本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





加藤重寿

没年月日:1974/05/14

日本画家加藤重寿は、5月14日胃ガンのため京都市桂病院で死去した。享年61歳。大正2年大和郡山に生れ、昭和10年京都市立絵画専門学校を卒業した。同校研究科を卒え、昭和17年第5回文展に「東大寺南大門」が初入選した。この年金島桂華塾衣笠会に入門し、翌18年第6回文展に「醍醐勅使門」を出品、戦後は日展にも出品した。また、個展活動も行っているが、30年夏より病におかされ、手術、入院の生活を繰りかえし、この間の制作は見られなかった。

福田平八郎

没年月日:1974/03/22

日本画家福田平八郎は、3月22日急性肺炎のため京都市の国立京都病院で死去した。享年82歳。明治25年2月28日大分市に生れ、同43年大分中学校在学中、絵画への志を立て上洛した。この年、京都市立絵画専門学校別科に入学し、翌年京都市立美術工芸学校に入学しなおした。大正4年同校卒業とともに、京都市立絵画専門学校に入学、同7年卒業した。在学中に第10・11・12回文展に入選し、帝展となってからも第1回より連年ここを舞台に発表し、引続き新文展、戦後日展へと、官展を中心に活躍しつづけた。この間、街の展観にも佳作が多い。そのほか後進の育成にもあたり、母校で教鞭をとったが昭和12年絵専の教授を辞め、制作に専念する。昭和22年帝国芸術院会員となり、同36年には文化勲章を受章した。またこの年大分市名誉市民に推され、48年には小野竹喬、堂本印象らとともに京都市名誉市民として表彰された。作品は、最初厳しい写実により出発し、次第に画面は自由に簡略化され、その作風は従来の日本画にみられない独自なものとして高く評価された。代表作―「鯉」(3回帝展)「漣」「筍」「新雪」「雨」など。 略年譜明治25年(1892) 2月28日、大分市、大分師範学校門前に文房具商を営む父馬太郎、母安の長男として生まれる。本名平八郎。素僊、九州の号あり。作品に「馬安」の印のあるのは父母の名による。明治31年 4月大分師範附属小学校に入学。明治35年 3月大分師範附属小学校を卒業、4月高等小学校に入学。明治39年 3月高等小学校を卒業。4月大分県立大分中学校(現上野丘高校)に入学。日本画の教師として松本古村(明治7―昭和22)がいた。明治43年 3月大分中学校3年在学中、絵を描かんとして京都に出、京都市立絵画専門学校の別科に入学。大分中学校は明治44年に中退。明治44年 4月京都市立美術工芸学校に入学しなおす。1年次の終わりの校友会展出品作「落椿」で銀牌を受けたが、2年から4年までは金牌を受けた。この頃、銀閣寺付近の農家に下宿する。大正4年 3月京都市立美術工芸学校卒業。この頃岡崎の谷口家に下宿する。4月京都市立絵画専門学校に入学。京都市立美術工芸学校卒業制作「雨後」。大正5年 10月第11回文展に「桃と女」を出品。大正6年 10月第11回文展に「驢馬と子供」を出品。大正7年 3月京都市立絵画専門学校卒業。同級生は岡本神草、堀井香坡、吉川観方など。この頃、島原半島に写生旅行をする。またこの年下宿を下鴨に移す。京都市立絵画専門学校卒業制作「霞める空」。10月第12回文展に「緬羊」を出品。大正8年 10月第1回帝展に「雪」を出品、初入選。大正9年 この頃下宿を南禅寺に移す。10月第2回帝展に「安石榴」を出品。大正10年 一時郷里の大分に帰る。10月第3回帝展に「鯉」を出品、特選を受ける。「遊鯉」を制作。大正11年 3月谷口テイと結婚。新居を下鴨にもつ。春、菊池契月、西山翠嶂、西村五雲の三師によって選定された新人作家による九名会(伊藤草白、堂本印象、登内微笑、岡本神草、中村大三郎、宇田荻邨、山口華楊、山本紅雲、福田平八郎)が組織され一員となる。この会は展覧会および研究会(福村祥雲堂主催)をたびたび重ねる。10月、帝展推薦となり、以後無鑑査の資格を与えられる。〔主な作品〕4月日仏交換展に「鯉」を出品。10月第4回帝展に「鶴」を出品。大正12年 〔主な作品〕11月大阪毎日新聞社主催、日本美術展に「沙魚」を出品。大正13年 5月帝展委員に任命される。5月九名会展が7回に達したのを記念し、「九名会作画集」が刊行される。7月京都市立絵画専門学校の助教授となり、同美術工芸学校の教諭を兼ねる。10月第5回帝展の審査員をつとめる。〔主な作品〕10月第5回帝展に「牡丹」を出品。「草河豚・鰈」を制作。大正14年 〔主な作品〕10月第6回帝展に「閑庭待春」を出品。12月尚美展に「牡丹」を出品。昭和15年昭和元年(1926) 3月長男宗平誕生。〔主な作品〕2月頃第1回青陽会展に「春庭」を出品。5月第1回聖徳太子奉讃美術展に「庭前麗光」を出品。10月第7回帝展に「朝顔」を出品。昭和2年 〔主な作品〕5月第2回青陽会展に「ひすゐ」を出品。10月第8回帝展に「茄子」を出品。昭和3年 10月第9回帝展の審査員をつとめる。〔主な作品〕3月尚美展に「晴雪」を出品。10月第9回帝展に「菊」を出品。昭和4年 3月長女陽子誕生〔主な作品〕6月パリ日本美術展に「春雪」を出品。10月第10回帝展に「南蛮黍」を出品。昭和5年 4月山口華楊、猪原大華と共に、絵専の派遣で中国に渡り、研鑽につとめる。7月六潮会(中村岳陵、山口蓬春、牧野虎雄、木村荘八、中川紀元、外狩素心庵、横川毅一郎、福田平八郎)を結成する。10月第11回帝展の審査員をつとめる。〔主な作品〕10月第11回帝展に「緋鯉」を出品。昭和6年 3月伏見桃山羽柴長吉に転居。12月京都市立美術工芸学校教諭の兼務を解かれる。〔主な作品〕1月ベルリン日本美術展に「萩紅」を出品。6月第4回下鴨画家展に「藪」を出品。昭和7年 10月第13回帝展の審査員をつとめる。〔主な作品〕2月第1回六潮会展に「暖冬」「雪の野」「雪の月」を出品。3月釆々会展に「雪の日」を出品。10月第13回帝展に「漣」を出品。昭和8年 〔主な作品〕2月第2回六潮会展に「蕾」「あやめ」を出品。昭和9年 1月大礼記念京都美術館会館記念京都市美術展の出品選考委員となる。7月佐藤梅軒画廊において、10点からなる個展を催す。8月長女陽子死去。10月第15回帝展の審査員をつとめる。〔主な作品〕2月第3回六潮会展に「鮎習作三題(1)淵(2)瀬(3)瀞」を出品。5月大礼記念京都美術館開館記念京都市美術展に「白梅」を出品。7月梅軒画廊個展に「青薄」「蜻蛉」を出品。8月尚美展に「罌粟」を出品。10月第15回帝展に「花菖蒲」を出品。昭和10年 5月京都市展が開設され審査員をつとめる。10月帝国美術院の改組(5月)にともない、参与に推挙される。〔主な作品〕2月第4回六潮会展に「初冬」「山桜」を出品。3月第1回春虹会展に「双鯉」を出品。4月第1回踏青会展に「春庭」を出品。5月第1回京都市展に「鮎」を出品。7月マリア画房創業10周年記念平安大家名作展に「鴛鴦」「緋鯉」を出品。12月尚美展に「麦」を出品。「鴨」を制作。昭和11年 1月京都市立絵画専門学校の教授となる。冬、外狩素心庵、横川毅一郎と共に満州に渡り巡遊する。この年文部省美術展の展覧会委員となり、10月開催の鑑査展の審査員をつとめる。秋、六潮版画第1輯「風」が出版され、「西風」を発表する。伏見桃山泰長老に転居する。〔主な作品〕1月第5回六潮会展に「五月晴」「北西の風」「漁楽十二題」のうち「種魚」を出品。3月第2回春虹会展に「春雪」を出品。4月第2回踏青会展に「菖蒲」を出品。5月山陽美術展に「菖蒲」を出品。昭和12年 10月第1回新文展の審査員をつとめる。12月病気のため京都市立絵画専門学校の教授を辞任し、制作に専念する。昭和13年 5月第3回京都市展の審査員をつとめる。2月に第1回展を開いた半弓会に参加、翌年から出品を続ける。〔主な作品〕3月第4回春虹会展に「大根」を出品。5月第7回六潮会展に「鴛鴦」を出品。10月第2回新文展に「青柿」を出品。10月第1回春秋会展に「鴛鴦」を出品。昭和14年 7月佐藤梅軒画廊で金島桂華と二人展を開催し、5点を出品。〔主な作品〕3月第5回春虹会展に「陽春」を出品。5月第8回六潮会展に「竹」「ひよどり」を出品6月第1回蒼穹展に「鮎」を出品。6月三越小品展に「朝顔」を出品。7月梅軒画廊二人展に「花菖蒲」「夏草と小鳥」を出品。この頃「竹」「芍薬」を制作。昭和15年 〔主な作品〕2月岡山で開催の紀元2600年記念現代日本画展に「白梅鶯」を出品。3月第6回春虹会展に「春水」を出品。4月第9回六潮会展、10周年記念展に「青柿」「桃の花」を出品。4月関西画壇26巨匠新作展に「青楓」を出品。11月紀元2600年奉祝美術展に「竹」を出品。「水辺初夏」を制作。昭和16年 5月第6回京都市展の審査員をつとめる。5月大日本航空美術協会が結成されたが、その創立委員(美術家35名で構成)となる。しかし9月開催された同協会、朝日新聞社主催の航空美術展には出品しなかった。10月開催の新文展の審査員をつとめる。〔主な作品〕3月第1回尚絅会展に「紅梅(写生)」を出品。5月第6回京都市展に「紅梅」を出品。昭和17年 5月第7回京都市展の審査員をつとめる。7月満州国国展審査のため須田国太郎などと中国各地を訪れる。10月第5回新文展の審査員をつとめる。〔主な作品〕3月日本画家報国会軍用機献納作品展に「白梅」を出品。5月第7回京都市展に「花菖蒲」を出品。11月第1回十宜会展に「花菖蒲」を出品昭和18年 5月第8回京都市展の審査員をつとめる。10月第6回新文展の審査員をつとめる。〔主な作品〕5月第8回京都市展に「柿紅葉」(後に「彩秋」と改題)を出品。7月第3回尚絅会展に「鴛鴦」を出品。9月関西邦画展に「山桜」を出品。昭和19年 7月奉祝京都市展の審査員をつとめる。〔主な作品〕7月奉祝京都市展に「花菖蒲」を出品。11月戦時特別文展に「若桜」を出品。昭和20年 冬、桃山泰長老から転居。春、海軍軍需美術研究所が開設され、指導主任となる。9月京都市美術館の評議員となる。昭和21年 5月第2回京展の審査員をつとめる。昭和22年 4月帝国芸術院(現日本芸術院)会員となる。6月第3回京展の審査員をつとめる。10月第3回日展の審査員をつとめる。〔主な作品〕5月東京都、朝日新聞社主催現代美術展に「紅葉と虹」を出品。5月頃第12回清光会展に「鯉」を出品。5月第1回五月会展に「筍」を出品。6月第3回京展に「紅葉と虹」を出品。10月第3回日展に「筍」を出品。「緋鯉」を制作。昭和23年 1月大阪大丸で草人社主催新作発表会を催し、坂本繁二郎と各8点を出品する。7月第1回展を開いた転石会に参加。10月第4回日展の審査員をつとめる。〔主な作品〕1月草人社二人展に「山葡萄」「紅葉」を出品。4月第1回清流会展に「雪庭」を出品。5月第2回五月会展に「鮎」を出品。5月第13回清光会展に「雉子」「牡丹」を出品。6月第1回彩交会展に「鮎」を出品。10月第4回日展に「新雪」を出品。昭和24年 5月官設の日展が終わり、日展運営会が組織される際に理事となる。8月桃山長岡越中に転居する。11月「新雪」(第4回日展出品)など一連の作品活動に対し、第1回毎日美術賞を受ける。〔主な作品〕4月第2回清流会展に「白木蓮」を出品。5月第3回五月会展に「牡丹」を出品。6月第2回彩交会展に「新竹」を出品。6月第14回清光会展に「罌粟」を出品。11月第3回霜月会展に「春雪」を出品。「牡丹猫」を制作。昭和25年 10月第6回日展の審査員をつとめる。〔主な作品〕5月第3回清流会展に「柿若葉」を出品。5月第4回五月会展に「立葵」を出品。6月第3回彩交会展に「鮎」を出品。6月第15回清光会展に「花菖蒲」を出品。6月第1回東華会展に「折鶴」を出品。8月一哉堂主催新作展に「鮎」を出品。9月第1回百二会展に「白桃」「青柿」を出品。10月第6回日展に「雲」を出品。11月第4回霜月会展に「初冬」を出品。昭和26年 1月第2回秀作美術展に「雲」(第6回日展出品)が選ばれる。11月大宮御所で須田国太郎と共に京都の日本画について御進講。〔主な作品〕4月第4回清流会展に「鮎」を出品。5月第16回清光会展に「樫若葉」を出品。5月第5回五月会展に「樫の新芽(素描)」を出品。7月第4回彩交会展に「花菖蒲」を出品。10月第7回日展に「紅葉」を出品。10月第2回百二会展に「鮎」「朝顔」を出品。11月第5回霜月会展に「葱と雀」を出品。昭和27年 1月第3回秀作美術展に「鮎」が選ばれる。3月日本橋三越において草人社主催のもとに坂本繁二郎、徳岡神泉との三人展を催す。10月第8回日展の審査員をつとめる。〔主な作品〕3月草人社三人展に「早春」を出品。4月第5回春光会展に「蛤」を出品。5月第17回清光会展に「筍」を出品。5月第6回五月会展に「柿」を出品。5月第1回日本国際美術展に「筍」を出品。6月第5回清流会展に「鯉」を出品。6月第5回彩交会展に「鮎」を出品。11月第6回霜月会展に「清秋」を出品。12月尚美堂35周年記念展に「水蜜桃」を出品。12月第3回百二会展に「柿」「桃」を出品。昭和28年 1月第4回秀作美術展に「鮎」が選ばれる。4月開催の第5回京展の審査員をつとめる。引き続き昭和42年第19回まで同展の審査員となる。〔主な作品〕4月第2回成和会展に「汀」を出品。10月第9回日展に「雨」を出品。この頃「鮎」を制作。昭和29年 1月第5回秀作美術展に「柿若葉」(第3回清流会展出品)、「筍」(第3回日展出品)、「新雪」(第4回日展出品)、「雨」(第9回日展出品)が選ばれる。10月大分トキワデパートにおいて福田平八郎デッサン展が開かれる。10月開催の第10回日展の審査員となる。〔主な作品〕4月第4回百二会展に「鱶の鰭と甘鯛」「桃」を出品。5月第2回皐月会展に「柿若葉」を出品。6月第7回彩交会展に「游鮎」を出品。6月第5回茜会展に「洋梨」を出品。7月第5回東華会展に「桃」を出品。10月第10回日展に「鯉」を出品。昭和30年 1月第6回秀作美術展に「雨」(第9回日展出品)が選ばれる。2月国立近代美術館主催の19人の作家展に「新雪」(第4回日展出品)など5点を出品。10月開催の第11回日展の審査員をつとめる。〔主な作品〕2月第3回昭和会展に「曙」を出品。3月第1回燦光会展に「春雪」を出品。5月第3回皐月会展に「筍」を出品。5月第3回日本国際美術展に「氷」を出品。6月第8回彩交会展に「清流」を出品。7月第7回清流会展に「曙」を出品。8月日本芸術院会員作品展に「竹」を出品。12月第5回百二会展に「清秋」を出品。昭和31年 11月スケッチ展シリーズの一つとして福田平八郎写生画展(朝日新聞社主催於銀座松屋)が開かれる。〔主な作品〕2月第2回爽竜会展に「白桃」を出品。4月第9回彩交会展に「罌粟」を出品。5月第8回京展に「青木(写生)」を出品。5月第4回皐月会展に「柿若葉」を出品。6月第7回茜会展に「桃」を出品。6月第8回清流会展に「鮎」を出品。7月第2回燦光会展に「花鳥」を出品。11月の本芸術院会員作品展に「鮎」を出品。12月第4回成和会展に「林檎」を出品。「梅若葉」を制作。昭和32年 1月第8回秀作美術展に「清秋」(第5回百二会展出品)が選ばれたが都合により出陳されなかった。3月京都府ギャラリーにおいて福田平八郎スケッチ展が開かれる。10月開催の第13回日展の審査員をつとめる。11月毎日美術賞10年記念展(毎日新聞社主催於高島屋)に「雨」(第9回日展出品)など5点を出品。〔主な作品〕1月第17回半弓会展に「蜜柑」を出品。3月京都日本画家協会・京都工芸家協会展に「林檎」を出品。4月日本芸術院会員・受賞者美術展に「茄子」を出品。4月第10回彩交会展に「筍」を出品。6月第3回爽竜会展に「新竹」を出品。7月第3回燦光会展に「立葵」を出品。7月第9回清流会展に「花菖蒲」を出品。12月第5回成和会展に「秋」を出品。昭和33年 1月第9回秀作美術展に「筍」(第10回彩光会展出品)が選ばれる。3月社団法人日展発足し、その常任理事となる。 〔主な作品〕3月高島屋美術部創設50周年記念展に「春雪」を出品。4月第11回彩交会展に「万年青」を出品。4月弥生画廊10周年記念展に「鮎」を出品。