本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。
(記事総数 3,120 件)
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没年月日:1977/10/27 日本画家前田青邨は10月27日老衰のため東京文京区本郷の順天堂医大附属病院で死去した。享年92。本名廉造。なお葬儀は29日鎌倉市の円覚寺で密葬が行われ、11月9日東京中央区築地本願寺で、日本美術院葬による本葬が執行された。青邨は、明治18年岐阜県恵那に生れ、小学校の頃から画才を示して、早くより画道への志をたてた。当初14才で上京するが、病のため一旦帰省し、満16才で再上京した。当時大和絵に造詣深い大家であり、また新聞小説に新味ある挿絵を描いて、時代の寵児でもあった梶田半古の画塾に入った。その頃、先輩に小林古径がいて、二人は小堀靹音門下の安田靱彦、松本楓湖門の今村紫紅らによる紅児会へ明治40年頃参加する。青邨は明治35年日本絵画協会日本美術院連合共進会へ「金子家忠」(三等褒状)が初入選するが、紅児会グループの人たちも同展への出品者であって、岡倉天心の指導を仰ぐこれら気鋭の青年作家たちはそのまま、再興院展への参加とつながっていく。青邨の日本美術院への参加は、師の梶田半古が院の幹部でもあったことからその宿縁ともいえるわけだが、再興院展以後における青邨の目覚ましい活躍は、瞠目すべきものがある。日本美術院は大正から昭和にかけて、さらに激動的な戦後にわたり、官展に対抗して日本画の理想を着実に発展させた。天心の意図した日本画の伝統に基盤を置いた新しい日本画の創造を、青邨らは深く追求しいわゆる新古典主義の作風を展開した。青邨の作品を概観すると、明治期は時代の一般的な傾向でもあった歴史画にはじまり、大正に入ってからは旅行による取材の、写生にもとづく風景画の作品が多く、「朝鮮之巻」「京名所八題」「燕山の巻」「イタリー所見」等が制作された。大正期にはこのほか、大正11年古径とともに日本美術院留学生として渡欧し、大英博物館で顧愷之筆と伝えられる「女史箴図巻」の模写など行い、大いに画嚢をこやすが、日本美術の優秀性を再確認するという日本画家としての根本的問題の解決を得、この研修旅行が画家としての転機をもたらしたと考えてよいであろう。昭和になってからは、5年に前年の院展出品作「洞窟の頼朝」で第1回朝日賞を受賞し、10年には帝国美術院会員となり、戦後昭和30年には文化勲章を受領し、世に大きく認められた。そして作品の上では、大正の写生による風景画に対し、昭和期には鋭い写生と、新しい大和絵風の技法による独特の肖像画の制作が声価を高めた。また晩年には東京芸術大学教授として後進の育成にあたり、文化財行政面でも、文化財保護委員会専門審議会委員、法隆寺金堂壁画再現模写事業総監督、高松塚古墳壁画模写総監督など委嘱され、これらに尽力するところ少なくなかった。青邨はまた若い頃から美術雑誌その他に直截な文章を載せているが、これらを集成した随筆集「作画三昧」(昭和53年新潮社)があり、日本経済新聞紙上連載の「私の履歴書」(昭和44年1月日本経済新聞社)も、同社から刊行されている。そのほかの著書に、スケッチによる「日本の兜」(昭和32年10月中央公論美術出版)がある。年譜明治18年(1885) 1月27日、岐阜県恵那郡に父前田常吉、母たかの二男として生まれる。本名廉造。生家はその頃、木曾への入口である街道筋に面し、乾物商をいとなむ。明治24年 4月、中津川尋常高等小学校に入学。明治30年 3月、中津川尋常高等小学校を卒業する。明治31年 母死去。上京し、叔父の経営する本郷根津の下宿屋「東濃館」に寄宿。明治32年 4月、本郷京華中学に入学。この頃、健康を害し、静岡県吉原の知人宅で2ケ月程療養生活を送り、一旦郷里に帰郷。明治34年 秋、再上京、親戚のつてで尾崎紅葉を知り紅葉のすすめで梶田半古の塾に入る。当時塾頭に小林古径がいた。明治35年 塾では古画の習得と同時に、写生に励み、また有職故実についての研究もつむ。この頃、師半古から「青邨」の雅号をもらう。「金子家忠」(3等褒状)第12回日本美術院・日本絵画協会共進会(初入選)明治36年 国学院大学聴講生になり、古典文学を学ぶ。半古の代筆で小栗風葉の新聞小説「青春」の挿絵を描き、また徳田秋声の連載小説の挿絵も描いた。「防箭」(褒状)第5回内国勧業博覧会。「夕顔」(1等褒状)第14回日本美術院・日本絵画協会共進会。「小碓」第15回日本美術院・日本絵画協会共進会明治37年 住居を半古塾から本郷菊坂の下宿の移す。明治39年 巽画会研究会に参加。「天照皇大神」(銅牌)第3回真美会展。「春遊」日本絵画展(日本美術院主催)。「粧ひ」(1等)廿日会明治40年 紅児会に入り、今村紫紅、小林古径、安田靫彦らの俊英と研究をともにすすめる。「御輿振」(3等賞牌)東京勧業博覧会明治41年 「囚はれたる重衡」国画玉成会展(3等賞第1席)明治43年 国画玉成会幹事となる。「市」第11回紅児会展。「竹取物語」(絵巻)「鶏合せ」第12回紅児会展明治44年 横浜の豪商原富太郎(号三渓)より研究費の援助を受ける。「菅公」「鉢の木」第15回紅児会展。「法華経」「竹取」(褒状)第5回文展。「辻説法」日本美術社展明治45年 紅児会々場で岡倉天心から「にごりを取りなさい」との批判をうけ発奮する。11月、荻江節の家元初代荻江露章の妹、松本すゑと結婚。この年、健康を害し、神奈川県平塚に転地療養する。「椿」「須磨」第17回紅児会展。「二曲屏風」第18回紅児会展。「御輿振」(画巻)(3等賞)第6回文展大正2年(1913) 8月、紅児会解散。9月、長女千代子誕生。「橋合戦」「蝦蟇仙人と鉄拐」第19回紅児会。「月下洗馬」大阪高島屋月百幅会大正3年 10月、日本美術院同人に推挙される。神奈川県藤沢石上に移転する。この頃、小山栄達、磯田長秋、吉田白嶺らと絵巻物研究会を創める。「つれづれ草鼎の巻」(銅牌)東京大正博覧会「竹取」(其1=1段-12段、其2=13段-18段)(絵巻)「湯治場」(其1、其2、其3)再興記念日本美術院第1回展大正4年 朝鮮に旅行する。6月、次女正子誕生。「朝鮮の巻」(画巻)第2回院展。「渡船場」松屋東都大家新作展大正5年 神奈川県鶴見に転居。小林古径と関西に旅行する。「京名所八題」(八幅対、本願寺、三十三間堂、清水、祇園会、先斗町、四条大橋、上賀茂、愛宕山)第3回院展。「曳船」大阪高島屋双幅画会。「戦の巷」「丹霞焼仏」高島屋三都大家新作展大正6年 4月23日、梶田半古死去。神奈川県渡辺山に転居。「切支丹と仏徒」(双幅)第4回院展。「地獄変相」「江の島詣」日本美術学院記念展。「元寇殲滅」立太子礼奉祝文官献納画帖。「厳島舞楽」琅★洞展。「厳島詣」三越新作絵画展。「船」「武将」「立葵」日本美術院同人作品展大正7年 3月、大阪高島屋で、初の個展開催。3月、長男裕造誕生。日本美術院評議員に推される。「社頭」日本美術院同人展。「六歌仙」三越東西大家新作画展。「維盛最期之巻」(画巻)第5回院展大正8年 中国に旅行する(往路上海、南京、蕪湖、漢口、宜昌、新潭等で、復路は漢口、北京、奉天、朝鮮を経由する)。「早春」「晩秋」(双幅)日本美術院同人展。「燕山之巻」(画巻)第6回院展。「★魚」琅★洞展。「遊魚」三越絵画展。大正9年 延暦寺より伝教大師絵伝「根本中堂落慶供養の図」を委嘱され、小林古径と共に比叡山に赴く。日本美術院同人らと瀬戸内海写生行。「根本中堂落慶供養の図」比叡山延暦寺に納入「秋風五丈原」第7回院展。「入唐」琅★洞、院同人高野紀行展。大正10年 「鯰」「地獄変相」日本美術院同人米国巡回展。「遊魚」(六曲一双)第8回院展。大正11年 10月26日日本美術院留学生として、小林古径と共に約1年間泰西美術研究のため渡欧する。マルセーユ到着後、ローマに赴き、フィレンツェほかイタリア各地美術館を見学し、ついでパリに滞在している。「赤坂離宮御苑」東京府より英国皇太子へ献上大正12年 ロンドン滞在中、東北大学の依嘱によって、中国古代名画として有名な「女史箴図巻」(顧愷之筆)を、所蔵する大英博物館で古径と分担して模写を行う。模写実施に当っては、当時ロンドン滞在中の東北大学教授福井利吉郎の斡旋による。ロンドンから再びイタリアに赴き、さらにエジプト、その他各地を巡って8月22日帰国した。顧愷之筆「女史箴図巻」(模写)大正13年 「花賣」「彦火火出見尊」(絵巻)第11回院展。「沙魚」「摂政官御慶事記念東京府献納瑞彩帖。「芥子」尚美堂展大正14年 3月、長男裕造(8歳)をジフテリアで失う。