本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





森田稔

没年月日:2017/02/13

読み:もりたみのる  九州国立博物館名誉館員で一般財団法人環境文化創造研究所理事の森田稔は消化器疾患のため2月13日に急逝した。享年62。 1954(昭和29)年6月14日に岐阜県岐阜市に生まれ、73年に岐阜県立岐阜北高等学校を卒業し、広島大学文学部史学科(考古学専攻)に入学した。広島大学卒業後、名古屋大学大学院文学研究科に進学し、80年に史学地理学専攻考古学専門博士課程(前期)を修了した。同年4月1日に神戸市教育委員会事務局文化課学芸員に採用され、同市の埋蔵文化財調査担当を経て、85年4月1日に神戸市立博物館学芸課に学芸員として配置された。在職中、1995(平成7)年1月17日に発生した兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)に遭遇し、地元の博物館職員として被災した文化財のレスキュー事業にかかわり、その後96年12月1日に文化庁文化財保護部美術工芸課文化財調査官(考古部門)として採用された。翌97年4月1日から文化財管理指導官を併任し、全国の博物館・美術館の指導に当たった。 文化庁在籍時代の森田は、阪神・淡路大震災の経験を活かして文化財の災害対策に積極的に取り組んだ。また国内で広く行われていた臭化メチルによる燻蒸処理を、国際的な流れに沿った新しい生物被害防止方法に切り替えるために、担当官として大きな働きをした。当時は97年9月にカナダのモントリオールで開催されたモントリオール締約国会議で、オゾン層保護のため臭化メチルの国際的な全廃が前倒しされて2004年末に繰り上がることが決まり、カビや虫の被害が多い日本としてどの様に対処するかが喫緊の課題となっていた時期であった。臭化メチルの代替法については東京国立文化財研究所保存科学部(当時)が調査・研究を行っていたが、森田は行政の立場から博物館、美術館、社寺、各地の教育委員会などの現場が抱える不安の解消にあたり、文化庁に調査研究協力者会議を立ち上げ「文化財の生物被害防止に関する日常管理の手引き」(2001年3月)を取りまとめ、総合的有害生物管理(IPM)による文化財の生物被害防止への道を作った。 その後、森田は01年4月1日に美術学芸課主任文化財調査官となり、04年4月1日に独立行政法人国立博物館(当時)京都国立博物館に学芸課長として転出した。さらに08年4月1日には独立行政法人国立文化財機構九州国立博物館の学芸部長として異動し、その2年半前に開館した九州国立博物館の運営に当たった。森田は09年8月1日に副館長に昇任し、11年4月には放送大学の客員教授にも就任して「博物館資料保存論」を同館学芸部博物館科学課長の本田光子と共に担当し、博物館におけるIPMの普及に努めた。その後、森田は体調不良から定年一年前の14年3月に退職し、同年4月1日に九州国立博物館の名誉館員となった。同日、一般財団法人環境文化創造研究所の理事(文化財担当)、同年10月1日には福岡県田川市文化財アドバイザーに就任した。 阪神・淡路大震災を神戸市立博物館の学芸員として体験した森田は生涯、文化財の防災対策に大きな関心を持ち文化庁においてだけでなく、一般社団法人文化財保存修復学会でも理事として学会内に災害対策調査部会を設置するなど尽力し、それらの功績により16年6月に第10回学会賞を受賞した。救済の対象を指定文化財だけに限らない文化財レスキューが、災害発生後に迅速に開始されるようになったことには、生涯、文化財の防災対策の必要性を訴え続けた森田の功績が大きい。

上原和

没年月日:2017/02/09

読み:うえはらかず  日本美術史研究者の上原和は2月9日、心不全のため死去した。享年92。 1924(大正13)年12月30日、台湾台中市において父・繁秀、母・登美子の次男として生まれる。1944(昭和19)年9月台北帝国大学予科文科三年を修了し、台北帝国大学文政学部に入学するが、学徒出陣として同年同月茨城県土浦海軍航空隊に入隊。45年8月の終戦にともない鹿児島県桜島海軍第五水上特攻戦隊司令部より復員。翌年1月に九州帝国大学法文学部に転入学して哲学科美学美術史学を専攻する。48年3月、九州大学法文学部を卒業し、4月よりは同大学大学院文学研究科特別研究生前期課程美学及美術史専攻に進学。矢崎美盛に師事し、ドイツ古典主義美学及び美術様式論を研究する。50年3月同前期過程を修了。4月より55年10月まで宮崎大学学芸学部講師として美学を担当。11月には相良徳三の招請により成城大学文芸学部の芸術コース(のちの芸術学科)の設立のため専任講師として着任。美学・美術史を担当する。56年10月成城大学文芸学部助教授に昇任。64年10月同大学同学部教授に昇任。学科の発展に尽くし、75年には同大学大学院文学研究科に美学美術史専攻を開設。同年には『斑鳩の白い道のうえに 聖徳太子論』(朝日新聞社)で亀井勝一郎賞を受賞(なお、同書は1978年には朝日選書として、84年には朝日文庫として、また、92年には講談社学術文庫の一冊として再刊を重ねた)。86年4月より同大学文芸学部長を併任(1990年3月まで)、1992(平成4)年10月には『玉虫厨子 飛鳥・白鳳美術史様式史論』(吉川弘文館、1991年)で九州大学より博士(文学)の学位を受ける。翌年4月、成城大学大学院文学研究科長を併任し、95年3月に退任。大学より名誉教授の称号を受ける。この間、成城大学内の役職として学園評議員、学園理事、大学評議員を務め、学外にあっては美学会、美術史学会、民族藝術学会、日本文芸家協会、日本ペンクラブに所属して、美学会委員、民族藝術学会評議員、日本キリスト教芸術センター幹事を務めた。 上原の学問的業績の全貌は『上原和博士古稀記念美術史論集』(同刊行会、1995年)に付された著作等目録に示される通りであるが、日本古代仏教史を専門とし、その視野はギリシアから西アジアをへて印度・中央アジア・中国・朝鮮・日本に及ぶ広汎なものであり、現地踏査のうえでの緻密かつ実証的であった点に特色がある。研究の中心は、法隆寺の遺構および遺物を中心とする日本古典美術と朝鮮・中国美術との様式的比較研究にあり、ことに法隆寺と玉虫厨子、聖徳太子研究の第一人者として斯界の研究を長く牽引した。また、研究の過程で培い、親交のあった中国・敦煌研究院との交流は、本務の成城大学に留まらず、97年から行われた朝日新聞社の「敦煌研究員派遣制度」へと結実。その初回より選考委員長に就任し、多くの若手研究者を現地研修に送り出すとともに、研究者の育成と輩出に尽力したことは彼の大きな業績として特筆されなければならないであろう。

