本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。
(記事総数 3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
- なお『日本美術年鑑』掲載時の分類も、個々の記事中に括弧書きで掲載しました。
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没年月日:1977/04/30 洋画家榎倉省吾は、4月30日心不全のため香川県小豆郡内海町の内海病院で死去した。享年75。雅号萬象堂。明治34年7月15日兵庫県加東郡に生れ、神戸県立第一中学校を卒業した。昭和3年第15回二科展「淡路街道」「八月の淡路」が初入選し、昭和9年第21回展「アメリカ村」ほかで特待となり、同12年には会友推薦になった。昭和16年二科会友賞となり、同17年会員推挙となる。昭和18年文展無鑑賞。戦後は昭和21年行動美術協会創立会員となり、日展にも依嘱出品した。作品は専ら風景、静物を多く描いた。作品年譜昭和3年(1928) 「淡路街道」「八月の淡路」第15回二科展昭和5年 「島のバスのりば」第17回二科展昭和7年 「転轍機」「冬」「港」第19回二科展昭和8年 「丘と内海」第20回二科展昭和9年 「アメリカ村」「鎧ケ岳」「ナチス遠望」第21回二科展昭和10年 「Y港」「熊野街道」「切目の丘」「飛驒の谿流」第22回二科展昭和11年 「湖畔」「南紀の丘」第23回二科展昭和12年(1937) 「射的壕」「ダム」第24回二科展昭和13年 「風景」第25回二科展昭和14年 「南苑の戦闘」「船内静物」第26回二科展昭和15年 「北京」「祈年門」第27回二科展昭和16年 「竜城の跡」「北京の秋」第28回二科展昭和17年 「早春」「白鷺城」第29回二科展昭和22年 「港」「雨やどり」「山」第2回行動美術展昭和23年 「蓮池」「樹蔭」「かもめ」第3回行動美術展昭和24年 「湖口」第4回行動美術展昭和25年 「湖口」「合奏」「七夕」第5回行動美術展昭和26年 「朝」「昼」「夕」第6回行動美術展昭和27年 昭和28年 「津軽海峡」「木かげ」「窓」第8回行動美術展昭和29年 昭和30年 「扇」「煙」「月」第10回行動美術展昭和31年 「東京樓街門」「東京港麦秋煙」第11回行動美術展昭和32年 「馬と新芽」第12回行動美術展昭和33年 「冬」(鯱と飛行雲)「秋」(白鷺城解体)「夏」(石垣の歌)「春」(城門の歌)第13回行動美術展昭和34年(1959) 「煙」「木」「浜」「鳥」“長谷川勝人君を悼む”の文あり。第14回行動美術展昭和35年 「稲」「藁」「麦」第15回行動美術展昭和36年 「残雪」「入江」「オリーブの丘」第16回行動美術展昭和37年 「花」「月」「雪」第17回行動美術展昭和38年 「潮」「渚」第18回行動美術展昭和39年 「ミモザの道」「岬」第19回行動美術展昭和40年 「雲」「スモモの花」第20回行動美術展昭和41年 「ミモザとエリカ」「虹」第21回行動美術展昭和42年 「島の秋」「島の春」(梅とエリカ)第22回行動美術展昭和43年 「オレンヂの園」「新緑梅樹」第23回行動美術展昭和44年 「新緑連峯」「蔦もみぢ」第24回行動美術展昭和45年 「暁のオリーブ」「オリーブ園の李花」第25回行動美術展昭和46年 「花すもも」「土讃本線」第26回行動美術展昭和47年 「オリーブの岬」「画室の老梅」第27回行動美術展昭和48年 「画室のオリーブ」第28回行動美術展昭和49年 「北京の秋」第29回行動美術展昭和50年 「北京の冬」「北京の春」第30回行動美術展昭和51年 「北京の夏」第31回行動美術展昭和52年 「スモモの花」(遺作)第32回
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没年月日:1977/04/16 日本画家中村正義は、4月16日呼吸不全のため、川崎市高津区の聖マリアナ医大付属病院で死去した。享年52。大正13(1924)年豊橋市に生れ、昭和16(1941)年豊橋市立商業学校を病気療養のため中退した。療養のかたわら日本画家夏目太果に就いたが、昭和21(1946)年には中村岳陵門下となった。この年10月の第2回日展に「斜陽」が初入選となり、昭和25年第6回日展では「谿泉」が特選となった。以後も日展で好成績をおさめ、昭和35(1960)年には日展審査員となった。しかし翌年には日展を脱退し、以後は無所属として、自由で幅広い制作活動を展開する。また病のため屡々入院して絵筆に遠ざかったが、快瘉後は再び制作をつづけ独自の画風を創造して多くの作品を発表した。代表作に「源平合戦絵巻」があり、東洲斎写楽の研究をすすめ著書に「写楽」がある。そのほか昭和50年の東京展では事務局長として活躍している。略年譜昭和21年(1946) 中村岳陵門下となる。「斜陽」第2回日展(10月)昭和22年(1947) 「爽凉」日本美術院展昭和23年(1948) 「少女」第4回日展。昭和24年(1949) 「夕陽」第5回日展。昭和25年(1950) 「谿泉」(特選)第6回日展。一采社同人となる。昭和26年(1951) 「空華」第7回日展無鑑査出品。