本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





松林桂月

没年月日:1963/05/22

日本芸術院会員、帝室技芸員、日展顧問、文化勲章受章者松林桂月は、5月22日午後9時、東京信濃町の慶応病院で脳軟化症のため逝去した。享年87才。桂月は、明治9年8月18日、山口県に伊藤篤一の次男として生れた。本名篤。明治31年松林家を嗣いだ。これより前、明治26年上京して野口幽谷に師事した。はじめ日本美術協会、展に出品し、つづいて文展に出品して屡々受賞した。大正8年以来帝展審査員となり、昭和7年帝国美術院会員同12年帝国芸術院会員に推され、同19年帝室技芸員を、命ぜられた。同33年美術界につくした功績によって文化勲章を授与された。近代に於ける南宗画界の代表作家で、南宗画の振興につくした功績は大きかった。略年譜明治9年 山口県に生る。明治26年 上京して野口幽谷に師事す。明治29年 日本美術協会展に「菊花双鶏」を初出品、二等褒状を受く。明治30年 日本美術協会展に「怒濤健鵰」を出品、銅牌を受く。明治31年 松林家の養子縁組成り孝子(号雪貞)と結婚す。病気療養のため郷里荻に帰省。明治34年 再度上京警視庁医務局に奉職。麹町三番町に新居を営む。明治34年 東京南宗画会委員嘱託。警視庁を辞職し、土手三番町に転居。明治37年 米国セントルイズ万国博覧会に「菊に鶏」出品。明治39年 岩溪裳川に就き漢詩を学ぶ。明治40年 正派同志会に参加、文展不出品。明治41年 第2回文展に「遊鴨図」を出品。明治42年 東京市麻布長谷寺前に転居。第3回文展に「葡萄図」出品。明治43年 第4回文展「夏山浴雨」出品、褒状を受く。明治44年 日本美術協会展委員、日本画会評議員。第5回文展に「秋山晩晴」出品、3等賞を受く。大正元年 麻布笄町に転居。第6回文展に「寒汀」出品、3等賞を受く。同年 第3回東京勧業博覧会審査員となり、「秋塘真趣」を出品。第7回文展に「松林仙閣」出品、3等賞を受く。大正3年 日本美術協会展委員。第8回文展に「秋晴」出品、3等賞を受く。大正4年 日本美術協会展に「春溪」出品、金牌を受く。大正8年 帝国美術院創設され、第1回展より審査員となる。大正9年 平和記念展審査員。大正11年 第4回帝展審査主任。大正14年 世田谷区に転居。大正15年 聖徳太子奉讃展審査員となり、「潭上余春」を出品。中央公論社より「田能村竹田」を出版。昭和4年 朝鮮総督府美術展審査員。台湾総督府美術展審査員。第10回帝展に「長門峡」出品。昭和7年 帝国美術院会員となる。昭和8年 明治神宮絵画館壁画「鳥羽伏見戦争図」完成。昭和11年 「愛吾盧」成る。昭和12年 満州国第1回美術展審査員。帝国美術院会員となる。三越にて個展。昭和14年 紐育万国博覧会に「春宵花影」出品。昭和15年 紀元二千六百年奉祝展審査員となり、「秋樹林」を出品。昭和16年 第4回文展に「晩秋」出品。昭和17年 大東亜戦争美術展審査員。満州国美術使節として出張。昭和18年 大日本美術工芸資材統制会特別会員。第6回文展「秋郊」出品、政府買上となる。昭和19年 帝室技芸員を命ぜらる。昭和21年 文部省主催第1回日展審査主任。昭和22年 東京都美術館20周年記念展審査員。日中文化協会理事に推さる。昭和23年 日本美術協会理事長に推さる。東京都美術館顧問となる。横山大観、川合玉堂、上村松園野田九浦等と白寿会結成。昭和24年 日展運営会常任理事。第5回日展審査主任となり、「秋陰図」を出品。昭和25年 横山大観、川合玉堂、和田三造、佐藤朝山等と無名会を結成。日本芸術院会員選考委員となる。国立博物館主催「日本南画名作展」の選考委員となる。昭和26年 芸術院賞選定委員。第7回日展に「長門峡」出品。昭和27年 「桜雲洞詩鈔」出版。昭和29年 日展理事満期のため辞任。昭和32年 「桜雲堂画集」出版。昭和33年 文化勲章を授けらる。昭和34年 日本橋三越にて個展。昭和35年 日本南画院結成、会員に推さる。昭和36年 山口県荻市名誉市民に推さる。昭和37年 日本橋三越にて個展開催、「夏橙」「白梅紅梅」「池畔」等出品。南画振興のため後素会結成。紺綬褒章を受く。昭和38年 脳軟化症のため慶応病院にて逝去。

