本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





難波田史男

没年月日:1974/01/29

特異な作風で注目を集めつつあった難波田史男は、九州旅行の帰途、1月29日未明、小倉発神戸行きのフェリー「はりま」より転落、溺死した。遺体は1月以上あとの3月7日、香川県三豊郡の粟島沖2キロ附近で底引き網操業中の漁船によって発見された。難波田史男は、抽象画の画家、難波田龍起の二男で早稲田高等学院卒業後、村井正誠、山本蘭村などの指導をうけたが、独自に内的世界を探索し、曲折をへたあと早稲田大学文学部美術科に入学、在学中、大学紛争を経験、その苦悩の傷痕をひきづりながら制作し、卒業論文を執筆した。数度にわたり個展を開催、パウル・クレー風の思考の痕跡を刻みつけるような作品は一部の鑑賞者、批評家の注目をひきつけていた。フェリーからの転落は、事故によるものか、自殺であったか詳かではない。 略年譜昭和16年 4月27日、父龍起、母澄江の次男として東京都世田谷区に生まれる。昭和20年 3月、東京空襲が激しくなり母の出生地山口県へ母、兄紀夫、弟武男と疎開する。11月、経堂の家へ帰る。クレヨンで幼時の戦争恐怖のイメージにつながる飛行機や火を吐く戦車などを描いている。昭和23年 4月、世田谷区立桜丘小学校へ入学。小学校時代に描いたものでは、スケッチ板の油絵「自画像」「赤い家のある風景」「動物園のキリン」(1949)などがある。52年にも油絵「自画像」や「静物」があるが、それは図工の教師勝田寛一氏(モダン・アート協会員)のすすめで描いたものらしい。昭和29年 4月、世田谷区桜丘中学校へ入学。真面目に諸学科に励んで優等生だったが、先生や親に叱られるのを極端に嫌う性質があった。昭和32年 3月、中学校卒業。都立青山高校にも合格したが、本人の希望で早稲田高等学院に入学。しかし、早稲田に抱いていた憧憬の夢が消え、一学期にしてすでに煩悶し、単身東北に旅する。昭和33年 このとし読書が旺盛になる。日記にヒルティの「幸福論」の読後感があり、『こういう良いものを知らずに死ぬのはいやだ。人間自身を知らずに死ぬのはいやだ。読むんだ。読むんだ。生きるんだ。生きるんだ。』と記す。ベートーヴェンの言葉にも大変感動し傾倒する。学院では絵画よりむしろ音楽を好んで選択している。昭和34年 8月、外房に避暑に行き一週間ほど泊り、無報酬で宿の営む海辺の売店を少女と一緒に手伝う。少女の面影は史男をとらえる。11月、学友が九州の修学旅行中にホテルにて自殺したショックは大きく、自分は彼の倍は生きたいと日記に記す。昭和35年 このとし自分の好きな本を読み、内面の聲を聞くと、正規の学業はむなしくなったらしい。将来を考えてせめて高校だけは卒業しなければいけないという両親の忠告に従い、3年の3学期に猛烈に勉強し卒業に漕ぎつける。大学進学はあきらめ、父のごとく絵画の道を志向する。4月、文化学院美術科に入学。村井正誠、山本蘭村の両先生の指導をうける。石膏デッサンにはあまり興味を示さなかったが、デッサンの重要性を考えて、神田の街の建物をスケッチしたり、自由に抽象的な線描をノートにたんねんに描き、片面には自分の詩や尊敬する作家の言葉を書きつけ、次第に芸術の思考を深める。7月、北海道恵庭の牧場で自ら二週間余働き、労働の苦労を知る。小品の油絵をボール紙や板、キャンバスに描く。昭和36年 ベートーヴェンの音楽を聴きながら、曲を絵巻風にデッサンすると、造形力に富んだ美しいハーモニーの絵巻、三本ができた。このとし、全紙のグワッシュ画が多くなる。昭和37年 文化学院を中退してから、さらに独自の制作活動が盛んになる。クラシック音楽のレコードをかけては内部のイメージを誘い出し、作画に没頭する。交友の機会も殆んどなく、孤独の時間を過ごしていた。このとし、全紙の彩色画を多数描いた。昭和38年 このとし、「土竜の道」(全紙10枚連続)その他多数のペンによるデッサン及び彩色画を制作。昭和39年 このとし、「イワンの馬鹿」(全紙2枚つづき6面)を制作。