去した。享年73。明治45(1912)年6月4日福岡県福岡市に生まれ、昭和5(1930)年県立修猷館を卒業。同8年二科展に初入選。翌9年第4回独立展に「静物」で初入選し、以後同展に出品を続ける。同13年第8回展に「貝殻」「恐怖」を出品して独立賞受賞。同18年同会会友、同22年同会員に推される。同28年渡欧しパリに学んで32年に帰国。同年の独立展に滞欧作を特別陳列する。翌年毎日新人展、朝日秀作展に出品。同48年再渡欧。フランスで個展をたびたび開く一方、49、51、52年に個展などのため一時帰国。同57年滞欧15年を記念して福岡で大個展を開く。絵画は純粋になる程に抽象性を増すが、人間の感性は自然から離れることはできないとし、具体的モチーフを用いながら実物写生から離れた色彩、構図を持つ詩的な作風を築いた。クレー、ミロ、シャガール等の影響が認められる。没後の昭和61年遺作画集が刊行され、福岡市美術館で遺作展が開かれた。独立展出品略歴-5回(昭和10年)「窓際」「魚」、15回(同22年)「魚のある静物」「憩ひ」、20回(同27年)「月夜」「桐の実」「魚」、25回(同32年)「秋の巴里郊外」「静物」「旅愁」「花と廃屋」「黒の中の花」「シューブルーズの冬枯れ」「窓の花」「花と夜」「秋愁」「黄昏のカーニュ、シュールメール」「南欧の夢」「宵」「紫の花」「モンテカルロ」「赤の花」「群花」、30回(同37年)「作品A」「作品B」、40回(同42年)出品せず、45回(同52年)「花と教会」「菊一輪と果実」、50回(同57年)「花祭りの夜」「赤い空」

宮嶋美明

没年月日:1985/06/13

二紀会委員の洋画家宮嶋美明は6月13日午後8時41分、急性心不全のため千葉県船橋市の済生会船橋済生病院で死去した。享年72。大正元(1912)年9月5日新潟県北蒲原郡に生まれる。本名正一。昭和17年第12回独立美術協会展に「赤とんぼ」で初入選し以後同展に8回出品するが、同28年より二紀会に移り「夕暮の街」「工場」を出品、同32年第11回同展に「消えてゆく川」「街の母子」を出品して同人賞、翌年第12回展に「たそがれの家路」「死刑台に死す」「街に狂える人」「夜なかの客」「娘の父は死す」を出品して同人努力賞、翌34年同第13回展に「死」「癌」「喰」「魚」「涙」「夢」を出品して同人優賞、同45年第24回展に「心臓移植」「研究と失敗」を出品して黒田賞を受賞する。人体をモチーフとして現代社会の悲哀を描き問題を提起する。暖かい灰色を基調とする柔らかい色彩と静かな構図の中に強靭な主張を込め、代表作に「生命」のシリーズがある。二紀展出品略歴 10回(昭和31年)「都会の裏街」、15回(同36年)「歌」、20回(同41年)「人工授精」、25回(同46年)「やすらかに」「無情」、30回(同51年)「別れ」「離婚」、35回(同56年)「蝕」「飢」

田中修

没年月日:1985/05/07

フランス、ドルトーニュに住んで制作を続けていた新制作協会会員の洋画家田中修は、5月7日午後1時、脳こうそくのため静岡県下田市で死去した。享年82。明治36(1903)年3月3日愛媛県温泉郡に生まれる。本名修。昭和3(1928)年東京高等師範学校を卒業、翌4年第16回二科展に「廃園」で初入選。同7年より16年まで同展に入選を続ける。同17年より新制作協会へ出品。同19年第9回同展で新作家賞を受賞、同26年第15回展では「牛」「林」「馬」を出品して岡田賞を受け翌年同会会員となる。同29年11月渡仏。同32年7月帰国し翌年白木屋で個展を開くが同年9月再渡仏。以来フランスに住んで風景画を描き続けた。広やかな田園に建つ白壁の家などを柔らかく滋味ある色彩で描き、アンチームな田園詩を謳った。同59年夏に発病し、帰国して療養していた。 新制作展出品略歴-10回(昭和21年)「兎」「庭」「名園」「山」「夕」、15回(同26年)「牛」「林」「馬」、20回(同31年)「鍵居」「セゴヴィア」、25回(同36年)「作品」、30回(同41年)「落書の壁」「きづた」、35、40、45回出品せず

