本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





堀越隆次

没年月日:1984/12/05

二科会監事の洋画家、堀越隆次は、12月5日午前6時50分、貧血病のため愛知県瀬戸市の陶生病院で死去した。享年68。大正5(1916)年6月26日、茨城県土浦市に生まれる。土浦中学を経て、昭和14(1939)年東京高等工芸学校(現千葉大学)を卒業。同年名古屋市日本陶器(現ノリタケ)に入る。服部正一郎に師事。同15年東満州に於て兵役に服し、同18年帰国。同年第30回二科展に満州風景「氷河」で初入選する。以後、ノリタケ・カンパニーに勤務する一方で同展に出品を続け、同26年第36回二科展「母と子と」(A)、(B)、(C)、三部作を出品して二科賞を受け、翌年同会会友となる。同30年第40回二科展には「罰」「母と子」を出品し会友賞を受賞。同39年二科会員となる。同41年第51回二科展に「とりとひと-B」を出品して会員努力賞を受賞。同54年同会評議員、同59年同会監事となる。同46年より53年まで中部国際形象展、同54年から56年まで中日展にも出品。社会の矛盾に耐えて生きる人々の生活に深いまなざしを注ぎ、プリミティブな味わいのある画風を示した。 二科展出品歴–30回(昭和18年)「氷河」、31回「筑波遠望」「水郷」、32回「家路」、34回「家族」、35回(同25年)「風の吹く日に」、36回「母と子と」(A)、同(B)、同(C)、37回「家族B」、同C、38回「路傍A」、同B、同C、39回「よる」「こまった」、40回(同30年)「母と子」「罰」、41回「母子A」、同B、42回「工場の母子」、43回「家族A」、同B、44回「枷B」、45回(同35年)「ささえるA」、同C、46回「傷ついた人(A)」、48回「母子」、49回「ぎせい」「白いみち」、50回(同40年)「鳥と人」、51回「とりとひと-B」、52回「鳥と人とA」、53回「はれた日」、54回「ある家族」、55回(同45年)「ある家族A」、56回「ある家族」、57回「ピエロ……たち」、58回「こわれた人形」、59回「家族」、60回(同50年)「どこへ」、61回「ささえる」、62回「廃船」、63回「回想」、64回「集積」、65回(同55年)「余★」、66回「サン・ミゲルの母子」、67回「ふたりと二人」、68回「聖家族」

生沢朗

没年月日:1984/11/22

洋画家で挿絵画家として著名な生沢朗は、11月22日心筋こうそくのため東京都目黒区の東邦医大付属大橋病院で死去した。享年78。本名正一。明治39(1906)年9月12日兵庫県に生まれる。昭和3年日本美術学校を卒業後、台湾で壁画の模写に従事したのち報知新聞社に入社し、政治漫画を執筆する側ら帝展へ出品。同11年には第23回二科展に「ラグビー」が入選する。戦後は、同21年行動美術協会結成に際し会友となり、同23年第3回展に「埠頭付近」「河畔」他を出品し会員に推挙された。行動展への出品作には「競馬場風景A」(4回)、「鳩を囲む裸婦」(9回)などがあり、フォーヴィスム的な作風を示した。一方、同26年の「週間朝日」「月刊読売」に表紙絵を描くなど挿絵画家としても活躍し、同33年行動美術協会退会後は新聞、雑誌等の挿絵に腕をふるった。同44年立原正秋『冬の旅』(読売新聞)、同45年大岡昇平『愛について』(毎日新聞)をはじめ、井上靖『氷壁』『化石』『星と祭』(朝日新聞)など新聞連載小説の挿絵を担当、都会的でかつ陰影にとむ独特の持ち味で一躍流行児となった。同46年には井上靖らとシルクロード、ヒマラヤを訪れ、そのスケッチを中心に『生沢朗画集-ヒマラヤ&シルクロード』を同48年に刊行した。スポーツマンとしても知られ、晩年は水墨画に親しんでいたという。『氷壁画集』(同32年)、『生沢朗さし絵集』(同49年)などがある。