たまたまイトウ画廊(現在はない)の壁画を見て、宿題の絵巻風の作品の陳列が可能として個展を希望したので、父の紹介する伊藤氏に作品を見せたところ、新人として世に出ても生活がむずかしいから、むしろその前にイラストに進んだ方がいいと忠告された。そこで史男は記憶を頼って相撲のデッサンを描き、大相撲シリーズ(横長19枚連続)を制作する。だが、結局イラストの作品には入り込めずに終った。この頃、大学に行かないことのコンプレックスを感じるとともに、自己の絵画論の確立の必要を痛感して、早大入学を志し受験勉強を始める。昭和40年 4月、早稲田大学第一文学部美術科に入学。青柳正廣教授や大沢武雄教授等の指導をうける。大学祭のために「早大行進曲」A(全紙5枚連続)とB(全紙4枚連続)を制作する。1年は楽しく過ごして制作も進んだ。昭和41年 大学紛争が始まり、過激派と一般学生の間にあって苦しみ、しばしば興奮状態に陥った。その傷痕はあとまで続いた。昭和42年 1月、史男の作品を認めて下さった岡本謙次郎氏のすすめで第一回個展を第七画廊で開催する。「土竜の道」「ある日の幻想」「終着駅は空間ステーション」(1963)「イワンの馬鹿」(1964)「太陽讃歌」(1967)などの全紙の作品と水彩の小品多数出品。油絵「夢の国の人々」(100号)「夢」(10号)その他を制作する。昭和43年 「太陽の国境線」「夜の太陽}など一連の“太陽シリーズ”をテンペラで数多く制作する。このとし、「太陽をデッサンする」「世界をデッサンする」「水の街角」「東洋美術―実存主義と仏教―」等の随想を書く。昭和44年 6月、学園紛争の悩みは続いていたが、第七画廊で第二回個展を開催する。油絵「サン・メリーの音楽師」(100号7枚連続)同盟の水彩全紙(11枚連続)その他全紙の水彩、デッサン等を出品。諸新聞に批評が掲載されて好評であった。9月、ギャラリーオカベ「テンペラ画展」は“太陽シリーズ”として、「七色の虹の彼方に、太陽の花々は開く」の文章を掲載する。12月、神戸トアロード画廊で個展を開催。昭和45年 3月、早稲田大学第一文学部美術科卒業。「青春の思索」を窪田般彌仏語教授へ提出レポートとして書く。卒論は「現代美術における小説の役割―現代フランス小説―」であった。北海道旭川梅鳳堂で個展を開催。12月、東邦画廊で個展を開催。昭和46年 6月、第1回新鋭選抜展(三越)に選ばれて、中版の水彩4点を出品。7月、北海道の牧場で働いて、晴耕雨読の生活をしようと本のいっぱいつまった重いバッグをさげて出かけ、洞爺湖の知人宅に滞在するも、適当な牧場が見つからず帰京する。11月、東邦画廊で個展を開催。昭和47年 6月、第二回新鋭選抜展に油絵「幻花」(50号)その他3点出品。11月、東邦画廊で油彩と水彩の個展を開催。油絵「海」(15号)は多くの人に注目された。このとしフジテレビのミュージックギャラリーに出演、作品が紹介された。昭和48年 6月第三回新鋭選抜展に油絵「神話」(50号)その他3点出品。7月、旭川画廊にて、龍起・史男の油絵と水彩の親子展開催。北海道を楽しく旅行する。この年油絵、水彩多数制作するほかエッチングの習作20点を作成。美術雑誌「日本美術」(99号)の対談「制作日記」には史男の絵画思考と人間観が語られていて、終わりに「自分の心にうまれてくるもの、それを自由に表現していきたい。キャンバスは自分の世界観を表現する唯一の場なのである」とある。昭和49年 1月29日、九州の旅行の帰路、瀬戸内海にてフェリーより転落溺死す。32歳であった。遺体は3月6日香川県三豊郡箱崎沖にて漁船により収容される。第四回新鋭選抜展に水彩小品1973年作「ひとり」「彼方」「女神」「空」「星空の下」の5点を父の選択により出品。入賞す。昭和50年 11月、難波田史男遺作展がフジテレビギャラリーで開催され、60余点が出品される。昭和51年 2月、ある青春の挫折の歌・難波田史男遺作展が新宿・小田急百貨店≪本館≫11階グランドギャラリーで開催され、作品170余点が展示される。(難波田龍起・編)(本年譜は、難波田史男遺作展目録より転載いたしました)