横田仙草

没年月日:1962/12/30

日本画家横田仙草は、12月30日病気のため死去した。享年67才。本名専三。明治28年10月17日東京市本所区に生れた。大正4年私立早稲田実業学校を卒業。初め五島耕畝、織田観潮に絵を学び、大正13年小林古径に師事した。以後、日本美術院研究員として同院の展覧会に出品し、昭和9年院友となった。作品は其他帝展、聖徳太子奉讃展、白御会、璞友会等に発表した。戦後は、昭和26年新興美術院の再興にあたり之に参加し会員となる。主な作品に「早春葡萄図」(院展第27回)、「叢」(新興美術展第1回)、「果樹枝伸長図」(新帝展)等がある。

渡辺聖空

没年月日:1962/12/18

日本画家渡辺聖空は12月18日脳溢血のため市川市の自宅で急逝した。享年69才。本名辰左右。明治26年3月12日岐阜県に生れた。名古屋商業を卒業後上京し、松林桂月に師事したが、後に門下を退き、新しい墨絵の技法の研究に向ひ、小杉放庵、小川芋銭、中川一政等と図り墨人会を結成した。墨人会は芋銭の没後休会したが、その後、更に古来の墨絵を研究、新しい手法を創り出し、新生面を求めて日本墨絵会を結成、その会長となった。昭和9年第1回個展を資生堂で開き、以後資生堂、文春ギャラリー、産経ホール等で14回個展を開いている。著書に「大虚画芸」と「墨絵の描き方」がある。

吉田登穀

没年月日:1962/07/16

日展評議員の日本画家吉田登穀は、第2国立病院に入院中であったが、7月16日死去した。18日世田谷区の自宅で天香画塾葬が行われた。享年79才。本名喜代二。明治16年12月1日千葉県に生れ、郷里村社日月神社の神職をつとめていた。絵は松林桂月に師事し、花鳥を専ら描き、日本美術協会、帝展、文展、日展等に発表した。大正9年第2回帝展に「あぢさい」が初入選し、昭和16年第5回文展で無鑑となった。また戦後は昭和21年の第2回日展「春深く」が特選となり、以後審査員を3回つとめた。主な作品に「春光」(回文展)「春深し」(2回日展)「山梨の花」(3回日展)等がある。

小川洗二

没年月日:1962/05/13

新興美術院理事小川洗二は、5月13日東京都渋谷区の自宅で、狭心症のため死去した。雅号倩葭。享年57才。明治38年3月15日茨城県稲敷郡に、日本画家小川芋銭の二男として生れた。日本美術院試作展、第2回聖徳太子奉讃美術展、茨城美術展等に作品を発表した。昭和3年東京美術学校図案科を卒業し、その後は専ら挿絵を描いた。昭和12年石井鶴三、木村荘八、中川一政、岩田専太郎等と挿絵倶楽部を設立した。昭和33年新興美術院会員となり、同36年には理事に推されている。

