本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





山口蓬春

没年月日:1971/05/31

日本画家山口蓬春は、5月31日肝臓障害のため、神奈川県葉山の自宅で死去した。享年77才。本名三郎、明治26年10月15日北海道松前市に生れ、大正3年東京美術学校西洋画科に入学し、同7年同校日本画科に転向、同12年卒業した。翌年松岡映丘の主宰する新興大和絵運動に参加し、この年第5回帝展に「秋二題」が初入選となった。翌年の「神苑春雨」についで出品した第7回帝展の「三熊野の那智の御山」が特選となり、帝国美術院賞となって一躍その名を知られるに至った。昭和2年第8回帝展出品の「緑庭」もつづいて特選となり、昭和3年第9回で推薦、翌4年審査員となった。また昭和6年7月には、中村岳陵、福田平八郎、横川毅一郎らと友交を主とする研究団体六潮会を結成した。昭和25年日本芸術院会員となり、同40年には文化勲章を受領した。作品は、復古大和絵調から次第に洋風表現に傾き、昭和7年第13回帝展「市場」にみられるような機知に富んだ近代感覚溢れる作品を生むに至っている。戦後は、斯様な傾向が更に助長され、明快な描写と色彩で、大和絵を見事現代に生かした蓬春芸術の本領を発揮した。代表作に「三熊野の那智の御山」「市場」「榻上の花」などがあり、著書に「日本画新技法」がある。略年譜明治26年 10月15日北海道松前市に生る大正3年 東京美術学校西洋画科入学昭和4年 第2回二科展入選昭和5年 第3回二科展入選昭和7年 東京美術学校日本画科に転向昭和12年 同校日本画科卒業昭和13年 「秋二題」第5回帝展昭和14年 「神苑春雨」第6回帝展昭和15年 「三熊野の那智の御山」(特選・帝国美術院賞、政府買上、御物)第7回帝展昭和2年 「緑庭」(特選)第8回帝展昭和3年 「潮音」(推薦)第9回帝展昭和4年 帝展審査員昭和6年 「波野」第12回帝展昭和7年 「市場」第13回帝展(政府買上、東京芸大蔵)昭和9年 「岩倉大使欧米派遣之図」明治神宮絵画館壁画揮毫昭和10年 帝国美術院改組に際し参与となる昭和14年 「秋影」第3回文展出品。審査員となる昭和22年 「山湖」第3回日展昭和23年 「濤」第4回日展(政府買上、東京国立近美蔵)昭和24年 「榻上の花」第5回日展(政府買上、東京国立近美蔵)昭和25年 日本芸術院会員となる。「夏の印象」6回日展昭和29年 日展常任理事となる昭和31年 8月、北京に於て開催された「雪舟等楊」逝世四百五十年記念式典に日本代表として参列昭和38年 5月、自選展開催 朝日新聞社主催(銀座、松屋)昭和39年 「春夏秋冬」四部作(昭和36年第4回新日展出品「秋」より四年間をもって完成。東京国立近代美術館蔵)昭和40年 文化勲章受領昭和43年 新宮殿壁画完成昭和45年 神奈川県文化財委員会と朝日新聞社主催にて横浜高島屋にて喜寿記念展開催昭和46年 5月31日 病没

児玉希望

没年月日:1971/05/02

日本画家の児玉希望は、脳血せんのため東京港区の慈恵医大病院で死去した。享年72才。本名省三。明治31年7月5日広島県高田郡に生れ、若くして上京し、川合玉堂の門下となった。大正10年第3回帝展「夏の山」が初入選で、以後連続入選している。昭和3年第9回展「盛秋」で特選となり、第11回展「暮春」もまた特選となった。昭和6年第12回帝展では推薦・無鑑査になり、翌年審査員となった。以来、帝文展の審査員をつづけ、官展の中心作家となり、戦後に及んだ。昭和27年第8回日展「室内」で日本芸術院賞となり、同33年には日本芸術院会員となった。そのほか、戦時中は美術及工芸統制協会の理事長をつとめ、戦後は社団法人日展の常務理事として運営につくし、その手腕を示した。戦前は戊申会、児玉画塾展等を、戦後は伊東深水、矢野橋村等と日月社を結成し、私塾系作家の制作促進を計った。また昭和32年には約1ケ年滞欧し、各地で水墨画展を開き、その後の代表作に「仏蘭西山水絵巻」(三巻)(東京国立近代美術館蔵)がある。なお、代表作の多くは、広島県立美術館に寄贈されている。