内田啓一

没年月日:2017/02/08

読み:うちだけいいち  美術史家・早稲田大学文学学術院教授の内田啓一は、癌のため2月8日に死去した。享年56。 1960(昭和35)年11月1日、神奈川県横浜市鶴見区に生まれる。79年3月、神奈川県立横浜翠嵐高校卒業。83年3月、早稲田大学第二文学部を卒業し、同年4月、同大大学院文学研究科に入学。1989(平成元)年10月、同研究科博士後期課程を満期退学、町田市立国際版画美術館に学芸員として採用される。2000年4月に昭和女子大学に専任講師として着任し、04年4月、同大助教授、05年4月、同大教授。11年4月より早稲田大学文学学術院准教授、13年4月、同大教授。女子美術大学、早稲田大学、東北芸術工科大学、拓殖大学、青山学院大学、成城短期大学、昭和女子大学で非常勤講師として教鞭を執ったほか、奈良国立博物館調査員、世田谷区文化財保護審議会委員を務めた。 早稲田大学で日本美術史家・星山晋也の指導を仰ぐ。大学院在学時から鎌倉時代に西大寺を復興させた僧・叡尊に関わる仏教絵画に関心を寄せ、修士論文「八字文殊画像について―叡尊を中心とした西大寺本・旧東寺本の考察―」を提出した。国際版画美術館に勤務してからは、「仏教版画入門」(1990年)、「奈良・元興寺仏教版画」(1992年)、「大和路の仏教版画」(1994年)、「版になった絵・絵になった版―中世日本の版画と絵画―」(1995年)、「名品でたどる―版と型の日本美術」(1997年)など、とりわけ仏教版画に関する展覧会を数多く担当する。従来、研究対象としては等閑視されがちだった摺仏・印仏の作例を展覧会・学術論文を通じて数多く紹介し、その受容や制作背景を丹念に解き明かすことで仏教版画研究を大きく進展させた。他方、修士論文以来の関心テーマであった西大寺流に関する研究にも精力的に取り組み、02年には博士論文「中世律宗諸流派における造像とその特徴―西大寺流を中心に―」を早稲田大学大学院文学研究科に提出し、03年6月に博士号を取得した。 大学に籍を移して以降は後進の指導と育成に努めながら、作品調査と論文の執筆を続けた。作品の深い鑑識から出発し、その制作を巡る時代背景や関与した人物を生き生きと浮かび上がらせ、一見結びつきのなかった作品同士の関連性を示すことで、研究成果を体系的に積み重ねていった。自らが真摯に作品と向き合い、図様の分析と制作背景に関する鋭い考察を第一とするその研究姿勢は、指導を受けた学生に少なからず影響を与えた。美術史研究に対する情熱的な態度、そして何よりも大らかで明るく、衒いのない人柄は多くの同業者・学生に慕われていた。 主要な著書に、共著『中世・勧進・結縁・供養 大和路の仏教版画』(東京美術、1994年)、『文観房弘真と美術』(法藏館、2006年)、『江戸の出版事情』(青幻舎、2007年)、『後醍醐天皇と密教』(法藏館、2010年)、『日本仏教版画史論考』(法藏館、2011年)があるほか、没後、『美しき日本の仏教版画 すりうつしまいらせるほとけ』(東京美術、2018年)が刊行された。 主要な論文は次の通り。「八字文殊画像の図像学的考察」(『南都仏教』58、1987年)、「宋請来版画と密教図像―応現観音図と清凉寺釈〓像納入版画を中心に―」(『佛教藝術』254、2001年)、「サンフランシスコ・アジア美術館所蔵文殊菩薩図像について―宋本図像と形式の踏襲―」(『佛教藝術』310、2010年)、「個人蔵清凉寺式釈〓如来画像について―西大寺像との関わりを中心に―」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』61第3分冊、2016年)ほか多数。業績は『内田啓一教授 著作目録』(「内田啓一さんを偲ぶ会実行委員会」編集、2017年)に詳しい。また、20年5月に『内田啓一中世仏教美術論集(仮)』(法藏館)が刊行予定である。

木村重信

没年月日:2017/01/30

読み:きむらしげのぶ  美術史家の木村重信は1月30日、肺炎のため大阪府吹田市内の病院で死去した。享年91。 1925(大正14)年8月10日、京都府綴喜郡青谷村(現、城陽市)にて、享保年間から続く宇治茶問屋(屋号山城園)に、6人兄弟の次男として生まれる。小学校時代には肋膜炎を患い、通算で3年間通っただけであったという。卒業後は商業学校へ進学し、その後祖父が名古屋で茶問屋を開業していたことから名古屋高等商業学校(現、名古屋大学経済学部)へ進学。2年生の折に学徒動員で繰り上げ卒業となり、1944(昭和19)年徴兵。豊橋陸軍予備士官学校に特別甲種幹部候補生伍長として入学する。45年6月に同校を卒業すると広島師団に配属されるが、本籍が京都であったことから京都師団へ転属、さらに旗手要員として志摩半島の442聯隊本部へと移った。終戦後の46年には京都大学文学部へ入学。文芸を学び、卒業論文では「文芸における表現の問題」をテーマに取り上げた。49年に同大を卒業後は大学院に通いつつ、大阪成蹊女子短期大学などに非常勤講師として勤務。53年京都市立美術大学(現、京都市立芸術大学)の講師となり、現代美術の講義を担当した。ほぼ同じ頃、自身のテーマとして「美術の始原」を意識し始める。56年より翌年にかけてフランス・パリ大学付属の民族学研究所に留学。アンドレ・ルロワ=グーランに教えを受け、洞窟壁画の実地研究などに従事した。また、近・現代美術への見識を深め、同地で交友を深めた堂本尚郎や今井俊満らをとおしてアンフォルメル運動に触れ、帰国後には前衛芸術運動についての評論を盛んに行うとともに、パンリアル美術協会やケラ美術協会、具体美術協会などの作家らと交流し、美術史家としての立場から前衛芸術運動に深くかかわる活動を行った。その後京都市立美術大学助教授を経て、69年10月京都市立芸術大学美術学部教授となる。この間、65年には南アフリカのカラハリ砂漠へ調査に行き、翌66年には『カラハリ砂漠 アフリカ最古の種族ブッシュマン探検記』(講談社)で第20回毎日出版文化賞を受賞。また67年11月から翌68年4月まで、山下孝介率いる大サハラ学術探検隊に参加。サハラ砂漠の先史岩壁画やマリ共和国のドゴン族の美術、エチオピアにおけるキリスト教美術や先史遺物などの調査を行った。74年大阪大学文学部教授となり、翌75年「美術の始原」で同大文学博士を取得。先史美術に関する木村の研究の集大成とされた同論文は、フランスへの留学以来、世界各地で行ったフィールドワークによる成果をとおして、人類の美的活動の根元を問おうとしたもので、美学と美術史学両方の視点からの考察を行った点が評価された。またこの頃、木村は芸術とはそれ自身で完結するものではなく、外的要因によって規定されるものであるとし、80年代後半以降の研究動向を先取りする発言を残している。76年国立民族学博物館併任教授に就任。同館では「民族芸術学の基礎的研究」(1980~82年)、「民族芸術学的世界の構築」(1982~84年)などの課題で共同研究を主宰した。84年4月には既存の研究領域や専門の枠を超え、芸術現象を広く議論できる場として民族藝術学会を創設、初代会長となる(のち名誉会長)。1989(平成元)年大阪大学を定年退官、同大名誉教授となった。また同年には当時の大阪府知事岸昌の要請により大阪府顧問となり、国際現代造形コンクール・大阪トリエンナーレや関西系現代作家展の開催、それら事業による美術作品の収集など行政的手腕を発揮する。91年には民族芸術学という新しい学問分野の開拓や、欧米や日本の近代美術に一種の社会芸術学的方法により新たな光をあてた業績が評価され、大阪文化賞を受賞。92年には国立国際美術館館長に就任。98年同館長を退任し、同年4月兵庫県立近代美術館(現、兵庫県立美術館)の館長に就任、2002年に同館が兵庫県立美術館に新築移転すると初代館長となった。木村は持ち前の美術史学的教養と行政的手腕を発揮し、同館中興の祖とも称された。館長時代には神戸市内で毎年、若手作家との懇親会を開くなど、後進の育成にも尽力し、01年兵庫県文化賞を受賞している。また、98年には勲三等旭日中綬章を受章、翌99年には評論の分野での功績を評価され、京都市文化功労者に選ばれた。同年12月には『木村重信著作集 第1巻 美術の始源』(思文閣出版)が刊行され、04年7月までに全8巻を刊行。06年4月には兵庫県立美術館長を退き名誉館長となる。同年にはまた、京都にて設立された染・清流館の初代館長に就任。日本の現代染色アートを世界へ発信することに尽力した。晩年にはあらゆる役職を辞任した木村であったが、同館の館長だけは最期まで続け、ギャラリー・トークなどにも積極的に参加していたという。

菊地貞夫

没年月日:2017/01/27

読み:きくちさだお  浮世絵研究者の菊地貞夫は1月27日、死去した。享年92。 1924(大正13)年2月18日、東京・八丁堀に生まれる。立正大学で〓崎宗重に師事し、浮世絵の研究をはじめた。大学卒業後、東京国立博物館に就職し、同館の近藤市太郎のもとで、浮世絵関連の仕事に従事した。『東京国立博物館図版目録 浮世絵版画〓』上巻(1960年)、中巻(1962年)、下巻(1963年)は、編著者名が記載されていないため不明ではあるが、時期的にみて菊地が編集に関わった刊行物であると考えられ、同館所蔵の3926点の浮世絵版画の総目録となっている。1968(昭和43)年主任研究官、79年絵画室長となる。東京国立博物館の展覧会「浮世絵―旧松方コレクションを中心として―」(1984年10月16日~11月25日)はその年度末に退官を控えた菊地が中心となって開催された浮世絵の体系的な展観で、近世初期風俗画をはじめ江戸時代から明治時代までの肉筆画46点、版画663点の合計698点の作品が出陳された。展覧会図録のほか翌年度に豪華本の特別展図録『浮世絵』(東京国立博物館、1986年)も刊行されている。この展覧会で浮世絵の文化的価値を一層高めた功績により、85年に第4回内山晋米寿記念浮世絵奨励賞特別賞を受賞した。東京国立博物館に38年間勤続し、85年に定年退官した後、那須ロイヤル美術館副館長を7年間勤めたほか、85年から6年間国際浮世絵学会の前身、日本浮世絵協会で理事長を務めた。「ボストンで見つかった北斎展―ボストン美術館の版木新発見」(たばこと塩の博物館、1987年1月15日~2月8日ほか6カ所を巡回)ではボストン美術館に所蔵されていたビゲローが購入した版木など527点の調査と展覧会の開催に関わり、同展図録に菊地の論文「ボストン美術館で新発見された北斎の板木について」が掲載されている。著書に『カラーブックス21 浮世絵』(保育社、1963年)、『原色日本の美術17 浮世絵』(小学館、1968年)『日本の美術74 北斎』(至文堂、1972年)、『浮世絵大系5 歌麿』(集英社、1973年)、などがある。また全集類などへの執筆や解説も数多く手がけ、「浮世絵師の〓風」(『日本〓風絵集成14 風俗画―遊楽 誰ヵ袖』講談社、1977年)、「歌麿・栄之の浮世絵」(『在外日本の至宝7 浮世絵』毎日新聞社、1980年)などがある。