近藤浩一路

没年月日:1962/04/27

日展会員の日本画家近藤浩一路は、27日東京都港区の慈恵医大東京病院で脳出血のため死去した。享年78。本名浩。明治17年山梨県に生れ、同43年東京美術学校洋画科を卒業した。読売新聞社に入社し、一時漫画を描いて知られた。第4回文展に「京橋」、7回に「下京の夜」を出品した。のち日本画に転じ、大正8年第6回院展に「朝の日」、「夕の日」を出品し、同10年に日本美術院同人となった。翌11年フランスに留学し、西洋絵画を見学して水墨画の世界に入って行った。大正12年の第10回院展に発表した「鵜飼六題」は、彼が公表した最初の水墨画と言われるが、この作品により制作の方向を明示するとともに画壇的な位置を決定的にした。大正13年以来京都に移住し、昭和12年に及んだがこの間「京洛十題」「犬山夜漁」「桶狭間」「雨余晩駅」等の代表作を生み、独自の画風を確立した。昭和6年再渡欧し、カモエン街の私邸で個展を開き之を機縁にアンドレ、マルロオ等の交友がはじまった。またマルロオの斡旋によって翌7年にはN・R・F社の画廊で第2回個展を開き、多くの反響をよんだ。帰国後院展に作品を発表し中には昭和10年第22回院展出品「御水取八題」のように初期の佳作をはるかに凌駕するような力強い佳品もみられる。彼はその出品を最後に日本美術院を脱退し、間もなく京都から東京に帰った。その後は専ら個展によって作品を発表し、一時画壇の傍系的存在である観があったが、昭和34年日展会員になった。これよりさき昭和28年には、日本橋三越において「水墨30年回顧展覧会」が盛大に開かれ、大正12年頃より当時に至る50余点の作品が陳列された。彼は洋画に出発し、東洋の水墨画に光線をあたえて伝統を破った独自の画風を確立した。略年譜明治17年 山梨県に生れる。明治43年 東京美術学校洋画科卒業。黒田清輝、和田英作に学び、同窓に山脇信徳、岡本一平、池部釣、藤田嗣治等がいる。この年第4回文展に「京橋」(油彩)出品。大正2年 第7回文展に「下京の夜」(油彩)出品。大正4年 読売新聞社に入社し漫画を描く。大正8年 「朝の日」「夕の日」「霧」(日本画)を第6回院展に出品。大正10年 日本美術院同人に推される。大正11年 渡仏。大正12年 「鵜飼六題」(水墨)第10回院展出品。大正13年 京都移住。「京洛十題」第11回院展出品。昭和3年 「犬山夜漁」第15回院展出品。昭和4年 「桶狭間」(のち虹と改題)第16回院展出品。昭和6年 再渡仏。カモエン街の私邸で個展を開く。昭和7年 N・R・F社画廊で第2回個展開催。昭和10年 「御水取八題」第22回院展出品。昭和11年 (日本美術院脱退)。以後個展により発表。昭和13年 東京に転居。昭和28年 「水墨画回顧30年」展を日本橋三越に開催。この展覧会を機会に読売新聞社より画集刊行される。昭和34年 日展会員となる。昭和36年 かねて高血圧症のところ4月27日慈恵医大東京病院にて脳溢血のため死去した。

幸松春浦

没年月日:1962/03/06

日本画家幸松春浦は、3月6日死去した。享年61才。本名猪六。明治30年6月30日大分県大分市に生まれた。小室翠雲、姫島竹外に師事し、第2回帝展に初入選以来連年出品をつづけ、第7回、第8回では特選になった。昭和3年無鑑査となり、戦後日展には依嘱として出品した。中国、朝鮮等を巡迴し、主な作品に「秋思」「雪路」「老子」「旅愁」等がある。

北村明道

没年月日:1962/01/28

日本画家北村明道は1月28日、食道ガンのため逝去した。享年66才。本名延蔵。明治29年1月5日、群馬県高崎市に生れた。昭和2年第8回帝展に「御園生の春」が初入選となり、翌年第9回展に「あかつき置き」が入選、以後帝展、文展、戦後は日展に出品をつゞけていた。日月社の委員で、また郷里の群馬県美術運営委員などもつとめていた。中国に2回旅行し、歴史、風俗研究に興味をもっていた。代表作に日蓮上人一代絵巻がある。

井川洗厓

没年月日:1961/10/13

挿絵を描いて知られた井川洗厓は、10月13日神奈川県厚木に於いて死去した。享年86歳。明治9年5月1日岐阜市に生れ、明治25年大阪に出て、稲野年恒に師事し人物画を学び、後上京して富岡永洗に就いた。明治39年都新聞社に入り、挿絵を担当したのを初めとして、以後各雑誌の挿絵を執筆して、有名となった。昭和13年以後は、挿絵界を引退し、その後は専ら美人画を描いていた。

福永晴帆

没年月日:1961/01/12

日本画家福永晴帆は、1月12日老衰のため、鎌倉市の自宅で死去した。享年80歳。明治16年5月15日山口県厚狭郡に生れ、同30年京都に出て森寛斎に師事した。明治41年伊藤博文に随行し、朝鮮、北京、上海を巡遊、43年には香港より欧州に渡り、英国ヴィクトリア美術学校に学ぶ。其後巴里に在って水彩、油絵を学び、大正4年帰国した。その年東京下谷に居を定め、文展に日本画を出品し、入選している。その後昭和に入って内親王方に花島画を献上し、又依頼され、東京商工会議所会議室に「桜と菊花」を描き、また靖国神社、仁和寺、伊勢、橿原、熱田神宮等に襖絵がある。戦後は、24年より10年程日本橋高島屋に毎年個展を開いていた。

