本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





郷倉千靭

没年月日:1975/10/25

日本画家郷倉千靭は、10月25日急性心不全のため、世田谷区の病院で死去した。享年83歳。本名与作。明治25年3月3日富山県射水郡に生れ、同43年富山県立工芸高校を卒業した。大正4年東京美術学校日本画科を卒業、翌5年アメリカに1年半留学した。大正9年第2回帝国美術院展に「雑草の丘」が初入選し、翌年日本美術院第8回展に「地上の春」が同展の初入選となった。同13年には日本美術院同人に推挙された。昭和7年帝国美術学校日本画教授、同11年多摩美術学校日本画教授となり、同41年まで同校の指導にあたった。昭和24年日展審査員となり、同35年第44回院展出品作「山霧」で日本芸術院賞を受賞、同47年には日本芸術院会員となった。また昭和35年印度に旅行し、京都東本願寺、大阪四天王寺壁画など、仏教美術も描いている。作品は、初めに後期印象派に憧れたが、のち日本の古典に傾倒、新しい日本画様式の創造に腐心する。穏健な中庸を得た写実を基盤に、洋風感覚味を大幅にとり入れ、氏独自のモダニズムを漂わす。 略年譜明治25年(1892) 3月3日富山県射水郡に生れる。明治43年 富山県立工芸学校卒業。大正4年 東京美術学校日本画科卒業。大正5年 米国留学。大正9年 「雑草の丘」第2回帝展初入選。大正10年 「地上の春」第8回院展初入選。大正12年 日本美術院同人となる。昭和5年 「鳥獣魚」第17回院展。昭和6年 「拾卵図」第18回院展。昭和7年 「生采諸相」第19回院展。帝国美術学校教授。昭和11年 「山の秋」第1回改組帝展。「月明」第23回院展。多摩美術学校教授。昭和12年 「麓の雪」第24回院展。昭和13年 「山の夜」(六曲一双)第25回院展。昭和14年 「渡り鳥」(其一、二)第26回院展。昭和15年 「湖」(雪二題)第27回院展。「白樺林」奉祝展。昭和16年 「山頂の春」第28回院展。昭和17年 「山の初霜」第29回院展。昭和18年 「五月雨」第30回院展。昭和19年 「凍朝」第31回院展。昭和22年 「野鼠」第32回院展。昭和23年 「牡丹」第33回院展。昭和24年 「朝風」「夕雲」第34回院展。日展審査員となる。昭和25年 「樹海の秋」第35回院展。昭和35年 日本芸術院賞受賞。印度に旅行。昭和36年 京都東本願寺・大谷婦人会館の壁画「釈迦父に会う図(2.7×13.6m)」を制作。昭和44年 大阪四天王寺壁画「仏教東漸」(玄奨三蔵)完成。昭和47年 日本芸術院会員となる。昭和48年 勲四等旭日中綬章受章。昭和50年(1975) 10月25日死去。

小島丹漾

没年月日:1975/09/27

日本画家小島丹漾は、9月27日脳血センのため、新潟市内の医療法人「佐潟荘」で死去した。享年73歳。 新潟市出身で、日本美術院には昭和14年「河原の夏」が初入選している。主として、故郷新潟の風物を主題に制作し、整理された線描の交錯する独自の様式を生み出していた。1917年以後殆ど毎年受賞し、晩年の好調な活動裡に世を去った。出品作品略年譜昭和13年 第23回院展 「夏日」昭和14年 第24回院展 「河原の夏」昭和20年 第30回院展 「初冬」昭和22年 第32回院展 「帰樵」昭和23年 第33回院展 「雪近し」昭和24年 第34回院展 「浅春」昭和26年 第36回院展 「春閑」昭和27年 第37回院展 「暮歳市」昭和29年 第39回院展 「雪の駅路」昭和30年 第40回院展 「町角」昭和31年 第41回院展 「河口暮色」昭和32年 第42回院展 「河口」(奨励賞 白寿賞)昭和33年 第43回院展 「白暮」昭和34年 第44回院展 「水源池」昭和35年 第45回院展 「漁港」昭和36年 第46回院展 「繋船」昭和37年 第47回院展 「夕」(北陸能生)昭和38年 第48回院展 「舗」(無鑑査・奨励賞・白寿賞・G賞)昭和39年 第49回院展 「雪国」(奨励賞・白寿賞・G賞)昭和40年 第50回院展 「待つ」(無鑑査)昭和41年 第51回院展 「妓帰る」(奨励賞・白寿賞・G賞)昭和42年 第52回院展 「凍」(吹雪)昭和43年 第53回院展 「浜」(無鑑査・奨励賞・白寿賞・G賞) 第11回中央公論新人展「待春」昭和44年 第54回日本美術院展 「祭り」(奨励賞)昭和45年 第55回日本美術院展 「北国の人」昭和46年 第56回日本美術院展 「北国の春信」(無鑑査・奨励賞)昭和47年 第57回日本美術院展 「待船」(奨励賞)

鈴木寿雄

没年月日:1975/09/15

童画家鈴木寿雄は、9月15日結腸ガンのため東京神田の三井記念病院で死去した。享年72歳。戦前から童画界の第一線で活躍し、絵本や教科書に多くの作品をのこした。日本童画家協会々員で、昭和30年に第二回小学館絵画文化賞を受賞した。

