本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数2,817 件)





永山光幹

没年月日:2010/03/22

 刀剣研磨で重要無形文化財保持者である永山光幹は3月22日死去した。享年90。1920(大正9)年3月21日、神奈川県中郡相川村(現、厚木市)の農家に7人兄弟の末子として生まれる。本名永山茂。1934(昭和9)年、14歳のとき東京下谷区黒門町の研師で、鑑定家でもあった本阿弥光遜に入門し、刀剣研磨の道に進む。師の光遜は水戸の本阿弥家の研師であったが、別系統で名人と呼ばれていた本阿弥琳雅に学び、将軍家や大名の所蔵していた刀剣を代々伝承された技で研ぐ家研ぎの継承者であった。44年、兵役に召集され歩兵第49連隊に入営し中国に出征し、現地でも軍刀の研磨に従事した。46年、復員し、ただちに光遜に再入門するが、戦後進駐軍による日本刀の没収、愛好家や旧大名の経済力の低下などにより、本格的な研磨の依頼はほとんどなかったと本人は回顧している。48年に日本刀の保存を目的として設立された日本美術刀剣保存協会が開催した55年の研磨技術発表会で無鑑査に認定され、名実ともに名工との評価を得、同展の審査委員となる。56年神奈川県平塚市で開業、59年中郡大磯町西小磯に転居し、弟子を採り始める。永山の功績の大きなところは、秘伝、奥義といった貴重な成果を隠してはならないとして、技術を開示したことと、後継者を多く養成したことである。68年に平塚の旧宅に「永山美術刀剣研磨研修所」を開設し、月謝制によって研磨の技術を教えたことでも裏付けできる。78年、ユネスコの要請によりベネチアの東洋美術館の所蔵刀剣の調査を行い、帰国後10点を研磨した。研磨した刀剣は春日大社の国宝の金装花押散兵庫鎖太刀、重要文化財の堀川国広はじめ多くの重要文化財がある。また『刀剣鑑定読本』、『日本刀を研ぐ』など刀剣の研磨、鑑定に関する著作もある。1998(平成10)年、重要無形文化財に認定され、2000年勲四等旭日小綬章を受章する。

伊砂利彦

没年月日:2010/03/15

 染色作家の伊砂利彦は3月15日、肺がんのため死去した。享年85。1924(大正13)年9月10日、伊砂藤太郎、正代の長男として京都市中京区三条猪熊町に生まれる。実家は3代続いた友禅の糊置き業であった。1941(昭和16)年京都市立美術工芸学校彫刻科卒業。44年に海軍二期予備生徒として滋賀海軍航空隊に入隊。45年終戦とともに復員。京都市立絵画専門学校図案科卒業。以後、家業の染色に従事する。戦後の失業者救済事業として、友禅染を元来の分業ではなく一貫作業で行う工房の経営を任される。この経験は、複雑な染色工程や技術を学ぶ機会となった。その後、仕事増加により生活も安定する一方、作品の制作をはじめる。富本憲吉の「模様より模様を作らず」に感銘を受け、同氏が主催する新匠会で活躍することとなる。当初は蝋纈染の作品を制作していたが、その後、型絵染へと表現技法が変化していく。そこには初期の新匠会を牽引し、型絵染で活躍した稲垣稔次郎の存在があったという。53年、第8回新匠会公募展に蝋纈パネル「新芽」を出品、初入選。以後、同展に連続出品する。54年に工房を開設。松、水、音楽や海などをテーマに幅広い作品を制作した。58年新匠会会友となり、翌年には新匠会会員となる。63年京都の土橋画廊で初個展、型絵染「松シリーズ」小品展開催以降、継続的に個展を開催する。71年第26回新匠会展出品の着物「流れ」が富本賞受賞。同年、京都・射手座で安田茂郎と二人展を開催。75年に新匠会が新匠工芸会と改称され、同会の会務責任者となる。80年には「近代の型染」展(東京国立近代美術館工芸館)、「染と織 現代の動向」展(群馬県立近代美術館)に出品。世界クラフト会議ウィーン会場で、着物を展示し日本の着物について講演する。82年には「ろう染の源流と現代展」(サントリー美術館)や「染色展」(西武美術館)に出品。83年「現代日本の工芸―その歩みと展開―」(福井県立美術館)に出品。84年、京都芸術短期大学客員教授となる。85年、第40回新匠工芸会展で型絵染屏風「スクリャービン 焔にむかって」が第40回新匠工芸会記念大賞を受賞。87年『伊砂利彦作品集』(用美社)を出版。88年京都市京都芸術文化協会賞を受賞。1989(平成元)年京都府京都文化功労賞と京都美術文化賞を受賞。同年、沖縄県立芸術大学教授となる。90年フランス政府より芸術文化勲章シュバリエ章を受章。91年「羽衣」パリ公演(世界文化会館、ユネスコホール)の舞台美術を担当。第46回新匠工芸会に型絵染屏風「沖縄戦で逝きし人々にささげる鎮魂歌」等を出品。以降、沖縄を主題とした作品が評価を受ける。92年第47回新匠工芸会展で「海に逝きし人々に捧げる鎮魂歌」で第47回新匠工芸会富本賞受賞。京都市文化功労者となる。93年沖縄県庁舎警察棟の記念碑彫刻と壁面装飾を制作。「現代日本の染織」展(福島県立美術館)に出品。94年「現代の型染」展(東京国立近代美術館工芸館)や「現代の染め―4人展」(国立国際美術館)に出品。95年沖縄県立芸術大学奏楽堂緞帳を制作。99年、フランスのシャルトルステンドグラス国際センターで個展「フランス、パリ―シャルトル」を開催。「京の友禅」展(目黒区美術館)に出品。2001年、京都芸術センターで、特大和紙型絵染「月四部作」を公開制作し、内覧会を開催。03年「音楽による造形のきもの」展(フランス シャルトル―サンテチェンヌ)に出品。04年、京都市美術館別館にて「-傘寿を記念して-伊砂利彦と11.5人展」開催。05年、東京国立近代美術館工芸館にて「伊砂利彦―型染の美」展開催。京都迎賓館に型絵染額装「花」「一文字松」「水の表情12景」を制作。06年、「音と形の出会い―伊砂利彦とドビュッシーをめぐって―」展開催(京都芸術センター)。京都迎賓館に型絵染屏風「ムソルグスキー展覧会の絵」より「リモージュの市場」「キエフの大門」を制作。沖縄県立芸術大学名誉教授となる。同年、『型絵染 伊砂利彦の作品と考え』(用美社)を出版。ここには、40年に亘る作品がまとめられている。08年、福島県立美術館にて「伊砂利彦 志村ふくみ 二人展」開催。同展では両氏による共同制作も行われた。09年、第64回新匠工芸会展では「孫よりの贈りもの バラの園」が審査員特別賞受賞。10年、日本文化藝術財団の第1回創造する伝統賞を受賞。11年には追悼「伊砂利彦回顧展」(福島県立美術館)が開催された。作品は京都国立近代美術館、東京国立近代美術館、福島県立美術館などに収蔵されている。