4月、三女日出子誕生。11月、「女史箴図巻」(模写)の展観を行う。「やなぎはや」第10回日本美術院試作展。「伊太利所見」(三幅対)(ペルジャの山上市)(フローレンスの朝)(ポンテベッキヨの雨)第12回院展。「礼讃」尚美堂展大正15年 第1回聖徳太子奉讃美術展の鑑査委員となる。「漢江の朝霧」「漢水の夕」(双幅)第1回聖徳太子奉讃美術展。「冬瓜」尚美堂展。「瀬満王」東京会展。「五月雛」白日荘現代50大家新作展。「東海道」郷土美展。「芥子」松屋東西会昭和2年 3月、四女照子誕生。「羅馬使節」「西遊記」(画巻)第14回院展。「芥川」中央美術社主催東西大家展。「山幸海幸」(双幅)三越京都大家新作展。「祭日」尚美堂展昭和3年 この年再び健康を害し、夏の間那須鮎ケ瀬別荘に療養生活を送る。「祝い日」御即位記念御下賜品として依頼を受ける。「朝鮮の風俗」大婚25年奉祝文武官献上画帖「踊」尚美堂展。「あまご」白日荘展昭和4年 「洞窟の頼朝」第16回院展。「住吉詣」銀座美術園新作展。「粟」尚美堂展。「雪」東京会展。「那須スケッチ」第14回日本美術院試作展昭和5年 第2回聖徳太子奉讃美術鑑査委員。前年作「洞窟の頼朝」で第1回朝日賞受賞する。ローマ日本美術展に前年の「洞窟の頼朝」出品。日本美術院経営者に推挙される。「罌粟」(六曲一双)第17回院展。「大嘗祭」明治天皇聖徳絵画館。「鵜飼」「愛茶」第1回七絃会展昭和6年 「縫取」第2回七絃会展昭和7年 「石棺」第19回院展。「扇面散し」第3回七絃会展昭和8年 「鵜飼」「初茸」日本美術院同人展。「鵜飼」(三幅対)第20回院展昭和9年 満州国建国三周年記念美術展の審査員として渡満する。帰途熱河を回る。「鷹狩」(六曲一双)第21回院展(李王家買上)「武将弾琵琶」(満州国皇帝献上画)「絃上」日本美術院同人展。「大柿手に入る」第5回七絃会。「粧ひ」日本美術院試作展。「白鷺」東京会「乗合船」角谷二葉新作画展昭和10年 6月、帝国美術院改組され、その会員となる。「毛抜形」第19回日本美術院試作展。「唐獅子」(六曲一双)岩崎家よりの御即位記念献上画。「秋深し」「鷺」第6回七絃会展。「真鶴沖」第1回踏青会展昭和11年 2月、改組第1回帝回美術院展審査員。「観画」第1回新帝展。「白河楽翁」第23回院展。「唐獅子」(衝立)「蘭陵王」「白鷺」第2回踏青会展。「楯無」日本創作画協会展。「応永の武士」日本美術学院記念展。「原の白隠」「魚」第7回七絃会展昭和12年 6月、帝国芸術院会員に推挙される。「清正」第8回七絃会展。「名犬獅子」(畠時能)松島画舫新作展。「楽翁」(双幅)「凱旋武将」高島屋新作展昭和13年 5月、日満美術展審査のため二度目の渡満をする。帰途は新京から大同に赴く。10月、第2回新文展審査員。「大同石佛」第25回院展。「大楠公」第9回七絃会展。「鴨」「兎」高島屋新作画展昭和14年 歌舞伎座上演「太閤記」(吉川英治原作)の舞台装置担当。この年、北鎌倉に画室竣工。第3回新文展審査員。「朝鮮五題」(五面)第26回院展。「熊野御難航」(画巻一合作肇国創業絵巻ノ内)紀元2600年奉讃展。「猫」「豊公」第10回七絃会「洞窟の頼朝」三越日本画展。「豊公」高島屋新作画展昭和15年 歌舞伎座にて「続太閤記」の舞台装置担当。紀元2600年奉祝美術展審査員。「鵜」第27回院展。「阿修羅」紀元2600年奉祝美術展。「菊」第11回七絃会展。「月輪」昭和16年 「静物」第12回七絃会「椿」第1回尚絅会展昭和17年 「奎堂先生」第29回院展。「祝日」満州国建国十周年慶祝記念献納展。「凱旋の旗手」「静物」日本美術院同人軍用機献納作品展。「清正」日本画家報国会軍用機献納展。「関ヶ原の家康」第13回七絃会展。「陣中愛茶」高島屋現代名家新作展昭和18年 第6回新文展の審査員となる。昭和19年 7月、帝室技芸員に推挙される。「牡丹」「激流」「おぼこ」戦艦献納帝国芸術院会員美術展。「景清」「鉢」陸軍献納帝国芸術院会員美術展昭和20年(1945) 郷里中津川に疎開。8月、疎開先で終戦を迎え、11月、北鎌倉の自宅に戻る。昭和21年 第1回日本美術展覧会(日展)審査員。前年海軍兵学校よりの依頼画「大楠公」を湊川神社に納入する。「二日月」第1回日展。「魚絞」第31回院展。「大楠公」湊川神社奉納昭和22年 3月、柴田ギャラリーでスケッチ展開催。「郷里の先覚-夜明前の香蔵と景蔵-」(双幅)第32回院展。「豊公」「応永の武者」「かちかち山」(画巻)昭和23年 「洞窟の頼朝」第1回清流会展。「水鉢」五月会展昭和24年 1月、法隆寺金堂壁画焼損。「猫」「風神雷神」第34回院展。「真鶴沖」第2回清流会展昭和25年 12月、文化財保護委員会専門審議会委員。「鯉」(三面)第35回院展。「山鳥」第3回清流会展昭和26年 12月、東京芸術大学日本画科主任教授。「Y氏像」(安井曾太郎)第36回院展。「赤絵」日本美術協会展。「山吹」第4回清流会展昭和27年 4月、「古径・靱彦・青邨代表作展」(於銀座松屋)開催。「湯治場」第37回院展。「絵島詣」第5回清流会展昭和28年 「耳庵老像」(松永安左衛門)第38回院展「伊勢遷宮図」伊勢神社へ奉納昭和29年 10月、古稀記念「前田青邨展」(於東京銀座松屋、朝日新聞社主催)開催。「紅梅」(二曲半双)第39回院展昭和30年 6月、「前田青邨作品集」(大塚巧芸社)が前年の古稀展を記念して刊行される。11月、文化勲章受賞。郷里中津川市名誉市民となる。「出を待つ(石橋)」(二曲半双)第40回院展。「石橋」皇居仮宮殿饗応の間、壁面用に制作。「愛茶」「川の幸」第8回清流会展昭和31年 4月、東京芸術大学陳列館で「文化勲章受章記念前田青邨教授作品展」開催。7月、日本美術家連盟会長に推挙される。ブリジストン美術館の美術映画「前田青邨」が制作開始される。「浴女群像」第41回院展。「宇治川」第9回清流会展。昭和32年 川合玉堂に代り、皇后陛下の絵の指導役となる。文化財専門審議会委員を辞す。五月、「前田青邨写生展」(於銀座松屋)開催。「日本の胄」(中央公論美術出版)出版。ブリヂストン映画「前田青邨」完成。「プランセス」第42回院展。「洞窟の頼朝」日本美術院十大家名作展。「梅日和」第1回高樹会展昭和33年 「動物の舞踏会」「鵜」第29回ベニスビエンナーレ国際美術展。「みやまの四季」(六曲半双)第43回院展。「秋の花」第6回薫風会展昭和34年 1月、東京芸術大学日本画科主任教授を定年退職し、同大学名誉教授となる。「御水取」(御水取を迎える奈良の旧家、總別火(行事の支度)が堂の役人衆、わらび餅の茶屋・籠り堂・湯屋・食堂・行法を待つ参籠衆、鈴を振る咒師、御水取(若狭井)、松明をみる群衆、松明のぼる、内陣の幕をしぼる堂童子、達陀の行法、社頭の終了報告、二月堂は明けゆき)第44回院展。「遊魚」第11回清流会展。「景清」巨匠日本画展。昭和35年 5月、訪中日本画家代表団の団長として約1ケ月間、中国を旅行する。9月、「中国を描く前田青邨展」(於東京日本橋高島屋・日中文化交流協会・朝日新聞社主催。「赤い壁」(天壇)「黄色い屋根」(紫禁城)。「南の街」(広州)中国を描く前田青邨展。「貝」第12回清流会展。「魚」第4回恵下会展。「駒勇む」昭和36年 中津川市で恵下会記念展開催。10月、喜寿記念前田青邨展(於東京日本橋高島屋・朝日新聞社主催)。12月、「前田青邨作品集」(喜寿記念画集)が大塚巧芸社から刊行される。「白頭」、「洋犬」第46回院展、「牡丹」第13回清流会展昭和37年 9月、「前田青邨先生喜寿記念陶展」(荒川豊蔵賛助出品。香合、小品置物、茶碗絵付等)(於日本橋三越)「石棺」午前時」第47回院展。「紅白梅」ローマ日本文化会館壁面用昭和38年 「出羽の海部屋」(画巻)「鯉」第48回院展。「静物」(赤絵皿にリンゴ)「ペルシャの鉢」昭和39年 2年前依頼された日光二荒山神社宝物館壁画の完成を記念して、日光二荒山神社壁画完成記念「前田青邨壁画と発掘宝物展」(於東京日本橋三越)が開催された。「K氏像」「椿」「山霊感応」日光二荒山神社宝物館壁画昭和40年 「千羽鶴」「薔薇」「奥の細道」昭和41年 郷里中津川市に前田青邨記念館が設立される。「前田青邨展」(於横浜高島屋、朝日新聞社主催)「転生」(平櫛田中)第51回院展。「三浦大介」山種美術館開館記念展。「ペンギン」第1回神奈川県美術展昭和42年 法隆寺寺壁画再現事業の総監修に安田靱彦とともに就任。前田班は「10号大壁(薬師浄土)」「3号小壁(観音菩薩)」「12号小壁(11面観音)」の三面を担当し制作する。「胡猫」第22回日本美術院春季展。