本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





見城敏子

没年月日:2017/04/01

読み:けんじょうとしこ  東京文化財研究所名誉研究員の見城敏子は、4月1日に死去した。享年89。 見城は1927(昭和2)年9月14日、大阪市住吉区に生まれた。40年に大連弥生高等女学校に入学、同校を44年3月に卒業後、4月に大連メリノール家政学院入学、46年4月に同校を卒業、48年に帰国し、50年4月に東京都立大学応用化学科入学、51年3月同大学中退、53年4月日本大学短期大学部応用化学科入学、55年3月同大学卒業、56年4月日本大学工学部工業化学科編入学、58年3月同大学を卒業した。同年4月より東京国立文化財研究所保存科学部に勤務。77年11月30日、日本大学から漆塗膜に関する研究で工学博士を授与される。79年8月より物理研究室長を務めた。1989(平成元)年3月に同研究所を退官した。90~2000年まで玉川大学通信教育部非常勤講師として、00~02年には東京学芸大学教育学部非常勤講師、02~04年静岡文化芸術大学非常勤講師として教鞭をとり、文化財保存科学の分野において、人材の育成にもつとめた。07年第1回文化財保存修復学会学会賞を受賞。また、文化財虫害研究所評議員、古文化財科学研究会評議員、千葉県文化財保護審議委員、中国泉州文物保護科協議会顧問、色材協会審議委員、漆を科学する会顧問をつとめた。 東京国立文化財研究所では、伝統技法と文化財の保存・修復に関する研究を進めた。研究対象は日本画材料、油絵材料、木材など、すべての美術品材料に及んでいるが、顕著な業績として、漆工芸品の保存のために漆材料の研究、硬化条件と物性、漆材料と顔料の相互作用、分析手法の検討とデータの集積、混合する油の影響について検討した。基礎的な研究から現場で試験可能な方法の応用開発、出土資料の分析にも成果が展開され、日本の文化財科学の進展に多大な功績を残した。 文化財の保存に関わる研究においては、新築のコンクリート造建物内で美術品が受ける影響、防腐剤・防虫剤の影響について化学的な研究を進めるとともに、文化財の長期保存のための環境の監視方法や湿度調整方法、伝統技法の効果について科学的検証を進め、収蔵庫に求められる条件を明示し、特に酸・アルカリ対策の必要性を明確にした。室内空気の偏酸・偏苛性を判断する変色モニター、変退色に対する光モニター、防湿性・ガスバリア性を持つ二軸延伸ビニロンフィルム法による保存手法の開発など時代をリードする画期的な、かつ、利用者の視線に沿った環境監視ツールの開発は、文化財保存現場の管理能力底上げに資するものであった。 国宝・東照宮陽明門修理、岩内山遺跡北陸自動車関係遺跡調査、メスリ山古墳奈良県史跡名勝天然記念物調査、上総山王山古墳調査、宮城県多賀城席調査、史跡・虎塚古墳彩色壁画調査、茨城県教育財団鹿の子C遺跡漆紙文書調査、寿能泥炭層遺跡調査、千葉県香取郡栗源町台の内古墳調査、二条城書院環境調査、小山市宮内北遺跡文化財調査、糸井宮前遺跡Ⅱ加熱自動車道地域埋蔵文化財調査、港区済海寺・長岡藩牧野家墓所発掘調査、粟野町戸木内遺跡埋蔵文化財調査、中田横穴保存状態調査、出雲岡田山古墳調査、石巻市五松山洞窟遺跡文化財調査、大歳御祖神社拝殿調査、広島壬生西谷遺跡美亜像文化財調査、久米島具志川村清水貝塚発掘調査、杉谷三号墳八区調査、一の谷中世墳墓群遺跡調査、厚木市吾妻坂古墳調査、長柄町横穴群徳増支群発掘調査などに保存科学者として関わり、多くの報告を著した。 研究成果は雑誌に数多発表され、『古文化財之科学』、『日本漆工』、『色材協会誌』、『塗装技術』、『塗装工学』、『塗装と塗料』、『考古学雑誌』、『保存科学』、『文化財の虫菌害』、『照明学会誌』、『博物館学雑誌』、『博物館研究』、『文化庁月報』、『建築知識』などで読むことができる。

林屋晴三

没年月日:2017/04/01

読み:はやしやせいぞう  日本陶磁史、とくに茶陶の研究を進めた東京国立博物館名誉館員の林屋晴三は、4月1日に誤嚥性肺炎のため死去した。享年88。林屋は日々茶の湯を実践していたので、数寄者という印象で見られがちであるが、東京国立博物館次長、裏千家茶道資料館顧問、頴川美術館理事長、菊池寛実記念智美術館館長などを歴任し、博物館や美術館における展覧会活動には終生関わりながら、陶磁史研究者としての矜持をもち続けた生涯であった。 1928(昭和3)年7月25日、京都で五人兄弟の末っ子として誕生。母親が茶の湯を嗜むことから、幼いころから自然と茶の湯に親しんできた。40年頃に表千家に入門し、終戦前には表千家の最高位の次の「唐物盆点」の免状をもらうに至っている。林屋の一族はもと加賀藩のお茶師の家で、明治時代末期に京都へ移住、宇治・木幡に製茶会社を立ち上げていた。京都府立京都第五中学校を卒業した後、敢えて大学で学ぶことは選ばなかった。しかし、陶磁研究者への道は、京都の絵画専門学校(現、京都市立芸大)に進んだ長兄の紹介で、日満文化協会理事で中国美術史研究者の杉村勇造と面識を得、杉村の薦めで東京にて学芸員になることを目指すこととなる。47年5月に18歳で東京に出て、杉村の紹介で東京国立博物館を訪れる。正式な職を得るまで図書室で独学、48年2月に非常勤の事務員(雇員)となり、その後数年を経て技師として採用される。「終戦直後で、博物館に入ろうという人間はいなかった時代ですから、僕みたいな中学しか出ていない者でも採用してくれたんですよ」と本人が語っている通り、林屋は大学で育ったアカデミックな世界にどっぷりと浸かった研究者とは異なり、博物館という現場で実際に陶磁器に触れながら鑑識眼を叩き上げていった。そして持ち前の自由な発想と柔軟な指向性から、「林屋メソッド」といわれる独自の審美眼や方法論を構築した。 東京国立博物館では陳列課陶磁係として、陶磁学者の奥田誠一の下に配属され、若干二十歳そこそこで展示作業、収蔵庫倉での作品調査など経験を積み、さらには『日本の陶磁』(東都文化出版、1954年)の編集を奥田から一任され、写真撮影から編纂のほとんどを手掛けることとなる。後に林屋は陶磁関連の図書を積極的に出版していくことになるが、林屋ほど多くの陶磁全集を手掛けた研究者は現在に至るまでその例を見ない。その関連した陶磁全集は、『世界陶磁全集 全16巻』(河出書房、1955~61年)、『陶器全集 全30巻』(〓凡社、1958~66年)、『日本の陶磁』(中央公論社、1971~74年)、『陶磁大系 全53巻』(〓凡社、1973~78年)、『世界陶磁全集 全22巻』(小学館、1976~86年)、『日本の陶磁-現代編 全8巻』(中央公論社、1992~93年)など枚挙に暇ない。特筆されるのが、『日本の陶磁』(中央公論社、1971~74年)で明らかなように、良質の写真図版、そして秀逸なる図版レイアウトなど、その質の確かさである。器を美しく見せるポイントを熟知した林屋は、陶磁器図録作成の先達的存在であり、彼に育てられた編集者や写真カメラマンは数えきれない。 さらに林屋が企画した代表的な展覧会としては、中国陶磁・韓国陶磁・日本陶磁の名品が集められた「東洋陶磁器」展(東京国立博物館、1970年)、本格的な日本陶磁の海外展となった「米国巡回 日本陶磁展」(米国四会場で開催、1972年)、そして特別展「茶の美術」(東京国立博物館、1980年)が挙げられる。とくに「茶の美術」は、茶の湯をテーマとする国立博物館で初の企画展で、その点でも大いに話題となった。かつて日本美術史の研究者は茶の湯道具を研究対象と見做さない傾向もあったが、この展観をきっかけに、茶の湯道具の歴史的意義と美術的価値が再認識されることとなる、重要なエポックとなった展覧会であった。 林屋はその開放的な人柄から、様々な分野の人々と垣根を作らず、幅広い人脈を築いていた。東洋陶磁学会では古窯跡研究の〓崎彰一(1925~2010年)ら考古学者とも交流し、陶磁学の分野に考古学的成果を活かす研究視点を積極的に打ち出している。また、長く理事を務めた日本陶磁器協会(1950年~)においても多くの研究者、コレクター、陶芸家に大いに刺激を与える存在であった。とくに研究者や陶芸家には思ったことは遠慮なくズバリと指摘する怖い教師役であったが、しばしば叱った後に独特の愛嬌のある笑顔を見せる、面倒見の良い「叱り上手」であった。 日本の陶磁史研究は西欧諸国の影響を受け、大正時代後期に本格的に開始されたと言われる。産学共同で「陶磁器研究会」や「彩壺会」などが結成され、やきものを芸術として鑑賞する「鑑賞陶磁」という概念が確立された。その動きの中心人物の一人が奥田誠一であった。奥田の愛弟子である林屋は、紛れもなくこの近代に確立した鑑賞陶磁研究を現代にまで繋げた、最後の生き証人であった。

