本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





池田幸太郎

没年月日:1976/08/16

日本画家、日本画府理事池田幸太郎は、8月16日老衰のため東京都世田谷区で死去した。享年81。明治28年(1895)3月28日佐賀郡に生まれ、大正2年佐賀中学卒業後上京し、川端画学校で結城素明の指導を受けた。大正10年東京美術学校日本画科卒業、在学中から同14年頃まで本郷洋画研究所に通い人体デッサンを続けた。同14年帝展に「染井釣堀の図」が初入選し、徳田秋声の推奨を受けるなど、昭和初期にかけて一連の東京風物を描いたが、昭和8年頃から官展出品をやめ、専ら独自の制作活動を行った。この間、外房他に毎年写生に出かけ風景画を多く残したほか、昭和38年には請われて日本画府に所属、理事として同展に出品を続けた。代表作に「咏子の座像」(1921年)「朝市」(1927)「隅田川」(1933)など。

茨木杉風

没年月日:1976/08/12

日本画家茨木杉風は、8月12日胃炎のため中野区の自宅で死去した。葬儀は新宿区信濃町の千日谷会堂で新興美術院葬をもって行われた。享年78。本名芳蔵。明治31(1898)年2月8日滋賀県近江八幡市の海産物問屋梅田屋茨木芳蔵の長男として生れ、八幡商業学校を卒業した。大正9(1920)年3月水墨画に新境地を展開した近藤浩一路に師事し、4月太平洋画会研究所に入学した。大正11年第9回院展に「八木節」が初入選し、昭和5(1930)年日本美術院院友となった。翌年2月渡欧し、エジプト、フランス、スペイン、イタリアなどを巡遊し、この年帰国した。昭和12(1937)年、日本美術院院友を辞して、同志10名、(茨木杉風、小林三季、小林巣居、鬼原素俊、芝垣興生、保尊良朔、吉田澄舟、内田青薫、田中案山子、森山麥笑)と、「自由拘束なき新興清新なる芸術を揚達する」目的をもって、あらたに公募団体新興美術院を創立した。以後、同院を主もな発表の場として制作活動をつづけた。戦時中は海軍報導班員として南方に派遣され、海軍記録画「潜水艦の出撃」を制作した。戦後は、戦争のため中絶していた新興美術院を同志8名(旧同人6名に他2名。)で再興、再興新興美術院第1回展を昭和26年6月東京都美術館に開催した。戦後も専らここを舞台に活動をつづけた。代表作に「近江八景」(6曲4双、1943)「南海驟雨」(6曲1双、1944)「しぶき」(4曲1双、1951)などがある。その作品はいづれも写生にもとづく水墨画で、郷里琵琶湖の風景を好んで描いたが、そのほかにも欧洲風物や、京洛風景など幅広く取材され、色彩をほどこした一種粘りのある筆致は、清雅な特有の作風を示した。略年譜明治31年(1898) 2月8日、近江八幡市、海産物問屋梅田屋茨木芳蔵の長男として生れる。大正9年 3月、近藤浩一路に師事。同年4月、太平洋画会研究所へ入学。大正11年 第9回院展「八木節」入選昭和5年 日本美術院院友となる。昭和6年 2月渡欧、エジプト、フランス、スペイン、イタリーを主に西欧美術研究、同年帰朝。昭和12年 日本美術院院友を辞して同志10名と公募団体新興美術院を創立、その会員となる。昭和13年 第1回展「漁村冬日」出品。昭和18年 第6回展「近江八景」6曲4双出品。昭和18年 6月1日、海軍報道班員として南方に派遣され、海軍省委嘱の記録画作成の写生をなし8月帰還す。昭和18年 11月末、海軍記録画「潜水艦の出撃」横6.9米、竪2.5米の大作を完成、海軍省納入。昭和19年 大東南宗院に「奥州平泉桜」(2曲1双)、「三千院の初夏」出品。海洋美術展に「南海驟雨」(6曲1双)出品。昭和20年 4月、郷里近江八幡に疎開す。11月、郷里に於て紙本小品個展開催。昭和21年 東京の画室、無事のため3月帰京す。5月、越後与板にて「与板十二景」完成。7月、三越にて同志と小品展を開催。昭和25年 10月、戦争のため中絶せる新興美術院を同志8名と再興、その創立会員となり、事務所を自宅に置く。昭和26年 6月、再興第1回新興美術展を東京都美術館にて開催、「しぶき」(4曲1双)出品。同年11月同院秋季展を銀座三越にて開催、「雪晨」出品。昭和28年 1月、朝日新聞社秀作美術展に「浅草」出品。昭和30年 12月、社団法人新興美術院の認可あり同法人理事となる。昭和45年 漱石文学全集(集英社)「我輩は猫である」(第1巻)の挿絵を描く。昭和51年 8月12日、自宅にて逝去。昭和51年 10月26日、日本橋三越本店に於て、個展を開催。

鳥居清忠〔8代目〕

没年月日:1976/07/13

日本画家で舞台美術、TVの分野にも活躍した鳥居清忠は、7月13日肺ガンのため神奈川県伊勢原市の東海大附属病院で死去した。享年75。明治33(1900)年11月21日鳥居派七代目宗家の家に生れ、大正3(1914)年立教中学を中退して小堀靹音に師事し、大和絵、有職故実を学んだ。翌年には言人と号し、絵の修業をする傍ら“演芸画報”などの挿絵や、芝居の絵番附などを描いた。大正7年(1918)芝居絵に関連する画だけにあきたらずして、鏑木清方に師事して、美人画を学んだ。昭和4(1929)年には鳥居派八代目を継承し、この頃より“言人版画”という美人画版画を数多く制作した。昭和10年号を清言と改め、専ら作画生活をつづけ、昭和27年美人画「髪」が第8回日展に入選した。昭和16(1941)年父七代目清忠死去により、昭和37(1962)年父の名跡をついで清忠と改名した。鳥居派は、抑揚ある線描、けばけばしい泥絵具、瓢箪のような足の形など独特の様式を具え、歌舞伎の絵看板などとは不離の関係にあって懐しいものだが、清忠のあと後継者がない。清忠のほか、戦争中から昭和45年の春まで歌舞伎の看板は、先代清忠の弟子鳥居忠雅がかいていた。昭和45年忠雅急逝し、清言が再び歌舞伎の看板をかくようになった。なお清忠は昭和41(1966)~47(1972)日本大学芸術学部演劇科の講師をつとめ、舞台美術について教えていた。

猪田青以

没年月日:1976/06/27

日本画家猪田青以は、6月27日食道ガンのため京都市の京都府立病院で死去した。享年70。本名安治郎。明治39(1906)年1月24日京都市に生れ、昭和2年(1927)京都市立絵画専門学校を卒業した。西村五雲に師事し、昭和13(1938)年五雲没後は、山口華楊によって継承された画塾晨鳥社幹部としてあり、官展に出品した。昭和6(1931)年第12回帝展に「閑日」が初入選以来入選を重ね、帝展ではそのほか第13回「晩春」、第14回「軍鶏」、第15回「閑」などの出品がある。新文展では昭和13年(1938)第2回文展「日午」、同15年紀元2600年奉祝展「神苑の花」第6回「闘魂」などがある。戦後の日展では昭和30(1955)年第11回「ウーダン」、第12回「白い花」、第13回「菱」ほかがあり、日春展にも第1回(1966)展「花咲くほてい草」(奨勵賞)ほか数多くの出品がみられ、第3回展「篠」では日春賞となり、第9回「川の畔」では外務省買上げとなった。そのほか関西における関西綜合美術展、日本画審査員、京都府総合日本画展、京展で受賞するなどの活躍がみられ、また川島浩との二人展(1961)、青以素描展(1966)なども開催している。