大津雲山

没年月日:1971/04/22

日本画家大津雲山は、4月22日老人症心不全のため、神奈川県秦野市の自宅で死去した。享年86才。本名一三。明治18年1月神奈川県中郡で生れ、松林桂月に就き南画を学んだ。大正10年第3回帝展「山水」が初入選し、その後第8回展、9回展等に出品がみられる。代表作「長江帰舟図」「武陵桃源図」等。

谷角日沙春

没年月日:1971/03/21

日本画家谷角日沙春は、脳溢血のため3月21日京都市北区の自宅で死去した。本名久治。明治26年8月22日兵庫県美方郡に生れ、菊池契月の塾に学んだ。第12回文展に「智恵頂ける児」が初入選し、以後専ら官展に出品し、主なものに「髪すく女」(第2回帝展)、「淡日さす窓と女」(第3回帝展)、「遊女の絵」(第4回帝展)、「囲碁」(第5回帝展)、「寵人」(第10回帝展)、「洛北の佳人」(第14回帝展特選)等がある。新文展、日展等にも出品したが、のち日展を離れて独自の道を歩み、また仏画をかいた。作品は、大正期特有の異風な傾向から、師契月ゆずりの端正な表現へと移り、その方向は仏画の世界にも生かされていた。

小川千甕

没年月日:1971/02/08

日本画家小川千甕は、2月8日老衰により東京都世田谷区の自宅で死去した。享年87歳。本名多三郎。明治15年10月3日京都市六角通の元禄年間創業の書肆、12代小川多左衛門の次男として生れた。16歳で仏画師の家へ徒弟として入り、また浅井忠に洋画を学んだ。浅井没後京都市立陶磁器試験場技手となり、明治末年に東京に移住し、雑誌の挿絵等もかき、巌谷小波(博文館)のお伽噺などがある。明治45年、3年に渉り欧州諸国を遍歴し、大正3年帰国後二科会創立に参加した。其後作品は南画風表現に傾き、院展にも出品し、昭和17年大東南宗院委員として尽力した。戦後は高島屋、松坂屋等で個展をひらき作品を発表していた。滋味豊かな墨画と書を得意とし、また随筆をよくする。主要作に「游踪集」「炬火乱舞」「群像」等がある。

野島青茲

没年月日:1971/01/27

日展会員の日本画家野島青茲は、心臓マヒのため東京都中野区の自宅で死去した。享年55歳。本名清一。大正4年4月8日静岡県引佐郡に生れ、昭和13年東京美術学校日本画科を卒業した。松岡映丘に師事し、のち中村岳陵門下となった。昭和24年第5回日展「博物館」、及び第7回「仮縫」で特選となり、昭和40年には「母子像」で文部大臣賞を受けた。また昭和19年より同24年にかけて法隆寺壁画模写に従事し、同42年にも同様法隆寺壁画模写事業に従っている。手堅い技法による着実な表現が、将来を期待されていた。

平田松堂

没年月日:1971/01/09

日本画家平田松堂は、1月9日老衰のため保養先の山形県上山市で死去した。享年90歳。本名栄二。明治15年2月2日東京市牛込に明治時代の内大臣平田東助の二男として生れた。明治34年東京美術学校日本画科に入学、同39年同選科を卒業した。明治40年第1回文展「ゆく秋」が初入選し、以後つづけて官展に出品、屡々受賞した。主なものに「秋の色」(第4回文展褒賞)、「木々の秋」(第6回文展褒賞)、「小鳥の声」(羅漢柏)(六曲一双)(第8回文展三等賞)、「松間の春・松間の秋」(六曲一双)(第9回文展三等賞)、「羣芳競研」(四幅対)(第10回文展特選)などがあり、大正14年帝展委員となった。また大正5年より母校に教鞭をとり、同年図画師範科嘱託となり、同10年教授、昭和3年には師範科主任教授となり、同7年退官した。また同3年新設された大日本図画手工協会会長、師範科同窓会の錦巷会会長等をつとめた。