若木山

没年月日:1974/01/28

日本画家若木山は、1月28日胃ガンのため千葉市柏戸病院で死去した。享年63歳。本名山。明治45年4月3日熊本市に生れ、帝国美術学校日本画科に学んだ。昭和10年樫山南風に師事し、翌年帝展改組第1回展に「山の女」が初入選した。昭和14年横山大観の内弟子となったが、動18年応召により満州部隊に配属され、22年シベリアより復員した。戦後、23年第33回院展に「常陸乙女」が初入選し、第36回同展「安房海處女」は奨勵賞となった。その後、屡々奘勵賞を受け46年第56回院展「夏の水」で日本美術院賞となった。また、40年から没するまで丸善画廊で個展を度々開催し山種美術館賞展にも出品した。なお、没後49年2月日本美術院同人に推挙された。

高間惣七

没年月日:1974/01/26

独立美術会会員の洋画家、高間惣七は1月26日午後零時5分、心筋硬ソクのため横浜市の自宅で死去した。享年85歳。高間惣七は、明治22年(1889)7月25日、東京、京橋に生れ、大正5年(1916)3月東京美術学校西洋画科選科を卒業した。美校在学中の大正2年(1913)第7回文展に「午前の日」が入選、翌第8回展では「養鶏場」入選、褒状をうけた。その後大正4年「漁師町」、同6年「浮雲」が入選、同7年第12回展「夏草」が特選となった。続いて大正8年第1回帝展から無鑑査となり、「幽村の春」、第2回展「海浜」「裏庭」、第3回展「花園の鶏」と連続特選となり、大正14年には帝展委員にあげられた。その後も帝展、新文展で委員、審査員をつとめ、戦後も第9回日展まで審査員をつとめた。その間、大正13年(1924)3月には、牧野虎雄、斎藤与里らと槐樹社を設立(昭和6年12月解散)、昭和7年(1932)東光会創立に参加してのちに顧問、そのほか新光洋画会、主線美術協会などにも関係した、昭和30年(1955)、突如、官展系との関係を絶って独立展に出品。勇気ある行動として話題となったが、同年独立美術協会会員となって、以後、独立展を中心に主要な作品を発表してきた。昭和34年(1959)第5回日本国際美術展では「海風」を出品して優秀賞を受賞、昭和39年には渡米してマイアミ近代美術館で個展を開催し、同48年4月勲三等瑞宝章をうけた。鳥類を好み、自宅にも多数飼育して鳥を題材とした作品も多く暖色系の明るい色調を特色とした作風で知られた。独立展出品作品年譜昭和30年第23回展・「二羽の鳥」「鳥」「月」同31年・「花咲く庭」「鳥「月とハンマー」同32年・「凪」「赤と青と」同33年・「九月」「八月」同34年「海」「蝶」同35年・「作品(A)」「作品(B)」同36年・「奔泉」同38年・「解放」「解放」同39年・「鳥B」「鳥A」同40年・「白い鳥」「白い太陽」同41年・「赤の中の鳥」「南国の鳥と花」同42年・「とり」同43年・「藍と黒」「赤の中に遊ぶ色」同44年・「紅綬雞」同45年・「A赤い鳥と黒い鳥」「B白い鳥と朱の鳥」同46年・「飛鳥」