山本不二夫

没年月日:1984/11/02

二科会理事、日本水彩画会理事の洋画家山本不二夫は、11月2日午前0時10分、脳血栓のため、千葉県八千代市の新八千代病院で死去した。享年79。明治38(1905)年2月1日、千葉県佐原に生まれる。千葉県立佐原中学校を経て、大正15(1926)年東京商科大学(現一橋大学)専門部を卒業後、昭和7年まで旅館、運送業を自営する。のち、同13年まで内務省土木部に務め、大戦中は海軍省の嘱託となる。この間、同9年に二科展、日本水彩展に初入選。以後同展への出品を続け、同14年日本水彩展に「佐原風景」「高楼聴蝉」を出品してキング賞を受賞、同16年同会会員、および二科会会友となる。戦後、本格的に制作に専念し、再編された同二団体に参加。同25年、再編後の新制度下の二科展で再び会友に推挙され、同30年同会会員となる。同36年、フランスのサロン・コンパレゾンと二科展の交流のため渡欧し、5カ月間美術品を視察。同38年二科展に「樹から生れた女」「ねんりん」を出品して会員努力賞を受け、同40年二科会50周年記念展では「あしたの女達」で総理大臣賞を受賞、同44年の同展には「山の湖で」を出品し青児賞を受ける。同45年ポルトガル、モロッコ及びヨーロッパを訪れる。水平線、垂直線を基調とする構図に女性の単身像あるいは群像を配し、抒情的作風を示した。二科展出品歴-21回(昭和9年)「佐原風景」、22回(同10年)「水辺(水彩)」、23回「監督船就航」、24回「佐原河港」、25回「総領息子」、26回「静か」、27回(同15年)「外堀線」「美しき佐原河港」、28回「陽気な女車掌」「佐原の跳橋」、29回「元気なエンヂさん」、31回(同21年)「夕陽の佐原」「十六島の娘」、32回「R夫人像」、34回「横臥裸婦」「帳りの中の裸婦」「二人のニンフ」、35回(同25年)「いこひ」、36回「森」「花と裸女」、37回「花をくわえた女」「二人」、38回「暗い海岸」「目覚めたる女」、39回「崩れゆく夢」、40回(同30年)「野のなやみ」「断想」「山のいのち」、41回「麦愁」「青い気圧」「岩の芽」、42回「静かなる谷間」「鳥と語れば」、43回「腰かける裸婦」「二人の裸婦」「立てる裸婦」、44回「朝粧」「花をもてる妖女達」「花にくちづけす」、45回(同35年)「土麗都」「楼夢」、46回「積寥」「組寂」、47回「黒い気流」、48回「樹から生れた女」「ねんりん」、49回「樹層」「巌の華」、50回(同40年)「あしたの女達」、51回「あじさいの咲く頃」、52回「三人の舞妓」、53回「霧は流れる」、54回「山の湖で」、55回(同45年)「あるつどい」、56回「赫い道」、57回「残雪の消える頃」、58回「猫を飼ふ女」、59回「髪」、60回(同50年)「梳づる女」、61回「鳥と戯れる」、62回「海の見える丘」、63回「紫陽花を愛す」、64回「月光のある部屋」、65回(同55年)「めざめ」、66回「集り」、67回「静かなる」、68回「砂の床」、69回「花をかざす」

高須靱子

没年月日:1984/09/24

元女子美術大学教授の洋画家高須靱子は、9月24日午後5時、老衰のため、東京都青梅市の青梅藤ケ丘病院で死去した。享年75。明治42(1909)年1月7日、鳥取市に生まれる。本名川澤雪枝。女子美術専門学校を卒業し、昭和4(1929)年に1930年協会展に出品。のち、独立美術協会に出品、同30年「花A」「花C」で独立賞を受賞、同34年、同会々員となる。また、同21年11月に設立された女流画家協会には、創立時から会員として参加し、のちに委員もつとめる。同23年までは、斎藤雪枝と称した。初期から花を描くことを好み、自由なタッチと豊かな色彩で装飾的な画面をつくりあげたが、同30年代後半から抽象的な傾向を示した。晩年は団体展への出品が少なくなり、同57年には独立美術協会会員を退いている。同30年より女子美術大学芸術学部で教鞭をとり、同46年より同49年まで同学部教授をつとめた。

角南松生

没年月日:1984/09/12

春陽会会員の洋画家角南松生は、9月12日脳こうそくのため東京都新宿区の駒ケ峰病院で死去した。享年92。本名松三郎。明治24(1891)年12月1日岡山市に生まれる。昭和8年から春陽会洋画研究所で学び、木村荘八、中川一政の指導を受けた。春陽会へは第10回展から出品し、同15年第20回展に「花」で春陽会賞を受賞、翌年春陽会会友、同22年春陽会会員となる。戦前の新文展には第4回から出品、戦後も第1回日展に出品したが翌22年には日展を離れた。同27、35、38、52年の4回にわり欧米を巡遊する。作品に「福沢諭吉像」(現慶応志木高蔵)などがある。また、村武らと浅草で天洋画会を設け、活動写真時代の映画館宣伝の草分けとして活躍したことでも知られる。