村木明

没年月日:2017/01/17

読み:むらきあきら  美術評論家の村木明は、1月17日に没した。享年88。 1929(昭和4)年1月11日、岐阜県に生まれる。51年、名古屋外国語専門学校(現、南山大学)フランス語科を卒業。54年、早稲田大学政治経済学部を卒業。71年頃から74年まで、『読売新聞』に美術批評、美術に関する記事を寄稿。また、『みづゑ』に「海外短信」として海外の最新の美術動向を伝える記事を連載し、同時に各美術雑誌に展覧会評などを寄稿した。執筆活動の他、70年代から80年代には「ヴュイヤール展」(西武美術館、1977年)、「ヘンリー・ムーア 素描と彫刻展」(西武美術館、1978年)、「アンドリュー・ワイエス展」(三越、日本橋、1978年)、「ルノワール展」(伊勢丹美術館、1979年)などをはじめとして、東京都内のデパートなどを会場とした美術展の監修にもあたり、カタログへ寄稿した。また、読売新聞社主催の「日本秀作美術展」では、79年の第1回展から2003(平成15)年の第25回展まで、監修、審査にもあたった。 主な編著作、翻訳は下記の通りである。(翻訳)『アメリカン・ノスタルジア2 マックスフィールド・パリッシュ』(PARCO出版局、1975年)(翻訳)『アメリカン・ノスタルジア4 ハワード・パイル』(同前、1976年)(翻訳)『アメリカン・ノスタルジア6 トーマス・ハート・ベントン』(同前、1976年)座右宝刊行会編『現代日本の美術8 国吉康雄・三岸好太郎』(国吉康雄を担当)(集英社、1976年)(翻訳)マドレーヌ・ウール著『名画の秘密 ルーヴル美術館 絵画の科学的探究』(求龍堂、1976年)『アメリカ近代美術の展開 コマーシャル・アートの黄金時代を築いた作家たち』(美術公論社(芸術叢書)、1978年)『現代日本画全集 第10巻 橋本明治』(集英社、1982年)(解説)『中山忠彦画集』(求龍堂、1983年)『展覧会への招待 絵の百科事典』(読売新聞社、1984年)(解説)『平山郁夫 私のスケッチ技法』(実業之日本社、2007年) なお、美術評論家としての活動の傍ら、『おわら囃子が風に乗る』(近代文芸社、1995年)をはじめ、『雪割草』(同前、2006年)、『季節風』(同前、2009年)など小説集も刊行している。

北村由雄

没年月日:2017/01/07

読み:きたむらよしお  評論家で茅ヶ崎市美術館館長を務めた北村由雄は1月7日、死去した。享年81。奥英了のペンネームもあり。 1935(昭和10)年5月27日東京都生まれ。59年東京芸術大学美術学部芸術学科卒業。在学中の56年『美術批評』の読者欄に「現代日本美術展寸感」(55号)、「美術界と戦争責任の問題」(56号)が掲載される。59年「次代美術会」に参加、『次代美術』1号に「フォートリエ論」、2号に「ピーター・ブリューゲル覚書」を執筆。同会は鶴岡弘康、藤枝晃雄ら7人の同人で、60年には「20代作家集団」に発展、25名の会員からなり、高松次郎、若林奮、村田哲朗らも参加している。北村は同会評論誌『CRIT』1号に「ものと感覚と信念について」を寄稿、アンデパンダン展の在り方から河原温、池田龍雄、利根山光人にふれている。卒業後、59年共同通信社文化部記者となり、美術界の出来事を含め展覧会評を執筆。さらに美術雑誌にも原稿を寄せる機会が多くなる。64年『美術手帖』に「アトリエでの対話」を12回連載、桂川寛や平山郁夫らを扱い領域を広げていく。一方、『日本美術』87号(1972年)の「私の時代を劃した作家たち」では、戦後美術を自分なりに考えて行く契機となった作家として河原温、池田満寿夫、磯辺行久、工藤哲巳、流政之、小畠広志、多田美波、柳原睦夫をあげ、記者としての体験型志向が示されている。81年に上梓された『現代画壇・美術記者の眼1960〓1980』(現代企画室、1983年に増補改訂版)は、60年代初期の前衛的傾向から70年の大阪万博をへて、幅広く画壇の動向などにふれ、一ジャーナリストの視点として記録性が高い。81年にはぺりかん社の「なるにはシリーズ」の内『美術家になるには』を執筆する。1997(平成9)年に茅ヶ崎市美術館初代館長に就任、退任後も茅ヶ崎美術家協会展での講演や2016年の第1回茅ヶ崎市美術品審査委員会委員長を務めるなど、市の美術界に尽力した。教育歴としては96年から多摩美術大学の客員教授を務めた。

宮野秋彦

没年月日:2016/12/07

読み:みやのあきひこ  名古屋工業大学名誉教授で建築研究者の宮野秋彦は12月7日に死去した。享年93。 1923(大正12)年10月15日に名古屋で生まれ、1945(昭和22)年に東京工業大学工学部建築学科を卒業した。東京工業大学の助手、助教授をつとめた後、名古屋工業大学に異動し、助教授、教授をつとめた。この間、建築材料中の熱や湿気の移動に関する研究を行い、「建築物に於ける温度変動に関する研究」で62年2月12日に東京工業大学から工学博士の学位を受けた。また83年~84年には日本建築学会の副会長をつとめた。名古屋工業大学退官後は福山大学の教授となり、その後、名古屋工業大学名誉教授、日本建築学会名誉会員、中国文物学会名誉理事となる。 宮野は名古屋工業大学在職中に、多くの文化財が伝統的な倉の中で保存されてきたことに着目して、文化庁文化財保護部建造物課(当時)の文化財調査官であった半澤重信とともに全国の倉の環境調査を行い、成果を日本建築学会の大会などで長年発表し続けた。やがて研究対象を屋台蔵や遺構などにまで広げ、斉藤平蔵亡き後、建築環境工学の第一人者として、文化財における温湿度環境の整備に欠かせない専門家となった。特に86年から1990(平成2)年にかけて行われた中尊寺金色堂覆堂の改修工事では、金色堂が入るガラスケース内の新しい空調システム設計について中心的な役割を果たした。それまでの空調システムは、空調空気を金色堂のある室内に吹き出す方法であったが、風が表面の境界層を吹き飛ばして金色堂の表面を乾燥させることを避けるため、宮野は空気を強制的に動かさないで湿度を一定に保つことを提唱した。宮野の提言を受けて、改修工事ではガラスケース全体の断熱を高め、ガラス以外の壁面には調湿ボードを用い、湿度が一定値を越えた時だけ入り口に置いた除湿器が作動するシステムを採用した。除湿器だけを用いて加湿器を用いないことにしたのは、ガラスケース内で測定された長年の記録を宮野が解析して、中尊寺の環境ではガラスケース内の湿度が上がることはあっても、乾燥しすぎることはないことがわかったからである。修理委員会に於ける宮野の献身的な協力もあって、改修工事後は67%RH前後の相対湿度に、金色堂のあるガラスケース内は保たれている。 宮野はその後も、多くの文化財の保存について協力を続けた。岩手県立博物館におけるコンクリート屋根スラブ内の水分挙動を丹念に調べ、長期にわたり館内がアルカリ性性状になっていた原因を突き止め解決した。また木質系調湿材、石質系調湿材に加え土質系調湿材を対象に、調湿建材によって環境湿度の調節を図る取り組みは、博物館に加えて、対象を社寺(薬師寺玄奘三蔵院伽藍大唐西域壁画殿、静岡県指定文化財可睡斎護国塔ほか)、城郭(熊本城「細川家舟屋形」)、歴史的近代建造物(神山復生記念館)、整備事業の復原建物(富山市北代縄文広場)にも広げ、文化財の保存環境制御に多大な功績を残した。 主な著書として『建物の断熱と防湿』(学芸出版社、1981年)、『生きている地下住居』(彰国社、1988年、共著)、『屋根の知識』(日本屋根経済新聞社、1994年、共著・監修)、『屋根の物理学』(日本屋根経済新聞社、2000年)、『新版 屋根の知識』(日本屋根経済新聞社、2003年、共著・監修)がある。1972年日本建築学会賞(論文)「建築物における熱ならびに湿気伝播に関する一連の研究」、2001年勲三等瑞宝章。