中野淳

没年月日:2017/03/23

読み:なかのじゅん  洋画家で武蔵野美術大学名誉教授の中野淳は3月23日、急性心臓死のため死去した。享年91。 1925(大正14)年8月22日、東京府の両国に生まれる。1938(昭和13)年に安田学園中学校に入学、在学中から油絵を描きはじめ、川端画学校洋画部でデッサンを学んだ。43年に同中学校を卒業すると、川端画学校、本郷洋画研究所に通った。同年11月、第2回新人画会展で松本竣介の出品作「運河風景」(出品時の題名であり、現在の「Y市の橋」東京国立近代美術館蔵である)に感銘を受ける。その後、知人の紹介で松本竣介のアトリエを訪ね、以後親しく批評などを受けるようになった。47年、戦後再開した第21回国展、第11回自由美術展、第31回二科展にそれぞれ初入選した。同年、松本竣介の依頼により、通信教育の育英社の仕事を手伝った。48年、自由美術家協会の会員に推挙され、以後64年まで、同展に出品をつづけた。57年7月、モスクワで開催された世界青年学生平和友好祭国際美術展に参加、出品した「風景」によってプーシキン美術館賞受賞。64年、自由美術家協会を退会し、退会した画友たちと主体美術協会創立に参加。79年、武蔵野美術大学教授となる。86年7月、東京富士美術館にて約70点からなる「中野淳展」を開催。同年9月には、『中野淳画集』(アートよみうり)を刊行。1994(平成6)年1月、主体美術協会を退会、新作家美術会を結成。同会は、後に新作家美術協会と改められ、2016年の第23回展まで毎年出品をつづけた。同年、第9回小山敬三美術賞を受賞、7月に受賞記念展を日本橋高島屋で開催。95年9月、同大学退職を記念して「中野淳教授作品展」を同大学美術資料図書館にて開催。99年8月、『青い絵具の匂い―松本竣介と私』(中公文庫、中央公論新社)を刊行。 長い画歴のなかで、その時代ごとの思潮に敏感に反応しながら画風を変えていったが、堅実な写実表現に徹して、油彩画の構成、技法等の骨格を見失うことはなかった。それは青年期に出会った松本竣介や戦後知己となった岡鹿之助からの教えを守ったためであろう。松本竣介との交流については、上記の本に詳しく回顧され、貴重な記録となっている。また、同書の続編として企画されながら、没後に刊行された『画家たちの昭和―私の画壇交流記』(中央公論新社、2018年3月)も、中野の画家として生きた時代の私的な記録として貴重な内容となっている。

鎌倉秀雄

没年月日:2017/03/14

読み:かまくらひでお  日本画家の鎌倉秀雄は3月14日、呼吸不全のため死去した。享年86。 1930(昭和5)年10月27日、東京・麹町に生まれ、その後すぐ田端へと転居する。父は73年に型絵染の重要無形文化財保持者に認定された鎌倉芳太郎、母は帝展洋画部で活躍した山内静江で、幼少期より院展や帝展、戦争画展などに親しみ、独学で武者絵などを描いていたという。43年東京市桃園第三国民学校卒業、東京都立石神井中学校(現、東京都立石神井高等学校)へ進む。戦後の46年夏、父の故郷である香川県を訪れた帰り、奈良の斑鳩で古寺をめぐり、阿修羅像を見て感動を覚えた。同年11月には朝日新聞の美術記者遠山孝の紹介で大磯の安田靫彦を訪問、持参した作品を見せ、入門を許される。鎌倉は東京から大磯へ毎週通い、写生を見てもらったり、天平時代の乾漆像の話などを聞いたりしたという。また、靫彦の勧めで若手の勉強のために開設された一土会に参加。新井勝利、加藤陶陵、森田曠平、沢田育、松田文子、宮本青架、友田白萠らと研鑽を積んだ。47年東京美術学校の受験に失敗、師靫彦の助言で進学を止め、中学校も退学、画道に邁進する。49年には火燿会に入会。また、44年まで東京美術学校助教授であった父の関係で、自宅によく来ていた里見勝蔵、清水多嘉示らから西欧美術について教示を受け、彫刻家の川口信彦から裸体デッサンやエジプトのレリーフなどについて教えを受けた。 51年師靫彦の許しを得、第36回院展に自宅の黒い犬を描いた「黒い犬と静物」を出品、初入選を果たし、以後も入選を重ねる。一土会解散後は靫彦門下の有志とともに青径会を結成、吉田善彦、郷倉和子、小谷津雅美、吉澤照子、小市美智子、西川春江らと研鑽を積む。鎌倉の交友関係は院展内部にとどまらず、日展系の作家にまで及び、戦後のさまざまな新しい傾向を会得していった。61年には第46回院展へ「天河譜」を出品して奨励賞を受賞、翌年の第47回展でも「月花」が奨励賞となる(第60、62、64、65回展でも受賞)。72年はじめてインドへ旅行し、同年の第57回院展に「熱国の市」を出品、特待に推挙される。以後もインドを主題とした作品を出品し、78年第63回院展の「乳糜供養」が日本美術院賞となった。またエジプトにも訪れ、81年の第66回院展へ古代エジプト墓室内の王妃と侍女を描いた「追想王妃の谷」を出品、2度目の日本美術院賞受賞。同年11月24日付で同人に推挙された。この頃より鎌倉は日本美術家連盟の委員を務めている。その後も「奏」(第67回院展、1982年)、「回想」(第68回院展、1983年)、「望」(第69回院展、1984年)、「砂漠へ」(第70回院展、1985年)、「樹精」(第41回春の院展、1986年)などエジプトを主題とした作品を次々に発表するが、87年からは一転して日本の伝統的な美へと目を向けるようになった。87年の第72回院展へは奈良・興福寺の阿修羅像を描いた「阿修羅」を出品、文部大臣賞を受賞。鎌倉はこの年の1月より、東京国立博物館で行われていた「模造古彫刻」の展観に出ていた阿修羅を連日写生し、興福寺へも実際に足を運んで出品作の制作にあたったという。同作は翌88年3月、文化庁の買い上げとなった。1989(平成元)年には第74回院展へ出品した「鳳凰堂」で内閣総理大臣賞を受賞。同年11月には日本橋三越にて個展を開催する。92年の第47回春の院展には鼓を打つひとりの舞妓を描いた「豆涼」を出品し、秋の第77回院展にもふたりの舞妓で構成した「豆千鶴・豆涼」を出品。鎌倉は舞妓の姿に、幼少期に見た歌麿の美人が重なるとして、以後も「豆涼・如月」(第48回春の院展、1993年)、「豆涼・新緑」(第78回院展、1993年)、「春宵豆涼」(第51回春の院展、1996年)、「豆千鶴」(第53回春の院展、1998年)などを出品している。一方で引き続き、古寺や仏像をテーマにした作品にも取り組み、「大仙院雪色」(第49回春の院展、1994年)、「法華堂内陣」(第79回院展、1994年)、「平等院阿弥陀如来像」(第80回院展、1995年)などを制作。96年の第81回院展には、5年来描き続けてきた京都・浄瑠璃寺の集大成として、「緑風浄瑠璃寺」を出品した。この間、94年6月には日本美術院監事となり院の運営にも尽力する(のち常務理事、業務執行理事)。99年の第54回春の院展には再び舞妓を描いた「豆菊・春陽」を出品、2003年頃まで「羅浮梅少女」(第84回院展、1999年)や「木花之佐久夜毘売」(第85回院展、2000年)、あるいは唐美人を描いた「胡楽想」(第87回院展、2002年)など、古典的な女性像の表現に取り組む。さらに06年からは第91回院展へ出品した「この実に裕美」のように、日本の現代女性を題材に作品を制作。晩年には梅や椿に猫を配した作品を多く展覧会へ出品した。 幼少期から抱き続けた天平というテーマを軸としつつも、インドやエジプトに取材した作品や、さまざまな女性像など、多彩なモチーフを手掛けた画家であった。

