本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





幸田春耕

没年月日:1976/12/16

日本画家幸田春耕は、12月16日心筋こうそくのため京都市の鞍馬口病院で死去した。享年79。本名賢。明治30(1897)年1月15日徳島県名西郡に生れ、大正8(1919)年山元春挙に師事した。昭和9年京都市立絵画専門学校卒業、官展に出品、帝展第9回「軍鶏」、第10回「群鶏」、第15回「睡蓮」などがあり、昭和16年第4回新文展「水禽」、昭和22(1947)年第3回日展「蓮池」、第3回「立木」があり、新日展第1回では「向日葵」、第3回「向日葵」、第4回「睡蓮」などがある。そのほか、紀元2600年奉祝展「蓮」がある。昭和49年無所属となったが、専ら花鳥画を描きつづけた。カトリック教徒。

川上拙以

没年月日:1976/12/03

日本画家川上拙以は、12月3日心筋こうそくのため京都の専売公社病院で死去した。享年75。本名昌薫。明治34(1901)年5月1日愛媛県新居郡に生れ、京都市立絵画専門学校を卒業した。西山翠嶂に師事し、第4回帝展に「淨瑠璃寺」(二曲屏風一隻)が初入選した。ついで第5回「平和」、第6回「浅春余情」、第8回「馬郎婦」、第11回「孟母」(二幅対)、第12回「青葡萄」、第13回「池畔」などがある。昭11年文展招待展には「清風聽声」を出品し、京都市展、大阪市展などにもそれぞれ委員、無鑑査等により出品している。戦後は、第6回日展(1950)に「浦上の廃堂」(出品依嘱)、第9回「姉妹」(出品依嘱)、第12回「斎座」(出品依嘱)などがあり、昭和33年改組後も第1回展(1958)「緑衣の女」(出品依嘱者)、第3回「赤い作業場」などの作品がある。以上のほか所属画塾の塾展青甲社展にも出品し、戦前は風景花鳥を得意としたが、戦後は人物画を多く描いた。

木村斯光

没年月日:1976/11/10

日本画家木村斯光は、11月10日心筋こうそくのため、京都市の鞍馬口病院で死去した。享年81。本名健吉。明治28(1895)年5月9日京都市に生れ、京都市立美術工芸学校、同絵画専門学校卒業。大正7(1918)年菊池契月に師事した。同10年第3回帝展に「春宵」が初入選し、以後連年入選をつゞけ、第10回展に「牟礼の義経」では特選となり、翌年には無鑑査出品となった。帝展末期の頃には病がちのため出品もなく、その状態が戦後28年までつゞいた。昭和29年第10回日展に「静謐」を出品、第12回展では依嘱出品として「薄暮」を出品した。新日展にも委嘱出品し、「イヤリング」(第1回)、「序ノ舞」(第3回)、「鼓」(第6回)、「応接間の女」(第10回)などがある。昭和44(1969)年日展改組後は出品を止めたが、同48年には「京の百景」(京都府主催)のために「時代祭」を描いている。また昭和26年から29年にわたり東京三越で個展を開催、同42年には悠采会を設立し、京都高島屋で展覧会を開き、10回に及んだ。作品は専ら人物画を描き、ことに美人画を得意とした。主要作に「立華」(第6回帝展、京都市美術館蔵)、「牟礼の義経」(第10回帝展)などがある。

池田幸太郎

没年月日:1976/08/16

日本画家、日本画府理事池田幸太郎は、8月16日老衰のため東京都世田谷区で死去した。享年81。明治28年(1895)3月28日佐賀郡に生まれ、大正2年佐賀中学卒業後上京し、川端画学校で結城素明の指導を受けた。大正10年東京美術学校日本画科卒業、在学中から同14年頃まで本郷洋画研究所に通い人体デッサンを続けた。同14年帝展に「染井釣堀の図」が初入選し、徳田秋声の推奨を受けるなど、昭和初期にかけて一連の東京風物を描いたが、昭和8年頃から官展出品をやめ、専ら独自の制作活動を行った。この間、外房他に毎年写生に出かけ風景画を多く残したほか、昭和38年には請われて日本画府に所属、理事として同展に出品を続けた。代表作に「咏子の座像」(1921年)「朝市」(1927)「隅田川」(1933)など。