小島善太郎

没年月日:1984/08/14

独立美術協会創立会員で、洋画界の長老であった小島善太郎は、7月14日より帯状ヘルペスで入院、治療中であったが、8月14日午前10時5分、心不全のため東京都日野市の花輪病院で死去した。享年91。明治25(1892)年11月16日、東京新宿区に生まれる。同43年、陸軍大将中村覚の書生となり、同年より太平洋画会、日本美術院、葵橋洋画研究所などで学ぶ。安井曽太郎に師事。大正7(1918)年第5回二科展に「冬枯の堀」で初入選し、以後同会に出品を続ける。一方、同9年、東京都主催巽画会に「やわらかき光」を出品して受賞、翌10年大正博覧会には「四ツ谷見附」を出品して受賞する。同11年、野村徳七の後援を得て渡欧、フランス、イタリアを巡歴し、パリのグラン・ショーミエールでシャルル・ゲランに師事、同12年のサロン・ドートンヌに入選する。同14年帰国し、翌年新宿の紀伊國屋で帰国展を開催するとともに、留学時代の友人であった前田寛治、木下孝則、里見勝蔵と一九三〇年協会を創立。フランス絵画の影響の強かった当時の洋画界に、新帰朝者として指針を示した。昭和2年「林中小春日」で二科賞を受賞。同3年日本美術学校教授となる。同5年、同志12名と独立美術協会を創立し、二科会を退く。セザンヌを尊敬し、自然との親和をめざした精神性の高い制作態度を貫いて、独自の堅実な画境を築いた。戦後も独立美術協会に出品を続けるとともに、画廊、百貨店で個展を開催。同27年明星学苑理事、同42年東京純心学園短大教授となり教育にも尽くした。東京青梅の自然を愛し、同市との縁が深く、同59年10月1日には同市立小島善太郎美術館が開館することとなっていた。 二科展出品歴 5回(大正7年)「冬枯の堀」、6回7回出品せず、8回(同10年)「ダリア」「四谷のトンネル」、9回「頽庭」「無題」、10回「エチュード」、11回出品せず、12回「エスタークの風景」「巴里近郊」「ネラバレの風景」「マルセイユの近郊」、13回(同15年)「郊外秋景」「青きフォートイユによりて」「秋晴」「巴里ヴアンセンヌの池畔」「クラマール風景」、14回(昭和2年)「林中小春日」「編物」「雑林秋色」「曇日」、15回「初夏の縁」「奈良郊外」「冬日」、16回「梅林」「花」「諏訪湖遠望」「風景」「諏訪湖風景」「舞子」、17回(同5年)「裸女ポーズ」「菜の花」「相州吉濱村」「蜜柑畑」「吉濱村遠望」 独立展出品歴 1回(昭和6年)「嵐山の秋」「雪景」、2回「笛と老人」「花」「嵐山」「駅路の春」「ヴァィオリン弾く男」「秋」「椿」「静物」「嵐峡」、3回「秋の妙義山」「妙義嶽秋景」「石門」「秋山」「秋」「山上の丘」「岩山」、4回「秋晴」「奈良土塀」「秋の景」「雲丘」「雪山」「風景」「春日山」、5回(同10年)「巌壁」「激流」「溪谷」「島」「静流」「溪流」、6回「梅の丘」「南国梅日」「早春麗日」、7回「南国の小春日」「激流」、8回「武蔵野の秋」「村のこども」「多摩川風景」「母子」「村のナポレオン」「庭」、9回「柿ナル里も」、10回(同15年)「妙義山石門」、11回「冬木立」「春庭」「麦踏み」「田園小春」「K夫人像」、12回「風景」「松島」「春帽」、15回(同20年)「静物」「田園早春」「田園早春」、16回「編物」「村の春」「あざみ」「荒地の秋」「秋の湖畔」、18回「椿」「つつぢ」、20回(同27年)「桃」「髪」「松」、21回「仕度」「猫」「静物」、22回「桃」「麦踏み」、23回(同30年)「静物」「狩野川風景」、24回「ざくろ」「静物」、25回「カンナ」、26回「孔雀(壁画の一部)」「ダリヤ(李朝の壷)」「ダリヤ(黒い壷)」、27回「南伊豆風景(B)」、28回(同35年)「早春の長崎港」「長崎の港夕景」「長崎教会堂の一角」、29回「武蔵野の雑木林」「桃」、31回「林中のつどい」、32回「桃」「ダリヤ」、33回(同40年)「いこい」「春庭」、34回「多摩の秋景」「裸女」、35回「早春の庭」「桃」、36回「春庭雨後」「桃」、37回「多摩の秋景」「桃」、38回(同45年)「書見」、39回「桃」「人形」、40回「桃(A)」「桃(B)」、41回「春」「高見」、43回(同50年)「裸婦立像」「裸女背向」、44回「梅びより」「北信濃の桃十二個」、45回「早春暖日」「桃」、46回「女体座像」「志賀高原笠嶽」、47回「夏山白根山上の焼山」「桃源勝沼春景」、48回(同55年)「桃」「甲州桃源」「勝沼街道春景」、49回「桃」「猫」、50回「裸女と孔雀」「ポーズする裸女」、51回「奥多摩秋景」

