長友啓典

没年月日:2017/03/04
分野:, (デ)
読み:ながともけいすけ

 アートディレクター、グラフィックデザイナーの長友啓典は3月4日、膵臓がんのため死去した。享年77。
 1939(昭和14)年4月8日、大阪府大阪市生まれ。58年、大阪府立天王寺高等学校卒業後、浜松の鉄工所勤務を経て上京。日東機械株式会社に入社し、バルブ検査員として働く。勤務先の社長の家に下宿中、『美術手帖』や『みづえ』等の美術雑誌や書籍を目にし、美大への進学を考えるようになる。お茶の水美術学院の夜間部で学んだ後、61年、桑沢デザイン研究所に入学。グラフィックデザイナー、田中一光に師事した。田中を通じて、早川良雄を紹介され、学校の長期休暇中、実習を行なう。ここでのちにK2を設立することになる黒田征太郎と出会う。在学中であった63年には、日本宣伝美術協会(日宣美)で入選を果たす。卒業後の半年間ほど田中のもとで働いていたところ、日本デザインセンターを紹介され、入社。山城隆一や永井一正について仕事を行なった。67年に、写真家の加納典明と制作したファッションブランド、ジャンセンのポスターで第17回日宣美賞を受賞。その作品とは蛍光赤の紙に、グレーのインクを用いて水着を着た女性の写真をシルクスクリーン印刷したものだった。粟津潔によれば、それまで協会で主流であった理論を盾に表現の適切さを説くモダニズムの系譜に乗っ取ったグラフィックとは異なり、見る者の感覚に訴える点が評価されたそうだ。しかし、亀倉雄策からは、作品が軽すぎるという指摘があった。69年には独立し、黒田とK2設立。主に黒田がイラストレーションを担当し、それをレイアウトにまとめあげるのが長友という分担であった。自身でイラストレーションを手がけた仕事も数多くある。また、この頃から商業的なグラフィックデザインの制作とは別に、実験的な表現の場を求めた活動を行い、当時の日宣美の若手メンバー、青葉益輝、上條喬久、小西啓介、桜井郁男、高橋稔で、メールギャラリーを開始。箱に作品をつめ、一方的にデザインの有識者や財界人に送りつけるという手法をとり、注目される。同名義で大日本インキ化学工業株式会社(現、DIC株式会社)の本社ビルに設けられたデザインギャラリー、プラザ・ディックでの展覧会を提案された際には、メールギャラリーのメンバーを中心に、グラフィックデザイナーの浅葉克己、インテリアデザイナーの倉俣史朗、写真家の沢渡朔、造形作家の戸村浩といった面々を加えた15名でサイレンサーを結成。同会場で69年と70年に「サイレンサー・オン・セール」と題した展示を行なった。同人の集まりのようなもので一緒に旅行をしたり、六本木に「バーサイレンサー」を開いたりなど、多彩な活動を行った。雑誌のアートディレクションやエディトリアルにも数多く携わり、『GORO』や『写楽』では、写真家の篠山紀信と組んで雑誌作りを行なった。感覚に訴える画面作りは、その時代の雰囲気を象徴する媒体ともいえる週刊誌に発揮され、『平凡』や『週刊宝石』では、表紙のアートディレクションを担当した。その他に、広告、装丁、CIと活動は多岐にわたる。自由な画面構成や手描きのタイポグラフィーは、長友のシグネチャースタイルである。アナログ感を持たせたグラフィックは、遊び心があり、親しみやすい。大阪のラジオステーションFM802のCI(1988年)やアパレルブランド、組曲のロゴタイプ(1992年)などがよく知られている仕事で挙げられ、どちらも手描き文字を基調としている。『成功する名刺デザイン』(講談社、2008年)、『死なない練習』(講談社、2011年)など、著書多数。絵本『青のない国』(小さい書房、2014年)を風木一人、松昭教共著で出版している。73年東京アートディレクターズクラブ賞受賞、74年ワルシャワポスタービエンナーレ銅賞、84年講談社出版文化賞さしえ賞などを受賞。日本工学院専門学校グラフィックデザイン科顧問、東京造形大学客員教授を務めた。

出 典:『日本美術年鑑』平成30年版(434-435頁)
登録日:2020年12月11日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「長友啓典」『日本美術年鑑』平成30年版(434-435頁)
例)「長友啓典 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/824191.html(閲覧日 2024-03-04)

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