堂本印象

没年月日:1975/09/05

日本画家堂本印象(本名三之助)は、9月5日午前1時38分心不全のため、京都第二赤十字病院で死去した。享年84歳。葬儀は、7日自宅において密葬、16日堂本美術館で本葬が行われ、25日には京都会館で京都市公葬が営まれた。印象は、明治24年12月25日京都市に生れた。父は伍兵衛、母は芳子で、生家は銘酒「賞菊」の醸造元として知られる酒造業であったが、父の代に事業に失敗して没落した。9人兄弟の三男であった印象は、苦学して画道に入り、大正10年京都市立絵画専門学校を卒業した。この間、西山翠嶂の塾にも学び在学中の大正8年第1回帝展に「深草」が初入選した。同じく第3回「調鞠図(ちょうきくず)」、「訶梨帝母(かりていも)」がともに特選になった。また大正14年には「華厳」で、帝国美術院賞を受けるなど、若い頃からすぐれた才能が認められた。その後、帝展、文展、日展等官展の審査員をしばしばつとめ、昭和25年には日本芸術院会員となった。同36年文化勲章、38年にはローマ法皇からサン・シルベストロ騎士勲章を、74年にはバチカンの近代美術館に「母と子」を納めて、サン・シルベストロ十字勲章を受章した。またこの間、昭和9年には画塾東丘社を創立して、これを主宰し、京都絵専教授をつとめるなど、多くの後進育成にもあたっている。なお、パリ、ニューヨーク、トリノ等で個展を開いている。昭和41年には、京都衣笠山の麓に「堂本美術館」を建設し自作を陳列、話題となった。作品は、極めて多作といえるが、それらを概観すると、初期における古典的題材による、文学性ゆたかな絵画は、戦後大きな変貌を示し、現実生活に取材した洋画的表現の濃いものとなり、さらに昭和33年ごろからは抽象的画面を展開するようになる。また絵画以外でも彫刻、ガラス工芸、染色、陶芸、金工などのほか、堂本美術館における建築までも手がける多才ぶりであった。このような多様な変貌ぶりは、一部に批判的眼もないわけではなかった。しかし、近代の日本画家としては、その旺盛な制作活動は卓抜で、瞠目すべきものがあった。 代表作に「木華開耶媛」(このはなさくやひめ)、「調鞠図」「華厳」「ガラス」「メトロ」などのほか、諸社寺壁画、襖絵、天井絵などの制作多数に上る。画暦明治24年(1891) 12月25日京都市に生れる。大正8年 「深草」第1回帝展。大正9年 「拓榴」「西遊記」(三枚)第2回帝展。西山翠嶂の塾に入る。大正10年 「調鞠図」(対)(特選)、「爽山映雪」第3回帝展。京都市立絵画専門学校本科卒業。大正11年 「訶梨帝母」(三幅対)(無鑑査)第4回帝展。大正13年 「乳の願い」「故父」(委員)第5回帝展。大正14年 「華厳」(帝国美術院賞)(委員)第6回帝展。大正15年 「雪遊び」(二幅対)(委員)第7回帝展。昭和2年 「春」(委員)第8回帝展。昭和3年 「蒐猟」(無鑑査)第9回帝展。帝展審査員となる。昭和4年 「木華開耶姫」第10回帝展。昭和5年 「実」第11回帝展。昭和6年 「大原談義」第12回帝展。昭和7年 「冬朝」第13回帝展。昭和9年 「春泥」第15回帝展。画塾東丘社創立し主宰する。第1回展を昭和13年に開催。昭和10年 京都市立絵画専門学校教授。(~1941年)昭和18年 「北条時宗」第6回文展。昭和19年 「楠公父子」戦時特別文展。帝室技芸員となる。昭和22年 「太子降誕」第3回日展。昭和23年 「婦女」第4回日展。昭和24年 「或る家族」第5回日展。昭和25年 「新聞」第6回日展。昭和26年 「ガラス」第7回日展。日本芸術院会員。昭和29年 「凝惑」第10回日展。昭和30年 「生活」第11回日展。昭和31年 「意識」第12回日展。昭和32年 「無明」第13回日展。昭和33年 「無礎」改組第1回日展。昭和34年 「知覚」第2回日展。昭和35年 「無間知覚」第3回日展。昭和36年 「交響」第4回日展。文化勲章、文化功労者。昭和37年 「結集」第5回日展。昭和38年 「縁起」第6回。ローマ法皇よりシルベストロ騎士勲章を受ける。昭和39年 「輪廻の記念碑」第7回日展。昭和40年 「久遠」第8回日展。社団法人堂本美術館を設立。昭和41年 「如実」第9回日展。昭和42年 「執着の離脱」第10回日展。昭和43年 「ロゴスの不滅」第11回日展。昭和49年 ローマ法皇パウロ六世より聖大十字シルベストロ大騎士勲章を受ける。京都市名誉市民となる。昭和50年(1975) 9月5日京都第二赤十字病院で死去する。壁画 襖絵 天井絵大正14年 京都大徳寺龍翔寺書院 襖絵(山水、柳鷺等24枚) 杉戸(仙人 8枚)昭和6年 京都御室仁和寺黒書院 襖絵(松に鷹、秋草等 48枚)昭和8年 京都臨済宗東福寺法堂 天井絵(滝 24×12m 1面)昭和9年 京都東寺、教王護国寺小子房 襖絵(鷲、壮丹等 48枚)昭和9年 明治神宮絵画館 壁画(侍講進講 2.3m×3m 1面)昭和10年 大和信貴山朝護孫子寺成福院 襖絵(柳鷺、松林鹿寺等 34枚)昭和11年 京都醍醐寺三宝院純浄観 襖絵(桜と楓、水郷等 42枚)昭和11~17年 和歌山県高野山根本大塔 壁画(真言八祖 4m×4m 8面) 和歌山県高野山根本大塔壁画(飛雲、霊鳥 4m×1.2m 8面) 和歌山県高野山根本大塔 柱絵(十六大菩薩像 4m×4.7m 16面)昭和14~17年 大阪四天王寺宝塔 壁画(本尊四仏像 1m×3m 4面) 大阪四天王寺宝塔 壁画(四仏浄土図 1.8m×1.3m 8面) 大阪四天王寺宝塔 柱絵(十二天像 12面) 大阪四天王寺宝塔 壁画(八部衆像 2m×1.3m 8面)昭和16年 住友家持仏堂芳泉閣 壁画(弥陀来迎図 2m×2.7m 1面) 住友家持仏芳泉閣 壁画(飛天、散華等 2m×0.7m 30面)昭和18年 紀伊田辺高山寺 絵巻(高山寺縁起、上、下 2巻)昭和24年 京都平安神宮客殿 襖絵(風景、秋鹿等 28枚)昭和26年 徳島市般若院本堂 襖絵(老松鷹、竹林等 56枚)昭和26~32年 東京最高裁判所大法廷 壁画(聖徳太子憲法宣布等 3m×3m 3面)昭和31~32年 東京浅草寺観音堂 天井絵(天人 8m×6m 2面) 東京浅草寺観音堂 天井絵(蓮華8m×4m 2面)昭和33年 尾張信貴山泉浄院多宝塔 壁画(五智如来 1.8m×2m 1面) 尾張信貴山泉浄院多宝塔壁画(天人 4面)昭和33年 京都智積院宸殿 襖絵(婦女喫茶、桜樹等 22枚)昭和38~39年 大阪カテドラル、聖マリヤ聖堂、壁画(栄光の聖マリア、右近、ガラシヤ 10m×10m 1面) 大阪カテドラル、聖マリヤ聖堂、壁画(ルソン行の右近、ガラシヤの最後 4m×3.2m 2面)昭和38年 高知五台山竹林寺書院 襖絵(風神、雷神、太平洋、瀬戸内海等 30枚)昭和40年 京都西芳寺(苔寺)書院 襖絵(国師ノ間、心字間、問答の間等 28枚)昭和43年 岐阜乙津寺客殿 襖絵(超ゆる空、光る庭等 17枚) 京都恵美須神社拝殿 天井絵(竜 5m×3.6m 1面)昭和44年 京都西芳寺本堂西来堂 襖絵(遍界芳彩、無機等 100枚)昭和46年 京都法然院書院 襖絵(雲華西来等 58枚)昭和48年 最高裁判所大会議堂 壁画(豊雲 1100×235cm) 大和大神々社宝庫 壁画(和、光、2面210×160cm)著書昭和16年 四天王寺宝塔壁画 画集、画論昭和18年 高野山大塔壁画と柱絵 画集、画論昭和15年 看心有道 随筆昭和29年 画室の窓 随筆昭和30年 美の跫音 ヨーロッパ美術紀行昭和35年 新造形 画集昭和38年 印象の作品 画集 堂本印象新造形作品 画集昭和40年 堂本印象 画集昭和46年 画室随想 随筆昭和49年 堂本印象水墨画 画集昭和50年 堂本印象造型芸術 画集

不動立山

没年月日:1975/08/14

日本画家不動立山は、8月14日京都市の自宅で老衰のため死去した。享年89歳。本名定一。明治19年4月18日兵庫県三原郡の農家の次男として生れた。同34年上洛し、京都市立美術工芸学校に入学し、38年に卒業した。40年に1年志願兵として合格、陸軍歩兵軍曹となった。また41年から翌42年にかけて神戸市小学校訓導として教鞭をとった。さらに京都市立絵画専門学校の開校により、ここに学び明治45年第2回の卒業生となった。また大正10年には西山翠嶂に師事し、青甲社の創立に参画している。作品は、最初第6回文展に「冬の夜更」「春雨の夕」が初入選し、ついで第11回に「献燈」(六曲一双)を出品した。帝展には多くの作品を発表し、つぎのような作品がみられる。即ち、第3回「古陵」、第4回「朝雨のあと」、第5回「貴船路の秋」、第7回「遠雷」、第8回「みのる秋」、第9回「観音堂」、第11回「夕立」、第12回「余燼」、第13回「夏時雨」、第14回「放牧」、第15回「曾根沼」等で、新文展では第2回展に「劫火」、3回に「春月」があり、いづれも無鑑査出品である。昭和17年戦時下疎開のため淡路島に転居し、戦後昭和48年までこの地に滞留していたが昭和48年9月には京都の自宅に戻っている。作品は京都的肌目細かな画風の中に、近代的感覚を導入させたものだが、新文展出品作「劫火」などには、意慾的で逞ましいものがみららた。