名取春仙

没年月日:1960/03/30

日本画家名取春仙は、3月30日東京青山の同家の菩提寺で妻繁子と共に自殺した。春仙は本名芳之助。明治19年東京市麻布区に生れた。中学時代から久保田米僊、金僊の司馬画塾に入門し、春僊と号した。仙は略字として用いた。明治30年代の作品には、「牧牛」(真美会・明治35)、「奈良の春」(丹青会・明治36)、「遮那王(牛若)」(日本画会・明治38)、「救世軍」(明治絵画協会・三等賞・明治40)などがある。結城素明、平福百穂に注目され新日本画運動に加わり旡声会に出品、「獅子と麟麟」「田舎の靴屋」など出品、また、「松助の顔」(43年)「韮山の太閤」(44年)もこの頃の作である。琅玕洞に度々出品し、やがて大観、観山に認められ日本美術院にも出品するようになった、また珊瑚会の創立にも加わり、「伊豆の春」「緑の裡の光」などがある。然し、大正8年頃から制作にも、生活にも懐疑的になり、余技であった劇画に逃避し、その後は演芸画報、その他新聞雑誌の口絵、挿絵に筆をすすめ、松坂屋、三越、伊勢丹などデパートに於ける劇画展、個展に屡々芝居絵を出品した。又、「大日本神典画巻」の制作にも着手している。挿絵には漱石の「三四郎」、藤村の「春」、長塚節の「土」の執筆があり、「金色夜叉画譜」(清美堂版)、「春仙似顔集」(渡辺版)その他一枚刷の版画制作も少くない。

今中素友

没年月日:1959/08/01

日本画家今中素友は、かねて入院療養中のところ、8月1日死去した。本名善蔵。別号に知章、草江軒がある。福岡市に生れ、郷里で上田鉄耕に数年間師事し、ついで川合玉堂の門に入つた。明治41年文展初入選以来、官展を主要なる発表の場として活躍した。 略年譜明治19年 1月10日福岡市に生れた。明治33年 4月草江高等小学校卒業。上田鉄耕画塾に入る。明治38年 上京、川合玉堂に師事。明治41年 「干潮の図」2回文展出品(初入選)大正3年 「蝦夷錦」8回文展出品。大正4年 「深山の夏」(六曲一双)褒状、9回文展出品、久米民之助邸能舞台観客席格天井四季草花極彩色揮毫。大正6年 南国の美(六曲一双)11回文展出品。浅野総一郎邸紅白梅桐戸揮毫。大正7年 「梅日和」(六曲一双)12回文展出品。大正9年 「鴨緑江図巻」2回帝展出品。大正12年 「紅白梅の図」(六曲一双)福岡市有志献上品。昭和2年 「霧晴るゝ谷間」8回帝展出品。昭和3年 「爽秋」(二曲半双)9回帝展出品。昭和5年 「春光」11回帝展出品。昭和6年 「雪旦」12回帝展出品。昭和8年 「時雨」14回帝展出品。無鑑査となる。昭和9年 「峡谷幽禽」15回帝展出品。昭和10年 雅叙園欄間、格天井四季草花極彩色揮毫。昭和17年 「彩鴛弄雪」(宮内省買上)5回文展出品。昭和19年 「佐久良」戦時特別展出品。昭和24年 「秋研」5回日展依嘱出品。昭和28年 「平和図(牡丹に孔雀)」揮毫。(福岡県宗像神社宮地岳神社奉納画)昭和29年 東京観世会館能舞台鏡板松竹揮毫。昭和34年 8月1日死去。

福田浩湖

没年月日:1959/05/19

南画院同人の福田浩湖は、5月19日直腸癌のため、お茶ノ水順天堂病院で逝去した。享年76歳。本名浩治。明治16年3月14日東京市本郷に生れた。明治31年佐竹永湖のもとに入門、南画家を志し、とくに文晁を研究した。入門の翌年から日本美術協会の展覧会には出品をつづけ、「夏山水」「四季山水」など、いくつかの受賞作がある。文展には、大正3年第8回展に「竹窓閑話」が入選したのが最初で、9回展の「幽溪積翠」は褒状をうけた。帝展は第7回展から殆ど毎回出品し、第15回展から無鑑査待遇となつた。この間、日本画会にも出品、また昭和2年日本南画院に入会、同5年に同人に推されたが、11年同会解散後は有志とともに南画連盟を組織して委員となつた。大戦後、昭和21年南画院を興し、南画の再興に努力し、また、日展の委員にあげられていたが、晩年は老令のため制作発表は少かつた。その他昭和16年大東南画院の創立にも加わり、翌年の同展に「水辺遅日」などを出品している。大正9年及び31年、昭和16年の3回にわたり中国に外遊、更に台湾、朝鮮など各地に旅行している。  作品略年譜 大正3年 第8回文展「竹窓閑話」大正4年 第9回文展「幽溪積翠」褒状大正5年 第10回文展「山居秋粧」大正6年 第11回文展「夏宵読書」「夏山雨意」大正8年 第1回帝展「秋溪仙隠」大正15年 第7回帝展「樵径」昭和2年 第8回帝展「外山夕暮」昭和3年 第9回帝展「吉野待花」昭和5年 第11回帝展「幽逕深秋」昭和6年 第12回帝展「九竜寺」昭和8年 第14回帝展「祇王寺」昭和9年 第15回帝展「秋雨ふる大虚寺」この年から無鑑査待遇となる。昭和12年 第1回文展「霊峯暁姿」昭和16年 第4回文展「山邨将雨」昭和18年 第5回文展「暁雨」