勝呂忠

没年月日:2010/03/15

 洋画家の勝呂忠は3月15日、間質性肺炎のため死去した。享年83。1926(大正15)年5月10日、東京に生まれる。アジア太平洋戦争中に父の出身地静岡県土肥町に疎開し、同地で終戦を迎えた。終戦後、約一年間、富士宮市の日蓮宗東漸寺を営む伯父の下で過ごす。この間、静岡県在住であった洋画家曾宮一念に絵の指導を受ける。46年多摩帝国美術学校西洋画科に入学。49年、明治大学文学部仏文科に編入学する。50年多摩造形芸術専門学校(現、多摩美術大学)絵画科を卒業。同年、自由美術協会を退会した村井正誠、山口薫、小松義雄らによって進められていたモダンアート協会結成準備に、山口、小松の勧めによって参加する。51年読売アンデパンダン展に「教会」「港」を出品。以後第10回展まで同展に出品を続ける。同年日本橋三越で開催された第1回モダンアート協会展に「聖母園」「梨」を出品。52年明治大学文学部仏文科を中退。第2回モダンアート協会展に「4人」「2人」「坂」を出品して会員に推挙され、以後、同展に出品を続ける。54年文化学院美術科講師となる。56年第1回シェル美術賞展に幾何学的構成によって具象的対象を想起させる「チカラ・B」を出品して佳作賞受賞。57年、多摩美術大学講師となる。また、同年安井賞展に「キリスト」を推選出品。58年第3回現代日本美術展に「影の人」「追憶」を招待出品。59年第5回日本国際美術展に「聖天」を招待出品。60年第4回現代日本美術展に「馬と人」を招待出品。61年イタリア政府給費留学生としてイタリアへ渡り、フィレンツェのアカデミア・ベラ・アルテに入学して油彩画のほか、古代中世のモザイク画を学ぶ。62年にイタリア各地のほか、フランス、スペイン、イギリス、オランダ、ベルギー等に旅行。63年に帰国し、東京銀座の夢土画廊で帰国展を開催し、抽象的なモティーフが同心円上に拡散していく「ひろがり」ほかを出品。渡欧前は対象を幾何学的な形の集合体として把握し、それらをいったん解体してから再構成する具象画を描いたが、渡欧後は抽象表現を試みるようになる。68年多摩美術大学を辞任。69年京都産業大学教養部講師となる。73年、再度渡欧。トルコ、ギリシャ、イタリア、フランス等を巡る。80年代初頭から様々な色調の黄土色を基調とする背景に、布で全身を覆った人物立像を想起させる幾何学的形態を平板な黒い色面で表した画風へ転じた。85年、初回から出品を続けてきたモダンアート協会展の第35回記念展に「モニュメント」を出品して作家大賞を受賞。87年池田20世紀美術館で「勝呂忠の世界展」が開催され、初期から1980年代半ばまでの油彩画・版画等約80点と表紙原画100点が展示された。戦前に設立された美術団体の再興が行われる一方で、新しい時代に即した造形活動の模索がなされた1940年代後半に美術界での歩みを始めた勝呂は、「純粋なる芸術運動のために、新しい方向を示す世代の優れた芸術家群によって21世紀への橋をかける役割を果す機関として行動する」ことを決意して結成されたモダンアート協会の趣旨に深く共感し、人々の生活により近い場で受容される造形作品の制作も積極的に行った。そのひとつとして1954年から描いた早川書房刊行のポケット・ミステリーの表紙原画がある。以後、三田文学表紙(1956年~58年)、エラリー・クィーンズ・ミステリ・マガジン(創刊号から1965年まで)などの表紙原画を手がけ、斬新洒脱な画風で注目を集めた。58年にはエラリー・クィーン・ミステリ・マガジン表紙によりアメリカ探偵作家クラブ美術賞を受賞。84年にはこれらの原画約1000点の中から100点を選び、「勝呂忠装幀原画展」(千代田・木ノ葉画廊主催)を開催した。イタリア留学から帰国した63年以降は、モザイク画などによる公共建築への壁画制作も行い、岐阜県瑞浪市昭和病院玄関外壁の陶板壁画「拡がるエネルギー」(1966年)、茨城県常陸太田市農協会館外壁陶板壁画「みのり」(1967年)、東京都広尾日本青年海外協力隊センター・ロビー陶片モザイク「若いエネルギー」(1968年)、長野県信州中野市年市民会館陶板壁画、モザイク等(1969年)などを制作したほか、87年には山口薫の原画による大理石モザイク「幻想・矢羽根と牛」を群馬県箕郷町新庁舎の壁画として執行正夫とともに制作した。また、舞台美術も手がけた。1989(平成元)年第39回モダンアート協会展に「海に浮く太陽」を出品し、同年、同会を退会。以後、画廊を中心に作品の発表を行い、2002年には「勝呂忠前衛美術50年展」(鎌倉中央公民館市民ギャラリー)が開催されている。著作も行い『モザイク-たのしい造形』(美術出版社、1969年)、『西洋美術史摘要-講義資料』(啓文社、1992年)、『近代美術の変遷史料』(啓文社、1995年)などの著書がある。

河合誓徳

没年月日:2010/03/07

 陶芸家で日本芸術院会員の河合誓徳は3月7日、肺炎のため死去した。享年82。1927(昭和2)年4月3日、大分県東国東郡国見町竹田津の円浄寺住職父坂井誓順、母シゲの二男として生まれる。少年期、考古学の本に掲載された土器に魅せられ陶芸への憧れを抱く。40年、旧制宇佐中学校に入学。43年鹿児島海軍航空隊甲飛13期飛行練習生として入隊、上海海軍航空隊を経て、45年終戦により復員。47年京都にて日本画家山本紅雲に師事。49年国東へ戻されるが、陶磁の道を諦められず単身で佐賀県有田町諸隈貞山陶房に弟子入り。色絵付を学ぶ。51年京都の加藤利昌陶房にて下絵付に従事。52年京都陶芸家クラブに加入、6代清水六兵衛に師事。同年、第8回日展に「花器」を初出品、初入選。以降、入選が続く。53年12月6日、河合栄之助の長女登志子と結婚。河合家の後継者となる。その後、61年設立の日本現代工芸美術家協会にも活躍の幅を広げる。この時期の作品は白磁を中心とした造形性追求の時代と評される。62年日展で「蒼」が特選・北斗賞を受賞。64年第3回日本現代工芸美術展入選の「白磁瓶」が台湾、中南米各国に巡回。以降、日本現代工芸美術展の海外巡回に精力的に参加。66年現代工芸美術家協会会員になる。68年日展で「宴」が菊華賞を受賞。同年、京都工芸美術展審査員を務める。69年第1回改組日展の審査員を務める。71年日本現代工芸美術10回記念展では審査員を務める。同展に「円像」を出品し現代工芸会員賞・文部大臣賞を受賞。72年日展会員となる。75年紺綬褒章を受章。朝日会館において個展を開催。76年現代工芸美術家協会理事に就任。77年、スイス・スピッ芸術協会より文化交流のため招聘され作品展を開催。約1ヶ年に亘り、スイス国内主要都市に於いて作品巡回。「白象」がベルン美術館に保存される。79年日展で「翠影」が会員賞受賞。同年、用の重要性を主張する新日本工芸家連盟を結成し総務委員に就任。第1回日本新工芸展では審査員を務める。同展に「卓上の宴」を出品。この頃より、作品が壺や鉢などの大器から筥などの小さなものへと変化していく。その後、日展と日本新工芸展を中心に活動を行う。80年日展評議員になる。81年個展を高松国立公園屋島山上美術画廊遊仙亭(10月)、大分トキハ(11月)で開催。83年第5回日本新工芸展「木立の道」で内閣総理大臣賞を受賞。7月1日~7日東京銀座和光ホールにおいて個展を開催。85年11月7~12日には「大分トキハ創立50周年記念トキハ会館落成記念河合誓徳陶芸展」を開催。87年「高島屋美術部80周年記念陶筥展」を東京、横浜、大阪、京都で開催。88年、オーストラリア建国200年新工芸10回記念展では実行委員を務め、「釉裏紅富貴」(八角陶筥)を出品。この頃より染付の青や 裏紅の赤で表現する作品を数多く発表。1989(平成元)年、日展で「行雲」が内閣総理大臣賞受賞。高島屋横浜店創業30周年記念「瑞松」展開催。高知とでん西武において陶筥展開催。90年大阪高島屋において「花・草原・雲」展開催。91年、第13回日本新工芸展「草映」で内閣総理大臣賞受賞。2月東急デパートにおいて陶芸三人展(加藤卓男、北出不二雄、河合誓徳)を開催。92年3月、第10回京都府文化賞功労賞受賞。パリ三越エトワール開館記念NHK主催日本の陶芸「今」に「釉裏紅富貴」「草映」(陶筥)出品。11月西武池袋店において「甦る釉裏紅 河合誓徳四十年の歩み展」開催、続いて大分トキハに巡回。93年京都高島屋において「彩象 河合誓徳展」開催。95年日展監事になる。京都高島屋において「香炉展」開催。97年日本芸術院賞受賞、日展理事に就任。東京、横浜、京都、大阪高島屋にて「古稀記念 河合誓徳展」開催。98年京都市文化功労者として表彰される。2000年日本新工芸家連盟副会長に就任。02年大分県立芸術会館にて「河合誓徳展―磁器の新しい表現を求めて」開催。東京・京都高島屋にて「景象の譜 河合誓徳展」開催。日本新工芸家連盟会長に就任。03年、大阪・名古屋・横浜高島屋にて「景象の譜 河合誓徳展」開催。映像資料「日本の巨匠次世代へ伝えたい芸術家二百人の素顔」(第3巻、細野正信監修、日本芸術映像文化支援センター製作・著同朋舎メディアプラン)が発行される。同年、日本新工芸家連盟会長に就任。05年日本芸術院会員、07年日展常務理事、08年日展顧問を務める。