三笠宮崇仁親王

没年月日:2016/10/27

読み:みかさのみやたかひとしんのう  オリエント学者で、日本オリエント学会名誉会長、中近東文化センター名誉総裁、日本・トルコ協会名誉総裁、日本赤十字社名誉副総裁、日本フォークダンス連盟名誉総裁などを務めた三笠宮崇仁親王は、東京都中央区の聖路加国際病院にて、10月27日に心不全のため薨去した。享年100。 1915(大正4)年12月2日、大正天皇と貞明皇后の第四皇子として、東京の青山御所に生まれる。昭和天皇の末弟にあたる。学習院初等科・中等科、陸軍士官学校、陸軍騎兵学校、陸軍大学校卒業後、1943(昭和18)年に支那派遣軍参謀として南京に派遣された。44年には大本営参謀となり、陸軍少佐として終戦を迎えた。 終戦後の47年、戦争への反省から歴史を学ぶことを決意し、東京大学文学部史学科の研究生になる。古代オリエント史を専攻し、その後、歴史学者として活躍し、数多くの論文や著書、翻訳書などを発表した。 54年には日本オリエント学会の創設に尽力し、54年から76年までは初代会長、76年から1996(平成8)年までは名誉会長を務め、日本の古代オリエント史研究をながらく牽引した。 55年には、皇族としてはじめて大学の講師になり、東京女子大学の教壇に立つ。大学への通勤は国鉄を利用し、昼食は必ず学生たちにまじり学生食堂で一杯20円のキツネうどんを食べるなど、三笠宮崇仁親王の庶民的で気さくな人柄を伝える逸話が数多く残されている。東京女子大学のほか、北海道大学や静岡大学、青山学院大学や天理大学、拓殖大学、東京芸術大学でも、古代オリエント史の講義を担当した。また、テレビやラジオにも積極的に出演し、古代オリエント史の普及と啓蒙につとめた。 56年に上梓した処女作『帝王と墓と民衆―オリエントのあけぼの―』(光文社)は、石原慎太郎の『太陽の季節』(新潮社)とともに56年を代表するベストセラーとなった。 また同年、戦後初の本格的な海外調査団の1つである『東京大学イラク・イラン遺跡調査団』の立ち上げに関与し、イラクのテル・サラサート遺跡において同調査団による発掘調査開始を記念した鋤入れ式にも参加している。 日本オリエント学会創立10周年の記念事業として、64年から66年にかけて行われたイスラエルのテル・ゼロ―ル遺跡の発掘調査に関しても、オリエント学会の会長として寄付金集めなどに尽力した。 79年には、三笠宮崇仁親王の発意のもと、出光佐三や佐藤栄作、石坂泰三が協力をし、日本最初の古代オリエント研究機関として中近東文化センターが東京の三鷹に創設された。三笠宮崇仁親王殿下が総裁、名誉総裁を務めた中近東文化センターは、86年以降、トルコのカマン・カレホユック遺跡の発掘調査を実施し、現在では、世界的な研究機関となっている。 著作には、『帝王と墓と民衆―オリエントのあけぼの―』(光文社、1956年)、『乾燥の国―イラン・イラクの旅―』(平凡社、1957年)、『日本のあけぼの―建国と紀元をめぐって―』(光文社、1959年)、『ここに歴史はじまる(大世界史第一巻)』(文藝春秋、1967年)、『古代オリエント史と私』(学生社、1984年)、『古代エジプトの神々―その誕生と発展―』(日本放送出版協会、1988年)、『文明のあけぼの―古代オリエントの世界―』(集英社、2002年)、『わが歴史研究の七十年』(学生社、2008年)など多数。

井出洋一郎

没年月日:2016/10/19

読み:いでよういちろう  19世紀フランス絵画を専門とする美術史研究者で、美術評論家の井出洋一郎は、10月19日に胆管がんのため死去した。享年67。 1949(昭和24)年5月8日、群馬県高崎市昭和町に生まれる。上智大学外国語学部フランス語学科を卒業後、早稲田大学大学院文学研究科に進学し、78年に同大学院博士課程を満期退学(西洋美術史専攻)。同年、山梨県立美術館学芸員に採用される。在職中、同美術館のミレー・レクションを担当した。87年に退職し、私立の村内美術館(東京都八王子市)の顧問を務めるかたわら美術評論家として活動した。また、教育面では、非常勤講師として上智大学で西洋美術史を担当し、跡見学園女子大学、武蔵野美術大学、実践女子大学で博物館学等を担当した。1992(平成4)年に東京都青梅市に開設された明星大学日本文化学部生活芸術学科の助教授として勤務。その後、東京都八王子市の東京純心女子大学芸術文化学科教授となる。2009年に府中市美術館長、15年から翌年まで群馬県立近代美術館長を務めた。 その生涯において数多くの西洋美術史、欧米の美術館をめぐる啓蒙書、ガイドブックを執筆したが、本領は山梨県立美術館学芸員の時代から取り組んでいたジャン・フランソア・ミレーに関する研究であった。その成果は、ミレーを中心とする各種展覧会の企画監修に生かされたと同時に、長年にわたり取り組んでいたアルフレッド・サンスィエ著『ミレーの生涯』(角川ソフィア文庫、2014年)の翻訳監修と、『「農民画家」ミレーの真実』(NHK出版新書、2014年)に結実した。なお、主要な著作は下記のとおりである。主要著書:『西洋名画の謎-ミステリー・ギャラリー』(小学館、1991年)『美術館学入門』(明星大学出版部、1993年)(新版、2005年)『バルビゾン派』(世界美術双書)(東信堂、1993年)『美術の森の散歩道-マイ・ギャラリートーク』(小学館ライブラリー、1994年)『マイ・ギャラリートーク 美楽極楽のこころ』(小学館ライブラリー、1998年)『フランス美術鑑賞紀行パリ編(美術の旅ガイド)』(美術出版社、1998年)『フランス美術鑑賞紀行パリ近郊と南仏編(美術の旅ガイド)』(美術出版社、1998年)『世界の博物館 謎の収集』(プレイブックス・インテリジェンス)(青春出版社、2005年)『カラー版 聖書の名画を楽しく読む』(中経出版、2007年)『カラー版 ギリシャ神話の名画を楽しく読む』(中経出版、2007年)『絵画の見方・楽しみ方-巨匠の代表作でわかる』(日本文芸社、2008年)『聖書の名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2010年)『ギリシャ神話の名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2010年)『ルーヴルの名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2011年)『印象派の名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2012年)『ルネサンスの名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2013年)『ミレーの名画はなぜこんなに面白いのか』(中経出版、2014年)『「農民画家」ミレーの真実』(NHK出版新書、2014年)アルフレッド・サンスィエ著、井出洋一郎監訳『ミレーの生涯』(角川ソフィア文庫、2014年)『名画のネコはなんでも知っている』(エクスナレッジ、2015年)『知れば知るほど面白い聖書の“名画”』(KADOKAWA、2016年)