昭和27年(1952) 「女人」(特選・白寿賞政府買上)第8回日展。朝倉賞受賞。豊橋文化賞受賞。昭和28年(1953) この年より昭和31年まで病気のため、制作中断する。昭和32年(1957) 「女」第13回日展依嘱出品。昭和33年(1958) 「舞妓」(出品依嘱)第1回新日展。昭和34年(1959) 「舞子」(出品依嘱)第2回新日展。中部日本文化賞受ける。昭和35年(1960) 日展審査員。「太郎と花子」第3回新日展。個展-風景と人物-(高島屋)昭和36年(1961) 日展を脱退し、岳陵門よりも去り、以後無所属となる。「太郎と花子」朝日秀作美術展出品。ヨーロッパに旅行。昭和38年(1963) 個展-男と女-(上野、松坂屋)名古屋、御園座の緞帳制作。個展(ロンドン・キャセー画廊)昭和39年(1964) 石原愼太郎作「一の谷物語」(日生劇場)の美術を担当。映画「怪談」のための「源平海戦絵巻」展(日本橋白木屋)(國立近代美術館買上)。名古屋國際ホテル会議場緞帳制作。昭和40年(1965) 個展(東京、大阪、名古屋)昭和41年(1966) 朝日秀作美術展、現代日本美術展などに出品。個展-顔の自伝-(東京日本画廊)。(名古屋・丸栄)。名古屋中日劇場緞帳制作。ヨーロッパ、アメリカ旅行。昭和42年(1967) 病気入院。個展(新宿、紀伊国屋画廊、赤坂・ガラスの城画廊)昭和43年(1968) 個展(名古屋・丸栄)日本國際美術展出品。昭和44年(1969) 現代日本美術展出品。個展-太陽と月のシリーズ-(銀座・三越)(山種美術館買上げ。)昭和45年(1970) 『写楽』(ノーベル書房)出版。個展(名古屋・丸栄)昭和46年(1971) 「美人画の系譜」展(京王百貨店)「戦後美術の展開」展(東京國立近代美術館)等に出品。個展-佛-(大阪・松坂屋、京都・祇園画廊)昭和48年(1973) 現代日本美術展に出品昭和49年(1974) 「人人」展(日本橋・三越)出品。個展-顔の自伝(ギャラリー・ヤエス)昭和50年(1975) 個展-象徴の顔-(紀伊國屋画廊)東京展事務局長となる。昭和51年(1976) 「中村正義展」(横沢市民ギャラリー)「人人」展、「東京展」出品。昭和52年(1977) 「人人」展出品、「中村正義」展(飯田市商工会議所)
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没年月日:1977/04/08 洋画家、行動美術協会会員伊藤久三郎は、4月8日脳しゅようのため京都市北区の富田病院で死去した。享年71。明治39(1906)年3月24日京都市下京区に生まれる。大正7年京都市立美術工芸学校に入り、同9年卒業後絵画科本科に入学、同12年卒業。翌13年京都市立絵画専門学校本科(日本画)に入学、昭和3年卒業後間もなく東京駒込に移り、1930年協会洋画研究所に通った。同4年第16回二科展に「ハムのある静物」が初入選、以後同展に出品するとともに、同8年には、佐野繁次郎、佐伯米子、島崎鶏二らと新油絵展を結成し、同11年には新美術家協会に入会、同13年二科会前衛グループによる九室会に参加、同16年二科会会員となった。同20年京都へ戻り、この年行動美術協会結成にあたって会員に迎えられ、翌年の第1回展から同展に出品した。また、同28年「抽象と幻想」展(東京国立近代美術館)に「イカルス」を出品、同30年第3回日本国際美術展に「忘却」、翌31年第2回現代日本美術展に「地表」、同32年代4回日本国際美術展に「作品57」、同年第4回サンパウロ・ビエンナーレに「地表」「猜疑」「イカルス」、同40年「前衛絵画の先駆者たち」展(京都国立近代美術館)に「流れの部分」「合歓の木」「振子」を、同46年「伊藤久三郎、小牧源太郎二人展」に旧作20点を出品した。この間、同28年日吉丘高校講師、七彩工芸嘱託となり、同37年成安女子短期大学講師(40年教授、47年退官後客員教授)となって指導にあたり、同45年府立文化芸術会館、京都府ギャラリー運営委員となり、同46年には京都市美術館評議員となった。同51年京都における抽象絵画の草分けとして、京都府美術工芸功労者に選ばれた。行動展への主な出品作に「遮蔽」(8回)、「猜疑」(9回)、「ラプソディー66」(21回)、「作品70A」(25回)、「773-B(劃)」(28回)、「75a(地)」(30回)などがある。
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没年月日:1977/04/03 洋画家、十一会会員中谷ミユキは、4月3日肺炎のため武蔵野市吉祥寺の森本病院で死去した。享年77。明治33年2月10日広島県安佐郡に生まれ、共立女子専門学校を卒業。昭和5年第11回帝展に「静物」で初入選し、以降帝展、新文展に出品、光風会にも出品し、同12年第24回展に「静物」でF氏賞を受け翌年会友となり、戦後の同21年会員となったが同27年退会した。また、同21年11月に創立された女流画家協会の発起人に加わり、創立委員となり翌年の第1回展に「赤い布の静物」など3点を出品してI夫人賞を受けた。同27年光風会退会後二紀会同人となり同年の第6回展に「黄い皿」を発表、同36年まで同展に出品した。また、同33年に結成された十一会にのち会員として加わった。