茨木杉風

没年月日:1976/08/12

日本画家茨木杉風は、8月12日胃炎のため中野区の自宅で死去した。葬儀は新宿区信濃町の千日谷会堂で新興美術院葬をもって行われた。享年78。本名芳蔵。明治31(1898)年2月8日滋賀県近江八幡市の海産物問屋梅田屋茨木芳蔵の長男として生れ、八幡商業学校を卒業した。大正9(1920)年3月水墨画に新境地を展開した近藤浩一路に師事し、4月太平洋画会研究所に入学した。大正11年第9回院展に「八木節」が初入選し、昭和5(1930)年日本美術院院友となった。翌年2月渡欧し、エジプト、フランス、スペイン、イタリアなどを巡遊し、この年帰国した。昭和12(1937)年、日本美術院院友を辞して、同志10名、(茨木杉風、小林三季、小林巣居、鬼原素俊、芝垣興生、保尊良朔、吉田澄舟、内田青薫、田中案山子、森山麥笑)と、「自由拘束なき新興清新なる芸術を揚達する」目的をもって、あらたに公募団体新興美術院を創立した。以後、同院を主もな発表の場として制作活動をつづけた。戦時中は海軍報導班員として南方に派遣され、海軍記録画「潜水艦の出撃」を制作した。戦後は、戦争のため中絶していた新興美術院を同志8名(旧同人6名に他2名。)で再興、再興新興美術院第1回展を昭和26年6月東京都美術館に開催した。戦後も専らここを舞台に活動をつづけた。代表作に「近江八景」(6曲4双、1943)「南海驟雨」(6曲1双、1944)「しぶき」(4曲1双、1951)などがある。その作品はいづれも写生にもとづく水墨画で、郷里琵琶湖の風景を好んで描いたが、そのほかにも欧洲風物や、京洛風景など幅広く取材され、色彩をほどこした一種粘りのある筆致は、清雅な特有の作風を示した。略年譜明治31年(1898) 2月8日、近江八幡市、海産物問屋梅田屋茨木芳蔵の長男として生れる。大正9年 3月、近藤浩一路に師事。同年4月、太平洋画会研究所へ入学。大正11年 第9回院展「八木節」入選昭和5年 日本美術院院友となる。昭和6年 2月渡欧、エジプト、フランス、スペイン、イタリーを主に西欧美術研究、同年帰朝。昭和12年 日本美術院院友を辞して同志10名と公募団体新興美術院を創立、その会員となる。昭和13年 第1回展「漁村冬日」出品。昭和18年 第6回展「近江八景」6曲4双出品。昭和18年 6月1日、海軍報道班員として南方に派遣され、海軍省委嘱の記録画作成の写生をなし8月帰還す。昭和18年 11月末、海軍記録画「潜水艦の出撃」横6.9米、竪2.5米の大作を完成、海軍省納入。昭和19年 大東南宗院に「奥州平泉桜」(2曲1双)、「三千院の初夏」出品。海洋美術展に「南海驟雨」(6曲1双)出品。昭和20年 4月、郷里近江八幡に疎開す。11月、郷里に於て紙本小品個展開催。昭和21年 東京の画室、無事のため3月帰京す。5月、越後与板にて「与板十二景」完成。7月、三越にて同志と小品展を開催。昭和25年 10月、戦争のため中絶せる新興美術院を同志8名と再興、その創立会員となり、事務所を自宅に置く。昭和26年 6月、再興第1回新興美術展を東京都美術館にて開催、「しぶき」(4曲1双)出品。同年11月同院秋季展を銀座三越にて開催、「雪晨」出品。昭和28年 1月、朝日新聞社秀作美術展に「浅草」出品。昭和30年 12月、社団法人新興美術院の認可あり同法人理事となる。昭和45年 漱石文学全集(集英社)「我輩は猫である」(第1巻)の挿絵を描く。昭和51年 8月12日、自宅にて逝去。昭和51年 10月26日、日本橋三越本店に於て、個展を開催。

鳥居清忠〔8代目〕

没年月日:1976/07/13

日本画家で舞台美術、TVの分野にも活躍した鳥居清忠は、7月13日肺ガンのため神奈川県伊勢原市の東海大附属病院で死去した。享年75。明治33(1900)年11月21日鳥居派七代目宗家の家に生れ、大正3(1914)年立教中学を中退して小堀靹音に師事し、大和絵、有職故実を学んだ。翌年には言人と号し、絵の修業をする傍ら“演芸画報”などの挿絵や、芝居の絵番附などを描いた。大正7年(1918)芝居絵に関連する画だけにあきたらずして、鏑木清方に師事して、美人画を学んだ。昭和4(1929)年には鳥居派八代目を継承し、この頃より“言人版画”という美人画版画を数多く制作した。昭和10年号を清言と改め、専ら作画生活をつづけ、昭和27年美人画「髪」が第8回日展に入選した。昭和16(1941)年父七代目清忠死去により、昭和37(1962)年父の名跡をついで清忠と改名した。鳥居派は、抑揚ある線描、けばけばしい泥絵具、瓢箪のような足の形など独特の様式を具え、歌舞伎の絵看板などとは不離の関係にあって懐しいものだが、清忠のあと後継者がない。清忠のほか、戦争中から昭和45年の春まで歌舞伎の看板は、先代清忠の弟子鳥居忠雅がかいていた。昭和45年忠雅急逝し、清言が再び歌舞伎の看板をかくようになった。なお清忠は昭和41(1966)~47(1972)日本大学芸術学部演劇科の講師をつとめ、舞台美術について教えていた。

猪田青以

没年月日:1976/06/27

日本画家猪田青以は、6月27日食道ガンのため京都市の京都府立病院で死去した。享年70。本名安治郎。明治39(1906)年1月24日京都市に生れ、昭和2年(1927)京都市立絵画専門学校を卒業した。西村五雲に師事し、昭和13(1938)年五雲没後は、山口華楊によって継承された画塾晨鳥社幹部としてあり、官展に出品した。昭和6(1931)年第12回帝展に「閑日」が初入選以来入選を重ね、帝展ではそのほか第13回「晩春」、第14回「軍鶏」、第15回「閑」などの出品がある。新文展では昭和13年(1938)第2回文展「日午」、同15年紀元2600年奉祝展「神苑の花」第6回「闘魂」などがある。戦後の日展では昭和30(1955)年第11回「ウーダン」、第12回「白い花」、第13回「菱」ほかがあり、日春展にも第1回(1966)展「花咲くほてい草」(奨勵賞)ほか数多くの出品がみられ、第3回展「篠」では日春賞となり、第9回「川の畔」では外務省買上げとなった。そのほか関西における関西綜合美術展、日本画審査員、京都府総合日本画展、京展で受賞するなどの活躍がみられ、また川島浩との二人展(1961)、青以素描展(1966)なども開催している。

白井烟嵓

没年月日:1976/01/19

日本画家白井烟嵓は、1月19日肺ガンのため東京・世田谷の国立大蔵病院で死去した。享年81。本名白井龍。字瀧司。明治27(1894)年2月8日愛知県豊橋市に生れ、二松学舎を卒業した。大正6(1917)年南画家松林桂月に師事し、同9(1920)年第2回帝展に「幽栖」が初入選した。以後も帝展に出品をつづけ、第6回「山靈★雨」、第10回「秋林」、第14回「残★」、第15回「雨」、改組帝展「冰松」などがあり、新文展では第3回雨意」、第5回「松籟」などがある。戦後は日展に出品し、主もな作品として第2回「雨後」、第3回「山峡」、第4回「峡壁飛泉」、第5回「雲行雨施」(特選)があり、第6回では依嘱により「雪暮」を出品した。ついで第7回「蒼然暮色」、第8回「雪峰隔谷深」(白寿賞)、第10回「山湫雨余」、があり第11回「雨岫」以後依嘱出品になる。昭和33(1958)年社団法人日展となってから以後も委嘱出品として、第1回「一鳥不飛天地寒」、第2回「雨亦奇」、第3回「煙山晩鐘」、第4回「山雨将来」、第5回「浄池霜暁」、第6回「飛雪」、第7回「名号池」、第10回「竹林幽趣」、第11回(1968)「松」などの出品がある。またこの間、昭和15(1940)年には日本橋三越に、同32年及び35年には渋谷東横に個展を開催し、同36(1961)年第1回日本南画院出品「秀弧松」は文部大臣賞となった。官展のほか、日本画会、松子社展、日本南画院、後寿会、静賞会、南画院、日月社などにも出品した。画風は写生をもとに、古雅な風趣をもつ。なお青年時代(1918)外海家と養子縁組したが、のちこれを解消(1933)した。したがって帝展出品は外海烟巖とされるが、第14回展以降白井烟巖となり、新文展第3回展より、烟嵓を用いている。又渡辺崋山事蹟関係の功績により、豊橋市文化賞を受賞し、崋山出身地田原町名誉町民となる。