久保一雄

没年月日:1974/01/26

独立美術協会会員で、映画美術監督としても著名であった久保一雄は、腸閉そくのため、1月26日、東京世田谷の木下病院で死去した。享年73歳。久保一雄は明治34年(1901)2月16日、群馬県藤岡市に生まれ、群馬県立藤岡中学校を卒業して、川端画学校で洋画を学び大正12年(1923)に修了、東京向島の日活映画撮影所に入所したが、関東大震災の後、京都日活に移った。労働運動、政治運動に参加し、昭和3年(1928)3月15日のいわゆる3・15事件で5年の刑をうけた。昭和8年東京に移り、映画P.C.Lに入社、同11年東宝映画株式会社創立と共に東宝に移った。昭和23年の東宝争議の時には従業員の先頭にたって活躍したが、その後、東宝を退社、フリーの美術監督として独立プロダクションの仕事を多く担当し、昭和27年(1957)には今井正監督の映画『どっこい生きている』の美術を担当し、毎日映画コンクールの美術賞をうけている。そのほか、『妻よバラのように』、『人情紙風船』、黒沢明監督の『素晴らしき日曜日』、『樋口一葉』、山本薩夫監督『太陽のない街』、『真昼の暗黒』、『松川事件』『荷車の歌』などの美術を担当した。そのかたわら、昭和13年第8回独立展に初入選してから以後、出品を続け、昭和19年第14回展に「雪の石狩牧場」を出品して独立賞をうけ、昭和22年独立美術協会準会員、翌23年(1948)同会会員に推挙された。晩年は健康を害して映画の仕事からも遠ざかり、専ら絵画制作に熱中し、「小さなタワーのある港」など港や船、サーカスを題材とした作品や、花の小品を多く描いた。

西田勝

没年月日:1974/01/12

新制作協会会員の洋画家、西田勝は、1月12日午前10時50分、脳卒中のため川崎市の自宅で死去した。享年55歳。西田勝は、大正7年(1918)2月19日、神奈川県川崎市に生まれ、神奈川県立川崎中学校をへて、昭和17年(1942年)帝国美術学校西洋画科を卒業した。在学中の昭和14年(1939)、第4回新制作派協会展に出品した「男の肖像」が初入選となった。以後昭和16年同会の第6回展に「ひなた」「画室」入選、第7回展「ブランコ」「お勝手」入選し、新作家賞を受賞した。昭和17年から敗戦まで兵役にあり、復員後、新制作派協会展に出品、昭和21年10回展に「泣虫小僧」「ひとり」「上野の子供達」を出品、子供たちの姿をとおして敗戦後の現実を表現、新作家賞を受賞、翌22年第11回展においても岡田賞を受賞、昭和26年第15回展では「電車ごっこ」が15周年記念賞をうけ、昭和28年新制作協会員にあげられた。昭和42年ニューヨークに行き、2年間滞在して帰国した。

伊藤善

没年月日:1973/12/02

春陽会々員の洋画家伊藤善は、12月2日死去した。大正5年1月12日宮城県黒川郡に生れ、東京美術学校に学び、昭和18年帝國美術学校西洋画科を卒業した。終戦まで海軍航空隊に従軍、昭和21年第1回日展に「冬の日」及び第24回春陽会展に出品した。春陽会には以後毎年出品をつづけ、昭和26年準会員、同28年会員となった。そのほか東京大丸、資生堂、兜屋等で屡々個展を開催し、20数回に及ぶ。また昭和38年より40年にかけ北アフリカ諸国及び欧州9ヶ国を歴遊し、主としてイタリアに滞在した。春陽会出品主要作品―「女とパイプ」(26回)「木の葉」「化石」「手をくむ三人」(29回)など。

木村辰彦

没年月日:1973/11/13

一水会会員の洋画家、木村辰彦は、11月13日、死去した。木村辰彦は、大正5年(1916)9月6日、東京、銀座に生まれ、昭和8年(1933)東京都立第四中学校を四学年で中途退学し、二科会美術研究所に入所、同12年以降は安井曽太郎に師事し、昭和13年一水会展に初入選、以後、毎回出品、昭和16年には岡田賞を受賞した。昭和18年文展無鑑査となった。