雨宮淳

没年月日:2010/02/08

 彫刻家の雨宮淳は2月8日午前9時52分、心不全のため東京都文京区の病院で死去した。享年72。1937(昭和12)年4月18日彫刻家で東京美術学校彫刻科教授であった雨宮治郎の子として東京都に生まれる。61年日本大学芸術学部を卒業。在学中は映画を学んだ。大学卒業の年に彫刻家になる決心をし、加藤顕清に彫刻理論を学んだほか、父雨宮治郎に師事。63年に日展に「首(B)」で初入選。同年、日彫展にも初入選する。64年に日彫展で奨励賞を受賞し、日本彫塑会会員となる。65年日彫展で努力賞受賞。66年、第9回新日展に男性裸体立像「望」を出品して特選となる。翌年も第10回新日展に男性裸体立像「未来を背負う人間像」を出品して二年連続特選となった。初期にはもっぱら男性像をモティーフとしたが、72年から裸婦像を中心に制作するようになり、以後、裸婦の作家として知られるようになる。74年社団法人日展会員となる。83年東京野外現代彫刻展で大衆賞受賞。84年第14回日彫展に「独」を出品して第5回西望賞受賞。1991(平成3)年第23回日展に右足を踏み出す等身大の裸婦立像を表した「暁雲」を出品し、内閣総理大臣賞受賞。97年、直立してうつむく等身大の裸婦立像を表した「韻」を第28回日展に出品作し、第53回日本芸術院賞受賞を受賞。2001年に日本芸術院会員となる。64年に父の雨宮治郎が、94年には姉で彫刻家の雨宮敬子が芸術院会員となっており、親子姉弟続いての日本芸術院会員となった。初期から一貫してブロンズによる人物裸体像を主に制作し、対象の写実に基づきつつも、西洋の理想化された身体像に学んだ端正な作風を示した。コントラポストなど古典的なポーズを好み、男性像においては力強い、女性像においては静的な身振りによって、抽象的な概念を表現した。85年から03年まで宝仙学園短大教授として後進の指導に当たったほか、02年から05年まで日本彫刻会理事長をつとめた。日展出品略歴 第6回新日展(1963年)「首(B)」(初入選)、第9回(1966年)「望」(特選)、第10回(1967年)「未来を背負う人間像」(特選)、改組第1回日展(1969年)「靖献」、第5回(1973年)「杜若」、第10回(1978年)「爽籟」、第15回(1983年)「秋興」、第20回(1988年)「秋入日」、第25回(1993年)「晨暉」、第30回(1998年)「躍如」、第35回(2003年)「旭日昇天」、第40回(2008年)「トルソー」、第42回(2010年)「聡慧」(遺作)

伊藤鄭爾

没年月日:2010/01/31

 建築史家で工学院大学名誉教授の伊藤鄭爾は、1月31日、呼吸不全のため死去した。享年88。1922(大正11)年1月11日、岐阜県安八郡北杭瀬村(現、大垣市)に生まれる。1942(昭和17)年第四高等学校を卒業後、東京帝国大学第二工学部建築学科に入学。45年卒業後、東京大学第二工学部大学院を経て、48年東京大学副手、49年同助手。病気療養等を経て、63年より65年までワシントン大学客員教授。72年工学院大学教授、75年同学長、78年同理事長。1992(平成4)年同定年退官、同大学名誉教授。97年より99年まで財団法人文化財建造物保存技術協会理事長。建築史研究者としてはほぼ一貫して民家を中心とする日本の中近世住宅史をフィールドとしたが、日本の建築文化の海外への紹介に早くから取り組んだほか、建築評論の分野でも活躍した。大学院在学中から関野克の指導を受け、54年より今井町を訪れ、今西家をはじめとする町屋の調査に携わった頃から本格的な民家研究を開始する。56年に建築写真家の二川幸夫と知り合い、翌年から共著で『日本の民家』(美術出版社)全10巻を出版して注目され、うち『日本の民家』「高山・白川」「山陽路」で59年に毎日出版文化賞受賞。61年には「日本民家史の研究(中世住居の研究)」で日本建築学会賞(論文)を受賞。同年に「中世住居の研究」にて工学博士号を取得している。その一方で、建築家や社会学者との協働を模索し始めるとともに、60年に東京で開催された世界デザイン会議の準備に携わったことなどを契機に、米国との国際的な交流にも関わるようになる。65年にオレゴン大学の金沢幸町調査でコーディネーターを務め、その成果を『国際建築』誌に発表した際に「デザイン・サーヴェイ」の語を初めて日本に紹介したとされる。この時期の伊藤は、『日本デザイン論』(鹿島出版会、1966年)や磯崎新などとの共著による『日本の都市空間』(彰国社、1968年)を刊行するなど、建築評論家としての印象が強く、マスメディア等でも積極的に発言した。工学院大学に教職を得てからは、倉敷などでの町並み調査や保存計画づくりを率いるとともに、文化財保護審議会の専門委員などとして、町並み保存制度の整備・拡充に貢献した。上記以外の主な著作に、『中世住居史』(東京大学出版会、1958年)、『民家は生きてきた』(美術出版社、1963年)、『谷間の花が見えなかった時』(彰国社、1982年)、『重源』(新潮社、1994年)など。また、“The Gardens of Japan”(Kodansha international、1984年)ほか、英語での著書や著作の外国語訳も多数出版されている。

山口侊子

没年月日:2010/01/15

 ギャラリー山口オーナーの山口侊子は1月15日死去した。享年67。1943(昭和18)年5月20日東京市日本橋区(現、東京都中央区)に生まれる。65年早稲田大学教育学部卒業。その後東京都港区で喫茶店を経営するかたわら、ジュエリー制作に取り組み日本ジュウリーデザイナー協会(現、日本ジュエリーデザイナー協会)準会員となる。80年3月銀座3丁目ヤマトビル3階に現代美術を専門とする貸画廊兼企画画廊「ギャラリー山口」を開設。1991(平成3)年4月新木場にオープンしたSOKOギャラリーに入居、ギャラリー山口SOKOを開設し93年頃まで運営。その間、銀座3丁目の画廊と2店舗を経営。以後、ギャラリー山口を、93年8月に銀座8丁目銀座同和ビル1階へ、95年8月に京橋3丁目京栄ビル1階及び地下1階へ移転。ベテランから無名の新人まで美術家の発表の場であり、建畠覚造、野見山暁治、篠原有司男、堀浩哉らの個展を数多く開催。またCONTINUUM ’83・オーストラリア現代美術展(83年7月)、パリ-東京現代美術交流展(84年5月)、ベルリン-東京交流展(88年4月)など海外画廊との交換展にも、日本の代表的な現代美術画廊として参加。氏が逝去した後、ギャラリー山口は1月末で閉廊。同ギャラリーの資料は東京文化財研究所に寄贈された。

前川誠郎

没年月日:2010/01/15

 西洋美術史家の前川誠郎は、1月15日心不全のため死去した。享年89。1920(大正9)年2月23日京都に生まれる。26年から1937(昭和12)年までの小中学校を満州の大連で過ごす。42年、東京帝国大学に入学。文学部美学美術史学科にて児島喜久雄に師事する。44年同学科を卒業。46年同大学大学院修士課程修了。母校の第三高等学校(49年より京都大学第三高等学校、50年より京都大学教養学部)にてドイツ語教師となる。57年10月、ドイツ内務省留学生としてミュンヘンに留学。中央美術史研究所にてルートヴィッヒ・H・ハイデンライヒの下で1年間学ぶ。59年九州大学文学部美術史学科助教授、70年東京大学文学部美術史学助教授、翌年同教授となる。80年に東京大学教授を定年退官した後、国立西洋美術館次長となる。82年同館長に就任(~90年)。1990(平成2)年新潟県美術博物館長、93年より新潟県立近代美術館長。2000年同館名誉館長。デューラー研究の第一人者として数々の功績を残す。特に、デューラーの「四人の使徒」に関する新解釈の提示と、ジョルジョーネの「嵐」におけるデューラー版画の影響に関する考察は、欧米においても高い評価を得た。「四人の使徒」論では、画面下部の銘文と人物の配置が一致していないこと、通常裸足で描かれる使徒たちの足には、サンダル(草鞋)が克明に描かれていることに着目。「四人の使徒」は、従来、宗教的背景あるいは四性論との関わりから論じられてきたが、右翼に描かれた福音書記者聖マルコの存在が本作品の意味を説く鍵であり、それは、聖書において唯一マルコ伝(6、7-9)が伝える「使徒の派遣」を表すためであるとした。ミュンヘン留学時代に構想されたこの論は、同地での詳細な作品観察の結果得られたものであり、「図像上の問題に新しい光を投げかけるもの」(パノフスキー)などの賞賛を得た。デューラーとイタリア画家との関係においては、「嵐」における構図やモティーフが、デューラー版画の転用であることを論証、デューラーの手紙をもとに、その背景にヴェネツィアのドイツ人商館の壁画装飾事業をめぐるジョルジョーネのライバル心があることを推察した。モティーフの類似については、テオドール・ヘッツァー以来(1929年)、ジョルジョーネ研究者が見過ごしてきた問題であり、ジョルジョーネ生誕500年を記念した国際記念学会での口頭発表は、ジョルジョーネ研究者の賛同も得、高く評価された。文献資料に重きをおき、徹底してデューラー遺文(手紙、日記、家譜)を読み込むとともに、美術史研究とはあくまでも形体伝承の学問であるという態度に徹した。ジョルジョーネ論はその成果の一つである。二つの論考をおさめたZwei Dürerprobleme,Leo Leonhardt Verlag,Konstanz(デューラー二題)が1984年に刊行され、同著ならびに永年にわたるドイツ文化の研究と紹介に対して1986年にゲーテ・メダーユが贈られた。『デューラー二題』はさらにBlick nach Westen(西への眼、1990年)と増訂新版され、これにより、ドイツ美術に関する年間の最優秀論文としてテオドール・ホイス・メダーユを受賞している。他に、93年フランス芸術文化勲章、オフィシェを受勲。国立西洋美術館ならびに新潟県立近代美術館の館長職にあっては、版画の収集に力をそそぎ、マンテーニャ、レンブラント(通称「100グルテン版画」)、デューラーの木版画連作「黙示録」、ヤーコポ・デ・バルバリの「鳥瞰図」などを含む、両館の豊かな版画コレクションの形成に尽力している。2011年、氏の偉業をたたえて「美の軌跡 前川誠郎の美学 デューラーから中村彝まで」展が新潟県立近代美術館において開催された。西洋美術史のみならず、西洋音楽、さらには日本文化にも造詣が深く、多くの著作を残した。詳細は、「美の軌跡」展カタログ巻末の著作目録に詳しい。