長友啓典

没年月日:2017/03/04

読み:ながともけいすけ  アートディレクター、グラフィックデザイナーの長友啓典は3月4日、膵臓がんのため死去した。享年77。 1939(昭和14)年4月8日、大阪府大阪市生まれ。58年、大阪府立天王寺高等学校卒業後、浜松の鉄工所勤務を経て上京。日東機械株式会社に入社し、バルブ検査員として働く。勤務先の社長の家に下宿中、『美術手帖』や『みづえ』等の美術雑誌や書籍を目にし、美大への進学を考えるようになる。お茶の水美術学院の夜間部で学んだ後、61年、桑沢デザイン研究所に入学。グラフィックデザイナー、田中一光に師事した。田中を通じて、早川良雄を紹介され、学校の長期休暇中、実習を行なう。ここでのちにK2を設立することになる黒田征太郎と出会う。在学中であった63年には、日本宣伝美術協会(日宣美)で入選を果たす。卒業後の半年間ほど田中のもとで働いていたところ、日本デザインセンターを紹介され、入社。山城隆一や永井一正について仕事を行なった。67年に、写真家の加納典明と制作したファッションブランド、ジャンセンのポスターで第17回日宣美賞を受賞。その作品とは蛍光赤の紙に、グレーのインクを用いて水着を着た女性の写真をシルクスクリーン印刷したものだった。粟津潔によれば、それまで協会で主流であった理論を盾に表現の適切さを説くモダニズムの系譜に乗っ取ったグラフィックとは異なり、見る者の感覚に訴える点が評価されたそうだ。しかし、亀倉雄策からは、作品が軽すぎるという指摘があった。69年には独立し、黒田とK2設立。主に黒田がイラストレーションを担当し、それをレイアウトにまとめあげるのが長友という分担であった。自身でイラストレーションを手がけた仕事も数多くある。また、この頃から商業的なグラフィックデザインの制作とは別に、実験的な表現の場を求めた活動を行い、当時の日宣美の若手メンバー、青葉益輝、上條喬久、小西啓介、桜井郁男、高橋稔で、メールギャラリーを開始。箱に作品をつめ、一方的にデザインの有識者や財界人に送りつけるという手法をとり、注目される。同名義で大日本インキ化学工業株式会社(現、DIC株式会社)の本社ビルに設けられたデザインギャラリー、プラザ・ディックでの展覧会を提案された際には、メールギャラリーのメンバーを中心に、グラフィックデザイナーの浅葉克己、インテリアデザイナーの倉俣史朗、写真家の沢渡朔、造形作家の戸村浩といった面々を加えた15名でサイレンサーを結成。同会場で69年と70年に「サイレンサー・オン・セール」と題した展示を行なった。同人の集まりのようなもので一緒に旅行をしたり、六本木に「バーサイレンサー」を開いたりなど、多彩な活動を行った。雑誌のアートディレクションやエディトリアルにも数多く携わり、『GORO』や『写楽』では、写真家の篠山紀信と組んで雑誌作りを行なった。感覚に訴える画面作りは、その時代の雰囲気を象徴する媒体ともいえる週刊誌に発揮され、『平凡』や『週刊宝石』では、表紙のアートディレクションを担当した。その他に、広告、装丁、CIと活動は多岐にわたる。自由な画面構成や手描きのタイポグラフィーは、長友のシグネチャースタイルである。アナログ感を持たせたグラフィックは、遊び心があり、親しみやすい。大阪のラジオステーションFM802のCI(1988年)やアパレルブランド、組曲のロゴタイプ(1992年)などがよく知られている仕事で挙げられ、どちらも手描き文字を基調としている。『成功する名刺デザイン』(講談社、2008年)、『死なない練習』(講談社、2011年)など、著書多数。絵本『青のない国』(小さい書房、2014年)を風木一人、松昭教共著で出版している。73年東京アートディレクターズクラブ賞受賞、74年ワルシャワポスタービエンナーレ銅賞、84年講談社出版文化賞さしえ賞などを受賞。日本工学院専門学校グラフィックデザイン科顧問、東京造形大学客員教授を務めた。

高木聖鶴

没年月日:2017/02/24

読み:たかきせいかく  仮名の書家で文化功労者、文化勲章受章者であった高木聖鶴は2月24日、肺炎のため死去した。享年93。 1923(大正12)年7月12日、岡山県総社市に生まれる。本名郁太(いくた)。旧制高梁中学を卒業ののち会社に勤めながら、1947(昭和22)年、書家内田鶴雲に師事した。50年に第6回日展で初入選し、73年改組第5回日展では特選を受賞。日展においては、日展審査員、会員、評議員、理事などを歴任した。 67年には聖雲書道会を主宰し、78年には内田鶴雲のあとを継ぎ朝陽書道会会長になり、後進の育成にも努める。自身の発表の場としては、70年に岡山市天満屋にて「高木聖鶴書道展」を開催したのをはじめ、83年岡山市森川美術、93年・98年岡山高島屋、2001(平成13)年総社市図書館など、地元岡山を中心に展覧会を開催。出身地である岡山県総社市で活動を続け、85年山陽新聞賞(文化功労)、93年岡山県文化賞ほか受け、04年には総社市名誉市民となった。 91年から11年まで朝日現代書道二十人展のメンバーになり、読売書法会最高顧問、日本書芸院最高顧問、全国書美術振興会名誉顧問、全日本書道連盟名誉顧問、岡山県書道連盟名誉顧問、朝陽書道会会長をつとめる。日本書道をユネスコ無形文化遺産への登録を目指す運動にも尽力した。 学書のために平安時代の書を中心に収集もしており、その秀逸なコレクションを東京国立博物館、九州国立博物館他に寄贈している。日々の鍛錬の大切さを訴えつづけ、「古今和歌集」をはじめとする古典研究につとめ、仮名のみならず、日本・中国の漢字書も学んだ。上代の仮名に倣った小さな仮名の作品も数多く揮毫したが、近代的な展覧会での展示に適した大字の仮名の作品も残している。 平安朝の仮名を習得した上で現代の感覚を加味して表現した仮名に漢字を融合させ、独自の書風を打ち出した。その書は気品があると高い評価を受け続け、仮名書の第一人者として業界を牽引した。 そのほか受賞歴は次のとおりである。91年、第23回日展で「古今和歌集抄」が内閣総理大臣賞を受賞94年、紺綬褒章95年、第26回日展(94年)に出品した「春」により、第51回日本芸術院賞を受賞98年、勲四等旭日小綬章06年、文化功労者13年、文化勲章受章17年、従三位追贈

中川邦彦

没年月日:2017/02/21

読み:なかがわくにひこ  映像作家、アーティスト、東京造形大学名誉教授、日本映像学会会員、日本フランス語フランス文学学会会員の中川邦彦は2月21日に東京都新宿区にて死去した。享年73。 1943(昭和18)年4月8日、新潟県に生まれる。68年、青山学院大学フランス文学科卒業。卒業後、71年から73年まで映画記事等の記者としてフランスに滞在。73年から東京造形大学非常勤講師を務め、75年より同大学専任教員となる。81年にフランス政府給費研究員として、パリ第三大学にて映画学者ミシェル・マリー指導のもと映画記号学を専攻。88年には東京造形大学海外研究員として、パリ社会科学・言語学高等研究所にて映画記号論の先駆であるクリスチャン・メッツの指導をうけた。1989(平成元)年より東京造形大学教授。映画理論や映画記号学による物語構造の研究や、自身による映像作品制作を続け、理論と制作の両面で後進の指導にあたった。 主な論文や著書としては、フランスの作家・映画作家であるアラン・ロブ=グリエの作品を対象とした「アラン・ロブ=グリエの短編小説「マネキン」を映画によって読むことについて」(『映像学』1―13、1979年)、『難解物語映画-アラン・ロブ=グリエ・フィルムスタディー』(高文堂出版社、2005年)などがある。アラン・ロブ=グリエとは中川自身、親交が厚く、彼の小説を原作にした短編映画『浜辺、はるかに』(1977年、16mm/白黒 15分)なども制作している。さらに、『芸術の記号論』(加藤茂・谷川渥・持田公子共著、勁草書房、1983年)、物語を映画で述べることの形相研究として『Narratologie formelle du film(映画物語形相論)』(青山フランス文学論集 復刊2,79―94、1993年)など、映画記号学や映像理論分析的な面から論じたものがある。 一方、映像作家としても、『L’ESPACE DE TRANSFORMATION(変身の空間)』(未公開、1968年16mm/白黒 20分)の制作をはじめとし、前衛的な実験映画や制作した各作品が70年代からグルノーブル国際短編映画祭(1976年)、リール国際短編映画祭(1977年)、ベルフォール映画祭(1978年)、モントリオール映画祭(1978年)などフランスやその他各国の映画祭で上映される。日本における実験映画作家の作品を取り上げる企画のなかで、81年には当時パリのポンピドゥーセンターにあったシネマテーク・フランセーズにて『日本の実験映画:中川邦彦』として、それまで制作した16mm映画全作品の上映が行われた。シネマテーク・フランセーズでは『距てられた部屋、あるいは…』(1975年、16mm/白黒 15分)、前述の『浜辺、はるかに』などの作品を収蔵している。近年ではドイツのボンでの『明日は今日はじまる』展(2000年)、オマーンのマスカットでの第一回国際美術展(2006年)等にインタラクティブムービー『DEF』シリーズの出品を行った。加えて、2006年からは春秋映画株式会社専務取締役として記録映画制作にも携わっており、実験映画だけでなく映像作家としても幅広く活動した。