山下摩起

没年月日:1973/11/07

日本画家山下摩起は、11月7日老衰のため西宮市の自宅で死去した。享年83歳。本名正直。明治23年4月21日兵庫県有馬町の旅館「下大坊」山下庄衛門の長男として生れた。明治43年京都市立美術工芸学校絵画科を卒業、同年京都市立絵画専門学校に入り、大正4年同研究科を卒業した。在学中第4回文展に「溪風」が初入選し、以後文、帝展に出品する。また国画創作協会展、院展、独立展等にも作品を送っている。昭和3年ヨーロッパに渡り、フランス、ベルギー、イタリア、イギリス、オランダ等を巡り5年に帰国した。昭和10年以後は中央への公的な展覧会出品を止め、専ら個展を制作発表の場とした。昭和35年には大阪四天王寺五重塔壁画を揮亳し、朝日賞(35年度)を受賞した。そのほか代表作として41年東本願寺難波別院南御堂後門壁画「音声菩薩」同じく43年には東本願寺名古屋別院後門壁画「弥弥」等がある。また、昭和14年以降美術雑誌の表紙絵、口絵等も担当し、主なものに「画室」「新美」「八潮」等がある。なお号は最初馬山で大正11年摩耶と改め、ついで昭和25年摩起と改めた。昭和49年兵庫県立近代美術館で「山下摩起展」を開催、107点が出品され、同展の図録が刊行されている。

早川芳彦

没年月日:1973/09/22

旧日展委員の洋画家早川芳彦は、9月22日東京新宿の東京医大病院でジン不全のため死去した。享年77歳。明治32年8月6日山梨県東山梨郡に生れ、川端画学校で洋画を学んだ。昭和10年春洋会に「室内」「窓辺の静物」が初入選し、同会に昭和12年~15年までの出品がみられる。ついで、昭和13年太平洋画会に「絵を描く女」「椿のある庭」「卓上の花」を出品、NYK賞を受ける。同会では、また15年に「婦人座像」「椅子に倚る女」「子供」「荏」などを出品、太平洋画会賞となった。同15年には会員となり、28年委員に推された。昭和29年同会有志を中心に光陽会が創立され、その創立会員となった。そのほか、紀元二千六百年奉祝展、戦争美術展等の出品があり、戦後第2・3回日展委員を依嘱されている。代表作―「浅間山」「昇仙峡」「赤城」など。

小林敏夫

没年月日:1973/09/15

國画会会員小林敏夫は、9月15日死去した。明治37年11月姫路市に生れ、昭和6年長崎医科大学を卒業した。同28年第27回國画会展に「老シリヤエフ像」(A)(D)(B)の三点が初入選となり、國画賞になった。同30回展で会友、同34回展で会員に推された。絵画は独学だが、初期には野口弥太郎に私淑した。長崎県展、同美術協会事務局長をつとめ、長崎県文化団体協議会、長崎国際文化協会、世界連邦建設同盟等に関与する。医学博士。