加藤九祚

没年月日:2016/09/11

読み:かとうきゅうぞう  国立民族学博物館名誉教授で人類学者の加藤九祚は、仏教遺跡の発掘調査で滞在していたウズベキスタンの病院で9月11日(日本時間9月12日)死去した。享年94。シルクロードに憧れ、シルクロードを遊歴し、ついに生涯発掘の場をアムダリヤ河畔に見いだし、その現場で生涯を終えた学究の歩みは、波瀾の歴史を背負う苦難の道そのものであった。 1922(大正11)年5月18日、韓国、慶尚北道漆谷(テルコク)郡若木面(ヤンモクミヨン)に生まれる。1932(昭和7)年、宇部で働く兄をたよって来日。山口県宇部市立宇部小学校に入学、韓国姓李を加藤に改称。その後、乙種長門工業学校を経て39年に宇部鉄工所に入社する。太平洋戦争が始まった41年に横浜に移住、横浜第一中学校で高等学校入学者検定試験を受け合格。42年、上智大学予科に入学し、ドイツ語を学び、翌43年に予科を仮卒業する。44年、仙台の工兵第二連隊に志願入隊し、陸軍工兵学校(松戸)を経て工兵見習士官となり、関東軍の第101連隊に配属され、ついで第139師団の工兵連隊に転属する。45年、満州東南部敦化飛行場で武装解除を受け、ソ連軍の捕虜としてシベリアの収容所を転々とする。50年に明優丸で舞鶴に上陸、帰国をはたす。翌51年に上智大学文学部ドイツ文学科に復学し、『リルケ詩論』を学ぶ。53年、卒論『ロシアにおけるゲーテ像』(ドイツ語)を書き上げ卒業。恩師で神学者の小林珍雄の紹介によって平凡社に入社し、『世界百科辞典』などの編集に関わる一方で『シベリアの歴史』(紀伊國屋新書、1963年)や訳書『西域の秘宝を求めて』(新時代社、1969年)を出版した。71年に平凡社を退職するが、その直前に出版された岡正雄の編になるネフスキーの論集『月と不死』(東洋文庫・185)の末尾に「ニコライ・ネフスキーの生涯」という長大な解説を付した。この解説が5年後熟成し、『天の蛇 ニコライ・ネフスキーの生涯』(河出書房、1976年)として結実し、大佛次郎賞に輝いた。退職したあと念願のシルクロードの旅にでる。旅の模様は『ユーラシア文明の旅』(新潮選書、1974年)に記された。この旅の途次に出合った梅棹忠夫に招かれて75年に国立民俗博物館教授に就任し、ソ連とモンゴルの民俗学標本収集と研究に従事する。83年に論考「北東アジア民族学史の研究―江戸時代日本人の観察記録を中心として」によって大阪大学学術博士号を取得する。86年、国立民族博物館を定年退職した後、相愛大学人文学部教授に就任し、ついで88年、創価大学文学部教授となり、創価大学シルクロード学術調査団を組織し、同学シルクロード研究センター長に就任する。その間にウズベキスタンとキルギスで発掘調査をおこない、日本の中央アジアにおける発掘調査活動の基盤をつくる。1995(平成7)年に『中央アジア歴史群像』(岩波新書)を上梓。98年に創価大学を退職すると、自費でウズベキスタン科学アカデミー考古学研究所と共同でテルメズ郊外のカラテパの仏教遺跡の発掘に着手する。意気に賛同した奈良薬師寺が「テルメズ仏教跡発掘基金」を創設して支援をした。この支援は逝去の日を迎えるまでつづけられた。 99年、南方熊楠賞を受賞。2001年、加藤九祚が一人で編み上げる年報『アイハヌム』(東海大学出版)を創刊する。ロシアや中央アジアに関する発掘活動の成果や活躍する考古学者の自伝、希少な論文・書籍を自在に翻訳紹介するこの活動は編集者の退職によって幕を下ろす12年までつづいた。その間09年に、この活動は「アカデミズムの外で達成された学問的業績」として高く評価されパピルス賞が贈られた。加藤九祚が古曳正夫・前田耕作とともに「オクサス学会」を創設したのもこの年である。「自由な発想と囚われない言葉、憶見や仮説の交錯からこれまでにはないなにものかが泡立ち始める思考の活動の場を生みだす」ことが狙いであった。10年、国際シンポジウム「ウズベキスタンの古代文明及び仏教―日本文化の源流を尋ねて」を東洋大学と奈良大学の協力をえて東京と奈良で開催する。同年、「ウズベキスタンにおける考古学を通じた学術交流の促進」によって外務大臣表彰を受けた。11年にはエドヴァルド・ルトヴェラゼの雄作『考古学が語るシルクロード史』(原題:中央アジアの文明・国家・文化)を翻訳出版(平凡社)、同年、瑞宝小綬章を受ける。書き下ろし『シルクロードの古代都市―アムダリヤ遺跡の旅』(岩波新書、2013年)が最後の著作となった。 16年9月3日、立正大学ウズベキスタン学術調査隊とともに終生愛してやまなかったカラテパへ入ったのが最後の旅となった。「オクサス学会紀要」3号(2017年6月)はその冒頭に、「労働者であり、学究であり、思索の人であり、行動の人であり、夢見る人であり、文筆の人であり、大地を掘り下げる人であり、人間をこよなく愛する人であり、酒盃に詩の言葉を浮かべた人であり、ひたすら人びとに愛された人」加藤九祚に追悼の言葉を捧げている。

朝日晃

没年月日:2016/08/31

読み:あさひあきら  佐伯祐三、松本竣介研究で知られた美術評論家で、広島市現代美術館副館長だった朝日晃は、8月31日に肺炎のため、東京都内の病院で死去した。享年88。 1928(昭和3)年2月11日に広島市に生まれる。広島市の旧制修道中学校を卒業後、広島県立師範学校に進学して49年3月に卒業。翌年、早稲田大学文学部芸術専修美術科に学び、52年3月に同大学を卒業。54年に神奈川県立近代美術館嘱託に採用される。61年に同美術館学芸員となり、69年に主任学芸員となる。75年より新築された東京都美術館の事業課長に転ずる。同美術館では、「戦前の前衛 二科賞、樗牛賞の作家とその周辺」(1976年)、「靉光・松本竣介そして戦後美術の出発展」(77年)、「写真と絵画 その相似と相異」(1978年)など、日本の近現代美術に関して問題提起するような意欲的な自主企画展を指導する一方、「描かれたニューヨーク展 20世紀のアメリカ美術」(1981年)、「今日のイギリス美術展」(1982年)などの国際展も率先して開催した。85年、広島市現代美術館開設準備事務局長となり、88年より同美術館開設準備室長となる。1989(平成元)年5月開館の同美術館の副館長に就任、翌年3月に退職した。以後、美術評論家として活動した。 監修にあたった佐伯祐三、松本竣介に関する画集等が多くあるが、他に主要な編著作は下記の通りである。『松本竣介』(日動出版部、1977年)『永遠の画家 佐伯祐三』(講談社、1978年)中島理寿共編『佐伯祐三 近代画家資料1』(東出版、1979年)中島理寿共編『佐伯祐三 近代画家資料2』(東出版、1980年)中島理寿共編『佐伯祐三 近代画家資料3』(東出版、1980年)『佐伯祐三-パリに燃えた青春』(NHKブックス、1980年)編集解説松本竣介文集『人間風景』(中央公論美術出版、1982年)『絵を読む 人間風景の画家たち』(大日本絵画、1989年)『佐伯祐三のパリ』(大日本絵画、1994年)野見山暁治共著『佐伯祐三のパリ』(新潮社、1998年)『そして、佐伯祐三のパリ』(大日本絵画、2001年)

林紀一郎

没年月日:2016/08/25

読み:はやしきいちろう  美術評論家で、新潟市美術館長、池田20世紀美術館長を歴任した林紀一郎は、心不全のため8月25日死去した。享年86。 1930(昭和5)年4月23日、鹿児島県出水群三笠村(現、阿久根市)に生まれる(本名林喜一郎)。幼少年期を中国北東部(当時の満州国)に過すごし、44年、牡丹江中学校2年時に帰国。53年、上智大学文学部英文科を卒業。57年から60年まで、なびす画廊(中央区銀座1丁目)にて個展を開催、また58年から60年までモダンアート展に出品。60年代から美術評論などの執筆活動をはじめ、雑誌等に幅広く寄稿をつづけた。84年4月、新潟市美術館準備室長に就任。翌年4月、同美術館開館に伴い館長に就任。1995(平成7)年3月まで在任し、同年4月から2009年3月まで同美術館顧問、また95年4月から05年3月まで、同美術館資料選定委員を務めた。同美術館在任中は、初代館長として国内外の近現代美術、郷土出身美術家の作品収集につとめ、コレクションの形成に尽力し、また後進の育成につとめた。92年から05年まで、公益財団法人池田20世紀美術館(静岡県伊東市)の館長を務め、在任中52回にのぼる企画展を開催した。幅広い美術家との日常的な交友をもとに、各作家の人柄や個性を視野に入れ、さらに創作をめぐる作品論を展開するなど、平易に論評する軽妙なスタイルで、晩年まで評論活動をつづけた。監修、解説等にあたった主要な著作は下記の通りである。分担執筆『加山又造 装飾の世界』(京都書院、1979年)共著『世界版画美術全集 第8巻 エルンスト/ミロ』(講談社、1981年)共著『現代美術入門』(美術出版社、1986年)瀧口修造共訳『アラカワ/マドリン・H・ギンズ 「意味のメカニズム」』(1979年に国立国際美術館で開催された「荒川修作の世界・意味のメカニズム」展カタログに掲載)『もの書き・恥かき・半世紀 -美の領分・交友録-』(自家出版、2014年)『続 もの書き・恥かき・半世紀 -海外作家編-』(林幸子発行出版、2017年)

