池田淑人

没年月日:1981/02/03
分野:, (洋)

 画壇から離れ、詩情豊かな作品を描いた孤高の画家池田淑人は、2月3日午後3時57分、老衰のため東京・西荻中央病院で死去した。享年94。前半生を音楽家として活動し、画家としてもほとんど美術団体に所属せず自由な制作を続けた異色の作家であった。1886(明治19)年6月12日秋田市に生まれ、1904年18歳の時に県立横手中学校を3年で中退、英語教師チャンプリンに伴われ渡米する。数年をチャンプリンの故郷ペトロマの学校で過ごした後、1909年サンフランシスコに赴き、詩人オーキン・ミラーの山荘に止宿、ここで同門の野口米次郎、菅野衣川らと共に、ミラーに詩を学ぶ。同時に、サンフランシスコ音楽学校でチェロを、同地のパプキン美術学校で絵画を学んだ。23(大正12)年に帰国し、郷里秋田の各地でチェロ演奏会を開いた後、東京、京都へと移り、演奏活動及びチェロと英語の教授を専らとした。また家が近かった須田国太郎との交遊も、25年頃より始まっている。26(昭和元)年指を痛め、楽器の演奏が出来ないため油絵を制作し、翌年初の個展を開催、絵画のほか英詩8篇を出品している。また28年には須田国太郎のすすめで関西美術院展に出品した。29年上京し、新宿・紀伊国屋画廊で「原人の絵原人の詩」と題した個展を開催したが、中川紀元が芳名録に「非原人」と記帳し話題になったのはこの時である。ここでも油絵のほか英詩10篇を出品している。このほか、後にヘッセらの絶賛を受けた英詩集『流浪のうた』(1952年)も発表するなど、豊かな文学的素養は絵にも大きく影響する。「自画像」や「妻の像」「燃える砂漠」(いずれも27年頃)など、初期の作品は強烈な色彩と強い筆致のフォーヴ的な画風を示すものの、次第に単純化されたフォルムの神秘的な画風へと移り「馬鈴薯」(40~42年)「古代馬」(44年)「双馬」(64年)「黄昏の春」(65年)「天地一体」(65年)「夜明の花」(65年)「ペガサス」(65年)などが描かれる。一方、戦後の48年に自由美術協会会員に推され、以後毎年出品したが、63年に脱退、ヨシトの名をもじって「ヨステ」或いは「鯢山人」と名のり、自宅で個展を開いたり、ほぼ毎年1回のペースで画廊で個展を行なうなど自由な制作を続けていた。79年に新宿・小田急で、80年に高岡市立美術館でそれぞれ「池田淑人展」が行われ、81年没後に遺作展が秋田市文化会館で開催された。

出 典:『日本美術年鑑』昭和57年版(270頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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