岡本萬三

没年月日:1975/12/29

日本画家岡本萬三は、12月29日結腸ガンのため京都市の河端病院で死去した。享年71歳。明治38年1月2日東京日本橋に生れ、はじめ松岡映丘の指導をうけた。その後、京都絵画専門学校を卒業し、池田遙邨画塾青塔社に所属した。主として日展を舞台に、風景画を得意とした。作品に「丹波路の家」(第2回日展)、「薄月夜」(第5回日展)、「山端村風景」(第10回日展)等がある。

幸田暁治

没年月日:1975/11/16

日本画家幸田暁治は、11月16日急性肺炎のため京都府立病院で死去した。享年満50歳。本名稔。大正14年10月27日京都市に生れ、京都市立美術工芸学校絵画科を経て、絵画専門学校を卒業した。昭和30年池田遙邨の画塾青塔社に入塾したが、同48年からは無所属となり、個展活動に入った。同氏は幼年期より病弱で、それが後年まで影響をのこし、戦後も闘病生活と、カソリック信仰の中での制作がつづけられた。作品は、昭和31年日展「鳶」が初入選以来同47年まで10数回入選し、また京展、日春展、青塔社展等でしばしば受賞している。そのほか多くの会での活躍がみられるが、昭和46年第1回山種美術館賞展では「収穫」が推選となっている。作品は、童女を中心とする人物画ユートピアの風景、擬人風な花、動物を通じて心象的日本画の新しい内面を探求する。作品略年譜昭和30年(1955) 「梟」(関西展賞・読売賞)関西展。昭和31年 「鳶」日展初入選。昭和32年 「駝鳥」日展。「えみう」(知事賞)青塔社展。昭和33年 「駱駝」(市長賞)京都市展。昭和34年 「駱駝」日展。「孔雀」(京都美術懇話会賞)京都市展。「象」朝日新人展推薦。昭和35年 「孔雀」日展。「禿こう」(市長賞)京都市展。幸田暁治・中町進二人展、土橋画廊。昭和36年 「七面鳥」日展。「棲息」朝日新人展推薦。昭和37年 「孔雀」日展。昭和38年 「水鳥」(第1回須田國太郎賞)。「猿」(市長賞)京都市展。昭和39年 「猿」日展。「狩猟」(市展賞)京都市展。昭和41年 「手長猿」昭和42年 「吾子」「禿こう」(奨励賞)日春展。昭和44年 「泉」日展。「笛」日春展。「とり」(京都府買上げ)京都府日本画総合展。昭和45年 「らくだ」日展。個展(花と子どもシリーズ)大阪西美会倶楽部。昭和46年 「白馬」日展。「収穫」(今日の日本画・第1回山種美術館賞展)。昭和47年 「向日葵」日展。「昇天」(市展賞)京都市展。昭和48年3月 青塔社を退きフリーとなる。昭和50年 「THE CROSS」第3回山種美術館賞展。幸田暁治展(馬上童女,踊り子,献果,騎士,夢,月光,天使の森,金童女,ばらなど約30点)論文に「わが師池田遙邨」(アート・トップ)「素朴の微笑」(アート)などがあり、そのほか散文詩、随想などがある。

郷倉千靭

没年月日:1975/10/25

日本画家郷倉千靭は、10月25日急性心不全のため、世田谷区の病院で死去した。享年83歳。本名与作。明治25年3月3日富山県射水郡に生れ、同43年富山県立工芸高校を卒業した。大正4年東京美術学校日本画科を卒業、翌5年アメリカに1年半留学した。大正9年第2回帝国美術院展に「雑草の丘」が初入選し、翌年日本美術院第8回展に「地上の春」が同展の初入選となった。同13年には日本美術院同人に推挙された。昭和7年帝国美術学校日本画教授、同11年多摩美術学校日本画教授となり、同41年まで同校の指導にあたった。昭和24年日展審査員となり、同35年第44回院展出品作「山霧」で日本芸術院賞を受賞、同47年には日本芸術院会員となった。また昭和35年印度に旅行し、京都東本願寺、大阪四天王寺壁画など、仏教美術も描いている。作品は、初めに後期印象派に憧れたが、のち日本の古典に傾倒、新しい日本画様式の創造に腐心する。穏健な中庸を得た写実を基盤に、洋風感覚味を大幅にとり入れ、氏独自のモダニズムを漂わす。 略年譜明治25年(1892) 3月3日富山県射水郡に生れる。明治43年 富山県立工芸学校卒業。大正4年 東京美術学校日本画科卒業。大正5年 米国留学。大正9年 「雑草の丘」第2回帝展初入選。大正10年 「地上の春」第8回院展初入選。大正12年 日本美術院同人となる。昭和5年 「鳥獣魚」第17回院展。昭和6年 「拾卵図」第18回院展。昭和7年 「生采諸相」第19回院展。帝国美術学校教授。昭和11年 「山の秋」第1回改組帝展。「月明」第23回院展。多摩美術学校教授。昭和12年 「麓の雪」第24回院展。昭和13年 「山の夜」(六曲一双)第25回院展。昭和14年 「渡り鳥」(其一、二)第26回院展。昭和15年 「湖」(雪二題)第27回院展。「白樺林」奉祝展。昭和16年 「山頂の春」第28回院展。昭和17年 「山の初霜」第29回院展。昭和18年 「五月雨」第30回院展。昭和19年 「凍朝」第31回院展。昭和22年 「野鼠」第32回院展。昭和23年 「牡丹」第33回院展。昭和24年 「朝風」「夕雲」第34回院展。日展審査員となる。昭和25年 「樹海の秋」第35回院展。昭和35年 日本芸術院賞受賞。印度に旅行。昭和36年 京都東本願寺・大谷婦人会館の壁画「釈迦父に会う図(2.7×13.6m)」を制作。昭和44年 大阪四天王寺壁画「仏教東漸」(玄奨三蔵)完成。昭和47年 日本芸術院会員となる。昭和48年 勲四等旭日中綬章受章。昭和50年(1975) 10月25日死去。