森田稔

没年月日:2017/02/13

読み:もりたみのる  九州国立博物館名誉館員で一般財団法人環境文化創造研究所理事の森田稔は消化器疾患のため2月13日に急逝した。享年62。 1954(昭和29)年6月14日に岐阜県岐阜市に生まれ、73年に岐阜県立岐阜北高等学校を卒業し、広島大学文学部史学科(考古学専攻)に入学した。広島大学卒業後、名古屋大学大学院文学研究科に進学し、80年に史学地理学専攻考古学専門博士課程(前期)を修了した。同年4月1日に神戸市教育委員会事務局文化課学芸員に採用され、同市の埋蔵文化財調査担当を経て、85年4月1日に神戸市立博物館学芸課に学芸員として配置された。在職中、1995(平成7)年1月17日に発生した兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)に遭遇し、地元の博物館職員として被災した文化財のレスキュー事業にかかわり、その後96年12月1日に文化庁文化財保護部美術工芸課文化財調査官(考古部門)として採用された。翌97年4月1日から文化財管理指導官を併任し、全国の博物館・美術館の指導に当たった。 文化庁在籍時代の森田は、阪神・淡路大震災の経験を活かして文化財の災害対策に積極的に取り組んだ。また国内で広く行われていた臭化メチルによる燻蒸処理を、国際的な流れに沿った新しい生物被害防止方法に切り替えるために、担当官として大きな働きをした。当時は97年9月にカナダのモントリオールで開催されたモントリオール締約国会議で、オゾン層保護のため臭化メチルの国際的な全廃が前倒しされて2004年末に繰り上がることが決まり、カビや虫の被害が多い日本としてどの様に対処するかが喫緊の課題となっていた時期であった。臭化メチルの代替法については東京国立文化財研究所保存科学部(当時)が調査・研究を行っていたが、森田は行政の立場から博物館、美術館、社寺、各地の教育委員会などの現場が抱える不安の解消にあたり、文化庁に調査研究協力者会議を立ち上げ「文化財の生物被害防止に関する日常管理の手引き」(2001年3月)を取りまとめ、総合的有害生物管理(IPM)による文化財の生物被害防止への道を作った。 その後、森田は01年4月1日に美術学芸課主任文化財調査官となり、04年4月1日に独立行政法人国立博物館(当時)京都国立博物館に学芸課長として転出した。さらに08年4月1日には独立行政法人国立文化財機構九州国立博物館の学芸部長として異動し、その2年半前に開館した九州国立博物館の運営に当たった。森田は09年8月1日に副館長に昇任し、11年4月には放送大学の客員教授にも就任して「博物館資料保存論」を同館学芸部博物館科学課長の本田光子と共に担当し、博物館におけるIPMの普及に努めた。その後、森田は体調不良から定年一年前の14年3月に退職し、同年4月1日に九州国立博物館の名誉館員となった。同日、一般財団法人環境文化創造研究所の理事(文化財担当)、同年10月1日には福岡県田川市文化財アドバイザーに就任した。 阪神・淡路大震災を神戸市立博物館の学芸員として体験した森田は生涯、文化財の防災対策に大きな関心を持ち文化庁においてだけでなく、一般社団法人文化財保存修復学会でも理事として学会内に災害対策調査部会を設置するなど尽力し、それらの功績により16年6月に第10回学会賞を受賞した。救済の対象を指定文化財だけに限らない文化財レスキューが、災害発生後に迅速に開始されるようになったことには、生涯、文化財の防災対策の必要性を訴え続けた森田の功績が大きい。

谷口ジロー

没年月日:2017/02/11

読み:たにぐちじろー  漫画家の谷口ジローは2月11日、多臓器不全で死去した。享年69。 1947(昭和22)年8月14日、鳥取県に生まれる。本名治郎。66年鳥取県立鳥取商業高校卒業後、会社務めの傍ら漫画を描き続ける。67年上京、石川球太のアシスタントになる。70年「声にならない鳥のうた」(『デイリープログラム』)でデビュー。72年絵本『ぐじゃ ままにたら』(文・桂里歩、自費出版)を発表。74年から集英社の学習漫画「シートン動物記」の作画を4巻分担当。79年、初期の代表作で探偵ものの「事件屋稼業」(原作・関川夏央、『漫画ギャング』)が連載開始、掲載誌休刊後82年『漫画ゴラク』にて再び連載される。80年、ボクシング漫画の傑作「青の戦士」(原作・狩撫麻礼、『ビッグコミックスピリッツ』)を発表。84年の「超戦闘犬ブランカ」は、谷口の動物ものとアクションものの描写力を併せ持つ作品となった。描線を多用する画風からはなれ、中期の傑作となったのが、関川夏央との共作「坊ちゃんの時代」で、87年から『漫画アクション』に連載(単行本全5巻、双葉社)、夏目漱石、森鴎外、石川啄木ら明治の群像が描かれる。同作は国内外で多くの漫画賞を受賞。1994(平成6)年からは後にTV番組にもなった「孤独のグルメ」(原作・久住昌之、『月刊PANjA』)の連載がはじまり、谷口の名は一般にも知られるようになる。さらに「歩く人」(1990年)、「犬を飼う」(1991年)など日常生活の機微を丁寧かつ静謐に描く作品も多くなる。さらに故郷を舞台にした「父の暦」(1994年)、「遥かな町へ」(1998年)などでモチーフを広げていく。2000年発表の「神々の山嶺」(原作・夢枕獏、単行本全5巻、集英社)は、谷口の独断場といっていい山岳もの傑作で、後期の代表作といえよう。90年代半ばからフランス、スペイン、ドイツなど海外での受賞が続き、10年ベルギーで「遥かな町へ」が映画化、12年フランスでインタビュー集が刊行され、14年ルーヴル美術館からの依頼で蔵品の絵画をモチーフにした「千年の翼、百年の夢」を手掛けるなど、谷口の漫画は一挙に国際的になる。16年初の画集『谷口ジロー画集』(小学館)を刊行。17年から18年にかけて、日仏会館ギャラリーと鳥取県立博物館で回顧展が開催された。参考文献として『谷口ジロー 描くよろこび』(〓凡社、2018年)がある。

吉田大朋

没年月日:2017/02/10

読み:よしだだいほう  写真家の吉田大朋は2月10日、心不全のため東京都内の自宅で死去した。享年82。 1934(昭和9)年5月5日東京に生まれる。53年東京都立石神井高等学校卒業。写真家土方健一に師事。59年準朝日広告賞を受賞し、コマーシャル写真家として頭角を現す。61年『ハイファッション』誌でデビュー、新進のファッション写真家として注目され、多くのファッション誌、女性誌に寄稿するようになる。 文化出版局で『ハイファッション』などを担当した編集者今井田勲の勧めで65年に渡仏、パリに二年間滞在し、日本人の写真家として初めてフランスのファッション誌『ELLE』と専属契約を結ぶ。また欧米の先端的モードを日本に紹介する窓口としても大きな役割を果たした。71年には渡米、ニューヨークに一年間滞在。75年には再びパリに拠点を移し、約三年半の滞在中、『VOGUE』誌などに寄稿するとともに、パリをはじめヨーロッパ各地の土地や人々の撮影にもとりくんだ。この間、70年に『an・an』誌が創刊された際に、エディトリアルデザインを担当した堀内誠一に請われて参画、海外ロケのファッション写真を寄稿するなど、日本におけるファッション写真の第一人者として、長く一線で活躍した。 ファッションの他に著名人のポートレイトをはじめ幅広い撮影をてがけ、とくにパリの都市風景をめぐる写真集『巴里』(文化出版局、1979年)は、モードの最先端に並走するファッション写真の仕事とは対照的に、繊細かつ洒脱な感覚で、都市パリの日常に堆積する歴史や文化を丹念にすくいとった仕事として評価された。79年同題の個展を開催(ミキモト・ホール、東京)。その他の写真集にフランスのファッション・デザイナー、マダム・グレ(ジェルメーヌ・エミリ・クレブ)の作品世界をとらえた『グレの世界』(文化出版局、1980年)や、『地中海夏の記憶』(キヤノン販売キヤノンクラブ、1981年)、『古都京の四季』(朝日新聞社、1982年)などがある。また87年から2001(平成13)年にかけ、東京綜合写真専門学校で講師を務め、後進の指導にあたった。 急逝する直前まで精力的に仕事を続けており、準備中であった箱根写真美術館での個展は、死去後、17年4月から5月にかけて「レクイエム吉田大朋写真展 軽妙洒脱」として開催された。