榊原紫峰

没年月日:1971/01/07

日本画家榊原紫峰は、1月7日老衰により京都市北区の自宅で死去した。享年83歳。本名安造。明治20年8月8日日本画家榊原蘆江の次男として京都市中京に生れ、京都市立美術工芸学校卒業後、京都市立絵画専門学校に学び、明治44年第1回生として卒業した。大正7年村上華岳、入江波光、土田麦僊、小野竹喬らと国画創作協会を創立し、新しい日本画創造を目ざして活躍した。国画創作のほかは官展に出品し、昭和12年京都市立絵画専門学校教授、同24年同市立美術大学教授となった。同34年退職し、名誉教授となった。この間宇治平等院、醍醐寺三宝院、山科法界寺で壁画模写の指導にあたり、同37年には日本芸術院恩賜賞を授与された。作品は沈静荘重な画風を特色とし、代表作に「赤松」「獅子」「冬朝」「奈良の森」などがある。著書「紫峰花鳥画集」「花鳥画の本質」「紫峰芸術観」略年譜明治20年 日本画家・榊原蘆江の次男として、京都市中京区に生れる。本名、安造。明治40年 京都市立美術工芸学校日本画科卒業。「軍鶏」(卒業制作)引続き同校研究科に進む。この年父より紫峰正勝の画号をもらう。明治42年 京都市立絵画専門学校創設され、村上華岳、入江波光らと共に同校2年に編入。第3回文展に«動物園の猿»初出品、以後大正6年まで文展を中心に出品する。明治43年 「永き日」(褒状)第4回文展明治44年 絵画専門学校本科卒業、続いて研究科に入学。卒業制作«花曇り»を第5回文展に出品して3等賞を受賞。明治45年 「南園の一隅に於ける曲と眠り」第6回文展大正2年 「夕榮」(褒状)第7回文展大正3年 第8回文展出品«秋草»落選 第2回院展に出品する。大正4年 「白梅」第9回文展「秋草」第2回院展大正6年 「梅雨晴れ」第11回文展大正7年 小野竹喬、土田麦僊、村上華岳、野長瀬晩花と共に国画創作協会設立の宣言をする。文展を離れて第1回国画創作協会展を開く。「青梅」出品。以後この国展に出品してゆく。大正8年 「赤松」第2回国展大正9年 「奈良の森」第3回国展大正10年 より12年まで、国展は、主力会員のヨーロッパ行きと関東大震災などのため休会する。大正13年 「雪柳白鷺の図」第4回国展大正14年 「蓮池」第5回国展昭和2年 「獅子」第6回国展昭和3年 「冬朝」第7回国展。国展第1部(日本画)解散を声明。昭和4年 第10回帝展の推薦となる。また翌昭和5年からは新官制による無鑑査となる。パリ日本美術展に«朝露»を出品。昭和5年 ローマ日本美術展に«風雪白鷺図»を出品。昭和12年 新文展開かれ、参与となる。絵画専門学校教授に就任。昭和14年 第3回新文展の審査員となる。昭和16年 小野竹喬、入江波光と三人展を開催する。昭和23年 京都市立美術専門学校の客員教授となり、翌年、同美術大学の教授に就任。昭和31年 この年から、宇治平等院、醍醐三宝院、日野法界寺で壁画模写の指導に当る。昭和36年 市立美術大学教授を定年退職、名誉教授となる。この頃から病床につく。昭和37年 日本芸術院恩賜賞を受ける。昭和44年 画業60年記念展を大阪・阪神で開催。昭和46年 1月7日、死去。画集に«紫峰画集»(大正13年、高島屋美術部)、«同»(大正15年、同)、«紫峰花鳥画集»(昭和9年、芸艸堂)、«紫峰スケッチ集»(昭和23年、全国書房)等、著書に«花鳥画を描く人へ»(昭和4年、中央美術社)、«花鳥画の本質»(昭和10年、芸艸堂)、«紫峰芸観»(昭和15年、河出書房)等がある。この他氏に関する論評及び参考図書等多い。(年譜京都市美術館年報昭和45年に拠る。)