小島丹漾

没年月日:1975/09/27

日本画家小島丹漾は、9月27日脳血センのため、新潟市内の医療法人「佐潟荘」で死去した。享年73歳。 新潟市出身で、日本美術院には昭和14年「河原の夏」が初入選している。主として、故郷新潟の風物を主題に制作し、整理された線描の交錯する独自の様式を生み出していた。1917年以後殆ど毎年受賞し、晩年の好調な活動裡に世を去った。出品作品略年譜昭和13年 第23回院展 「夏日」昭和14年 第24回院展 「河原の夏」昭和20年 第30回院展 「初冬」昭和22年 第32回院展 「帰樵」昭和23年 第33回院展 「雪近し」昭和24年 第34回院展 「浅春」昭和26年 第36回院展 「春閑」昭和27年 第37回院展 「暮歳市」昭和29年 第39回院展 「雪の駅路」昭和30年 第40回院展 「町角」昭和31年 第41回院展 「河口暮色」昭和32年 第42回院展 「河口」(奨励賞 白寿賞)昭和33年 第43回院展 「白暮」昭和34年 第44回院展 「水源池」昭和35年 第45回院展 「漁港」昭和36年 第46回院展 「繋船」昭和37年 第47回院展 「夕」(北陸能生)昭和38年 第48回院展 「舗」(無鑑査・奨励賞・白寿賞・G賞)昭和39年 第49回院展 「雪国」(奨励賞・白寿賞・G賞)昭和40年 第50回院展 「待つ」(無鑑査)昭和41年 第51回院展 「妓帰る」(奨励賞・白寿賞・G賞)昭和42年 第52回院展 「凍」(吹雪)昭和43年 第53回院展 「浜」(無鑑査・奨励賞・白寿賞・G賞) 第11回中央公論新人展「待春」昭和44年 第54回日本美術院展 「祭り」(奨励賞)昭和45年 第55回日本美術院展 「北国の人」昭和46年 第56回日本美術院展 「北国の春信」(無鑑査・奨励賞)昭和47年 第57回日本美術院展 「待船」(奨励賞)