高畠達四郎

没年月日:1976/06/26

独立美術協会会員の洋画家、高畠達四郎は、6月26日午前4時7分、心筋こうそくのため東京都港区の自宅で死去した。享年80。高畠達四郎は、明治28(1895)年10月1日、東京神田の雑穀問屋村新(屋号)に生まれ、東京高等師範学校附属小、中学校をへて慶応義塾大学理財科(現・経済学部)に入学したが、画家を志望して中退し、帝展に出品したあと、大正10(1921)年渡欧、昭和3(1928)年までフランスに滞在した。その間、アカデミー・ランソンでモーリス・ドニ、ピエル・ボナールなどに学び、滞仏後半期には、アンドレ・ドラン、モイーズ・キスリングなどの作風に傾倒し、サロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザンデパンダンに出品した。藤田嗣治、福島繁太郎、辰野隆らと交友し、福島コレクションにも関係した。帰国後、国画会に作品を発表したが、昭和5年、伊藤廉、林武、三岸好太郎らと独立美術協会を創立、以後、独立展を中心に活躍して作品を発表した。戦後しばらくは疎開先の熱海市に居住し、昭和26(1951)年第5回美術団体連合展に出品した「暮色」で第3回毎日美術賞(昭和27年1月)を受けた。素直な自然観照による素朴な、プリミティヴィスムを感じさせる独自な様式を確立し、以後、ほとんど風景を主として製作したが、昭和28(1953)年の渡欧を皮きりにその後しばしば渡欧し、内外の風景を多く描いた。昭和51年5月、生涯にわたる大回顧展を開催したが、その1ヶ月後に死去した。略年譜明治28年(1895) 10月1日、東京市神田区に高畠新吉・たまの四男三女の末子として生まれる。家業は雑穀問屋、屋号村新。明治32年 4月、東京女子高等師範学校幼稚園に入る。同窓にのちの仏文学者鈴木信太郎がいた。明治35年 4月、東京高等師範学校附属小学校に入学。同窓に鈴木信太郎、石川欣一、福島繁太郎、荘清彦、岩崎彦弥太がいる。この頃、駿河台、湯島の聖堂、神田明神など行動範囲がひろがる。明治41年 3月、東京高等師範学校附属小学校卒業、唱歌、図画、体操の成績がとくに良かった。4月、東京高等師範学校附属中学校に入学、担任教師諸橋轍次、柔道、水泳、野球などのスポーツに熱中する。柔道初段大正2年 3月、東京高等師範学校附属中学校を卒業。4月、第七高等学校文科、海軍兵学校に合格するも入学せず。大正3年 4月、慶應義塾大学理財科に入学。大正5年 12月、画家志望の念強まり、慶応義塾大学理財科を中退、しばらく本郷洋画研究所に通う。大正8年 2月、光風会第7回展に出品、初入選となる。大正10年 10月、第3回帝展に「Hの肖像」が入選となる。11月、神戸を出帆、渡仏の途につく。12月、パリ着、ト゛ランブル街に落ちつく。大正11年 1月、アカデミー・ランソンに通いはじめる。講師にモーリス・ドニ、ピエル・ボナール、エドワール・ビュイヤールなどがいた。このとし、地震学の石本巳四雄、仏文学者辰野隆、山田珠樹、音楽の加藤成之らと知り合い、観劇や音楽会にともに行く。ベルギー、ドイツ、オーストリー、ハンガリー、イタリアなどにも旅行する。大正12年 このとし、アトリエをロルヌ街に移す。同番地に福沢一郎、中山巍、大石七介がいた。このころアンドレ・ドラン、アンドレ・ロート、モーリス・ドニ、モイーズ・キスリングに傾倒する。秋、友人の福島繁太郎がパリに来、旧交をあたためる。大正14年 10月、第6回帝展に「冬のカッシス」が入選する。滞仏中サロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザンデパンダンにも出品。このとし、友人の鈴木信太郎をパリに迎える。昭和3年 8月、滞仏7年の生活を終えて帰国、小石川区に居を構える。9月、第15回二科会展に「シャティヨン風景」「プチ・ジャン」「静物」を出品。昭和4年 5月、梅原龍三郎のすすめにより第4回国画会展に滞欧作12展、「厨」「ダルレー広場」「浴女」「裸体」「少女」「シャチオン」「顔」「フォンテンブロー」「肖像」「春日風景」「風景」「静物」を出品、会友に推される。昭和5年 2月、第5回国画展に「静物1」「静物2」「郊外風景」「子供」「女」を出品、会員となる。3月、第2回聖徳太子奉讃美術展に「老人」を出品。11月、三岸好太郎、児島善三郎、林武、林重義、清水登之、伊藤廉、川口軌外、中山巍、鈴木亜夫、鈴木保徳、福沢一郎、里見勝蔵、小島善太郎とともに独立美術協会を設立、創立会員となる。昭和6年 1月、第1回独立展に「プチ・ジャン」「コンポジション」「二人少女」など10点を出品。2月、石川文子と結婚す。昭和7年 1月、長男正明生まれる。3月、第2回独立展に「汽車内」「黒衣少女」など6点を出品。4月、父新吉没(84歳)。昭和8年 3月、第3回独立展に「卓上花束」「出稼の群」「雪景」を出品。9月、長女由貴子生まれる。昭和9年 3月、第4回独立展に「レダ」「鶴」を出品。5月、母たま没(78歳)。昭和10年 3月、第5回独立展に「石膏と花束」「漁港」「静物」「店頭」「馬と人」を出品。東京府美術館10周年記念現代綜合美術展に「老人」(1930)がえらばれる。昭和11年 4月、第6回独立展に「薔薇」「金鵄」「海岸」「静物(石膏)」を出品。昭和12年 3月、第7回独立展に「海女」「海幸」を出品。4月、帝国美術学校西洋画科教授となる。昭和13年 3月、第8回独立展に「彫刻室」「鳩」「窓」を出品。7月、日動画廊で初の個展「高畠達四郎第1回近作展」を開催、「石膏と花」「果物」など20展余を出品する。昭和14年 3月、第9回独立展に「夜雪」「ランプと女」「花」「岬」を出品。昭和15年 3月、独立美術協会第10回記念展に「農夫」「働く男」「静物」を出品。7月、二男未明生まれる。10月、紀元2600年奉祝美術展に「夜店」を出品。昭和16年 3月、第11回独立展に「由貴子(八歳)の像」「春野」「漁村」を出品。昭和17年 3月、第12回独立展に「岩村造船所」「花束」「角力」を出品。昭和18年 3月、第13回独立展に「収穫」「富士」「熱海」「静物」を出品。このとし、満州を旅行する。昭和19年 2月、第14回独立展に「新京の関帝廟」「満州の街」を出品。昭和20年 4月、小石川のアトリエ、空襲で焼ける。熱海市の別荘に移居する。このとし、第2次世界大戦終結。昭和22年 4月、第15回独立展に「由貴子の像」「熱海」「バラ」「冬曇」を出品。6月、第1回美術団体連合展に「曇」「麦畠」を出品。昭和23年 5月、第2回美術団体連合展に「未明の像」「熱海風景」を出品。10月、第16回独立展に「樟樹」「西野元氏像」「静物果物」「春庭」を出品。昭和24年 5月、第3回美術団体連合展に「街道」を出品。10月、第17回独立展に「風景」「無電局」「冬」「夏」を出品。昭和25年 3月、フォルム画廊で個展を開催。5月、第4回美術団体連合展に「熱海梅園」を出品。10月、第18回独立展に「橋(釧路)」「春(熱海)」「霧(釧路)」を出品。昭和26年 1月、第2回秀作美術展に「熱海梅園」がえらばれる。