楢崎彰一

没年月日:2010/01/10

 名古屋大学名誉教授で日本陶磁史研究者の楢崎彰一は胆管がんのため1月10日に死去した。享年84。1925(大正14)年6月27日、大阪府大阪市に生まれた。1949(昭和24)年3月に京都大学文学部史学科(考古学)を卒業後、50年4月から名古屋大学文学部史学科考古学研究室の開設に伴い助手として勤務、62年10月同講師、66年11月同助教授、78年4月同教授となり、1989(平成元)年3月に定年退官し、4月に同名誉教授。退官後には89年4月に愛知県陶磁資料館参与(~95年3月)、92年4月に財団法人瀬戸市埋蔵文化財センター所長(~05年3月)、95年4月に愛知県陶磁資料館総長(~99年3月)、05年4月に財団法人瀬戸市文化振興財団埋蔵文化財センター顧問(~07年3月)等を歴任した。京都大学では小林行雄の教えを受けて古墳時代の研究を行い、名古屋大学着任後も東海地方の古墳について発掘調査を進め、それらの成果の集大成として59年「後期古墳時代の初段階」『名古屋大学文学部十周年記念論集』(名古屋大学)を発表したが、その業績は今日でも高く評価されている。研究の一大転機となったのは、愛知県下における愛知用水建設工事に伴う55~61年にかけて実施された猿投山西南麓古窯跡群(猿投窯)発掘調査に中心として携わり、古墳時代から平安時代の陶器生産の実態を解明したことである。この発掘調査により、それまで日本陶磁史において暗黒時代とされてきた平安時代にも須恵器生産が継続され、灰釉陶器・緑釉陶器を新たに生産した猿投窯が日本の中心的な窯業地であり、中世の瀬戸窯や常滑窯へ展開する母胎であったことを初めて明らかにした。これらの成果は66年『陶器全集31 猿投窯』(平凡社)、73年『陶磁大系5 三彩・緑釉・灰釉』(平凡社)、74年『日本の陶磁 古代・中世篇Ⅰ 土師器・須恵器・三彩・緑釉・灰釉』(中央公論社)、76年『原色愛蔵版日本の陶磁 古代・中世篇2 三彩・緑釉・灰釉』(中央公論社)、同年『日本陶磁全集6 白瓷』(中央公論社)、79年『世界陶磁全集2 日本古代』(小学館・共著)を初めとする一連の出版物として刊行された。この猿投窯の研究を出発点として、愛知・岐阜県下を主なフィールドとして、以降考古学的な窯跡の発掘調査の成果を用いて、古墳時代の須恵器から桃山・江戸時代の陶器に至る編年研究に邁進し、古墳時代から平安時代における猿投窯の須恵器・灰釉陶器、中世の瀬戸窯、近世の瀬戸窯・美濃窯の編年を確立するとともに、古窯跡の構造とその変遷も解明した。この間数多くの陶磁史研究者を育成する一方、福井県越前窯、滋賀県信楽窯、石川県九谷窯、山口県萩窯、広島県姫谷窯、福島県会津大戸窯などの発掘調査にも携わり日本各地の陶磁史研究に大きな影響を与えた。晩年には日本に止まらず、日本の中近世陶磁のルーツについて中国福建省古窯跡との関連を明らかにする研究も進めた。これらの一連の研究業績により、62年には第15回中日文化賞、67年には第21回毎日出版文化賞、80年には第1回小山富士夫記念褒賞を受賞した。

蓮田修吾郎

没年月日:2010/01/06

 日本芸術院会員で文化勲章を受章した金属造型作家の蓮田修吾郎は1月6日午後10時24分、敗血症のため神奈川県鎌倉市の湘南鎌倉総合病院で死去した。享年94。1915(大正4)年8月2日石川県金沢市野田町に父修一郎、母つぎの長男として生まれる(幼名「修次」)。1928(昭和3)年石川県立工業学校図案絵画科へ入学、卒業制作「藤下遊鹿」で御大典記念奨学資金賞を受賞。1933年東京美術学校工芸科鋳金部予科へ入学、翌34年同校の工芸科鋳金部へ入学。この年から母の命名により「修吾郎」と呼称する。36年同人と工芸新人社(翌年に工芸青年派と改称)を設立、作品を発表(~39年)。38年東京美術学校工芸科鋳金部を卒業するに際し優等証書及び銀時計(陸奥宗光伯爵奨学資金賞)を拝受。在学中高村豊周の指導を受け、実在工芸美術展に出品し入選を重ね、38年第3回展では卒業制作の鋳白銅浮彫「龍班スクリーン」で実在工芸賞を受賞。39年から45年まで軍役をつとめ、46年に復員して金沢に帰る。48年金沢市在住の同人とR工芸集団を設立し作品を発表(~49年)。49年第5回日展に鋳銅「水瓶」を出品(~2009年)、初出品初入選。同年上京して東京都板橋区に住む。51年第7回日展に鋳白銅「鷲トロフィー」を出品、特選、朝倉賞を受賞。52年同人と創作工芸協会を設立し作品を発表(~59年)。53年第9回日展に鋳銅浮彫「黒豹スクリーン」を出品、北斗賞を受賞。57年日ソ展招待出品に際し鋳銅「氷洋の幻想」がソ連政府買上となる。59年第2回日展(新日展)に黄銅浮彫「野牛とニンフ」を出品、文部大臣賞を受賞し金沢市に寄贈。同年東京芸術大学美術学部非常勤講師となる。60年同人と工芸「円心」を設立し作品を発表(~69年)。61年第4回日展に鋳銅浮彫「森の鳴動」を出品、日本芸術院賞を受賞。同年現代工芸美術家協会の設立に際し常務理事に就任、東京芸術大学美術学部助教授(鋳金研究室主任)となる。62年鋳銅浮彫「仁王の印象」(1955年第11回日展出品作)と青銅方壺「方容」が日本政府買上となり、前者は西ドイツ首相に、後者はメキシコ大統領に献上される。同年より開催の日本現代工芸美術展に出品(~2006年)。65年西ドイツのベルリン芸術祭使節として渡欧、中近東各国を視察。同年「修吾郎」の呼称が法的に認可され戸籍上の名前となる。66年紺綬褒章を受章。同年第1回個展を日本橋高島屋で開催。67年に鎌倉へ住居を移しアトリエを新築する。69年社団法人日展が改組、理事に就任。70年第2回個展を銀座石井三柳堂で開催。71年神奈川県工芸会の会長に就任。72年神奈川県と静岡県在住の工芸作家による現代工芸美術家協会神静会の設立に際し会長に就任。1973年第3回個展を日本橋高島屋で開催。74年日展(改組日展)の常務理事に就任。75年東京芸術大学美術学部教授、日本芸術院会員となる。76年現代工芸美術家協会の副会長に就任。同年4月に東京芸術大学美術学部教授を退任、12月に日本金属造型研究所(東京都銀座7丁目)を設立し理事長に就任。77年独日文化協会会長の招聘により訪独し、西独をはじめ欧州各地を視察する。78年美術雑誌『ビジョン』に欧州紀行を執筆(連載)。同年第1回日本金属造型作家展を開催、以後毎年西独の金属造型作家を招待して日独文化交流展とする。79年『黄銅への道』を出版。80年日本金属造型作家展ドイツ巡回展に同行(ハンブルグ美術工芸博物館をはじめ7都市)。81年現代工芸美術家協会の会長に就任、日本金属造型振興会が財団法人として国に認可され理事長に就任。同年『蓮田修吾郎・金属造型』を出版。この年の9月27日、79年から総理府と北方領土対策協議会の制作依頼を受けた根室ノサップ岬の北方領土返還祈念シンボル像「四島のかけ橋」が完成し、以降、山梨県清里の森モニュメント「森の旋律」(87年)、金沢駅西広場モニュメント「悠颺」(91年)をはじめとする野外のモニュメント等の公共性の高い作品を日本金属造型振興会を拠点に数多く手がける。82年ドイツ連邦共和国功労勲章一等功労十字章を受章。同年『公共の空間へ』を出版。86年東京芸術大学名誉教授となる。同年「今日の金属造型展-日本とドイツの作家たち-」を開催(石川県立美術館ほか3館巡回)。『環境造形への対話』を出版。87年文化功労者となり、1991(平成3)年文化勲章を受章する。92年石川県名誉県民、金沢市名誉市民となる。96年日展の顧問に就任。98年に現代工芸美術家協会の最高顧問に就任。03年鎌倉生涯学習センター市民ギャラリー「蓮田修吾郎の世界展」開催、07年鎌倉市名誉市民となり、09年鎌倉市鎌倉芸術館で「金属造型の世界 鎌倉市名誉市民 蓮田修吾郎展」が開催される。「用即美」という工芸理念を掲げ35年に設立された実在工芸美術会の展観に出品した戦前の活動を経て、戦後は日展を中心に出品しつつ、用を度外視した「純粋美」の探求と創造を主張する日本現代工芸美術協会をはじめ創作工芸協会や工芸「円心」等の新しい工芸団体の設立に関わり出品活動を展開した。戦後の作品は大別すると、「方壺」に代表される立体造型の追求と浮彫による壁面装飾的な心象風景シリーズの展開の二系列が際立つ。ここに彫刻的、絵画的な要素を消化した金属造型の在り方が模索され、構想され、やがて工芸と建築、公共空間との接点が加味されるに至り、後年の日本金属造型振興会を拠点とする金属による環境造型の制作活動が展開された。没後、作品と資料等が金沢市に寄贈され、2012年に金沢21世紀美術館市民ギャラリーで「蓮田修吾郎展」が開催されている。