6月頃第4回爽竜会展に「鮎」を出品。7月第10回清流会展に「雪后(雪庭)」を出品。11月第1回新日展に「水」を出品。12月第6回百二会展に「桃」を出品。昭和34年 1月第10回秀作美術展に「雪后(雪庭)」(第10回清流会展出品)が選ばれる。3月桃山松平筑前に転居する。5月朝日新聞社主催により、銀座松屋において福田平八郎自選展が開催され、「遊鯉」(大正10年作)など六十余点が展示される。11月開催の第2回新日展の審査員となる。〔主な作品〕3月第6回成和会展に「茄子」を出品。7月第11回清流会展に「桃」を出品。12月尚美、古希記念展に「馬」を出品。昭和35年 1月第11回秀作美術展に「水」(第1回新日展出品)が選ばれる。〔主な作品〕3月第1回好日会展に「筍」を出品。4月第7回成和会展に「鮎」を出品。5月第8回皐月会展に「罌粟」を出品。7月第13回彩交会展に「鸚哥」を出品。7月第12回清流会展に「桃」を出品。昭和36年 11月文化勲章を受章、文化功労者に列せられる。12月大分市の名誉市民に推挙される。〔主な作品〕3月尚美堂45周年記念展に「桃」を出品。3月第2回好日会展に「紅梅」を出品。6月第5回爽竜会展に「春汀」を出品。6月第14回彩交会展に「菖蒲の芽」を出品。7月第13回清流会展に「菖蒲」を出品。10月第20回清光会展に「鮎」を出品。11月第4回新日展に「花の習作」を出品。12月善田画廊新築披露展に「桃」を出品。12月第7回百二会展に「梅」を出品。昭和37年 5月大分市名誉市民推挙記念、福田平八郎近作展が大分市トキハ文化ホールにおいて開かれ、17点が展示される。(主催は福田平八郎近作展委員会)。〔主な作品〕2月第6回燦光会展に「静物」を出品。3月上田竹栄堂30周年記念展に「鯉」を出品。3月錦虹会展に「花の習作(春日)」を出品。12月第8回百二会展に「柏鶯」を出品。「紅梅」を制作。昭和38年 1月第14回秀作美術展に「花の習作」(第4回新日展出品)が選ばれる。9月6日、テイ夫人死去。〔主な作品〕2月第6回爽竜会展に「秋晴」を出品。4月第4回好日会展に「茄子」を出品。6月和光美術展に「鮎」を出品。7月第16回彩交会展に「鴛鴦」を出品。12月第9回百二会展に「鴛鴦」を出品。「海魚」「鯉」を制作。昭和39年 1月第15回記念習作美術展に「雨」(第9回日展出品)が選ばれる。〔主な作品〕1月第1回京風会展に「淡紅梅」を出品。4月第5回好日会展に「雪庭」を出品。5月第2回新椿会展に「若葉」を出品。5月和光日本画展に「花菖蒲」を出品。5月第17回彩交会展に「筍」を出品。6月第16回清流会展に「雪」を出品。7月スケッチ展シリーズ完結記念50人の画家展に「鮎」を出品。9月南天子画廊・新秋大家展に「清秋」を出品。12月第10回百二会展に「紅白梅」を出品。12月第7回爽竜会展に「爽秋」を出品。「筍」「鸚哥」を制作。昭和40年 1月第16回秀作美術展に「筍」(第17回彩交会展出品)が選ばれる。春ごろから下脚部の疲れを覚えるようになる。〔主な作品〕1月第2回京風会展に「雪」を出品。3月第3回春虹会展に「筍」を出品。4月第25回半弓会展に「鴛鴦」を出品。6月第18回彩交会展に「躑躅と小鳥」を出品。6月第17回清流会展に「筍」を出品。7月和光美術展に「立葵」を出品。この頃「鴛鴦」を制作。昭和41年 6月大阪大丸において福田平八郎近作展が開催(主催朝日新聞社)され、「筍」(昭和32年第10回彩交会展出品)より「日盛」(昭和41年第7回好日会展出品)に至る35点が展示される。 〔主な作品〕3月第3回京風会展に「熊笹と小禽」を出品。4月第7回好日会展に「日盛」を出品。4月撰美堂70周年記念展に「曙」を出品。5月第4回春虹会展に「筍」を出品。6月第19回彩光会展に「鮎」を出品。6月第18回清流会展に「鮎」を出品。7月山種美術館会館記念展に「鯉」を出品。10月松豊画廊開廊記念展に「桃」を出品。12月第12回百二会展に「初雪」を出品。「初雪」を制作。昭和42年 6月京都国立近代美術館の近代日本画の名作展に「漣」(第13回帝展出品)、「水」(第1回新日展出品)、「鯉」(山種美術館開館記念展出品)を出品。夏、下脚部の治療のため、別府温泉で療養する。〔主な作品〕1月和光美術展に「雪の朝」を出品。2月第8回爽竜会展に「白桃」を出品。2月第4回京風会展に「躑躅」を出品。4月大丸創業250年記念現代巨匠展に「鮎」を出品。5月第20回彩交会展に「雉」を出品。6月第19回清流会展に「鯉」を出品。一哉堂画廊10周年記念展に「鮎」を出品。11月小田急百貨店全館開店記念展に「白梅小禽」を出品。12月第13回百二会展に「春の水」を出品。12月大極会展に「初雪」を出品。12月第9回燦光展会に「桃」を出品。昭和43年 6月東京上野松坂屋における読売新聞社主催の明治百年記念・現代の巨匠・文化勲章・文化功労者美術展に「新雪」(第4回日展出品)など3点を出品。〔主な作品〕2月第5回京風会展に「鮎」を出品。昭和43年 4月第28回半弓会展に「清秋」を出品。7月第20回清流会展に「鮎」を出品。7月第21回彩交会展に「鴛鴦」を出品。9月和光美術展に「梅の庭」を出品。11月皇居新宮殿竹の間に「竹」を描く。12月第14回百二会展に「日の出」を出品。昭和44年 3月日展改組に当たり、顧問となる。4月第21回京展の審査員となる。(以後第22回展、第25回展に審査員として名を連ねる。)〔主な作品〕2月第6回京風会展に「日の出」を出品。5月彩壺会展に「紅梅絞鶲」を出品。6月第21回清流会展に「錦鯉」を出品。7月第22回彩交会展に「鯉」を出品。10月日本芸術院会員展に「鯉」を出品。12月大極会展に「初日ノ出」を出品。12月第15回百二会展に「冬」を出品。「鯉」を制作。昭和45年 4月大阪大丸における読売新聞社主催の万博記念日本巨匠二十人展に「紅梅絞鶲」など最近作5点を自選して出品する。〔主な作品〕2月松坂屋創立60年記念展に「鴛鴦」を出品。2月第7回京風会展に「春の水」を出品。3月和光美術展に「鮎」を出品。3月第2回春光会展に「白梅小禽」を出品。6月第23回彩交会展に「鮎」を出品。6月第22回清流会展に「花菖蒲」を出品。7月祇園会展に「秋晴」を出品。「桔梗と鶲」を制作。昭和46年 11月京都市美術館における京都日本画の精華展に「牡丹」(第5回帝展出品)など12点が展示される。〔主な作品〕2月第8回京風会展に「若鮎」を出品。3月和光美術展に「筍」を出品。4月第11回燦光会展に「若鮎」を出品。6月第23回清流会展に「新雪」を出品。昭和47年 1月下呂温泉で療養につとめる。2月発作で倒れる。7月国立京都病院に入院。9月一時通院する。11月阪神百貨店、伊勢丹本店における読売新聞社主催の日本巨匠展に「遊鮎」(昭和40年)を出品。昭和48年 10月小野竹喬、堂本印象、山鹿清華と共に京都市名誉市民として表彰される。これを記念して名作展が京都市美術館で開かれる。昭和49年3月8日国立京都病院に入院。3月22日午後6時30分、国立京都病院にて気管支肺炎のため死去。採光院殿照誉春雪馬安大居士をおくられる。従三位に叙せられ、銀杯一組を贈られる。3月24日松平筑前の自宅で密葬。4月2日知恩院良正院で告別式が営まれる。4月9日京都会館において京都市公葬が営まれる。4月15日大分文化会館において大分市民葬が営まれる。10月大分文化会館において「福田平八郎 生野祥雲斎をしのぶ作品展」が開かれ、「鯉」(第3回帝展出品)など18点が展示される。昭和50年 2月東京国立近代美術館に於て福田平八郎遺作展開催される。3月京都市美術館に於て同展開催。8月ソ聯より旧首藤定コレクションの内福田平八郎作品42点が日本に返還される。(本年譜は、遺作展目録に末尾を補足したものです。) 主な参考文献〒空白単行本平八郎個展画集 マリア書房 昭和9年平八郎、桂華二人展画集 芸艸堂 昭和14年福田平八郎自選 花鳥篇  芸艸堂 昭和15年豊田豊、芳川赳(共著):福田平八郎 芸術春秋社 昭和14年 大自然の使徒福田平八郎(豊田豊) 人間福田平八郎(芳川赳)横川毅一郎:福田平八郎 美術出版社 昭和24年座右宝刊行会(編):現代世界美術全集12 日本画篇 河出書房 昭和29年 本文 福田平八郎(北川桃雄)座右宝刊行会(編):現代日本美術全集7 角川書店 昭和31年 本文 福田平八郎(今泉篤男)福田平八郎 芸艸堂 昭和31年藤本韻三(編):福田平八郎 造形芸術研究所出版部 昭和33年福田平八郎 集英社 昭和48年 本文 福田平八郎の人と芸術(矢内原伊作) 作品解説(竹田道太郎) 平八郎の芸術(今泉篤男)大正の頃(福田平八郎) 自作回想(抄)福田平八郎 講談社 昭和49年 本文 福田平八郎の絵(今泉篤男)難波専太郎:五人の画家 美術探求社 昭和32年 本文 福田平八郎伝鈴木進、竹田道太郎(共著):日本画とともに―十大巨匠の人と作品― 雪華社 昭和32年 本文 福田平八郎今泉篤男:現代画家論 美術出版社 昭和33年 本文 福田平八郎の芸術武者小路実篤:六人の現代画家 真珠社 昭和38年 本文 福田平八郎藤本韶三:画室訪問 文/藤本韶三 写真/藤本四八 三彩社 昭和44年 本文 福田平八郎矢内原伊作:芸術家との対話 雄渾社 昭和46年 本文 福田平八郎氏を訪ねて定期刊行物自筆記事夜叉王のやうに 美術評論 4の2 (昭和10年2月号)個展の収穫 塔影 11の8 (昭和10年8月号)富田さんの思ひ出 塔影 12の8 (昭和11年8月号)富田さんの追懐 美之国 12の8 (昭和11年8月号)鮎解禁日 現代美術 3の8 (昭和11年8月号)日本画評 京都新聞 昭和16年12月1日竹内栖鳳追悼 日本美術 1の6 (昭和17年6月号)大正の頃 日本美術 2の5 (昭和18年5月号)私の写生帖(筆録) 三彩 34 (昭和24年9月号)私の写生―花鳥― 三彩 42 (昭和25年5月号)「青柿」について 三彩 50  (昭和26年1月号)技法随想 三彩 54 (昭和26年6月号)冬の八幡平登り 日本経済新聞 (昭和30年1月24日)私のスケッチについて 美術手帖 121 (昭和32年2月号)北野天満宮拝殿の蟇股 京都新聞 昭和42年6月17日(夕刊)雪の想い出 三彩 225 (昭和43年2月号)速水御舟「扇面・白梅」 京都新聞 昭和45年3月27日対談福田平八郎、徳川夢声:問答有用 週刊朝日 (昭和29年12月27日号)福田平八郎、亀田正雄:日本画に生きる  毎日新聞 昭和43年1月28日-2月6日福田平八郎、河北倫明:美術対談 秀作美術 26 (昭和44年7月号)作家論新人小景 中央美術 12の5 (大正15年5月号) 純情の人福田君(中井宗太郎) 馬平安福田君(奥村久郎)福田平八郎論 アトリエ 7の1 (昭和5年1月号) 金線の響(西山翠嶂) 福田君に踏ませ度い道(榊原紫峰) 「鯉」以前その他(金鳥桂華) 「南蛮黍」の意味するもの(神崎憲一)木村荘八:我観福田平八郎 中央美術(復興) 14 (昭和9年9月号)横川毅一郎:福田平八郎 アトリエ 12の6 (昭和10年6月号)牧野虎雄:福田平八郎と僕 現代美術 3の8 (昭和11年8月号)高沢初風:東西画壇の好取組2―竜子関雪、蓬春印象、土牛平八郎 美之国 13の8 (昭和12年8月号)中村岳陵:卒直の人 美之国 13の11 (昭和12年11月号)鐘ヶ江現象:福田平八郎先生の印象 現代美術 8の2 (昭和15年3月号)大口理夫:福田平八郎 日本美術 2の3 (昭和18年3月号)加藤一雄:福田平八郎論―知識階級の画家― 美術 8 (昭和19年9月号)大口理夫:福田平八郎論 三彩 5 (昭和22年1月号)松原叔人:福田平八郎 美術手帖 1 (昭和23年1月号)井島勉:福田平八郎氏に寄せて 日本美術工芸 113 (昭和23年3月号)横川毅一郎:福田平八郎 メモワールの中から 馬酔木 29の5 (昭和25年5月号)福田平八郎 東京新聞 昭和28年6月2日河北倫明:福田平八郎 芸術新潮 5の5 (昭和29年5月号)三輪鄰:福田平八郎―新日展理事―  萠春 2の7 (昭和29年8月号)河北倫明:福田平八郎 芸術新潮 6の4 (昭和30年4月号)今泉篤男:福田平八郎の芸術 みづゑ 602 (昭和30年9月号)横川毅一郎:梅干 三彩 83 (昭和32年1月号)福田平八郎 三彩臨時増刊 99 (昭和33年4月刊) 福田平八郎の芸術(鈴木進) 自作回想(福田平八郎)或る日の福田平八郎 静閑荘における生活記録から(横川毅一郎) 福田平八郎略年譜横川毅一郎:日本画作家生い立ちの記3 福田平八郎 真珠 3 (昭和33年6月号)一万田尚登:福田君と私 真珠 3 (昭和33年6月号)矢内原伊作:福田平八郎 芸術新潮 9の12 (昭和33年12月号)特集 福田平八郎自選展 萠春 67 (昭和34年5月号) 福田平八郎(加藤一雄) 福田平八郎 初期の作品について(関千代) ある日ある時の福田平八郎 六潮会時代のノートから(横川毅一郎) 制作年譜鈴木進:福田平八郎自選展 三彩 116 (昭和34年7月号)中村溪男:福田平八郎自選展 みづゑ 650 (昭和34年7月号)富永惣一、寺田透、針生一郎:毎日美術賞十年展・大賞作家の盛衰 芸術新潮 10の12 (昭和34年12月号)福田宗平:福田平八郎 朝日新聞 昭和35年3月20日河北倫明:福田平八郎の近況 真珠 9 (昭和35年5月号)福田平八郎 朝日新聞 昭和36年2月14日特集 福田平八郎 色鳥 13 (昭和36年3月号) 平八郎芸術の魅力(北川桃雄) 福田平八郎の絵(高橋新吉) 福田平八郎の「鯉」(山口玄珠) 風薫る京の二日―福田平八郎画伯との交歓記―(横川毅一郎) 福田平八郎先生―下鴨時代の想い出―(池田遙邨)北山桃雄:福田平八郎の実験精神 芸術新潮 144 (昭和36年12月号)福田平八郎画伯を訪ねて… 日本美術 22 (昭和37年1月号加藤一雄:福田平八郎小論 秀作美術 15 (昭和37年4月号)加藤一雄:福田平八郎所感 萠春 100 (昭和37年4月号)安東次男:日本人の創造した色 芸術新潮 164 (昭和38年8月号)橋本喜三:福田平八郎 その人と芸術 日本美術工芸 307 (昭和39年4月号)加藤一雄:京都画壇周辺帳9 日本美術工芸 315 (昭和39年12月号)高山辰雄:福田平八郎・先進後進 朝日ジャーナル 昭和40年7月11日号横川毅一郎:画人青春4 福田平八郎 真珠 20 (昭和40年7月号)加藤一雄:福田平八郎 文芸春秋 43の7 (昭和40年7月号)福田平八郎近作展 三彩 204 (昭和41年8月号)今泉篤男:福田平八郎の近作 アート 14の3 (昭和41年11月刊)原田平作:京都派の作風 京都市美術館年報 昭和40年度 (昭和41年12月刊)山田竜平:太公望画伯のアユ談義 福田平八郎氏  京都新聞 昭和42年6月10日横川毅一郎:草際居閑話(六)―福田平八郎画伯・手製潜水眼鏡の巻―日本美術59 (昭和44年8月号)山田竜平:福田平八郎 画談涼風 京都新聞 昭和45年7月17日今泉篤男:福田平八郎回想 東京新聞 昭和49年3月25日(夕刊)追悼・福田平八郎先生 日本美術 107 (昭和49年4月号) 執筆者:池田遙邨(談) 佐々木直比古(談) 河北倫明福田平八郎の死  芸術新潮 293 (昭和49年5月号)藤本韶三:福田平八郎氏を悼む  三彩 317 (昭和49年5月号)村木明:福田平八郎と吉田五十八死去  みづゑ 830 (昭和49年5月号)藤本韶三:ソビエトにある福田平八郎作品  三彩 323 (昭和49年10月号)展覧会目録平八郎自選展 主催 朝日新聞社 昭和34年5月22日-6月3日 東京・銀座松屋大分市名誉市民推挙記念 福田平八郎近作展 主催 福田平八郎近作展委員会 昭和37年5月1日-5月6日 大分市・トキハ文化ホール福田平八郎近作展 主催 朝日新聞社 昭和41年6月21日-6月26日 大阪・大丸 福田平八郎の近作 (今泉篤男)福田平八郎 生野祥雲斎をしのぶ作品展 主催 大分県他 昭和49年10月4日-13日 大分市・大分文化会館平八郎画伯の作品(河北倫明)(以上遺作展目録に拠る)