上原和

没年月日:2017/02/09

読み:うえはらかず  日本美術史研究者の上原和は2月9日、心不全のため死去した。享年92。 1924(大正13)年12月30日、台湾台中市において父・繁秀、母・登美子の次男として生まれる。1944(昭和19)年9月台北帝国大学予科文科三年を修了し、台北帝国大学文政学部に入学するが、学徒出陣として同年同月茨城県土浦海軍航空隊に入隊。45年8月の終戦にともない鹿児島県桜島海軍第五水上特攻戦隊司令部より復員。翌年1月に九州帝国大学法文学部に転入学して哲学科美学美術史学を専攻する。48年3月、九州大学法文学部を卒業し、4月よりは同大学大学院文学研究科特別研究生前期課程美学及美術史専攻に進学。矢崎美盛に師事し、ドイツ古典主義美学及び美術様式論を研究する。50年3月同前期過程を修了。4月より55年10月まで宮崎大学学芸学部講師として美学を担当。11月には相良徳三の招請により成城大学文芸学部の芸術コース(のちの芸術学科)の設立のため専任講師として着任。美学・美術史を担当する。56年10月成城大学文芸学部助教授に昇任。64年10月同大学同学部教授に昇任。学科の発展に尽くし、75年には同大学大学院文学研究科に美学美術史専攻を開設。同年には『斑鳩の白い道のうえに 聖徳太子論』(朝日新聞社)で亀井勝一郎賞を受賞(なお、同書は1978年には朝日選書として、84年には朝日文庫として、また、92年には講談社学術文庫の一冊として再刊を重ねた)。86年4月より同大学文芸学部長を併任(1990年3月まで)、1992(平成4)年10月には『玉虫厨子 飛鳥・白鳳美術史様式史論』(吉川弘文館、1991年)で九州大学より博士(文学)の学位を受ける。翌年4月、成城大学大学院文学研究科長を併任し、95年3月に退任。大学より名誉教授の称号を受ける。この間、成城大学内の役職として学園評議員、学園理事、大学評議員を務め、学外にあっては美学会、美術史学会、民族藝術学会、日本文芸家協会、日本ペンクラブに所属して、美学会委員、民族藝術学会評議員、日本キリスト教芸術センター幹事を務めた。 上原の学問的業績の全貌は『上原和博士古稀記念美術史論集』(同刊行会、1995年)に付された著作等目録に示される通りであるが、日本古代仏教史を専門とし、その視野はギリシアから西アジアをへて印度・中央アジア・中国・朝鮮・日本に及ぶ広汎なものであり、現地踏査のうえでの緻密かつ実証的であった点に特色がある。研究の中心は、法隆寺の遺構および遺物を中心とする日本古典美術と朝鮮・中国美術との様式的比較研究にあり、ことに法隆寺と玉虫厨子、聖徳太子研究の第一人者として斯界の研究を長く牽引した。また、研究の過程で培い、親交のあった中国・敦煌研究院との交流は、本務の成城大学に留まらず、97年から行われた朝日新聞社の「敦煌研究員派遣制度」へと結実。その初回より選考委員長に就任し、多くの若手研究者を現地研修に送り出すとともに、研究者の育成と輩出に尽力したことは彼の大きな業績として特筆されなければならないであろう。

内田啓一

没年月日:2017/02/08

読み:うちだけいいち  美術史家・早稲田大学文学学術院教授の内田啓一は、癌のため2月8日に死去した。享年56。 1960(昭和35)年11月1日、神奈川県横浜市鶴見区に生まれる。79年3月、神奈川県立横浜翠嵐高校卒業。83年3月、早稲田大学第二文学部を卒業し、同年4月、同大大学院文学研究科に入学。1989(平成元)年10月、同研究科博士後期課程を満期退学、町田市立国際版画美術館に学芸員として採用される。2000年4月に昭和女子大学に専任講師として着任し、04年4月、同大助教授、05年4月、同大教授。11年4月より早稲田大学文学学術院准教授、13年4月、同大教授。女子美術大学、早稲田大学、東北芸術工科大学、拓殖大学、青山学院大学、成城短期大学、昭和女子大学で非常勤講師として教鞭を執ったほか、奈良国立博物館調査員、世田谷区文化財保護審議会委員を務めた。 早稲田大学で日本美術史家・星山晋也の指導を仰ぐ。大学院在学時から鎌倉時代に西大寺を復興させた僧・叡尊に関わる仏教絵画に関心を寄せ、修士論文「八字文殊画像について―叡尊を中心とした西大寺本・旧東寺本の考察―」を提出した。国際版画美術館に勤務してからは、「仏教版画入門」(1990年)、「奈良・元興寺仏教版画」(1992年)、「大和路の仏教版画」(1994年)、「版になった絵・絵になった版―中世日本の版画と絵画―」(1995年)、「名品でたどる―版と型の日本美術」(1997年)など、とりわけ仏教版画に関する展覧会を数多く担当する。従来、研究対象としては等閑視されがちだった摺仏・印仏の作例を展覧会・学術論文を通じて数多く紹介し、その受容や制作背景を丹念に解き明かすことで仏教版画研究を大きく進展させた。他方、修士論文以来の関心テーマであった西大寺流に関する研究にも精力的に取り組み、02年には博士論文「中世律宗諸流派における造像とその特徴―西大寺流を中心に―」を早稲田大学大学院文学研究科に提出し、03年6月に博士号を取得した。 大学に籍を移して以降は後進の指導と育成に努めながら、作品調査と論文の執筆を続けた。作品の深い鑑識から出発し、その制作を巡る時代背景や関与した人物を生き生きと浮かび上がらせ、一見結びつきのなかった作品同士の関連性を示すことで、研究成果を体系的に積み重ねていった。自らが真摯に作品と向き合い、図様の分析と制作背景に関する鋭い考察を第一とするその研究姿勢は、指導を受けた学生に少なからず影響を与えた。美術史研究に対する情熱的な態度、そして何よりも大らかで明るく、衒いのない人柄は多くの同業者・学生に慕われていた。 主要な著書に、共著『中世・勧進・結縁・供養 大和路の仏教版画』(東京美術、1994年)、『文観房弘真と美術』(法藏館、2006年)、『江戸の出版事情』(青幻舎、2007年)、『後醍醐天皇と密教』(法藏館、2010年)、『日本仏教版画史論考』(法藏館、2011年)があるほか、没後、『美しき日本の仏教版画 すりうつしまいらせるほとけ』(東京美術、2018年)が刊行された。 主要な論文は次の通り。「八字文殊画像の図像学的考察」(『南都仏教』58、1987年)、「宋請来版画と密教図像―応現観音図と清凉寺釈〓像納入版画を中心に―」(『佛教藝術』254、2001年)、「サンフランシスコ・アジア美術館所蔵文殊菩薩図像について―宋本図像と形式の踏襲―」(『佛教藝術』310、2010年)、「個人蔵清凉寺式釈〓如来画像について―西大寺像との関わりを中心に―」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』61第3分冊、2016年)ほか多数。業績は『内田啓一教授 著作目録』(「内田啓一さんを偲ぶ会実行委員会」編集、2017年)に詳しい。また、20年5月に『内田啓一中世仏教美術論集(仮)』(法藏館)が刊行予定である。