2月、第3回読売アンデパンダン展に「静物」を出品。5月、第5回美術団体連合展に「暮色」を出品。10月、第19回独立展に「巴里広場」「プチ・ジャン」を出品。第1回サンパウロ・ビエンナーレ展に「熱海風景」を出品。12月、フォルム画廊で個展を開催。昭和27年 1月、「暮色」(第5回美術団体連合展出品作)に対して第3回毎日美術賞が贈られる。第3回秀作美術展に同作品がえらばれる。2月、第4回読売アンデパンダン展に「畑」を出品。5月、第1回日本国際美術展に「春」「麦」「風景」を出品。東京芸術大学講師となる。10月、第20回独立展に「浅間山」「浅間山(夕)」「八ツ岳」を出品。昭和28年 1月、第4回秀作美術展に「浅間山」がえらばれる。2月、第5回読売アンデパンダン展に「城」「瀬戸内海」を出品。3月、東京芸術大学講師を辞す。渡仏。9月、国立公園絵画展に「琴平宮」を出品。10月、第21回独立展に「ノートルダム」「パリの遊覧船」「河」「戴冠式」を出品。昭和29年 2月、イギリスをまわって帰国。3月、サヱグサ画廊で高畠達四郎滞欧作油絵鑑賞展を開催、16点を出品。5月、第1回現代日本美術展に「コロップの林」「救命船」を出品。10月、第22回独立展に「肖像」「初秋梅園」を出品。昭和30年 5月、第3回日本国際美術展に「裸木と海」「春雪(熱海)」を出品、佳作賞を受賞する。10月、第23回独立展に「家」「静物」「梅園紅葉」を出品。昭和31年 1月、第7回秀作美術展に「春雪」がえらばれる。4月、神奈川県立近代美術館で高畠達四郎・岡鹿之助の二人展が開催され、69展が出品される。5月、第2回現代日本美術展に「梅」「山脈」を出品。10月 第24回独立展(創立25周年記念)に「裸木」「花と浅間」「樹木(熱海風景)」を出品。このとし、居を港区に移す。昭和32年 1月、第8回秀作美術展に「梅」がえらばれる。5月、第4回日本国際美術展に「石垣と木」を出品。10月、第25回独立展に「岬(伊豆赤沢)」「唐松と雲」を出品。昭和33年 1月、第9回秀作美術展に「岬」がえらばれる。2月、第2回国際具象派美術展に「望洋」「樹蔭」を出品。5月、第3回現代日本美術展に「風景A」「風景B」を出品。10月、第26回独立展に「丘(保土ヶ谷)」「山桃と海」「馬車」を出品。昭和34年 1月、第10回秀作美術展に「丘(保土ヶ谷)」がえらばれる。5月、第5回日本国際美術展に「春樹」を出品。10月、第27回独立展に「花と浅間山」「熱海」「道と海」を出品。11月、毎日美術賞10年記念展に「暮色」(1951)、「戴冠式」(1953)、「滞船(江之浦)」(1958)、「自転車」(1959)、「浅間山」(1959)がえらばれる。昭和35年 1月、第11回秀作美術展に「道と海」がえらばれる。4月、第3回国際具象派美術展に「樟と海」を出品。5月、第4回現代日本美術展に「岬(熱海)」「風景(熱海)」を出品。10月、第28回独立展に「大王崎灯台」「双柿樹」を出品。このとし、親友福島繁太郎没(65歳)。昭和36年 5月、第6回日本国際美術展に「風景」を出品。10月、第29回独立展に「巨樹」「高原と馬」を出品。昭和37年 4月、武蔵野美術大学講師となる。5月、第5回現代日本美術展に「風景(軽井沢)」「漁港鵜原」を出品。国際形象展に創立同人として参加し、第1回展に「漁村(須崎の家)」「高原風景」「石垣の村」を出品。このとし、新橋演舞場のどん帳「双思樹」完成。昭和38年 5月、第7回日本国際美術展に「櫟と空」を出品。7月、北京、上海で開催の現代日本油絵展に「高原と馬」を出品。10月、第2回国際形象展に「蝶を狙う魚」「雪景(軽井沢)」「乗馬高原」「画家と家族」を出品。第31回独立展に「村落(軽井沢)」「窓辺静物」を出品。昭和39年 1月、第15回秀作美術展に「暮色」がえらばれる。2月、武蔵野美術大学教授となる。3月、渡欧。パリ、ベニス、フィレンツェ、マドリード、バルセロナをまわる。5月、第6回現代日本美術展に「白と栗毛」を出品。昭和40年 1月、帰国。6月、「毎日美術賞受賞作家シリーズ・高畠達四郎展―受賞作から滞欧作へ-」が毎日新聞社の主催により東京高島屋、大阪大丸で開催される。10月、第33回独立展に「初秋浅間」「秋果静物」を出品。このとし、大阪中之島住友生命ビルに壁画「幻想のパリ」を完成。昭和41年 1月、第17回秀作美術展に「花のノートルダム」がえらばれる。5月、第7回現代日本美術展に「古寺(ヴェズレー)」を出品。6月、神奈川県立近代美術館の近代日本洋画の150年展に「静物」(1954)がえらばれる。10月、長野県信濃美術館の日本の洋画100年史展に「ノートルダム」(1964)がえらばれる。第34回独立展に「軽井沢風景」「秋果静物」を出品。第5回国際形象展に「ダリアの静物」「初秋浅間高原」を出品。12月、渡欧。昭和42年 10月、南仏、イタリア各地、ポルトガルなどで制作し帰国する。第35回独立展に「オーヴェル古寺」「ニースの冬」を出品。近代洋画名品展(名古屋)に「プチ・ジャン」(1928)がえらばれる。昭和43年 2月、パリで藤田嗣治の葬儀に参列。4月、フランス、イタリア、ポルトガル各地の風景を主題とした滞欧作品展を日動画廊で開催。5月、第8回現代日本美術展に「二重橋」を出品。10月、第36回独立展に「京子の像」「モンテカルロ」を出品。昭和44年 5月、第9回現代日本美術展―現代美術20年の代表作展―に「裸木と海」(1955)がえらばれる。10月、第37回独立美術展に「初秋浅間」「ニース散歩道」を出品。昭和45年 10月、第38回独立展に「エトルタ」「浅間山」を出品。昭和46年 4月、東京国立近代美術館の近代日本美術における1930年展に「プチ・ジャン」(1928)、神奈川県立近代美術館の戦後美術のクロニクル展に「暮色」(1951)がえらばれる。10月、第39回独立展に「離れ山」「犬吠埼燈台」を出品。昭和47年 10月、第40回独立展に「サンクルー(パリ郊外)」「ニース夜景」を出品。マントン、べチネア、サンマルコの風景を主とした小品展を日動画廊で開催。新潟県美術博物館の近代日本洋画の巨匠たち展に「暮色」(1951)、「静物」(1955)がえらばれる。昭和48年 10月、第41回独立展に「シシリー・カルタジローネの町」「セーヌ河岸」を出品。昭和49年 10月、第42回独立展に「上高地」「ヴィンチ村」を出品。昭和50年 3月、茨城県立美術博物館の近代日本洋画の巨匠展に「暮色」(1951)がえらばれる。10月、第43回独立展に「浅間山」「花」を出品。昭和51年 1月、水彩素描展を日動画廊で開催。4月、日本の四季展に「暮色」(1951)がえらばれる。5月、日本経済新聞社主催「素朴な心の巨匠・高畠達四郎展」が東京・高島屋で開催される。6月26日午前4時7分、心筋コウソクのため東京都港区の自宅で死去。7月3日 東京・青山葬儀所において独立美術協会葬(喪主・妻文子、葬儀委員長土方定一)として告別式が行われる。同日、旭日中綬章を贈られる。(本年譜は、昭和51年5月の「素朴な心の巨匠・高畠達四郎展」目録所収の年譜〔作成・弦田平八郎〕より転載、一部を訂正、追加した)