小早川秋声

没年月日:1974/02/06

日本画家小早川秋声は、2月6日京都市の病院で、老衰のため死去した。享年88歳。本名盈麿。明治18年9月26日神戸市(摂津三田藩主九鬼子爵邸内)に生れ、京都市立絵画専門学校に学び、谷口香嶠塾、山元春挙塾等で教えを受けた。大正3年より同6年まで、東洋芸術研究のため渡支、同9年より12年にわたり西洋芸術研究のため渡欧した。この間、北京、奉天、慶州、ロンドン、パリ等の各博物館で研究をすすめた。また昭和6年満州事変に際し、軍嘱託として興安嶺を越え、ホロンバイル地区、マンチュリー国境地帯へ、同7年熱河省地区へ出張している。昭和12年8月には陸軍省新聞班より従軍画家として北支へ派遣され、爾来同16年末に至るまで北支、中支に従軍画家として屡々派遣された。また昭和18年6月には、大東亜戦争記録画作製のため、ビルマ地区最前線へ陸軍省より派遣された。作品は主として官展に発表し、第8回文展「こだました後」が初入選している。その後同9回「幕切れの刹那」、同11回「寂光の都」(二曲半双)、同12回「微笑」等があり、帝展では第3回「語られぬなやみ」、第5回「ヴェニスの宵」、第6回「盲目の春」、第7回「未来」、第8回「万相有情(歌僧円位)」等があり、人物画が多い。その後、軍事画も多く描き、主なものに次の作品がある。「護ノ図」(九段軍人会館)。「九段国防館壁画九面」。「歩哨図」(陸軍航空士官学校)等。戦後は宗教画も多く手がけ、また京都詩仙堂の「三十六詩仙」「夢」などの作品もある。

若木山

没年月日:1974/01/28

日本画家若木山は、1月28日胃ガンのため千葉市柏戸病院で死去した。享年63歳。本名山。明治45年4月3日熊本市に生れ、帝国美術学校日本画科に学んだ。昭和10年樫山南風に師事し、翌年帝展改組第1回展に「山の女」が初入選した。昭和14年横山大観の内弟子となったが、動18年応召により満州部隊に配属され、22年シベリアより復員した。戦後、23年第33回院展に「常陸乙女」が初入選し、第36回同展「安房海處女」は奨勵賞となった。その後、屡々奘勵賞を受け46年第56回院展「夏の水」で日本美術院賞となった。また、40年から没するまで丸善画廊で個展を度々開催し山種美術館賞展にも出品した。なお、没後49年2月日本美術院同人に推挙された。

山下摩起

没年月日:1973/11/07

日本画家山下摩起は、11月7日老衰のため西宮市の自宅で死去した。享年83歳。本名正直。明治23年4月21日兵庫県有馬町の旅館「下大坊」山下庄衛門の長男として生れた。明治43年京都市立美術工芸学校絵画科を卒業、同年京都市立絵画専門学校に入り、大正4年同研究科を卒業した。在学中第4回文展に「溪風」が初入選し、以後文、帝展に出品する。また国画創作協会展、院展、独立展等にも作品を送っている。昭和3年ヨーロッパに渡り、フランス、ベルギー、イタリア、イギリス、オランダ等を巡り5年に帰国した。昭和10年以後は中央への公的な展覧会出品を止め、専ら個展を制作発表の場とした。昭和35年には大阪四天王寺五重塔壁画を揮亳し、朝日賞(35年度)を受賞した。そのほか代表作として41年東本願寺難波別院南御堂後門壁画「音声菩薩」同じく43年には東本願寺名古屋別院後門壁画「弥弥」等がある。また、昭和14年以降美術雑誌の表紙絵、口絵等も担当し、主なものに「画室」「新美」「八潮」等がある。なお号は最初馬山で大正11年摩耶と改め、ついで昭和25年摩起と改めた。昭和49年兵庫県立近代美術館で「山下摩起展」を開催、107点が出品され、同展の図録が刊行されている。

安島雨晶

没年月日:1973/08/10

日本画家安島雨晶は、8月10日急性肺炎のため京都市第一日赤病院で死去した。享年66歳。本名理作。明治40年石川県に生れ、京都絵専を卒業した。西山翠嶂画塾青甲社に入り、師没後は同志と牧人社を結成した。この間、新文展、日展等に出品し、昭和45年には伏見稲荷大社の祭礼絵巻を完成した。

跡部白烏

没年月日:1973/08/04

日本美術院々友、大調和会運営委員で日本画家の跡部白烏は、8月4日喘息のため死去した。享年73歳。本名正人。明治33年9月28日東京に生まれ、早稲田大学中退後、画家を志して堅山南風に師事し、院展に出品した。大正12年第10会院展に初入選し、その後院友となり現在に至る。戦後は、日本画府、大調和会等を発表の場とした。主な作品「雪の山」「雨後」「篁」(いづれも院展出品作)

青木生冲

没年月日:1973/06/28

日本画家青木生冲は、6月28日脳軟化症のため、京都市の自宅で死去した。享年82才。本名桂之助。明治24年10月12日京都に生まれ、大正3年京都市立美術工芸学校を卒業、同6年京都絵専本科を経て8年研究科を修了した。同年竹内栖鳳に師事し、竹杖会々員となった。大正15年第7回帝展「白鹿」が初入選し、以後新文展、日展等に出品した。また昭和16年には、塾員多数とともに目黒雅叙園壁画制作に当った。代表作「秋爽」(8回帝展)、「白孔雀」(9回帝展)ほか。