伊東万燿

没年月日:1970/11/26

日本画家で日展評議員の伊東万燿は、11月26日食道ガンのため、東京都文京区日本医科大学付属病院で死去した。享年49歳。本名満で、大正10年日本画家伊東深水の次男として東京に生れた。戦前は朗峯画塾展、青衿会展などに出品して受賞し、昭和16年第4回文展に「楽人」を初出品して入選した。戦後は、日展、日月社展等に出品し、日展では昭和25年依嘱となり、同42年には「踊る」で内閣総理大臣賞、翌43年には「女」で、日本芸術院賞となった。作品には上記のほか「落葉する頃」(3回日展)、「高原清秋」(5回日展)、「黎明」(6回日展)、「食卓」(7回日展)などがあげられる。

山岡良文

没年月日:1970/11/17

日本画家山本良文は、17日心筋こうそくのため東京の自宅で死去した。享年59歳。本名良文。明治44年東京に生れ、根岸小学校、巣鴨中学校を卒え、京都絵画専門学校を卒業した。石崎光瑤、川端竜子に師事し、青竜社展に出品した。前期自由美術家協会に所属し、同志と歴程美術協会を昭和13年に創立した。また新日本画研究会に参加するなど終始日本画の前衛画家として知られた。戦後は、永い療養生活を送り、歴程の再建に尽力し、昭和45年之を再建し、第1回歴程美術協会小品屋発表後死去したものである。主もな作品に「ガソリン風景」(4回青竜社)、「消費都市」(昭和10年新日本画研究会)、「山霊の合歓」(3回歴程)などがある。なお同氏は明治の山岡鉄舟の孫にあたる。

我妻碧宇

没年月日:1970/10/28

日本画家我妻碧宇は、10月28日名古屋市千種の愛知県ガンセンターで死去した。享年66歳。本名栄之助。明治37年3月24日山形県米沢市に生れ、大正11年上京した。日本美術学校日本画科に学び、昭和4年同校を卒業し、中村岳陵に師事した。この年、第16回院展に出品した「午后の陽射」が初入選し、翌第17回院展には「夏朝」を出品し、昭和7年第19回院展で「山野根風景」を出品し、院友となった。昭和15年中村岳陵法隆寺壁画模写事業主任となるに及び、その下で模写に従事した。戦後は日展に出品し、昭和27年審査員、同33年評議員となった。この間、作人には、第4回「渓澗」(政府買上)、第7回「秋」特選、白寿賞)、第8回「雲の影」、第11回「暮色」、改組第3回「少女」などがある。昭和36年中村岳陵の門を離れ、7月同門の中村正義、森緑翠らと白土会を結成し、その創立会員となった。なお、昭和11年より名古屋に在住し、昭和29年には第7回中日文化賞を受けている。

遠藤教三

没年月日:1970/10/18

日本画家遠藤教三は、10月18日病気療養中のところ死去した。明治30年東京麹町に生れ、大正10年東京美術学校を卒業、同年女子美術専門学校講師となった。昭和19年之を辞めた。作品は、大正10年より昭和5年まで毎年新興大和絵会に発表し、6年以降12年まで帝展に出品した。同13年より16年まで狩野光雅、長谷川路可と三人展を開き、17、18年は文展に出品した。戦後は専ら個展により発表した。(昭29年資生堂、同31年日本橋三越、同38年同所)なお、「墨絵入門」「デザインの美」「色の理解」「色彩教養」などの著書がある。