「蓮台寺の松蔭」第52回院展昭和43年 「大物浦」第53回院展昭和44年 「徒然草」(二面)第24回日本美術院春季展。「異風行列の信長」第54回院展。「須磨」第21回清流会展。「熊野詣」第21回白寿会展「真鶴ケ浜」「蘭陵王」「燃える水献上」「川魚」昭和45年 新宮殿「石橋の間」壁面として、昭和30年に仮宮殿のために謹作した「石橋」に加筆し新たにその左右に「紅牡丹」「白牡丹」の二面を制作する。「腑分」第55回院展。「新石橋」(「紅牡丹」「白牡丹」)「連雀」「梅日和」「八橋」昭和46年 「米寿記念前田青邨展」(於3.30-4.4東京日本橋高島屋、4.13-4.18大阪高島屋、4.20-4.25名古屋松坂屋。朝日新聞社主催)11月、すゑ夫人(荻江露友)が古典荻江節継承者として日本芸術院第三部会員となる。「知盛幻生」第56回院展。「応永の武者」「宋磁壺紅白梅」「晩秋(1)」昭和47年 「前田青邨作品集」(朝日新聞社)刊行。高松塚古墳壁画模写の総監督を委嘱される。「鴨」日本美術院春季展昭和48年 高松塚古墳石室に入室。「奈良の鶴の子」日本美術院春季展。「水辺の春暖」「土牛君の像」第58回院展。「大楠公」五都展昭和49年 春、高松塚古墳壁画模写が完成。東京国立博物館で内示が行われる。2月、ローマ法皇庁からの依頼によりバチカン美術館に納める「細川ガラシヤ夫人像」を完成、東京国立近代美術館でその贈呈式が行われる。「富貴花」第59回院展。「古事記」(絵巻)日本美術院春季展。「細川ガラシヤ夫人像」バチカン美術館昭和50年 5月14-7月6 東京国立近代美術館において「前田青邨展」が開催される(現存作家の個人形式展として「平櫛田中展」についで2回目の企画)。「鶺鴒」日本美術院春季展昭和51年 6月5-7月4 京都市美術館において「前田青邨展」(京都市(財)日本文化財団・京都新聞社・近畿放送主催)開催。昭和52年 10月27日、老衰のため死去。戒名は画禅院青邨大居士。「桃花」日本美術院同人小品展。「晩秋」五都展昭和54年 3月17日、前田青邨先生筆塚建立供養会施行(於鎌倉市東慶寺)。9月、前田青邨 三周忌記念展(於東京日本橋高島屋)
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没年月日:1977/10/14 洋画家、一水会会員大舘健三は、10月14日死去した。享年75。明治35年11月25日東京都に生まれ、大正9年川端画学校に入り藤島武二に師事、同11年東京美術学校西洋画科入学し、在学中太平洋画会、聖徳太子奉讃展に出品、昭和2年同校を卒業する際奨励賞を受け、引き続き研究科へ進んだ。翌3年和田英作教室の制作助手となった。同4年一水会に初入選し、以後同展へ出品を続け、戦後の同21年一水会会員となった。この他、日展、美術団体連合展などにも出品、同44年には山元好信と二人展を開催、5回展まで続け、同46年には六悠会を創立し制作発表した。戦後の一水会への出品作には、「童踊」(第9回)、「ふたり」(第15回)、「二女による構成」(第28回)、「閑庭」(第36回)などがある。
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没年月日:1977/10/11 洋画家、日本水彩画会会員二瓶大三は、10月11日脳血栓のため死去した。享年65。大正元年12月12日福島県岩瀬郡に生まれ、昭和7年福島県師範学校を卒業し、同13年県立相馬女子高校教論となり美術を担当した。同15年日本水彩展に初入選、同31年第33回春陽会展に「二本松雪景」が初入選、同41年春陽会会友に推挙され、同42年には第55回日本水彩展に「沼尻高原」「古城」を出品して会友奨励賞(美術報知賞)を受賞、翌年日本水彩画会会員となった。同46年東南アジアに写生旅行に出かけたのをはじめ、その後、印度、ネパール、イタリア、シルクロード、南フランスへと同51年まで写生旅行を重ねた。代表作に水彩の「月見草の咲く高原」、油絵の「安達太良山の四季」がある。
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没年月日:1977/09/27 洋画家、太平洋美術会委員近馬勘吾は、9月27日死去した。享年83。明治27年9月21日岡山市に生まれ、同45年上京、翌大正2年に太平洋画会に入り中村不折、岡精一に師事、以後戦前、戦後を通じて同会と共に歩み、戦後は同会展の審査員をはじめ、太平洋美術学校で指導にもあたった。この間、大正11年から翌年にかけてロシアへ渡りアレキサンドルフスクなどに滞在、昭和36年には渡仏巡遊した。戦後の太平洋画会展出品作に、「或る日のエチュード」(52回)、「庭に来る鳥」(56回)、「礎石の人と」(60回)、「妻」(69回)など。
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没年月日:1977/09/20 洋画家、日展参与、光風会名誉会員小寺健吉は、9月20日肝臓がんのため東京飯田橋の警察病院で死去した。享年90。俳号村鳥。明治20(1887)年1月8日岐阜県大垣市に生まれる。同39年東京美術学校西洋画科に入学し、長原孝太郎、小林万吾、和田英作、黒田清輝に指導を受け、同44年卒業。翌年光風会第1回展に「日比谷音楽」「花」を出品、以後同展に出品を続け、大正3年第3回展に「女」など4点を出品して今村奨励賞を受賞、同13年会員となった。また、大正2年第7回文展に「秋近く」が初入選、続いて第8回「浅草の夏の真昼」、第9回「水のほとり」で褒賞を受けた。その後も文展、帝展に入選を重ね、大正12年と昭和2年に各々一年余り渡欧。昭和3年、第9回帝展出品作「南欧のある日」で特選を受け、翌年は無鑑査出品、以後推薦となった。同8年光風会評議員となる。以後、光風会、新文展に出品を続けたほか、同15年の紀元2600年奉祝美術展に「細雨」を出品、同18年第6回新文展出品作「山狭」は黒田子爵奨励資金買上となった。戦後は、光風会、日展、美術団体連合展などで制作発表を行い、同25年第6回日展ではじめて審査員(以後5回)をつとめた。同40年「画業50年記念展」(日本橋・三越)を開催する。同45年日展参与となり、同52年文展以来の永年の出品活動に対して日展から顕彰状が贈られた。同年『小寺健吉画集』(日動出版部)が刊行される。初期は後期印象派風のタッチで装飾性の強い画風を示したが、やがて写生画風に転じた。戦後の代表作に「雪の夜明(蔵王)」(第48回光風会展)、「枝柿と花の静物」(第7回新日展)、「青果市場(シンガポール)」(昭和40年)、「陶器造りの庭」(同42年)などがある。
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没年月日:1977/09/20 洋画家、旺玄会常任委員杉浦一郎は、9月20日死去した。享年61。大正5年6月15日東京都豊島区に生まれた。戦後の昭和27年旺玄会第6回展に「屋上より」を出品、以後同会に制作発表を行い、同30年第9回展に「大海」「外房風景」を出品して会友、同33年第1回展から通算して第24回展としたこの年の出品「球場盛夏」「未完成画室」で会友努力賞を受賞、翌年会員となった。同37年旺玄会委員となり、同39年には常任委員となった。旺玄会の他、日本山林美術協会会員でもあった。旺玄会常任委員としての出品に「黄色の卓布」(34回)、「回転木馬」(37回)、「シェルブールの窓」(40回)などがある。
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没年月日:1977/09/16 女流洋画家の草分けの一人、亀高文子は、9月16日急性心筋こうそくのため西宮市の兵庫医科大学病院で死去した。享年91。明治19(1886)年7月8日、水彩画家渡辺豊次郎(豊州)の子として横浜に生まれる。同35年女子美術学校本科西洋画科に入学、同40年卒業し、この年父豊州のもとに出入りしていた小杉未醒の紹介で満谷国四郎に入門、また太平洋画会研究所に入って中村不折にデッサンの指導を受けた。同年東京府勧業博覧会に「杉の森」、翌年41には太平洋画会第7回展に「音無川」を出品し、同42年第3回文展に出品した「白かすり」が初入選し褒状を受けた。以後文展帝展に出品を続けたが、大正7年与謝野晶子らと女性だけの洋画家集団朱葉会を創立し同会展に制作発表を行った。同12年神戸に移住し、同15年同地に赤艸社女子絵画研究所を創立、昭和4年朱葉会を退会し、翌5年には兵庫県美術家連盟の創立に参加し会員となった。戦時中の同18年赤艸社を閉鎖したが、戦後同24年西宮市に移転して赤艸社を再開した。同37年兵庫県文化賞を、同46年には西宮市民文化賞を受賞した。また、同50年「亀高文子自選展」(西宮市大谷記念美術館)を開催した。戦前の代表作には、第12回文展「ダニエルの話」、第2回帝展「椅子による少女」、第5回帝展「少女と小猫」などのほか、第3回朱葉会展「カナダの少女」などがあり、戦後では昭和46年兵庫県文化賞受賞者展に出品した「風景(六甲連山)」「あじさい」などがある