伊藤慶之助

没年月日:1984/06/05

春陽会会員の洋画家伊藤慶之助は、6月5日午前6時35分、心不全のため兵庫県川辺郡の生駒病院で死去した。享年86。明治30(1897)年6月14日大阪市東区に生まれる。大正3年赤松麟作に絵の手ほどきを受けた後、同6年上京、本郷洋画研究所で岡田三郎助に師事する。7年第5回二科展に「静物習作」が初入選し、春陽会にも13年第2回展に「机上諸果」が入選する。昭和4年フランスに留学、アカデミー・コラロッシ、アカデミー・グラン・ショミエールに学び、サロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザンデパンダなどに出品する。この間ルーブル美術館でゴヤ「扇子を持つ女」、アングル「オダリスク」、ワトー「ジール」などを模写する。7年帰国し、同年の第10回春陽展に「室内読書」「巴里郊外の家」など滞欧作8点を出品、翌8年会友、14年会員に推挙された。同14年より19年まで毎年春から秋までの半年間を北支で過ごし研究を進める。戦後も春陽会に連年出品を続けると共に大手前女子大学で教授をつとめる(46年まで)。42年ギリシヤ、44年クレタ、エジプトを旅行、また東京、大阪のフジカワ画廊で個展を数回開催している。36年第1回西宮市民文化賞、43年兵庫県文化賞を受賞、100余点の作品を西宮市大谷記念美術館に寄贈した。

水野英夫

没年月日:1984/05/07

国画会会員の洋画家水野英夫は、5月7日午前1時2分、胃ガンのため神奈川県平塚市の永瀬病院で死亡した。享年64。大正8(1919)年7月26日、福岡県粕谷郡に生まれる。昭和12(1937)年名古屋高等商業学校を卒業。彫刻家小倉右一郎の研究所で彫塑を学び、同15年第27回二科展彫刻部に「習作首」で初入選、翌年も同部に「習作」を出品。戦後は、同22年より38年まで小学校教員をつとめるとともに、同22年第11回新制作協会彫刻部に「腕のあるトルソ」を出品。同25年以降国画会絵画部に出品する。同29年第28回国画展に「煙突」「風景」を出品して新人賞受賞、同32年同会会友、同36年同会会員となる。初期には風景を多く描いたが、次第に象徴的作品に転じ、モチーフを限り、簡明で力強い構図とマチエルの多様性をもつ画風を築いた。国展出品歴 第24回(昭和25年)「晩秋」、25回「風景」、26回「カンナと墓」、27回「風景」、28回「煙突」「風景」、29回「工場風景」、31回(同32年)「破壊」、32回「二つの心A」「扮装」、33回「パイロット」「騎手」、34回「やぶれかぶれ」「サーカスの朝」、35回(同36年)「地殻」「鹹湖」、36回「火山帯」「涸川」、37回「涸川」、38回「痕(燥)」、39回「跡(匍)1」「跡(匍)2」、40回(同41年)「跡(殖)」、41回「跡(匍)」、42回「盲(交流)」、43回「盲人日記」、44回「不動」、45回(同46年)「能『蝉丸』より」、46回「饒」、49回「祷」、50回(同51年)「虚空」、53回「風景A」、54回「アマリリス」、57回「アマリリス2」

竹谷富士雄

没年月日:1984/05/05

新制作協会会員の洋画家竹谷富士雄は、5月5日午後7時20分、大腸ガンのため東京都文京区の順天堂大学付属順天堂病院で死去した。享年76。明治40(1907)年12月13日新潟県中蒲原郡に生まれる。大正14年上京し、一時太平洋美術研究所で学ぶ。翌15年法政大学経済学部に入学、昭和6年卒業し、翌7年渡欧する。ベルリンに半年滞在した後翌8年パリに移り、シャルル・ブラン研究所、後半林武のアトリエに通う。10年帰国し、11年第23回二科展に「姉妹」が初入選、この年藤田嗣治に師事する。12年第24回二科展で「夏」が特待賞、15年第27回二科展「壷つくりの女」は佐分賞を受賞し会友に推挙された。しかし16年師藤田の二科会退会に従い同じく二科を退会、新制作派協会に転じ、17年第7回展「休む男」等3点、18年第8回展「働く男」が共に新作家賞を受賞、早くも会員に推挙される。戦後も新制作展に連年出品するほか、美術団体連合展、秀作美術展、現代日本美術展、日本国際美術展、ピッツバーグ国際美術展(42年)、国際具象派美術展、国際形象展などに出品した。36年フランスに渡り、イタリアを回って翌年帰国、同年の第26回新制作展に「坂のある町(シャトル)」などを出品する。41年第5回国際形象展で愛知県美術館賞を受賞、44年再び渡仏し51年帰国するまでパリにアトリエを構えた。昭和15年の第1回個展以来、パリなどでも個展を開催、44年新潟県美術博物館で竹谷富士雄、小野末、富岡惣一郎による県人三人展が開催された。フランスの街景や田園風景をモチーフに好み、穏やかで繊細な色調と油彩の重厚さを押えたパステル調の叙情的な作風で知られた。また大仏次郎、瀬戸内晴美、丹羽文雄らの連載小説の挿絵も手がけている。

