金守世士夫

没年月日:2016/12/07
分野:, (版)
読み:かなもりよしお

 郷里富山で木版画制作を続けた国画会会員、日本版画協会名誉会員の金守世士夫は、12月7日に死去した。享年94。
 1922(大正11)年1月24日、富山県高岡市伏木新島に生まれる。生家は船具などを製作する鉄工場を営んでいた。東京で鉄鋼場を営む叔父を頼り上京し、帝国美術学校図案科に入学してデッサン等を学ぶ。在学中、永瀬義郎著『版画を作る人へ』を読み、版画に興味を抱くが、父の急逝により帝国美術学校を中退。1942(昭和17)年に招集されて半年間、富山連隊に属した後、中国大陸に渡る。46年、南京から復員。同年、当時富山市福光町に疎開していた棟方志功を訪ね、指導を乞うて「私の生活をみること」と言われ、しばしば棟方宅に自作の版画を持参して教えを仰ぐようになる。47年正月、折本形式の作品「版画菩薩曼荼羅」を棟方宅に持参して高い評価を得、棟方の推薦によって同年の国画会工芸部に初出品。翌年同会展に木版本「鶏合」「七福神仙」「分陀利華」「十三仏木印」を出品。その後も同会に出品を続ける。50年、棟方、畦地梅太郎笹島喜平らと『越中版画』を創刊。同誌は第2号から『日本板画』と改題し、51年に棟方が東京に移住するのを契機に7,8合併号を刊行して休刊。以後、金守が『富山版画』として50年代半ばまで刊行を続けた。50年代に入ると作品の主題を聖書に求めるようになり、50年第24回国画会展に「物語約拿(ヨナ)」「物語我を見る活る者の井戸」を出品し褒状受賞。53年第27回国画会展に「物語イサクの犠牲」「物語エホデ・エグロン王を倒す」「物語アブラハムと三天使」を出品して国画奨学賞を受賞。57年国画会会友となる。58年ニューヨークのセント・ジェームズ教会展で「イサクの犠牲」により3等賞を受賞するが、聖書にある場面を描きながらも棟方の作風と類似しているという評を受け、物語主題から離れるべく、京都の庭を訪れて作風を模索。京都南禅寺の枯山水の庭が夕立の前後で表情を変える様子に「飽くことのない変幻自在の宇宙を発見し」、後に長くテーマとする「湖山」の着想を得た。65年国画会会員となる。68年、バンクーバーとロスアンゼルスでの技術指導のためカナダ、アメリカへ渡る。70年から翌年にかけてサンフランシスコ、ロスアンゼルス、ニューヨークでの個展のため渡米。70年、志茂太郎主宰の日本愛書会から大判で多版多色摺りの「湖山」を刊行。79年1月版画芸術院を設立する。80年、富山市文化功労賞を、81年富山県文化功労賞を受賞。また同年、スイス・バーゼルで個展を開催。82年オーストラリア美術協会の招聘により渡豪して版画指導。84年日中版画文化交流の一因として訪中。86年より88年12月和光ホールで「金守世士夫展」を開催。また、同年から毎年インドネシア・デンハサール市で版画・水墨画の指導に当たる。戦後間もない頃から棟方を介して、浜田庄司、河合寛次郎ら民芸運動に関わった人々の作品にも親しみ、日常生活を彩る版画も数多く制作。54年に畦地梅太郎の誘いによって制作を始め作り続けた蔵書票は人々に親しまれ、1994(平成6)年日本書票協会第4回志茂賞を受賞している。96年カナダ・バンクーバー市立美術学校に木版画指導のため招かれる。同年第43回富山新聞文化賞受賞。版本の作成に当たっては、河童に想を得て棟方が命名した河伯洞の号を用いた。また、棟方や柳宗悦の話を聞くうち民芸に興味を抱くようになって収集を始め、アメリカ先住民の人形やエスキモーの民芸品、アフリカの面や染織品、神像、インドネシアの染織品等のコレクターとしても知られ、「インドネシアの手仕事展」(1994年9月13日から10月31日)を富山市民芸館で開催したほか、自らの版画とアフリカの立体作品を並べた「金守世士夫とアフリカンアート展」(1994年10月15日から11月30日、黒部市美術館)などを開催した。江戸時代から続く越中売薬版画等の伝統を踏まえ、一貫して木版画を制作し、「湖山」の主題を得てからは、山と湖に蝶・花鳥ほかを配して幻想的な作風を示した。版画の複製性よりも木版ならではの表現を探求し、1枚の版木で彫りと摺りを繰り返しながら制作する「彫り進み」技法を多用するのを技法的特色とした。

出 典:『日本美術年鑑』平成29年版(564頁)
登録日:2019年10月17日
更新日:2019年10月17日 (更新履歴)
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