堂本印象

没年月日:1975/09/05

日本画家堂本印象(本名三之助)は、9月5日午前1時38分心不全のため、京都第二赤十字病院で死去した。享年84歳。葬儀は、7日自宅において密葬、16日堂本美術館で本葬が行われ、25日には京都会館で京都市公葬が営まれた。印象は、明治24年12月25日京都市に生れた。父は伍兵衛、母は芳子で、生家は銘酒「賞菊」の醸造元として知られる酒造業であったが、父の代に事業に失敗して没落した。9人兄弟の三男であった印象は、苦学して画道に入り、大正10年京都市立絵画専門学校を卒業した。この間、西山翠嶂の塾にも学び在学中の大正8年第1回帝展に「深草」が初入選した。同じく第3回「調鞠図(ちょうきくず)」、「訶梨帝母(かりていも)」がともに特選になった。また大正14年には「華厳」で、帝国美術院賞を受けるなど、若い頃からすぐれた才能が認められた。その後、帝展、文展、日展等官展の審査員をしばしばつとめ、昭和25年には日本芸術院会員となった。同36年文化勲章、38年にはローマ法皇からサン・シルベストロ騎士勲章を、74年にはバチカンの近代美術館に「母と子」を納めて、サン・シルベストロ十字勲章を受章した。またこの間、昭和9年には画塾東丘社を創立して、これを主宰し、京都絵専教授をつとめるなど、多くの後進育成にもあたっている。なお、パリ、ニューヨーク、トリノ等で個展を開いている。昭和41年には、京都衣笠山の麓に「堂本美術館」を建設し自作を陳列、話題となった。作品は、極めて多作といえるが、それらを概観すると、初期における古典的題材による、文学性ゆたかな絵画は、戦後大きな変貌を示し、現実生活に取材した洋画的表現の濃いものとなり、さらに昭和33年ごろからは抽象的画面を展開するようになる。また絵画以外でも彫刻、ガラス工芸、染色、陶芸、金工などのほか、堂本美術館における建築までも手がける多才ぶりであった。このような多様な変貌ぶりは、一部に批判的眼もないわけではなかった。しかし、近代の日本画家としては、その旺盛な制作活動は卓抜で、瞠目すべきものがあった。 代表作に「木華開耶媛」(このはなさくやひめ)、「調鞠図」「華厳」「ガラス」「メトロ」などのほか、諸社寺壁画、襖絵、天井絵などの制作多数に上る。画暦明治24年(1891) 12月25日京都市に生れる。大正8年 「深草」第1回帝展。大正9年 「拓榴」「西遊記」(三枚)第2回帝展。西山翠嶂の塾に入る。大正10年 「調鞠図」(対)(特選)、「爽山映雪」第3回帝展。京都市立絵画専門学校本科卒業。大正11年 「訶梨帝母」(三幅対)(無鑑査)第4回帝展。大正13年 「乳の願い」「故父」(委員)第5回帝展。大正14年 「華厳」(帝国美術院賞)(委員)第6回帝展。大正15年 「雪遊び」(二幅対)(委員)第7回帝展。昭和2年 「春」(委員)第8回帝展。昭和3年 「蒐猟」(無鑑査)第9回帝展。帝展審査員となる。昭和4年 「木華開耶姫」第10回帝展。昭和5年 「実」第11回帝展。昭和6年 「大原談義」第12回帝展。昭和7年 「冬朝」第13回帝展。昭和9年 「春泥」第15回帝展。画塾東丘社創立し主宰する。第1回展を昭和13年に開催。昭和10年 京都市立絵画専門学校教授。(~1941年)昭和18年 「北条時宗」第6回文展。昭和19年 「楠公父子」戦時特別文展。帝室技芸員となる。昭和22年 「太子降誕」第3回日展。昭和23年 「婦女」第4回日展。昭和24年 「或る家族」第5回日展。昭和25年 「新聞」第6回日展。昭和26年 「ガラス」第7回日展。日本芸術院会員。昭和29年 「凝惑」第10回日展。昭和30年 「生活」第11回日展。昭和31年 「意識」第12回日展。昭和32年 「無明」第13回日展。昭和33年 「無礎」改組第1回日展。昭和34年 「知覚」第2回日展。昭和35年 「無間知覚」第3回日展。昭和36年 「交響」第4回日展。文化勲章、文化功労者。昭和37年 「結集」第5回日展。昭和38年 「縁起」第6回。ローマ法皇よりシルベストロ騎士勲章を受ける。昭和39年 「輪廻の記念碑」第7回日展。昭和40年 「久遠」第8回日展。社団法人堂本美術館を設立。昭和41年 「如実」第9回日展。昭和42年 「執着の離脱」第10回日展。昭和43年 「ロゴスの不滅」第11回日展。昭和49年 ローマ法皇パウロ六世より聖大十字シルベストロ大騎士勲章を受ける。京都市名誉市民となる。昭和50年(1975) 9月5日京都第二赤十字病院で死去する。壁画 襖絵 天井絵大正14年 京都大徳寺龍翔寺書院 襖絵(山水、柳鷺等24枚) 杉戸(仙人 8枚)昭和6年 京都御室仁和寺黒書院 襖絵(松に鷹、秋草等 48枚)昭和8年 京都臨済宗東福寺法堂 天井絵(滝 24×12m 1面)昭和9年 京都東寺、教王護国寺小子房 襖絵(鷲、壮丹等 48枚)昭和9年 明治神宮絵画館 壁画(侍講進講 2.3m×3m 1面)昭和10年 大和信貴山朝護孫子寺成福院 襖絵(柳鷺、松林鹿寺等 34枚)昭和11年 京都醍醐寺三宝院純浄観 襖絵(桜と楓、水郷等 42枚)昭和11~17年 和歌山県高野山根本大塔 壁画(真言八祖 4m×4m 8面) 和歌山県高野山根本大塔壁画(飛雲、霊鳥 4m×1.2m 8面) 和歌山県高野山根本大塔 柱絵(十六大菩薩像 4m×4.7m 16面)昭和14~17年 大阪四天王寺宝塔 壁画(本尊四仏像 1m×3m 4面) 大阪四天王寺宝塔 壁画(四仏浄土図 1.8m×1.3m 8面) 大阪四天王寺宝塔 柱絵(十二天像 12面) 大阪四天王寺宝塔 壁画(八部衆像 2m×1.3m 8面)昭和16年 住友家持仏堂芳泉閣 壁画(弥陀来迎図 2m×2.7m 1面) 住友家持仏芳泉閣 壁画(飛天、散華等 2m×0.7m 30面)昭和18年 紀伊田辺高山寺 絵巻(高山寺縁起、上、下 2巻)昭和24年 京都平安神宮客殿 襖絵(風景、秋鹿等 28枚)昭和26年 徳島市般若院本堂 襖絵(老松鷹、竹林等 56枚)昭和26~32年 東京最高裁判所大法廷 壁画(聖徳太子憲法宣布等 3m×3m 3面)昭和31~32年 東京浅草寺観音堂 天井絵(天人 8m×6m 2面) 東京浅草寺観音堂 天井絵(蓮華8m×4m 2面)昭和33年 尾張信貴山泉浄院多宝塔 壁画(五智如来 1.8m×2m 1面) 尾張信貴山泉浄院多宝塔壁画(天人 4面)昭和33年 京都智積院宸殿 襖絵(婦女喫茶、桜樹等 22枚)昭和38~39年 大阪カテドラル、聖マリヤ聖堂、壁画(栄光の聖マリア、右近、ガラシヤ 10m×10m 1面) 大阪カテドラル、聖マリヤ聖堂、壁画(ルソン行の右近、ガラシヤの最後 4m×3.2m 2面)昭和38年 高知五台山竹林寺書院 襖絵(風神、雷神、太平洋、瀬戸内海等 30枚)昭和40年 京都西芳寺(苔寺)書院 襖絵(国師ノ間、心字間、問答の間等 28枚)昭和43年 岐阜乙津寺客殿 襖絵(超ゆる空、光る庭等 17枚) 京都恵美須神社拝殿 天井絵(竜 5m×3.6m 1面)昭和44年 京都西芳寺本堂西来堂 襖絵(遍界芳彩、無機等 100枚)昭和46年 京都法然院書院 襖絵(雲華西来等 58枚)昭和48年 最高裁判所大会議堂 壁画(豊雲 1100×235cm) 大和大神々社宝庫 壁画(和、光、2面210×160cm)著書昭和16年 四天王寺宝塔壁画 画集、画論昭和18年 高野山大塔壁画と柱絵 画集、画論昭和15年 看心有道 随筆昭和29年 画室の窓 随筆昭和30年 美の跫音 ヨーロッパ美術紀行昭和35年 新造形 画集昭和38年 印象の作品 画集 堂本印象新造形作品 画集昭和40年 堂本印象 画集昭和46年 画室随想 随筆昭和49年 堂本印象水墨画 画集昭和50年 堂本印象造型芸術 画集

不動立山

没年月日:1975/08/14

日本画家不動立山は、8月14日京都市の自宅で老衰のため死去した。享年89歳。本名定一。明治19年4月18日兵庫県三原郡の農家の次男として生れた。同34年上洛し、京都市立美術工芸学校に入学し、38年に卒業した。40年に1年志願兵として合格、陸軍歩兵軍曹となった。また41年から翌42年にかけて神戸市小学校訓導として教鞭をとった。さらに京都市立絵画専門学校の開校により、ここに学び明治45年第2回の卒業生となった。また大正10年には西山翠嶂に師事し、青甲社の創立に参画している。作品は、最初第6回文展に「冬の夜更」「春雨の夕」が初入選し、ついで第11回に「献燈」(六曲一双)を出品した。帝展には多くの作品を発表し、つぎのような作品がみられる。即ち、第3回「古陵」、第4回「朝雨のあと」、第5回「貴船路の秋」、第7回「遠雷」、第8回「みのる秋」、第9回「観音堂」、第11回「夕立」、第12回「余燼」、第13回「夏時雨」、第14回「放牧」、第15回「曾根沼」等で、新文展では第2回展に「劫火」、3回に「春月」があり、いづれも無鑑査出品である。昭和17年戦時下疎開のため淡路島に転居し、戦後昭和48年までこの地に滞留していたが昭和48年9月には京都の自宅に戻っている。作品は京都的肌目細かな画風の中に、近代的感覚を導入させたものだが、新文展出品作「劫火」などには、意慾的で逞ましいものがみららた。