安部治郎吉

没年月日:1975/07/14

二紀会同人の安部治郎吉は、7月14日心不全のため死去した。享年75歳。明治33年(1900)2月19日、大分県宇佐郡に生まれ、安心院小学校卒業。上京して、在京二科会会員が指導した二科技塾(昭和4年創設)で主として石井柏亭、熊谷守一に学び、昭和4年第16回二科展に「展望街景」が入選、以後、同5年17回展「滞船」、同7年19回展「清流」「裸女」、同8年20回展「石膏」、同9年21回展「湖畔」、同10年22回展「白い孔雀」「鯉」、同11年23回展「熊」、同12年24回展「豹」「二人」、同13年25回展「海風」「緑の庭」、同14年26回展「白い熊」「夏の宵」、同15年27回展「馬と少年」「庭」、同16年28回展「早春」「雨後(金剛山)」この年に会友に推挙され、翌17年29回展「友達」を出品した。太平洋戦後は、昭和22年、第二紀会創設に参加し、同人となった。二紀会出品の主要作品はつぎのとおりである。昭和23年(1948)第2回展「山時雨る」、同25年4回展「秋色」、同28年7回展「雪景」、同29年8回展「月」、同34年13回展「晩秋」、同39年18回展「あぢさいの庭」、同41年20回展「落月」など。晩年は二紀会に所属したままだが、出品はみられなかった。