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没年月日:1977/09/10 洋画家、日展評議員新保兵次郎は、9月10日直腸ガンのために東京医科大学病院で死去した。享年69。明治41年3月13日に新潟県長岡市に生まれ、日本美術学校を中退、小絲源太郎に師事した。昭和8年第14回帝展に「静物」で初入選、翌15回展には「山荘に於けるM氏」が入選、以後新文展に出品した。戦後は同21年第2回日展に「書窓」、翌年の第3回展に「笛」で連続特選を受賞し、以後出品依嘱となった。また、光風会展にも出品し、戦後会員になるとともに、同27年第38回光風会展では「白石のある風景」で光風特賞を受けた。同36年第4回日展ではじめて審査員をつとめ「早苗饗」を出品、翌年日展会員となり、同43年日展評議員となり同年の第11回日展出品作「森の朝」で内閣総理大臣賞を受賞した。他に日展出品作には改組第1回「帰巣」、同第5回「待春」などがある。
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没年月日:1977/09/08 光風会評議員、日展参与の洋画家笹鹿彪は、9月8日午前10時45分、脳血センのため東京新宿区の河井病院で死去した。享年76歳。笹鹿彪は、明治34年(1901)3月11日、鳥取県米子市に、印刷業を営んでいた父又太郎、母たけの2男3女の次男として生まれ、明治40年(1907)米子市明道小学校に入学、大正2年(1913)同校卒業、一時期、銀行に勤務した。大正元年(1912)米子市錦公園で開催された洋画家香田勝太の個展をみて感動をうけ、銀行勤務のかたわら絵画を独習していたが、大正9年(1920)に上京して代議士三好栄次郎(英之)宅の書生となり、ついで原宿の池田仲博侯爵邸に移り、絵の相手役などをつとめながら、岡田三郎助主宰の本郷絵画研究所に学んだ。上京した大正9年第8回光風会展に「二本榎の風景」が入選、翌10年第3回帝展に「少女」が入選となり、同年7月(10日~11日)には米子公会堂で個展を開き、また第3回中央美術展に「祖母の像」が入選した。大正12年、関東大震災のために一時郷里に帰り、このとき宮千代と結婚、翌年再び上京し、焼失した本郷絵画研究所の再建に尽力した。また同研究所の展覧会本郷絵画展(のち、春台展)の結成に努力し、その委員長に推薦され、大正14年(1925)第1回展から昭和18年(1943)まで出品した。帝展、新文展にもつづけて入選し、昭和10年無鑑査、11年文展招待展出品、この年、旧満州国に旅行、13年にはサイパン、テニヤン、ロタ、ヤップ、パラオ島など南洋諸島を6ケ月ほど巡遊し、15年師の岡田三郎助の死去にあい、葬儀に際しては門下生代表として弔辞を呈した。昭和16年東亜留学生会館の壁画を制作、旧満州に再遊、ハルピンで個展を展開した。 昭和20年、鳥取県西伯郡天津村阿賀に疎開、翌21年に上京、光風会再建に参加して会員に推挙された。以後光風展、日展で活躍をつづけ、昭和34年(1959)日展会員、同36年日展審査員、同39年評議員、同51年日展参与となった。また、昭和23年(1948)、のフラナガン神父が来日し、戦争孤児の救援活動に尽力している姿に打たれて大作(500号)「フラナガン神父と子供達」を制作して大阪駅に展示し、同題の100号の作品を銀座教会に贈り、それは後にアメリカ、ネブラスカ州ボーイズ・タウンへ送られた。個展歴としては、昭和33年フジカワ画廊、同34年大阪心斎橋画廊、同37年丸ノ内工業クラブ、同42年新宿ステーションビル、ギャラリー・アルカンシエル、同年鳥取市民会館、同45年鳥取県立博物館、同年米子高島屋、同47年小田急美術画廊、同52年(3月22~31日)渋谷ギャラリー・ジェイコにおいてそれぞれ個展を開催した。また、昭和28年から川村学園短大講師、同50年には教授となった。作品略年譜大正9年 第8回光風会展「二本榎の風景」大正10年 第3回帝展「少女」第2回中央美術展「切通風景」大正11年 第3回中央美術展「祖母の像」大正14年 第6回中央美術展「母の像」第6回帝展「室内にて」(鳥取県立博物館蔵)大正15年 聖徳太子奉讃展「ギタリスト」第7回帝展「おさげ髪」昭和2年 第8回帝展「母の像」昭和3年 第9回帝展「窓」昭和6年 第12回帝展「姉と弟」昭和7年 第13回帝展「女と子供」第7回春台展「姉弟」昭和9年 第9回春台展「少女」第15回帝展「3人のコンポジション」昭和10年 第二部1回展「馬車」昭和11年 文展招待展「扇」昭和12年 第12回春台展「稽古着の江口隆義像」第1回文展「セニョリータ・イスラ」昭和13年 第2回文展「少年」昭和14年 第14回春台展「北鮮の印象」第3回文展「港」昭和15年 紀元2600年記念展「某基地の昼食」昭和16年 第4回文展「パイプを持つ男」昭和18年 第18回春台展「踏切番」「シャク帽子の男」昭和19年 戦時特別文展「砂鉄製錬」昭和20年 現代美術展「小鳥屋」(米子市役所蔵)昭和21年 3月第1回日展「サージェント」10月第2回日展「裁縫」昭和22年 第33回光風展「電信草」第3回日展「無題」昭和23年 第34回光風展「けい子ちゃん」第4回日展「靴磨き」昭和24年 第35回光風展「午后の窓」第5回日展「駐車場」昭和25年 第36回光風展「編物」昭和26年 第37回光風展「ザボンのある静物」第7回日展「コスチューム」昭和27年 第38回光風展「壺」第8回日展「N夫人」昭和28年 第9回日展「サンダースホームの子供達」昭和29年 第40回光風展「おやつ時」第10回日展「帽子の店」昭和30年 第41回光風展「椿と壺など」第11回日展「図画教室」昭和31年 第42回光風展「裸婦」第12回日展「マリモと少女」昭和32年 第43回光風展「石工」昭和33年 第44回光風展「窯場」第1回改組日展「帆を乾す」昭和34年 第45回光風展「浜」第2回改組日展「修道女」昭和35年 第46回光風展「若き漁夫」第3回改組日展「宇宙問答」昭和36年 第4回改組日展「プロメテ」(島根県立博物館蔵)昭和37年 第48回光風展「黒潮」第5回改組日展「風車にいどむ」(ドンキホーテ)昭和38年 第49回光風展「網を繕う」第6回改組日展「牛と人」昭和39年 第50回光風展「石馬を刻む」第7回改組日展「白土礪床」昭和40年 第51回光風展「釣人」昭和41年 第52回光風展「押っぺし」第9回改組日展「漁港の女」昭和42年 第53回光風展「網を運ぶ」第10回改組日展「漁港の女達」昭和43年 第54回光風展「ネオンの街」第11回改組日展「朝」昭和44年 第55回光風展「漁港にて」第1回改組日展「小雨降る」昭和45年 第56回光風展「漁港の正月」第2回改組日展「漁港にて」昭和46年 第57回光風展「二月の外房」第3回改組日展「わかめを干す」昭和47年 第58回光風展「熔岩の島」第4回改組日展「わかめ干す浜」昭和48年 第59回光風展「裏阿蘇」第5回改組日展「ネオンの街」昭和49年 第60回光風展「がらくた屋」第6回改組日展「砂丘は暮れる」昭和50年 第61回光風展「屋根の上の小鳥小屋」昭和51年 第8回改組日展「飯坂郊外」昭和52年 第63回光風展「飯坂の秋」第9回改組日展「残雪の鳥々山」
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没年月日:1977/09/07 洋画家、白日会委員灰野文一郎は、9月7日急性肺炎のため宇都宮市の自宅で死去した。享年75。明治34年12月8日新潟県柏崎市に生まれ、大正14年明治大学商科を卒業、以後宇都宮市立商業学校をはじめ晩年まで、県立宇都宮商業高等学校、作新学院高等部商業科で教鞭をとり商業美術を担当した。昭和6年第8回白日会に初入選、同11年「炭焼く人」で文展に初入選し、翌12年第14回白日会展に「K子像」で会友奨励賞を受賞し会員となった。戦後も白日会、日展に出品を重ね、同30年前後からは那須の山をモチーフに描いた。日展出品作に「霧」(第3回展)、「菊」(第7回展)、「八月の那須山」(第8回展)などがある。晩年は白日会栃木県支部長、栃木県文化協会理事をつとめる。