田中寿太郎

没年月日:1985/04/18

春陽会会員の洋画家田中寿太郎は4月18日午後5時20分、肺気しゅのため相模原市の田名病院で死去した。享年80。明治37(1904)年8月30日岡山市に生まれる。葵橋洋画研究所、川端画学校で洋画を学ぶ。林重義に師事。昭和5(1930)年第8回春陽展に初入選し同8年第11回展より毎回同展に出品。同14年第17回展に「ベレー帽の男」「挙闘」「夜の肉店」「サーカス」を出品して春陽会賞受賞。翌年同会友に推挙され、同22年同会会員となる。同39年7月より11月まで欧州を巡遊。初期には静物、風景と広く画題を求めたが、馬を描くことを好み馬と人物を組み合わせた作品は初期から晩年まで一貫して描かれた。主要なモチーフのみを描き、周囲の状況や背景を捨象して簡潔ななかに詩情漂う画風を示した。 春陽展出品略歴-11回(昭和8年)「花」「崖と入江」「石切山に通ふ道」、15回(同12年)「夏の花壇」「温室」、20回(同17年)「腕を組む男」「花」「婦人像」、30回(同28年)「漁船」「漁船」「静物」、35回(同33年)「馬と人」「馬上」「白い馬」、40回(同38年)「馬上」「採石」「馬と少年」、45回(同43年)「サーカス」、50回(同48年)「サーカス」、55回(同53年)「工場風景」、60回(同58年)「農夫と家族」、63回(同61年)遺作「北大植物園」「サーカスの少女」「秋庭」「パンジー」「馬上」

中間冊夫

没年月日:1985/03/04

独立美術協会会員、武蔵野美術大学名誉教授の洋画家中間冊夫は3月4日脳卒中のため東京都杉並区の自宅で死去した。享年76。明治41(1908)年10月10日鹿児島県川辺郡に生まれる。私立高輪中学校卒業。川端画学校に学び、二科展に出品、また昭和5年5回一九三〇年協会展に「母子」など5点を出品し、H氏奨励賞を受賞する。独立美術協会展には同6年の第1回展に「母子」「四人」を出品したのをはじめ毎年出品を続け、同11年6回独立展に「海の人物」「漁夫三人」「丘上」を出品し独立賞を受賞、独立美術協会会友となり、同15年の10回独立展には「蒙彊」3点を出品し会員に推挙された。戦後は独立展の他、美術団体連合展、日本国際美術展、現代日本美術展、国際形象展などに出品し、また、欅会、十果会を結成する。この間、同37年武蔵野美術大学教授に就任、同58年同学名誉教授の称号を受けた。重厚なマチエールによる半具象的な裸体表現に独自の作風を示し、戦後の具象絵画における一傾向を提示した。作品は他に「青い人」(同40年)などのほか、「うずくまる」の連作がある。

有元利夫

没年月日:1985/02/24

無所属の洋画家で安井賞受賞作家有元利夫は、2月24日肝がんのため東京都文京区の日本医科大学病院で死去した。享年38。将来を大いに嘱望されながら38歳の若さで急逝した有元は、昭和21(1946)年9月23日疎開先の岡山県津山市に生まれたが、生後間もなく一家が東京都台東区の実家へ戻ったため、以後没年までのほとんどを谷中で生活した。小学校低学年の頃からゴッホに強い興味を抱いたとされ、都立駒込高等学校在学中同校で教えていた中林忠良の指導を受け東京芸術大学進学を決意する。同44年東京芸術大学美術学部デザイン科に入学、在学中の同46年ヨーロッパを旅行し、とくにイタリアでフレスコ画に接して深い感銘を受けた。この体験は帰国後、日本の古画、仏画へと目を向けさせることにもなり、また、フレスコ画と同質の質感をもとめて岩絵具を用い始めることにもなった。同48年芸大を卒業、卒業制作「私にとってのピエロ・デラ・フランチェスカ」は芸大買上げとなった。同年電通に入社しデザインの仕事に携わる側ら制作し、翌年にはみゆき画廊で二人展、同50年には同画廊で個展を開催した。翌51年大阪フォルム画廊東京店で「有元利夫展-バロック音楽によせて-」を開催、同年電通を退社し東京芸術大学非常勤講師をつとめながら画業に専念するに至った。美術団体に所属せず、明日への具象展、具象現代展等に出品したが、同55年からは彌生画廊での個展で専ら制作発表した。この間、同53年21回安井賞展に「花降る日」「古典」を出品し、この年のみの特別賞となった安井賞選考委員会賞を受賞し注目され、同56年には安井賞展に出品した「室内楽」「厳格なカノン」の前者の作品で第24回安井賞を受賞した。同58年2回美術文化振興協会賞受賞。版画、彫刻、陶芸にも独自の才能を発揮し、同53年最初の銅版画集『7つの音楽』を刊行したのをはじめ、『一千一秒物語』(同59年)に至るまで幾つかの銅版画集を出した。また、バロック音楽を愛し、自らもリコーダを吹いた。岩絵具、箔、金泥などを用いた独特の油彩技法と、素朴な画情をたたえた作風は、洋画界に新領域を拓くものとして期待されていた。画文集に『有元利夫 女神たち』(同56年)、『もうひとつの空』(同61年)がある。