木村重信

没年月日:2017/01/30

読み:きむらしげのぶ  美術史家の木村重信は1月30日、肺炎のため大阪府吹田市内の病院で死去した。享年91。 1925(大正14)年8月10日、京都府綴喜郡青谷村(現、城陽市)にて、享保年間から続く宇治茶問屋(屋号山城園)に、6人兄弟の次男として生まれる。小学校時代には肋膜炎を患い、通算で3年間通っただけであったという。卒業後は商業学校へ進学し、その後祖父が名古屋で茶問屋を開業していたことから名古屋高等商業学校(現、名古屋大学経済学部)へ進学。2年生の折に学徒動員で繰り上げ卒業となり、1944(昭和19)年徴兵。豊橋陸軍予備士官学校に特別甲種幹部候補生伍長として入学する。45年6月に同校を卒業すると広島師団に配属されるが、本籍が京都であったことから京都師団へ転属、さらに旗手要員として志摩半島の442聯隊本部へと移った。終戦後の46年には京都大学文学部へ入学。文芸を学び、卒業論文では「文芸における表現の問題」をテーマに取り上げた。49年に同大を卒業後は大学院に通いつつ、大阪成蹊女子短期大学などに非常勤講師として勤務。53年京都市立美術大学(現、京都市立芸術大学)の講師となり、現代美術の講義を担当した。ほぼ同じ頃、自身のテーマとして「美術の始原」を意識し始める。56年より翌年にかけてフランス・パリ大学付属の民族学研究所に留学。アンドレ・ルロワ=グーランに教えを受け、洞窟壁画の実地研究などに従事した。また、近・現代美術への見識を深め、同地で交友を深めた堂本尚郎や今井俊満らをとおしてアンフォルメル運動に触れ、帰国後には前衛芸術運動についての評論を盛んに行うとともに、パンリアル美術協会やケラ美術協会、具体美術協会などの作家らと交流し、美術史家としての立場から前衛芸術運動に深くかかわる活動を行った。その後京都市立美術大学助教授を経て、69年10月京都市立芸術大学美術学部教授となる。この間、65年には南アフリカのカラハリ砂漠へ調査に行き、翌66年には『カラハリ砂漠 アフリカ最古の種族ブッシュマン探検記』(講談社)で第20回毎日出版文化賞を受賞。また67年11月から翌68年4月まで、山下孝介率いる大サハラ学術探検隊に参加。サハラ砂漠の先史岩壁画やマリ共和国のドゴン族の美術、エチオピアにおけるキリスト教美術や先史遺物などの調査を行った。74年大阪大学文学部教授となり、翌75年「美術の始原」で同大文学博士を取得。先史美術に関する木村の研究の集大成とされた同論文は、フランスへの留学以来、世界各地で行ったフィールドワークによる成果をとおして、人類の美的活動の根元を問おうとしたもので、美学と美術史学両方の視点からの考察を行った点が評価された。またこの頃、木村は芸術とはそれ自身で完結するものではなく、外的要因によって規定されるものであるとし、80年代後半以降の研究動向を先取りする発言を残している。76年国立民族学博物館併任教授に就任。同館では「民族芸術学の基礎的研究」(1980~82年)、「民族芸術学的世界の構築」(1982~84年)などの課題で共同研究を主宰した。84年4月には既存の研究領域や専門の枠を超え、芸術現象を広く議論できる場として民族藝術学会を創設、初代会長となる(のち名誉会長)。1989(平成元)年大阪大学を定年退官、同大名誉教授となった。また同年には当時の大阪府知事岸昌の要請により大阪府顧問となり、国際現代造形コンクール・大阪トリエンナーレや関西系現代作家展の開催、それら事業による美術作品の収集など行政的手腕を発揮する。91年には民族芸術学という新しい学問分野の開拓や、欧米や日本の近代美術に一種の社会芸術学的方法により新たな光をあてた業績が評価され、大阪文化賞を受賞。92年には国立国際美術館館長に就任。98年同館長を退任し、同年4月兵庫県立近代美術館(現、兵庫県立美術館)の館長に就任、2002年に同館が兵庫県立美術館に新築移転すると初代館長となった。木村は持ち前の美術史学的教養と行政的手腕を発揮し、同館中興の祖とも称された。館長時代には神戸市内で毎年、若手作家との懇親会を開くなど、後進の育成にも尽力し、01年兵庫県文化賞を受賞している。また、98年には勲三等旭日中綬章を受章、翌99年には評論の分野での功績を評価され、京都市文化功労者に選ばれた。同年12月には『木村重信著作集 第1巻 美術の始源』(思文閣出版)が刊行され、04年7月までに全8巻を刊行。06年4月には兵庫県立美術館長を退き名誉館長となる。同年にはまた、京都にて設立された染・清流館の初代館長に就任。日本の現代染色アートを世界へ発信することに尽力した。晩年にはあらゆる役職を辞任した木村であったが、同館の館長だけは最期まで続け、ギャラリー・トークなどにも積極的に参加していたという。

菊地貞夫

没年月日:2017/01/27

読み:きくちさだお  浮世絵研究者の菊地貞夫は1月27日、死去した。享年92。 1924(大正13)年2月18日、東京・八丁堀に生まれる。立正大学で〓崎宗重に師事し、浮世絵の研究をはじめた。大学卒業後、東京国立博物館に就職し、同館の近藤市太郎のもとで、浮世絵関連の仕事に従事した。『東京国立博物館図版目録 浮世絵版画〓』上巻(1960年)、中巻(1962年)、下巻(1963年)は、編著者名が記載されていないため不明ではあるが、時期的にみて菊地が編集に関わった刊行物であると考えられ、同館所蔵の3926点の浮世絵版画の総目録となっている。1968(昭和43)年主任研究官、79年絵画室長となる。東京国立博物館の展覧会「浮世絵―旧松方コレクションを中心として―」(1984年10月16日~11月25日)はその年度末に退官を控えた菊地が中心となって開催された浮世絵の体系的な展観で、近世初期風俗画をはじめ江戸時代から明治時代までの肉筆画46点、版画663点の合計698点の作品が出陳された。展覧会図録のほか翌年度に豪華本の特別展図録『浮世絵』(東京国立博物館、1986年)も刊行されている。この展覧会で浮世絵の文化的価値を一層高めた功績により、85年に第4回内山晋米寿記念浮世絵奨励賞特別賞を受賞した。東京国立博物館に38年間勤続し、85年に定年退官した後、那須ロイヤル美術館副館長を7年間勤めたほか、85年から6年間国際浮世絵学会の前身、日本浮世絵協会で理事長を務めた。「ボストンで見つかった北斎展―ボストン美術館の版木新発見」(たばこと塩の博物館、1987年1月15日~2月8日ほか6カ所を巡回)ではボストン美術館に所蔵されていたビゲローが購入した版木など527点の調査と展覧会の開催に関わり、同展図録に菊地の論文「ボストン美術館で新発見された北斎の板木について」が掲載されている。著書に『カラーブックス21 浮世絵』(保育社、1963年)、『原色日本の美術17 浮世絵』(小学館、1968年)『日本の美術74 北斎』(至文堂、1972年)、『浮世絵大系5 歌麿』(集英社、1973年)、などがある。また全集類などへの執筆や解説も数多く手がけ、「浮世絵師の〓風」(『日本〓風絵集成14 風俗画―遊楽 誰ヵ袖』講談社、1977年)、「歌麿・栄之の浮世絵」(『在外日本の至宝7 浮世絵』毎日新聞社、1980年)などがある。

廣瀬賢治

没年月日:2017/01/26

読み:ひろせけんじ  西陣織・廣信織物の代表取締役で、表具用古代裂(金襴等)製作の選定保存技術保持者の廣瀬賢治は1月26日、膵臓がんのため死去した。享年73。 1943(昭和18)年8月4日、京都・西陣で代々続く織元の家に生まれ、23歳で家業の世界に入り、同じく選定保存技術保持者であった父の敏雄(故人)のもとで研鑽を積み、半世紀にわたり掛幅や〓風の表装に用いる古代裂の製作に取り組み、数多くの国宝や重要文化財などの修理に貢献した。古来、東洋の書画は掛幅や〓風などの形式に仕立てることが、鑑賞や保存において必要不可欠であり、特に掛幅は裂地の印象が作品鑑賞に大きく影響するため、裂の選択には特別な注意が払われてきた伝統がある。現代においても古美術作品の修理には、その作品の品質や格にふさわしく、より豊かな鑑賞をもたらすために、古い時代の裂(古代裂)を復元することが求められることが多い。古い時代とは様々な材料や道具、織機などが異なる状況において、廣瀬は常に古代裂の文様や組織、糸の状態などを綿密に調査した上で復元的に表装裂を織り上げることに精魂を傾けた。初めて中心的に裂の調製を担当した国宝修理は、85~87年に行った京都国立博物館所蔵の「釈〓金棺出現図」(11世紀)で、同館職員や修理担当者などと協議を重ね、聖護院所蔵の平安時代の錦を参照して復元的に表装裂を製作し、修理に用いた。そのほか「山越阿弥陀図」(永観堂禅林寺)、尾形光琳筆「燕子花図屏風」(根津美術館)など、数多くの重要な作品の修理に、廣瀬による手織りの金襴や錦、緞子が用いられている。図版などでは表装部分をのぞく本紙のみを切り抜いて掲載されることがほとんどであるが、寺院や美術館などで作品が展示される際、観覧者はその作品を裂とともに鑑賞している。古書画を物理的に保護し、その作品のもつ魅力を最大限に引き出しつつ、決して作品よりも目立たないのがよい表装であると言える。廣瀬は実際の作品や古い裂を丹念に観察し、より質の高い裂を作り上げる努力を常に惜しまなかった。こうした功績などにより、2007(平成19)年に表具用古代裂(金襴等)の選定保存技術保持者の認定を受けた。社会環境の変化などで着物産業が著しく衰退し、西陣織の織元や生産量、売上高が減少する厳しい状況下においても、「できないとは言わない。必ず挑戦する。」が廣瀬の信条で、数々の古代裂の復元に取り組み、16年には文化財の保存・修復に大きな功績のあった個人や団体を顕彰する第10回「読売あをによし賞」の本賞を受賞した。また国宝修理装〓師連盟による定期研修会において廣瀬が行った講演「織(羅)について」の内容が、『平成24年度 国宝修理装〓師連盟 第18回定期研修会』報告書に収載されている。