堂本元次

没年月日:2010/01/04

 日本画家で日展参事の堂本元次は1月4日、胸部動脈瘤破裂のため死去した。享年86。1923(大正12)年4月9日、京都市に生まれる。旧姓塩谷。1941(昭和16)年京都市立美術工芸学校図案科を卒業後、京都市立絵画専門学校日本画科に学び、43年繰り上げ卒業。学徒動員で出征し45年復員。叔父堂本印象に師事し、51年その画塾東丘社に入塾、東丘社展では非具象性の強い実験的な作品を発表した。この間、47年第3回日展に「石庭」が初入選し、50年第6回日展で「白壁の土蔵」が特選を受賞、52年第8回日展「室内」が再び特選となる。54年より日展に依嘱出品し、60年第3回新日展で「窯壁」が菊華賞を受賞。62年初の審査員をつとめ、翌63年日展会員となった。63年ヨーロッパに旅行し、64年第7回新日展「コロッセオ」、68年第11回「或る日」等ヨーロッパに取材した作品を発表。72年日展評議員となる。79年日中文化交流使節団の一員として訪中してからは中国の雄大な風景に魅せられ、同地に取材した詩情豊かな作品を発表。82年第14回改組日展で「土匂う里」が内閣総理大臣賞を受賞。87年日展理事となる。同年「懸空寺」で日本芸術院賞を受賞。同年京都市文化功労者の表彰を受け、1989(平成元)年京都府文化賞功労賞を受賞。2001年脳内出血で倒れるも、その後回復し翌年の第34回日展に「神苑の新雪」を出品した。

平山郁夫

没年月日:2009/12/02

 仏教やシルクロードを題材に描き続けた日本画家で、国際的な文化財保護に尽力した文化勲章受章者、平山郁夫は12月2日午後0時38分、脳梗塞のため東京都内の病院で死去した。享年79。1930(昭和5)年6月15日、広島県の生口島(現、尾道市瀬戸田町)に生まれる。45年広島市の修道中学校3年の時、勤労動員先の広島市陸軍兵器補給廠で原子爆弾のため被爆。46年大伯父で彫金家の清水南山に画家への道を勧められる。47年東京美術学校日本画科予科に入学し、49年同校が東京藝術大学となって後、52年に卒業、卒業制作「三人姉妹」は藝大買上げとなる。卒業と同時に前田青邨に師事し、同大学美術学部日本画科副手、53年助手となる。53年第38回院展に「家路」が初入選し、以後院展に出品、55年40回院展「浅春」で院友となる。被爆の後遺症に悩む中、59年第44回院展に「仏教伝来」を出品、高い評価を得る。以後仏教世界に画題を求め、61年同第46回「入涅槃幻想」、62年第47回「受胎霊夢」がともに日本美術院賞・大観賞を受賞。62年から翌年にかけてユネスコ・フェローシップの第1回留学生としてヨーロッパへ留学。帰国後の63年第48回院展に出品した「建立金剛心図」が白寿賞・奨励賞、64年第49回「仏説長阿含経巻五」「続深海曼荼羅」は文部大臣賞となり、64年院展出品作を中心とする一連の作品により第4回福島繁太郎賞を受賞した。61年日本美術院特待、64年同人、70年評議員となり、65年第50回院展「日本美術院血脉図」、69年第54回「高耀る藤原宮の大殿」等を出品。この間66年から画商村越伸の企画による轟会に参画し、横山操・加山又造・石本正とともに作品を発表。また63年東京藝術大学非常勤講師、69年同助教授、73年教授となり、後進の育成にあたる一方、66年同大学中世オリエント遺跡学術調査団に参加。四か月間トルコに赴き、73年には同大学イタリア初期ルネサンス壁画学術調査団としてアッシジで壁画を模写した。以後毎年のように中近東、中央アジア、中国などに取材旅行し、仏教東漸を遡行してシルクロードをたどる。その成果として70年「ガンジスの夕」、第55回院展「塵耀のトルキスタン遺跡」、71年第56回「中亜熱鬧図」、74年第59回「波斯黄堂旧址」、76年第61回「マルコポーロ東方見聞行」、77年第62回「西蔵布達拉宮」等を発表。76年、80年には「平山郁夫シルクロード展」を開催、折からのシルクロードブームもあり、幅広い人気を獲得した。75年日本文物美術家友好訪中団団長として中国を訪問。76年には一連のシルクロード作品で日本芸術大賞を受賞。77年日本仏教伝道協会賞を受賞。78年第63回院展では前年に亡くなった恩師前田青邨を偲んで描いた「画禅院青邨先生還浄図」で内閣総理大臣賞を受賞。79年には自らの被爆体験をもとに描いた「広島生変図」を第64回院展に出品。82年美術振興協会賞を受賞。81年には日本美術院理事となる。88年東京藝術大学の美術学部長、1989(平成元)年には同大学の学長に就任、95年末で一度退いたが、2001年に再度選ばれ05年まで務めた。92年には日中友好協会会長となる。96年日本美術院理事長に就任。97年故郷の広島県豊田郡瀬戸田町に平山郁夫美術館が開館。98年には文化勲章を受章。2000年に奈良市の薬師寺・玄奘三蔵院の「大唐西域壁画」を構想より二十年余を経て完成。同壁画は、薬師寺が始祖として仰ぐ玄奘三蔵法師の足跡を全七場面にわたって描いたもので、同寺が写経寄進で伽藍を建て、平山は自費で壁画を寄進するという、両者が願主であり施主となっての建立であった。旺盛な制作のかたわら、67年法隆寺金堂壁画再現模写事業に参加し、前田青邨班で第三号壁を担当。72年に発見された高松塚古墳壁画も73年より翌年にかけて模写し、82年より東京藝術大学敦煌壁画調査団長として敦煌壁画の保存修復に尽力。その他、北朝鮮の高句麗壁画古墳、カンボジアのアンコールワット遺跡など、世界の文化財保護活動に心血を注ぎ“文化財赤十字”構想を提唱、その拠点のひとつとして88年に文化財保護振興財団を設立。同年ユネスコ親善大使に任命。96年にはフランスのレジオン・ド・ヌール四等勲章、01年にフィリピンのマグサイサイ賞、04年に高句麗古墳群の世界文化遺産登録に寄与した功績で韓国政府から修交勲章興仁章を受けるなど、その国際的な文化財保護活動は海外でも高く評価された。01年、アフガニスタンのタリバン政権によるバーミヤン石窟破壊に際してはユネスコ親善大使として文化財保護を求める緊急声明を発表、さらには国外で破壊を免れている古美術品を“文化財難民”としてユネスコが管理保全し、政情安定後のアフガニスタンに返還する計画を提案した。04年には、画家としての長年の功績と文化遺産保存への国際的貢献が評価され、朝日賞を受賞。平山が提唱する“文化財赤十字”構想に応じるかたちで06年「海外の文化遺産の保護に係る国際的な協力の推進に関する法律」が成立し、その交付を受けて同年、効率的に文化遺産の国際協力に取り組むべく文化財に関わる研究者、支援機関、行政関係者等多彩な人材が参加する“文化遺産国際協力コンソーシアム”が設立された。04年には山梨県長坂町に平山郁夫シルクロード美術館が開館。07年には東京国立近代美術館・広島県立美術館で回顧展「平山郁夫 祈りの旅路」が開催。没後の11年には、その文化財保護活動を顕彰する特別展「仏教伝来の道 平山郁夫と文化財保護」が東京国立博物館で開催されている。