勝本冨士雄

没年月日:1984/04/26

モダンアート協会会員で、一貫して抽象画を描き続けた洋画家の勝本冨士雄は、4月26日午前9時24分、肝不全のため東京都千代田区の三井記念病院で死去した。享年58。大正15(1926)年1月10日、石川県七尾市に生まれる。鉄道学校機関科を卒業後、京都市立絵画専門学校に入るが中退。昭和21年より自由美術家協会展に出品。同26年荒井龍男、村井正誠、山口薫らの創立したモダンアート協会第1回展に招待出品。翌年同会会員となり出品を続ける。初期には細かい四辺形の色面を複雑に構成した「野性」のシリーズ、同35年頃からアクション・ペインティングの影響を思わせる即興的な筆のタッチと絵具のマチエルをいかした「白」のシリーズを描き、同40年頃から作風は曲線を含む整った幾何学的傾向を強め、画面形体、マチエルの多様性などの研究が試みられた。アジア青年美術展(同33年)、パリ国際青年美術展(同36年)、現代アジア美術展(同40年)など国際展にも出品、版画も手がけ、東京国際版画ビエンナーレ(同39年)、バンクーバー国際版画ビエンナーレ(同42年)に出品する。「科学性と精神性の格闘の現れ」として美術を位置づけ、明快な色調と形体を追求した。モダンアート展出品歴第2回(昭和27年)「洪水」「夜の門」「漂流」「冬の旅」「夜」「朝の窓」「帆船」、3回「朝」「夜」「夜から夜へ」「夜」「朝」「小さな子供」「小さな窓」「港」、4回「フィギュール1」「フィギュール2」「フィギュール3」「フィギュール4」「フィギュール5」、5回(同30年)「角のフォーム」「夜の壁」「円のフォームA」「フォームの間」「円のフォームB」、6回「野性の要素B」「野性の要素A」「荒野のブドウ」、7回「静かなる野性1」「静かなる野性3」、8回「作品A、B」、9回「内なる野性6」「内なる野性5」、10回(同35年)「内部の形象」「レモン・イエロー」「内なる赤い森」、11回「作品-白」「白の形象」、12回「作品-白-61」「作品-白と赤62」、13回「白の中の赤とブルー」「作品-白の菱形」、14回「白い菱形12」「白い菱形10」、15回(同40年)「白い菱形の中に」「白い菱形-28」、16回「白いスペースの中に-10」「白いスペースの中に-12」、18回「Rising Sun-白い菱形」「Rising Sun-8」、19回「Five o’clock a.m.」「Five o’clock a.m.」、20回(同45年)「Five o’clock a.m.」「黎明-A.M.5」、21回「白い世界」、22回「白と赤スペース」「ライジングサン」、23回「Rising Sun-白」「Rising Sun-赤」、24回「黎明-黒」「黎明-白」、25回(同50年)「Rising Sun」「スペースの中で」、26回「黎明-76」、27回「鋭角からの円-Rising Sun」、28回「Rising Sun-白の世界」、29回「鋭角の雲」「鋭角のイエロー」、30回(同55年)「鋭角の雲-風雲」、31回「内なる鋭角-黎明」、32回「鋭角からの地平-5」、33回「群青誕生」