宮脇晴

没年月日:1985/02/05

春陽会会員の洋画家宮脇晴は2月5日午後11時14分、前立せん肥大に肺炎を併発し、名古屋市の名古屋大学附属病院で死去した。享年82。明治35(1902)年2月23日名古屋市に生まれ、大正9(1920)年名古屋市立工芸学校図案科を卒業。春陽会会員の洋画家大沢鉦一郎に師事し、同9年第2回帝展に謹直な写実をみせる「自画像」で初入選。昭和2(1927)年より大調和美術展に木彫の能面を出品。同7年第13回帝展に「孫を抱ける老母の像」で再び入選する。翌8年第11回春陽展に「少女立像」で初入選し以後同展に出品を続ける。同17年第5回新文展に「子供達と母」で入選。翌年の同展では「子等遊ぶ谿」で特選となる。戦後の同22年春陽会会友、同28年同会員に推される。子供を描くことを好み、初々しく溌刺たる生命感を明るい色調で表わした。 春陽展出品略歴-第11回(昭和8年)「少女立像」、15回(同12年)「樹上姉弟図」「瀧に遊ぶ」「朝の海を見る」、20回(同17年)「モンペを穿く女」、30回(同28年)「黄衣由美」「ミルクを飲む幼児」、35回(同33年)「T」「S」「C」、40回(同38年)「ポニーと少女」「鳥笛」、45回(同43年)「たき火」「月と薄」、50回(同48年)「挽く」「藍の中の座像」、55回(同53年)「横たわる裸婦」、60回(同58年)「今年竹」、62回(同60年)遺作「犬をひく自画像」「夜の自画像」「ミス・ホディス」

小野末

没年月日:1985/01/10

洋学家で安井曽太郎記念会理事の小野末は、1月10日脳血栓のため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。享年74。明治43(1910)年4月10日新潟市に生まれる。本名末吉。昭和9年新潟師範学校卒業後上京、安井曽太郎に師事しその内弟子となった。同13年2回一水会展に初入選、同18年7月一水会展で「早春」などで一水会賞を受賞する。戦後の同21年一水会会員となる。同23年10回一水会展に「華街展望」で一水会優賞を受賞。また、同24年一燈園新人賞、同25年第1回アトリエ新人賞を受けた。同26年一水会委員となるが、同47年には一水会を退会した。この間、一水会展、個展の他、現代日本美術展などに出品、同34年には国際具象派協会創立に参画した。同35-38年の間渡欧、同40年には東南アジア、エジプト、ギリシャ、同47、49、50年の三度にわたりメキシコを訪れた。また、同31年に設置された安井曽太郎記念会の運営に携わり、安井賞の評議員、運営委員もつとめた。同53年東京セントラル美術館と梅田近代美術館で回顧展を開催する。同56年、東京、大阪の高島屋で個展「砂漠の歌」を開催、「乾いた湖」「カボルカの砂丘」など大作15点を発表し、翌年この個展により昭和56年度芸術選奨文部大臣賞を受賞した。安井写実主義から出発し、一時フォンタナなどの抽象絵画にもひかれたが再び写実に徹し、自然の厳しい凝視から生まれた緊迫感のある画面をつくりあげた。作品は他に、「闘牛」「岩山」などがある。