河村双舜

没年月日:1959/01/28

新興美術院会員河村双舜は、かねて入院療養中のところ、1月28日胃癌で死去した。本名良孝、明治40年6月19日東京に生れ、第16回再興院展に「緑野」が入選以来引続き院展に出品し、主な出品作に「朝顔」(17回展)、「緑庭」(19回展)、「椿」(30回展)、「翠映」(32回展)等があり、昭和33年には新興美術院に移り会員となつた。同年の作品に「人間」があるが、この制作を最後として翌34年逝去した。

赤松雲嶺

没年月日:1958/10/16

日展出品依嘱作家赤松雲嶺は10月16日敗血症で逝去した。享年62才。自宅は大阪市東住吉区。明治25年12月12日大阪市に生れた。本名好亮。明治32年大阪の南画家小山雲泉のもとに入門し、雲泉没後、45年さらに姫島竹外(昭和3没)につき南画を学んだ。大正4年第9回文展に「渓山清趣」(2曲1双)が初入選となり、そのご帝展の第5・8・9回をのぞき毎年官展に出品し、昭和5年第11回帝展から無鑑査待遇となつた。日本南画院同人で、また画塾墨雲社を主宰していた。戦後は、日展の出品依嘱者として昭和25年第6回日展に「香落湊」を出品している。主要作品に南画院出品の「惜春」(2曲1双)、帝展出品の「金風万籟」「木曾川」などがあり、他に大阪府から東久迩宮へ献上の「金剛山の図」、秩父宮へ献上の「高槻名所の図」、天皇神戸行幸の折、衝立に揮毫の「玉堂富貴の図」などがある。

大貫徹心(銕心)

没年月日:1958/08/11

日本画家、大貫徹心は(旧号銕心、本名、堅)は8月11日栃木県矢板の自宅で逝去した。享年63歳。明治25年1月13日栃木県塩谷郡に生れた。東京美術学校日本画科に学び、大正8年卒業、川合玉堂に師事していた。昭和2年第8回帝展に「和む里」が初入選となり、9回展「白樺の小径」、10回展「春の奥利根」11回展「霧降りの滝」とつづいて出品入選した。大和絵風の様式化を試み緻密な描写をみせていたが、昭和9年第15回帝展の「静日」あたりから写生をもとにした明るい近代風な描写に変つていつた。その後は昭和11年改組帝展(2月)「駅路の雪」、文展(10月)「山湖朝霧」、17年第5回文展「那須のつゆ時」などがあり、戦後の日展には昭和25年第6回展に「青巒」、第7回展に「馬事研究所」を出しているが晩年の制作発表は少なかつた。東台邦画会、下萌会の会員で、官展を作品発表の主な機関としていた。なお昭和32年7月以後の作品は徹心の号を用いた。