長谷川昇

没年月日:1973/08/26

日本芸術院会員の洋画家、長谷川昇、8月26日午前11時、心不全のため東京・新宿の社会保険中央総合病院で死去した。享年87歳。長谷川昇は明治19年(1886)5月11日、長谷川直義の長男として福島県会津若松市に生まれ、両親と死別して北海道小樽市の祖父母に養育され、明治36年(1903)札幌中学校を卒業、医師を志望して上京、第一高等学校受験に失敗して、明治38年東京美術学校西洋画科に入学、同43年同校を卒業した。同級に藤田嗣治、山脇信徳、田辺至などがいた。在学中の明治41年第2回文展に「海辺」が初入選となり、同43年第4回文展に「白粉」入選、褒状を受けた。明治44年(1911)ヨーロッパに行きパリに居住して、イタリア、スペイン、イギリスなどに旅行、セザンヌ、ルノアールの作品にひかれ、ヴァン・ドンゲンらと交友、大正4年(1915)帰国した。小杉放庵の勧誘で日本美術院洋画部同人となり、大正4年再興院展洋画部に「オランヂユ持つ女」「オペラの踊子」を出品した。大正10年(1921)、再度フランスに遊学、スイス、ベルギー、オランダを歴遊して翌大正11年帰国、旧院展洋画部同人を中心とする春陽会の創立に同人として参加した。ヴァン・ドンゲン風の色調をもった裸婦像、人物像を発表、大正14年春陽会第3回展「髪あむ少女」「安息」「裸女」、同15年第4回展「べに」「髪」「つめ」「書見」などを出品、大正15年聖徳太子奉讃展に出品した「母性」は当時の摂政官の買上げとなり、また、同年明治神宮絵画館に「大婚二十五年祝典」を制作した。昭和2年(1927)、第3回外遊、パリの画廊ベルネイム・ジュンヌで日本の題材による紙カンパスに描いた作品で個展を開催、さらに翌年同画廊で滞欧中の作品による個展を開催し、「裸婦」がフランス政府の購入するところとなった。昭和3年帰国、翌4年第7回春陽会展に「裸体」「若き女」「小憩」「レクチュール」「オペラに於けるブルガ嬢」「髪むすぶ女」「ブランシュ・エ・ノアール」「プティ・ラ」などの滞欧作品を出品した。 昭和6年第9回春陽会展「ロバと少女」「髪」「レヴューの女」「鴨遊ぶ池」「女優恵美子」出品、この年第4回目の外遊。 昭和7年、帰国。第10回春陽会展に「熱帯梅林」「S嬢」「伊豆風景」出品。 昭和8年、第11回春陽会展「桃の節句」「オリーヴの樹」「アフガニスタンの女」「ゴードの小村」「ピアニスト」「裸体」「立てるアフガニスタンの女」「パリジェンヌと愛女」「ゴード風景」を出品。 昭和9年・第12回春陽会展「少女と子猫」「緑蔭」「裸体」「Y夫人」出品。 昭和10年、第13回春陽会展「モデル」出品。 昭和13年、春陽会を脱会し、昭和16年の文展に審査員として参加、以後、文展、日展に出品し、昭和18年第6回文展出品作品「おをぎ」が文部省買上げとなった。日展では参事となり、昭和32年(1957)日本芸術院会員に選ばれた。昭和30年の第11回日展に「戸浪に扮する福助」を出品、以後、歌舞伎役者絵の制作に情熱を傾け、昭和38年には連作歌舞伎役者絵101点による個展を日本橋三越で開催、さらに同39年には文楽人形絵を開催した。昭和41年、勲三等旭日中綬章を受章。昭和42年1月、日本経済新聞社主催による回顧展が日本橋三越において開催された。

村上鉄太郎

没年月日:1973/08/24

白日会会員、日本水彩画会会員、日展委嘱の洋画家村上鉄太郎は、8月24日、死去した。享年73歳。村上鉄太郎は明治32年(1899)12月23日、東京に生まれ、太平洋美術学校に学んだ。中沢弘光に師事し、白日会展に出品、昭和4年(1929)第6回白日会展に「鱒の静物」を出品して白日賞を受賞、その後静物の連作を出品、昭和7年に白日会会員に推挙された。昭和39年(1964)第40回白日会展では「訪春」「雪どけの川」、で中沢賞を受賞した。日展にも出品し、昭和26年第7回展「河岸」、同27年「晴れた日」、同28年「窓ぎわ」、同30年「山手雪景」、同32年「残雪」など連続入選して昭和42年日展委嘱にあげられた。

菊地精二

没年月日:1973/08/20

独立美術協会々員、菊地精二は48年8月20日、脳出血のため逝去した。享年65歳。葬儀は世田谷区のカルメル会修道院カトリック教会で独立美術協会葬を以て行われた。明治42年8月15日、北海道札幌市に生れた。昭和2年頃、上京、同舟社洋画研究所に油絵を学び、昭和4年二科会展に初入選となったが、昭和6年1931年、独立美術協会の創立に際し同会へ出品と決め、同8年第3回展でD氏賞、さらに10年第5展で独立賞を受け、15年に独立美術協会の会員となった。