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没年月日:1977/03/24 日 本画家中田晃陽は、3月24日心不全のため京都市右京区の自宅で死去した。享年75。本名一雄。明治34年5月9日神戸市に生れ、竹内栖鳳に師事した。昭和9年第15回帝展に「山の畑」が初入選し、昭和13年第2回文展では「緑蔭」が入選している。紀元2600年奉祝展には「河原」を出品し、戦後は日展に発表した。この間、大毎展、京都市展、関西展などに出品屡々受賞した。改組日展で会友となった。日展出品目録第3回日展 昭22 春晝第4回日展 昭23 春丘第5回日展 昭24 水辺第6回日展 昭25 洛北(特選)第7回日展 昭26 若狭座古山(無監査)第8回日展 昭27 初秋風景第9回日展 昭28 丘第10回日展 昭29 浅春第11回日展 昭30 池畔第12回日展 昭31 暮色第13回日展 昭32 新緑第1回新日展 昭33 新緑の杜第2回新日展 昭34 叢林第3回新日展 昭35 深秋第4回新日展 昭36 樹第5回新日展 昭37 丘第6回新日展 昭38 森(出品依嘱)第7回新日展 昭39 森(出品依嘱)第8回新日展 昭40 くぬぎ林(出品依嘱)第9回新日展 昭41 北山(出品依嘱)第10回新日展 昭42 水辺(出品依嘱)第11回新日展 昭43 淀(出品依嘱)
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没年月日:1977/03/22 大正後期に前衛的な美術運動の推進者で画家でもあった劇作家、演出家の村山知義は3月22日午前6時17分、横行結腸ガンのため東京・千駄ヶ谷の代々木病院で死去した。享年76であった。 村山知義は、明治34年(1901)1月18日、東京都千代田区に生まれ、大正10年(1921)第一高等学校を卒業、東京帝国大学文学部哲学科へすすんだが、同年12月哲学研究のためベルリンへ留学した。ベルリンへ着いて間もなく、同地の前衛的な芸術に熱中して絵画へ転じ、カンディンスキー、アーキペンコ、シャガールなどに傾倒、ロシア構成主義へひかれていった。特定の画家につくこともなく、画廊、展覧会をめぐって独学、「コンストルクチオン」「あるユダヤ人の少女像」(いずれも東京国立近代美術館蔵)、「美しき乙女に捧ぐ」などコラージュや抽象的な作品を製作し、デュッセルドルフの「若きラインラント」主催国際美術展に参加した。大正12年1月に帰国し、未来派、二科会系前衛集団アクションなどの活動が始まっていた大正期前衛美術運動の渦中にとびこむこととなった。大正12年5月、神田文房堂において「村山知義・意識的構成主義的小品展」を開催、ドイツから荷物が届かないままに帰国後の作品を展示、また美術雑誌に精力的に日本の前衛美術の批判や、自己の主張する意識的構成主義の論稿を発表した。同年7月には柳瀬正夢、尾形亀之助らとダダイズム的な集団マヴォ(MAVO)を結成し、8月展覧会を開催した。また翌大正13年7月には雑誌『マヴォ』を創刊(翌14年6月までに7号を発行)した。同年11月、築地小劇場第16回公演「朝から夜中まで」(ゲオルグ・カイザー作、土方与志演出)の舞台装置を担当し、その構成派的作風が注目され話題となった。また同13年10月、前衛的集団の合同呼びかけによって成立した三科造型美術協会に参加した。三科は展覧会開催と同時に大正14年9月30日、築地小劇場で「劇場の三科」を開催(今日のハプニングに近い)したが、その後解散、村山もしだいに美術から離れて演劇運動へ転進していった。
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没年月日:1977/03/21 洋画家、元一水会会員高森捷三は、3月21日心不全のため死去した。享年69。明治41年2月22日石川県鳳至郡に生まれる。大正14年画家を志望して上京、林重義に師事、翌年第13回二科展に「風景」2点が初入選、同年から二科展とともに日本水彩画会にも出品を続けた。昭和3年1930年協会研究所へ入り、翌年には同展にも出品したが、同5年日本プロレタリア美術家同盟へ加盟し、同年の第三回展に大作「被告会議」他を出品したが撤回され、翌第4回展には、「東セルの兄弟しっかりやろう」、第5回展「労働者習作」を発表した。同7年日本共産党員となったが同年検挙され同9年出獄、翌10年から再出発して二科展に出品した。同12年からは一水会に出品したが、同5回展以後は展覧会出品を止めた。戦後、同21年同士と現実会を組織したが翌々年解散、同34年には友人と斑会を組織した。また同25年から8年ぶりに一水会にも出品をはじめ、同26年会員となり、同29年第16回一水会展出品作「船のおかみさんたち」で優賞を受けたが晩年は退会し無所属となった。同38年3月から11月まで渡欧、主にパリを中心に各国を巡遊し、翌年滞欧作による個展を開催した(文春画廊)。一水会の出品作には他に、「水の上」(第14回)、「火」(第17回)などがある。