大智勝観

没年月日:1958/08/08

日本美術院同人大智勝観(本名恒一)は、数年来高血圧症で病臥中のところ、8月8目杉並区の自宅において、脳軟化症のため逝去した。勝観は明治15年1月1日愛媛県今治市に生れ、同35年東京美術学校日本画科を卒業、当時の1年志願兵として兵役に入り、歩兵少尉として日露戦役に従軍した。大正2年第7回文展に「雨の後」を出品し、3等賞を受領、翌大正3年には日本美術院再興第1回展に「聴幽」を出品し、そのカを認められて同人となつた。以後没するまで連年日本美術院に力作を発表し、長老格として重きをなし、また戦後は日展にも作品を送り参事をつとめた。なお昭和5年には伊太利において開催された日本画展覧会に参加する横山大観、平福百穂、松岡映丘、遠水御舟らの一行に加わり欧州を半年程漫遊し、この時の大観と共著の「渡伊スケッチ集」(昭和5年朝日新聞社発行)がある。作品は風景を主とし初期の頃は、大正期一般の風潮を反映した光をとり入れた自由な描法になる力作が多いが、次第に淡雅な様式化を帯びて、晩年に至つては更に緊密端正な傾向がみられる。略年譜明治15年 1月1日愛媛県今治市に生る明治35年 東京美術学校日本画科卒業明治37年 頃日露戦役従軍大正2年 第7回文展「雨の後」、3等賞大正3年 日本美術院同人、第1回院展「聴幽」大正4年 第2回院展「山色四趣」其1~其4大正5年 第3回院展「蛇ケ池」大正6年 第4回院展「桃の島」「わだつみの宮」大正7年 第5回院展「うしほ時」大正8年 第6回院展「秦准の夕」大正9年 第7回院展「夕に映ゆる山路」大正10年 第8回院展「雨に暮るる瀬戸」大正11年 第9回院展「幽窓」2月米国展国内展示会展「秋暮」「夕凪」大正12年 第10回院展「雨季四題」1白映、2夕映、3早映大正13年 第11回院展「盲来人」「閑庭」大正14年 第12回院展「人形の死」大正15年 第13回院展「窓外四題」(1良脊、2落雷、3晩秋、4雪夜)昭和3年 第15回院展「諦聴」昭和4年 第16回院展「梅雨あけ」昭和5年 8月朝日新聞杜より大観共著で「渡伊スケッチ集」出版昭和6年 第18回院展「惜春」昭和7年 第19回院展「一陽来復」昭和8年 第20回院展「爽涼」昭和9年 第21回院展「夕月」昭和11年 第23回院展「夕凪」「雪晨」昭和13年 第25回院展「縁蔭」昭和14年 第26回院展「立夏」昭和15年 第27回院展「皐月頃」昭和16年 第28回院展「暗香」昭和17年 第29回院展「小松の丘」昭和18年 第30回院展「乗鞍」「穂高」昭和22年 第32回院展「連山雨後」昭和23年 第33回院展「雪後」昭和24年 第34回院展「秋雨」昭和25年 第35回降展「爽涼」昭和27年 第37回院展「庭前宿雪」昭和28年 第38回院展「峠路」

水田竹圃

没年月日:1958/07/11

日本画家水田竹圃は7月11日心臓衰弱のため京大病院で逝去した。享年75才。本名忠治。別号満碧堂、積翠堂、水竹居、蟻池庵。自宅は京都市北区。明治16年2月14日大阪市に生れた。同30年大阪で姫島竹外の門に入つて南画を学び、また伊藤介夫に漢学の教えをうけた。大正元年第6回文展で「渓山滴翠」が初入選で褒状を受け、更に8回、9回展でも受賞し、同5年10回展では「早春」が特選となつて画壇に認められた。大正8年、京都に居を移し、同10年には河野秋邨らと日本南画院を創立した。日本南画院展には昭和10年解散するまて毎年出品し、帝展も大正15年第7回展に委員に推され、昭和12年以降の文展にかけて出品をつづけている。日展には第4回から出品依嘱者として作品を送つている。大正10年より画塾菁我会を主宰し南画の指導、興隆に尽力した。なお水田硯山は実弟、水田慶泉は長男である。主な作品は「普陀」「三峡」「秋声」「残照」「月光」など。作品略年譜大正元年 第6回文展「渓山滴翠」褒状大正3年 第8回文展「雲林清深」褒状大正4年 第9回文展「大華山実景」3等賞大正5年 第10回文展「早春」特選大正6年 第11回文展「秋山岑寂」無鑑査出品大正8年 第1回帝展「華岳仙隠」この後6回展迄出品なし大正10年 第1回南画院展「泰山」「牧羊」大正15年 第7回帝展「普陀」「三峡」帝展委員となる第5回南画院展「夏日湖畔」「夏」昭和4年 第10回帝展「絶墾飛泉」帝展審査員第8回南画院展「薬圃」「洞庭風雨」昭和6年 第12回帝展「千山一白」無鑑査第10回南画院展「水国秋雨」昭和7年 第13回帝展「澄秋」帝展審査員昭和12年 第1回文展「下賀茂春暁」無鑑査昭和13年 第2回文展「残照」無鑑査昭和14年 第3回文展「松轡暮靄」無鑑査昭和19年 戦時特別文展「高千穂峡」昭和23年 第4回日展「残雪在山」出品依嘱者として以後32年迄毎回出品昭和31年 第12回展「月光」