吉井長三

没年月日:2016/08/23

読み:よしいちょうぞう  吉井画廊会長、清春白樺美術館理事の吉井長三は8月23日、肺炎のため死去した。享年86。 1930(昭和5)年4月29日、広島県尾道市に生まれる。本名長蔵(ちょうぞう)。旧制尾道中学在学中、洋画家小林和作に絵を学ぶ。画家を志して東京美術学校入学を目指すが、父親の反対により、48年中央大学法学部に入学。同年、同校予科在学中、絵画修学の夢を捨てきれず、東京美術学校の授業に参加し、伊藤廉にデッサンを、西田正明に人体美学を学ぶ。53年に東京国立博物館で開催された「ルオー展」を見て深い感銘を受ける。同年中央大学法学部を卒業し三井鉱山に入社するが、2年目に退社して弥生画廊に勤める。海外作品を扱う画廊が少なかった当時、フランス絵画を日本にもたらすことに意義を見出し、64年、小説家田村泰次郎の支援を得てパリに渡り、博物館や画廊を巡る。翌年、株式会社吉井画廊を東京銀座に設立。開廊記念展は「テレスコビッチ展」であった。その後、ジャン・プニー、ベルナール・カトラン、アンドレ・ドラン、アントニ・クラーベ、サルバドール・ダリらの展覧会を開催する一方、青山義雄、中川一政、原精一、梅原龍三郎ら日本の現代洋画の展覧会を開催。71年、ルオーの54点の連作「パッシオン」を購入して、同年ルオー生誕百年記念展に出品し、国内外で注目される。73年パリ支店を開設して富岡鉄斎、浦上玉堂ら文人画を紹介し、75年には現代作家展として東山魁夷展を開催。フランスではまだ良く知られていなかった日本美術を紹介して話題を呼んだ。日仏相互の芸術紹介のみならず、芸術家の国際交流の場としての芸術村を構想し、80年山梨県北杜市に清春芸術村を開設して、エコール・ド・パリの画家たちが住んだラ・リューシュを模したアトリエを建てて国内外の芸術家の制作の場とした。また、79年に武者小路実篤から1917(大正6)年に計画した白樺美術館の構想について聞いたのを契機として、83年清春白樺美術館を設立し、白樺派旧蔵の「ロダン夫人胸像」のほか、白樺派の作家たちの作品、原稿、書簡等を所蔵・公開した。1990(平成2)年ニューヨーク支店を開設。99年、郷里尾道の景観を守る目的で尾道白樺美術館を開設。同館は2007年に閉館となったが、翌年、尾道大学美術館として再び開館して現在に至っている。11年清春芸術村に安藤忠雄設計による「光の美術館クラーベ・ギャラリー」を開館。画商である一方で、小林秀雄、井伏鱒二、谷川徹三、今日出海、梅原龍三郎、奥村土牛らとの交遊でも知られる文化人でもあった。フランス現代美術を日本に紹介する一方、日本美術をフランスに紹介する画廊経営者として先駆的な存在であり、99年レジオン・ドヌール・オフィシエ勲章を、07年にはコマンドゥール勲章を受章。著書に『銀座画廊物語―日本一の画商人生』(角川書店、2008年)がある。

菊池智

没年月日:2016/08/20

読み:きくちとも  公益財団法人菊池美術財団理事長であり現代陶芸のコレクターであった菊池智は8月20日、肺炎のため死去した。享年93。 1923(大正12)年1月18日、東京築地明石町に生まれ、同地の外国人租借地で幼少期を過ごす。聖心女子大学の前身である聖心女子高等専門学校に進み、国文科を卒業する。陶芸作品との出会いは、第二次世界大戦中、実業家であった父・菊池寛実所有の炭鉱があった茨城県高萩市に疎開した折りであった。寛実は、徴用で来ていた瀬戸の陶工のために登り窯をつくる。智は陶器誕生の現場を見て「土はすべての始まるところであり、また、いつか帰っていくところである。」と語り、土からつくり出される陶器に感銘を受け、1950(昭和25)年代後半より陶芸作品の収集を始める。茶道を学び、古美術や古陶磁の収集から始めたが、次第に現代の作品へと移行していく。 74年よりホテル・ニューオータニのロビー階に内にギャラリー『現代陶芸寛土里(かんどり)』をオープンさせた。東京藝術大学教授であった藤本能道の個展で幕を開けたギャラリーは、その後東京藝術大学をはじめとする若い陶芸作家の発表の場となった。79年、ニューヨークにある百貨店ブルーミング・デールスに寛土里が出店したことをきっかけに、83年2月10日から2ヶ月間、スミソニアン自然史博物館トーマス・M・エバンス・ギャラリーで、菊池智コレクションによる「Japanese Ceramics Today」展を開催する。日本各地の作家を訪ね作品を購入するなど、若手作家を多数紹介し、出品作家100人、作品数およそ300点に及ぶ展覧会となり、好評を博した。また、スミソニアン自然史博物館の展示デザイナーであった、リチャード・モリナロリと出会い、展示デザインが作品鑑賞に与える影響に着眼する。美術館の前身となる菊池ゲストハウスで、85年鈴木藏個展「流旅転生」、1990(平成2)年楽吉左衞門個展「天問」、92年藤本能道個展「陶火窯焔」を開催した際もモリナロリに展示デザインを依頼した。その後、「Japanese Ceramics Today」展はヴィクトリア・アンド・アルバート博物館にも巡回し、日本の現代陶芸を欧米に広く紹介した。 2003年には、現代陶芸の紹介を目的として、東京都虎ノ門に「菊池寛実記念 智美術館」を開館。公益財団法人菊池美術財団の理事長を務めた。敷地内には、西久保ビル(2003年竣工)と大正時代に建てられた西洋館(国の登録文化財)、父・寛実のための持仏堂と和風の蔵がある。隔年で開催する陶芸の公募展「菊池ビエンナーレ」を主幹事業と位置づけ、陶芸作家の育成にも力をいれる。95年からは京葉ガス株式会社代表取締役会長も務めた。