大久保為世子

没年月日:1973/08/12

女流画家協会会員、朱葉会会員の大久保為世子は、8月12日死去した。享年76歳。明治30年(1897)1月東京に生まれ、実践高等女子学校を卒業、昭和7年(1932)より洋画を小林万吉、耳野卯三郎に就いて学び、光風会展、朱葉会展に出品した。昭和22年には、国際親善のために在日外国婦人と交友、協力して芸術を探究することを目的とした青葉会を創立し、その理事をつとめた。

安島雨晶

没年月日:1973/08/10

日本画家安島雨晶は、8月10日急性肺炎のため京都市第一日赤病院で死去した。享年66歳。本名理作。明治40年石川県に生れ、京都絵専を卒業した。西山翠嶂画塾青甲社に入り、師没後は同志と牧人社を結成した。この間、新文展、日展等に出品し、昭和45年には伏見稲荷大社の祭礼絵巻を完成した。

中津瀬忠彦

没年月日:1973/08/10

独立美術協会会員の洋画家中津瀬忠彦は、8月10日、交通事故のため死去した。享年57歳であった。中津瀬家は京都伏見の公家の出といわれ、中津瀬忠彦は大正5年(1916)1月18日、滋賀県大津市に生まれ、昭和11年(1936)、岡山師範学校本科(美術・音楽)を卒業、同13年第8回独立美術協会展に初入選した。その後、昭和18年文展に出品入選したほかは独立展に出品をつづけ、昭和23年第16回独立展において「風景A」「風景B」で独立賞を受賞し、翌年独立美術協会準会員、さらに翌年の昭和25年には同会会員に推挙された。同年の第1回アトリエ新人賞候補に選ばれ、昭和29年には朝日秀作展にも選出された。昭和33年(1958)に留学生として渡欧し、同35年までフランスに滞在、34年(1959)にはサロン・ドートンヌに入選した。帰国後も独立展、独立十人の会を中心に作品を発表、昭和38年、42年の安井賞候補展に選抜され、同41年日動画廊太陽展にも出品した。昭和42年再渡欧して1年間ヨーロッパに滞在した。独立展出品作品略年譜昭和13年・宇野港 同17年・川岸の馬 同22年・働く人、風景 同23年・風景A、風景B 同25年・風景(B)、後楽園外苑、風景A 同27年・働く人々、人と馬 同28年・馬A、馬B 同29年・働く人々A、働く人々B 同30年・風景A、風景B、風景C 同31年・山湖、後楽園外苑、砌場 同32年・岩山、後楽園 同33年・風景B、風景A、風景C 同35年・Santa Lucia、Parc de Sceaux、paris 14、paris 5、Montparnasseの街角 同36年・後楽園、Parc de Sceaux 同38年・マドリッド 同39年・南伊風景、南伊の女 同40年・奢れる伊呂具 同41年・黎明、罌粟と少女 同43年・ゼゴヴィヤ城外 同44年・黄昏時、らくがき 同45年・蝶を追う、田植時 同46年・五月 同47年・内海を望む丘 同48年・マドリッド、風景

浜田信

没年月日:1973/08/06

二紀会々員の浜田信は、8月6日肺水シュのため東大病院で死去した。享年58歳。本名信次。大正4年5月16日大阪市に生れ、大阪市立都島工業学校機械科を卒業し、昭和21年帝国美術学校(現武蔵野美大)西洋画を卒業した。同25年第4回二紀会展に「白壁の家」「夜のパッキャント」が初入選し、佳作賞を受賞した。又8回展「裏街(ハルピン)」、10回展「降魔成道(仏伝)」「太子降誕(仏伝)」で同人努力賞を得、第12回展では審査委員に推されている。昭和37年チェッコスロヴァキア文化省より招待を受け、約1カ年滞在し、この間、プラハとヴラチスラクで個展を開催した。翌年東欧、オーストリア、スイスを経て巴里に滞留、サロン・ドートンヌに出品し、またスペインに旅行した。さらに翌39年仏アンデパンダン、仏ル・サロンに出品、後者は銀賞をうけ、無鑑査となった。この年、イタリア、ドイツ等欧洲各国を巡り、東南アジアを経て帰国した。なお葬儀は13日千日谷会堂で二紀会葬により行われた。