清水刀根

没年月日:1984/03/25

二科会理事、元群馬大学教授の洋画家、清水刀根は、3月25日午後1時22分、肝硬変のため前橋市の群馬中央総合病院で死去した。享年79。明治38(1905)年1月10日、群馬県前橋市に生まれる。本名、刀根男。大正13(1924)年、日本美術学校洋画科を卒業。同15(1926)年第13回二科展に「卓上静物」で初入選。以後同会に出品を続ける。昭和6(1931)年第18回二科展に「化粧する三人の女」「二人」「黒服の女」「静物」を出品し、二科賞を受け、翌年同会会友となる。一方、同5年、太平洋画会会員となるが、同10年退会。同9年、前橋に絵画研究所を開く。同18年、二科会会員となる。戦後、二科会の再編に参加。同25年5月、群馬大学教授となり、同45年停年退職するまで長く後進の指導に尽くした。同36年第46回二科会に「街」「牛と子供」を出品して会員努力賞を受賞。同54年、同会理事となった。初期には忠実な写生にもとづく人物像を多く描いたが、戦後マチス風の画風を経て、直線を多用した形態把握と幾何学的に整理された緊密な構図に至った。二科展出品歴–13回(大正15年)「卓上静物」、14回「明石を着たる女」、15回「白布をまとへる裸婦」、16回「後向裸」「A煤煙の町」、17回(昭和5年)「裸体」「赤いペティコートの娘」「花畑」、18回「化粧する三人の女」「二人」「黒服の女」「静物」、19回「ホール」「裸体」「母子供」、20回「舗道」「素人写真」「緑蔭小亭」、21回「河原に働く男」「遊ぶ女」、22回(同10年)「海岸親子」「眠れる母子」「静物」、23回「庭上三人」「浴衣着の女」、24回「唄」「双鏡」、25回「砂上」「風呂」、26回「野」「緑庭」、27回(同15年)「温室」、29回「良民たち」、31回(同21年)「丘」「室内」、32回「室内」「静物」、34回「海辺三人」「画室の二人」、35回(同25年)「海辺裸女」「画室の裸女」、36回「夏」「水」「白裸」、37回「レダ」「娘と猫」「農人」「鳥篭」、38回「子供二人」「母と子」「憂愁」、39回「懐古」「鳩」、40回(同30年)「少年」「群像」、41回「楽器を持つ女」「街と学生」「漁婦」、42回「山の話」、43回「若者」「庭」、44回「山」「村」、45回(同35年)「曳」「プラカード」、46回「街」「牛と子供」、48回「鳥篭」「室内」、49回「親児」、50回(同40年)「親仔馬」、51回「屋外レストラン」、52回「巴里の街(A)」、53回「教会」、54回「聖堂」、55回(同45年)「屋外カフェー」、56回「踊子」、57回「壷」、59回「街の朝」

岡田又三郎

没年月日:1984/03/02

日展理事の洋画家岡田又三郎は、3月2日長野県北佐久郡の別荘のアトリエで椅子にもたれるようにして死んでいるのを、訪ねてきた知人により発見された。前月20日すぎから冬の軽井沢を描くために一人で来ていたもので死因は急性心不全らしい。厳格な写実を基本とし大担な筆触による自然描写で知られる風景画家岡田は、大正3年(1914)年8月2日東京都中央区に生まれ、昭和8年東京府立第一中学校を卒業、同13年東京美術学校油画科を卒業した。卒業の年と翌14年の光風会展で連続受賞し、同15年光風会会友、同18年光風会会員となる。戦後、同21年の第1回日展に「恩師像」を出品し特選、岡田賞を受け、同28年第9回日展に「教会への道」で特選、同30年から日展へ委嘱出品した他、日展、光風会展、新樹会展、北斗会展に出品する。同35年から38年まで渡仏し、同38年パリのル・サロンに出品し銀賞を受賞、同年サロン・ドートンヌ絵画部会員に推挙された。この間、同37年の第6回新日展で菊華賞を受けた。同39年日展審査員をつとめ、同年フランス・アカデミー賞を受賞。翌40年再渡仏し、同年のル・サロン展に「冬の箱根」で金賞を受賞する。同41年「岡田又三郎作品展」を東京・日本橋三越で開催、同45年には「ヨーロッパ風景をテーマに-岡田又三郎油絵展」を同じく日本橋三越で開催した。同46年「大地の詩」で芸術選奨文部大臣賞を受け、同51年には第7回日展出品作「ともしび」で日本芸術院賞を受賞した。

堀田清治

没年月日:1984/02/17

新槐樹社代表、日展参与の洋画家堀田清治は、2月17日心不全のため東京都三鷹市の厚生会病院で死去した。享年85。明治32(1899)年12月6日福井市に生まれ、県立福井中学校卒業後上京、大正9年太平洋美術研究所へ入り高間惣七の指導を受ける。翌10年新光洋画展に出品し受賞、昭和4年には槐樹社展に「靴屋」を出品し槐樹社賞を受賞、その後「飢餓」「基礎工事」でも同賞を受けた。同8年第14回帝展に「炭抗夫」で特選を受け、同11年には新文展無鑑査となる。戦後は旺玄社を改称し同22年発足した旺玄会に同25年に入会し、のち同会代表をつとめたほか、日展には同31年から出品、同32年日展会員、同37年日展評議員、同44年からは日展参与をつとめる。この間、同33年に新槐樹社を創立し代表となる。翌34年から2年間渡仏し、主にアカデミー・ジュリアンに学ぶ。同50年の日展出品作「磨崖不動明王」で文部大臣賞を受賞する。