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没年月日:1977/03/21 洋画家、日本水彩画会会員丹野良輔は3月21日死去した。享年77。明治32年11月18日青森市に生まれ、青森県立師範学校卒業後上京し曾宮一念に師事、また同舟社でデッサンを学んだ。昭和23年日本水彩展の出品作で三星絵具賞を受け日本水彩画会会員となり、同25年委員となった。また、光風会展、新槐樹社展にも出品、同36年新槐樹社会員、翌37年同委員となった。日本水彩展の出品作には、「静物」(第39回)「岬の家」(第41回)「外房漁港」(第45回)「曇り日の磯」(第60回)などがある。
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没年月日:1977/03/11 日本画家亀井玄兵衛は、3月11日肝臓ガンのため京都市上京区の上京病院で死亡した。享年75。本名英一。旧号藤兵衛。明治34年3月25日和歌山県湯浅町で生まれ、大正8年上洛し、山田耕雲師方に寄寓した。初め号藤兵衛を名乗り、昭和28年玄兵衛に改めた。昭和7年京都絵画専門学校を卒業、引続き研究科に入学した。早くより創作木版画を手がけ帝展、春陽会等に作品を発表した。前者に「理髪室」(11回帝展)があり、後者には「花」(第11回)、「車中」(第12回)、「椿花二種」(第13回)などがある。昭和12年以降は専ら青竜社に作品を発表し、昭和41年同社解散に至るまでここを拠点とした。この間、昭和17年社友に推挙され、同25年社人となり、また屡々受賞している。同社解散後は同年6月同志と東方美術協会を創立、昭和52年東方美術協会第11回展では、最後の作品となった「花籠」を出品した。また毎日新聞社主催の日本国際美術展、現代日本美術展にも招待出品し、前者に「風景」(第3回)、「台風」(第4回)、「かいぱん」(第5回)など、後者に「谷」(第1回)がある。そのほか京都、大阪等での個展も数多く開催している。川端竜子に私淑し、師の作風でもあった豪快な画面に特色を示した。青竜社出品目録昭和12年 9回「甲胄」(二曲一双)昭和14年 11回「舩鉾」(二曲片双)昭和15年 12回昭和16年 13回「渓」(二曲一双)昭和17年 14回「懸繍」昭和18年 15回「野鍛冶奉公」(六曲片双)昭和20年 17回「深秋」昭和21年 18回昭和22年 19回「S先生」昭和23年 20回「賀茂の踊子」昭和25年 22回「母子像」昭和26年 23回「つきふるゆき」昭和27年 24回「谷水」昭和28年 25回「顔」「少女」昭和29年 26回「石」「奔流」昭和36年 33回「みのり」昭和37年 34回「くつみがき」昭和38年 35回「捻じれた樹」昭和39年 36回「文楽」昭和40年 37回「観音立像」
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没年月日:1977/02/23 日本画家宇田大虚は、2月23日肺ガンのため京都市伏見区の国立京都病院で死去した。享年78。本名喜三郎。明治32年12月28日大阪市に生れ、大阪育英高等学校を卒業し、堂本印象の東丘社に入塾した。最初は花鳥を専門とし、東丘社幹事をつとめた。日展には昭和24年第5回展以降殆ど毎回の出品が見られ、主なもの下記の通りである。「池頭」(昭24)、「閑日」(昭26)、「建設」(昭27)、「船骨」(昭33)、「網を干す」(昭35)、「静閑」(昭43)など。
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没年月日:1977/01/29 日本画家川崎小虎は、1月29日老衰のため東京都杉並区の自宅で死去した。享年91。本名隆一。明治19年5月8日、中野金之助、あゆの長男として岐阜市に生まれた。家は名古屋に在ったが、父が岐阜県庁に勤務のため同市で生まれた。祖父川崎千虎は、明治画壇の大家として知られ、父は余技に南画と詩文をよくし、母も画道に親しんだ。岐阜師範附属尋常小学校に入学したが在学3年にして上京し、祖父千虎に大和絵を学んだ。根岸尋常小学校に入学するが、千虎が佐賀県有田陶芸学校長に赴任したため同行し、白川尋常小学校に入学、同時に有田陶芸学校専科で絵画と図案を学んだ。明治30年再び上京し、根岸尋常小学校に再入学した。またこの頃近くに小堀鞆音、安田靱彦がいて、屡々訪問して絵や故実を学んだ。同32年岐阜にもどり、翌年岐阜県立岐阜中学校に入学し、昆虫や植物に親しんだ。明治35年(1902)川崎千虎は68歳をもって没するが、その後は門下の小堀鞆音に師事し、同38年東京美術学校に入学した。在学中下村觀山、川端玉章、寺崎広業、小堀鞆音、結城素明、松岡映丘に日本画を、藤島武二、和田英作に洋画を、高森砕巌に南画をそれぞれ学んだ。明治43(1910)年東京美術学校を卒業し、その後3年程小、中学校図画教師として教職にあった。また同45年には新日本画の研究会行樹社を同窓の広島晃甫、川路柳虹らと結成し、赤坂三会堂で3回程展覧会を開催した。大正になってからは作品を主として文展、帝展に発表し、前者には「花合せ」(10回)があり、後者には「伝説中将姫」(2回)、「萌え出づる春」(6回)などがある。