南政善

没年月日:1976/04/28

洋画家、光風会理事、日展評議員南政善は、4月28日午後0時36分心筋こうそくのため東京世田谷区の自宅で死去した。享年67。明治41(1908)年5月3日石川県羽咋郡(現羽咋市)に生まれ、昭和10年東京美術学校油画科卒業。在学中藤島武二に師事し、卒業の年第二部会に出品した「アコーデオン」で特選、以後官展、光風会展などに出品、同14年「赤いチョッキ」、同16年「霜鬢」で文展特選、同13年、17年の聖戦美術展では「砲列布置」「輸送船団」で夫々陸軍、海軍大臣賞を受けた。戦後も日展、光風会展で活躍、人物画を得意とし、写実的で堅固な作風を示し、同40年日展出品作「青衫の女」で文部大臣賞を受賞した。この間、同22年には光風会同志と新樹会を創立、同30年日展会員、同38年日展評議員となったほか、日展審査員等をつとめた。また、同44年光風会出品作「印度の女」は東京都美術館の買上げとなった。

高畠陽雲

没年月日:1976/04/26

仏像彫刻家、洋画家高畠陽雲は、4月26日午前11時膀胱腫瘍のため大阪市の厚生年金病院で死去した。享年52。本名猪之吉。大正12(1923)年11月30日大阪市に生まれた。昭和20年8月6日の広島への原爆投下を体験し、仏像彫刻家の修行を始めたが、そのかたわら原爆投下の悲惨な光景を再現し後世に伝えようと油絵制作に取り組み、試行錯誤ののち同46年完成した「その瞬間」を広島市に、翌47年の「原爆炸裂」を長崎市に寄贈した。また、同50年には700号大の大作「原爆一号」を携えて渡米、国連ビルで展示するなど話題をよんだ。この間、数千枚にのぼる地獄絵を描き続けたほか、同45年原水爆物故者供養促進委員会を組織、同48年には福井市真宗三門徒派本山専照寺御影堂に被爆者の冥福を祈る「余間蓮華化生の図」を完成した。

瀬尾暹

没年月日:1976/04/05

洋画家、二紀会同人瀬尾暹は、4月5日結腸腫瘍のため死去した。享年70。明治39(1906)年3月4日名古屋市生まれ、明倫中学卒業。昭和6年二科展に「田代風景」が初入選し、以後同展に出品同17年会友となったが、戦後は同22年第1回二紀展に出品、翌23年二紀会同人となり同展に出品を続けた。また、同10年第1回愛知社展で愛知賞受賞、同12年汎太平洋博美術展で特選、同15年紀元二千六百年奉祝展で特選を受けた。同33年度中部在野美術団体連盟委員長をつとめたほか、東海学園で美術を担当、同45年以後愛知県私学協会美術研究主任として私学美術の振興にも尽力した。代表作に「五百羅漢堂」(昭和23年)「サンマルコ寺院」(昭和48年)など。

村田宏治

没年月日:1976/03/25

洋画家、東光会委員村田宏治は、 3月25日死去した。享年71。本名枝川広治。明治38(1905)年5月10日茨城県筑波郡に生まれ、茨城師範学校卒業後、熊岡美彦に師事して洋画を学んだ。第2回文展に「読書」が初入選以後、東光会展を中心に作品を発表し、昭和38年同会会員、同50年委員となった。この間、同44年3月から5月まで南欧に取材旅行し、帰国後滞欧作の個展(東京銀座銀彩堂画廊他)を開催した。

大兼實

没年月日:1976/03/23

二紀会監事の洋画家、大兼実は、3月23日午前4時30分、気管支炎のため東京狛江市の自宅で死去した。享年67。大兼実は、明治41(1908)年10月21日、東京に生まれ、大正15年太平洋画会研究所に入所、昭和4(1929)年第16回二科会展に「池畔夏景」が初入選となり、昭和8(1933)年文化学院美術科を卒業、同9年中国の上海、蘇州、杭州、南京などに写生旅行、同12年渡欧した。初めローマの国立美術学校に学び、フレスコ画法を研修、イタリア各地を歴遊したあとパリに移り、アカデミー・グラン・ショミエールで学び、昭和19(1944)年まで滞在した。その間、サロン・ドートンヌ、サロン・ナショナル・デ・ボザール、サロン・ド・チコイレリーなどに出品、昭和18(1943)年にはベルリンで個展を開いた。昭和20(1945)年に帰国し、翌21年第1回日展に出品、一水会会員に推挙され、同22年第3回日展では委員を依嘱されたが、二紀会創設に際してこれに参加し、以後、二紀会に作品を発表すると共に監事、委員として活躍した。二紀会出品主要作品年譜昭和23年2回展「青い服のマネカン」、同26年5回展「ソレント」「古い街」「パリの裏街」「雨後のパリ郊外」、同27年6回展「クロワートル」「ブルタニュ」「ピストロ」「古い街」、同29年8回展「博物館の庭」「ベランダ」「港街」、同31年10回展「窓」「艇庫の一隅」、同33年12回展「商館のバルコン」、同34年13回展「長崎商館のバルコン」「和蘭陀屋敷のテラス」「採光(天主堂の一隅)」、同36年15回展「長崎十二番館」「桜島」、同39年18回展「大和の民家」「大和の村」、同41年20回展「法隆寺の村」「斑鳩の里の小路」、同45年24回展「信濃路」、同47年26回展「今井の露路(橿原)」、同49年28回展「塔のある酒倉」、同50年29回展「石舞台古墳」