江馬進

没年月日:1973/06/04

日本画家江馬進は、6月4日肝臓ガンのため京都市の自宅で死去した。享年63歳。明治43年1月29日京都に生まれ、昭和8年京都絵画専門学校を卒業、西山翠嶂画塾青甲社に所属した。昭和5年第11回帝展「山の池」が初入選し、戦後は専ら日展に出品した。昭和34年以降牧人社の一員として風景画を描いた。風俗研究家・江馬務氏の従兄。

横山操

没年月日:1973/04/01

日本画家横山操は、4月1日脳卒中のため東京都調布市の慈恵医大附属病院で死去した。享年53歳。大正9年1月25日新潟県西蒲原郡に生れ、川端画学校日本画科に学んだ。昭和15年第12回青竜展に「渡船場」が初入選したが、この年応召し、終戦までの5年間中国各地を一兵卒として歩いた。戦後さらに5年間のシベリア抑留生活をつづけ、25年復員した。翌年の青竜展で画生活に戻り、「塔」「熔鉱炉」「炎々桜島」などの大作を発表、「炎々桜島」では青竜賞となった。彼の作品の特色であるブラックを強調した線を、画面に縦横に駆使した激烈な作風は、画壇に一時爆発的ブームを引きおこした。しかし、一方ではこのような傾向に対する批判もまたないわけではなかった。斯くて昭和37年には青竜社を脱退し、無所属となった。以後、日本の伝統的水墨画の発展に意欲を示し、「瀟湘八景」「越後十景」等の作品がある。昭和46年発病し、半身不随となったが、左手で制作をした「武蔵野風景」などの作品もある。年譜年令大正9年(1920) 1月25日、新潟県西蒲原郡に生まれる。昭和12年 17 3月、県立巻中学校卒業。上京。昭和13年(1938) 18 この年光風会展に「街裏」(油彩)を出品、初入選する。昭和14年(1939) 19 川端画学校日本画部に入学。新興美術院に「隅田河岸」を出品。昭和15年(1940) 20 9月、第12回青龍展に「渡船場」を出品、初入選する。12月、召集。中支派遣鏡部隊に所属し、長沙作戦に参加。昭和20年(1945) 25 この年、終戦と同時にシベリア、カラガンダ、23区第9収容所に抑留され、26番炭坑において石炭採掘に従事する。昭和25年(1950) 30 1月、帰国復員。一時郷里に帰る。4月、春の青龍展を見る。この頃再び上京、不二ネオン会社のデザイン部にてデザインの仕事をし、銀座森永の広告塔などをデザインする。9月、第22回青龍展にソ連抑留中の印象を追憶してかかれた「カラガンダの印象」を出品。昭和26年(1951) 31 4月、春の青龍展に「カザフスタンの女」を出品。この作品も「カラガンダの印象」同様抑留中のカザフスタン共和国、カラガンダ地方の印象をもとにその風俗を描いた。5月19日、杉田基子と結婚。この頃、青龍社研究会に入会。9月、第23回青龍展に「沼沿いの町」を出品。この年、青龍社社子に推挙される。昭和27年(1952) 32 3月5日、長女彩子生る。4月、春の青龍展に「千住風景」を出品。9月、第24回青龍展に「灯台」を出品。昭和28年(1953) 33 4月、春の青龍展に「白壁の家」、「横卧」を出品。「白壁の家」は春展賞を受ける。9月、25周年記念青龍展に「ショーウィンド」、「駅前広場」を出品。「ショーウィンド」は奨励賞を受ける。昭和29年(1954) 34 3月、春の青龍展に「青春」、「熱海月明」を出品。「青春」は春展賞を受ける。8月、第26回青龍展に「変電塔」、「舞妓」を出品。「変電塔」は奨励賞を受ける。社友に推挙される。大井庚申塚のアパートに移転。また、不二ネオン会社社長―故瀬川氏の好意により、会社事務所(鶯谷)の2階を借り大作に着手する。昭和30年(1955) 35 3月、春の青龍展に「十文字」を出品、春展賞を受ける。この作品は、東京電力火力発電所にある通称―お化け煙突―の投影をもとに描かれた。8月、第27回青龍展に「対話」を出品、奨励賞を受ける。この年、青龍社新人による小品会―踏青会―に6点出品。また「ブランコ」(スケッチ)を描く。昭和31年(1956) 36 1月、第1回個展を銀座松坂屋で開き、「網」、「熔鉱炉」、「架線」、「川」、「木」を出品。2月26日、世田谷区に移転。3月、春の青龍展に「ビルディング」を出品、春展賞を受ける。5月、桜島写生のため旅行。8月、第28回青龍展に、「炎々桜島」を出品、青龍賞を受ける。この賞は社人以外の作品を薦賞する第一賞であり、受賞者は28年間のうち操を含む2名だけである。この年踏青会に8点出品。また「舞妓」を描く。昭和32年(1957) 37 1月、朝日新聞社主催第8回選抜秀作美術展に前記「炎々桜島」を出品。3月、春の青龍展に「時化」「樹」を出品、「時化」は春展賞を受ける。6月、取材のため、北海道旅行。7月、毎日新聞社主催、現代美術10年の傑作展(渋谷東横デパート)に前記「川」を出品。8月、第29回青龍展に「塔」「踏切」を出品。「塔」は奨励賞を受ける。この作品は、上野谷中天王寺の五重塔焼失時に取材され描かれた。11月、朝日新聞社主催今日の新人’57展(日本橋白木屋)に前記「樹」「網―部分―」を出品。この年、踏青会に10点出品。また「時化」(未発表)を描く。昭和33年(1958) 38 1月、第2回個展を銀座松坂屋で開き、「夕張炭鉱」、「昭和新山」、「鉄骨」、「家」、「闇迫る」、「仲仕」、「母子」を出品。同月、第9回選抜秀作美術展に前記「塔」を出品。3月、春の青龍展に。四日市港の所見をもとに描かれた「港」を出品。春展賞を受ける。5月、毎日新聞社主催第3回現代日本美術展に「犬吠」を出品。受賞候補となる。6月、佐久間ダムへ取材旅行、帰途上高地に立ち寄る。8月、大阪大丸にて個展を開く。9月、第30回青龍展に「ダム」を出品。社人に推挙される。10月、吉祥寺みつぎ画廊で開催の素描展に数点出品。11月、オーストラリア、ニュージーランド巡回日本現代美術展に前記「塔」を出品。この年、坦々会(日本橋白木屋)に「大正池」、「網」を出品。野生派第1回展(日本橋三柳堂画廊)に「野の夕」、「灯台」を出品。昭和34年(1959) 39 1月、青々会(日本橋三越)に「雪峡」を出品。同月、第10回選抜秀作美術展に「ダム」を出品。3月、銀座村越画廊主催第1回轟会―横山操、加山又造、石本正三人展―に「朔原」、「大正池」、「夕映桜島」を出品。同月、春の青龍展に「網」を出品。5月、毎日新聞社主催第5回日本国際美術展に「峡」を出品。優秀賞を受ける。6月、みづゑ賞選抜・新しい水彩15人展(銀座松屋)に「網」を出品。みづゑ準賞を受ける。9月、第13回青龍展に「岳」を出品。この作品は妙義山へ登った時の印象をもとに描かれた。同月、双樹洞画廊主催第1回9月会に「岳」を出品。この年孔雀画廊主催第1回百合会展に「茜」、踏青会に「道」を出品。昭和35年(1960) 40 1月、第11回選抜秀作美術展に「峡」を出品。3月、春の青龍展に「送電源」を出品。4月、兼素洞にて小品の個展を開き、「水映」、「朝」、「火の山」、「道」、「流星」、「明ける海」、「波涛」、「茜の道」を出品。5月、第4回現代日本美術展に「波涛」を出品。6月、新潟県大和百貨店にて個展を開き、前記「熔鉱炉」、「炎々桜島」、「昭和新山」「夕張炭鉱」、「闇迫る」、「家」、「川」、「灯台」他小品数点を出品。同月、現代美術の焦点シリーズ第1回展(日本橋白木屋)に大作「富士」を出品。8月、第33回青龍展に「建設」を出品。この作品は黒部第四ダムに取材し描かれた。同月、東洋美術館画廊主催第1回地上会展に「舞妓」を出品。12月、三鷹市に移転。この時、過去を絶ち新しく出発する事こそ真の芸術家の生き方だと考え、これまでの作品の大半を焼却した。この年、国立近代美術館主催日本画の新世代展に前記「熔鉱炉」、「塔」、「朔原」、「山湖」を出品。また「潮来の夕」「MADO(窓)」を描くこの頃「暁富士」を描く。昭和36年(1961) 41 1月、第12回選抜秀作美術展に前記「建設」を出品。3月、春の青龍展に「船渠」を出品。同月、第2回轟会に「富士雷鳴」、「早春」、「夕原」、「灯台」、「波涛富士」を出品。4月29日、取材のため渡米、約40日間滞在、主にカリフォルニアを回る。5月、第6回日本国際美術展に「黒い工場」を出品。8月、第33回青龍展に「グランドキャニオン」を出品。この年、兼素洞にて横山操・福王寺法林新作2人展を開き、―アメリカ5題―「ニューヨークシティー」、「コロラド」、「ブルックリン橋」、「ヨセミテの滝」、「マンハッタン」―を出品。昭和37年(1962) 42 1月、第13回選抜秀作美術展に「波涛富士」を出品。3月、青龍展に「金門橋」を出品。同月、第3回轟会に「イーストリヴァーの朝」、「イーストリヴァーの夕」「ウォール街」を出品。5月、第5回現代日本美術展に「ウォール街」を出品。夏、青龍社脱退。社は第34回青龍展に出品予定の超大作「十勝岳」(高さ8尺×横24尺)を縮小するよう要請するが、これを聞き入れず、このことが脱退の直接原因となる。11月、兼素洞主催第1回荒土会に「荒土耕人」、「叢々富士」、「晴日」を出品。第3回地上会展「晴るゝ日」出品。昭和38年(1963) 43 1月、脱退後第1回の個展―生まれ故郷越後の山水を主題にして―(2・4-12東京画廊「海」「雪原」他数点を出品。)2月、神戸高島屋にて個展を開き「白梅」、「紅梅」「赤富士」等を出品。3月、第4回轟会に「紅白梅」、「早春」を出品。5月、第7回国際美術展に「雪峡」を出品。6月、屏風絵展(6・14-19松屋)を開き「瀟湘八景」を出品。この頃青梅に別荘を建てる。7月、小品展(7・15-20関西画廊)11月、第2回荒土会に「伊豆富士」、「武蔵野の朝」を出品。小林一哉堂創立五拾周年記念展「伊豆富士」出品。日比谷公会堂緞帳、リッカービルの壁画を完成。昭和39年(1964) 44 1月、第15回選抜秀作美術展に前記「海」を出品。3月、第5回轟会に「湧雲富士」を出品する。5月、第6回現代日本美術展に「高速四号線」を出品。同月、ニューフジヤホテルの壁画「赤富士」完成。9月、アメリカ及びヨーロッパに旅行。イタリア旅行中シエナのホテルにて心臓発作をおこす。病状回復後帰途に着くが、途中フィリピン・マニラに立ち寄る。11月、第3回荒土会「ヴェニス」、「湖の秋」、「月下富士」出品。「ウォール街」東京国立近代美術館買上となる。また船原ホテル・ヒルトンホテルの壁画完成。昭和40年(1965) 45 前年より心臓病のため休養する。3月、第6回轟会「パリ郊外」、「黎明パリ」出品。6月、病後早々太陽展(銀座日動画廊)に「ふるさと」出品。9月、多摩美術大学で日本画科教授として加山又造と共に実技の指導にあたる。11月、第4回荒土会「イタリアの丘」、「祇王寺の秋」出品。同月、高燿会展(高島屋)「遠きノートルダム」出品。小林一哉堂画廊主催横山操・加藤東一・麻田鷹三人展「黎明」「凱旋門」「晴るゝ日」出品。昭和41年(1966) 46 3月、第7回轟会「水の都」、「朱富士」出品。4月10日、川端龍子死去。龍子の死は横山に「おやじを失ったよう」な悲しみを与えた。5月、第7回現代日本美術展に「万里長城」出品。同月青龍社解散。6月、中国旅行。香港―広州―長沙―武漢―九江―廬山―南昌―上海―北京と回る。北京では10日間滞在し、明の13陵、8達嶺、万里長城等で写生をする。8月、村越画廊主催中国の旅草描展に「東陵の丘」、「夕凪の泊船」、「長城万里」、「柳映」、「飛燕」、「九江風景」、「河南山水」、「天壇」、「霽れゆく長江」、「江畔の街」を出品。11月、第5回荒土会「天壇」、「塔のある風景」出品。同月、日本橋高島屋主催加山又造・横山操二人展「茜山水」、「紅白梅図」、「暁富士」、「富嶽」出品。昭和42年(1967) 47 3月、毎日新聞社主催現代日本画三人展―横山操・石本正・加山又造―(神戸そごうデパート)前記「瀟湘八景」出品。10月、名古屋松坂屋にて個展を開き「富士」、「茜」、「残雪富士」等を出品。昭和43年(1968) 48 4月、銀座彩壺堂主催水墨「越路十景」展を開く。5月、第8回現代日本美術展「TOKYO」出品。6月、日本橋高島屋主催第1回球琳会日本画展「遠富士」出品。6月~9月 日本経済新聞社主催近代日本画名作展(於レニグラード―エルミタージュ・モスクワプーシキン両美術館)「送電源(32回青龍展)」出品。11月、第6回荒土会「風渡る」、「遠富士」、「冬の山」出品。同月、春秋会展に「朝霜(水墨)」、「清雪富士」出品。この年横山操・加藤東一・麻田鷹司3人展に「奥入瀬の秋」を出品。文化庁主催大正・昭和名作美術展に出品。また、千葉県民会館の緞帳を制作。昭和44年(1969) 49 11月、轟会10周年記念展(日本橋高島屋)に富士八景(「冬富士」など)を出品。同月、第7回荒土会「紅葉富士」、「朱富士」を出品。この年第2回球琳会日本画展に「黎明富士」、彩壺堂主催彩春会に「峠の道」を出品。昭和45年(1970) 50 6月、第3回球琳会に「むさし野」を出品。この年青梅の別荘にアトリエを新築。昭和46年(1971) 51 春、第20回5都展に「暮雪」を出品。4月、神奈川県立近代美術館主催戦後美術のクロニクル展に「雪原」を出品。同月29日、脳血栓のため入院。1週間ほど意識不明が続き、右半身不随となる。8月、伊豆のリハビリテーションセンターに入院するが、本人の強い希望により11月3日に退院。好きな酒を絶ち自宅にて左手で制作にかかる。11月、第8回荒土会に「雪富士」を出品。この年「清雪富士」を描く。昭和47年(1972) 52 2月、東京国立近代美術館主催戦後日本美術の展開展に「塔」を出品。11月、第13回轟会に「静かなる風景」、「月」を出品。この年一哉堂主催芳樹会展「むさし野」出品。この頃雑誌「新潮」の表紙(48年度)12カ月分を制作したり、明治座や歌舞伎座の公演目録表紙を手がける。昭和48年(1973) 53 1月、朝日新聞歌俳壇の挿画(水墨)4点を手がける。2月、第9回荒土会に「茜」、「峡」を出品。3月26日 作画中再び脳卒中のため昏倒。これが「絶筆」となる。27日 病状悪化。入院。4月1日 逝去する法名 景享院篁風玄彩操志居士。深大寺に葬る。9月4日-10月7日追悼特別展「横山操の回顧」