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没年月日:1977/08/31 日本画家長谷川朝風は、ボウコウガンのため東京都立駒込病院で死去した。享年75。本名慎一。明治38年11月29日岐阜県安八郡に生れ、京都市立絵画専門学校を卒業、安田靱彦に師事した。昭和14年第26回日本美術院展に「秋盡」「湊二題」が初入選し、以後殆ど毎回出品をつづけた。昭和31年「絃」で日本美術院次賞(大観賞)を受賞、翌年「転生」で無鑑査となった。その後、第50回「出雲神楽」、第52回「苑」、第54回「濤歌」、第57回「鬼燎」などで無鑑査となり、昭和40年頃より院特待となった。画業のほか俳句をたしなみ、俳句作家協会会員、雲母同人で、俳誌「青唐」を主宰する。著書-「木偶微笑」「魚紋」
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没年月日:1977/08/16 洋画家で陶芸家・日本美術会会員の硲伊之助は、8月11日午後10時42分、心臓性ゼンソクのため、石川県加賀市の自宅で死去した。享年81。硲伊之助は、明治28年(1895)東京に生まれ、慶応義塾普通部を中退して、大下藤次郎の日本水彩画研究所に学び、大正元年(1912)のヒュウザン会に参加、会員中最年少者であった。その後、二科会に出品、第1回展で二科賞を受賞。大正10~昭和4年(1921-29)フランス滞在、帰国後は春陽会、ついで二科会に出品、昭和8~10年(1933-35)再渡欧し、マティスに師事した。帰国後は、一水会の創立に参加し、戦後は美術界の民主化を唱えて日本美術会委員長に就任、また、昭和24~25年東京芸術大学助教授をつとめた。昭和28・30年と日展審査員となったが、翌32年には審査方針を批判して日展を脱退した。明るい色彩と知的な構図の近代的な作風で知られたが、昭和26年(1951)ころから陶芸に関心をいだき、三彩亭と号して陶器制作にあたり、とくに晩年は加賀市吸坂に九谷焼の制作に打ちこんでいた。略年譜明治28年(1895) 11月14日、東京市本所区に、硲文七、八重の三男として生まれる。両親は和歌山県出身、父は日本橋木村漆器店に勤務。明治42年 慶応義塾普通部入学。明治44年 慶応義塾普通部を中退する。この年、大下藤次郎の日本水彩画研究所に入所、夜間は暁星学園でフランス語を学ぶ。大正1年 10月、第1回ヒュウザン会展に「雨」(水彩)、「夕暮」「顔」「鈍き太陽」を出品。大正2年 3月、第2回フュウザン会展に「風景」(1~8)、「静物」、「デッサン」2点を出品。大正3年 10月、第1回二科展に「女の習作」を出品、二科賞を受賞。大正4年 第2回二科展「崖」「風景」。大正5年 第3回二科展「水浴」「風景」「男の顔」大正7年 第5回二科展「晴れた日(水彩)」「枯木と家」「冬の竹籔(水彩)」「鵠沼の白い橋」「池袋附近にて」「田舎」「曇り日」「エビス附近」「黄金水仙」「我孫子附近」「男の顔」「冬の田」「春」「湿れる土」「中川堤防附近」「寄りかかれる男の習作」「鵠沼風景」「畔道」「立てる男の前向」「黒い土の畑」「女の背」「竹籔」「林君の横顔(鉛筆)」「男の横顔(コンテ)」「沼に寄れる一本の樹」「冬」の26点を出品、再度二科賞をうける。大正8年 9月、第6回二科展「池袋附近(秋)」「沼の岸」「山路」「目黒にて」、二科会会友に推挙される。大正9年 9月、第7回二科展「大森近く」」「田と畑」「生麦」「肖像」「原釜にて」。大正10年 6月、父文七死去。7月、クライスト丸にて渡欧、坂本繁次郎、小出楢重、林倭衛らと同船。9月、第8回二科展「立って居る男」。パリにてアカデミー・グラン・ド・ショミエールに通う。大正12年 5月、春陽会客員となる。在仏。大正13年 ブザンソンに6カ月滞在、「村の入口(ブザンソン風景)」らを制作。大正15年 春陽会会員となる。昭和2年 4月、第5回春陽会展「ローマ時代の橋」「萎れた薔薇」「村の入口」「キャニュの秋」「マルティギュの煙突と塔」「玉葱の花」「新聞を読む女」出品。昭和3年 1月、第8回創作版画協会展に出品、4月、第6回春陽会展に、「朝着」「小みち」「松と海」「田舎娘」「マルセイユ近郊」「室内」「丘の家」「夜の祭」「巴里の一隅」などを出品。5月、フランス人ロゾラン・アデリア・エルビラと結婚。昭和4年 4月、第7回春陽会展「アデリア」「フラヴィアン橋(2)」「菲沃斯」「赤い着物」「フラヴィアン橋(1)」「南仏の台所」「青縞の前懸」「黒鴨」「サロン町の時計台」「カタラン水泳場」。この年帰国、東京・本郷区駒込浅嘉町49番地に画室を新築する。昭和5年 4月、第8回春陽会展に滞欧作品を特別陳列、「南佛の農家(1)」「ニース別荘町」「松」「初夏」「アルルの女」「豌豆を剥く」「水車小屋」「南仏の星」「肉屋」「南仏の農家(2)」「少女」「サント・ヴィクトワル山」「曇り日」「露台」「篠懸の蔭」「羅馬時代の橋」「マントンの回教寺(版画)」など。11月、雑誌『セレクト』に「東洋の伝統」を執筆。昭和6年 4月、第9回春陽会展「ヴァンサンヌ公園」「金鳳花」「支那壺の花」「田舎娘」。春陽会委員となり財務を担当する。8月、伊伏鱒二著『仕事部屋』(春陽堂)を装幀。9月第1回日本版画協会展に会員として出品。昭和7年 4月、第10回春陽会展「アヴィニヨン街道」「横たわる少女」。7月、南紀芸術社刊雑誌『南紀芸術』6号の表紙を描く。10月、『コロ画集』(アトリエ社)の解説執筆。昭和8年 春陽会を退会し、8月二科会会員に推挙される。9月、第20回二科展に「金魚」出品。再渡仏し、パリにおける開催に尽力し「かえる」を出品。マティスと接触し、師事する。昭和9年 9月、第12回二科展「花つくりの家」。昭和10年 春、帰国する。9月、第22回二科展に滞欧作を特別陳列、「室より」「港」「海水浴場」「望遠鏡」「尼寺」「荷物船」「鐘樓」「漁船」「ニース海岸通り」「夕暮れ」「伊太利の労働者(石版)」「提防(石版)」「大きなパルミエ(石版)」「尼寺(石版)」「台所(石版)」「ニース海岸通り(石版)」「南佛の村(石版)」昭和11年 5月、木下孝則、木下義謙、浜地青松、川口軌外、園部香邦、硲伊之助の6名によるを和歌山市と新宮市で開催。8月、ベルリン・オリンピック芸術部門部員となる。石版画「船を漕く若者」ヒットラーの買上げとなる。9月、第23回二科展「芍菜」「夏の午後」「薄日さす地中海」「南仏の秋」。10月、二科会を退会し、12月、一水会創立に参加。昭和12年 11月、第1回一水会展「砂丘」「少憩」「鵠沼の想い出」昭和13年 11月、第2回一水会展「清宴舫(昆明湖)」「モデルと壺」「あぢさゐ」。『マチス』(アトリエ社)を出版。昭和14年 11月、第3回一水会展「閨秀画家」「鱒釣り」「磯崎」「なの花」「カーネーション」。この年、日本版画協会を退会。昭和15年 10月、2600年奉祝展「I令嬢」。同月、陸軍省嘱託として中支方面に従軍、「臨安攻略」を制作。11月、第4回一水会展「黒い帽子」「ガーベラ」。昭和16年 4月、文化学院美術部長となる。7月『ギュスタヴ・クールベ』(アトリエ社)刊。9月、第5回一水会展「燈火」。昭和17年 9月、第6回一水会展「六月の庭」。10月第5回文展に審査員として「黒服のI令嬢」。この年銀座資生堂において個展。三彩亭の号を用いはじめる。昭和18年 9月、第7回一水会展「ひまわり」。10月、第6回文展「菜園の隅」。この頃、「PIED DE VEAU」「藤」を制作。昭和19年 6月、東京美術学校油画科講師、8月、助教授となる。12月『硲伊之助近作画集』(十一組出版部)刊。昭和20年 東京大空襲により本郷のアトリエ焼失昭和21年 第1回日展「黄八丈のI令嬢」。9月、第8回一水会展「A LA CAMPAGNE」。10月、第2回日展「P氏とI令嬢」昭和22年 6月、第1回美術団体連合展「Monsieur BONATI」。12月、日本美術会委員長に就任。昭和23年 5月、第2回美術団体連合展「ビアチェンティニ氏」。9月、第10回一水会展「水仙」。第2回日本アンデパンデン展「午後のひととき」。昭和24年 5月、第3回美術団体連合展「アンゴラのセーター」。6月、新制東京芸術大学助教授と認定される。