田淵安一

没年月日:2009/11/24

 戦後からフランスを中心に創作活動を続けていた洋画家の田淵安一は、長らくパーキンソン病で闘病してきたが、11月24日心不全のためパリ郊外の自宅で死去した。享年88。1921(大正10)5月20日、父田淵安右衛門、母アイの長男として生まれる。本籍は、北九州市小倉南区。1941(昭和16)年、第三高等学校文科丙類に入学。中学時代から絵画制作に熱中し、在学中の42年、43年の京都市美術展に入選した。43年、学徒動員で海軍に入隊。45年8月、米子海軍航空基地で終戦をむかえる。同年、東京大学文学部美術史学科に入学。大学在学中から、猪熊弦一郎に師事する。47年9月、第11回新制作派協会展に初入選。48年、同大学を卒業、同大学大学院にすすむ。49年9月、第13回新制作派協会展に「腰掛けた三人」等3点が入選、岡田賞を受賞。51年、金山康喜、関口俊吾とともに渡仏。渡仏後の2年間、絵画制作以上に、ヨーロッパ各地を旅行することに傾注し、その原像をみつめることに費やしたという。また、在仏の佐野繁次郎、岡本太郎、菅井汲、今井俊満等と交友し、「熱い抽象」と称された前衛グループ「コブラ」のアトラン、ハルツング、シュナイデル、ミッシェル・ラゴン等を知った。54年、コペンハーゲンのノアノア画廊で最初の個展を開催。55年5月、サロン・ド・メ展に初めて招待出品される。(以後、73年まで毎年出品。)61年、10年ぶりに帰国、パリへの帰途、東南アジア、インドを旅行する。67年には第1回インド・トリエンナーレ展に出品、その折にインド中央部を旅行した。これを契機に、それまでの黒を基調にした抽象表現主義的な表現から、色彩の面では、鮮やかな原色を多用するようになり、具象、抽象をこえた表現にむかっていった。田淵は、ヨーロッパで思索をかさねることにより、日本人にとってのヨーロッパ像であった地中海文明、あるいはキリスト教文明とは異なった、原初的なケルト文明などに注目していった。さらにそれと対峙するアジア的な文明にふれることで、その創作は一気に変貌していった。この60年代が、田淵の芸術の原点を形成した時代であったといえるだろう。一方で、フランスで暮らすことで、やはりヨーロッパの原像を探ろうとする思考をつづけており、その根底には、ヨーロッパにおける異邦人としての日本人、あるいはアジア人としての自覚があり、その意識は、最初の著作のなかでつぎのように記されている。「僕はヨーロッパに対する違和感でこのエッセイを書き出した。この違和感は無意識にまで根を張っている歴史性のちがいからくるのではないか、生理と意識との間に果しなくひろがっている無意識の原野には、日本とヨーロッパを隔てる森林と凍土と砂漠とがひろがっているのではないか。僕が日常に感じているのは、こうしたおもいなのだ。」(「象徴についての前章」、『西欧人の原像』、人文書院、1976年)70年代以降、田淵の芸術は、その奔放なフォルムと鮮やかな色彩による生命感あふれる表現を展開させながら、フランス、日本をはじめとして評価がたかまっていった。85年には、フランス政府よりオフィシエ・デ・ザール・エ・デ・レトル勲章を受章。国内の美術館における主要な展覧会、回顧展は下記の通りである。79年2月、国立国際美術館において「現代の作家1 田渕安一、湯原和夫、吉原英雄」展が開催され、田淵は初期作から近作まで60点を出品。82年10月、郷里にある北九州市立美術館において「田淵安一展」を開催、新作を中心に油彩画80点、水彩画21点を出品。1990(平成2)年1月、東京のO美術館において、「田淵安一展 ―輝くイマージュ―」を開催、初期作から新作まで63点の油彩画と水彩画、版画22点を出品。96年5月、神奈川県立近代美術館(本館)において、「田淵安一展―宇宙庭園」を開催、85年から95年までの10年間に制作された作品37点を中心に出品。2006年4月、神奈川県立近代美術館(葉山)において、「田淵安一 ―かたちの始まり、あふれる光―」を開催、新作8点を加えた96点による本格的な回顧展を開催。また、先にあげた最初の著述以降、絵画制作と併行して、述作にも積極的であり、ヨーロッパ、あるいは日本、東洋に関する思索をまとめた著述は下記のとおりである。 『西欧の素肌 ヨーロッパのこころ』(新潮社、1979年) 『二面の鏡』(筑摩書房、1982年) 『アペリチフをどうぞ―パリ近郊からの便り』(読売新聞社、1985年) 『イデアの結界―西欧的感性のかたち』(人文書院、1994年) 『ブルターニュ 風と沈黙』(人文書院、1996年) 『西の眼 東の眼』(新潮社、2001年)

岩澤重夫

没年月日:2009/11/07

 日本画家で日本芸術院会員の岩澤重夫は11月7日、肺炎のため死去した。享年81。1927(昭和2)年11月25日、大分県日田郡豆田町室町(現、日田市豆田町)の米穀商の家に生まれる。父親の反対を押し切って画家を志望し、47年京都市立美術専門学校(現、京都市立芸術大学)に入学。在学中の51年第7回日展に「罌粟」が初入選、52年京都市立美術専門学校卒業後、54年堂本印象に師事し東丘社に入塾。東丘社展では実験的な抽象作品、日展では構築性の強い風景画を併行して発表する。この間55年には印象の筆頭弟子三輪晁勢の長女で、印象の姪にあたる蓉子と結婚。60年には東丘社の先輩達と位双展を組織、さらに抽象表現の可能性を追究する。59年の京都市展「古墳石室」、翌年の同展「葦のある沼」がともに市長賞となり、60年関西総合展「河岸」が第一席を受賞。同年の第3回新日展「堰」、61年第4回「晨暉」がともに特選を受賞。翌62年より日展委嘱となり、68年第11回新日展「昇る太陽」が菊華賞を受賞、72年日展会員、80年評議員となる。69年より毎年、京都市の文化財防火ポスターを手がけ、また77年福生市民会館ホール、78年日田市文化センター、82年東京歌舞伎座等の緞帳原画を制作、79年には日田市長福寺襖絵「大心海」を描き、83年銅版画集『瀧聲・春秋二題』を発刊する。83年から85年にかけて日中文化協会派遣の日本美術家訪中団に毎年参加、この訪中体験をもとに描いた「古都追想(西安)」が85年第8回山種美術館賞展で大賞を受賞。同年の第17回日展に出品した「氣」で文部大臣賞を受賞。手堅い手法による静謐かつ雄渾な風景画を描き続けた。1990(平成2)年、東京・銀座松屋他で開催した個展「現代日本画の俊英 岩澤重夫」に、故郷耶馬渓の奔流に取材した大作「天響水心」を発表。同年、原画を手がけた京都祇園祭の菊水鉾見送り画「深山菊水」が完成。同年、京都府文化功労賞を受賞。92年、第5回MOA岡田茂吉賞絵画部門大賞を受賞。93年、前年の日展出品作「渓韻」に対して日本芸術院賞を受賞。2000年に日本芸術院会員となる。01年日展常務理事に就任。09年に文化功労者となるも、その直後に逝去。日田市の旧制中学の後輩で、その後京都で親交のあった金閣寺住職の有馬賴底より04年に依頼され、構想・制作に5年を費やした金閣寺客殿の障壁画63面が遺作となった。なお02年に西日本新聞に連載された聞き書きをもとに、10年には宇野和夫『日本画家 岩澤重夫聞き書き 天響水心』(西日本新聞社)が刊行されている。