五島耕畝

没年月日:1958/06/11

日本画家五島耕畝は、6月11日新宿区の自宅で逝去した。享年76才。本名貞雄。明治15年4月3日茨城県に生れた。明治34年荒木寛畝のもとに入門し、36年には美術協会展で二等賞をうけ、翌年美術協会の会員となつた。つづいて美術協会、同研究会、或は美術研精会に出品して毎年連続して1~2等賞を受賞している。文展には2、5、8、9、10回展に出品し大正4年第9回展では「深山の秋」(6曲1双)が褒状となつた。帝展は第4回展から入選し、「桃」(第4回展)、「猫」(第5回展)、「長閑」(第7回展)などを経て、昭和4年第10回帝展で「池畔」を出品、5年第11回帝展から無鑑査待遇をうけた。帝展では「秋の裏園」(11回展)、「軍鶏」(15回展)などがある。いづれも、寛畝の系統をひく細密な花鳥画を特徴としている。昭和期の文展では17年第5回文展に★をかいた「後苑」などがあり、戦後、日展委員にもあげられたが、晩年は殆ど展覧会に作品を発表していない。

西山翠嶂

没年月日:1958/03/30

日本芸術院会員、京都美術大学名誉教授西山翠嶂は、3月30日心筋梗塞のため京都市東山区の自宅で逝去した。享年78歳。本名卯三郎。明治12年4月2日京都に生れた。若くして竹内栖鳳の門に入り、また京都市立美術工芸学校に日本画を修めた。明治30年代からすでに京都の諸展覧会で受賞をつづけたが、その名を広く認められたのは文展以後である。明治40年第1回文展に「広寒宮」を出品して3等賞を受けたのをはじめ、その後つづいて受賞或いは特選となつた。文展時代の作品には「採桑」「未★の女」「落梅」などがある。大正8年帝展の開設とともに審査員に選ばれ、昭和4年帝国美術院会員に推された。帝展時代の主なものには「春霞」「木槿」「乍晴乍陰」「くらべ馬」「牛買ひ」などがある。帝展改組後芸術院会員となり、新文展の審査員もつとめた。この時期のものに「雨餘」「洛北の秋」などがある。昭和19年帝室技芸員を命ぜられ、栖鳳なきあとは京都画壇だけでなく日本画壇の長老として重きをなした。終戦後もたゆまぬ制作をつづけ、日展などに「黒豹」「山羊と猿」などを発表した。また日展運営会理事、芸術院会員選考委員をつとめ、美術の発展につくした。彼はまたはやくから母校に教鞭をとり、大正8年には京都市立絵画専門学校教授となり、さらに昭和8年から11年までその校長をつとめた。また大正10年頃画塾青甲社を創立して堂本印象、中村大三郎、上村松篁など多くの門弟を育成した。かように、彼の活動は多方面にわたつたが、昭和32年生の功労によつて文化勲章を授けられた。 彼の作域は人物、花鳥、動物、風景にわたるが、その得意とするところは人物、動物で、京都伝統の円山、四条派の写生を根底として作風を展開した。そのはじめ彼は、歴史人物画が多いが、次第に抒情味にあふれる人物画に移り、晩年は動物画や山水に洗練された技法を示した。その随筆に「大朴無法」がある。略年譜明治12年 4月2日京都に生まれる。父政治郎、母さと明治26年 竹内栖鳳の門に入る明治27年 京都市工芸品展「箕面瀑布図」褒状、日本美術協会展「鷹狩図」3等明治28年 第4回内国勧業博覧会「富士川水禽図」褒状、日本青年絵画共進会「対風牡丹図」2等明治29年 大阪私立日本絵画共進会「対風牡丹図」2等明治30年 第1回全国絵画共進会「義光勇戦図」2等明治31年 この頃から旧淀藩士中島静甫について国漢を学ぶ。京都新古美術品展「秋口喚渡の図」1等明治32年 京都市立美術工芸学校卒業。全国絵画共進会「村童」3等、第2回全国絵画共進会「迦葉哄笑図」3等明治33年 京都新古美術品展「韓退之図」3等、後素青年会展展「悉多発心図」優等1席明治34年 京都新古美術品展「沙陽」3等、日本絵画協会(日本美術院聯合)第11回絵画共進会「狂女」明治35年 京都市立美術工芸学校に奉職。