坂本五郎

没年月日:2016/08/15

読み:さかもとごろう  古美術店「不言堂」創設者であり、古美術品の蒐集家としても著名な坂本五郎は、8月15日、脳梗塞により死去した。享年92。 1923(大正12)年8月31日、横浜市磯子区根岸に生まれた。父久蔵は横浜港の税関吏。十人兄弟の五番目なので五郎と名付けられた。生まれた翌日9月1日に関東大震災が発生、母キクは産後の身体にもかかわらず五郎を抱きかかえ、崩壊する家の中から子供たちと怪我を負った夫を引出し助けたという。五郎7歳の頃に父が他界し、坂本一家は八王子に移った。1931(昭和6)年、八王子市立第二尋常小学校に入学、学業のかたわら母の行商を手伝い、商いの心得をも学んだ。小学校卒業後は横浜の乾物問屋に奉公、第二次大戦をはさみ復員後は家族を養うため、古着商をはじめ様々な商売に奔走した。古美術・骨董の世界にも興味を持ち八王子で端師(仲間から買い、仲間に売る商売)を始めるが、やがて知り合いを通じて東京美術倶楽部へ出入りするようになり、本格的に古美術の道に進むようになった。 47年、浜松町に自宅兼店舗を構え、結婚。屋号「不言堂」は、「桃李不言 下自成蹊」(桃や李〔すもも〕は何も言わないが、花や果実を求めて人が集い、その木の下には自然と蹊〔こみち〕ができる)という『史記』の言葉から採ったという。坂本の商売は度胸と行動力に富んだもので、失敗を繰り返しながらもくじけずに勉強を重ね、良いものを求めて全国を回り、茶道具から陶磁器、西洋骨董まで幅広く手がけている。「私は気持ちだけでも、日本一、世界一のものを手がけてみたいといつも念じてきた。朝から晩まで、天下の名品を見つけたい、良いものは欲しい、の一念で生きてきた」(『ひと声千両』)とは本人の述懐である。51年には一流の古美術商が並ぶ京橋・中通りに店を出し、有名コレクターや研究者とも深く付き合い事業を拡大して行く。例えば、当時まだ評価の低かった中国の古代青銅器を手に入れては京都大学の水野清一教授(中国考古学)のもとを訪ね、真贋や時代性の教えを請い学んだ。研究室通いは月に1~2度、幾十年にも及び、ついには日本屈指の中国古代青銅器コレクションを築いている(現在の奈良国立博物館「坂本コレクション」)。60年には日本橋に移転。海外旅行が珍しい当時、早くも海外から古美術を仕入れている。大英博物館収蔵品に連なる古代アッシリア宮殿の有翼聖霊レリーフをロンドンで見出し日本に将来したのは、坂本の眼識と度胸、そして努力による快挙といえよう(現在、岡山市立オリエント美術館蔵)。また、68年には、坂本本人も惚れ込んだ中国・唐時代の加彩陶馬を、台湾の故宮博物院に寄贈して「里帰り」させるなど、商売を超えた「ものへの愛情」もうかがえる。 72年、ロンドンのオークション・クリスティーズで中国・元時代の青花釉裏紅大壺を1億8千万円の中国陶磁史上最高値(当時)で落札。国内外でニュースとなり、坂本は世界的な美術商として評価を高めた。それは資産家の冒険などではなく、すべてを売り払う覚悟でこの壺の獲得に一世一代の勝負をかけた坂本の度胸の勝利であり、また、中国陶磁が国際美術市場でもっと高く評価されるべきとの信念に基づく行動でもあった。その後も中国陶磁の優品を多く獲得するが、中でも元時代の染付魚藻文大壺(現在、大阪東洋陶磁美術館蔵。重要文化財)を高額落札した直後は、大名器を手にした嬉しさから、壺と一緒に風呂に入って汚れを洗い、夜半には幾度も目を覚ましてひとりでそっと壺を見たと懐古しており(『ひと声千両』)、蒐集家の純心さもうかがわれる。 80年に後進に道を譲り業界から引退、2005(平成17)年に小田原に移って隠居生活を送っていたが、2016年8月に突然に亡くなった。小柄で細身の体にスーツと蝶ネクタイ姿が業界のトレードマークだった。古美術商として、弟子には礼儀を厳しく仕込み、優秀な業界関係者を多く世に送り出した。また、多くのコレクションを各地に遺したことも大きな功績である。68年の東京国立博物館東洋館の新設に際し、饕餮文など中国古代青銅器10点を母キク名義で寄贈。02年には奈良国立博物館に約380点の中国古代青銅器を寄贈、さらに没後、九州国立博物館に「古今和歌集・伝藤原公任筆」や〓飾北斎筆「日新除魔図」をはじめ陶磁器や茶釜など約260件を寄贈、幕末の思想家佐久間象山の書画類157点を象山出身地の長野市松代に寄贈するなど、坂本の蒐集品が各地の公共機関に収蔵、活用されている。 著書に『ひと声千両―おどろ木 桃の木「私の履歴書」』(日本経済新聞社、1998年)がある。

石田尚豊

没年月日:2016/07/29

読み:いしだひさとよ  美術史家である石田尚豊は、7月29日死去した。享年93。 1922(大正11)年8月9日東京都上根岸に生まれる。1929(昭和4)年4月東京都世田谷区深沢尋常小学校入学、35年4月京華中学校入学、41年4月都立高等学校文科乙類入学。45年4月東京大学文学部国史学科に入学し、50年3月卒業した。同年4月に東京大学大学院に進み、52年3月に満期修了して、同年4月、東京国立博物館の資料課資料室員となった。64年7月東京国立博物館に法隆寺宝物館が開館し、資料課内に置かれた法隆寺宝物掛の主任となった。67年5月資料課資料室長兼法隆寺宝物掛主任となり、法隆寺宝物室の新設を目指した。70年4月資料課内に法隆寺宝物室が新設されたが、彼は、70年4月に国立歴史民俗博物館(1983年開館)の設立準備のため文化庁に出向し、文化庁美術工芸課文化財調査官(絵画部門)兼管理課長補佐となった。この間、71年に基本構想委員会が設置され、72年に基本構想案がまとめられた。それに基づいて、展示準備委員会及び展示計画委員会が設置され、資料調査と資料収集が開始された。 72年11月、再び東京国立博物館に戻り、普及課主任調査官、74年4月資料課資料調査室長。76年7月資料課長となった。この頃に、資料館(1984年2月開館)設立準備に携わった。75年11月『曼陀羅の研究』(東京美術)を刊行し、78年1月、同著によって、東京大学から文学博士を授与され、また、78年3月、同著により、日本学士院賞を受賞した。81年3月東京国立博物館を退職し、同年4月青山学院大学文学部史学科教授となった。88年2月『日本美術史論集―その構造的把握―』(中央公論美術出版)を刊行、同年11月、同著により、青山学院学術褒賞を受賞した。1991(平成3)年3月青山学院大学文学部史学科教授を退職し、同年4月聖徳大学人文学部日本文化学科教授となり、2001年4月に同職を退職した。92年11月勲三等瑞宝章を授与されている。常勤職以外に、明治大学、中央大学、東京大学、学習院大学、東京女子大学、聖徳大学にて非常勤講師をつとめ、弘前大学、東北大学、九州大学、高野山大学にて集中講義を行った。 彼の研究対象は、玉虫厨子、華厳経美術、密教美術、浄土教美術、重源、洛中洛外図屏風、職人絵と多岐にわたり、どれを対象としても、膨大な史料を読み込み、深く思考して、緻密に論理を構成する点が共通する。また、未解決の問題があると、先学や専門家に面謁し、その教えを真摯に乞うことが少なからずあったことは、彼の『日本美術史論集』の「あとがき」などに明らかである。 彼の経歴と業績については、「石田尚豊先生年譜と業績」(『青山史学』12 今野國雄教授・石田尚豊教授退任記念号、1991年)に詳しい。それ以降の著作、論文、講演等は、以下の通りである。【著作・監修・編著】『日本史写真集 続(文化編)』(土田直鎮と共同監修、山川出版社、1995年)、『聖徳太子と玉虫厨子―現代に問う飛鳥仏教―』(東京美術、1998年)、『聖徳太子事典』(編集代表、柏書房、1997年)、『ブッダ―大いなる旅路 救いの思想・大乗仏教(NHKスペシャル)』(NHK「ブッダ」プロジェクトと共著、NHK出版、1998年)、『空海の帰結―現象学的史学―』(中央公論美術出版、2004年)。【論文・講演記録・随筆】「ともしび」(『青山史学』13、1992年)、「『MUSEUM』の回想」(『MUSEUM』500、1992年)、「曼荼羅研究の現代的意義」(講演、『愛知学院大学人間文化研究所紀要』8、1993年)、「『絵仏師の時代―研究篇・資料篇(全2)』平田寛」(『日本歴史』566、1995年)、「玉虫厨子は語る」(公開講演、『鶴見大学佛教文化研究所紀要』2、1997年)、「玉虫厨子をめぐって―『文献の学』と『物の学』」(『史学雑誌』107―12、1998年)、「飛鳥の曙―小墾田新宮殿」(『学燈』95―5、1998年)、「聖徳太子の実像を求めて―アジア的視野で考察する」(『大法輪』(上)68―9、(下)68―10、2001年)、「聖徳太子とその時代―太子を貫く思想 含 聖徳太子略年表」(『大法輪』68―12、2001年)、「新しい歴史学を求めて―現象学的史学」(『文化史学』59、2003年)。

上田浩司

没年月日:2016/06/25

読み:うえだこうじ  MORIOKA第一画廊主上田浩司は6月25日、岩手県盛岡市内で老衰のため死去した。享年83。 1932(昭和7)年9月16日盛岡市に生まれる。岩手高等学校卒業。盛岡画廊は64年医師の高橋又郎によって開廊されたが、66年建物改築のため閉廊になる予定だった。上田は閉廊を惜しみ69年から本格的に運営にあたり、71年にはMORIOKA第一画廊として市内第一書店3階(60坪)へ、88年から1990(平成2)年はMORIOKA第壱画廊画廊と名をかえ中央通りへ、90年から2012年はテレビ岩手の1階に移転し再びMORIOKA第一画廊名で活動した。上田と美術との出会いは、45年盛岡市内の百貨店で松本峻介と舟越保武の2人展を見たことだった。敗戦によって価値観がすべて変わった世の中で美術の普遍性をみた。後に舟越は画廊に併設された喫茶店「舷」の看板文字を描いている。画廊で扱った作家は、東京で初個展を見て作品を購入した相笠昌義、開廊して初めて売れたオノサト・トシノブ、地元出身の小野隆夫や百瀬寿、杉本みゆき、数十年にわたり発表を支援した松田松雄などがいる。吹田文明、木村利三郎、関根伸夫、靉嘔、野田哲也、瑛九らの版画展、舟越保武、桂、直木親子の個展も開催している。若手を育てることを第一として、長い付き合いをする方針をもち、70年代は年間30近い展覧会を行なっていたが、2000年代は年数回になり、2017年8月宇田義久展が最後となった。記録集に『MORIOKA第一画廊 記録1964―2014』(2017年 MORIOKA第一画廊・舷)がある。