矢野鐵山

没年月日:1975/03/31

日本画家矢野鉄山は、3月31日急性心機能不全のため大阪府茨木市の病院で死去した。享年81歳。本名民雄。明治27年2月5日愛媛県県今治市に生れ、18歳の年上京し小室翠雲に師事した。24歳で大阪に移住し、大阪美術学校に入学、またこの年第2回帝展に「春靄・松壑」(対幅)が初入選している。翌大正10年日本南画院に「穣媚・霜晨」を出品、1等となり同人に推され、以後16年間同人として出品した。昭和12年乾坤社を興して展覧会を開催、5回展を迎えたが戦争のため中止するに至る。帝展はその後、昭和4年第10回「孤琴涓潔」、同8年第14回展に「荒凉」が特選となり、昭和18年第6回文展では審査員となった。また戦後昭和43年全日本水墨画協会を設立、同46年新しい水墨画の発展に尽くした功績によって、紫綬褒章を受章した。その他、日展会員でもあり、審査員もつとめた。作品は東洋独自の水墨画を現代に発展させたもので、作品は上記のほか「晴れ行く驟雨」「長江万里」「韓非子」「蘇秦張儀」などがある。

三橋節子

没年月日:1975/02/24

創画会に出品していた日本画家、三橋節子は、2月24日午前0時40分、転移性肺腫瘍のため京都府立病院で死去した。享年35歳。三橋節子は、昭和14年(1939)3月3日、大阪・パルナバ病院に生まれる。当時から両親の住居は京都市で京都で育っている。父三橋時雄、母珠の2男2女の長女として生まれ、母珠の従兄弟に長谷川海太郎(小説家林不忘、または牧逸馬)、長谷川潾二郎(画家)、長谷川四郎(小説家)などがいた。北白川小学校、近衛中学校をへて昭和29年鴨沂高校を卒業、同年京都市立美術大学日本画科(現・京都市立芸術大学)に入学、主として秋野不矩に師事した。昭和36年(1961)同大学を卒業したが、その前年の35年の新制作春季展に「立裸婦」が入選、同年24回新制作展に「立像」が入選となった。以後、新制作展日本画部(のち創画会展)、京都日本画総合展などに出品し、昭和40、42、44の新制作春季展で受賞、昭和42年末から45年初めにかけて京都美大同窓会美術教育研究会主催の旅行団に参加してインド、カンボジアに旅行し、昭和43年11月、同じ新制作展出品作家で陶芸家の鈴木靖将と結婚し大津市に新居をもった。昭和44年、第33回新制作展に出品した「カルカッタの少年達」「ベナレスの物売り」で新作家賞をうけ、さらに、昭和46年第35回新制作展では「土の香」「炎の樹」で2回目の新作家賞を受賞した。昭和48年(1973)「湖の伝説」を制作したあと鎖骨腫瘍のため京大病院に入院して右腕切断の手術をうけ、以後は左手で制作、昭和49年滋賀県展に出品され「花折峠」で滋賀県芸術祭賞をうけ、同50年京都日本画総合展出品「余呉の天女」(絶筆)は京都府買上げとなった。作品略年譜昭和35年(1960) 「立像」(24回新制作展)。昭和39年 「樹」「白い影」(新制作春季展)、「樹1」(28回新制作展)。昭和40年 「柳桜」(新制作春季展)。昭和41年 「池畔」「池苑」(30回新制作展)。昭和42年 「吾木香」(筍々会3人展)、「疎林の中に立つ」(新制作春季展)、「白い樹」(31回新制作展)。昭和43年 「野草」(京都日本画総合展)、「アネモネ」(新制作春季展)、「インドの子供達」「カンチプラムの路上」(33回新制作展)。昭和44年 「牛頭骨のある静物」(京都日本画総合展)、「土のぬくもり」「乾いた土とサリー」(新制作春季展)、「ベナレスの物売り」「カルカッタの少年達」(33回新制作展)。昭和45年 「とわの土」(京都日本画総合展)、「路上」(新制作春季展)、「カンボジアの子供達」「カンボジアの村」(34回新制作展)、「クサマオとカラスウリ」(京都日本画総合展)。昭和46年 「土の詩」(京都同時代展)、「よだかの星」「おきなの星」(新制作春季展)、「炎の樹」「土の香」(35回新制作展)。昭和47年 「裏山の収穫」(京都日本画総合展)、「土の子」(京都同時代展)、「どこへゆくの」(新制作春季展)・「千団子さん」(新制作研究会展)、「登り窯」(京都百景展)、「鬼子母」「鬼子母神」(36回新制作展)、「インドの少年達」「石の詩」「こがらしの詩」「あめ屋さん」「なずな」「あけびの頃」「いとこたち」(2人展)。昭和48年 「湖の伝説」(京都日本画総合展)、「田鶴来」「三井の晩鐘」(37回新制作展)。昭和49年 「羽衣の伝説」(滋賀県美術協会展)、絵本原画「湖の伝説」13点、「花折峠」「雷獣」(1回創画会展)、「鷺の恩返し」「花折峠」(27回滋賀県展)。昭和50年 「余呉の天女」(京都日本画総合展)。

平野長彦

没年月日:1975/02/13

日本画家平野長彦は、2月13日心臓マヒのため大阪市の自宅で死去した。享年71歳。矢野知道人に師事し、帝展、新文展等に作品を出品し、戦後は日展に発表した。風景や、仏画に独自の南画を描き、昭和30年大阪美術協会が発足してからは、その理事をつとめた。