この間、大正6年31才で神谷清子と結婚し、翌年長女すみ子が、ついで翌8年次女あい子が誕生し、大正14年には長男鈴彦が誕生した。この年、帝展委員に推挙され、昭和2年には帝展審査員となり、以後帝展、新文展、日展等屡々審査員をつとめた。また大正12年第1回展を開催した日本画会革新には毎回出品をつづけ、昭和4年第7回展には後年代表作となった「オフィリヤ」の出品がある。この年帝國美術学校(現武蔵野美術大学)の教授となり、次男春彦が出生している。翌昭和5年には朝鮮美術展(9回)審査のため渡鮮し、各地に写生旅行を行い、その後も台湾、満蒙へ写生旅行をしている。昭和6年師の小堀鞆音は没したがその門下生による革丙会、東京美術学校卒業生の東邦画会等に官展外では出品し、さらに昭和14年には小堀鞆音門下生の朱弦会が結成され、これにも出品した。翌昭和15年には従軍画家として北支、満蒙へ旅行、また長女すみ子が東山魁夷と結婚した。昭和17年には第21回朝鮮美術展審査員として渡鮮し翌18年には東京美術学校教授となった。またこの年、加藤栄三、山本丘人、山田申吾、小堀安雄、東山魁夷の5名で國土会を結成し、のち高山辰雄、橋本明治らも加わり毎年高島屋で展覧会を開催し第7回に及んだ。翌19年東京美術学校教授を辞任し、山梨県中巨摩郡落合村に疎開し多くの写生をのこしている。戦後は、日展、日本画院展を中心に作品を発表、また昭和36年3月には初めての個展を日本橋高島屋で開催、15点を出品し、この年5月日本芸術院恩賜賞を受賞した。昭和38年77歳を迎え、その記念として喜寿記念展を銀座松屋で開催した。同42年には武蔵野美術大学名誉教授となったが、翌年1月脳血栓で倒れ入院した。半年後に回復するが以後左手で制作することが多くなった。昭和45年9月には大阪梅田阪神百貨店で、毎日新聞社主催により画業60年記念川崎小虎展を開催し、代表作70点を出品した。なお、没後の昭和53年2月にも山種美術館で「川崎小虎の回顧」展を開催し、約100点が出品された。 小虎はこのように大和絵に出発し、東京美術学校では他の伝統的諸画派及び洋画を学んだので、その作品は確かな日本画技法の上に立った、新しい感覚のものであった。作風は地味で堅実な傾向にあったが、画面は甘美な情緒の漂うロマンチックな画情の持味に特色を示した。なお晩年は水墨画も多く描いている。作品歴明治43年 「草合せ」(卒業制作)明治44年 「歌垣」2回國民美術展。明治45年 「雨後」「夜の蔵」「うどんげの花を植える女」「童謡(天平の少女)」「黒衣の支那美人」「朝の牧場」「聖書をもつ少女」行樹社展。大正3年 「月草」(初入選)大正4年 「人形作り」第3回國民美術展。大正6年 「御産養」第11回文展。大正7年 「起願」第12回文展。大正9年 「伝説中将姫」第2回帝展。大正10年 「囲碁」第3回帝展。大正11年 「丘の藥師堂」第4回帝展。大正12年 「釣二題」日本画会革新第1回展。大正13年 「春の訪れ」第5回帝展。「砂丘」日本画革新第2回展。大正14年 「萌え出づる春」第6回帝展。「青い鳥」日本画会革新第3回展。「狐火」第1回聖徳太子奉賛展。「西天求法」第7回帝展。昭和2年 「豆」「ばら」「茄子」日本画会革新第5回展。昭和3年 「ふるさとの夢」第9回帝展。「源氏物語絵巻」(11巻54帖)尾上柴舟を中心に松岡映丘、中村岳陵ら6名により制作。昭和4年 「オフィリヤ」日本画会革新第7回展。昭和5年 「こだま」第11回帝展。「踐祚」明治神宮奉讃会聖徳記念絵画館。「春」第5回東台邦画会展。昭和6年 「岩清水」第6回東台邦画会展。「荒凉」第12回帝展。「壺と翁草」「汀の朝」第10回革丙会展。昭和7年 「牧笛」第13回帝展。「つぐみ」第11回革丙会展。昭和8年 「童謡」第14回帝展。「柏に栗鼠」第8回東台邦画会展。「南国の鳥」第12回革丙会展。昭和9年 「森の梟」第15回帝展。「梟と雛」「壺に猫柳」第9回東台邦画展。「木菟」第13回革丙会展。「枯木に梟」第14回愛知社展。昭和10年 「さぼてん」第10回東台邦画会展。「蘭」第14回革丙会展。昭和11年 「山・浜」文展招待展。「猿」「芥子」第11回東台邦画会展。「あざみと壺」第15回革丙会展。「麦と野鼠」日本画会革新第14回展。昭和12年 「焼野の春」第16回革丙会展。「そよふく風」第1回大日美術院展。昭和13年 「七面鳥」第2回新文展。「雲海」第13回東台邦画会展。「ひまわりとかんな」第2回大日美術院展。昭和14年 「崖」第3回新文展。「麦とギリシャ壺」「さぼてん」「砂丘の夕」第3回大日美術院展。「小兎」「冬瓜に鼠」「海芋」第1回朱弦会展。(小堀鞆音門下)昭和15年 「沼の生活」ニューヨーク万國博。「木蓮」紀元2600年奉祝展。「沼三題」「冬日」「みそさざい」第2回朱弦会展。「磯風」第2回日本画院展。昭和16年 「雄飛」第4回新文展。「雨後の砂浜」海洋美術展。「砂浜」「葉牡丹」第4回大日美術院展。「南国攻略戦」陸軍美術展。「雪の朝」第3回日本画院展。昭和17年 「仔鹿」「海芋」第5回大日美術院展。「向日葵の実」第4回日本画院展。「摘草」「仔犬」昭和18年 「蒙彊の秋」第6回新文展。「黍に雀(金風)」「兎」「早春」「仔鹿」「昼顔(あひるの子に昼顔)」「初夏」第1回國土会展。「砂丘」第6回大日美術院展。