村木明

没年月日:2017/01/17

読み:むらきあきら  美術評論家の村木明は、1月17日に没した。享年88。 1929(昭和4)年1月11日、岐阜県に生まれる。51年、名古屋外国語専門学校(現、南山大学)フランス語科を卒業。54年、早稲田大学政治経済学部を卒業。71年頃から74年まで、『読売新聞』に美術批評、美術に関する記事を寄稿。また、『みづゑ』に「海外短信」として海外の最新の美術動向を伝える記事を連載し、同時に各美術雑誌に展覧会評などを寄稿した。執筆活動の他、70年代から80年代には「ヴュイヤール展」(西武美術館、1977年)、「ヘンリー・ムーア 素描と彫刻展」(西武美術館、1978年)、「アンドリュー・ワイエス展」(三越、日本橋、1978年)、「ルノワール展」(伊勢丹美術館、1979年)などをはじめとして、東京都内のデパートなどを会場とした美術展の監修にもあたり、カタログへ寄稿した。また、読売新聞社主催の「日本秀作美術展」では、79年の第1回展から2003(平成15)年の第25回展まで、監修、審査にもあたった。 主な編著作、翻訳は下記の通りである。(翻訳)『アメリカン・ノスタルジア2 マックスフィールド・パリッシュ』(PARCO出版局、1975年)(翻訳)『アメリカン・ノスタルジア4 ハワード・パイル』(同前、1976年)(翻訳)『アメリカン・ノスタルジア6 トーマス・ハート・ベントン』(同前、1976年)座右宝刊行会編『現代日本の美術8 国吉康雄・三岸好太郎』(国吉康雄を担当)(集英社、1976年)(翻訳)マドレーヌ・ウール著『名画の秘密 ルーヴル美術館 絵画の科学的探究』(求龍堂、1976年)『アメリカ近代美術の展開 コマーシャル・アートの黄金時代を築いた作家たち』(美術公論社(芸術叢書)、1978年)『現代日本画全集 第10巻 橋本明治』(集英社、1982年)(解説)『中山忠彦画集』(求龍堂、1983年)『展覧会への招待 絵の百科事典』(読売新聞社、1984年)(解説)『平山郁夫 私のスケッチ技法』(実業之日本社、2007年) なお、美術評論家としての活動の傍ら、『おわら囃子が風に乗る』(近代文芸社、1995年)をはじめ、『雪割草』(同前、2006年)、『季節風』(同前、2009年)など小説集も刊行している。

北村由雄

没年月日:2017/01/07

読み:きたむらよしお  評論家で茅ヶ崎市美術館館長を務めた北村由雄は1月7日、死去した。享年81。奥英了のペンネームもあり。 1935(昭和10)年5月27日東京都生まれ。59年東京芸術大学美術学部芸術学科卒業。在学中の56年『美術批評』の読者欄に「現代日本美術展寸感」(55号)、「美術界と戦争責任の問題」(56号)が掲載される。59年「次代美術会」に参加、『次代美術』1号に「フォートリエ論」、2号に「ピーター・ブリューゲル覚書」を執筆。同会は鶴岡弘康、藤枝晃雄ら7人の同人で、60年には「20代作家集団」に発展、25名の会員からなり、高松次郎、若林奮、村田哲朗らも参加している。北村は同会評論誌『CRIT』1号に「ものと感覚と信念について」を寄稿、アンデパンダン展の在り方から河原温、池田龍雄、利根山光人にふれている。卒業後、59年共同通信社文化部記者となり、美術界の出来事を含め展覧会評を執筆。さらに美術雑誌にも原稿を寄せる機会が多くなる。64年『美術手帖』に「アトリエでの対話」を12回連載、桂川寛や平山郁夫らを扱い領域を広げていく。一方、『日本美術』87号(1972年)の「私の時代を劃した作家たち」では、戦後美術を自分なりに考えて行く契機となった作家として河原温、池田満寿夫、磯辺行久、工藤哲巳、流政之、小畠広志、多田美波、柳原睦夫をあげ、記者としての体験型志向が示されている。81年に上梓された『現代画壇・美術記者の眼1960〓1980』(現代企画室、1983年に増補改訂版)は、60年代初期の前衛的傾向から70年の大阪万博をへて、幅広く画壇の動向などにふれ、一ジャーナリストの視点として記録性が高い。81年にはぺりかん社の「なるにはシリーズ」の内『美術家になるには』を執筆する。1997(平成9)年に茅ヶ崎市美術館初代館長に就任、退任後も茅ヶ崎美術家協会展での講演や2016年の第1回茅ヶ崎市美術品審査委員会委員長を務めるなど、市の美術界に尽力した。教育歴としては96年から多摩美術大学の客員教授を務めた。

深沢幸雄

没年月日:2017/01/02

読み:ふかざわゆきお  版画家で、多摩美術大学名誉教授の深沢幸雄は1月2日、老衰のため死去した。享年92。 1924(大正13)年7月1日、山梨県南巨摩群増穂町(現、富士川町平林)に生まれる。父は朝鮮総督府官吏であり、生後すぐに家族で旧朝鮮堤川(現、大韓民国忠清北道堤川市)へ渡る。中学校時代には、〓凡社の『世界美術全集』で油彩画を知り、画家を志す。18歳まで堤川で過ごし、1942(昭和17)年に東京美術学校(現、東京藝術大学)工芸科を受験。彫金部予科に入学する。彫金部への進学は、父からの要望であったという。同校在学中、岡田三郎助と藤島武二が主宰した本郷絵画研究所に通いデッサンを学ぶ。同所で女子美術専門学校(現、女子美術大学)の学生であった小島咲子と出会い、47年に結婚。49年に同校工芸科彫金部を卒業した後に、妻方の実家がある千葉県市原群鶴舞町に移り住み、50年から78年まで県立市原高等学校の美術教師として勤務。生涯、市原を制作の拠点とし、画業を展開させた。 深沢の画業は、油彩画から出発している。53年には、自由美術家協会展に200号の大作「からたちと裸像」が入選を果たすなど、当初は大型の作品制作に取り組んでいたことがうかがえる。 銅版画の道へ進んだのは、54年からである。深沢は、45年の東京大空襲で右足に打撲傷を負い、その影響で大画面の制作が困難となっていた。そこで、小規模で制作が可能であり、彫金部での経験を生かすことができる銅版画に移行する。独学での技術習得であったが、57年には、ダンテの『神曲』を主題にした「ウゴリーノ」「チェルベロ」などで第25回日本版画協会賞を受賞。また、同年の第1回東京国際版画ビエンナーレでは、「病める詩魂」「汚〓の陽の下に」が入選し、新進作家として頭角を現す。つづけて、58年には、第35回春陽会展で春陽会賞、59年には、第3回シェル美術賞を受賞。60年には、第4回同賞において「愛憎」など10点で神奈川県立近代美術館版画賞を受賞した。 62年に第5回現代日本美術展において「生1」「生2」で優秀賞を受賞するが、これをきっかけにメキシコ国際文化振興会より現地での版画技法の指導の依頼を受け、翌年、メキシコシティに3ヶ月間滞在する。メキシコの人々にあらゆる版画技法の講習を行い、現地の版画界に大きな影響を与えた。そして、深沢自身もメキシコの文化に触れたことで、作品に鮮やかな色彩を取り込むようになる。それらの作品は、65年の第8回サンパウロ・ビエンナーレ展(ブラジル)といった数々の国際的な展覧会に出品された。 そして、最初のメキシコ訪問から11年後の74年と、76年、79年に再び同地を訪問し、メキシコの歴史や世界の人類史から触発された「新大陸のモンゴロイド」シリーズを7年半の歳月をかけて36点発表した。75年には、第43回日本版画協会展に同シリーズの「影(メヒコ)A」「影(メヒコ)B」を出品。また、78年の第46回日本版画協会展に出品した「凍れる歩廊(ベーリング海峡)」は深沢の代表作として知られる。 その一方で、文学作品からインスピレーションを受けた作品を数多く発表している。70年には、詩版画集『春と修羅』を刊行(詩、宮沢賢治。86年にも刊行)。73年には、ポール・ゴーギャン著『ノアノア』を題材とした銅版画集『黒い花』を制作した(1975年に刊行)。82年には、アルチュール・ランボーの詩集『酔いどれ船』に着想を得た詩画集も刊行している。80年代になると、深沢自身と、それを取り巻く周囲の人間をテーマとして「人間劇場」シリーズを発表。生涯に渡り、作風をさまざまに展開し、新たな表現を追及しつづけた。 作家活動の一方で、75年には日本版画協会理事に就任するとともに、現代日本美術展や多くの地方美術展で審査員として関わり版画界の中核を担った。そして、86年から多摩美術大学教授に就任、若手作家の育成などにも尽力した。その功績が認められ、87年に紫綬褒賞、1995(平成7)年に勲四等旭日小綬章を受章している。また、90年には、メキシコ国立版画美術館にて「日本の版画 深沢幸雄展」が行われ、94年にはメキシコ国文化勲章アギラ・アステカを受章。メキシコと日本の版画界の架け橋として、世界的にも認められた。 2007年には、出身地の山梨県立美術館において「深沢幸雄展―いのちの根源を謳う―」が開催。そして、14年には、市原湖畔美術館から『深沢幸雄 市原市所蔵作品集』が発行され、深沢の画業が顕彰された。没後、18年には再び山梨県立美術館において「銅版画の詩人 追悼 深沢幸雄展」が開催。同展カタログは、深沢直筆のノート等の資料が収録され、深沢の画業の全貌を明らかにした。