杉原たく哉

没年月日:2016/05/31

読み:すぎはらたくや  美術史家の杉原たく哉は5月31日、癌のため死去した。享年61。 1954(昭和29)年12月20日、東京都渋谷区に生まれる。東京都立小石川高等学校から早稲田大学第一文学部へ進学し、79年に同大学同学部美術史専攻を卒業、同大学大学院文学研究科修士課程・博士課程(芸術学・美術史)を経て88年から同大学第一文学部助手を務めた。その後、早稲田大学、群馬県立女子大学、和光大学、お茶の水女子大学、多摩美術大学、跡見学園女子大学、大東文化大学、北海道大学、愛知県教育大学、フェリス女学院大学、沖縄県立芸術大学、岡山就実大学、女子美術大学、放送大学などで講師を務め、東洋美術史などの講義を担当した。 杉原は若い頃から古代オリエントに関心を持っており、大学時代に古代中国の画像石の研究で知られる土居淑子の薫陶を受け、中国古代美術史研究に東西交渉史、比較芸術学、図像学など学際的な視点を用いて、独創的な研究を展開した。82年度に早稲田大学に提出した修士論文「七星剣について」に基づき、「七星剣の図様とその思想―法隆寺・四天王寺・正倉院所蔵の三剣をめぐって」『美術史研究』21(1984年)を発表した。この論文では従来一括りにみなされていた七星剣について、刀身に刻まれた天体文様の考察によって、二系統があることと、その思想的背景の差異を明らかにした。「銅雀硯考」『美術史研究』24(1986年)では、魏の曹操が建立した銅雀台の遺構の瓦をもって硯とした銅雀硯が、実際は300年ほど後の北斉の城の遺瓦を用いた可能性が高いことを提示し、その硯が文房の至宝とみなされ、宋・元・明・清の各時代の文人たちによって賞玩され、さらに室町時代の交易によって日本にもたらされていたことに言及し、瓦の硯が文学的・歴史的イメージの乗り物となって時空を超えて伝えられていったことを明らかにした。杉原の研究手法は、美術作品の形や文様・図様などを徹底的に観察し、幅広い文献史料を渉猟してその源泉を探り、中国から日本、古代から中世・近世、そして近現代へと伝播し、変遷する様相をダイナミックに描き出すところに最大の特徴がある。 杉原の研究は広範な地域・時代をフィールドとするが、その根本には中国古代美術があった。1991(平成3)年9月には土居淑子らとともに中国山東省の仏教史蹟調査を行っており、その内容は土居淑子・杉原たく哉・北進一「山東省仏跡調査概報」(『象徴図像研究』7・8、1993・94年)にまとめられている。主要な論文には「漢代画像石に見られる胡人の諸相―胡漢交戦図を中心に」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要 別冊(文学・芸術学編)』14、1987年)、「不動明王の利剣と中国の宝剣思想」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要 別冊(文学・芸術学編)』15、1988年)、「神農図の成立と展開」(『斯文』101、1992年)、「狩野山雪筆歴聖大儒像について」(『美術史研究』30、1992年)、「張騫図と乗槎伝説」(『象徴図像研究』8、1994年)、「聖賢図の系譜 背を向けた肖像をめぐって」(『美術史研究』36、1998年)、「始皇帝像の諸相」(『東洋美術史論叢』吉村怜博士古稀記念会編、雄山閣、1999年)、「道教と絵画」(『道教と中国思想』(講座 道教 第4巻)雄山閣出版、2000年)、「揺銭樹を支える羊―「スキタイの子羊」への射程」(『神話・象徴・イメージ:Hommage a Kosaku Maeda』、原書房、2003年)などがある。「蠣崎波響筆「夷酋列像」の図像学的考察」(『てら ゆき めぐれ―大橋一章博士古稀記念美術史論集』中央公論美術出版、2013年)は杉原の最後の論文となった。また妻の杉原篤子との共著「柳橋図屏風と橋姫伝承」は『古美術』100号記念研究論文の佳作賞を受賞し、『古美術』104(1992年)に掲載されている。 杉原は時代・地域を大局的に捉え、図像学的考察によって独創性豊かな研究を進める一方、そうした専門的な研究を、一般向けにわかりやすく紹介した著作も多い。単著には『中華図像遊覧』(大修館書店、2000年)、『いま見ても新しい古代中国の造形』(小学館、2001年)、『しあわせ絵あわせ音あわせ―中国ハッピー図像入門』(日本放送協会、2006年)、『天狗はどこから来たか』(大修館書店、2007年)などがある。ギャラリー繭において行われた漢代画像石・拓本展に関連して刊行された『乾坤を生きた人々―漢代徐州画像石の世界』(まゆ企画、2001年)は、豊富な図版とともに杉原による解説、画像石の概説がまとめられている。共著には『カラー版 東洋美術史』(美術出版社、2000年)、『中国文化55のキーワード』(ミネルヴァ書房、2016年)などがある。 杉原は、東京友禅の作家であった杉原聰(1922―2006)の長男として生まれたこともあり、父の生涯にわたる作品をまとめた『杉原聰きもの作品選 昭和・平成の女性美を彩った友禅作家 回顧展開催記念』(文京シビックセンター)図録(2012年)を編集・刊行している。

金澤弘

没年月日:2016/05/07

読み:かなざわひろし  京都国立博物館名誉館員、および元京都造形芸術大学教授の金澤弘は、5月7日に死去した。享年81。 金澤は1935(昭和10)年、大阪市に生まれた。61年、慶応義塾大学大学院修士課程史学科を修了し、同年より、京都国立博物館に勤務。87年から同館学芸課長を務めた。1995(平成7)年に同館を退官し、京都造形芸術大学芸術学科教授となり、2005年まで教鞭をとった。また、島根県文化財保護委員、仏教美術研究記念上野財団理事、頴川美術館理事、茶の湯文化学会理事をつとめた。 京都国立博物館では、「室町時代美術」展(1968年)、「中世障屏画」展(1970年)において、15世紀水墨画の画題、画派、画風、受容について多角的調査を行い、その成果を展観した。「日本の肖像」展(1978年)では頂相について、「禅の美術」展(1981年)では禅余画と詩画軸について論じ、「花鳥の美」展(1982年)では水墨花鳥画の作画理念を、「写意から装飾への変化」として展観した。また、至文堂より刊行の『日本の美術』シリーズでは、『初期水墨画』『室町絵画』『水墨画―如拙・周文・宗湛』(1972、1983、1994年)を著し、初期水墨画の成立と展開を詳述した。その業績は、室町絵画についての幅広い作品調査にもとづく優れた分析によるものであった。なかでも、『雪舟』(ブック・オブ・ブックス14、小学館、1976年)において、雪舟の生涯と作品を丹念に追求し、拙宗等楊と雪舟の同人説を否定した。 その他、共著に、『華厳宗祖師絵巻』(中央公論社、1978年)、Zen―Meister der Meditation in Bildern und Schriften (Museum Rietberg, Zurich, 1993)、『雪舟の芸術・水墨画論集』(秀作社出版、2002年)などがあり、単著に、『日本美術絵画全集 可翁・明兆』(集英社、1977年)、『日本美術全集 金閣・銀閣』(学習研究社、1979年)、『花鳥画の世界 水墨の花と鳥』(学習研究社、1982年)などがある。 また、室町水墨画を中心に、「長福寺蔵・清信筆 瀟湘八景図について」(『MUSEUM』146、1963年)、「旧養徳院襖絵について」(『美術史』55、1964年)、「相阿弥筆 瀟湘八景図(大仙院)」(『國華』886、1966年)、「雪舟筆天橋立図とその周辺」(『哲学』53、1968年)、「如拙・周文とさまざまの画派と画風」(『水墨美術大系』6、講談社、1974年)、「明兆とその周辺」(『水墨美術大系』5、講談社、1975年)、「琴棋書画図の展開」(『屏風絵集成』2、講談社、1980年)、「白衣観音図の展開」(『大和文華』68、1981年)、「瀟湘八景図の展開」(『茶道聚錦』9、小学館、1984年)、「慕帰絵の画風と構成」(『続日本絵巻大成』4、中央公論社、1985年)、「富岡鉄斎筆 蓬莱仙境図・武陵桃源図屏風」(『國華』1250、1999年)など、多数の論考をのこした。

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