寺島紫明

没年月日:1975/01/13

日本画家寺島紫明は、1月13日脳出血のため西宮市の自宅で死去した。享年78歳。本名徳重。明治25年11月18日明石市に生れた。木綿問屋、柿屋を営む父徳松、母としの長男で、6歳と2歳年上の姉の三人姉弟であった。明治32年明石尋常高等小学校に入り、この頃からスケッチを好み、源氏物語など日本文学に親しむ。小学校卒業後はさらに文学への傾倒を深め、寺島玉簾のペンネームで「少年倶楽部」「兄弟姉妹」等の雑誌に応募し、入賞を重ねた。明治42年17歳の時、長姉の嫁ぎ先である大坂の木綿問屋丹波屋、三浦家に見習奉公に入る。この年10月父を失い、翌43年上京した。大正元年8月母にも死別し、この頃から文学を離れ画家を志し、翌大正2年鏑木清方に師事した。翌年「柚子湯」「菖蒲湯」(対幅)が入選し、三等賞となった。昭和2年第8回帝展に「夕なぎ」が初入選し、その後官展への出品を毎年続けた。戦後も、第2回展以来日展出品をつづけ、没する数年前の昭和46年までの出品がみられる。官展以外では、巽画会のほか青衿会、日月社、創造美術(第1回展)、兵庫県選抜展などがある。またそのほか街の展観としては、初期の郷土会をはじめ、昭和になってからは九皐会、清流会、尚美会、綵尚会、明美会等に出品している。美人を対象に描いたいわゆる美人画は、江戸浮世絵以来近代に至って多様な発展を示すに至っている。浮世絵の系統をひく鏑木清方は、江戸から東京を舞台に東京人の好みに投じた粋人柄な女性を描いて独自な美人画を展開した。玄人の粋に堕さず、素人の野暮に偏さないこの洗練された一つの女性像は、東京人における女性の典型であった。 関西に生れた寺島紫明は、上京し鏑木清方に師事した。紫明は、師の描く品よく爽やかな東京女性の理想像に深く共鳴しながらも、彼は全く別の独自の美人画を確立した。紫明の対象とする女性は、概して豊満な女性が多く、画面には官能を含めての女性美が重量感をもって示される。但し、その作品は卑俗な美人画には遠く、肉体を超え、官能を超えた女性讃歌といえよう。ほのぼのと匂やかな色彩と、制作にあたってモデルを用いないというデッサンのよわさが紫明画の特徴ともいえる。主な作品に、戦前の傑作「秋単色」が出色だが、戦後では、「甲南夫人」「舞妓」「夕ぐれ」などがある。寺島紫明作品年譜大正2年 21 長野草風の紹介で鎬木清方に師事す。(1913)大正3年 22 巽画会「柚子湯」「菖蒲湯」(対幅)、3等賞。大正4年 23 6月郷土会発足。大正5年 24 第1回郷土会展「夕立」「夕月」。大正6年 25 郷土会「港の唄」。大正7年 26 長田幹彦の小説「青春の夢」(東京日々新聞連載)さし絵を描く。昭和2年 35 第8回帝展「夕なぎ」初入選。昭和3年 36 第9回帝展「日輪」、パリー日本美術展「姥桜」。昭和5年 38 第11回帝展「爪」。昭和7年 40 第13回帝展「母娘」。昭和8年 41 第14回帝展「うつらうつら」。昭和9年 42 第15回帝展「女」。昭和10年 43 第1回九皐会「くつろぎ」「洗髪」。昭和11年 44 改組帝展第1回「あつさ」(対幅)。新文展「9月」(京都市買上げ)。第2回九皐会「素顔」「朝霧」「2月」。尚美展「昇る月」。昭和12年 45 第1回文展「朝」。第3回九皐会「元朝」(三幅対)。尚美展「晴れた朝」。昭和13年 46 第2回文展「微匂」。第4回九皐会「紅」「おしろい」「花の雨」「鷺娘」。昭和14年 47 第5回九皐会「昼の雪」「老妓」。昭和15年 48 奉祝展「良夜」。清流会結成第1回展「月夜時雨」「朝の空」。第6回九皐会「軒の雨」「紋服」。青衿会第1回「朝風」。昭和16年 49 第4回文展「寸涼」(特選)、綵尚会第3回「夏芸者」、清流会第2回「洗いかみ」「冬靄」「卯辰橋」、仏印巡回日本絵画展「夏」、綵尚会小品展「廊のうちは」。昭和17年 50 第5回文展「秋単衣」(特選)、無鑑査出品(李王家買上げ)、綵尚会第4回「暮春」「初夏」、青衿会第3回「町娘」、清流会第3回「夕星」、関尚美堂展「盛夏」。昭和18年 51 第6回文展「初冬」(招待出品)、綵尚会第5回「中年」「もみ裏」、絅尚会第2回「静心」「祭の月」。昭和19年 52 川西航空、仁川工場に軍令で奉職。昭和20年 53 8月終戦で9月に川西航空を退職。昭和21年 54 第2回日展「彼岸」。昭和22年 55 第3回日展「中年の夫人」(招待出品)。現代総合美術展(朝日新聞社主催)「婦女」。昭和23年 56 第1回創造美術展「芸人」、綵絅会「三十路」、神戸新聞創刊50周年記念、東西大家新作日本画展「女」。昭和24年 57 第5回日展「若婦」(依嘱出品)、現代美術展「女」、兵庫県公募総合美術展の審査員となり29年までその任に当る。昭和25年 58 第6回日展「春秋夕朧」(対幅)(依嘱出品)、兵庫県展「暮春」(賛助出品)。昭和26年 59 第7回日展「上女中」審査員。昭和27年 60 第8回日展「初振袖」(依嘱出品)。昭和28年 61 第9回日展「甲南夫人」、日月社第4回「朝」、銀座松坂屋で(第1回個展)。明治、大正、昭和名作美術展「春来たる」。昭和29年 62 第10回日展「夕ぐれ」(近鉄アベノ)、10月(日本橋三越)。昭和30年 63 第11回日展「成女」、日月社第6回「少女」、綵尚会「花子」。昭和31年 64 第12回日展「新涼」、日月社第7回「若い夫人」。昭和32年 65 第13回日展「黒い髪」、審査員、日月社第8回「婦女」、綵尚会第8回「朝」、尚美展「冬の夫人」。昭和33年 66 新日展第1回「婦女」、綵尚会「舞妓」、紫明門下で明美会結所。明美会第1回「春」「婦女」「朝」(賛助出品(神戸元町、ちぐさや画廊)。昭和34年 67 新日展第2回「仲居」、審査員。綵尚会「若い婦人」「夕」、明美会第2回「梅の頃」(賛助出品)。昭和35年 68 新日展第3回「三人」(政府買上げ)、綵尚会「丸髷」、日月社第11回「朝」、明美会第3回「五月」「少女」(賛助出品)、明美会4人展「黒い羽織」(特別出品)(大坂そごう)。昭和36年 69 新日展第4回「舞妓」文部大臣賞、白木屋展28点、関尚美堂共催。明美会第4回「夏」(賛助出品)。昭和37年 70 新日展第5回「二人の婦人」審査員、明美会第5回「おんな」賛助。昭和38年 71 新日展第6回「昼」、明美会第6回「初夏」(賛助出品)。兵庫県選抜美術展「女将」。15点出品(浜松産業会館)。昭和39年 72 新日展第7回「舞妓」、明美会第7回「少女」(賛助出品)、近代日本美人画名作展「彼岸」(姫路やまとやしき 日本経済新聞社主催)。昭和40年 73 新日展第8回「夏」、孔雀画廊、明美会第8回「初冬」(賛助出品)。昭和41年 74 新日展第9回「宵」、日春展第1回「老妓」日春展委員。昭和42年 75 新日展第10回「ひととき」兵庫県政100年郷土画家名作展「夕ぐれ」「3人」「夏」(神戸大丸)。昭和43年 76 新日展第11回「朝風」、兵庫県日本画青楠会第1回「秋」、日春展第3回「学生」。昭和44年 77 改組第1回日展「舞妓」、審査員。彩壺堂現代作家シリーズ第11回22点出品、青楠会第2回「娘」、日春展第4回「暮春」。昭和46年 78 改組第2回日展「早朝」、改組第1回日展出品作「舞妓」に対し日本芸術院恩賜賞受賞、高島屋白寿会第22回「冬の日」。昭和46年 79 改組第3回日展「遅い朝」、梅田画廊三番街、4月29日勲等旭日小綬章受賞、神戸新聞社兵庫県平和賞(文化部門)受賞。高島屋、白寿会第23回「初冬」、第6回日春展「春日」、明美会「秋」、(賛助出品)(静岡産業会館)、5月22日大坂新歌舞伎座で観劇中倒れる。昭和47年 80 兵庫県立近代美術館美人画名作展(10月)「夏」「新涼」「舞妓」「女」「三人」、高島屋白寿会第24回「舞妓」、明美会「素描」(賛助出品)。昭和48年 81 東京ギャラリーヤエス「芸人」「早朝」「舞妓」等、夏目美術店、八重洲美術店、関尚美堂共催。「舞妓」(賛助出品)、(そごう神戸店)。兵庫県現代芸術名作展、昭和10年作「くつろぎ」出品、神戸大丸店。明美会「舞妓」賛助出品。高島屋白寿会第25回「舞妓」。昭和49年 82 ぎゃらりー神戸画稿「彼岸」「鷺娘」「舞妓」他出品。そごう神戸店「夕月」「彼岸」「中年夫人」「上女中」「成女」他出品、9月に一時危篤状態に落ち入る。昭和50年 82 1月12日午前6時30分脳出血のため西宮市自宅で死去、昭和51年 なんば高島屋。10月、西宮市大谷記念美術館。(寺島紫明回顧展目録より抄録)