昭和21年 「木の実拾い」第1回日展。「木の間に遊ぶ」第2回日展。昭和22年 「支那町の宵」第3回日展。昭和23年 「佐保姫」第4回日展。「麦秋」第2回毎日現代展。「若葉の林」第8回日本画院展。昭和24年 「小梨の花」第5回日展。「裏町」第9回日本画院展。昭和25年 「仔兎」「ばら」第6回國土会展。「卓と野草」第6回日展。「裏町」「橋」昭和26年 第1回森々会展。川崎塾々展「野の草」第7回國土会展(國土会解散)。「舗道」第7回日展。昭和27年 「山羊」第2回森々会展。「白鳳凰」桑港現代美術展。「ジャンク」第8回日展。「カラーの花」第12回日本画院展。絵師の旅絵巻制作。昭和28年 「つる草(夕顔)」第3回森々会展。「鵜戸の産屋」第9回日展。「秋の園」第13回日本画院展。昭和29年 「葉牡丹」第4回森々会展。「望郷」第10回日展。「洋蘭」第14回日本画院展。「若芽」第7回美術協会展。昭和30年 「城外」第11回日展。昭和31年 「薄氷」第12回日展。「たこ壺に猫柳」第16回日本画院展。昭和32年 「砂丘」第13回日展。「秋の草」第17回日本画院展。「クリスマス草」第10回美術協会展。「春の女神」深川八幡宮のために制作。昭和33年 「白土の丘」第1回新日展。昭和34年 「靜韻第2回新日展。「秋の草」第18回日本画院展。「樹蔭(仔狸)」第12回美術協会展。「勅使参向図」靖国神社大祭記念のため制作。昭和35年 「室内」第3回新日展。「裏町」第13回美術協会展。昭和36年 川崎小虎作品展「猫柳」「麦」「野草」「陽だまり」「秋果」「アロウカシヤ」「あざみ」「白い花」「七面鳥」「梟」「稲むら」「灯」等(日本橋・高島屋)「秋瓷」第4回新日展。昭和37年 「銅鐔」第5回新日展。「よしきりの巣」「梟」「滝」(以上水墨画)昭和38年 「沈鐘」第6回新日展。昭和39年 「薄明」第7回新日展。昭和40年 川崎小虎水墨画展「孤舟」「野の鳥」「ガード下の夕」等、(日本橋・高島屋)「深山の春」第8回新日展。昭和41年 「白い花」第9回新日展。昭和42年 「ななかまど」第10回新日展。昭和43年 「曠野」第11回新日展。昭和44年 川崎小虎作品展「猫柳」ほか20数点。(銀座・村屋)「海辺」改組第1回日展。昭和45年 川崎小虎展「仔犬」ほか30点(北辰画廊)画業60年記念川崎小虎展(梅田阪神百貨店・毎日新聞社主催)「初夏の森」改組第2回日展。昭和46年 川崎小虎水墨画展「荒磯」「富士山」「鵜」ほか38点(北辰画廊)。「谷間の雨」改組第3回日展。昭和47年 川崎小虎展。水墨と陶器(北辰画廊)「雪靜か」改組第4回日展。昭和48年 「森の梟」(絵と随筆集明治書房)。川崎小虎作品展(ミニチュアによる)(高島屋)「仔鹿の秋」改組第5回日展。昭和49年 「墨彩画の歩み」川崎小虎展(「林」「薫風」「蕗のとう」「雪の街灯」等、銀座松屋、北辰画廊)昭和50年 「日本の四季展」(陶芸家坂倉新兵衛と共催)「行く秋」改組7回日展。「曠野」「水辺」制作。昭和51年 川崎小虎展(北辰画廊)。「七面鳥」改組8回日展。「秋」制作。昭和52年 川崎小虎展(北辰画廊)1月29日没昭和53年 2月「川崎小虎の回顧」展開催。(山種美術館)3月川崎小虎追悼展(北辰画廊)9月、日本画の巨匠川崎小虎展(名古屋松坂屋)昭和54年 川崎小虎小品展(北辰画廊)
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没年月日:1977/01/29 日本画家で彫刻もよくした山田眞山は、1月29日過労による脳血センのため沖縄県宜野湾市の自宅で死去した。享年91。明治18年那覇市に生れ、14才で上京した。戦前は中国の北京美術学校教授をつとめ、帰国後の昭和10年には明治神宮外苑絵画館の「琉球藩設置」の壁画を制作し代表作となった。戦後は昭和32年以来、糸満市摩文仁の丘に建つ平和記念堂に安置するための平和像の制作に打込み、その完成が間近であった。
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没年月日:1977/01/19 洋画家、日展会員で十柯会創立会員の柳瀬俊雄は、1月19日肺がんのため東京港区白金台の東京医科学研究所付属病院で死去した。享年66。明治43年大阪に生まれ、東京の旧制五中卒業後、日本大学へ進んだが中退、文化学院を経て昭和5年本郷絵画研究所で岡田三郎助に師事、春台美術協会会員となり、のち中村研一の指導を受けた。同8年帝展に初入選し、以後官展に出品を続けた。戦後の同21年光風会会員となり、同26年第5回日展に「仰臥」で特選・朝倉賞を受賞、翌27年光風会評議員、同審査員、日展委嘱となった。同36年ヨーロッパに遊学、同39年新日展第7回展に出品した「開幕」で菊華賞を受け日展会員となった。同42年第10回日展では審査員をつとめた。同45年光風会を退会する。改組日展への出品作には、「樹下聴音」(第1回)、「横臥母子」(第4回)、「オダリスク」(第5回)、「対話」(第9回)などがある。