林武

没年月日:1975/06/23

独立美術協会会員、東京芸術大学名誉教授の洋画家、林武は、6月23日午後5時41分、肝臓しゅようのため東京西新橋の慈恵医大付属病院で死去した。享年78歳。林武は、本名を武臣、明治29年(1896)、代々国学者であった家に生まれ、父甕臣も国学者で華族女学校(女子学習院の前身)で国語国文学を講じたこともあり、「言文一政会」を組織するなど国語問題に激しく情熱をそそいだ人物であった。後年、武が国語問題に関心を示したのはこの父の影響による。東京市牛込区余丁町小学校の同級生に東郷青児がいた。明治43年(1910)早稲田実業学校に入学したが、家計を助けて苦学し労働のために病気となり在学1年を満たずに退学、大正2年(1913)には歯科医の助手となり歯科医を志望、さらに文学を志し、新聞、牛乳配達などに従事し、大正8年(1819)画家になることを決意し、翌9年日本美術学校入学したが、同年末には退学した。この年(大正10年)、第9回二科展に『婦人像』が初入選となり、同時に樗牛賞をうけた。またこの年に渡辺幹子と結婚している。幹子夫人はその後の武の画業の進展に献身的につくし、その夫婦愛はしばしば世評にあげられたところである。大正10年から昭和5年まで(1921~30)、二科展に出品すると同時に、その間に萬鉄五郎・小林徳三郎を中心とする円鳥会展、前田寛治、里見勝らの1930年協会展に出品している。昭和5年(1930)、独立美術協会結成に参加し、以後、没するまで同会に所属して活躍した。独自の構成理論と絵画に対する烈しい情熱と執着は他の追随を許さない個性的な作品をつくりあげることになったが、また初期から晩年にいたるまで内外の他の画家たちからの影響を多くうけてきたことも事実で、初期には岸田劉生、ついでセザンス、フォーヴィスム、キュービスムの影響をうけ、昭和9~10年(1934~35)の第1回渡欧をへて前半期の様式的完成をみるが、第2次大戦後にいたってもビュッフェ、フォートリエなどから多くを学んでいる。戦後、『星女嬢』『真横向き』など一連の人物像が注目を集め、昭和24年(1949)『梳る女』で第1回毎日美術賞をうけ、同27年には、安井曾太郎・梅原龍三郎のあとをうけて東京芸術大学教授に就任、画壇的、社会的地歩を確立させた。昭和31年第2回現代日本美術展では大衆賞をうけ、同34年には第15回日本芸術院賞、同42年第37回朝日賞を受賞し、また同年秋には文化勲章をうけている。戦後の1940年代後半から60年代にかけて、少女像、十和田湖、浅間山、富士山などの風景画によって一時代を劃した画家であった。年譜明治29年(1896) 12月10日東京市麹町区に生まれる(生年月日については同年11月30日との説もある)。明治42年 牛込区余丁町小学校を卒業。明治43年 早稲田実業学校に入学。過労のため病気にあり1年未満で中退。大正2年 歯科医斎藤信一の助手となる。東京歯科医学校に入学。大正9年 4月、日本美術学校に入学、12月まで修学。大正10年 第8回二科展に『婦人像』入選、樗牛賞を受賞。渡辺幹子と結婚する。大正11年 3、月平和記念東京博覧会に«婦人像»を出品し、褒状を受賞する。9月、第9回二科展に«静物»«本を持てる婦人像»«静物»を出品し、二科賞を受賞する。この年、代々木に移る。大正12年 1月、万鉄五郎を中心に円鳥会が結成され、児島善三郎らと参加。6月、円鳥会第1回展に«静物»«花»«肖像»«風景»«風景»を出品。9月、第10回二科展に«女の顔»«鍋のある静物»を出品。この年、転居したが、関東大震災に遇い、しばらく神戸に滞在して制作する。大正13年 4月、円鳥会第2回展に«静物»を出品。9月、第11回二科展に«静物»«神戸風景»を出品。大正14年 9月、第12回二科展に«静物»«野菜等の静物»を出品。10月、円鳥会第4回展に«婦人像»«姉妹»など5点を出品。大正15年 6月、1930年協会会員となる。9月、第13回二科展に«静物»«落合風景»«文化村風景»を出品し、会友に推される。この年、市外に転居する。昭和2年 6月、第2回1930年協会展に«顔»を出品。昭和3年 2月、第3回1930年協会展に«女の顔»を出品。9月、第15回二科展に«裸婦(1)»«裸婦(2)»«横われる女»«静物»«男の顔»を出品。昭和4年 1月、第4回1930年協会展に«女の顔»«女»«ポートレエ»を出品。9月、第16回二科展に«ブルーズを着た女»«扇を持てる女»«少女坐像»«臥せる裸体»«花(1)»«花(2)»を出品。この年、転居する。昭和5年 1月、第5回1930年協会展に«風景»«静物»など新作3点と旧作をあわせて41点を出品。3月、第2回聖徳太子奉讃美術展に«花»を出品。9月、第17回二科展に«静物»«花»«肖像»«裸婦»«花と裸婦»を出品。11月、二科会を去り、同志と共に独立美術協会を創立する。昭和6年 1月、第1回独立美術協会展に«婦人像(1)»«婦人像(2)»«裸婦»«静物(1)»«静物(2)»«少女と花»«花»を出品。9月、独立美術協会秋季展に«海»を出品。昭和7年 3月、第2回独立展に«白岸風景»«婦人像»«断崖»«少女像»«野外裸婦»«裸婦»を出品。10月、独立美術協会第2回秋季展に«静物»を出品。独立美術協会編「独立美術1」、林武特輯(建設社)刊行される。12月、亡父の遺著『日本語原学』を建設社から出版する。昭和8年 3月、第3回独立展に«花»«肖像»«野外裸婦»«裸婦»を出品。10月、東京日本橋・三越において個展を開催する。昭和9年 3月10日、門司出帆の靖国丸で渡欧し、パリのアトリエで制作するかたわら、ベルギー、オランダ、イギリス、ドイツおよびスペインの各地を見学する。3月、第4回独立展に«花»を出品。昭和10年 4月、東京府美術館開館10周年記念現代綜合美術展覧会に«少女像»«1932»を出品。4月、帰国する。10月、独立美術協会第5回秋季展に«ノートルダム»を出品。この年、中野区に画室を構える。昭和11年 4月、第6回独立展に«コワフューズ»«椅子による裸婦»«立てる裸婦»«ポーランドの女»«踊り子»«裸婦»«梳る裸婦»«ニース»«オランダの娘»«シュールモラン»«スペインの老女»«黄衣»«アッシジ»«カテドラル・ド・シャトル»«ノートルダム»など滞欧作15点を出品。11月、独立美術協会秋季展に«フローレンス»を出品。昭和12年 3月、第7回独立展に«フロレンス»«野外裸婦»«婦人像»«ヴェニス»を出品。4月、明治大正昭和三聖代名作美術展(大阪市立美術館)に«裸婦»(1933)を出品。7月、大阪・松坂屋において滞欧油絵展を開催する。昭和13年 3月、第8回独立展に«ルパシカを着た女»«裸婦»を出品。10月、大阪・美交社において近作個展を開催する。出品22点。独立美術協会秋季展に«海景»を出品。昭和14年 3月、第9回独立展に«室戸岬風景»«室戸岬風景»を出品。10月、独立美術協会秋季展に«ダリヤ»を出品。昭和15年 3月、第10回独立展に«女の顔»«姉妹»«婦人像»«海»«鮭の静物»を出品。10月、紀元二千六百奉祝美術展覧会に«肖像»を出品。昭和16年 3月、第11回独立展に«卓上静物(1)»«卓上静物(2)»«肖像»を出品。昭和17年 3月、第12回独立展に«菊花»«静物»«肖像»«栗»«洋菊»を出品。10月、独立美術協会秋季展に«花»を出品。昭和18年 3月、第13回独立展に«肖像»«静物»«バラ»«小菊»«カーネーション»を出品。昭和19年 2月、第14回独立展に«アネモネ»«茶碗とブドウ»«静物»を出品。西多摩郡に疎開、この前後、構図法の研究に没頭した。昭和21年 1月、中野のアトリエに帰る。4月、独立美術自由出品展に«花(菊)»«花»を出品。昭和22年 4月、第15回独立展に«花(1)»«花(2)»«風景»を出品。5月、柴田ギャラリーにおいて個展を開催する。6月、第1回美術団体連合展に«婦人像»を出品。昭和23年 5月、第2回美術団体連合展に«婦人像»を出品。10月、第16回独立展に«花»«静物»«花»«星女嬢»«静物»を出品。昭和24年 5月、第3回美術団体連合展に«梳る女»を出品。10月、第17回独立展に«真横向き»«静物(1)»«静物(2)»«卓上花»«K子像»を出品。11月、«梳る女»(第3回美術団体連合展出品)をはじめとする画業に対し、第1回(昭和24年度)毎日美術賞を贈られる。昭和25年 3月、北荘画廊において個展を開催し、«星女嬢(横向き)»«静物(鯖)»などを出品。3月、第1回秀作美術展に«真横向き»を出品。5月、第4回美術団体連合展に«裸婦»を出品。10月、第18回独立展に«静物»«裸婦»«横向婦人像»を出品。昭和26年 1月、第2回秀作美術展に«星女嬢(横向き)»«静物(鯖)»を出品。5月、第5回美術団体連合展に«鏡をもつ女»を出品。10月、第19回独立展に«裸婦»«造船所風景»«裸婦»«逗子風景»を出品。昭和27年 1月、第3回秀作美術展に«鏡をもつ女»を出品。3月、東京芸術大学美術学部教授に迎えられる。5月、第1回日本国際美術展に«静物A»«静物B»«静物C»を出品、サロン・ド・メに«静物A»«静物B»«顔»を出品。10月、第20回独立展に«横顔»«A子像»«F子像»を出品。昭和28年 1月、第4回秀作美術展に«静物»を出品。5月、第2回日本国際美術展に«粧える女»を出品。9月、国立公園絵画展に«十和田湖»を出品。10月、第21回独立展に«十和田湖»«横向少女»«十和田湖»«静物»を出品。昭和29年 1月、第5回秀作美術展に«静物»«横向少女»«粧える女»«十和田湖»を出品。5月、第1回現代日本美術展に«卓上静物A»«卓上静物B»を出品。6月、東京日本橋・高島屋において個展を開催し、«ネッカチーフの少女»など約50点を出品。10月、第22回独立展に«仰臥裸婦»«裸婦半身»を出品。第30回 1月、第6回秀作美術展に«ネッカチーフの少女»を出品。5月、第3回日本国際美術展に«女»«星女嬢»を出品。10月、第23回独立展に«見高浜»«婦人座像»«今井浜風景»を出品。昭和31年 1月、第7回秀作美術展に«見高浜»を出品。5月、第2回現代日本美術展に«伏目の女»«奈津子の像»を出品し、大衆賞を受賞する。7月、第1回日仏具象派美術展に«月ヶ瀬»«伊豆風景»«村の小学校»を出品。9月、東京銀座・松屋において林武デッサン展(朝日新聞社主催)が開催される。9月、毎日新聞社の依嘱によって原画を制作した大阪毎日会館壁画(大理石モザイク、矢橋六郎制作)が完成する。10月、第24回独立展(創立25周年記念)に«卓上花»«奥日光»«野外婦人»を出品。10月、兜屋画廊において林武壁画エチュード展が開催される。11月、大阪・梅田画廊において林武壁画原画展が開催される。昭和32年 1月、第8回秀作美術展に«野外婦人»を出品。5月、第4回日本国際美術展に«裸婦»を出品。7月、現代美術10年の傑作展(毎日新聞社主催)に«梳る女»(1949)を出品。10月、第25回独立展に«赤衣の婦人»«熱海風景»を出品。昭和33年 1月、第9回秀作術展に«赤衣の婦人»を出品。2月、第2回国際具象派美術展に«静物A»«静物B»«熱海風景»を出品。5月、第3回現代日本美術展に«肖像»«裸婦»を出品。8月、第12回新樹会展に«裸婦»を出品。10月、第26回独立展に«婦人像»を出品。10月、東京日本橋・高島屋において回顧新作展を開催し、«ばら»«静物»«川奈風景»«舞妓»«クレロデンドロン»など新作33点、旧作147点計180点を出品。この年、ヨーロッパ巡回日本現代絵画展に«婦人座像»(1959)«十和田湖»(1953)«熱海風景»(1957)を出品、オーストラリア、ニュージーランド巡回日本現代美術展に«静物»を出品。(共に外務省、国立近代美術館、毎日新聞社主催)昭和34年 1月、第10回秀作美術展に«熱海風景»を出品、「戦後の秀作」展(国立近代美術館)に(1953)を出品。5月、第5回日本国際美術展に«座像»を出品。5月、前年開催した回顧新作展に対し、第15回(昭和33年度)日本芸術院賞を贈られる。8月、第13回新樹会展にを出品。10月、第27回独立展に«揺り椅子に坐す女»を出品。11月、毎日美術賞10年記念展に«梳る女»«女の顔»«横浜風景»«静物»«静物»を出品。昭和35年 1月、第11回秀作美術展に«横浜風景»を出品。4月、第3回国際具象派美術展に«横浜風景»を出品。5月、第4回現代日本美術展に«ボンネットの少女»«座せる少女»を出品。5月、空路渡欧し、パリ、ヴァンスなどで制作を行なう。昭和36年 1月、第12回秀作美術展に«横浜風景»を出品。2月、滞欧作23点を携えて、空路帰国する。5月、第6回日本国際美術展に«ノートルダム»を出品。9月、東京日本橋・高島屋において滞欧作展を開催し、«エッフェル塔»«コペルニック»«サン・ポール»«南仏の家»«ヴァンス»«崖の上の家»などを出品。10月、第29回独立展に«バラA»«バラB»を出品。11月、日動画廊において滞欧デッサン展を開催する。昭和37年 1月、第13回秀作美術展に«ノートルダム»を出品。4月、第4回国際具象派美術展に«女A»«女B»を出品。5月、第5回現代日本美術展に«人物»を出品。8月、第16回新樹会展に«踊り子を出品。10月、国際形象展同人となり、第1回展に«立てる舞妓»«舞妓»を出品。10月、30周年記念独立展に«舞妓»«舞妓»を出品。昭和38年 1月、第14回秀作美術展に«立てる舞妓»を出品。5月、第7回日本国際美術展に«少女»を出品。10月、第2回国際形象展に«アトリエからの風景»«下田風景»«花»を出品、第31回独立展に«人物»«風景»を出品。12月、日動画廊において新作素描展を開催する。12月、東京芸術大学美術学部教授を定年退職する。この年、渋谷区にアトリエを新築転居する。昭和39年 1月、第15回記念秀作美術展に«ノートルダム»(第13回秀作美術展作品)を記念出品。5月、第6回現代日本美術展に«静物»«富士»を出品。9月、第3回国際形象展に«富士山»«静物»«熱海風景»を出品。10月、第32回独立展に«熱海風景»«三味線»を出品。昭和40年 1月、第16回秀作美術展に«富士山»を出品。5月、第8回日本国際美術展に«富士»を出品。10月、第4回国際形象展に«卓上静物A»«卓上静物B»«富士«冬の箱根»«静物»を出品、第33回独立展に«静物»«富士»を出品。著書「美に生きる」(講談社現代新書・60)刊行。昭和41年 5月、第7回現代日本美術展に«海»を出品。8月、第20回新樹会展に«花»を出品。10月、第5回国際形象展に«裸婦»«人物»«伊豆伊浜A»«伊豆伊浜B»«伊豆伊浜C»«花»«妻の像»を出品、第34回独立展に«滝富士»«婦人像»を出品。昭和42年 1月、«裸婦»にいたる具象絵画の業績に対し、第37回朝日賞(文化賞)を贈られる。5月、第9回日本国際美術展に«人物»を出品。10月、第35回独立展に«裸婦»«赤富士»を出品。11月、文化勲章を受ける。11月、第6回国際形象展に«石廊崎»«富士山»«少女»«花»«静物»を出品。昭和43年 5月、第8回現代日本美術展に«パークウエー富士»を出品。10月、第7回国際形象展に«怒濤»«波»を出品、第36回独立展に«少女»«岩と波»を出品。昭和44年 5月、第9回現代日本美術展第一部門「現代美術20年の代表作」に«梳る女»(1949)«海»(1966)を出品。10月、第8回国際形象展に«ばら»«花帽子の少女»«ばら»«海»«海»を出品、第37回独立展に«婦人像»«富士»を出品。11月、資生堂ギャラリーにおいて「林武のアトリエ」展が開催される。昭和45年 1月、八樹会展(日動画廊)に«ばら»を出品。4月、毎日新聞社主催「日本巨匠二十人展」(大阪・大丸)に«怒濤»(1968)«ばら»(1969)«赤衣の少女»(1969)«富士»(1970)を出品。5月、大阪梅田・阪神百貨店において画業五十年記念「林武展」(毎日新聞社主催)が開催される。1922年から1970年にいたる代表作約120点を出品。10月、第38回独立展に«花帽子の裸婦»を出品。10月、第9回国際形象展に«憩える踊り子»を出品。昭和46年 3月、国語問題協議会会長となる。9月、池袋モンパルナス展(池袋・西武百貨店)に«少女像»(1931)を出品。10月、第39回独立展に«少女»を出品。昭和47年 2月、「戦後日本美術の展開―具象表現の変貌―」展(東京国立近代美術館)に«ノートルダム»(1960)«パークウエー富士»(1968)を出品。9月、第11回国際形象展にを出品。9月、東京国立近代美術館開館20年記念「現代の眼―近代日本の美術から」展に«十和田湖»(1953)«ノートルダム»(1961)«少女»(1963)を出品。10月、第40回独立展に«少女白衣»«花»を出品。昭和48年 3月、日美の流れ展(東京セントラル美術館)に«多摩川上水»(1922)«緑衣の女»(1931)«バラ»(1973)を出品。10月、第41回独立展に«花(薔薇)»«花(向日葵)»を出品。昭和49年 3月、山種美術館特別展「舞妓の美―日本の抒情と造形―」に«立てる舞妓»(1962)を出品。昭和50年 3月29日、滋恵会医科大学付属病院に入院する。6月23日、肝臓がんのため同病院で死去する。従三位に叙され、銀杯一組を贈られた。6月28日、青山葬儀所において、野口弥太郎が葬儀委員長となり、独立美術協会葬が行われる。10月、林武展委員会、毎日新聞社主催により日本橋高島屋において“この不屈の人 林武展”開催される。(本年譜は、「この不屈の人 林武展」目録収載の土屋悦郎編、林武年譜から転載、少し追加した。)