福田豊四郎

没年月日:1970/09/28

新制作協会の日本画家福田豊四郎は、9月27日肝硬変のため世田谷の自宅で死去した。享年65歳。本名豊城。明治37年11月27日秋田県鹿角郡で、薬局を営む豊治、母しのの四男として生れた。大正8年小坂町立小坂高等科をおえ、画家を志して京都に出、鹿子木孟郎の塾に入った。間もなく親の反対で一旦帰京するが、同11年再び上京し、川端竜子に師事した。更らに翌12年京都に戻り、土田麦僊に師事した。この頃から豊四郎の号を用いた。同14年京都絵画専門学校に入学、昭和3年同校選科を卒え、秋、上京して旧師川端竜子に師事した。この間、昭和2年国画創作協会々友になり、同展には「東福寺風景」(4回国展)、「静峡」(5回国展)などの作品がみられる。同4年には、石橋文子と結婚し、青竜社々友となった。同7年同社々人になったが、青竜社が反官展を表明したのを機会に、昭和8年9月同社を脱退した。翌9年日本画革新をはかり吉岡堅二らと6月山樹会を結成、さらに翌7月新日本画研究会を結成した。昭和13年2月同会を拡大し、新美術人協会として発足した。この年から翌年にかけ、陸軍従軍画家として中支・北支を巡歴し、翌14年1月帰国した。さらに、同17年4月4日から9月3日まで、陸軍従軍画家として東南アジアを巡ぐった。昭和20年2月には、秋田県由利郡に疎開し、翌21年2月東京に戻った。戦後昭和23年1月、山本丘人、吉岡堅二らと世界性に立脚する日本絵画の創造をスローガンに、創造美術協会を結成した。同会は昭和26年新制作派協会と「相互連関性」をとなえ、合併して新制作協会となった。昭和31年3月武蔵野美術大学日本画講師となり、4月から約3カ月間アジア連帯文化使節の一員として東西諸国を巡遊した。同38年10月黄疸発病、翌年3月肝硬変のため東京目黒国立第二病院に入院した。8月退院し、翌41年2月再発のため同病院に再入院、翌42年10月退院した。44年10月三度目の入院をし、翌年6月退院したが、9月病気再発し、没した。年齢 作品略年譜大正11 18 「花びわのかげ」院展試作展 「鶏小屋」中央美術展大正12 19 「春の多摩川」大阪毎日展大正13 20 「水泳ぐ児等」第5回帝展 「東福寺風景」第4回国画創作展 「発車後」国画創作春季展大正14 21 「雪の北国」第6回帝展 「静峡」第5回国画創作展大正15昭和元 22 「故山新秋」第7回帝展昭和3 24 「ふるさとの夏」第9回帝展 「雪の一日絵巻」第6回国画創作展昭和4 25 「山みのる秋」第10回帝展 「山湖遊行巻」第1回青龍社展昭和5 26 「早苗曇り」第11回帝展、特選 「山春・待春」双幅 第2回青龍社展昭和6 27 「水辺の夏」第12回帝展 「山の秋」第3回青龍社展昭和7 28 「樹々の山は芽を吹く」第13回帝展 「山菜を売る人達」第4回青龍社展 「闘犬の日」第4回青龍社展昭和8 29 「たこあげる児等」第14回帝展 「熔鉱炉」第5回青龍社展 「草野」第5回青龍社展昭和9 30 「夏郷」第15回帝展 「福田薬局図」山樹社展 「陸中の人」山樹社展 「おそ秋」山樹社展 「きつつきの山」山樹社展 「靴屋」山樹社展 「田園七旺集」7点 山樹社展 「鉱山風景」新日本画研究会展昭和10 31 「樹の根と牛」山樹社展 「樹の根と蝶」山樹社展 「南瓜と少年」山樹社展 「春寒」山樹社展 「爽朝」山樹社展 「開墾地」山樹社展昭和11 32 「海辺」第1回新帝展 「六月の森」新文展鑑査展昭和12 33 「樹氷」第1回新文展昭和13 34 「濤A」新美術人展昭和14 35 「蒙彊」第3回新文展 「松」新美術人展昭和15 36 「鴉」新美術人展昭和16 37 「山脈-からす-」第5回新文展 「八郎湖凍漁」新美術人展昭和17 38 「英領ボルネオを衝く」昭和18 39 「叢林」新美術人協会展 毎日新聞連載小説、石川達三「日常の戦ひ」8月31日~19年1月12日の挿絵をかく。昭和21 42 絵本「笠地蔵様」美術出版社出版、絵・福田豊四郎、文・関敬吾。昭和22 43 「暮沼」第2回日展昭和23 44 「秋田のマリア」第1回創造美術展昭和24 45 「踊る娘たち」第2回創造美術展昭和25 46 「海女」第3回創造美術展 「沼」創造美術春季展 「野の花輪」創造美術春季展昭和26 47 「山河」第15回新制作展 文部省買上。