大隅俊平

没年月日:2009/10/04

 刀匠で日本刀の重要無形文化財保持者である大隅俊平は10月4日、胃がんのため自宅で死去した。享年77。1932(昭和7)年1月23日、群馬県新田郡沢野村富沢(現、太田市富沢町)に生まれる。本名貞男。1946年、沢野尋常小学校を卒業。52年7月、長野県埴科郡坂城町の刀匠宮入昭平(昭和38年重要無形文化財認定)に師事する。57年刀剣類作刀承認を文部省から得る。翌58年、財団法人日本美術保存協会主催の新作技術発表会に初出品した刀が最優秀賞を受賞する。60年、師昭平への師事を終え、太田市富沢町に帰り制作を始める。59年から64年まで作刀技術発表会で毎年優秀賞および入選を重ねる。65年、財団法人日本美術保存協会主催の第1回新作名刀展(作刀技術発表会を改変)出品の太刀で努力賞、翌年の第2回でも努力賞を経て、67年の第3回から69年の第5回展で連続して特賞である名誉会長賞を受賞し、その後も文化庁長官賞、毎日新聞社賞受賞を続け、72年、新作名刀展無鑑査となる。74年に出品の太刀が重要無形文化財保持者、無鑑査からの出品作品を含めた全作品の中から最優作として正宗賞を受賞し、名実ともに最も優れた現代刀匠の一人と認められるに至った。77年、群馬県指定重要無形文化財保持者に認定され、翌78年には新作名刀展において2度目の正宗賞を受賞した。1997(平成9)年、国の重要無形文化財に認定された。作品は太刀、刀、短刀で、太刀には3尺(90㎝)を超える大太刀もある。理想とした作風は鎌倉時代後期の京都の来派(らいは)や備中の青江派(あおえは)で、太刀は反りの高い優美な姿を見せている。鍛えは小板目肌で、刃文は来国俊や来国光にみる小沸(こにえ)のついた直刃に小互の目が交じり、小足(こあし)の入ったものと、青江派の匂口が締った直刃に逆足が入ったものが多い。また初期には互の目乱れや丁字刃の刃文を焼いた作がある。代表作は2回の正宗賞受賞の直刃の太刀や、東京国立博物館蔵の太刀、太田市の3尺7寸(112cm)の大太刀で、このほか伊勢神宮の遷宮のための直刀や、高松宮殿下、同妃殿下、高円宮殿下のお守り刀などの制作を行なっている。

平敷兼七

没年月日:2009/10/03

 写真家の平敷兼七は、10月3日肺炎のため浦添市内の病院で死去した。享年61。1948(昭和23)年沖縄県今帰仁村上運天(なきじんそん・かみうんてん)に生まれる。67年琉球政府立(現、沖縄県立)沖縄工業高校デザイン科卒業。上京し東京写真大学(現、東京工芸大学)工学部に入学するが、写真撮影の技術を学ぶため69年同学を退学し、東京綜合写真専門学校に入学。折からの学園紛争による学校の閉鎖期間に沖縄の離島を撮影。在学中より個展「オキナワ・南灯寮」(沖縄タイムスホール、1969年)を開催、『カメラ毎日』誌に作品(「故郷の沖縄」、1970年3月号)を発表するなど写真家としての活動を始め、72年に同校を卒業、帰沖した。第二次大戦の戦闘や戦後の占領、復帰後も残る米軍基地などに翻弄され続けた同時代の沖縄の人々の生を、政治とは距離を置きつつ、沖縄固有の歴史や文化をふまえたさまざまな視点から撮影し、とくに「職業婦人」と題する娼婦たちをめぐる作品などで評価を得た。85年には沖縄の写真家嘉納辰彦、石川真生らと同人写真誌『美風』を創刊、87年に同人による合同展「美風」(那覇市民ギャラリー)を開催するなど地元に根ざした活動を展開。写真集に『沖縄を救った女性達』、『沖縄の祭り―宮古の狩俣島尻の夏プーズ』、『沖縄戦で死んでいった人達のための「俑」』(いずれも私家版、1992年)などがある。2007(平成19)年には約40年にわたる作家活動のなかから代表作によって編まれた写真集『山羊の肺 沖縄一九六八―二〇〇五年』(影書房)を上梓、この写真集をもとに構成した同題の個展(銀座ニコンサロン・大阪ニコンサロン、2008年)により、第33回伊奈信男賞を受賞した。現代沖縄の代表的な写真家の一人として、「琉球烈像―写真で見るオキナワ」展(那覇市民ギャラリー、2002年)、「沖縄文化の軌跡1872―2007」展(沖縄県立美術館、2007年)、「沖縄・プリズム1872―2008」展(東京国立近代美術館、2008年)などにもその作品が選ばれている。

石川義

没年月日:2009/09/12

 日本画家で日展評議員、金沢学院大学名誉教授の石川義は9月12日、心不全のため死去した。享年78。1930(昭和5)年10月10日、石川県金沢市に生まれる。47年金沢美術工芸専門学校に入学、当初彫刻を専攻するが、のち日本画科に転科。大学在学中の52年第8回日展に「杉」を初出品して入選、以後日展に出品を続ける。53年堂本印象の主宰する画塾東丘社に入塾。54年金沢市立美術工芸短期大学(現、金沢美術工芸大学)を修了、活動の拠点を京都に移す。59年第2回新日展で「礁」、68年第11回新日展で「火口原」が特選を得、69年改組第1回日展では「阿蘇」が菊華賞を受賞。78年東丘社を退会し、日本画研究グループ「玄」を結成。80年改組第12回日展で「山里」が会員賞受賞、88年日展評議員となる。日本の自然景を主なモティーフに描き続け、岩肌や樹の様相をうねるような曲線を交えて捉えながら、自然が内蔵する生気の表出につとめた。とくに82年、1994(平成6)年に開催した個展では、杉の生命力をテーマにした屏風を含む作品群を発表している。2000年金沢学院大学美術文化学部日本画教授に就任。01年「経堂への道」で第33回日展文部科学大臣賞を受賞。07年、石川県立美術館で同館へ寄贈した作品を中心に「日本の自然・原風景を描く―郷土が生んだ日本画家 石川義展」が開催されている。

増田三男

没年月日:2009/09/07

 彫金家で彫金の無形文化財保持者である増田三男は、9月7日、老衰のため自宅で死去した。享年100。1909(明治42)年4月24日、埼玉県北足立郡大門村に父伸太郎、母チカの7人兄弟の三男として生まれる。1924(大正13)年、埼玉県立男子師範附属尋常小学校を卒業、埼玉県立浦和中学校を経て、1929(昭和4)年、20歳で東京美術学校(現、東京藝術大学)金工科彫金部に入学する。大学では清水亀蔵(南山)、海野清らに学ぶ。34年、彫金部を卒業し、さらに同美術学校金工科彫金部研究科にすすみ、36年同研究科を終了する。在学中の33年、第14回帝展に「壁面燭台」が初入選する。研究科終了後は同校資料館で国宝をはじめとする文化財の模造制作に従事し、また個人的には柳宗悦が主宰した民芸運動に関心をいだき民芸論を研究した。この頃の工芸関係の公募展は帝展が最高権威であり、また国画会展の工芸部も有力であった。当時国画会工芸部は民芸派の作家が多く活躍しており、帝展の美術品としてのレベルの高さや技術力よりも、実際に生活の場で使える工芸作品が出品されていて、増田自身は師である清水南山らが出品していた帝展(のちに文展)と、国画会工芸部の両方に出品した。36年、11回国画会に出品した「筥」2点が初入選をはたしている。この国画会における工芸部門の創設に尽力した陶芸家富本憲吉に図案の指導を受け、以後増田は富本憲吉を生涯の師と仰ぐようになる。39年には第3回新文展出品の「銀鉄からたち文箱」が特選、42年の第17回国画会展では「野草文水指」が国画奨励賞を受賞した。戦時中はとくに金属使用の規制や奢侈品等製造販売禁止令などが発布されて金工作家はとくに苦境におちいったが、第3回新文展出品の「銀鉄からたち文箱」が入賞したことにより金属材料の配給を受け、その技術保存の立場から制作を続けることができた。第二次世界大戦中の44年、中学のときの母校である浦和中学の美術講師となり、以後76年に退職するまで30年以上にわたって木工芸の授業を担当した。62年、第9回日本伝統工芸展に初出品した「金彩銀蝶文箱」が東京都教育委員会賞を受賞したのを期に、その活躍の場を日本伝統工芸展とするようになり、69年、同展出品の「彫金雪装竹林水指」が朝日新聞社賞を受賞、1990(平成2)年、「金彩銀壺 山背」が保持者選賞を受賞した。91年、82歳で重要無形文化財「彫金」の保持者(人間国宝)に認定される。増田の作品は初期の第14回帝展「壁面燭台」(うらわ美術館蔵)や煙草セット(1937年・東京国立近代美術館蔵)等は、鉄の廃材を利用した当時としてはモダンな作品であった。40年代後半からは古文化財の模造によって培われた日本伝統の自然をイメージした小作品を生涯にわたって制作した。箱、壺、水指などを、銀をはじめ素銅、真鍮を打ち出し成形し、そこに菟、鹿や鴛鴦、蝶、梅や柳などの身近な動植物を意匠として、それを蹴彫、切嵌象嵌、布目象嵌によって表し、地には魚々子や千鳥石目を施した作が多い。また金や銀の鍍金による彩金の技法によって季節感、自然感を豊かに表現した。