鈴木満

没年月日:1975/06/08

洋画家の鈴木満は、6月8日午後4時25分、原発性肝ガンのため、東京・築地の国立がんセンター病院で死去した。享年62歳。鈴木満は、大正2年(1913)3月5日、静岡県田方郡に父留吉、母もとの三男として生まれた。船原小学校(のち中狩野小学校)高等科から準教員養成所に入所。準教員養成所時代の図画教師大城鎮雄に画才を認められ、画家を志す。昭和3年、準教員養成所を卒業して上京、太平洋画会研究所に入所、同研究所は翌昭和4年太平洋美術学校となっている。昭和6年、第27回太平洋画会展に「婦人像」が初入選、翌7年28回展「果実を持てる」、8年29回展にも入選、この年太平洋美術学校本科を卒業した。また、この昭和8年第14回帝展に「首飾りの女」が入選となった。昭和9年30回太平洋画会展で奨励賞をうけ、翌10年31回展では「女」「猫と娘」を出品して中村彝賞を受賞し、太平洋画会会友に推挙された。昭和11年には32回太平洋画会展に「春」「恵美ちゃん」「寓話によるコンポジション」文部省美術監査展に「姉妹」が入選した。昭和12年、肺結核を病み、1年間療養生活をしいられる。昭和13年ころ、向井潤吉の第2アトリエを借りて制作をはじめ、昭和16年37回太平洋会展に「画室にて」を出品して受賞し、会員にあげられた。同年4回文展に「妹の肖像」、17年5回文展「青年士官」が入選となった。昭和18年39回太平洋画会展に「暮れゆく冨士」「習作」、陸軍美術展に「坑底に戦ふ」、6回文展に「武人古老」入選、後者は特選となった。昭和19年40回太平洋画会展「第一線」を出品、陸軍美術展に「学徒出陣」を出品、情報局長賞をうける。また文部省主催戦時特別美術展に「神芒」を招待出品。昭和20年敗戦のあと9月に喀血し、郷里の伊豆に帰って療養生活に入る。昭和22年10月、示現会結成に病気療養中ながら創立会員として参加した。(昭和31年に退会)。昭和23年5月、再度上京し、青木純子と結婚、町田市に居住した。静養のかたわら玉川学園出版部発行の図書の挿図などを描いた。昭和26~29年に日展に出品、第7回展「裸婦」、第8回展「路傍」、第9回展「玉葱と女」、第10回展「或る日のA先生」がそれぞれ入選となった。昭和30年には町田市中央劇場の緞帳の原画を制作したが、31年結核が再発し再び療養生活に入り、かたわら自由なデッサンなどをとりはじめる。昭和35年に約1年間入院生活をおくったが、その間の化学療法のために肝炎を併発した。昭和43年3月、2ヶ月間の予定で妻、義妹とヨーロッパ旅行に出発したが、同行者の帰国後もパリに滞在し、パリを根拠地にしてイタリア、スペインなどを旅行し、昭和44年秋に帰国した。帰国後は制作に没頭し、昭和46年3月、向井潤吉の推めで第1回個展を東京日本橋の高島屋で開催、また日動画廊第1回三月会展に「吟遊詩人と城」出品。昭和47年4月第1回八珠会展(織田広喜、中村直人、宮崎進など。日本橋高島屋)に「雪後の母子」「月の出の人々」出品。昭和48年第2回八珠会展「雪後」出品。兜屋画廊で月と母子を主題にした作品により個展開催。昭和49年3月陽炎展(佐野繁次郎、中村直人、野間仁根など。上野松坂屋)に「青い樫と少女」「雪後の母子」「雪後風景」出品。第3回八珠会展「満月と母子」「水辺の女」出品。6月日本橋高島屋で“雪明りの人々”を主題した作品で個展開催。3月から10月までサンケイ新聞の連載小説遠藤周作『彼の生き方』の挿絵を担当する。昭和50年4月上野松坂屋で中村直人との二人展開催、その直前に入院。6月8日、国立癌センターで死去した。)