跡部白烏

没年月日:1973/08/04

日本美術院々友、大調和会運営委員で日本画家の跡部白烏は、8月4日喘息のため死去した。享年73歳。本名正人。明治33年9月28日東京に生まれ、早稲田大学中退後、画家を志して堅山南風に師事し、院展に出品した。大正12年第10会院展に初入選し、その後院友となり現在に至る。戦後は、日本画府、大調和会等を発表の場とした。主な作品「雪の山」「雨後」「篁」(いづれも院展出品作)

安藤軍治

没年月日:1973/07/28

一水会委員、日展委嘱出品の安藤軍治は、大正4年12月31日、神奈川県小田原市に生れた。昭和9年小田原中学校卒業、東京美術学校に学び昭和17年同彫刻科を卒業した。在校中、同校の命により、西田正秋教授に随行して大同石仏調査研究のため同地へ赴く。昭和18年小田原で大陸スケッチ展を開く。作品は、一水会展及び日展に出品し、昭和26年一水会々員となり、又、昭和38年、41年の日展で「サイゴン市場の女達」「Yさん」が各々特選となり、43年日展の出品委嘱作家となった。また同年一水会委員に推されている。46年欧州旅行ののち、48年7月28日逝去した。享年58歳。 略年譜大正4年 神奈川県小田原市に生る昭和17年 東京美術学校彫刻科塑造部を卒業昭和18年 大陸スケッチ展(於小田原)昭和26年 一水会々員に推挙される昭和34年 皇太子・美知子妃謹写 琉球スケッチ展(銀座松屋)昭和38年 東南アジアスケッチ旅行 第25回一水会展会員佳作賞 第6回日展特選昭和39年 第26回一水会展会員優賞昭和40年 カナダスケッチ展(新宿伊勢丹)昭和41年 ヨーロッパ、エジプト旅行 第9回日展特選昭和42年 第10回一水会々員展記念賞 第29回一水会展岩倉具方賞昭和43年 一水会委員に推挙される 日展依嘱出品昭和44年 「最高裁長官横田正俊氏像」昭和46年 欧州旅行昭和48年 7月28日没

中本達也

没年月日:1973/07/22

多摩美術大学教授で元自由美術協会会員であった洋画家の中本達也は、7月22日午後1時49分、脳腫瘍のため東京・府中市の都立府中病院で死去した。享年51歳。中本達也は、大正11年(1922)2月13日、山口県大島郡に生まれ、昭和18(1943)帝国美術学校(現、武蔵野美術大学)西洋画科を卒業、学徒動員で軍隊に入り、昭和20年復員した。はじめ、舞台美術、新劇運動に従事したが、自由美術家協会展に出品、昭和26年同会15回展「人と人」「間(ま)」、同27年16回展「回想」などを出品、27年に自由美術家協会会員にあげられた。昭和34年(1959)みづゑ賞選抜作家展でみづゑ賞を受賞し、中南米巡回展に出品、同年、「群れ」で第3回安井賞を受けた。昭和35年ギャラリー・キムラで第1回個展、翌年東京大丸ギャラリーで第2回個展、昭和37年大阪関西画廊で個展、同年大阪フオルム画廊でエッチングによる個展を開催した。昭和38年(1963)自由美術協会を退会したが、それまでに昭和28年「土壌」「思策」「誕生」、同30年「水浴」、同31年「牛飼い」「洪水」、同32年「憩える海人」、同33年「とり」「供物」、同34年「窟の声」、同35年「火山帯(動物)」、同36年「狩」、同37年「東洋の声」を同展に発表した。昭和38年から翌年(1963-64)までイタリアに滞在、昭和42年壱番館画廊で個展「残された壁」、翌年同画廊で個展「人間断片」を開催した。昭和45年、多摩美術大学油画科教授に就任、同47年、千葉県の鋸山に広大な岩壁彫刻「岩の声」を制作した。内面的な思考と叫びを彫直な形体で造型化した作風はその特異性を評価されて、昭和48年(1973)、東京セントラル美術館で『岩の声まで』と題して回顧展が開催された。

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