「愛」新制作春季展 絵本「夕鶴」新潮社出版、絵・福田豊四郎、文・木下順二。朝日新聞連載小説、林芙美子「めし」4月1日~7月6日の挿絵をかく。昭和27 48 「八幡平」第16回新制作展 毎日新聞連載小説、今日出海「怒れ三平」10月10日~28年2月2日の挿絵をかく。昭和28 49 サンデー毎日連載小説、吉屋信子「秘色」1月4日号~5月24日号の挿絵をかく。婦人公論連載「物語人物女性史」1月号~12月号挿絵をかく。6月4日、胆石手術。昭和29年 50 「月夜」第18回新制作展 「軍鶏」新制作春季展 朝日新聞連載小説、井上靖「あした来る人」3月27日~11月3日の挿絵をかく。昭和30 51 「滝A」第19回新制作展、毎日美術賞受賞 「流れ」第31回日本国際美術展 佳作賞受賞。 「歯朶」新制作春季展   婦人公論連載小説、石川達三「親しらず」5月号~11月号の挿絵をかく。毎日新聞連載小説、今日出海「チョップ先生」8月16日~31年3月23日の挿絵をかく。昭和31 52 「濤B」第20回新制作展 2月、「美しさはどこにでも」牧書店出版、産経出版文化賞受賞。東京新聞連載小説、火野葦平「コマよまわれ」10月21日~32年10月8日の挿絵をかく。昭和32 53 「滝B」第21回新制作展 「北京の屋根」新制作春季展 中央公論連載小説、井上靖「天平の甍」3月号~10月号の挿絵をかく。昭和33 54 「海ねこ礁」第22回新制作展 「氷原」第3回毎日現代美術展 朝日新聞連載小説、沢野久雄「火口湖」11月19日~34年3月25日の挿絵をかく。昭和34 55 「金華山」第23回新制作展昭和35 56 「流れと鹿」第23回新制作展 「小鳥のくる流れ」毎日美術賞記念展 「福田豊四郎個展」東京・壺中居6月20日~25日昭和36 57 「山海」第25回新制作展 「風樹」第6回毎日国際美術展 東京新聞連載小説、井上靖「崖」1月30日~37年7月8日の挿絵をかく。「福田豊四郎個展-旅の回想」東京壺中居、「福田豊四郎近作展」、名古屋・丸栄デパート、10月7日~12日。昭和37 58 「山脈」第26回新制作展 「梅」第5回現代美術展 「福田豊四郎画伯スケッチ展」秋田市・木内デパート、5月18日~20日「福田豊四郎個展-雪国を描く」東京・壺中居、6月18日~23日「福田豊四郎近作展」秋田市・木内デパート、9月25日~10月3日「福田豊四郎自選回顧展」秋田市立美術館9月25日~10月14日、10月26日昭和38 59 「炎」第27回新制作展 「鯉」新制作春季展 「福田豊四郎個展」大阪・大丸デパート1月22日~27日。「福田豊四郎・上村松篁展」神奈川県立近代美術館9月14日~10月27日。婦人公論連載小説、井上靖「楊貴妃伝」2月号~40年5月号の挿絵をかく。昭和39 60 「ふるさとへ帰る」第28回新制作展 「野火けもの」第6回現代美術展 「福田豊四郎・京洛風趣展」東京プリンスホテル内、フジインターナショナル・アート、11月2日~11月14日。 「福田豊四郎個展-十和田湖十二景-」、東京・上野松坂屋11月17日~22日。朝日新聞連載小説三浦綾子「氷点」12月9日~40年11月14日の挿絵をかく。昭和40 61 主婦の友連載小説、獅子文六「父の乳」1月号~42年12月号の挿絵をかく。「北国へ春が来た」新制作春季展 約2年にわたる月刊誌「潮」の表紙絵終る。昭和41 62 「層雲峡」新制作春季展昭和42 63 3月、『福田豊四郎画集-田園抄12ヶ月-』三彩社。「福田豊四郎展-小さい世界-」東京・南天子画廊3月27日~4月8日昭和43 64 「雪国」第32回新制作展昭和45 朝日新聞連載小説、三浦綾子「続氷点」5月12日~46年5月10日の挿絵を病没までかき続ける。そのあとを新制作協会会員向井久万が引継いでかく。「福田豊四郎展」、東京・南天子画廊9月7日~19日。昭和46 「福田豊四郎画伯遺作展」秋田県角館町公民館4月27日~29日。「福田豊四郎遺作展」秋田市立美術館9月17日~10月13日。武塙林太郎・井上隆明氏制作福田豊四郎年譜参考