野口弥太郎

没年月日:1976/03/23

洋画家、日本芸術院会員、独立美術協会会員野口弥太郎は、3月23日午前3時20分脳いっ血で入院中に肺炎を併発し東京千代田区の東京警察病院で死去した。享年76。明治32(1899)年10月1日当時の東京市本郷区に生まれ、大正9年関西学院中学部を卒業後翌10年川端画学校で油絵を学んだ。同11年二科展に「女」を初出品入選、その後も連続入選し頭角をあらわした。同15年1930年協会会員となり前田寛治に傾倒し、昭和4年渡仏、パリのグラン・ショミエールに学び、同6年サロン・ドートンヌに出品した「港のカフェー」は仏政府買上げとなった。同8年3月帰国、二科会会友を辞し、独立美術協会第2回展に滞欧作を出品、同会会員となり、以後林武、高畠達四郎らとともに同会の主要な作家として活躍した。この間、同27年から45年まで日本大学芸術学部教授をつとめたほか、同35年5月から37年4月まで再渡欧し36年6月にはパリのマルセル・ベルネイム画廊で個展を開催、同37年国際形象展に同人として参加、同39年には「セビラの行列」(第31回独立展)および滞欧作品展(38年銀座松屋)の諸作に対して第5回毎日芸術賞を受賞、同47年国際形象展出品作「那智の滝」により芸術選奨文部大臣賞を受賞した。また同50年勲三等瑞宝章を受章するとともに同年11月日本芸術院会員に任命された。パリ留学で身につけた自在なフォーヴ的筆致を日本の風景に適合させ、完成度の高い日本的フォーヴィズムの作風を示した。年譜明治32年(1899) 10月1日東京市本郷区に、銀行家野口弥三の長男として生まれる。明治39年 父の任地朝鮮仁川市の小学校に入学。その後東京市四谷第二小学校、錦華小学校などを経て、父の郷里長崎県諫早市の小野尋常小学校へ転校(明治44年7月~45年1月)、次いで神戸市の諏訪山小学校に転校。大正3年 関西学院中学部入学。成績優秀で人気が高く、絵画に長じ学校の油絵グループ弦月会で活動す。上級生に大森啓助がいた。大正6年 スポーツで身体をいため休学、その間さかんに油絵を試みる。大正9年 関西学院中学部を卒業。父母よりドイツ製油絵具セットなどを与えられ、恵まれた環境のうちに画家となる決心を抱く。このころ澤野菊枝を知る。大正10年 軽井沢に滞在して、画家たらんと強く決心す。この時の宿つる屋には芥川龍之介が同宿していた。のち東京原宿に居住、川端画塾に数週間通い油絵を学ぶ。この頃神田神保町の兜屋画堂で開かれた関根正二や村山槐多の展覧会を見て感心する。大正11年 代々木にアトリエを新築す。近所の初台に児島善三郎が居て交遊した。9月第9回二科展に「女」を初出品入選す。大正13年 9月第11回二科展に「少女と静物」「夏日夕景」「室内裸婦」の3点入選し注目さる。10月万鉄五郎が主宰する二科系新人グル-プ円鳥会第3回展に会員外として出品、万から個性的で近代的傾向の作品として高く評価さる。大正14年 澤野菊枝と結婚し、東京府豊多摩郡に居住す。9月第12回二科展に「室内」を出品。10月第4回円鳥会展に「草上假睡」他4点を出品す。大正15年 5月1930年協会第1回展が開かれたが、6月すすめられて古賀春江、林武らと共に会員となる。前田寛治を知り、その人と作品に深く感銘した。9月第13回二科展に「爪みがく女」「裸婦構図」「六月風景」「大山園風景」を出品。昭和2年 6月1930年協会第2回展覧会に出品、以後出品を続けた。9月第14回二科展に「室内裸婦」「坂の風景」を出品。昭和3年 1930年協会洋画研究所(東京市外代々木山谷160 山谷小学校前)が設立され、里見勝蔵、前田寛治、林武らと数十名の研究生を指導、風景画を担当した。9月第15回二科展に「塔のある風景」「画室の静物」「S嬢肖像」を出品。昭和4年 1月1930年協会第4回展に「男の肖像」「断崖」など7点出品す。大阪で渡欧記念の個展開催す。4月渡欧す。7月パリに到着、アレジアの塔やサクレ-ル寺院の見える部屋に落着く。グラン・ショミエ-ル画塾の自由な雰囲気を好み、自己の制作の方向をつかみ始めた。隣室に木下孝則がいた。ブルタ-ニュ地方に写生旅行す。9月第16回二科展に「水車」「奈良風景」「父母の肖像」を出品。昭和5年 1月木下孝則と南仏旅行し、クロ・ド・カ-ニュに伊藤廉の訪問を受く。間もなくパリに帰る。この年から同7年までサロン・ド-トンヌ、アンデパンダン展に出品した。このころカンバスに代えて紙を使い、絵具は薄塗りで明るく冴えた色感と単純化された造形の近代的感覚を目指した。また一時期、すべての絵具に墨をまぜて色調をととのえ、瀟洒な効果をねらった。11月独立美術協会の創立に際し参加を求められたが態度を保留した。昭和6年 2月リヨンに滞在し、夏ノルマンディに旅行す。この旅行に取材したサロン・ド-トンヌ出品の「ベルク-ル広場」「港のカフェ」は好評を博し、「港のカフェ」は政府買上となり、パリ市庁の美術館に納められた。その後イギリスに旅行す。9月二科会会友に推さる。昭和7年 パリで海老原喜之助、森田勝などと交遊する。富永惣一とロンドン、オランダ、ドイツに遊ぶ。板倉準三を加え、3人でイタリア、シシリ-およびギリシャを旅行す。また、スペインにも旅行し、グレコとヴエラスケスに感動す。サロン・ド-トンスに「巴里の眺」「門」など大作を出品。パリ、ヴィニヨン画廊での個展契約あり、大いに制作中、夏の終り頃左眼の故障を知り、治療す。個展制作を中止す。昭和8年 3月第3回独立展開催中に帰国。二科会会友を辞し、独立美術協会会員となる。昭和9年 3月第4回独立展に「カフェテラス」「門」「トレド風景」「青衣の女」「港のカフェ(下図)」「七月十四日祭(モンパルナス)」の滞欧作6点が特別陳列される。(独立美術15『野口弥太郎特集』以後毎回同展に出品を続ける。都新聞に挿絵を連載する。左眼の治療に専念する。昭和10年 3月第5回独立展に「リヨンの橋」「巴里の眺」(ともに昭和6年作)「カーニュ風景」を出品。3月東京府美術館10周年記念現代総合美術展に「父母の肖像」(二科出品より自選)を出品。10月独立秋期展に「風」を出品する。昭和11年 4月第6回独立展に「秋の風」「ギリシャ印象」を出品。6月個展を開催(20-24日、大阪・美術新論社画廊)。11月独立秋季展に「日光紅葉」を出品する。昭和12年 3月第7回独立展に「夜のレストラン」「南方の庭」「I氏肖像」を出品。3月独立全会員小品展に「グレコの家」他を出品。4月明治、大正、昭和三聖代名作美術展に「港のキャッフェー(下絵)」を出品する。昭和13年 3月第8回独立展に「スペインの子供達」「蕃人」「夜のレストラン」を出品。昭和14年 3月第9回独立展に「東北の人々」を出品。10月独立秋季展に「静物」を出品する。昭和15年 3月独立第10回記念展に「父の肖像」「港の朝」「札幌の屋根」「利尻富士」「青衣の女」を出品。5月個展を開催(18-21日、銀座資生堂、石原求龍堂、兜屋主催)、「南方の町」「巴里祭」など10余点を出品。10月紀元二千六百年奉祝美術展に委員として「アイヌの家族」を出品する。昭和16年 3月第11回独立展に「婦人肖像」「山と家」「軍人肖像」を出品する。昭和17年 3月第12回独立展に「上海」「Y氏肖像」「仏蘭西租界の眺」「婦人肖像」「黄浦江」を出品。上海に旅行し、7月上海風物個展(19-22日、銀座資生堂)を開催、「上海ガーデンブリッヂ」など25点を出品する。昭和18年 3月第13回独立展に「北越漁村」「S氏肖像」「山村雪景」「街道雪景」「キリン山雪景」を出品。このころ満州に旅行す。昭和19年 2月第14回独立展に「庄内の町」「働く人々」「海辺の神社」を出品。5月独立会員展に「海辺の喜び」を出品。11月個展を開催(20-26日、銀座美交社)。11月戦時特別文展に「田園小憩」を出品。12月川口軌外、中川紀元、児島善三郎らと6人展を開く(9-13日、銀座資生堂)。昭和21年 3月第1回新興美術展に「リヨンの橋」「ベルクール広場」などを出品。4月内田巌、福田豊四郎ら各派進歩的美術家らと日本美術会を創設し、委員となる。昭和22年 4月第15回独立展に「漁村の家」「農家の女」を出品。5月第1回現代美術総合展に出品、以後出品を続ける。6月第1回美術団体連合展に「江の浦風景」「漁村」「農家の庭」などを出品、以後5回展(最終)まで毎回出品す。6月大河内信敏、川端実、朝井閑右衛門らと洋画研究団体新樹会を結成、第1回展を日本橋三越で開催す。昭和23年 3月個展開催(日動画廊)。10月第16回独立展に「函館港」「唐津港」「岩内風景」を出品。10月近作油絵個展を開催す。(丸善画廊)。昭和24年 2月第1回アンデパンンダン展に「長崎の港」「若い女の肖像」などを出品、以後出品を続ける。5月水彩展開催(数寄屋画廊)。10月個展開催(丸善画廊)。昭和25年 1月現代美術自選代表作15人展に出品。10月第18回独立展に「港の広場(釧路)」「上場と山(日鋼室蘭)」「アイヌ老夫婦」を出品。10月個展を開催す(資生堂)。昭和27年 日本大学芸術学部教授となる。5月第1回日本国際美術展に「家と山」「黒ショールの女」などを出品す。以後毎回出品、7月熊谷守一、伊藤彪らと友誼的研究団体の白鳥会を創立、10月第1回展を開催(日本橋白木屋)、「2人の肖像」「波止場」などを出品す。8月阪神風物展(大阪梅田画廊)を開催す。10月第20回独立展に「橋のある風景」「裸女」「海」を出品す。昭和28年 第2回インド国際美術展に出品す。10月第21回独立展に「幼年像」「雲仙」を出品す。昭和29年 5月第1回現代日本美術展に「オランダ坂にて」「国際大通り」など出品。滞欧中を除き毎回出品す。昭和30年 日本橋高島屋で個展を開催、戦後10年の代表作(水彩を含め34点)を展観す。10月第23回独立展に「風景」「裸婦立像」を出品。昭和31年 10月第24回独立展に「花のある静物」「黒と白の静物」を出品す。昭和32年 10月第25回独立展に「アトサスプリ(硫黄山)」「オイナオシ浜」を出品す。昭和33年 第2回国際具象派美術展に「教会のある風景」「硫黄山(黄)」を出品、以後出品を続ける。10月第26回独立展に「目鏡橋(諫早)」「港」を出品す。昭和34年 10月第27回独立展に「諫早の目鏡橋」「日蓮上人像」を出品。11月神奈川県立近代美術館で鳥海青児との二人展開催さる。(美術手帖10月号「野口弥太郎」)。昭和35年 5月再び渡欧。6月第30回ヴェ二ス・ビエンナーレを見てパリに赴く。昭和36年 春スペインに旅行す。6月パリのマルセル・ベイネイム画廊で個展を開催、水彩を含め43点出品、レイモン・シャルメの推薦を受く。8月再びヴェニスに旅行。昭和37年 4月帰国す。国際形象展組織され、同人として参加、「まひるのグラナダ」「カーニュの古城」を出品、以後毎回出品を続ける。昭和38年 4月滞欧作品展および滞欧スケッチ展(銀座松屋)を開催。(画集『野口弥太郎滞欧作 1960-62』)。10月第31回独立展に「おまつり」を出品す。昭和39年 1月第31回独立展出品の「セビラの行列(おまつり)」および滞欧作品展の諸作に対し、第5回毎日芸術賞が授与さる。3月野口弥太郎展(日本橋白木屋)が開催され、初期から第二次滞欧作まで56点が展示される。(三彩3月号「野口弥太郎特集」、美術グラフ5月号「野口弥太郎を語る」)。10月第32回独立展に「長崎の風」を出品す。昭和42年 10月第35回独立展に「三人のアイヌ」を出品。昭和44年 第一次渡欧以来の左眼が再び悪化し治療に専念す。昭和45年 3月バリ島に写生旅行す。昭和46年 4月「近代日本美術における1930年展」(東京国立近代美術館)に「夜のテラス」「ベルクール広場」「フレンチカンカン」が出品さる。10月第39回独立展に「シャトーと馬」を出品。昭和47年 3月「那智の滝」で第23回芸術選奨文部大臣賞を受賞す。9月東京国立近代美術館開館20年記念「現代の眼―近代日本の美術から」展に「オランダ坂」「踏絵」「セビラの行列」が出品さる。10月第40回独立展に「那智の火祭」を出品す。昭和50年 10月第43回独立展に「タンジ-ルにて」を出品。11月日本芸術院会員となる。昭和51年 3月23日没(この年譜は『野口弥太郎画集』(昭和54年5月刊行予定日動出版)所収年譜を参照した。)