荻太郎

没年月日:2009/09/02

 洋画家で、和光大学名誉教授の荻太郎は、肺炎のため9月2日、死去した。享年94。1915(大正4)年、愛知県岡崎市に生まれる。旧制岡崎中学校を卒業後、東京美術学校油画科に入学、在学中南薫造に師事、また先輩にあたる猪熊弦一郎からも指導を受けた。1939(昭和14)年同学校を卒業。同年の第4回新制作派協会展に出品、新作家賞を受賞。47年、同協会会員となる。58年、ピッツバーグ国際現代絵画彫刻展に招待出品。戦後美術のなかにあって、抽象表現が流行するなか、一環して具象表現にこだわり、不条理な時代のなかにおかれた人間像をテーマに描きつづけた。そこでは人間の生と死が主題となり、「歴史」(1966年)、「記録」(1966年)、「レクイエム」(1970年)などにみられるように、深く人間を見つめる作品を描いた。一方で、家族像も多く描き、また華麗なバレリーナや裸婦をモティーフにした作品は、広く親しまれた。79年、第42回新制作展に出品した「掠奪」により第3回長谷川仁記念賞を受賞。81年には受賞を記念して「荻太郎展」(日動サロン)を開催し、新旧作41点を出品。88年、第3回小山敬三美術賞受賞。1990(平成2)年、日本女子大学成瀬記念館にて個展を開催。2002年、文京区ギャラリーシビックにて「荻太郎展1945―2001」を開催。03年には、「米寿記念荻太郎展」を岡崎市美術館で開催。09年の第73回新制作展では、「椅子による女」(1937年)から「記念碑(家族)」(1997年)まで8点が「特別出品」された。同展カタログには、つぎのような言葉を寄せ、画家がその長い創作活動を通して、自らに課したテーマを端的に語っている。「この世に如何に生き、自然の中で存在する生命を如何に受けとめ、如何に造形するかを、いつも私は希って描いている。それは自分自身の生きる記録であり、私の日記です。そして生きる悦び、苦しみ、悲しみ、不安、願望、愛憎、リズム、等自分なりに描きたいと思っている。精神造形は、私の大切な挑戦であり、課題です。」没後の10年には、「荻太郎遺作展」(文京区ギャラリーシビック)が開催された。

徳田八十吉

没年月日:2009/08/26

 彩釉磁器の重要無形文化財保持者(人間国宝)の徳田八十吉は8月26日午前11時04分、突発性間質性肺炎のため石川県金沢市下石引町の金沢医療センターで死去した。享年75。1933(昭和8)年9月14日、石川県能美郡小松町字大文字町(現、小松市大文字町)に二代徳田八十吉の長男として生まれる。本名正彦。生家は、祖父の初代徳田八十吉(1873―1956)、父の二代徳田八十吉(1907―97)と続く九谷焼の家系で、初代八十吉は1953年に「上絵付(九谷)」の分野で国の「助成の措置を講ずべき無形文化財」に選定されている。古九谷再現のための釉薬の研究と調合に取り組んだ祖父と陶造形作家として日展を中心に作品を発表し富本憲吉にも学んだ父のもとで育った徳田は、52年4月に金沢美術工芸短期大学(現、金沢美術工芸大学)陶磁科へ入学、54年3月に同大学を中退し、父・二代八十吉の陶房で絵付技術を学び、55年の秋、病に倒れた祖父・初代八十吉から上絵釉薬の調合を任されて翌年2月祖父が亡くなるまでの数ヶ月間に釉薬の調合を直接教わった。本格的に陶芸の道に進む意志を固めたのは57年のこと。すでに1954年から日展に出品していたが、9度の落選を経験した後、63年第6回日展に「器「あけぼの」」を出品して初入選(以後6回入選)。初入選作品は鉢型の器の外面を口縁に沿って上から下に青、黄、緑、紺と色釉を塗り分けたもので、色釉のグラデーションを初めて試みたという点で重要である。しかし、後に代名詞となる「燿彩(ようさい)」に見られる自己の様式、すなわち特有の透明感のある色調と段階的な色彩の変化を確立するまでには、ここから80年代前半にいたる上絵釉薬の調製法と絵付・焼成法に関する研究、技の錬磨を必要とした。焼成法に関する大きな変化は電気窯の使用である。当初は父の薪窯(色絵付)で焼成をしていたが、薪窯の温度を上げることに限界を感じ、69年に独立して小松市桜木町に工房兼自宅を構えた際、電気窯による高温焼成を始めた。素地は1280度で固く焼き締めた薄い磁器を用い、色釉の美しさを効果的に見せるため、研磨の工程では器表面の微細な孔なども歯科医の用具にヒントを得た独自の手法で全て整えて平滑な素地を実現した。上絵付の焼成は1040度に達する上絵としては極めて高い温度で行い、ガラス釉の特質を活かした高い透明感と深みのある色調を表出した。色釉は古九谷の紫、紺、緑、黄、赤の五彩のうち、赤はガラス釉でないため使わず、残りの四彩を基本とし、少しずつ割合を変えて調合することで200を超える中間色の発色が可能になったという。こうした技術の昇華を経て生まれたのが「燿彩」という様式である。それは花鳥をはじめとする描写的な上絵付による色絵の世界を超えて、九谷焼が継承してきた伝統の色そのものの可能性を広げたいという探求心が結実した色釉のグラデーションによる抽象表現の極みであり、83年から「光り輝く彩」の意を込めたこの作品名を使うことが多くなった(2003年の古希記念展の後は「耀彩」と表記)。71年の第18回日本伝統工芸展に初出品して「彩釉鉢」でNHK会長賞を受賞、翌年に日本工芸会正会員となる(以後38回入選)。77年の第24回日本伝統工芸展に「燿彩鉢」を出品して日本工芸会総裁賞、81年の第4回伝統九谷焼工芸展に「彩釉鉢」を出品して優秀賞、1983年の第6回伝統九谷焼工芸展に「深厚釉組皿」を出品して九谷連合会理事長賞、84年の第7回伝統九谷焼工芸展に「深厚釉線文壺」を出品して大賞、85年に北国文化賞、86年に日本陶磁協会賞、同年の第33回日本伝統工芸展に「燿彩鉢「黎明」」を監査員出品して保持者選賞、88年に第3回藤原啓記念賞、1990(平成2)年に小松市文化賞、同年の’90国際陶芸展に「燿彩鉢「心円」」を出品して最優秀賞、1991年の第11回日本陶芸展に「燿彩鉢「創生」」を推薦出品して最優秀賞(秩父宮杯)、93年に紫綬褒章、97年にMOA岡田茂吉大賞などを受賞。86年に石川県九谷焼無形文化財資格保持者、97年に国の重要無形文化財「彩釉磁器」保持者に認定された。94年6月に日本工芸会理事(~2004年6月)、98年4月に日本工芸会石川支部幹事長(~2006年4月)、2004年6月に日本工芸会常任理事(~2008年6月)に就任。97年には小松市の名誉市民に推挙された。05年に九谷焼技術保存会(石川県無形文化財)会長、07年1月に小松美術作家協会会長、同年3月に財団法人石川県美術文化協会名誉顧問に就任。海外展への出品も多く、91年に国際文化交流への貢献が認められ外務大臣より表彰された後も07年の大英博物館「わざの美 伝統工芸の50年展」にともなって「私の歩んだ道」と題する記念講演を行うなど最晩年まで貢献を続けた。没後の10年7月22日から9月6日に石川県立美術館で「特別陳列 徳田八十吉三代展」(同館主催)、11年1月2日から12年1月29日に横浜そごう美術館、兵庫陶芸美術館、高松市美術館、MOA美術館、茨城県陶芸美術館、小松市立博物館、小松市立本陣記念美術館、小松市立錦窯展示館で「追悼 人間国宝 三代徳田八十吉展―煌めく色彩の世界―」(朝日新聞社・開催各館主催)が開催された。

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