金島桂華

没年月日:1974/09/16

日本画家金島桂華は、9月16日肝性こん睡のため京都市の病院で死去した。享年82歳。本名政太。明治25年6月25日広島県に生れた。少年の頃、大阪に出て絵を学び、19才で竹内栖鳳の門に入った。大正元年入営し、軍隊生活2年を送った。大正7年第12回文展で「叢」が初入選し、同14年第6回帝展「芥子」、昭和2年第8回帝展「鳴九皐」翌第9回「牡丹」で特選となり、第15回帝展では、「紅蜀葵」を出品し、審査員をつとめた。また同12年には京都美術工芸学校教員となり、昭和17年第5回新文展では「大威徳明王」を無鑑査出品した。戦後は、日展でしばしば審査員をつとめ、27年第8回日展「鯉」は、芸術選奨文部大臣賞となった。また29年には前年の第9回日展出品作「冬田」で日本芸術院賞となり、34年同院会員となった。昭和46年東京、大阪の三越で「画業六十年金島桂華展」を開催している。桂華は、制作の一方、後進の育成にもあたり、画塾衣笠会を主宰した。作品は花鳥画が多く、師栖鳳の傾向を受け写実を基盤とし、真面目で穏健な作風を示した。おもな作品として、上記のほか「画室の客」(第10回日展)、「野牛」(第1回新日展)等がある。日展顧問。

奥村厚一

没年月日:1974/06/25

日本画家奥村厚一は、肝臓疾患のため6月25日京大病院で死去した。享年69歳。明治37年7月1日京都市に生れ、昭和3年京都市立絵画専門学校を卒業、同8年研究科を卒えた。この年西村五雲に師事した。戦前は、帝点、新文展等官展をおもな発表の場としたが、戦後はこれを離れ、昭和23年創造美術の結成に参加し、新制作協会々員、創画会々員等新しい傾向の団体に所属し活躍した。帝展でのおもな作品に「山林」(10回)、「深社の河原」(11回)、「松林の秋」(13回)、「松蔭雨日」(15回)等があり、文展では昭和11年改組第1回帝展に「雨後に立つ雲」、同年鑑査展「雪の音」、同12年第1回新文展「落葉の秋」、第2回「月光」、第5回「林道」、等がある。戦後第2回日展出品の「浄晨」で特選となったが、23年日展を脱した。風景画を得意とし、山をテーマにした作品が知られるが、晩年は水墨調の画風を展開した。代表作「浄晨」「黒潮」「大洋」など。昭和35年京都市立美大教授同45年京都市立芸大定年退職。46年嵯峨美術短大教授。49年京都市立芸大名誉教授。

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