福田翠光

没年月日:1973/01/24

日本画家、日展会員の福田翠光は、1月24日急性心不全のため京都市の天神川病院で死去した。享年77歳。本名稔。明治28年4月30日京都に生れ、京都市立美術工芸学校卒業、西山翠嶂の青甲社に所属し、昭和16年退塾し、以後無所属となる。帝展第7回に「鷹図」が初入選し、以後連年入選し、第12回「はぐゝみ」が特選となった。その後新文展、日展等に出品したが専ら鷹を描くことを得意とし、またタカの翠光として知られた。晩年は徳岡神泉に師事し、得意の花鳥画から「池」「水辺花」等内面的方向に追求を深めた。

松本姿水

没年月日:1972/10/23

日本画家松本姿水は、10月23日心臓衰弱のため死去した。享年85才。本名秀次郎。明治20年5月26日栃木県宇都宮市に生れ、同35年上京して日本画を学ぶ旁ら白馬会洋画研究所で洋画を学んだ。大正2年第7回文展に日本画「初秋の朝」が初入選し、同6年川合玉堂に師事した。大正8年第1回帝展に「薫風」が入選し、以後毎年入選し、第6回帝展「暮るゝ春」(二幅対)で特選となった。昭和2年帝展委員となり、同9年第15回帝展では審査員となった。昭和13年野田九浦、岩田正己、望月春江等とともに日本画院を結成、創立同人となり以後同展に出品をつゞける。戦後は、昭和22年第3回日展に招待となり「ひいるむぎ」を出品し、その後も引続き発表している。主要作品「初秋の朝」「ほとゝぎす」「梨の花散る夕」「明暗」等。

新井勝利

没年月日:1972/06/21

日本画家で日本美術院評議員の新井勝利は、6月21日脳血センのため死去した。享年77才。本名勝利。明治28年3月6日東京市京橋区、江戸時代からの美術商新井可翁の三男として生れた。高輪中学を卒え、明治42年頃梶田半古に師事し、巽画会に出品受賞している。のち安田靫彦に就き、日本美術院研究所に学ぶ。大正初年研究会員となり、昭和5年17回院展「葡萄」が初入選となった。昭和11年第1回帝展「つばき」が初入選となり、同年秋日本美術院々友となった。またこの年より5年間捜真女学校図画教師となった。同13年第25回院展「二月堂水取」で日本美術院賞となり、16年まで「大仏勧進」「山伏摂待」「谷行」とつづけて院賞を受け、この年同人に推挙された。この間、昭和15年より19年迄4年間文部省より法隆寺壁画模写を委嘱され、模写事業の仕事に従事した。戦後は昭和24年より40年まで多摩美術大学教授として後進の育成にあたっている。また作品として主なものには「玄装三蔵」(昭28)「伊勢物語より七題」(昭33以降)「源氏物語より三題」(昭40以降)を連続院展出品にみられる。海外渡航は、昭和18年海軍報道班員として南方トラック、ラバール等に二ヶ月従軍したほか、昭和37年には現代日本美術展を携へてソ連に招待され、約1ヶ月半同国各地を巡った。

徳岡神泉

没年月日:1972/06/09

日本画家徳岡神泉は、9日京都市右京区の清水病院で尿毒症、ジン不全のため死去した。享年76歳。本名時次郎。明治29年2月14日京都市上京区に生れ、高等小学校在学中竹内栖鳳の塾竹杖会に入った。高等小学卒業後、京都市立美術工芸学校に入学、更に大正3年京都市立絵画専門学校に入った。同6年同校を卒業したが、この頃芸術上の煩悶から妙心寺に参禅し、また富士山麓の辺りに逃避したりしている。この時期の作品に「狂女」がある。大正12年、関東大震災を機に京都に戻り、再び竹内栖鳳門下となった。同14年第6回帝展に「罌粟」を出品し初入選となり、翌年第7回帝展の「蓮池」が特選となり、以後官展を中心に発表をつづけ活躍する。その後、昭和4年第10回帝展「鯉」が特選になり、昭和5年には帝国美術院推薦(無鑑査)となった。昭和10年帝展改組に際して無鑑査指定となり、第2回文展では審査員をつとめた。昭和17年には栖鳳門下の丹丘会、一葱青会竹立会などを総合して第二竹杖会を結成した。戦後は、屡々日展審査員をつとめ、昭和26年前年度日展出品作「鯉」その他に対し第7回日本芸術院賞を受け、同28年には前年度「池」(日展作)に対し第4回毎日美術賞を受けた。昭和32年日本芸術院会員となり、41年には文化勲章を授領した。昭和47年6月9日逝去にあたり、叙位従三位を贈られた。神泉は、栖鳳塾に学び、京都の四條円山派の流れをくむ写生画派に出発している。したがって、初期の作品には刻明な写生を追った作品がみられるが、画面は次第に整理、簡略化され、無駄のない静ひつな装飾的画面にその特色を示すようになった。この間の主なものに「菖蒲」(昭和14年)「芋図」(昭和18年)などがある。戦後は、その静ひつな画面に、技法的にも精神的にも一段と深みを加え、一種独特の象徴的画風を確立するに至った。極めて単純化されたモチーフの中に、鑑者を吸い込ませる様な独特のマチエールで示された幽玄で奥深い画趣は近代日本画の中でも極めてユニークな傾向であった。しかも、京都の写生画派を、練達な筆技によって近代化した師竹内栖鳳の傾向とは全く対象的である点も興味深い。代表作-以上のほか、「流れ」「薄」「赤松」「枯葉」「苅田」「雨」「仔鹿」「すゝき」など。略年譜明29(1896) 2月14日京都市上京区に徳岡庄太郎 るいの次男として生れる。1902 明35 京都市上京区教業尋常小学校に入学。1906 明39 同校卒業、第一高等小学校に入学。1909 明42 土田麦僊の紹介で竹内栖鳳の塾、竹杖会にはいる。1910 明43 第一高等小学校を卒業、京都市立美術工芸学校絵画科に入学。1911 明44 市立美工1年校友会展に「海老」を出品、金牌受賞。同校在学中、2年校友会展に「杉に軍鶏」、3年校友会展に「山の紅葉」を出品し、それぞれ銀牌を受けた。1914 大3 3月同校卒業、4月京都市立絵画専門学校へ進む。卒業制作の「寒汀」は銀牌を受賞し、学校へ買上げられた。1916 大5 在学作品「晩秋」を描く。1917 大6 3月第7期生として京都市立絵画専門学校を卒業。同期に宇田荻邨、小林観爾らが居た。卒業制作として「筒井筒」を描く。1918 大7 このころ芸術に対する煩悶から妙心寺内の寺々を転々と移り住み、また禅によって精神的な安静を得ようとした。1919 大8 ついに京都にいたたまれず、画材を求めて富士山麓地方に逃避する。同地において「狂女」を描く。1920 大9 深沢長三郎次女、政子と結婚。このころ「椿」「蓮」「芥子」などを制作。1922 大11 2月長女房子出生。1923 大12 秋、岩淵在住中の先輩近藤浩一路のすすめにより、関東大震災を期として京都に帰り、下鴨に居住する。再び栖鳳門下に入塾。1925 大14 10月第6回帝展に「罌粟」を出品、初入選。1926 大15昭1 5月第1回聖徳太子奉讃美術展に「椿図」を出品。10月第7回帝展に「蓮池」を出品、特選を受ける。1927 昭2 10月第8回帝展に「後苑雨後」を出品。1928 昭3 10月第9回帝展に「蕭条」を出品。京都市北区へ転居する。1929 昭4 6月パリ日本美術展に「暮秋」を出品。10月第10回帝展に「鯉」を出品、再び特選となる。1930 昭5 3月第2回聖徳太子奉讃美術展に「幽光」、7月ベルリン日本美術展出品公開展に「牡丹」、10月第11回帝展に「月明」を出品。帝国美術院推薦(無鑑査)となる。1932 昭7 10月第13回帝展に「蓮」を出品。1933 昭8 5月竹杖会第1回未公開研究会に「松」を出品、鳳賞を受ける。6月京都、佐藤梅軒画廊で最初の個展を開く。「梅」「緋桃」「桜」「紅蓮」「花菖蒲」「蓮池」「百合と竜胆」「鯉」「牡丹」「菊」「秋叢」「椿雪」の花鳥12ヶ月画幅に「松」(竹杖会)を加え、13点を出品。10月第14回帝展に「罌粟」を出品。1934 昭9 3月梥本一洋との二人展を大阪大丸に開き、「鶴」「早春」「紅梅小禽」「菊に鶉」など11点を出品。5月京都美術館美術展に「麦」を出品、京都市購入作品となる。10月第15回帝展に「鶏頭」を出品。1935 昭10 改組帝国美術院において無鑑査指定となる。3月大阪高島屋に第2回個展を開き、「桜」「花菖蒲」「松に小禽」「百合」「八仙花」「秋草に鶉」など19点を出品。東京府美術館10周年記念現代綜合展に「蓮」(第13回帝展)を出品。8月家族とともに静岡地方を旅行する。11月第1回青松会(大阪松坂屋主催)に「松」、井南居展に「夕映」、12月第1回三越日本画展に「桜」を出品。1936 昭11 京都市立美術工芸学校絵画科教論となる。4月第1回桐華会(大阪三越主催)に「竹」、7月奥村土牛、山口華楊、溝上遊亀との四作家展に「芥子」、第2回五葉会に「清秋」を出品。10月18日父庄太郎死去。11月文部省招待展の招待者となったが出品できなかった。第2回青松会に「冬野」、12月第2回三越日本画展に「初冬」を出回。1937 昭12 日本女子美術学校(長岡女子美術)日本画部教授となる。春虹会および九皐会に同人として新加入、また研究会を休止して親睦会となった竹杖会の後をうけて青木生沖、中田晃陽らとともに竹立会を結成、7月第1回展を開く。母るい死去する。3月第3回春虹会(三越主催)に「牡丹」、4月第3回九皐会(関尚美堂主催)に「緋鯉」、7月第1回竹立会に「南瓜」、11月第3回三越日本画展に「巴鴨」を出品。1938 昭13 第2回文展審査員をつとめる。3月第4回春虹会に「暮春」、5月第4回九皐会に「紫陽花」、東京会に「池畔」、7月第3回青丘会(高島屋主催)に「霜」を出品。1939 昭14 京都市立美術工芸学校絵画科教諭を辞任。2月奥村土牛、太田聴雨との三人展に「緋桃」「鳩」、3月第5回春虹会に「麦」、第4回青丘会に「春暁」、5月第5回九皐会に「斜陽」を出品。10月第3回新文展に「菖蒲」を出品、文部省購入作品となる。1940 昭15 3月第3回淙々会に「あじさい」、5月第6回九皐会に「筍」、6月第5回青丘会に「露」を出品。1941 昭16 4月第7回春虹会に「菜の花」、第6回青丘会に「牡丹」、9月仏印巡回展内示会に「盛夏」を出品。1942 昭17 竹内栖鳳門下の丹丘会、葱青会、竹立会などを総合して第二竹杖会を結成する。1943 昭18 5月第8回京都市美術展に「西瓜」を出品。審査員をつとめる。以後しばしば審査員となる。9月関西邦画展に「松」、10月第6回新文展に「芋図」を出品。1945 昭20 11月再開第1回京都市美術展に「伊予蜜柑」を出品。1946 昭21 3月初孫紀子出生。第2回日展審査員。以後しばしば審査員をつとめる。1947 昭22 5月第1回現代綜合美術展に「于瓢」、6月第3回京都市美術展に「于瓢」、10月第3回日展に「赤松」を出品。1948 昭23 4月第2回現代綜合美術展に「芥子」、6月第1回彩交会(三越主催)に「向日葵」を出品。1949 昭24 6月第2回彩交会に「筍」を出品。1950 昭25 6月第3回彩交会に「鯉」を出品。10月第6回日展に「鯉」を出品。文部省購入作品となる。1951 昭26 1月前年度の日展出品作「鯉」は第2回秀作美術展に選ばれる。また5月「鯉」その他の諸作に対し第7回芸術院賞を受ける。7月第4回彩交会に「芥子」、12月第1回成和会(兼素洞主催)に「柿」を出品。1952 昭27 3月坂本繁二郎、福田平八郎との草人社三人展に「畠」、6月第5回彩交会に「百合」、10月第8回日展に「池」を出品。この年の6月から10月までイタリアのヴェネツィアで開かれた第26回ビエンナーレ展に代表として選ばれ、「鯉」(第6回日展)、「畠」(草人社三人展)を送る。また12月国立近代美術館開館展「近代絵画の回顧と展望」に「菖蒲」(第3回新文展)、「鯉」(第6回日展)を出陳した。1953 昭28 1月前年度日展出品作「池」に対し第4回毎日美術賞を受ける。第4回選抜秀作展に「畠」を出品。3月第4回茜会(関尚美堂主催)に「三宝柑」を出品。4月京都市立美術大学講師となる。第2回成和会に「柳」、6月第6回彩交会に「松」を出品。また在外公館向けに「菖蒲」を描く。1954 昭29 1月第5回選抜秀作展に選ばれ「赤松」(第3回日展)、「鯉」(第6回日展)、「池」(第8回日展)、「柳」(第2回成和会)を特別出品。6月第7回彩交会に「菖蒲」、7月第1回爽竜会(弥生画廊主催)に「白百合」、10月第10回日展に「流れ」を出品。1955 昭30 2月国立近代美術館「19人の作家」展に「鯉」、「池」、「畠」、「柳」、「実る豆」(栗田九品庵展)を出陳。第3回成和会に「椿」、3月第1回燦光会(銀座松坂屋主催)に「菜の花」、5月蒼玄会(京都大丸主催)に「芍薬」、6月第8回彩交会に「牡丹」、10月第11回日展に「薄」を出品。1956 昭31 1月第7回選抜秀作展に「流れ」(第10回日展)を選ばれたが都合により不出品。第16回半弓会(大阪阪急主催)に「椿」、2月第2回爽竜会に「椿」、4月第9回彩交会に「梅」、6月第7回茜会に「鯉」、7月第2回燦光会に「加茂茄子」、9月第5回蒼玄会に「菊」、10月第1回日展に「赤松」を出品。1957 昭32 1月第8回選抜秀作展に「薄」(第11回日展)を出品。2月芸術院会員となる。4月第10回彩交会に「こがも」、5月第5回皐月会(高島屋主催)に「桜」、6月第3回爽竜会に「桔梗」、7月第8回竹杖会(京都大丸主催)に「菊」、11月第1回高樹会(中央公論画廊主催)に「ばら」、12月第5回成和会に「慈姑」、第6回蒼玄会に「菊」を出品。1958 昭33 1月第9回選抜秀作展に「赤松」(第12回日展)を出品。2月高島屋美術部五十年記念展に「玉梅」、第18回半弓会に「水仙」、4月第11回彩交会に「チューリップ」、5月第6回皐月会に「松」、6月第10回清流会(兼素洞主催)に「筍」、7月第9回竹杖会に「柿」、尚美展に「菖蒲」、11月第1回新日展に「枯葉」、第2会高樹会に「柿」、12月第7回蒼玄会に「柚子」、第6回百二会(兼素洞主催)に「蕪」を出品。1959 昭34 1月第10回選抜秀作展に「筍」(第10回清流会)を出品。3月第6回成和会に「林檎」、5月第7回皐月会に「虞美人草」、第12回彩交会に「錦鯉」、7月第11回清流会に「石」、12月第4回爽竜会に「菊」、第8回蒼玄会に「海老」を出品。1960 昭35 京都文化保護法施行十周年記念式に文化功労者として表彰さる。1月第11回選抜秀作展に「枯葉」(第1回新日展)を出品。3月第1回好日会(大阪高島屋主催)に「赤蕪」、6月尚美展に「山つつじ」、7月第12回清流会に「紫陽花」、第13回彩交会に「加茂茄子」、11月第3回新日展に「刈田」を出品。1961 昭36 3月第2回好日会に「椿」、6月第5回爽竜会に「菖蒲」、第14回彩交会に「鳥」、7月第13回清流会に「鯉」、9月日本観光美術展に「青林檎」、11月第4回新日展に「仔鹿」、12月第7回百二会に「桃」を出品。1962 昭37 1月第13回選抜秀作展に「苅田」(第3回新日展)を出品。3月第3回好日会に「チューリップ」、5月第10回皐月会に「菖蒲」、第22回半弓会に「つつじ」、6月第14回清流会に「鷹」、7月第15回彩交会に「紫陽花」、11月第6回高樹会に「桃」、12月第11回蒼玄会に「梅」を出品。1963 昭38 2月第6回爽竜会に「水仙」、3月第12回五都展に「鴨」、4月第4回好日会に「レモン」、5月第1回新椿会(資生堂主催)に「静物」、小林一哉堂展に「青い池」、6月第15回清流会に「木の間」、和光展に「熊笹」、7月第16回彩交会に「豆」を出品。(昭和38年徳岡神泉展目録より転載)