水戸敬之助

没年月日:1975/06/07

洋画家水戸敬之助は、6月7日死去した。明治36年7月9日秋田県に生れ、東京高等工芸学校卒業後太平洋画会研究所に学び、その後文部省中等教員西洋画科検定に合格し、戦前は東京中和国民学校に図画教員として勤務した。太平洋画会々員で、同会に出品のほか文展にも発表し、昭和5年には詩集「氷河」を発刊している。主要出品目録日展少年 昭和22年(1947)聖書の話 昭和29年(1954)ヴァイオリン 昭和35年(1960)オルゴール 昭和41年(1966)室内 昭和46年(1971)ピノキオなど 昭和50年(1975)示現会日蝕の頃 昭和33年(1958)人物 昭和43年(1968)公園 昭和48年(1973)あやつり人形のある室 昭和51年(1976)

伊藤弥太

没年月日:1975/05/31

国画会会員の洋画家、伊藤弥太は、5月31日午前0時5分、秋田県大館市で死去した。享年83歳。伊藤弥太は、明治25年(1892)4月6日秋田県大館市に生まれ、秋田県立大館中学校を卒業後、明治44年(1911)に上京した。明治45年ころ友人らと美術雑誌『美の廃墟』を発行、6号までつづいたが、その後、岸田劉生に師事し、大正3年二科第1回展に入選、大正4年(1915)、現代の美術社主催第1回美術展(草土社第1回展にあたる)に「自画像」「風景1」「風景2」を出品した。劉生筆鉛筆デッサン「若き男の頭」(“Head of ayoung man, Riusei Kishida, 16th Feburuary 1915” の記入がある)のあることが知らされている。このころ、家財道具一切を盗難にあい、それが原因となって岸田劉生とのあいだに誤解が生じ、絵画を放棄して静岡県三島市に隠棲した。昭和2年(1927)若山牧水らにうながされて再出発を決意し、上京、国分寺村に住み、同年の第8回帝展に「秋景」入選、翌3年9回帝展「山村風景」入選、同4年には千葉県に転居、さらに同5年には秋田市に転じ、同年11回帝展に「フォートイユによりて」を入選となった。昭和6年郷里の大館市に転じ、翌7年第2回独立美術展に「少女と金魚鉢」「室内裸婦(意匠風なる)」「窓に椅る人」入選、以後、3回展「紫姿」、4回展「肖像」「裸婦」、5回展「婦人像」、6回展「ピアノ」を出品入選となった。昭和14年(1939)からは国画会展に出品し、昭和33年32回展のとき会友、同39年に会員に推挙された。昭和44年(1969)秋田県文化功労賞をうけた。また、昭和24,25年ころから水墨画を描きはじめ、昭和46年には『伊藤弥太郎水墨画集』が出版されている。国展出品作品年譜昭和14年(1939)13回展「窓辺婦人」、14回展「楽人(夕映の部屋にて)」、15回展「裸婦花模様」、16回展「秋庭」、17回展「山」、18回展「駿河の春」、19回展「鶏」、昭和21年20回展「雪の森吉山を望む」「農夫」、21回展「炉辺」、24回展「梟」「村のNさん」、25回展「壜と枯向日葵」、26回展「梟と女」、27回展「画家と梟」、28回展「作品A、C」、29回展「絵画」、30回展「作品」、31回展「作品」、32回展「昆虫」「魔鳥」、33回展「作品1、2」、34回展「作品」「わが幼き日」、35回展「舞楽」、36回展「伝説の岩」「白い座」、37回展「考える木立ち」「石」、38回展「絵画」、明治40年39回展「ある天体」「作品」、40回展「男鹿夕瀬崎」、41回展「口野漁港」、42回展「北国の街」、43回展「松と岩」、44回展「長津呂港」、45回展「北国の街その2」。

須山計一

没年月日:1975/04/17

一水会会員、日本美術会員の洋画家、また漫画家、漫画研究家の須山計一は、4月17日午後11時58分、脳出血のため東京世田谷奥沢の大脇病院で死去した。享年69歳。須山は、明治38年(1905)7月17日、長野県下伊那郡に生まれ、昭和5年(1930)東京美術学校西洋画科を卒業。在学中は藤島武二教室に属し、一方、松山文雄にさそわれて麻生豊、柳瀬正夢らの日本漫画連盟に参加、昭和2年(1927)、柳瀬、松山の紹介でプロレタリア文芸連盟美術部に加盟し、学内では研究会五月会にはいって活躍した。その間に発表した作品には宇野計の名で出品した昭和3年(1928)第1回プロレタリア美術展「トーマを排撃せよ」、翌4年第2回プロ美術展「戦争」「宗教」「社会民主主義者A、B、C」、5年第3回展には無産者新聞連載の漫画「アジ太プロ吉世界漫遊記」、6年第4回展「アムステルダムの手先共」、7年第5回展「祖国」「村」などがある。美術学校卒業制作は「労働者」(のち、昭和38年“昭和初期洋画展”神奈川県立近代美術館、昭和46年4月“近代日本美術における1930年”展に出品された)であった。昭和8年ヤップ(日本プロレタリア美術家同盟)書記長、コップ(日本プロレタリア文化連盟)書記局員などをつとめ、同年12月検挙され、治安維持法違反で起訴、約1年間の未決生活をおくり、懲役3年執行猶予5年の判決をうけた。昭和16年(1941)第5回一水会展に「宿駅」入選、その後毎年出品し、昭和21年一水会会員となった。また、昭和12年には満州・朝鮮旅行、また、昭和17年には石井柏亭が主宰した双台社の同人となっている。戦後は、一水会展に出品すると同時に、昭和22年日本美術会会員となり同会主催日本アンデパンダン展に毎回出品、昭和34年には同志と草炎会を結成した。昭和36年にモスクア、レニングラードで開催された現代日本美術展に「伊那の山村」「出漁の朝」を出品、同40年には招待されて新中国を旅行した。一水会展への出品は一時中断したが、昭和46年以後再出品している。漫画評論、漫画史研究にもたづさわり、『現代世界漫画集』(昭和11年)、『ドーミエ、政治風俗漫画』(昭和28年、青木書店)、『漫画の歴史』(昭和30年、美術出版社)、『日本漫画100年』(昭和31年、鱒書房)、『日本の戯画』(昭和35年、社会思想社)、『漫画博物誌・世界、日本』2冊(昭和47年、番町書房)などの著書がある。一水会展出品作品略年譜昭和16年(1941)5回展「宿駅」、17年6回展「山の道」、18年7回展「仕上げの女達」「伊那谷の初夏」、22年9回展「志賀の渓流」「山池」、23年10回展「街」、24年11回展「ミシンをかける妻」、25年12回展「焼跡工場から」、26年13回展「姨捨駅」、27年14回展「絵をかく子供」「伊那谷の生家」、28年15回展「六郷橋畔」「造船所付近」、29年16回展「瓦斯橋の辺り」「南信駒場の宿」、30年17回展「南信の夏」「伊那の山村」、31年18回展「峠の部落」「大平街道」、32年19回展「馬籠への道」、33年20回展「荷揚げ場」、46年33回展「竜門石窟」、47年34回展「奥信濃の火祭」、48年35回展「天竜渓谷の村」、49年36回展「白樺林とつつじ」。

野村光司

没年月日:1975/04/16

洋画家野村光司は、4月16日死去した。享年81歳。明治29年9月23日福島県に生れ、第一高等学校を経て大正11年(1922)東大農学部を卒業した。大正13年(1924)にブラジルに渡り、同国官吏として農事試験場に勤務し、後拓務省官吏として総領事館に勤務した。ブラジルに約9年、北アメリカに約1年滞在した。帰国後一水会の中村琢二に師事し、一水会、日展等に出品、昭和22年(1947)一水会々員、同35年(1960)委員となり、同46年(1970)日展審査員、翌年会員となった。この間、昭和28年(1953)第9回日展「店頭」では特選及び朝倉賞を得、同37年(1962)第5回日展「ある洋品店」では特選となった。そのほか、主要作品としては、「ヨットハーバー」(第32回一水会)、「晩秋の伯耆大山」(第30回一水会)、「白鳥のある店」(第31回一水会)、「那須高原の秋」(第34回一水会)、などがある。