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没年月日:1977/01/05 洋画家、新構造社会員武藤弘之は、1月5日頸骨々折のため死去した。享年64。明治45年3月3日埼玉県入間郡に生まれる。埼玉師範学校卒業後、昭和6年から岡田三郎助に師事、同8年白日会展に入選し、以後旺玄会、新構造展に出品入選した。同15年渡鮮し京城に在住、同17年第22回朝鮮総督府美術展出品作「街」が総督府買上げとなり、翌年円光会会員となる。同21年引揚げ後挿絵界で活躍、同36年新構造社会員となり、同45年第42回新構造展に「冬の虹」で三村賞を受賞、同48年の第44回展では「壁」で岡田賞を受賞、さらに同51年の第48回展では「武蔵野の森」で東京都知事賞を受けた。この間、同46年に坂戸美術協会をおこし会長となったほか、埼玉県美術教育連盟副連盟長、入間地区美術教育研究会長をつとめた。
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没年月日:1976/12/16 日本画家幸田春耕は、12月16日心筋こうそくのため京都市の鞍馬口病院で死去した。享年79。本名賢。明治30(1897)年1月15日徳島県名西郡に生れ、大正8(1919)年山元春挙に師事した。昭和9年京都市立絵画専門学校卒業、官展に出品、帝展第9回「軍鶏」、第10回「群鶏」、第15回「睡蓮」などがあり、昭和16年第4回新文展「水禽」、昭和22(1947)年第3回日展「蓮池」、第3回「立木」があり、新日展第1回では「向日葵」、第3回「向日葵」、第4回「睡蓮」などがある。そのほか、紀元2600年奉祝展「蓮」がある。昭和49年無所属となったが、専ら花鳥画を描きつづけた。カトリック教徒。
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没年月日:1976/12/03 日本画家川上拙以は、12月3日心筋こうそくのため京都の専売公社病院で死去した。享年75。本名昌薫。明治34(1901)年5月1日愛媛県新居郡に生れ、京都市立絵画専門学校を卒業した。西山翠嶂に師事し、第4回帝展に「淨瑠璃寺」(二曲屏風一隻)が初入選した。ついで第5回「平和」、第6回「浅春余情」、第8回「馬郎婦」、第11回「孟母」(二幅対)、第12回「青葡萄」、第13回「池畔」などがある。昭11年文展招待展には「清風聽声」を出品し、京都市展、大阪市展などにもそれぞれ委員、無鑑査等により出品している。戦後は、第6回日展(1950)に「浦上の廃堂」(出品依嘱)、第9回「姉妹」(出品依嘱)、第12回「斎座」(出品依嘱)などがあり、昭和33年改組後も第1回展(1958)「緑衣の女」(出品依嘱者)、第3回「赤い作業場」などの作品がある。以上のほか所属画塾の塾展青甲社展にも出品し、戦前は風景花鳥を得意としたが、戦後は人物画を多く描いた。
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没年月日:1976/11/10 日本画家木村斯光は、11月10日心筋こうそくのため、京都市の鞍馬口病院で死去した。享年81。本名健吉。明治28(1895)年5月9日京都市に生れ、京都市立美術工芸学校、同絵画専門学校卒業。大正7(1918)年菊池契月に師事した。同10年第3回帝展に「春宵」が初入選し、以後連年入選をつゞけ、第10回展に「牟礼の義経」では特選となり、翌年には無鑑査出品となった。帝展末期の頃には病がちのため出品もなく、その状態が戦後28年までつゞいた。昭和29年第10回日展に「静謐」を出品、第12回展では依嘱出品として「薄暮」を出品した。新日展にも委嘱出品し、「イヤリング」(第1回)、「序ノ舞」(第3回)、「鼓」(第6回)、「応接間の女」(第10回)などがある。昭和44(1969)年日展改組後は出品を止めたが、同48年には「京の百景」(京都府主催)のために「時代祭」を描いている。また昭和26年から29年にわたり東京三越で個展を開催、同42年には悠采会を設立し、京都高島屋で展覧会を開き、10回に及んだ。作品は専ら人物画を描き、ことに美人画を得意とした。主要作に「立華」(第6回帝展、京都市美術館蔵)、「牟礼の義経」(第10回帝展)などがある。
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没年月日:1976/10/31 洋画家、挿絵画家土井栄は、10月31日急性心衰弱のため埼玉県入間市の原田病院で死去した。享年60。本名栄司。大正5(1916)年1月9日山形県飽海郡に生まれ、昭和9年から本郷絵画研究所で岡田三郎助、辻永、中村研一らに師事、同13年菊池寛の小説の挿絵でデビュー以来、主に新聞、雑誌小説の挿絵画家として活躍した。はじめ自由美術協会に属したが、同39年退会し、同年の主体美術協会創立に参加、会員として制作活動を続けた。この間同40年以来3回にわたり欧州・地中海方面へスケッチ旅行にでかけ、たびたび個展を開催した。主体美術展の主な出品作に「牛と馬とA」(第8回)「轍」(第11回)「コンポジション」(第12回)などがある。