9月、第11回一水会展「O女史之像」昭和25年 7月、東京芸術大学助教授を辞任して渡仏、11月「マチス会見記」(芸術新潮)を発表、マティス展、ピカソ展、ブラック展など開催のため折衝にあたる。昭和26年 帰国、千代田区麹町1番地に移転。5月、第5回美術団体連合展「芝居がえり(春信模写)」。昭和27年 2月、第5回アンデパンダン展「九谷染付上絵羅馬サンタンジェロ城」。9月、第14回一水会展「パウロ君」。同月、『パリの窓』(読売新聞社)刊。昭和28年 10月、第9回日展「湖来」(木版)、文部省買上げとなる。昭和29年 9月、第16回一水会展「釉裏紅瑠璃桃絵皿」「呉須飴釉黍之絵皿」「九谷上絵五位鷺皿」「呉須飴釉白菊皿」「呉須色絵秋景色皿」「九谷上絵雛罌粟皿」「呉須あやめ皿」「九谷上絵双鶴松竹梅皿」「九谷上雛粟皿(黒つぶし)」「九谷上絵鳥之角鉢」「釉裏紅瑠璃絵付飴釉花見皿」「九谷上絵猿猴角鉢」。10月、国慶節出席のため中国訪問。この年三鷹にアトリエを設ける。昭和30年 9月、第17回一水会展「田の草取り」「菜の花」「草花」「箒を持つ女」(以上、陶器)。10月、第11回日展「あやめ」(木版)。『ゴッホの手紙・上』(岩波書店)刊。昭和31年 9月、第18回一水会展「染付中皿みのりの秋」「九谷上絵狗透彫菓子皿」「九谷上絵梅花香炉」「九谷上絵木蓮とふくろ図大皿」「染付飴釉木蓮図九角皿」昭和32年 9月、第19回一水会展「飛青磁角形水滴」「九谷上絵麻の菊」「吸坂手熊」「九谷上絵桜草」「九谷上絵大皿夜」「九谷上絵とくさ」「トルコ青の女」。10月、日展を脱退。昭和33年 9月、第20回一水会展「九谷上絵野草小皿五客」「九谷上絵月見草九角平鉢」「九谷上絵紅梅中皿五客」「青磁熊絵線彫中皿」「九谷染付月見草大皿」、委員回顧室に「燈火」「栗」。この年、港区麻布に移転。昭和34年 9月、第21回一水会展「山吹(九谷染付皿)」。この年、木下義謙、酒井田柿右衛門、今泉今右衛門らと一水会陶芸部を創設。世田谷区岡本町へ移転。昭和35年 9月、第22回一水会展「九谷染付中皿くちなし」「九谷染付皿の桂」「九谷染付中皿南方の島」。この年、「頬杖をつく公子」「箱根」(以上、素描)、「菊」、「レモンとガーベラ」、「黄色のオーバー」「山つつじ」(以上、油絵)などを制作。昭和36年 3月、渋谷東横百貨店にてを開催。5月、岡山天満屋において開催し「緑のマフラー」「スヰトピー(青の背景)」「スヰトピー」「早春の丘」「河口湖夕照」「馬酔木」「渓流(その1)」「渓流(その2)」。9月、第23回一水会展「九谷染付木蓮大皿」。『ゴッホの手紙・中』(岩波書店)刊。昭和37年 9月、第24回一水会展「けしの矢車草」「つばめの魚」「茄子」「菊」「新聞」(以上、陶器)。昭和38年 7月、中国へ旅行。9月、第25回一水会展「九谷上絵牡丹大皿」「九谷本窯月見草大皿」「吸坂手五位鷺皿」「頬杖する公子」(以上、陶器)。昭和39年 9月、第26回一水会展「麦秋」。11月、ヨーロッパ各地を旅行。昭和40年 4月、アルバニアに3カ月滞在、7月帰国。9月、日動画廊でを開催、「メッシ橋」「アルバニアの老人」「ポリクセニ嬢とムカイ氏の会話」「サランダの港」「ジロカステロの古い家」「糸を紡む女」「ドゥルスの眺め」「煙草畑の耕作者たち」「アルバニアの花嫁」「ドゥルスの農家」を出品。第27回一水会展「九谷上絵茄子皿」「九谷染付椿中皿」「九谷染付五位鷺角皿五客」昭和41年 9月、第28回一水会展「九谷上絵大皿農家之内部」「九谷染付大皿渓流之詩人」「九谷上絵大皿麦畑之道」昭和42年 9月、第29回一水会展「吸坂窯大皿砂丘の公子」「九谷染付上絵入大皿アルバニアの老夫人」「吸坂窯台鉢漢代石馬」「吸坂窯台鉢石牛」「吸坂窯瓢形小皿赤いブラウスの公子五客」「吸坂窯瓢形小皿もろこしとえんどう五客」「吸坂窯瓢形小皿夫婦鶴五客」「吸坂窯小判形小皿眠れるチビ公五客」「九谷上絵吸坂釉額皿閨秀画家」「九谷染付絵入額皿備前主窯趾」。11月心臓喘息の発作で入院。昭和43年 9月、第30回一水会展「吸坂窯瓢形空豆之小皿五客」「九谷呉須上絵大皿アルバニアの案山子」「九谷上絵大皿天の橋立之老松」「九谷上絵夜の椿中皿五客」「九谷上絵大皿奇妙な枝ぶりの松」「吸坂窯瓢形白菊之小皿五客」「吸坂窯小判型くちなし皿小客」。昭和44年 9月、第31回一水会展「吸坂焼九谷絵附懐石用銚子」「吸坂焼朝顔手鉢」「九谷上絵大皿長崎港の渡船場」「九谷黒釉花瓶」「九谷上絵紺青夜の月見草大皿」。『浮世絵-春信と歌麿』(日本経済新聞社)刊。昭和45年 9月、第32回一水会展「九谷上絵陶板ドウルスの農家」「九谷染付柿紅葉大皿」。『ゴッホの手紙・下』(岩波書店)刊。昭和46年 9月、第33回一水会展「九谷染付上絵富士と麦畑之陶板」「吸坂象嵌あやめ大鉢」「九谷上絵天橋立老大皿」「九谷瑠璃釉山吹大皿」。『九谷焼』(集英社)刊。昭和47年 10月、第34回一水会展「呉須上絵大皿松の幹(与謝の海を見て)」「吸坂手大皿新緑のなかのひと」「呉須上絵大皿逆光の老松」。この年、外務省主催ヨーロッパ巡回出品。昭和48年 10月、第35回一水会展「九谷上絵呉須男鹿半島ほにょ大皿」「九谷上絵奥入瀬の紅葉大皿」「九谷上絵小皿新聞五客」「吸坂手九谷上絵小菊皿」。この年、中日文化賞を受賞。昭和49年 3月、高岡市立美術館において開催され、陶磁器40点、油彩画19点、版画3点出品される。10月、和歌山県立近代美術館において開催され、陶磁器42点、油彩画45点、水彩画2点、版画17点、素描1点、ほか資料類が展示される。11月、第36回一水会展「吸坂手朝顔八寸皿」。昭和50年 10月、加賀市立図書館において開かれ、陶器29点、油彩画14点、版画3点が出品される。11月、第37回一水会展「九谷上絵鳥越村採石場大皿」「九谷上絵利根之水門角皿五客」「九谷上絵茄子之扇面皿」「九谷上絵朝之北潟扇面皿」「吸坂手栗扇面皿」「吸坂手葉紋瓢形皿五客」。昭和51年 1月、和歌山県文化功労賞を受ける。東京を引きあげて加賀市在住となる。10月、第38回一水会展「九谷上絵月見早黒釉大皿」「九谷呉須上絵老松之大皿」。『硲伊之助画集』(三彩社)刊。昭和52年 10月、第38回一水会展に遺作「室内」(1928)「Monsieur BONATI」(1947)「黄八丈のI令嬢」(1946)が展観される。
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没年月日:1977/08/15 洋画家加納辰夫は、8月15日脳血せんのため島根県安来市の日立病院で死去した。享年73。号莞蕾。昭和6年独立美術協会の創立 に際し、第1回展に「静物」を出品し、同18年の第13回独立展では「四十八人の群像」で受賞するなど戦前は洋画家として活躍したが、戦後中央画壇を離れて帰郷し、フィリピンのモンテンルパ刑務所に収容されていた日本人戦犯108人の釈放を求めて当時のフィリピンのキリノ大統領に嘆願書を送り続け、同28年7月の戦犯釈放実現に尽力した。その後再び絵筆をとり水墨画に転向、莞蕾と号して独自の画風を示した。同52年3月画集『莞蕾墨彩』を刊行した。
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没年月日:1977/08/15 洋画家、春陽会会員水谷清は、8月15日心不全のため死去した。享年75。明治35年1月8日岐阜県郡上郡に生まれ、大正9年早稲田大学商科に入学したが同年退学し、以後小杉放庵に師事、また川端画学校に学んだ。大正15第4回春陽会展に「裸女群浴」他1点が初入選し、翌昭和2年の第5回展に「秋日」他2点を出品して春陽会賞を受け無鑑査に推され、同4年の第7回展でも「海女」他4点を出品して春陽会賞を受賞、同年渡仏し、パリのグラン・シュミエールに学んだ。同5年にはサロン・ドートンヌに出品、同年春陽会会友に推され、翌6年帰国の年の第9回春陽会展に滞欧作「五月の小庭」など15点を出品、翌7年にも「セビラのカルナバル」など5点の滞欧作を発表した。同8年春陽会会員となり、同10年秋にはインドに遊学し翌年春に帰国、同年同志と文芸日本協会を興し「文芸日本」を発刊した。また、同15年春陽会の文展参加に際し、審査員をつとめた。戦後も春陽会に制作発表したほか、現代日本美術展などにも出品、また、同32年にはサンパウロ、ビエンナーレ展日本側委員として出席しメキシコに滞在、翌33年にはメキシコ芸術院主催の個展をベヤス・アルテスで開催した。また、同31年から同42年まで金沢大学教授をつとめたほか、同34年からは早稲田大学講師もつとめた。戦後の春陽会出品作に「闘牛」(第36回)「佐藤春夫先生像」(第40回)、「琉球」(第43回)「鬼子母神縁起」(第50回)などがある。著書に『素描スケッチの描き方』(昭和7年春陽堂)、『印度回想』(昭和18年文林社)。