加藤栄三

没年月日:1972/05/24

日本画家加藤栄三は、5月24日朝自庭のかしわの木にひもをかけ自らの命を絶った。同じ月の中旬には、日本橋三越で作品展をひらいて好評だったりしたが、新聞各紙には仕事の行きずまり故のことと報じられた。享年65歳。本名栄三。明治39年9月日岐阜市に生れ、岐阜商業学校に学び、昭和6年東京美術学校日本画科を卒業した。在学中帝展第10回展に「夏日小景」が初入選し、卒業後は結城素明に就き、昭和11年新文展(鑑査)に「薄暮」を出品し、文部大臣賞となった。昭和14年第3回文展「月夜」が特選となり、昭和16年には無鑑査となった。また、昭和18年には海軍報導班員としてセレベス、ジャワ等南方に派遣され、同年11月海軍作戦記録画「設営隊」を完成した。戦後は、東京、京都の日本画家が集って創立された創造美術の創立会員となった。同会は、日本画壇に新風をおくるものとして注目されたが、彼は同25年同じく創立会員の橋本明治とともに創造美術を脱退し、翌年橋本明治と日本橋高島屋に「二人展」を開き、「鮎・夕揺」その他を出品した。またこの年秋、日展に復帰し、「草炎」を出品した。同27年第8回日展では審査員となり、「沼のある風景」を出品した。昭和33年第1回日展出品作「空」は、同年の日本芸術院賞となった。彼は官展のほか、昭和6年3月東京美術学校日本画科卒業の同期生である東山魁夷、橋本明治らとの六窓会展或いは街の展観にも作品を発表して活躍していた。略歴明治39年9月20日 岐阜市に生れる。昭和4年 「夏日小景」第10回帝展初入選。昭和6年 東京美術学校日本画科卒業。昭和11年 「薄暮」新文展(文部大臣賞)昭和14年 「月夜」3回文展(特選)昭和16年 文展無鑑査となる。昭和18年 海軍報道班員として南方セレベス、ジャワに派遣され、海軍作戦記録画「設営隊」を制作。昭和22年 「谿音」第3回日展出品。12月創造美術同人。昭和23年 「月響」第1回創造展。昭和24年 「高原」第2回創造展。昭和25年 「裸婦」第3回創造展。 「風光る」第2回春季創造展。昭和26年 「二人展」日本橋高島屋、橋本明治とともに開催、「鮎・夕揺」その他作品 日展に復帰「草炎」出品。昭和27年 第8回日展審査員「沼のある風景」出品。昭和28年 第9回日展審査員「磐梯」出品。「もくれん」六窓会「春の雪」第1回青羊会。昭和32年 「加藤栄三スケッチ展」銀座松屋デッサンシリーズ。新作個展を兼素洞に開く。昭和33年 第1回日展「空」日本芸術院賞となる。昭和34年 郷里岐阜にて自選展を開く。昭和35年 鎌倉近代美術館にて小山敬三・加藤栄三自選展を開く。昭和41年 第9回日展審査員「飛天」出品。昭和42年 欧洲巡遊。昭和43年 「イタリアの旅スケッチ展」銀座松屋 12月、印度、ネパールの旅に出る。昭和44年 改組第1回日展「刻」出品。昭和45年 第2回日展審査員「飛弾」出品。昭和46年 「流離の灯」第3回日展。 「明けゆく富士」第1回松籟会(銀座松屋)昭和47年 5月「日本の祭展」日本橋三越に開く。 5月24日 逝去。