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没年月日:1976/09/01 もと二科会会員、無所属の洋画家、名井萬亀は、9月1日午前7時50分、脳軟化症のため東京都豊島区の自宅で死去した。享年80。名井萬亀は、明治29(1896)年2月1日、広島市に生れ、広島中学校から海城中学校に編入学、卒業後上京して本郷洋画研究所に学んだ。兵役に服務したあと家事に従事するかたわら絵画にたずさわったが、大正15年(1926)渡仏し、昭和8年(1933)まで滞在しサロン・ドートンヌ、アンデパンダン展など出品した。昭和11年東京上野で滞欧作による個展を開催、翌12年第24回二科会展に「静物」「風景」の2点を出品入選している。戦後は一時二科会に属したが直に脱退した。読売アンデパンダン展にも出品したが、その後は主として個展を開催して作品を発表していた。
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没年月日:1976/08/24 洋画家、版画家のアート・クラブ会員、小野木学は、8月24日午前3時30分、じん臓がんのため東京・千代田区の九段坂病院で死去した。享年52。小野木学は、大正13年(1924)1月13日東京都杉並区に生まれ、戦中から病弱であったため療養生活にあって絵画を独学独習、昭和28年(1953)第17回自由美術展に初めて作品「民話」を出品入選となった。昭和32年自由美術協会会員に推挙されたが、同38年退会し、以後は主として個展で発表活動をつゞけ、また版画でも国際展に出品授賞するなどの活躍をみせた。沈んだ色彩と簡潔なフォルム、独特の幾何学的な抽象絵画で注目され、また、絵本作家としても知られ、絵本挿画の制作も多いが、文・絵ともに作者の自作による『さよならチフロ』(こぐま社刊)、なかでも『片足駝鳥のエルフ』(ポプラ社刊)は昭和45年度(1970)の第19回小学館絵画賞を授賞した。内外のいくつかの美術館にも作品が収蔵され、今後の活躍が期待されていた。略年譜大正13年(1924) 1月13日、東京・杉並区に生まれる。昭和28年 10月、第17回自由美術展に「民話」入選。大村連、加藤一らとグループ金曜会を結成。昭和30年 10月、第19回自由美術展「説得」出品。昭和31年 5月、村松画廊で第1回個展を開催。5月村松画廊で第2回個展。昭和32年 10月、第21回自由美術展「木馬と少年」、佳作賞を受け、会員に推挙される。昭和33年 8月、第2回シェル美術賞展に入選、佳作賞。10月、第22回自由美術展「装馬」「かほ」昭和34年 6月、村松画廊で第3回個展。10月、第23回自由美術展「戦史」。シェル美術展出品、2等賞をうける。昭和35年 秋山画廊で第4回個展。第4回安井賞展に出品。昭和36年 渡欧。10月、第25回自由美術展「ユニコーン」。昭和37年 渡欧。10月、第26回自由美術展「普通の風景」1、2。駿河台画廊企画展に出品。昭和38年 6月、秋山画廊で第5回展個展。自由美術協会を脱会。グループ金曜会を退会。昭和39年 5月、第6回現代日本美術展コンクール部門に「普通の風景」入選。秋山画廊で第6回個展。この年、埼玉県熊谷市駅前の藤間病院に砂岩によるレリーフの壁画装飾「生成」を制作する。昭和40年 4月、椿近代画廊で早川重章との二人展。7月、秋山画廊で第7回個展。昭和41年 9月、秋山画廊タブローによらない作品展に出品。昭和42年 9月、秋山画廊で第8回個展。昭和43年 7月、秋山画廊で版画展。11月、第6回東京国際版画ビエンナーレ展に「風景―RO」「風景―Y」出品。昭和44年 6月、秋山画廊で第9回個展。この年、第8回リュブリアーナ国際版画ビエンナーレ展に出品、ユーゴスラビア買上げ賞。この年、アメリカ、シンシナティ美術館に作品収蔵される。昭和45年 アメリカ、ロックフェラー財団に作品収蔵される。自作絵本『片足駝鳥のエルフ』(ポプラ社刊)により第19回小学館絵画賞をうける。昭和46年 5月、第七画廊で第10回個展。7月、ギャラリー・ムカイで版画による個展。ブリュッセル現代日本画展に出品。昭和47年 東京国立近代美術館に版画「風景(点)―A」「風景―706」「風景―S.H.I」購入収蔵される。ポンベイ現代日本版画展、ワルシャワ現代日本版画展にそれぞれ出品する。雑誌『群像』の装幀を年間担当する。11月、第七画廊で第11回個展。昭和48年 横浜市民ギャラリー・今日の作家展に出品。11月、みゆき画廊で版画による個展。昭和49年 1月、第七画廊で第12回個展。同月、くぼた画廊で第13回個展“小野木学の軌跡”開催。11月、横浜市民ギャラリー・今日の作家展に出品。同月、アテネ画廊版画グループ展“伍人”に出品。メキシコ現代日本版画展に出品。第6回日本芸術大賞候補にあげられる。昭和50年 1月、第七画廊で第14回個展。3月、九州サン画廊(久留米市)作品展に出品。7月、ギャラリー・ココ、スルガ台画廊のグループ展に出品。10月、大分O.B.S美術サロン作品展に出品。この年、文化庁、熊本県立美術館に作品収蔵される。昭和51年 7月、スルガ台画廊のグループに出品。ベルギー・ゲント現代日本版画展に出品。イタリア・フェラーラ現代版画展(南天子画廊企画)に出品。8月24日、東京・千代田区九段坂病院において死去。
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