鈴木千久馬

没年月日:1980/09/07
分野:, (洋)

日本芸術院会員、日展顧問の洋画家鈴木千久馬は、9月7日肺炎のため東京港区の東京慈恵会医科大学付属病院で死去した。享年86。1894(明治27)年7月23日、福井市に生まれ、1908年一家で上京、14年東京美術学校西洋画科に入学し、藤島武二教室に学び(同級に中村研一、前田寛治)、20年卒業する。卒業の年、第3回帝展に「緑蔭にて」が初入選、25年から27年の第6-8回帝展で連続特選を受賞し、28年帝展無鑑査となるが、同年渡欧しフランス、イタリー、スペインで学び、29年に帰国する。滞欧中、ピカソ、マチス、ブラックなどの影響を受けたが、ことにブラマンクのフォーヴィスムに傾倒する。帰国の年、1930年協会第5回展に滞欧作38点を出品。翌年帝展審査員に推挙され出品、以後、帝展、文展の審査員を毎年つとめる。41年、中野和高ら11名の同志と創元会を創立。戦後は、日展、創元会を中心に制作発表を行い、57年第12回日展出品作「てっせん」その他の諸作により、昭和31年度日本芸術院賞を受賞、58年には新日展の評議員となる。72年、日本芸術院会員に任命され、74年勲三等瑞宝章を受章する。この間、51年(日本橋三越)、62年(高島屋ギャラリー)に自選展を、69年には日本橋三越で「画業50年記念鈴木千久馬自選展」を開催する。また、69年に、『鈴木千久馬作品集』(美術出版社)が刊行される。後年は、伝統的な東洋画の画趣にひかれ、日本的フォーヴとよばれる淡泊な味わいをもつ独特な画境を拓いた。
略年譜
1894 7月 23日、鈴木小弥太三男として福井市に生まれる。
1901 福井市宝永尋常小学校入学。
1905 父小弥太没。
1906 県立福井中学校入学。
1908 一家で上京、日本中学校に転入。
1910 日本中学校卒業。
1914 東京美術学校入学。
1921 東京美術学校西洋画科卒業(藤島武二教室。同級に前田寛治)。第3回帝展「緑蔭にて」初入選。
1922 8月、常盤松高等学校図画科教師となる(-27年12月迄)。第4回帝展「卓上静物」
1923 日本美術展「卓上静物」入賞。
1924 第5回帝展「静物」
1925 1月、日本中学校教諭となり図画を教える(-27年12月迄)。
8月、西川正子と結婚。第6回帝展「寝椅子の裸婦」特選。
1926 第7回帝展無鑑査出品「椅子による裸婦」特選。
1927 第8回帝展「椅子による裸少女」「四人の女」特選。
1928 絵画研究のため渡欧、主にパリに滞在し、仏、伊スペイン等を巡歴。滞欧中、ブランマンク、ピカソ、マチス、ブラックなどの影響を受ける。
1929 帰国。1930年協会展第5回展に滞欧作38点を出品。第10回帝展「裸婦」。
1930 帝展審査員(以後毎年)となる。第11回帝展「草上の裸婦」。
1931 第12回帝展「家族」。
1932 第13回帝展「母子」。日動画廊で旧作による個展。
1933 第14回帝展「庭先」。
1934 第15回帝展「初秋の朝」。
1935 帝展第2部会展「小春日和」。
1936 文展招待展「小豆島風景」。四元荘設立。
1937 第1回文展(新文展)審査員(以後しばしば)となり、「清流」出品。
1938 鈴木絵画研究所設立。第2回文展「春」。
1939 第3回文展「滝」、政府買上げとなる。四元荘展「早雲山を望む」「姨捨風景」。
1940 母たま没。紀元二千六百年奉祝美術展に「白」招待出品。白日展「富士」。四元荘展「花と少女」「安茂里」。
1941 中野和高ら同志11名と創元会を創立、第1回展に「杏村の春」「太平洋を望む」を出品。
1942 第5回文展「子供達と母」。第2回創元会展「母性」「秋酣」。
1943 第6回文展「山峡の春」。第3回創元会展「黎明」。
1944 戦時特別文展「海浜風景図」。第4回創元会展「梅咲く」。
1945 福井市に疎開する。
1946 第1、2回の日展に出品せず。創元会小品展「梅咲く家」。
1947 帰京。第3回日展審査員となり、「晩夏」出品。
1948 第7回創元会展「裸婦横臥」「花」。第2回美術団体連合展に「花」(7回創元会展)を招待出品。
1949 第8回創元会展「娘の顔」「三宝柑」。
1950 日展運営委員会参事を依嘱される(-58年迄)。第6回日展「卓上静物」。第9回創元会展「岬」「静物」