納富進

没年月日:1976/02/25

洋画家、日展評議員、一水会常任委員納富進は、2月25日午後7時5分食道ガンのため長崎大学付属病院で死去した。享年64。明治44(1911)年5月12日佐賀県鹿島市に生まれた。昭和10年文化学院美術部を卒業、在学中の同8年第20回二科展に「青根風景」が初入選したが、同12年一水会展に初入選、同18年「北国」で一水会賞を受賞、また、同16年第4回文展に「故郷雨期」が初入選、翌17年文展で「往還」が岡田賞を受賞するなど、以後一水会展、日展を中心に作品発表を行った。戦後郷里鹿島市に居住したが、三鷹市にもアトリエを構え、主に村の風物をモチーフに簡明でおおらかな画風を築いていった。同36年一水会常任委員となり、同41年日展評議員となった。同44年第1回改組日展に出品した「竜王峠」で文部大臣賞を受賞、同45年佐賀県文化功労賞を受けた。また、浮立亭の筆名で随筆もよくした。没後、勲四等瑞宝章が贈られ、同52年には佐賀県立博物館で遺作展が開催された。

森英

没年月日:1976/01/23

洋画家、二紀会理事森英は、1月23日午後10時14分肝臓ガンのため東京、関東中央病院で死去した。享年68。明治40(1907)年3月31日香川県三豊郡に生まれ、昭和7年東京美術学校西洋画科卒業。同年からニ科会に出品したが、戦後同21年ニ紀会創立に参加し、以後同会の主要なメンバーとして活躍した。この間、同31年渡欧、同36年から38年までは壁画研究のため欧州、アメリカ、メキシコに滞在、帰国後同41年にかけて油絵としては世界最大の高さ3m幅33mの壁画「ル・ソレイユ」を宇都宮市の足利銀行本店に完成したのをはじめ、同45年観音寺市民会館壁画「タクロボ、宇宙賛歌」、同49年新宿住友ビル壁画「太陽」、同年成田ビューホテル壁画「星座」、同51年成城学園講堂壁画「武蔵野早春」など、つぎつぎに巨大な壁画を完成した。このほか代表作に「星座」三部作など。