矢野鐵山

没年月日:1975/03/31

日本画家矢野鉄山は、3月31日急性心機能不全のため大阪府茨木市の病院で死去した。享年81歳。本名民雄。明治27年2月5日愛媛県今治市に生れ、18歳の年上京し小室翠雲に師事した。24歳で大阪に移住し、大阪美術学校に入学、またこの年第2回帝展に「春靄・松壑」(対幅)が初入選している。翌大正10年日本南画院に「穣媚・霜晨」を出品、1等となり同人に推され、以後16年間同人として出品した。昭和12年乾坤社を興して展覧会を開催、5回展を迎えたが戦争のため中止するに至る。帝展はその後、昭和4年第10回「孤琴涓潔」、同8年第14回展に「荒凉」が特選となり、昭和18年第6回文展では審査員となった。また戦後昭和43年全日本水墨画協会を設立、同46年新しい水墨画の発展に尽くした功績によって、紫綬褒章を受章した。その他、日展会員でもあり、審査員もつとめた。作品は東洋独自の水墨画を現代に発展させたもので、作品は上記のほか「晴れ行く驟雨」「長江万里」「韓非子」「蘇秦張儀」などがある。

高島常雄

没年月日:1975/03/30

洋画家高島常雄は、3月30日急性心不全のため死去した。享年53歳。大正11年(1922)1月10日高知市に生れ、昭和19年(1944)東京高等師範学校芸術科を卒業した。卒業後直ちに海軍予備学生として軍務に服し、昭和29年(1945)復員、同23年(1948)上京し、翌年創元会に初入選した。以来出品を重ね、昭和27年(1952)「母子像」で創元会賞を得、翌年「群像」で創元会準会員賞となり、この年会員に推挙され、同29年(1954)には運営委員となり、以後会の運営に当った。また、日展にも出品し、昭和26年(1951)「磯」が初入選以来、毎年日展に出品し、昭和30年(1955)「水禽舎」で特選となった。そのほか、昭和33年(1958)以後、同36(1961)、38(1963)、45(1970)年には安井賞展への出品がみられ、46年(1971)「時計」は、彫刻の森美術館買上げとなった。この間、屡々渡欧し、昭和40(1965)年には南欧、同47年(1972)には主としてスペイン南フランスに、翌48年(1973)には主として北欧に旅している。また昭和39年(1964)以後7人会に参加し、個展も開催し、昭和43年(1968)にはサンフランシスコで個展を開いている。昭和50年(1975)創元展出品の「精華」が絶筆となった。

前川博人

没年月日:1975/03/29

洋画家前川博人は、3月29日心筋梗塞のため死去した。享年52歳。大正12年広島県福山市に生れ、独学で絵を学んだ。戦後、第6回日展に「青い顔の女」を出品、翌年第15回自由美術展に「昇天」をはじめて出品、翌第16回には「はばたき」「冬」「人々」を出品し、自由美術家協会々員となった。昭和30年代には写真も手がけ、「世界主観主義写真展」(西独)、「抽象の感覚展」(ニューヨーク近代美術館)等の出品がある。昭和36年(1961)第15回自由美術展に「宇宙の顔」を出品したが、同39年には自由美術家協会を退会し、主体美術協会に参加し、同協会々員となった。昭和41年(1966)第2回主体展に「脱却」を出品、49年(1974)第10回主体展に「赤い雲」を出品した。主体美術展の主もな出品はつぎの通りである。「飛ぶもの」1回(1965)「木」3回(1967)、「立っている木」5回(1969)、「樹と山」7回(1971)、「無題」(1973)等。

小堀進

没年月日:1975/03/16

水彩画家、日本芸術院会員の小堀進は、3月16日午後零時2分、ガン性胸膜炎のため東京都北区の大蔵省印刷局東京病院で死去した。享年71歳。明治37年1月22日茨城県に生れた。大正11年3月千葉県立佐原中学校を卒業。翌年上京して葵橋洋画研究所に入り晩年の黒田清輝に洋画の基礎を学んだ。中学時代から土地柄の水郷風景などを水彩で描いていたが、昭和7年の第9回白日会展「うすれ日」、第19回日本水彩画会展「画室の一隅」「盛夏の海」などの公募団体展への初入選は共に水彩画で始まっている。以後、終始一貫して水彩画家として大成したことは周知の通りである。昭和9年1月の第11回白日会展では受賞して会友に推せんされ、同年2月の第21回日本水彩展ではキング賞を受けて会員に推挙された。同じく昭和11年第13回白日会展では新会員となった。一方同時期には二科展にも作品を発表し、昭和8年第20回展に「高原」が初入選以来昭和14年第26回展「遊覧船」まで毎年出品した。その間の出品作の画題は、「蒼原」(21回展)、「斜陽」(22回展)、「山麓」(23回展)、「海」(24回展)、「陶業の町」(25回展)である。 昭和15年5月には、洋画界の中に占める水彩画の位置の極めて不安なこと、しかも日本水彩画会のような保守的な行き方に慊らず、故に水彩画の向上発展を期して、荒谷直之介、春日部たすくら同志8名とともに水彩連盟を結成、同年12月、第1回展を東京・銀座三越で開催した。以後第5回展まで東京・大阪の三越で開催。戦後22年2月の第6回展からは一般公募展となし東京者美術館で開催、現在に及んでいるが、彼はその水彩画新開拓運動に挺身してきた中軸的存在であった。戦中の第5回文展(昭和17年)に「初秋水郷」、第6回文展に「水が咲く」が入選した。同19年より郷里へ疎開したが、同22年に再上京、第3回日展に「驟雨」が入選した。日本芸術院・日展運営会の共同主催となった昭和24年第5回日展に無鑑査で「湖畔」を出品、以来死去前年(同49年)の改組第6回日展「晨」にいたるまで1回も休むことなく連続出品、精力的な発表を重ねた。その間、第7回展(26年)・第11回展(30年)・第2回新日展(34年)・第5回展(37年)・第8回展(40年)・第11回展(43年)に審査員を歴任した。同32年には、日展が社団法人と改組されその評議員となり、更に同44年再改組日展理事に就任した。この改組日展第1回展の出品作品「初秋」によって、昭和44年度(第26回)の日本芸術院賞を受賞した。その授賞理由として、「氏は、その表現技法の洗練とともに、内面描写の領域にまで深厚な観照を加え、昭和水彩の一典型ともいうべき新技法の画風を確立して、広く後進に影響を与えてきた。この作品は、その集大成ともいえる独得の賦彩処理と水郷風景の把握にその充実した力量を示した優作であると認める」と発表されたが、殊に戦後の四半世紀をこの画家が、すぐれた現代感覚と創意・工夫を重ねて樹立した独自な作風の特色を正に語り得て妙というべきであろう。昭和49年11月、水彩画家として初めて日本芸術院会員に選ばれたが、その後数ヶ月を経ずして病魔に倒れたことは誠に惜しまれる。他に、同36年に結成された日展水彩作家協会の顧問や、同45年来名古屋芸術大学教授をつとめていた。