小谷とみ子と結婚。京都新古美術品展「緑陰」3等明治36年 第5回内国勧業博覧会「詰汾興魏図」3等明治37年 7月満州、朝鮮へ旅行。京都新古美術品展「祝戸開き」3等、楳嶺翁10周年追悼展「地蔵菩薩」明治38年 関雪、五雲等8名で水曜会を結成、機関誌「黎明」を刊行、継続4年明治40年 第1回文展「広寒宮」3等明治41年 第2回文展「軒迷開悟」褒状明治42年 京都市絵画専門学校助教諭。第3回文展「花見」3等明治43年 竹内栖鳳東本願寺天井絵制作に際し、土田麦侭と助手をつとむ大正1年 第6回文展「青田」3等大正2年 妻とみ没大正3年 第8回文展「採桑」3等大正4年 竹内貞子と再婚す。第9回文展「農夫」3等大正5年 第10回文展「未★の女」特選大正6年 第11回文展「短夜」特選大正7年 第12回文展「落梅」特選大正8年 京都市立絵画専門学校教授となる。第1回帝展審査員に選ばれ、以降第10回帝展に至る。第1回帝展「春霞」大正9年 平和記念美術展審査員となる。第2回帝展「秣」大正10年 私塾青甲杜を創立。第3回帝展「錦祥女」大正12年 大毎主催絵画展「木槿」大正14年 聖徳太子奉賛美術展「竹生島」大正15年 第7回帝展「夕」。青甲社展「唐崎」昭和2年 青甲社展「粛条」昭和3年 今上天皇御即位の大典に際し御下命画「春曙」、久迩宮家より御即位の大典に際し御下命画「月下群鴎」をえがく昭和4年 帝国美術院会員となる。パリ日本美術展「雪中白鷹」。第10回帝展「乍晴乍陰」昭和5年 青甲杜展「飢鴉」。ローマ日本絵画展「乍晴乍陰」昭和6年 青甲杜展「東山洛雨」、暹羅国展「漁楽」、米国トレード展「闘鶏」、伯林日本画展「飢鴉」昭和7年 第13回帝展「くらべ馬」昭和8年 京都市絵画専門学校、京都市美術工芸学校々長となる。大礼記念京都美術館評議員昭和9年 第15回帝展「牛買ひ」、珊々会「ゆく秋」昭和10年 珊々会「宿鳧」、献上画「天馬」昭和11年 京都市絵画専門学校、京都市美術工芸学校を辞す。新文展招待展「竹生島」昭和12年 帝国芸術院会員、第1回文展審査員となる昭和13年 文展審査員。青甲社展「雨餘」、京都市美術展「牡丹」昭和14年 第3回文展「馬」、珊々会展「釆腕」、紐育万国博覧会「雨餘」昭和15年 紀元2600年奉祝美術展委員となる。奉祝美術展「洛北の秋」、大毎奉祝展「薄暮」昭和16年 珊々会「霧の海」、海軍省に「日出づる処」を納める昭和18年 産業戦士贈画展「暁に薫る」、京都霊山護国神杜に「神駿」を納める昭和19年 帝室技芸員となる昭和21年 妻貞子没昭和23年 著書「大朴無法」刊行昭和25年 京都市立美術大学名誉教授となる。東京新築歌舞伎座壁画「松涛月明図」昭和26年 日展運営会理事となる。青甲社30周年展「黒豹」、白寿会「石榴」昭和27年 第8回日展「山羊と猿」、日活国際会館サロン壁画「牡丹」、京都南座緞帳「鶴翼演舞」昭和28年 日本芸術院会員選考委員となる(32年まで)日本美術協会第6回展「新夏」昭和29年 日本美術協会第7回展「緬羊」、東横展「芦の湖」、東京大丸開店展「暁に馥る」昭和30年 無名会展「葉牡丹」「緬羊」、薫風展「暮韻」、青甲社展「歌舞伎絵」、宮中御下命画「暁に薫る」昭和31年 日本芸術院会館建設日本芸術院会員展「枯葉」、成和会「馥郁」、無名会展「早春」、青甲社35周年展「静物」、日本美術協会展「三宝柑」昭和32年 文化勲章を授与さる。松坂屋画廊開き展「日暖」、東横展「雹霜」、薫風会展「花篭」、成和会展「狗子」、白寿会展「雄心」、北斗会展「新竹」、高島屋50周年記念展「猩々」昭和33年 5都美術家連盟展「富獄」、京都能楽堂壁画「東山春月」。京都歌舞練場の依嘱により「東山春宵」を執筆、未完に終る3月30日没す。正3位勲2等旭日重光章を授与さる。

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