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没年月日:1977/08/12 日本画家植中直齋は、8月12日京都市の自宅で死去した。享年91。本名直治郎。明治35年より36・7年にかけて、一時養子縁組により戸田姓を名乗るが、再び旧姓に復した。明治18年10月1日奈良県天理市に生れ、はじめ(明治35年頃)大阪の画家深田直城の画塾に学んだ。日本美術協会大阪支部展「雲の中の西王母」(明治35年)、明治36年春日本美術協会展「具足飾図」(宮内省買上)、同年同協会歴史風俗画展「那須与一」等の作品があり、専ら歴史風俗画を描いた。明治38年上京し橋本雅邦に師事した。明治40年東京勧業博覧会に「念誦ノ図」(二等賞)を出品、また同年第1回文部省美術展覧会には「落日」(三等賞)を出品した。翌41年鎌倉に居を定め、田中智学師に師事日蓮宗教義及国文学を専ら修めた。しかし大正元年に至り偶々病を得て大阪に帰省し、ついで西宮で療養生活を送った。大正2年山元春挙の門に入り、文展に出品した。大正8年京都帝国大学教授沢村専太郎に師事し、大学研究室教務用絵画の嘱託を受け、傍ら東洋絵画史及美学の聴講をし、またこの年日本自由画壇に入り、大正13年退会した。昭和に入ってからは帝展に出品、専ら宗教画を描いた。画歴明治35年 「雲の中の西王母」日本美術協会大阪支部展。明治36年 「具足飾図」(宮内省買上)日本美術協会展。「那須与一」日本美術協会歴史風俗画展明治38年 上京、橋本雅邦に師事。明治40年 「念誦ノ図」(二等賞)東京勧業博覧会。「落日」(三等賞)第1回文展明治41年 「虫干ノ図」(三等賞)巽画会展大正2年 山元春挙に師事。大正4年 「得意」第9回文展。大正5年 「征途ノ楽」(六曲一双)第10回文展。大正6年 「勝者ノ誉」(六曲一双)第11回文展。大正7年 「隠退の聖日蓮と宗徒」(六曲一双)第12回文展。大正9年 「宗旨建立の聖日蓮」自由壇展。大正10年 「金色堂」自由画壇展。大正11年 「龍女出現」自由画壇展。大正12年 「灌頂を授クル女性」大正14年 大正天皇皇后両陛下御成婚満廿五年御祝儀奉祝記念献上画昭和2年 「然燈供養」第8回帝展。昭和3年 「高野ノ維盛」第9回帝展。昭和4年 「無間業(重盛)」第10回帝展。昭和5年 久邇宮家御襖御用画「御庭ノ夕」「建札門院」第11回帝展。昭和6年 「賜豊酒」第12回帝展。帝国美術院推薦。昭和7年 「供燈(春日若宮)」第13回帝展昭和9年 「松ノ下露」第15回帝展。昭和11年 「獅子及献馬」吉田神社本殿壁画。昭和13年 「小楠公」第2回文展。昭和14年 「木村重成夫人」山元春挙追悼展。
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没年月日:1977/08/01 画壇の最長老で、もと二科会、二紀会委員の洋画家、熊谷守一は、8月1日、午前4時35分、肺炎のため東京都豊島区の自宅で死去した。享年97。岐阜県の小村に生まれ、明治37年東京美術学校西洋画科を卒業、同期に青木繁、和田三造、山下新太郎などがいたが、卒業後、政府の樺太調査隊に参加したり、その後は郷里の木曾山中で5年間にわたり樵夫の生活をおくるなど特異な経歴をもち、友人のすすめで上京、大正中期から昭和前期にかけては(1915~20)二科会に所属し、その間、画家の有島生馬、音楽家の信時潔、颯田琴次、山田耕作らと親交し、『陽の死んだ日』(1928)、『有島生馬像』(1935)などの作品を発表した。戦後は、二科会再建にはくわわらず、第二紀会の結成に参加したが、昭和26年(1951)には脱会し、以後、俗界から離れた自由な生活と制作を楽しみ、晩年は“画壇の仙人”などとも称されたが、昭和39年(1964)には、パリのタヴィト・エ・ガルニエ画廊で個展が開催された。作風も、初期の暗欝な色調から、フォーヴィスム的な表現をへて、晩年は、自然の形象を簡潔な形体に抽象化した素朴で格調ある独自の様式をつくりだした。昭和42年(1967)には文化勲章を辞退し、同47年(1972)には叙勲も拒否して話題となった。略年譜明治13年(1880) 4月2日岐阜県恵那郡に生まれる。父は岐阜市で生糸商を営み、同市の初代市長となった熊谷孫六郎。その第7子で、三男であった。明治16年 生母と死別し、岐阜市で幼少年時代をおくる。明治30年 岐阜中学校3年生のとき上京、正則中学校に転校、その後慶應義塾にも一学期間在学する。このころ画家になることを決意する。明治31年 東京・本郷寿川町にあった共立美術学校に入り、日本画を研修する。明治33年(1900) 4月、東京美術学校西洋画科選科に入学し、黒田清輝、長原孝太郎、藤島武二の指導をうける。同級生に、青木繁、児島虎次郎、山下新太郎と和田三造、高木巌らがいた。明治37年 7月、東京美術学校を卒業。卒業制作。明治38年 農商務省の岸本謙吉博士を首班とする樺太調査隊に参加し、この年の夏から2カ年にわたり漁場調査のため北海の島々をまわり、風景、地形、海産物などを記録し写生する(この時の作品は関東大震災のために消失)。明治40年 樺太から帰り、日暮里、上野桜木町、駒込千駄木町の下宿を転々とする。明治41年 10月、第2回文展にを出品、入選。明治42年 10月、第3回文展にを出品、褒状をうける。明治43年 6月、第13回白馬会展にを出品。実母の死去をきっかけに郷里へ帰り、その後5年間にわたり樵夫、鍛冶工などの生活をおくる。大正4年(1915) 友人斎藤豊作らのすすめで上京、10月、第2回二科展にを出品。大正5年 10月、3回二科展にを出品、会員に推挙される。大正6年 4回二科展大正7年 5回二科展大正8年 6回二科展大正9年 7回二科展大正11年 9回二科展。この年、和歌山県日高郡南部町の素封家大江為次郎次女秀子と結婚する。大正12年 7月、長男黄生まれる(その後、次男陽、長女萬、次女榧、三女茜が生まれている)。10回二科展。大正14年 12回二科展(パステル)。大正15年 13回二科展。昭和2年(1927) 6月、明治大正名作展出品予定は所在不明、は変色甚しいため出品不能、卒業制作のみ出品。9月、14回二科展昭和3年 2月28日、次男陽死亡、を描く。9月、15回二科展。このころから二科会研究所で教える。昭和4年 9月、16回二科展昭和5年 3月、2回聖徳太子奉讃展。9月、17回二科展昭和6年 9月、18回二科展昭和7年 9月、19回二科展。この年、三女茜死亡。東京、豊島区千早町に自宅を新築し、晩年まで過すことになる。昭和8年 20回二科展昭和9年 21回二科展昭和10年 22回二科展昭和11年 23回二科展昭和12年 24回二科展昭和13年 25回二科展。このころから、日本画を描き始め、4回奈良美術家連盟作品展に水墨画30点を出品。昭和14年 26回二科展昭和15年 27回二科展、同時に熊谷守一生誕60年記念陳列とし油彩画41点が特別陳列される。昭和16年 9月、28回二科展昭和17年 8月、長谷川仁編『熊谷守一画集』刊行される。9月、29回二科展昭和22年 9月、第二紀会の結成に参加し、1回展に出品昭和23年 2回二紀展昭和24年 3二紀展昭和25年 4回二紀展昭和26年 5月、16回清光会展10月、5回二紀展記念室に、この年二紀会を脱退、後藤真太郎の主宰する清光会同人となる。昭和27年 5月、1回日本国際美術展、17回清光会展昭和28年 5月、2回日本国際美術展、18回清光会展昭和29年 5月、1回日本現代美術展、19回清光会展。この年、後藤真太郎の死去により清光会は解散し以後、いっさいの団体展から離れる。昭和31年 5月、2回日本現代美術展昭和34年 5月、5回日本国際美術展昭和36年 熊谷守一画集刊行会『熊谷守一』刊行される。昭和37年 1月、洋画商展、以後毎年、洋画商展に出品。4月、白木屋にて回顧展(日本経済新聞社主催)。10月、1回国際形象展。出品、以後毎年出品。11月、「大正期の洋画展」(神奈川県立近代美術館)出品される。昭和38年 1月、洋画商展。9月「近代日本美術における1914年展」(東京国立近代美術館)出品される。10月、2回国際形象展昭和39年 1月、洋画商展。9月、3回国際形象展。パリ、ダヴィト・エ・ガルニエ画廊で個展が開催される。昭和40年 4月、「近代における文人画とその影響展」(東京国立近代美術館)出品される。