伊東深水

没年月日:1972/05/08

日本画家伊東深水は、5月8日ぼうこうガンのため東京信濃町の慶応病院で死去した。享年74才。本名伊東一。明治31年2月4日東京深川に生れ、深川小学校を二年で修業、日暮里小学校に転じ、尋常科3年で退学した。明治41年11才の時東京印刷活版部へ職工として入り、同44年には同所意匠部に転じ、この春鏑木清方に師事した。又この頃から実業補習夜学校に入学し、中等科の過程を修了している。当時、父の事業失敗から極度に生活貧窮し、昼の勤務後、夜学に通い、夜中絵を描くという酷しい日課が繰りかえされたという。この頃のことについては雑誌「塔影」(12-8号)にくわしく記されているが、恵まれた天分に加えて大変な努力家であったことが分る。入門の翌年、日常目にるれる労働者の父娘を描いた「のどか」を巽画会に出品し、初入選となり、画壇への出発となった。翌年の巽画会では、「無花果の蔭」で一等褒状となり、翌3年には再興日本美術院第1回展に「桟敷の女」、大正4年には第9回文展に「十六の女」など、あどけない女性を描いて出品している。同5年の再興美術院第3回展に大島で取材の「乳しぼる家」が入選したが、この頃から大正末年にかけては、専ら新聞雑誌の挿絵、口絵版画等の仕事に携わり、展覧会への出品はみられない。当時時刻自摺を主張する創作版画運動に対して、渡辺庄三郎を版元とする所謂新版画つくり出され、橋口五葉、川瀬巴水らと明快で情緒ある魅力的版画の数々をつくり、別の流れを形成した。深水の木版画における足跡は大きく、戦後も特大判の木版画を製作していて、浮世絵版画の系統をひく木版画界にあっても、貴重な存在であった。大正11年平和博覧会出品の「指」、同13年清方塾展出品の「湯気」は、若き夫人をモデルにしたものいわれる。色白で豊かな姿態の新妻を情感あるれる趣に表現したもので、大いに評判となった。後年のいわゆる深水式美人画は、一般的にこの作品によって方向づけられたといわれるが、5年頃の版画作品には、すでに明快な深水風の表現がみられる。昭和になってからは、第8回帝展「羽子の音」で特選、翌年「雪の夜」で無鑑査となり、昭和8年第14回帝展では審査員となった。以来、屡々審査員をつとめ、また毎年大作を発表したが、戦後は日展を中心に活躍している。昭和21年第2回日展「銀河祭り」、翌3回展「鏡」は古典的主題で、現代風俗の多い作域の中で珍しい傾向を示したが、後者は日本芸術院賞(昭和22年度)となった。昭和33年日本芸術院会員となった。彼は、主たる発表の場である官展のほか、昭和5年には朗峯画塾を主催し後進の育成にあたり、毎年展覧会を催した。また同15年には清方の同門である山川秀峰と青衿会をおこし人物画の発展につとめた。しかし戦後は、青衿会と児玉希望の画塾である国風会とが発展的解消を遂げ、両者併せて新らたに日月社が結成され、その顧問となっている。これらのほか、個展も多く催され、街の展観にも応ずるなど、極めて精力的活動振りで、したがって作品の数もすこぶる多い。深水は、一般に美人画家と目されるが、前にも述べた通り、はじめは社会の下層階級に注目した労働者、乞食、新聞配達などを対象として秀れた作品をのこし、また木版画での足跡も大きく、肖像画や、各時代を反映した風俗画にも意欲を示している。また歴史的、古典的作柄もあって、その幅は至って広汎であるといえよう。制作の中心をなしたいわゆる深水風美人画は、豊かな色感と確かな線描によって明快な画面が示される。一般に分りやすく通俗視される傾向はいなめないが、近代的美人画様式を創出し、つねにそこに安んじなかった姿勢こそ、もっと評価されてしかるべきであろう。伊東深水作品年譜明治45年 巽画会第12回展「のどか」初入選大正2年 同第13回展「無花果の蔭」1等褒状大正3年 再興日本美術院第1回展「桟敷の女」入選大正4年 巽画会第15回展「黒いマントの女」1等褒状大正4年 文展第9回「十六の女」入選大正5年 院展第3回「乳しぼる家」之より六年間は挿絵に専念、研究に没頭す大正11年 平和博覧会展「指」出品2等賞銀牌大正13年 帝展第5回「おしろい」二曲一双。 清方塾展「湯気」大正14年 清方第6回「昼さがり」二幅対大正15年 清方第7回「女五人」六曲屏風半双。日本画会展「梅雨の頃」昭和2年 帝展第8回「羽子の音」特選昭和3年 帝展第9回「雪の夜」無鑑査昭和4年 帝展第10回「秋晴れ」特選首席、「推薦」となり爾来無鑑査昭和5年 朗峯画塾展第1回「爪」昭和5年 帝展第11回「浄晨」無鑑査昭和6年 朗峯画塾第2回展「朧」昭和6年 帝展第12回「露」出品昭和7年 日本画会展「雪の宵」二曲半双 朗峯画塾第3回展「小雨」 青々会第1回展「獅子」「暮方」 帝展第13回「寂照」審査員昭和8年 青々会第2回展「梅雨」「芸者」「雪」 帝展第14回審査員となる。「海女躍る」出品昭和9年 青々会第3回展「麗日」 朗峯画塾第4回展「細雨」「通り雨」 帝展第15回「鏡獅子」昭和10年 青々会第4回展「日照雨」二曲半双 朗峯画塾第5回展「秋光」反照 6月第1回個展を開く昭和11年 朗峯画塾第6回展「きさらぎ」昭和12年 5月第2回個展を開く昭和13年 新文展第2回「牛と子供」昭和14年 同第3回「清秋」昭和15年 紀元二千六百年記念奉祝展「朝」昭和15年 青衿会第1回展「玄武湖畔残照」四幅対昭和16年 新文展第4回「現代婦女図」審査員 青衿会第1回展「若水」昭和17年 新文展第5回「海風」審査員 青衿第3回展「現代婦女図」二曲一双昭和18年 南方戦域を視察、9月スケッチ展を開く 青衿会第4回展「白梅」 新文展第6回「南方収獲図」審査員昭和19年 文部省戦時特別美術展「薙刀」 青衿会第5回展「南方収獲」昭和21年 青衿会美人画展「鏡獅子」「春の雪」 朝日新聞現代美術展「夜長」 日展第2回「銀河祭り」昭和22年 朝日現代美術展「矢車草」 日展第3回「鏡」芸術院賞となる。 霜月会第1回展「吹雪」 青衿会第7回展「惜春」「黒髪」昭和23年 信濃風景画個人展を三越にて開く 再興美術協会第1回展「矢車草」 日展第4回「朝顔と少女」審査員 霜月会第2回展「隅田川」昭和24年 青衿会第9回展「髪」 美協展第2回「通り雨」 日展第5回「舞」審査員、六曲一双 霜月会第3回展「かるた」昭和25年 五月日展運営会参事となる 児玉希望塾と合併日月社を結成顧問となる 第1回展「姉弟」二曲半双出品 美協展第3回「初夏の花」 日展第6回「聞香」 霜月会第4回展「伽羅」昭和26年 日月社展第2回「清方先生」 美協展第4回「セーラー服の少女」 国際美術振興会サンパウロ展「黒髪」 日展第7回「蓮の花」審査員 霜月会第5回展「狐火」昭和27年 日月社展第3回「南の国」 日展第8回「夢多き頃」 霜月会第6回展「帯」 深水個展(兼素洞)「舞」「春」「雪」「黄衣」「鏡」「無題」昭和28年 日月社展第四回「N氏夫人像」 美協展第6回「無題」 日展第9回「寿陽公主」審査員 新作額装展(兼素洞)「絳衣」昭和29年 日月社第5回展「若葉の頃」 美協展第7回「卯の花」 毎日新聞現代日本美術展「リラの花」 風俗画展「春宵」外3点、日展「藕花」昭和30年 日月社第6回展「イヤリング」「戸外は春雨」 日展第10回「宋磁」昭和31年 日月社第7回展「赤と白A・B」「黒いドレス」 日展第11回「古典の人々」昭和32年 伊藤深水名品展(白木屋東京新聞社主催) 伊藤深水スケッチ展(銀座、松屋朝日新聞社主催) 日月社小品展「ロングヘヤー」 清方、深水名作美人画展(大阪、近鉄百貨店大阪読売新聞社主催) 第4回日本国際美術展「清水」 日月社第8回展「萩江寿友寿像」 小唄絵小品展「銀座、松屋」 デッサン展(大阪、阪急百貨店) 第3回新作展(兼素洞)「踊子」「聞香」「婦人像(赤い手袋)」「玉紫陽花」「静物」「唐俑」「爽秋」 第13回日展「ペルシャ猫」審査員昭和33年 伊東深水展(鎌倉近代美術館)作品37点、スケッチ24点出品 5月 日本芸術院会員となる 日月社第9回展「黒髪」「花吹雪」「静坐」昭和34年 2月 欧米旅行スケッチ展、欧米旅行作品展(日本橋、三越)開催 3月 伊東深水、堅山南風二人展(上野、松坂屋)「湯気」「銀屏風」「異国の鉢と卓布」 第5回日本国際美術展「初夏」 日月社第10回展「古の壷」 「小唄に因む新作画展」(銀座、松屋)「春風そよそよ」「竹の葉に」「夜ざくら」など21点発表 11月 第2回新日展「愚痴」昭和35年 日月社第11回展「酔燕台翁」 第3回新日展「祇王寺の秋」審査員昭和36年 4月 「ペルシャ陶器を描く個展」(兼素洞) 5月 第6回日本国際美術展「暮雪」 7月 日月社第12回展「姿見」(日月社はこの展覧会を最後に解散した。) 11月 第4回新日展に「葵の上(地唄舞)」昭和37年 第13回秀作美術展「祇王寺の秋」 4月 「画道50年記念伊東深水展」(日本橋、三越 朝日新聞社主催)開催される。自選代表作80余点出品。昭和38年 2月 「伊東深水展」(大阪、大丸)開催。 5月 第7回日本国際美術展「ペルシャの壷と椿 6月 「伊東深水自選展」(福岡市、岩田屋百貨店 朝日新聞社主催)開催。 10月 「伊東深水、万燿父子展」(横浜、高島屋)開催。 11月 第6回新日展「ハワイ諸島の娘等」昭和39年 1月 「旅行記念展」(日本橋、三越)開催。 5月 第6回現代日本美術展「女性像」 11月 第7回新日展「バリ島の舞姫」昭和40年 3月 「インドネシア旅行展」(日本橋、三越)開催。「バリ島風景」「魚市場」「ジャカルタ市長の家」「バンドン郊外」などスケッチとその制作8点を発表。 6月 「深水画塾50周年人物画展」(日本橋、三越)「スカルノ・デウィ夫人」出品。 11月 第8回新日展「娘道成寺を踊る吾妻徳穂」昭和41年 5月 「異国の陶器による作品展」(兼素洞)開催。「ペルシャの壷に椿」「ペルシャ陶器と宋胡録」「高麗瓶に牡丹」「李朝の花器に梅」「桜と碧青釉浮彫唐葉文把手付水差」「唐三彩の香炉と芍薬」「ペルシャ碧青釉文花瓶と海棠」発表。 6月 伊東深水画塾人物画展(日本橋、三越)「吉野太夫」 11月 第9回新日展「菊を活ける勅使河原霞」審査員昭和42年 1月 美人画と風景版画にみる伊東深水展(新宿、伊勢丹 毎日新聞社主催)開催。美人画15点、風景画3点、版画22点出品。「美人画小品展」(兼素洞)「舞妓」「御点前」「鏡の前」「鳥米」「追羽子」「置炬燵」「春宵」「春雪」昭和44年 3月 「美人画と写生による伊東深水小品展」(日本橋、高島屋)愛蔵の古陶磁写生20数点出品。 「伊東深水小品展」(横浜、野澤屋)開催。昭和45年 3月 「新作展」(日本橋、三越)を開催し、「浴後」「夜会巻」「舞妓」「伊勢桑名の暮雪」のほか「潮」「ぼけ」「干柿」「紅梅」「椿」など短冊10数点を出品。 (昭和47年伊東深水展目録参照)

鈴木朱雀

没年月日:1972/05/04

日本画家鈴木朱雀は、5月4日脳出血のため、東京武蔵野市の森本病院で死去した。享年80才。本名幸太郎。明治25年12月7日東京に生れ、野田九浦に師事し、川端画学校に学んだ。大正9年帝展第2回「吟鳥」が、初入選し、以後官展を舞台に作品を発表した。作品に「落日」(8回帝展)、「雨月物語(蛇性の淫)」(9回帝展)、「すてぎみ」(11回帝展)、「がらしゃ殿最後」(13回帝展)、「小泉八雲」(15回帝展)等がある。官展のほか、日本美術協会委員で煌土社にも発表し、またベルリン・オリムピック芸術競技にも参加して入賞している。戦後は日展委嘱としてあり、展覧会製作のほか武蔵野公会堂、「母子愛図」、武蔵野図書館「寛永競馬図」などがある。

東原方僊

没年月日:1972/03/28

日本画家東原方僊は、3月28日胃ガンのため死去した。享年85才、本名直太。明治19年3月4日岡山県邑久郡に生れ、同42年京都出て竹内栖鳳の門下となる。大正4年9回文展に「花林檎」(二曲一双)が初入選して以来、官展に数多く出品し、11回帝展では推薦となり、翌12回からは無鑑査となった。この間、国内、海外の展覧会に屡々出品し、また竹用画及び永平寺傘松閣、湊川神社格天井等の揮亳もある。作品は「鶏冠夜」(12回帝展)「白椿」(13回帝)「清秋」(14回帝)等花鳥画を得意とする。