鈴木亜夫

没年月日:1984/12/07

小島善太郎の死後、独立美術協会創立会員の最後の一人となった鈴木亜夫は、12月7日午前7時30分、老衰のため、東京都調布の自宅で死去した。享年90。明治27(1894)年3月26日、工学博士鈴木幾弥太の次男として大阪に生まれる。同45年、東京の芝中学に入学、葵橋洋画研究所に学び東京美術学校西洋画科に入る。同校在学中の大正5(1916)年第3回二科展に「ターンテーブル」で初入選。以後、同会に出品を続ける。同10年、東美校を卒業し、同研究科に進み、藤島武二に師事する。万鉄五郎を中心とする円鳥会、および中央美術展に参加し、「葡萄と女」で中央美術賞を受賞する。昭和4(1929)年、一九三〇年協会に参加。同5年、里見勝蔵らの同志と独立美術協会を創立。フォービスム的色彩と自由な筆使いをとり入れつつ、日本的油絵を追求する。同19年、陸軍省の依嘱によりビルマに赴き記録画「ラングーンの防空とビルマ人の協力」を制作。戦後も独立美術協会に出品。同41年渡欧し翌年日動画廊で個展を開いてその成果を発表する。同57年には銀座、ギャラリーミキモトで米寿記念回顧展を開く。風景、静物のほか、人物をモチーフにとり入れた象徴的作品などを描き、詩情ある画風を築いた。 二科展出品歴 第3回(大正5年)「ターンテーブル」、4~6回出品せず、7回「花篭」、8回(同10年)出品せず、9回「赤日傘の女」「肩を拭く女」、10回「静物」、11回「花と少女」「風車のある丘」、12回出品せず、13回(同15年)「黒い船」「裸婦立像」「裸婦臥像」「硝子戸の中の少女」「花を生ける女」、14回(昭和2年)「樹蔭読書」「裸婦座像」「夏」「碇泊」、15回「バルコン」「編物するM子」、16回「露臺母子」「樹蔭午睡」「日傘さす婦人」「読書する少女」「グロキシニヤ」「龍洞院の百日紅」、17回(同5年)「母性」「池畔緑陰」「支那服の少女」「蕃布を配せる静物」「Y楽長補の像」 独立展出品歴 第1回(昭和6年)「鴨」「ヴァリエテ」「サーカスの娘達」「卓上静物」「女の顔」、2回「巌」「子供の顔」「二人の曲芸師」「少年と軍楽手」「女の顔」「渓流」「テレジーナの踊り」「伊豆下田風景」「オランダ人形」、3回「白馬」「牛に騎る女」「夏の少女」「舗道」「雨」「豹」「馬ト野獣」、4回「裸婦立像」「薔薇」「狩獵」「幼年像」「月と白馬」「薔薇」「人形を造る」、5回(同10年)「撮影」「馬と噴火口」「牡丹」、6回「猿と踊り子」「牡丹」「麦秋」「乗馬」「人形」、7回「草上画作」「競馬」「樵夫」、8回「TUBA」「丘の上」「桜」、9回「闘ひの譜」、10回(同15年)「渚」、11回「山湖秋色」「海濱の午後」「駒ケ岳新雪」「峠路」、12回「穂高初秋」「二人のアンコ」「朝岳」「上高地初秋」、15回(同22年)「海のアンダンテ」、16回「街の楽団」、18回(同25年)「お茶時」「裸婦習作」、20回「廃船」「志賀島風景」、21回「老婦人像」「手風琴」「化粧」、22回「室内婦人」「日傘」、23回(同30年)「朝顔A」「芋」「朝顔B」、24回「水をやる」「ばらの花」、25回「夏の午後」「夏の日」、26回「赤い牛舎」「ミサイル」「猩々の舞い」、27回「北海山湖(摩周湖)」「アイヌの長老」「地球岬」、28回(同35年)「廃船」「船のある静物」「船のある静物(桜島)」、29回「土器」「土偶」、31回「無人灯台」「人魚のいる風景」、32回「湖騒の村」「獅子」、33回(同40年)「能登の寒冷前線」「静物」、34回「メニール・モンタンの坂道」「巴里の壁」、35回「トレドの驢馬」「籘椅子に寄る」、36回「マルケン島の女」「石の馬(無力の抵抗)」、37回「槍」「新聞を読む人」、38回(同45年)「妖雲」「巴里の花屋」、39回「シャルトルへ行く」「実りの行進」、40回「暁雲白馬」「みどりの庭」、41回「亜夫山荘遠望(会津芦の牧温泉)」「ムウムウの満里子」、43回(同50年)「石狩川赤陽」「楽譜持てる少年」、44回「風紋」「室内」、45回「あじさい」「牡丹」、46回「桜島赤照」「薔薇図」、47回「五島大瀬崎の灯台」「砂丘」、48回(同55年)「紫陽花」、「葡萄実る頃」、49回「紫陽花の庭」「紫陽花」、50回「葡萄の秋」、51回「椅子に依るK夫人」、52回「甲斐駒ケ岳」

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