1951 日本橋三越で旧作による自選展。第7回日展「鰈のある静物」。第10回創元会展「室内」「アネモネ」。
1952 第8回日展「つゆばれ」。第11回創元会展「凝視」「卓上の花」。
1953 国立公園協会より国立公園絵画展への製作を委嘱され「奥秩父」を出品。第9回日展「窓際」。第12回創元会展「オリーブ」「静物」「小豆島小景」。
1954 第10回日展「花菖蒲」。第13回創元会展「ナチウルモルトアメロディ」「果物」「薔薇」。
1955 第11回日展「初秋」。第14回創元会展「花(ダリア)」「静物」「無題」。
1956 第12回日展「てっせん」政府買上げ。第15回創元会展「椅(いいぎり)」「ミモザ」「弾奏」。
1957 前年度日展出品作「てっせん」その他の諸作により、昭和31年度日本芸術院賞を受賞。第13回日展「朝顔」。第16回創元会展「向日葵」「静物」。第4回日本国際美術展(秀作美術展)に「朝顔」(日展出品作)を招待出品。
1958 財団法人日展(新日展)の評議員となり、第1回展の審査員(以後隔年)をつとめ、「雪柳」を出品。第17回創元会展「小菊」「庭の雪」「花」。
1959 第2回日展「萩咲き初む」。第18回創元会展「蓮池の一隅」「つゆ萩」。
1960 第3回日展「椅子による裸婦」。第19回創元会展「櫛けずる」「アトリエの一隅」。
1961 第4回日展「竹」。第20回創元会展「紫陽花」「アネモネ」「庭の隅」。
1962 高島屋ギャラリーで自選展。第5回日展「寂」。第21回創元会展「夜桜」。
1963 第6回日展「叢」。第22回創元会展「かすみ草」「庭の隅」「水蓮」「肖像」。
1964 第7回日展「髪」。第23回創元会展「菫を持つ裸婦」「庭の一隅」。
1965 第8回日展「帽子の裸婦」。第24回創元会展「かすみ草」「てっせん」「鏡の前」
1966 福井県公民館で個展。第9回日展「拈花(ねんげ)」第25回創元会展「雪原に舞う」(政府買上げ)「薔薇と裸婦」「芒咲く」。
1967 第10回日展「支那服の娘」。第26回創元会展「なわとび」(政府買上げ)「庭に咲いた花」「知床」。
1968 第11回日展「支那服の娘」。第27年創元会展「薔薇と支那服の娘」(政府買上げ)「グラバー邸グリーンルーム入口」「富士(山中湖)」。
1969 日本橋三越で「画業50年記念鈴木千久馬自選展」(9.2-7)を開催。改組日展の評議員となり第1回展に「浴後」を出品。第28回創元会展「支那服の娘」「庭に咲いた花」。『鈴木千久馬作品集』(美術出版社)を刊行。
1970 第2回日展「双鏡」。第29回創元会展「椅子による女」「木の間富士」「五重塔夜景」
1971 第3回日展「阿修羅の流れ」。第30周年記念創元展「舞妓」「牡丹」「黎明松島」。
1972 日本芸術院会員に任命される。第4回日展「牡丹」。第31回創元会展「夕涼み」「牧場黎明」「浴」。
1973 日展顧問となる。第5回日展「薔薇を持つ少女」。第32回創元会展「夜の海」「支那服の娘」。アートサロン銀座ノバで個展を開催(11.1-20)。
1974 勲三等瑞宝章を受章。第6回日展「浴衣」。第33回創元会展「舞妓立姿」「鏡の前」「薔薇」。
1975 第7回日展「てっせん」。
1976 第8回日展「花束を持つ裸少女」。第35回創元会展「藤咲き初む」「横臥裸婦」。
1977 第9回日展「椅子に凭る女」。第36回創元会展「白牡丹」。
1978 第10回日展「白いレース」。第37回創元会展「髪を洗ふ」。
1979 第11回日展「霞草と裸少女」。第38回創元会展「薔薇(2点)」「果物を持てる女」。
1980 第12回日展「横たわる女」。第39回創元会展「仔犬を抱く女」「扇子を持てる女」。9月7日没。
東京都港区元麻布の竜沢寺に葬る。法名、禅岳院徹心創元居士。

出 典:『日本美術年鑑』昭和56年版(262-263頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「鈴木千久馬」『日本美術年鑑』昭和56年版(262-263頁)
例)「鈴木千久馬 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10165.html(閲覧日 2024-04-20)

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