田崎廣助

没年月日:1984/01/28

阿蘇山を描き続けた日本芸術院会員、文化勲章受章者の洋画家田崎廣助は、1月28日午後6時、老衰のため東京都練馬区の自宅で死去した。享年85。明治31(1898)年9月1日福岡県八女郡に父作太郎の長男として生まれ、本名廣次。大正5年父の反対で東京美術学校進学を断念し福岡師範学校に入学するが、卒業後画家を目指し9年上京、本郷駒本小学校の図画教師をしながら坂本繁二郎に師事する。関東大震災を機に京都に移り、15年第13回二科展に「森の道」等3点が初入選、この年より廣助と号す。昭和2年一旦上京した後7年渡欧しパリにアトリエを構える。8年サロン・ドートンヌに「パリの裏町」など3点が入選、9年円相場暴落のため帰国し翌10年の第23回二科展に滞欧作7点を特別陳列する。11年石井柏亭らにより一水会が創設されると翌年の第1回展より出品、13年第2回一水会展に「丘の小松」等3点を出品し一水会賞を受賞する。14年一水会会員となり、16年佐分利賞を受賞。戦後一水会に出品を続けると共に日展、現代日本美術展、日本国際美術展などにも出品、四季折々の様々な阿蘇山を描き続ける。また24年自らを中心とする広稜会を結成する。26年日展審査員をつとめ33年評議員、42年常任理事となる。36年「夏の阿蘇山」「朝やけの大山」等の連作で日本芸術院賞を受賞し、42年芸術院会員となった。このほか一水会運営委員もつとめ、48年東郷青児らと中心になり日伯現代美術展を開催、その功績により同年ブラジル政府よりグラン・クルーズ章、コメンダドール・オフィシアール章を受け、54年日伯美術連盟会長に就任する。50年文化勲章を受章すると共に初の回顧展(日本橋高島屋)を開催した。重厚で確かな存在感のある山の表情を日本的情感を込めて描き出したその油彩画は、「阿蘇の田崎」の呼び名を生んだ。53年福岡市美術館に代表作30余点を寄贈、また長野県軽井沢町に財団法人田崎美術館(61年開館)の建設計画を進める。なお、詳しい年譜に関しては『田崎廣助画集』(田崎美術館編)等を参照。

高橋虎之助

没年月日:1984/01/08

太平洋美術会会長の洋画家高橋虎之助は、1月8日胃ガンのため東京都練馬区の北町病院で死去した。享年93。明治23(1890)年7月4日高知県高岡郡に生まれ、高知県立農林学校卒業後、大正元年上京し太平洋画会研究所に入り中村不折、満谷国四郎らの指導を受ける。大正3年の大正博覧会に「漁村の斜陽」が入選、同5年第10回文展に「関川の春」が入選したのを始め、文展、帝展、新文展(無鑑査)に出品する。この間、大正12年から2年間渡仏し、同12年のサロン・ドートンヌに「ジャルダン」が入選した。太平洋画会に所属し、同展に出品するとともに太平洋美術学校で教えた。戦後は太平洋画会(現太平洋美術会)の重鎮として会の運営にあたり、のち同会会長となる。風景画を得意とし、作品は他に「春日の杜」(大正7年)、「アトリエの庭」(同13年)などがあるが、90歳を越してから裸婦像に取り組むなど晩年まで意欲的な制作を続けた。

小村平八

没年月日:1983/12/23

日本芸術家協会連合会理事長の洋画家小村平八は、12月23日午後5時10分、脳コウソクのため名古屋市の自宅で死去した。享年84。明治32(1899)年4月2日、愛知県一宮市に生まれ、大正8年愛知県第一師範学校本科を卒業。昭和4年文部省中・高等学校教育検定試験西洋画用器画科に合格。翌年武蔵野音楽学校ピアノ科を修了、声学も学ぶ。油絵は石川寅治に師事し、その主導になる示現会に出品。54年同会会員となる。日展、独立、創元、大湖、光風の各展にも出品。名古屋芸術大学で洋画講師をつとめたほか、愛知県私学協会文化部長、同県私学審議会委員などもつとめ、教育界にも貢献した。代表作には同27年第8回日展に出品し初入選となった「東山植物園温室内」などがある。