10月、国際形象展昭和41年 1月、洋画商展。6月「近代洋画の150年展」(神奈川県立近代美術館)出品される。昭和42年 1月、洋画商展。秋、文化勲章受章者に内定したが、「これ以上人が来るのは困る」といって辞退。昭和43年 1月、洋画商展昭和44年 1月、洋画商展昭和45年 1月、洋画商展。10月、神奈川県立近代美術館において、熊谷守一展開催される。昭和46年 2月、洋画商展。9月、国際形象展。11月、著書『へたも絵のうち』(日本経済新聞社)刊行される。昭和47年 1月、西武渋谷店において、熊谷守一大回顧展(日本経済新聞社主催)2月、洋画商展。9月、国際形象展。この年、文化庁より勲三等叙勲の内示があったが、辞退。昭和48年 2月、洋画商展。12月、『熊谷守一の書』(求竜堂)刊。昭和49年 12月、『熊谷守一』(日本経済新聞社)刊。昭和50年 3月、洋画商展。伊勢丹において「日本の心・熊谷守一九十五歳記念展(毎日新聞社主催)11月、洋画商展。昭和51年 2月、著書『蒼蠅』刊。11月、洋画商展昭和52年 6月末、呼吸困難を訴える。8月1日午前4時35分死去。8月7日、青山葬儀所において葬儀告別式おこなわれる。(本年譜は、ギャラリ・ムカイ「追悼 熊谷守一展」目録に収載の福井淳子編熊谷守一年譜を参考に作成したものである。)
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没年月日:1977/07/07 日本画家山田申吾は、7月7日ジン不全のため、東京都板橋区の日大板橋病院で死去した。享年68。本名申吾。明治41年12月5日、当時著名な日本画家山田敬中の次男として東京田端に生れた。大正15年東京美術学校日本画科に入学し、昭和6年同校を卒業した。美校在学中の昭和5年第11回帝展に「水辺初夏」を出品し、初入選した。その後も帝展新文展等に出品をつづけ、戦後は日展を舞台に発表し、役員としても活躍した。官展のほか、戦前には大日美術院、国士会等に参加し、戦後は美校同期生により結成された六窓会、一采社等にも出品した。また昭和19年から10年間、東京麻布中学校(現麻布学園)に教鞭をとった。戦後は、一時病に倒れたが再起して、印度、ネパール、台湾等へ旅行し画なうをこやした。その作品は、穏健な写実にもとずく近代的画面を示した。略年譜昭和6年 東京美術学校日本画科を卒業。昭和9年 「冬日」第15回帝展。昭和11年 「霜晨」新文展(鑑査展)。豊島区要町に移転。昭和12年 「断崖」(大毎東日賞)第1回大日美術展。昭和13年 「海」第2回大日美術展。大日美術院々僚となる。昭和14年 「海」第3回文展。「緑のかげ」」第3回大日美術展。昭和16年 「夏野」第4回文展。昭和17年 「朝和」第5回文展。「麦秋」第5回大日美術展。大日美術院離脱。昭和18年 「地底敢闘」第6回文展。12月、研究グループ国士会結成。昭和20年 3月、海軍に召集され、8月解除となる。昭和22年 「干潟」第3回日展。昭和23年 「良夜」第4回日展。美術学校同期有志による“六窓会”結成。昭和24年 「夏山」第5回日展昭和25年 「馬」(特選)第6回日展。一采社参加。12月国土会解散。「丘」「秋」第1回芝英会(高島屋主催)昭和26年 「森」第7回日展。昭和28年 「山」第9回日展(特選、白寿賞、朝倉賞)昭和29年 「武蔵野風景」(出品依嘱)昭和30年 「雲」第11回日展。日展審査員。昭和31年 「雨後」(出品依嘱)第12回日展。昭和32年 「道」(出品依嘱)第13回日展。昭和33年 「田園譜」第1回新日展。日展会員。新作個展(兼素洞)昭和34年 「麓」第2回新日展。審査員。昭和35年 「牧馬」(文部大臣賞)。第3回新日展。昭和36年 「礁」第4回新日展。審査員。政府買上。昭和37年 「嶺」(日本芸術院賞)第5回新日展。日展評議員。昭和38年 前年度日展出品作「嶺」日本芸術院賞受賞。「群馬」第6回新日展。昭和39年 2月脳出栓で倒れ一時半身不随となったが、半年後に回復する。昭和41年 「蒼原」第9回新日展。昭和42年 「皎」第10回新日展。12月印度、ネパールへ写生旅行。昭和43年 「塔」第11回新日展。日展審査員。個展(三越)。12月ネパール、印度、タイ、カンボジヤへ旅行。昭和44年 「シェルパの歌」改組第1回日展。日展理事。昭和45年 「水を運ぶ娘(ネパール)」改組第2回日展。日展審査員。印度、ネパール方面に写生旅行。昭和46年 「尼蓮禅河」改組第3回日展。2月台湾旅行。昭和47年 「遠いヒマラヤ」改組第4回日展。昭和48年 「宙」改組第5回日展。役員改選により理事就任。新作個展(銀座弥生画廊)昭和51年 「靜かな朝」改組第8回日展。12月虎の門病院入院。昭和52年 「麓」改組第9回日展。3月退院。「山の辺」(緑映会)絶筆。7月逝去。
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没年月日:1977/06/08 洋画家、光風会会員高木晴太呂は、6月8日心筋こうそくのため名古屋市の自宅で死去した。享年65。明治45年3月3日名古屋市に生まれる。本名春太郎。大正15年日本陶器株式会社に入社し陶器のデザインにたずさわる。昭和7年第19回光風会展に初入選、同9年第二部会展に入選し、同14年第26回光風会展に出品した「南の浜」がI氏賞を受賞し会友に推され、翌第27回展では同画題の出品でK夫人賞を受け、同17年光風会会員となった。この間、文展にも昭和11年以来3回入選、戦後も光風会展、日展に出品を続け、同26年第7回日展に出品した「漁村」で特選、朝倉賞を受賞、翌年無鑑査となり、同28年から48年まで委嘱出品を続けた。また、同34年第45回光風会展では「一隅」で会員賞を受賞した
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没年月日:1977/06/04 洋画家、光風会会員、元工学院大学教授和田香苗は、6月4日急性心不全のため東京都清瀬市の信愛病院で死去した。享年79。明治30年8月4日東京都港区に生まれ、大正9年東京美術学校西洋画家(岡田三郎助教室)を卒業した。卒業の年の11月渡米しシカゴに赴き、翌10年8月パリに移った。パリではアカデミー・グラン・ショーミエールに学び、プリネ、ルシアン・シモン、メナールの指導を受け、また、同12年2月までヨーロッパ各地を遊学して3月帰国、同年4月から東京高等工芸学校の絵画授業を嘱託され、翌13年助教授、昭和6年教授となり、同20年3月退官後講師として同24年まで勤めた。同24年から工学院大学講師、同27年には教授となる。この間、大正9年第二回帝展に「オルガンノソバ」が初入選し、以後、帝展、文展に出品し、同12年文展無鑑査となり、また光風会展にも出品し昭和8年光風会会員となり、のち評議員をつとめた。戦後も日展、光風会展に出品したほか、同22年同士10名と国際観光美術協会を結成、翌23年には同士7名と日本ミニアチュール協会を設立して第1回展を上野松坂屋で開催した。光風会展への主な出品作に、「横顔」(第21回)、「初夏の富士」(第25回)、「カレドニア」(第41回)、「川越風景」(第55回)などがある。
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没年月日:1977/06/02 洋画家、行動美術協会会員柏原覚太郎は、6月2日胆道がんのため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年76。明治34(1901)年11月10日香川県高松市に生まれ、大正12年東京美術学校図画師範科を卒業。昭和2年第14回二科展に「少女」「裸女」が初入選し、以後戦前は二科展に出品を続けた。同7年から翌年にかけてヨーロッパに留学し、同8年帰国の年の第20回二科展に「横臥裸婦」「少憩」「黒衣婦人」など滞欧作7点が特別陳列された。同12年二科会会友となり、同16年第27回展に「アンコール」「手風琴」を出品して会友賞を受賞、翌年会員に推挙された。戦後は同20年に創立された行動美術協会に参加し会員となり、以後没年まで同会展に出品した。行動展への出品に「アトリエ」(第2回)、「水辺」(第6回)、「岩の群(室戸岬)」(第12回)、「トレド風景」(第20回)、「岬の漁港」(第25回)、「滞船」(第31回)などがある。
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