白井烟嵓

没年月日:1976/01/19

日本画家白井烟嵓は、1月19日肺ガンのため東京・世田谷の国立大蔵病院で死去した。享年81。本名白井龍。字瀧司。明治27(1894)年2月8日愛知県豊橋市に生れ、二松学舎を卒業した。大正6(1917)年南画家松林桂月に師事し、同9(1920)年第2回帝展に「幽栖」が初入選した。以後も帝展に出品をつづけ、第6回「山靈★雨」、第10回「秋林」、第14回「残★」、第15回「雨」、改組帝展「冰松」などがあり、新文展では第3回雨意」、第5回「松籟」などがある。戦後は日展に出品し、主もな作品として第2回「雨後」、第3回「山峡」、第4回「峡壁飛泉」、第5回「雲行雨施」(特選)があり、第6回では依嘱により「雪暮」を出品した。ついで第7回「蒼然暮色」、第8回「雪峰隔谷深」(白寿賞)、第10回「山湫雨余」、があり第11回「雨岫」以後依嘱出品になる。昭和33(1958)年社団法人日展となってから以後も委嘱出品として、第1回「一鳥不飛天地寒」、第2回「雨亦奇」、第3回「煙山晩鐘」、第4回「山雨将来」、第5回「浄池霜暁」、第6回「飛雪」、第7回「名号池」、第10回「竹林幽趣」、第11回(1968)「松」などの出品がある。またこの間、昭和15(1940)年には日本橋三越に、同32年及び35年には渋谷東横に個展を開催し、同36(1961)年第1回日本南画院出品「秀弧松」は文部大臣賞となった。官展のほか、日本画会、松子社展、日本南画院、後寿会、静賞会、南画院、日月社などにも出品した。画風は写生をもとに、古雅な風趣をもつ。なお青年時代(1918)外海家と養子縁組したが、のちこれを解消(1933)した。したがって帝展出品は外海烟巖とされるが、第14回展以降白井烟巖となり、新文展第3回展より、烟嵓を用いている。又渡辺崋山事蹟関係の功績により、豊橋市文化賞を受賞し、崋山出身地田原町名誉町民となる。

伊原宇三郎

没年月日:1976/01/05

日本美術家連盟名誉会員の洋画家伊原宇三郎は、1月5日午前9時5分、糖尿病、肺炎のため東京都狛江市の東京慈恵医大病院で死去した。享年81。伊原宇三郎は、明治27(1894)年10月26日、徳島市に生まれ、大正4年大阪府立今宮中学校を卒業、藤島武ニに師事して、大正10(1921)年3月東京美術学校西洋画科を卒業した。在学中の大正9年第2回帝展に「明装」が初入選、翌10年第3回帝展に「よろこびの曲」が入選した。大正14(1925)年の春に渡欧、フランスに4年半ほど滞在し、帰国後、昭和4(1929)年に第4回1930年協会展に出品、また第10回帝展に出品した「椅子によれる」、第11回展「二人」、第12回展「榻上ニ裸婦」が連続特選となった。昭和9年以降は帝展文展審査員を十数回にわたりつとめた。また昭和5年から7年まで帝国美術学校教授、昭和7年から19年まで、東京美術学校油画科の助教授として後進の指導にあたったが、一方、昭和13年には貴族院に依頼されて「憲法発布50年祝賀式典」の制作、また報道画家として昭和13年には北中国に従軍して「圧倒」、14年中部中国、15年から16年には南中国から東南アジヤの各地に従軍し「サイゴンに於ける艦上の停戦協定」、17年にはマライ、ジャワ、ビルマに従軍し、「マンダレー入城とビルマ人の協力」を制作、18年には香港で「酒井・キングの会見」、同年ビルマの「バーモ長官像」を制作した。戦後は、昭和23年から3年間多摩造形芸術専門学校教授をつとめ、翌24年日本美術家連盟の設立に尽力し、設立後は代表理事、委員長などをつとめ、日本著作権協議会委員としても美術家の権利擁護のために、また昭和26年には国立近代美術館設置準備委員としても活躍した。その後も日本ユネスコ国内委員会、28年には国際造型美術家連盟日本委員会委員長となり、29年ヴェニス・ビエンナーレ日本館建設につくし、ビエンナーレ日本代表として渡欧、約1年間ヨーロッパに滞在した。そのほか、ブリヂストン美術館運営委員、美術家会館建設委員などをもつとめた。昭和35年フランス政府よりオルドル・デザール・エ・レトル勲章をおくられている。戦後の作品には「由利子とミミ」(昭和27年)「丘」(昭和33年)などがある。

別車博資

没年月日:1976/01/02

洋画、水彩画家、一水会会員、日本水彩画会評議員別車博資(本名繁太郎)は、1月2日心筋こうそくのため死去した。享年75。明治33(1900)年9月2日神戸市で生まれた。兵庫県立工業学校機械科卒業。大正9年から油彩、水彩画の独習をはじめ、昭和5年から日本水彩画会に出品するとともに、国枝金三、石井柏亭に師事、同7年日本水彩画会第19回展で第一賞受賞、会員に推挙され、また二科会にも出品した。同9年関西水彩画会の創立に参画、同12年一水会第1回展に出品、以後同会に所属し同25年一水会会員となった。また、同49年には、日本水彩画会評議員に推された。水彩による風景を得意とし、神戸をはじめ兵庫県下の風物を多く描いた。同41年には兵庫文化賞を受賞した。

岡本萬三

没年月日:1975/12/29

日本画家岡本萬三は、12月29日結腸ガンのため京都市の河端病院で死去した。享年71歳。明治38年1月2日東京日本橋に生れ、はじめ松岡映丘の指導をうけた。その後、京都絵画専門学校を卒業し、池田遙邨画塾青塔社に所属した。主として日展を舞台に、風景画を得意とした。作品に「丹波路の家」(第2回日展)、「薄月夜」(第5回日展)、「山端村風景」(第10回日展)等がある。

地主悌助

没年月日:1975/11/26

特異な画風でしられた洋画家の地主悌助(号、白道)は、11月26日午後0時33分、老衰のため神奈川県中郡の自宅で死去した。享年86歳。地主悌助は、明治22(1889)7月12日、山形県鶴岡市に生まれ、明治38年(1905)山形県立荘内中学校を中途退学し、大正元年(1912)上京し、翌2年坂本繁二郎を訪問、師事した。大正3年、(1914)、文部省中等校図画教員検定試験に合格し、大正4年秋田県師範学校教諭となった。大正13年(1924)山口県女子師範学校教諭に転任し、さらに翌14年郷里の山形県立鶴岡中学校教諭に転任し、昭和27年(1952)の退職まで図画教師として勤務した。昭和29年(1954)住居を神奈川県に移して制作に専念、昭和31年(1956)日本橋丸善で最初の個展を開催し、小林秀雄に認められた。以後、毎年、東京画廊、現代画廊、丸善、壺中居、日本橋高島屋、いとう画廊、日本橋白木屋、日動画廊、フジアート・ギャラリー、資生堂画廊で個展を開催、昭和45年(1970)には大阪の梅田画廊阪急三番街店でも開催した。昭和46年(1971)、新潮社の第3回日本芸術大賞を日本画の石本正とともにうけた。同年には秋田市立美術館をはじめ、梅田画廊、せきかわ画廊などで個展、47年(1972)には梅田画廊、銀座美術館で個展、48年梅田画廊、せきかわ画廊で個展を開催した。終始、無所属として個展のみで活躍し、作品の題材も石、瓦、紙、野菜など身辺の限られたものだけを描きつづけて注目された。