鳰川誠一

没年月日:1983/11/29

独立美術協会会員の洋画家鳰川誠一は11月29日午後8時30分、肺ガンのため、東京都千代田区の三井記念病院で死去した。享年86。明治30(1897)年7月6日、千葉県茂原市に生まれ、修生中学校を卒業する。絵を独学し昭和8年第3回独立展に「果物篭ノアル静物」で初入選、以後同展に出品を続ける。また、白日会にも出品し、同11年第13回展では「花」「静物」でF氏賞を受け、翌年白日賞を受賞して同会会友となり、同17年第19回展まで出品を続ける。同17年第12回独立展に「残雪」を出品して独立賞を受賞。同23年同会会員となる。同47年国際形象展に招待出品し、同年ブリュッセル、アントワープで個展を開き、ヨーロッパ芸術展では朱賞を受賞して国際的にも活躍した。同51年第1回蒼樹会展で文部大臣賞受賞。同57年には「鳰川誠一展」が千葉県立美術館で開かれ、翌58年には「鳰川誠一水墨画展」がメキシコ国立美術館で開かれた。油彩、水彩、パステル、水墨など多種の技法、材料を自由に駆使し、多様な作風を示す。多くの代表作を含む作品が千葉県立美術館に所蔵されている。

藤川栄子

没年月日:1983/11/28

女流洋画家の長老で二科会理事の藤川栄子は、11月28日午後2時2分、直腸ガンのため東京都港区の前田外科病院で死去した。享年83。明治33(1900)年10月25日、香川県高松市に生まれる。旧姓坪井。香川県立高松高等女学校を卒業し奈良女子高等師範学校文科に入るが大正9年中退。同12年早稲田大学文学部聴講生3年を修了する。同年二科会彫刻部の指導的存在にあった藤川勇造と結婚、藤川に絵を学ぶ。昭和2年第14回二科展に「サボのある静物」で初入選。以後同展に出品を続け、同11年第23回展では「三人の裸女」で特待賞をうけ同13年同会友、同22年同会員となる。同33年第43回展では「野」「のび」で、同35年第45回展では扇面流しを抽象的、現代的にとらえ直した「ちらす」「かける」で会員努力賞をうける。同45年第55回展では「紫の箱」で青児賞、同57年第67回展では画中に2枚の静物画を描いた「静物(未完)」で内閣総理大臣賞を受けた。また昭和のはじめには1930年協会展にも出品し同5年に1930年賞を受賞。同22年には三岸節子らと女流画家協会を創立している。サロン・ドートンヌ、サロン・コンパレゾンにも出品。戦前は裸婦を多く描き堅実な写実に定評があったが、次第に対象を幾何学的形体に分割してとらえるようになり、一時は抽象へと傾斜した。晩年は再び具象にもどり、酒脱な構図・色彩をみせた。

久野修男

没年月日:1983/09/26

二紀会評議員の洋画家久野修男は9月26日午前0時40分、すい臓ガンのため、福岡県石川郡のアトリエで死去した。享年66。大正6(1917)年2月13日、福島県石川郡に生まれる。太平洋美術学校で油画を学び、昭和15年第27回二科展に「雪国のいで湯」で初入選。同19年に戦前の同会が解散するまで出品を続ける一方、同17年大東亜戦争美術展、43年陸軍美術展にも出品。同22年二紀会が創立されるとこれに参加し、翌年第2回展に「炭焼」を出品して褒賞を受ける。白地に薄い黄緑色を施した下地をつくり、細く黒い輪郭線でひなびた門や塀などを描きつづけ、同25年二紀会同人となり、同31年第10回展には「校倉」「瓦窯」を出品して同人優賞を受けた。翌年同会委員となり、審査員をつとめる。同51年の外遊後、ほとんど緑系一色だった画面に朱色などの暖色が入り、色彩が豊麗となっている。同55年第34回展では「南仏風景」で鍋井賞を受賞した。郷里にアトリエを構え、清澄な独自の画風を築くとともに、同地の美術振興にも努め、同52年二紀会福島支部を創立してその支部長として活躍した。

松田忠一

没年月日:1983/07/31

一水会常任委員の洋画家松田忠一は、7月31日午前4時45分、脳出血のため大阪市の自宅で死去した。享年89。明治27(1894)年4月19日、島根県出雲市に生まれ、大正7年東京美術学校図画師範科を卒業する。同14年より2年間フランスに留学、昭和6年にもフランスに渡り1年間滞在。翌7年帰国して「騎士と二人の女」「馬と女」を第19回二科展に出品し初入選する。翌年から石仏や仏像を描いた作品を同第23回展まで出品。同11年に有島生馬、石井柏亭らによって創立された一水会に第1回展から出品し、同22年同会会員となる。同29年同第16回展に「阿修羅」「伎芸天」を出品して会員優賞を受賞し、同35年同会委員となり、同55年まで出品を続けている。日展にも出品しており、同29年第10回展では「阿修羅」で特選。同31年第12回展では「三月堂内陣」で岡田賞を受け、翌年より無鑑査、同41年には審査員をつとめた。一貫して京都、奈良の古仏をモチーフとし、背景に神像や飛天を描きこんで仏世界を表わしている。水墨画、書もかき、大湖とも号した。

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