不動茂弥

没年月日:2016/12/15

読み:ふどうしげや  日本画家の不動茂弥は12月15日、呼吸不全のため死去した。享年88。 1928(昭和3)年1月11日、昭和3年1月11日兵庫県三原郡賀集福井(現、南あわじ市)に生まれる。父、栗林寅市、母、この。父方の叔父は日本画家の栗林太然。生後間もなく母方の叔父で、当時京都画壇で活躍していた淡路島出身の日本画家、不動立山の養嗣子として迎えられ、以後京都で育つ。44年、京都市立絵画専門学校(45年に京都市立美術専門学校と改称。現、京都市立芸術大学)に入学。戦時中、東京近辺の陸軍の諸学校へ教材用掛図の作成に学生の勤労動員として派遣される。敗戦後の47年、学内で行なわれた作品展への出品をきっかけに三上誠や山崎隆、星野眞吾らと新たな絵画運動を唱えるグループ結成に向けて話しあうようになる。48年同校日本画科を卒業。同年3月には三上、山崎、星野、不動、田中進(竜児)、日本画に席を置きながら洋画を描いていた青山政吉、陶芸の八木一夫と鈴木治を含めた8名によるグループのパンリアルを結成し、同年5月に京都の丸善画廊でパンリアル展を開催(この時には不動と田中は作品未完のため不出品)。7月には八木と鈴木が陶芸の前衛グループ走泥社を結成するため脱退。メンバーを日本画に絞り、新たに大野秀隆(俶嵩)や下村良之介らを交え、翌年、日本画壇の旧弊打破と膠彩表現の可能性追求を掲げてパンリアル美術協会を結成、5月に京都の藤井大丸で第1回展を開催する。不動は第1回展から74年の同会退会まで出品を続けた。戦後の混乱した社会状況を捉えた「物語」(1949年)や「机上の対話」(1950年)等の人物情景にはじまり、50年代後半から布、セメント、砂、焼板等を取り入れたアッサンブラージュによる作品「自潰作用」(1957年)や「焚刑」(1962年)、古い浄瑠璃本を曼荼羅のようにコラージュした「籠城」(1966年)等を発表。67年作の「落ちる文字」以降は、日本画の特質は描線・色面・記号性にあるとする自論に基づき、エアブラシやアクリルも積極的に取り入れる。パンリアル美術協会退会後は中村正義の呼びかけに応じて75年の東京展、また星野眞吾の从展に非会員として出品する以外は、無所属で個展による発表を続ける。日本を擬人化して変容する文明の渦中にある都市をモティーフとした「極地」(1985年)、「望郷」(1987年)、「何処へ」(1987年)、記号の象徴として専ら“→”を採用し、20世紀末の世界の混迷をテーマとした「情報化時代」(1991年)、「都大路の菩薩様」(1994年)、「落ちた偶像」(1995年)を制作、一貫して日本画の現代性を追究した。 制作の一方で72年に三上誠が結核で没した直後より、星野眞吾、批評家の木村重信、中村正義と4人で編集委員会を立ち上げ『三上誠画集』(三彩社、1974年)刊行に奔走。また晩年の三上の遺志を受け、80年代には福井県立美術館学芸員の八百山登らの協力も仰ぎながら、パンリアル美術協会設立時の記録を編集、88年に『彼者誰時の肖像 パンリアル美術協会結成への胎動』を自費出版し、同協会創成期の証言者としての役割を果たした。 没した翌年の2017(平成29)年には、京都国立近代美術館で追悼展示が行なわれている。

金守世士夫

没年月日:2016/12/07

読み:かなもりよしお  郷里富山で木版画制作を続けた国画会会員、日本版画協会名誉会員の金守世士夫は、12月7日に死去した。享年94。 1922(大正11)年1月24日、富山県高岡市伏木新島に生まれる。生家は船具などを製作する鉄工場を営んでいた。東京で鉄鋼場を営む叔父を頼り上京し、帝国美術学校図案科に入学してデッサン等を学ぶ。在学中、永瀬義郎著『版画を作る人へ』を読み、版画に興味を抱くが、父の急逝により帝国美術学校を中退。1942(昭和17)年に招集されて半年間、富山連隊に属した後、中国大陸に渡る。46年、南京から復員。同年、当時富山市福光町に疎開していた棟方志功を訪ね、指導を乞うて「私の生活をみること」と言われ、しばしば棟方宅に自作の版画を持参して教えを仰ぐようになる。47年正月、折本形式の作品「版画菩薩曼荼羅」を棟方宅に持参して高い評価を得、棟方の推薦によって同年の国画会工芸部に初出品。翌年同会展に木版本「鶏合」「七福神仙」「分陀利華」「十三仏木印」を出品。その後も同会に出品を続ける。50年、棟方、畦地梅太郎、笹島喜平らと『越中版画』を創刊。同誌は第2号から『日本板画』と改題し、51年に棟方が東京に移住するのを契機に7,8合併号を刊行して休刊。以後、金守が『富山版画』として50年代半ばまで刊行を続けた。50年代に入ると作品の主題を聖書に求めるようになり、50年第24回国画会展に「物語約拿(ヨナ)」「物語我を見る活る者の井戸」を出品し褒状受賞。53年第27回国画会展に「物語イサクの犠牲」「物語エホデ・エグロン王を倒す」「物語アブラハムと三天使」を出品して国画奨学賞を受賞。57年国画会会友となる。58年ニューヨークのセント・ジェームズ教会展で「イサクの犠牲」により3等賞を受賞するが、聖書にある場面を描きながらも棟方の作風と類似しているという評を受け、物語主題から離れるべく、京都の庭を訪れて作風を模索。京都南禅寺の枯山水の庭が夕立の前後で表情を変える様子に「飽くことのない変幻自在の宇宙を発見し」、後に長くテーマとする「湖山」の着想を得た。65年国画会会員となる。68年、バンクーバーとロスアンゼルスでの技術指導のためカナダ、アメリカへ渡る。70年から翌年にかけてサンフランシスコ、ロスアンゼルス、ニューヨークでの個展のため渡米。70年、志茂太郎主宰の日本愛書会から大判で多版多色摺りの「湖山」を刊行。79年1月版画芸術院を設立する。80年、富山市文化功労賞を、81年富山県文化功労賞を受賞。また同年、スイス・バーゼルで個展を開催。82年オーストラリア美術協会の招聘により渡豪して版画指導。84年日中版画文化交流の一因として訪中。86年より88年12月和光ホールで「金守世士夫展」を開催。また、同年から毎年インドネシア・デンハサール市で版画・水墨画の指導に当たる。戦後間もない頃から棟方を介して、浜田庄司、河合寛次郎ら民芸運動に関わった人々の作品にも親しみ、日常生活を彩る版画も数多く制作。54年に畦地梅太郎の誘いによって制作を始め作り続けた蔵書票は人々に親しまれ、1994(平成6)年日本書票協会第4回志茂賞を受賞している。96年カナダ・バンクーバー市立美術学校に木版画指導のため招かれる。同年第43回富山新聞文化賞受賞。版本の作成に当たっては、河童に想を得て棟方が命名した河伯洞の号を用いた。また、棟方や柳宗悦の話を聞くうち民芸に興味を抱くようになって収集を始め、アメリカ先住民の人形やエスキモーの民芸品、アフリカの面や染織品、神像、インドネシアの染織品等のコレクターとしても知られ、「インドネシアの手仕事展」(1994年9月13日から10月31日)を富山市民芸館で開催したほか、自らの版画とアフリカの立体作品を並べた「金守世士夫とアフリカンアート展」(1994年10月15日から11月30日、黒部市美術館)などを開催した。江戸時代から続く越中売薬版画等の伝統を踏まえ、一貫して木版画を制作し、「湖山」の主題を得てからは、山と湖に蝶・花鳥ほかを配して幻想的な作風を示した。版画の複製性よりも木版ならではの表現を探求し、1枚の版木で彫りと摺りを繰り返しながら制作する「彫り進み」技法を多用するのを技法的特色とした。

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