日本美術会結成
1946年04月美術界の民主化をめざして内田巌、硲伊之助、福田豊四郎、本郷新ら各派の進歩的美術家によつて日本美術会が結成され、二一日自由学園に於て発会式を挙げた。
美術界の民主化をめざして内田巌、硲伊之助、福田豊四郎、本郷新ら各派の進歩的美術家によつて日本美術会が結成され、二一日自由学園に於て発会式を挙げた。
牧野虎雄を主宰者とした旺玄社は昭和一九年に解散したが、旧同人その他により組織を新にし旺玄会を結成した。
戦時中奈良、京都等の爆撃を防ぐのに努力したと伝えられるアメリカの著名な東洋美術研究家ラングドン・P・ウオーナー博士は聯合軍総司令部民間情報部教育局美術記念物課顧問として四月一一日来朝した。一九日記者団会見を行い、日本美術に対する見解を述べ、五月には京都奈良を視察、古美術に対する保護公開政策に助言を与えて八月一七日帰国した。
帝国学士院では一二日総会を開き会員の補充、二一年度恩賜賞等を決定したが、美学の大西克礼が第一部会員に推薦決定し一六日発表された。
二科会ではこれまでの参与、評議員の制度をやめ単一会員制とし、又新に千宗左、千宗室、勅使河原蒼風、山脇巌等を迎へて工芸部を、北園克衛、植村鷹千代等を迎へて理論部を新設した。
帝室博物館は昭和二〇年三月以来閉館していたが、新たに内容を整へて二四、五日の招待日の後、二六日から再開した。
京都美術家クラブが解散し、新に京都在住の美術家と愛好家によつて京都美術懇話会が五日設立された。
従来の文展に代つて文部省主催第一回日本美術展覧会が三月一日から三一日まで東京都美術館で開催された。京都側の日本画作家達は材料、期日の不足を理由として出品しなかつた。審査員には芸術院会員が当り、従来の無鑑査をやめ、無鑑査の資格を芸術院会員と今までの帝文展の委員又は審査員に限つた。同展開催中に第四部工芸彫金大木秀春作桜花文煙管が盗まれ、文展開催以来始めての盗難として話題になつた。
情報局廃止による国内文化課移管に伴つて文部省社会教育局に文化課と芸術課が新設され、七日文化課長に下野信恭が、芸術課長に今日出海が発令された。文化課は図書・博物館・国宝指定等を、芸術課は美術・音楽・文学・映画・演劇・出版(新聞雑誌)等を司どる。
創元社より「芸術」が創刊された。