三橋節子

没年月日:1975/02/24

創画会に出品していた日本画家、三橋節子は、2月24日午前0時40分、転移性肺腫瘍のため京都府立病院で死去した。享年35歳。三橋節子は、昭和14年(1939)3月3日、大阪・パルナバ病院に生まれる。当時から両親の住居は京都市で京都で育っている。父三橋時雄、母珠の2男2女の長女として生まれ、母珠の従兄弟に長谷川海太郎(小説家林不忘、または牧逸馬)、長谷川潾二郎(画家)、長谷川四郎(小説家)などがいた。北白川小学校、近衛中学校をへて昭和29年鴨沂高校を卒業、同年京都市立美術大学日本画科(現・京都市立芸術大学)に入学、主として秋野不矩に師事した。昭和36年(1961)同大学を卒業したが、その前年の35年の新制作春季展に「立裸婦」が入選、同年24回新制作展に「立像」が入選となった。以後、新制作展日本画部(のち創画会展)、京都日本画総合展などに出品し、昭和40、42、44の新制作春季展で受賞、昭和42年末から45年初めにかけて京都美大同窓会美術教育研究会主催の旅行団に参加してインド、カンボジアに旅行し、昭和43年11月、同じ新制作展出品作家で陶芸家の鈴木靖将と結婚し大津市に新居をもった。昭和44年、第33回新制作展に出品した「カルカッタの少年達」「ベナレスの物売り」で新作家賞をうけ、さらに、昭和46年第35回新制作展では「土の香」「炎の樹」で2回目の新作家賞を受賞した。昭和48年(1973)「湖の伝説」を制作したあと鎖骨腫瘍のため京大病院に入院して右腕切断の手術をうけ、以後は左手で制作、昭和49年滋賀県展に出品され「花折峠」で滋賀県芸術祭賞をうけ、同50年京都日本画総合展出品「余呉の天女」(絶筆)は京都府買上げとなった。作品略年譜昭和35年(1960) 「立像」(24回新制作展)。昭和39年 「樹」「白い影」(新制作春季展)、「樹1」(28回新制作展)。昭和40年 「柳桜」(新制作春季展)。昭和41年 「池畔」「池苑」(30回新制作展)。昭和42年 「吾木香」(筍々会3人展)、「疎林の中に立つ」(新制作春季展)、「白い樹」(31回新制作展)。昭和43年 「野草」(京都日本画総合展)、「アネモネ」(新制作春季展)、「インドの子供達」「カンチプラムの路上」(33回新制作展)。昭和44年 「牛頭骨のある静物」(京都日本画総合展)、「土のぬくもり」「乾いた土とサリー」(新制作春季展)、「ベナレスの物売り」「カルカッタの少年達」(33回新制作展)。昭和45年 「とわの土」(京都日本画総合展)、「路上」(新制作春季展)、「カンボジアの子供達」「カンボジアの村」(34回新制作展)、「クサマオとカラスウリ」(京都日本画総合展)。昭和46年 「土の詩」(京都同時代展)、「よだかの星」「おきなの星」(新制作春季展)、「炎の樹」「土の香」(35回新制作展)。昭和47年 「裏山の収穫」(京都日本画総合展)、「土の子」(京都同時代展)、「どこへゆくの」(新制作春季展)・「千団子さん」(新制作研究会展)、「登り窯」(京都百景展)、「鬼子母」「鬼子母神」(36回新制作展)、「インドの少年達」「石の詩」「こがらしの詩」「あめ屋さん」「なずな」「あけびの頃」「いとこたち」(2人展)。昭和48年 「湖の伝説」(京都日本画総合展)、「田鶴来」「三井の晩鐘」(37回新制作展)。昭和49年 「羽衣の伝説」(滋賀県美術協会展)、絵本原画「湖の伝説」13点、「花折峠」「雷獣」(1回創画会展)、「鷺の恩返し」「花折峠」(27回滋賀県展)。昭和50年 「余呉の天女」(京都日本画総合展)。

平野長彦

没年月日:1975/02/13

日本画家平野長彦は、2月13日心臓マヒのため大阪市の自宅で死去した。享年71歳。矢野知道人に師事し、帝展、新文展等に作品を出品し、戦後は日展に発表した。風景や、仏画に独自の南画を描き、昭和30年大阪美術協会が発足してからは、その理事をつとめた。

末永一夫

没年月日:1975/02/11

二科会会員の洋画家末永一夫は、2月11日午前2時30分、敗血症のため名古屋市の聖霊病院で死去した。享年63歳。末永一夫は、明治44年(1911)7月20日、岐阜市に生まれ、旧姓安岡(昭和16年まで)、昭和7年(1932)岐阜師範学校専攻科を卒業した。昭和16年第28回二科展初入選、翌17年北川民次に師事、以後毎回二科展に出品入選、昭和26年36回展出品の「瀬戸の山」「海」で特待賞をうけた。昭和31年二科会会友に推され、同37年(1962)に会員に推挙されて、同43年二科会員努力賞をうけている。その間、昭和34年丸栄画廊での個展をはじめ、同49年日動画廊名古屋支店、41年丸物画廊、44年日動画廊名古屋支店などで個展を開催した。また、昭和49年(1966)フランスのサロン・ド・コンパレーゾン、42、45年サロン・ドートンヌなどにも出品して昭和44~45年メキシコに写生旅行している。一方、名古屋市立汐路中学校をはじめ教職にあって、戦後の創造美術教育運動に参加し、昭和33~34年にはCBCテレビで児童画についての放映に出演している。二科展出品作品略年譜昭和16年(1941)28回展「工作」、29回展「お掃除」、30回展「待避壕」、昭和21年31回展「水産市場」「靴工場」、32回展「石炭のある風景」「森のある風景」、昭和25年35回展「瀬戸風景」、36回展「瀬戸の山」「海」、37回展「瀬戸風景」、38回展「堀川風景」、39回展「瀬戸の山」、40回展「瀬戸風景」「陶土採掘」、41回展「陶土採掘場」、42回展「陶土採掘場」、43回展「石炭石採掘場A、B」、44回展「石炭岩の山」、45回展「瀬戸の山B」、46回展「団地造成」、48回展「北陸の海A、B」「瀬戸風景」、49回展「団地造成」「崖」、昭和40年50回展「早春の箱根」「丘陵の畑A、B」、51回展「珪砂工場のある風景」「瀬戸風景」、52回展「団地のある丘」「陶土の山」、53回展「みかん山A、B」、54回展「削ずられていく蜜柑山」「樹のある蜜柑山」、55回展「ハカランダの咲く丘(タスコ)」「タスコの丘」、56回展「タスコの丘」、57回展「タスコの丘」、58回展「シャボテンと岩山」、59回展「海」。

石井光楓

没年月日:1975/02/09

春陽会会員の洋画家、石井光楓は、2月9日午後6時30分、心不全のため横浜市の自宅で死去した。享年82歳。石井は、本名を政二、光楓は号である。明治35年(1892)3月10日、千葉県夷隅郡に生まれ、日本美術院研究所に学び、大正4年(1915)第2回院展洋画部に「夏の終り」「木曾の雪」が初入選、大正10年第3回帝展に「牛の蹄を切る」が入選した。大正10年(1921)絵画勉強のためにアメリカへ渡り、カリフォルニア・アート・スクール、ついでシカゴのアート・インスティテュートに学んだ。その間、1922、23、25年(大正11、12、14)ワシントン・アート・エキジビション、1924年ノース・ウェスト・アート・エキジビション、1925年メープル・アート・エキジビションに出品、大正14年(1925)フランスへ渡り、パリのアカデミー・ジュリアンで学ぶ。1925、29、31年サロン・デ・ザンデパンダン、1926、27年サロン・デ・ナショナル・デ・ボザール、1927、28、31年サロン・デ・ザルティスト・フランセーズ、1927、28、30年サロン・ドートンヌに出品した。昭和4年(1929)再びアメリカへ渡り、さらに昭和6年(1931)再度フランスへ渡り、昭和11年(1936)11月帰国した。昭和15年までに、陸軍省嘱託として中国の中部南部方面に従軍し、昭和15年(1940)第18回春陽会展から出品し、昭和22年第24回展で春陽会賞をうけて会友、同24年26回展のとき会員に推挙された。昭和26年には千葉県立長生第一高等学校教諭となり、また、駐留米軍の通訳としてもはたらいている。15年間にわたる欧米滞在によって、フランス・ボルドー美術館、ベルギー・ブリュッセル美術館、アメリカではニューヨークのブルックリン美術館、オクラホマ州メッドフォード市カウンテアットニー図書館などに作品が所蔵されている。

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