鏑木清方

没年月日:1972/03/02

読み:カブラキキヨカタ  日本画家鏑木清方は、3月2日午後3時5分老衰のため鎌倉市の自宅で死去した。享年93才。本名健一。明治11年8月31日東京神田に、幕末の文人で毎日新聞社の前身である東京日々新聞の創設者であった條野採菊を父として生れた。明治24年14才の時、浮世絵の流れをくむ水野年方の門に入った。同27年「やまと新聞」に挿絵を執筆し、以後新聞諸雑誌に挿絵を描いて活躍した。明治34年には同志と烏合会を結成し、挿絵をはなれての制作に力をそゝぐ、この2回展には代表作の「一葉女史の墓」が発表された。同40年文展開設後は、挿絵界を退き専ら展覧界制作がつづけられる。文展では「鏡」(双幅)が初入選で褒状となり、以後殆ど毎年出品し、第11回「黒髪」が特選となった。帝展2回では委員となり、第8回の「築地明石町」では帝國美術院賞となった。昭和4年には帝國美術院会員、同12年帝国芸術院会員となり、戦後も日展を舞台に力作を発表して活躍し、29年文化勲章を受領した。官展のほか、明治期には烏合会があるが、大正6年には結城素明、吉川霊華、平福百穂、松岡映丘らと金鈴社を結成(大正11年解散)し、ここでの作品に「薄雪」、「雨月物語」等がある。そのほか街の展覧にも独特の小品が寄せられ、また流麗な筆になる随筆をよくし、自伝の「こしかたの記」「続こしかたの記」のほか「築地川」「褪春記」「銀砂子」等著書が多い。清方が永い生涯の間に描きつづけた作品の中には、「三遊亭円朝像」や「築地明石町」のような洗練された画面の立派な大作が幾つか数えられる。しかし、之らの制作にも増して、清方の本領を発揮したものは、「註文帳」「築地川連作」のような小品の中にこそあるように思える。明治のはじめ東京下町に生れた彼は、父親が劇評や人情本を書く仕事の関係から、江戸末期の所謂文化人との接しょくの機会が多く、多感な時期に洗練された江戸人の教養を深く身につけて行った。明治、大正、昭和と激しい時代の変転の中で、今は遠く忘れ去られた佳き時代の種々を、肌こまやかな筆に描きあらわして行ったのが清方の芸術であったといえよう。玄人の粋に流れず、上流の野暮にならない、江戸ッ子の好んだいわゆる粋人柄という言葉であらわす美人は清方以外の筆にはないもので、清方美人画の心酔者の多いのもうなずける。そのほか「鰯」「朝夕安居」など、江戸ッ子の洗練された暮し振りなどの風俗画も清方芸術の独壇場であったといえよう。略年譜西紀 年号 年令1878 明11 1 8月31日東京神田に生れる。本名健一。父條野伝平(号を採菊)は、山々亭有人と名乗った小説家で、明治5年東京日日新聞を創刊し、後、やまと新聞を創立、その社長として知られる。1885 18 8 京橋鉄砲州、鈴木小学校へ入学。京橋に住む。1886 19 9 10月、やまと新聞創刊。1889 22 12 神田東京英語学校へ入学。1891 24 14 7月水野年方に入門。1892 25 15 家庭の事情あって学校をやめ、画業に専心。1893 26 16 京橋大根河岸祭礼行灯に三遊亭円朝の「塩原多助」を年方及び弟子たちと共に執筆す。師より清方の画号を与えらる。鷺流の狂言を習い日本橋倶楽部で初舞台を踏む。一家と共に本郷に移る。1894 27 17 「やまと新聞」に挿絵を執筆。回覧雑誌「筆花抄」に三保の羽衣をかく。牛込の貸席、琴富貴にて開かれる書画研究会に出る。1895 28 18 この頃、脚気を患う。10月円朝と栃木、佐野、田沼へ78日の旅をする(初旅)。湯島新花町に住む、1896 29 19 「東北新聞」「九州日報」等地方新聞や諸雑誌に挿絵を執筆す。この頃久松町の寺尾という型紙屋にて浴衣図案をかく(二年でやめる)。友人と松島仙台に旅する。1897 30 20 第2回絵協(日本絵画協会)に「ひなた」を初出品。7月小説雑誌「新著月刊」に口絵を描く。尾崎紅葉を知る。1898 31 21 第5回絵協「暮れゆく沼」。1899 32 22 第7回絵協「かざしの花」。人民新聞社に入社し挿絵を執筆。「新著月刊」に小説口絵。1900 33 23 第8回絵協「霜どけ」「紫陽花」。第9回絵協「琵琶行」。五月「新小説」に口絵。1901 34 24 6月、鰭崎英朋、池田輝方、池田蕉園、大野静方、河合英忠、山中古洞、山村耕花その他同志と烏合会を組織す。烏合会「金色夜叉」「横笛」「散りゆく花」「雛市」。人民新聞社を退社。読売新聞社へ入社。この頃新聞(「読売」「報知」)雑誌単行本の挿絵を盛んにかく。一家再び木挽町に住む。夏、安田松廼舎氏宅にて泉鏡花と初対面し、これより鏡花と親しくす。1902 35 25 烏合会「一葉女史の墓」「田舎源氏の黄昏」。日本美術院で開かれた第13回絵画共進会へ「孤児院」。この頃梶田半古に啓発さる。以後。しばらく公開展へ出品せず、烏合会のみに出品す。3月、「文芸倶楽部」鏡花「三枚続」の口絵執筆。小杉天外「魔風恋風」の挿絵を梶田半古の代りに執筆。秋、読売新聞社を退社。1903 36 26 烏合会「廃園の幻」「廃駅の夕」。日本美術院「秋宵」。この年、都筑照と結婚。自宅を紫陽舎となづける。1904 37 27 烏合会「佃島の秋」「深沙大王」「葉山の御夢」。1905 38 28 烏合会「日高川」「寄宿舎の窓」「曲亭馬琴」。1906 39 29 烏合会「断崖」「朧駕篭」。父伝平死去。(72才)1907 40 30 烏合会「抱一」「老嬢」。東京勧業博覧会「嫁ぐ人」。第1回文展「曲亭馬琴」落選。浜町河岸に移る。1908 41 31 第1回玉成会「花吹雪」「落葉時雨」。烏合会「あけびとり」。1909 42 32 第3回文展「鏡」双幅。烏合会「抱一上人」三幅対。長女清子生れる。1910 43 33 第4回文展「女歌舞伎」六曲一双、三等賞首席(震災焼失)。第10回巽画会「八幡鐘」。ロンドン日英博「水上の花」。1911 44 34 第5回文展「朝顔と駅路の女」二曲一双。東京勧業博「お七と吉三郎」。巽画会「春宵」。次女泰子生れる。1912 45 35 第6回文展「紅雨荘」二曲一双、落選。(震災焼失)。巽画会「若き人々」二枚折一双。12月浜松河岸より本郷に移る。1913 大2 36 第7回文展「かろきつかれ」「野崎村」。 挿絵の執筆より肉筆画の方へ進む。この頃長女病身の為、家族四人で雑司ヶ谷に家を借り養生す。1914 3 37 第8回文展「墨田河舟遊」二等賞。大正博覧会「芝居のお七」。この頃、神経衰弱となり小田原にて静養す。箱根塔の沢温泉に浴す。1915 4 38 第9回文展「晴れゆく村雨」二等賞首席。(震災焼失)。この頃、鈴木春信に最も親しむ。1917 6 40 第11回文展「黒髪」四曲一双特第一席。 結城素明、吉川霊華、平福百穂、松岡映丘と金鈴社を起す。特に映丘と親しくす。第1回金鈴社「薄雪」。1918 7 41 第12回文展「ためさるる日」文展推薦となる。第3回金鈴社「遊女」二曲屏風。「早春」。1919 8 42 第4回金鈴社に梅蘭芳をえがいた「天女の舞」「悼花の歌」「絵草紙屋の店」。帝展審査員を任命さる。神奈川県金沢に遊心庵と名づけた控家を設け昭和13年まで時々静養に滞在。1920 9 43 第2回帝展「妖魚」。第5回金鈴社「晩凉」「道成寺」二曲屏風。「雪つむ宵」。郷土会「暮雲低迷」。祖母ふく死去(90才)。1921 10 44 第6回金鈴社「雨月物語」(妖蛇の巻八段)。「弁慶橋」「弁天山」。3月高島屋初個展「雪十題」(この中「三千歳」大正12年の震災にて焼失)。1922 11 45 第4回帝展「春の夜のうらみ」「権八と小紫」。郷土会「夜の梅」二曲屏風。金鈴社解散1923 12 46 二科会フランス展「採蓮」。郷土会「桜姫」。年方の未亡人、弟子達と計って、神田神社境内に記念の燈を建てる。本郷にて震災にあう。1924 13 47 高島屋個展「町駕篭」「粉雪」「濡鷺」「お仙の茶屋」「襟おしろい」。1925 14 48 第6回帝展「朝凉」。1926 15 49 「木場の春雨」。母ふみ死去(75才) この頃より牛込矢来に住む。1927 昭2 50 第8回帝展「築地明石町」帝国美術院賞郷土会「註文帳」12点。「浴後」。東京日日新聞挿絵「深川浅景」。1928 3 51 挿絵「濠端風景」。「長唄二十番」二十図。1929 4 52 イタリア展出品「道成寺」「鷺娘」「七夕」六曲一双。帝国美術院会員となる。12月静浦、修善寺、熱海を自動車にて7日の旅。1930 5 53 第11回帝展「三遊亭円朝像」。第1回七絃会「くろかみ」「滝野川観楓」。 ドイツ日本画展「水声」。聖徳太子奉讃展「大和路のある家」。「舞妓」「清元二十番」二十図。「新富町」「浜町川岸」。百穂、映丘の渡欧を送って2月20日東京を発ち家族と共に、自動車にて関西に初旅をす。1931 6 54 第2回七絃会「関の夕暮」「狐狗狸」「明鏡」。この秋より「初雁の御歌」の下書をする。1932 7 55 第3回七絃会「桜もみぢ」二曲一双。「聖徳記念絵画館壁画「初雁の御歌」。牛込の自宅を改築し、夜蕾亭と名づける。1933 8 56 第4回七絃会「目黒の柏莚」(戦災焼失)」。尚美会「夏の女客」「朗羅」御大礼記念献上屏風「讃春」。夏箱根小涌谷に保養す。1934 9 57 第15回帝展「妓女像」双幅(戦災焼失)。六潮会「にごり江」。第5回七絃会「鐘供養」「山茶花」。三越個展「おかる三態」「十種香」「三千歳」「助六」「梅王丸、桜丸」。第1回珊々会「祇園林の歌人」「うたひめ」「保名」「鏡獅子」。随筆集「銀砂子」「築地川」刊行。1935 10 58 第6回七絃会「初冬の花」。個展「明治風俗12ヶ月」(戦災焼失)。第2回珊々会「巣林子」。第1回踏青会「歌妓素描」。1936 11 59 改組第1回新帝展「慶喜恭順」。第7回七絃会「伽羅」。第2回踏青会「ほととぎす」。三越個展「隅田川に因む作」。挿絵倶楽部の顧問を引受ける。1937 12 60 第1回文展「鰯」。第8回七絃会「雪粉々」。「屠蘇」。芸術院会員。審査主任。随筆集「褪春記」刊行。1938 13 61 第9回七絃会「歌舞伎の始」。随筆集「芦の芽」「御濠端」刊行。秋、川越喜多院を訪れる。この頃東郊葛飾一帯に興味を惹かれる。1939 14 62 第3回文展「柳圃虫声」。第10回七絃会「お夏清十郎」「四季美人」。(由縁、宵宮、月影、淡雪の四幅対)。第5回珊々会「うき大尽」。1940 15 63 紀元2600年奉祝展「一葉」。個展「助六廓江戸桜」。1941 16 64 「富士詣」。「藤懸静也博士像」。1942 17 65 第12回七絃会「雪旦」。第6回珊々会「歌舞伎絵姿扇面八連作」。1943 18 66 第6回文展「阿竹大日如来」。第7回珊々会「築地川連作」画帳。第13回七絃会「菊佳節」。随筆集「柳小紋」。「連翹」刊行。1944 19 67 「高尾さんげ」。芸術院会員として陸海軍に「蕪」「蟹と童」をおくる。帝室技芸員となる。「清方随筆選集」刊行。戦争のため茅ヶ崎に疎開。1945 20 68 三浦謹之助博士八十の祝「三浦博士像」。東京の家戦災に罹る。静岡県御殿場に疎開。1946 21 69 第1回日展(日本美術展覧会)「春雪」。鎌倉市材木座に移る。東大入院。1947 22 70 珊々会「洋燈」。「静物小品15点、苦楽表紙」。1948 23 71 第4回日展「朝夕安居」。1949 24 72 第5回日展「先師の面影」。1950 25 73 第3回清流会「築地川春雨」。白寿会「雪見舟」。三越個展「八重垣姫」。「姫街道」「からかぜ」「大蘇芳年」。上野松坂屋にて朝日新聞社企画のもとに、「画業50年展」開催さる。代表作50点余。1951 26 74 第4回清流会「柳やおふじ」。白寿会「春宵怨」「春の浦曲」。1952 27 75 第5回清流会「夏ざしき」。五月会「大川の虹」。兼素洞展「吹雪」。柏風会「緑燈」。1953 28 76 第6回清流会「夏草」。白寿会「菊寿盃」。紫草会「白魚橋」。在外公館の為に「客室」製作す。十大家額装展(兼素洞)「吹雪」。1954 29 77 神奈川県立近代美術館にて回顧展開催さる。文化勲章を授けらる。鎌倉市新居に移る。1955 30 78 第7回清流会「朝顔」。白寿会「十一月の雨」。 1956 31 79 第8回清流会「道成寺道行」。白木屋にて毎日新聞社主催のもとに「清方名作展」開催さる。1957 32 80 薫風会「夏の武家屋敷」。9回清流会「遠い花火」「雨あがる」。「清方画集」刊行。1958 33 81 10回清流会「隅田川名所」(梅若塚)。1959 34 82 銀座松屋で朝日新聞社主催『清方下絵展』を開催。11回清流会「汐路のゆきかひ」出品。1960 35 83 浜奈寿会「金沢瀬戸の夕潮」出品。12回清流会「李の花影」。1961 36 84 随筆集「こしかたの記」(中央公論美術出版)刊行。1962 37 85 14回清流会「つゆのひととき」銀座松屋で『鏑木清方自選展』を開催。菅楯彦と共著「東京と大阪」(毎日新聞社)刊行。1963 38 86 15回清流会「棗の葉かげ」。1964 39 87 16回清流会「橋場真崎」。1965 40 88 横浜高島屋で『鏑木清方展』を開催。17回清流会「竹屋の渡」。1966 41 89 18回清流会「待乳雪景」。1967 42 90 19回清流会に「ままごと」を出品。随筆集「続こしかたの記」(中央公論美術出版)刊行。1968 43 91 20回清流会「牡丹の客」。1969 44 92 日本橋高島屋で個展『今様絵詞の会』を開催。21回清流会「笹団子」。1970 45 93 三越で個展『清方えがく心のふるさと-江戸十五題-』を開催。谷崎潤一郎著・鏑木清方挿絵「少年」(中央公論社)刊行。22回清流会「吹雪」。妻照死去。1971 46 94 銀座松屋で毎日新聞社主催『鏑木清方展』を開催。23回清流会「雪ころがし」。1972 47 95 3月2日 鎌倉雪ノ下にて没す。(鏑木清方画集・美術出版社、鏑木清方展-46年、目録参照)

野田九浦

没年月日:1971/11/02

日本画家野田九浦は、11月2日老衰により東京吉祥寺の森本病院で死去した。享年91才。本名道三。明治12年12月22日東京に生れた。はじめ寺崎広業に師事し、明治29年東京美術学校日本画科選科に入った。翌年之を退学し、白馬会研究所に入って洋画を学んだ。一方また日本美術院研究生として日本画にも精進した。明治40年第1回文展「辻説法」が二等賞となり、一躍有名となった。この年大阪朝日新聞に入社し、大阪画壇のためつくした。その頃、巽画会審査員をつづけ、また官展で屡々に受賞し、審査員となった。昭和22年帝国芸術院会員となり、翌23年金沢美術工芸大学教授となった。同24年日展運営会理事、同33年社団法人日展顧問となった。着実な大和絵風画風を現代に生かし、考証的歴史画を得意とした。略年譜明治12年 12月22日東京下谷上根岸に生る。明治16年 一家をあげ北海道函館に転居。明治22年頃、遊歴途上来函した南画家小西皆雲に就き、又北条玉洞経営の絵画専門学校に学び、又小学校卒業後函館商業学校へ入学した。明治28年 寺崎広業に伴われ上京、同画塾に入る。明治29年 東京美術学校日本画科選科に入る。明治30年 岡倉校長失脚騒動により同校を退学。明治31年 白馬会研究所で洋画を学ぶ。又日本美術院研究生となる。この頃正岡子規に就き俳句を習う。又渡欧の目的で仏国公使武宮田島大佐に仏語を学び、又暁星学校に通うなど仏語研究9ケ年に及んだ。明治32年 日本絵画協会共進会「王昌齢」明治40年 文展第1回「辻説法」(二等賞、文部省買上)。この年、滝精一の推挙で大阪朝日新聞社に入社し、夏目漱石の小説「坑夫」の挿絵を描き、また大阪画壇のためつくす。明治43年 第10回巽画会「天平美人」同展審査員。明治44年 第11回巽画会「天平美人」同展審査員。第5回文展「仏教東に来る」(褒状)明治45年 第12回巽画会審査員。大阪美術展を興す。大正2年 第13回巽画会審査員。第7回文展「天草四郎」(褒状)大正3年 第8回文展「梅妃楊貴妃」(褒状)大正4年 第9回文展「発願」(褒状)大正5年 大阪より帰京。大正6年 第11回文展「妙見詣」(六曲一双)(特選)大正7年 第12回文展「霊山縁起」(六曲一双)帝展無鑑審査となる。大正8年 第1回帝展「網場」(六曲一双)大正11年 第4回帝展「高原晴日」(六曲一双)大正13年 第5回帝展「金沙灘頭之美女」帝展委員となる。大正14年 第6回帝展審査員。昭和元年 第7回帝展審査員。昭和2年 第8回帝展審査員。昭和12年 第1回文展「一休禅師」昭和16年 第4回文展「武人武蔵」煌土社展「山荘における広業先生」昭和18年 第6回文展「鍛刀」昭和22年 帝国芸術院会員となる。第3回日展「猿簑選者」昭和24年 日展運営会常務理事となる。(~29年)昭和26年 第7回日展「獺祭書屋」金沢美術工芸大学教授となる。昭和28年 第9回日展「修道女」昭和29年 第10回日展「K氏愛猫」昭和30年 金沢美工大学退職。昭和33年 第1回新日展「晋其角」社団法人日展顧問となる。昭和34年 美術協会展「俑」。煌土社再興。昭和35年 煌土社展「藤三娘」昭和37年 第5回新日展「広業先生」昭和46年 11月2日午前零時45分死去。

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