奥瀬英三

没年月日:1975/11/23

日展参与、示現会代表であった洋画家の奥瀬英三は、23日、午前9時10分、肺気しゅのため浦和市内の浦和市立病院で死去した。享年84歳。奥瀬英三は、明治24年(1891)2月28日、三重県上野市に生まれ、京都市立第一商業学校に入学したが、明治42年(1909)中途退学し、明治45年(1912)5月上京、太平洋画会研究所に入所し、約5年間研修した。大正3年(1914)第8回文展に「植物園」が初入選となり、大正5年第10回文展以降、毎回文展、帝展に出品、入選となり大正14年(1925)第6回帝展に「妍花図」「庭」を出品、「庭」特選となり、昭和2年(1927)8回帝展で「真夏の庭」が再度特選、無鑑査となった。一方、大正6年(1917)には太平洋画会会員となり、大正13年には槐樹社結成に参加した。昭和4年(1929)10回帝展審査員、同16、18年4、6回新文展でも審査員をつとめた。昭和13年、海軍従軍画家として中国の漢口方面に従軍、昭和17年にも海軍報道班員としてジャワ方面に従軍した。戦後は、昭和22年(1947)、石川寅治、三上知治らと太平洋画会を退会して示現会を結成、49年以後代表となりまた日展に出品して33年(1958)には評議員、のち45年参与となった。昭和35年には埼玉文化賞をうけ、同43年には勲四等瑞宝章をうけた。昭和46年2月、傘寿記念奥瀬英三展が開催された。出品作品略年譜大正3年(1914) 8回文展 植物園大正5年 10回文展 路傍の竹林大正6年 11回文展 初秋風景大正7年 12回文展 菜園大正8年 1回帝展 松林の一部大正9年 2回帝展 郊外の初秋大正10年 3回帝展 椎の樹の風景大正11年 4回帝展 母と子大正13年 5回帝展 窓際の静物大正14年 6回帝展 妍花図、庭(特選)大正15年 7回帝展 静物図、緑陰(特選)昭和2年 8回帝展 真昼の庭(特選)昭和3年 9回帝展 春昼昭和4年 10回帝展 伊豆の海昭和5年 11回帝展 春日野昭和6年 12回帝展 室内昭和7年 13回帝展 老松昭和8年 14回帝展 山湖の春昭和9年 15回帝展 静㵎昭和11年 招待展 春(文部省買上げ)昭和12年 1回文展 昼の月、33回太平洋展 土用波昭和13年 2回文展 鰯船昭和14年 3回文展 湖昭和15年 奉祝展 山村初夏(東京府買上げ)昭和16年 4回文展 山村麗日昭和17年 38回太平洋展 丘麓の冬昭和18年 6回文展 稔昭和19年 戦時特別展 八月の海昭和21年 1回日展 早春昭和21年 2回日展 柿昭和22年 3回日展 蔬菜昭和23年 4回日展 磯昭和24年 5回日展 漁村の夕昭和25年 6回日展 松の丘昭和26年 7回日展 みのり昭和27年 8回日展 下田風景昭和28年 9回日展 早春浅間昭和29年 10回日展 渓谷昭和30年 11回日展 浅春昭和31年 12回日展 若葉昭和32年 13回日展 甲斐駒初夏昭和34年 改組2回日展 武蔵野路昭和35年 3回日展 岩壁 13回示現展 妙高初秋。昭和36年 4回日展 雲昭和37年 5回日展 遅日昭和38年 6回日展 五月信濃路 16回示現展 夕月昭和39年 7回日展 麦秋 17回示現展 干潮昭和40年 8回日展 秋立つ 18回示現展 残照昭和41年 9回日展 山村永日 19回示現展 八ヶ岳晴雪昭和42年 10回日展 残雪白馬 20回示現展 伊豆の岩山昭和43年 11回日展 新緑信濃路 21回示現展 春耕昭和44年 再改組1回日展 山村の春 22回示現展 潮昭和45年 2回日展 渓谷初秋 23回示現展 雲と甲斐駒昭和46年 24回示現展 晩秋昭和47年 4回日展 連嶺晩秋 25回示現展 初冬荒磯昭和48年 5回日展 初夏信濃路 26回示現展 荒磯昭和49年 6回日展 遅日 27回示現展 夏山昭和50年(1975) 7回日展 初秋山雲 28回示現展 山村の春

幸田暁治

没年月日:1975/11/16

日本画家幸田暁治は、11月16日急性肺炎のため京都府立病院で死去した。享年満50歳。本名稔。大正14年10月27日京都市に生れ、京都市立美術工芸学校絵画科を経て、絵画専門学校を卒業した。昭和30年池田遙邨の画塾青塔社に入塾したが、同48年からは無所属となり、個展活動に入った。同氏は幼年期より病弱で、それが後年まで影響をのこし、戦後も闘病生活と、カソリック信仰の中での制作がつづけられた。作品は、昭和31年日展「鳶」が初入選以来同47年まで10数回入選し、また京展、日春展、青塔社展等でしばしば受賞している。そのほか多くの会での活躍がみられるが、昭和46年第1回山種美術館賞展では「収穫」が推選となっている。作品は、童女を中心とする人物画ユートピアの風景、擬人風な花、動物を通じて心象的日本画の新しい内面を探求する。作品略年譜昭和30年(1955) 「梟」(関西展賞・読売賞)関西展。昭和31年 「鳶」日展初入選。昭和32年 「駝鳥」日展。「えみう」(知事賞)青塔社展。昭和33年 「駱駝」(市長賞)京都市展。昭和34年 「駱駝」日展。「孔雀」(京都美術懇話会賞)京都市展。「象」朝日新人展推薦。昭和35年 「孔雀」日展。「禿こう」(市長賞)京都市展。幸田暁治・中町進二人展、土橋画廊。昭和36年 「七面鳥」日展。「棲息」朝日新人展推薦。昭和37年 「孔雀」日展。昭和38年 「水鳥」(第1回須田國太郎賞)。「猿」(市長賞)京都市展。昭和39年 「猿」日展。「狩猟」(市展賞)京都市展。昭和41年 「手長猿」昭和42年 「吾子」「禿こう」(奨励賞)日春展。昭和44年 「泉」日展。「笛」日春展。「とり」(京都府買上げ)京都府日本画総合展。昭和45年 「らくだ」日展。個展(花と子どもシリーズ)大阪西美会倶楽部。昭和46年 「白馬」日展。「収穫」(今日の日本画・第1回山種美術館賞展)。昭和47年 「向日葵」日展。「昇天」(市展賞)京都市展。昭和48年3月 青塔社を退きフリーとなる。昭和50年 「THE CROSS」第3回山種美術館賞展。幸田暁治展(馬上童女,踊り子,献果,騎士,夢,月光,天使の森,金童女,ばらなど約30点)論文に「わが師池田遙邨」(アート・トップ)「素朴の微笑」(アート)などがあり、そのほか散文詩、随想などがある。

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