中島多茂都

没年月日:1970/07/30

日本美術院評議員、日本美術家連盟委員の中島多茂都は、7月30日死去した。享年70歳。本名保。明治33年静岡県沼津市に生れ、大正9年前田清邨に師事した。昭和4年第16回院展に初入選し、以後毎年日本美術院に出品、昭和20年「球岳」では日本美術院賞となり、同27年同人、38年「長崎三題」では文部大臣賞となった。主な作品に「金時山」「仙石原村」「瀞」「長崎三題」などがある。

田中案山子

没年月日:1970/05/14

日本画家田中案山子は、5月14日肺気腫のため世田谷区の自宅で死去した。享年64歳。本名格男。明治39年東京都青梅市に生れ、田中以知庵に師事し、はじめ院展に出品した。同展に入選すること8回に及び、院友となった。また帝展にも出品している。昭和12年日本美術院を脱退し、元院友12名で改らたに新興美術院を結成、その創立同人となった。昭和16年小室翠雲らの南画人によって大東南宗院が設立されてからは第1回展委員となり、第2回からは審査員となった。同18年新興美術院の同人を辞し、大東南宗院、海洋美術展等に出品した。戦後、再興新興美術院同人となったが、三越本店における個展を主な発表の場とし、開催18回に及ぶ。主要作品に「神代村」「立場茶屋」「伊豆下田街道」「奥瀬」などがある。

鳥居忠雅

没年月日:1970/05/13

歌舞伎絵師鳥居忠雅は、5月13日心筋こうそくのため東京都杉並区の自宅で死去した。享年65歳。本名上野克己。明治37年東京本郷の薬舗尾沢蒼生堂の長男として生れた。大正10年第七世鳥居清忠に入門、鳥居派の芝居絵を学んだ。昭和18年より歌舞伎座の絵看板を描き、戦後歌舞伎座、国立劇場、御園座などの絵看板、番付、筋書などを描いた。最後の作は、国立劇場昭和45年5月興行、宇野信夫作「柳影沢蛍火」となった。なお、作品は日本劇画院展に出品し、次のような出版物がある。「隈取十八番」(昭16木版画)「同上続巻」(昭18)「歌舞伎隈取図説」(昭18)木版画集「歌舞伎十八番」全三巻(昭27)

永田春水

没年月日:1970/05/01

日本画家永田春水は、5月1日東京虎の門病院で心不全のため死去した。享年81歳。本名良亮。明治22年2月18日茨城県に生れ、はじめ、荒木寛畒、寺崎広業、結城素明に師事し、大正2年東京美術学校日本画科を卒業した。大正2年より6年間国華社に入り古画研究に従事した。同9年渡欧し、燉煌発掘仏画模写などに約1年間たずさわった。文帝展に入選すること8回で、昭和6年帝展無鑑査となり、同11年には文展審査員となった。そのほか、海外展示の出品も多く、昭和15年には東京女子高等師範学校講師となった。なお官展のほか読画会幹部で、如春会を主宰した。「戦後は郷里藤代に移り、茨城県美術界の指導にあたり、茨城県南美術協会長となった。主要作に「雪晴れ」(1回帝展特選)「董苑麗日」(10回帝展特選)、がある。

島成園

没年月日:1970/03/05

日本画家島成園は、3月5日心筋こうそくのため死去した。本名成栄。明治25年大阪に生れ、同37年堺高等小学校卒業後、北野恒富、野田九浦に師事した。大正元年第6回文展に「宗右衛門町の夕」を初出品して入選し、褒状となった。同10年森本豊次郎と結婚し、昭和2年満州に移住した。同20年に帰国したが、この間画業は休止して居り、戦後は大阪高島屋で毎年個展を開いて作品を発表していた。作品の主なものに「祭りのよそほひ」(7回文展褒状)、「稽古のひま」(9回文展褒状)、などがある。

中村岳陵

没年月日:1969/11/20

日本画家中村岳陵は、11月20日急性肺炎のため逗子市の自宅で死去した。享年79才。本名恒吉。明治23年静岡県下田に生れ、10才で上京し、13才で野沢堤雨について琳派を学んだ。15才のとき土佐派の川辺御楯に就き、伝統的日本画の諸法を修めた。明治41年東京美術学校日本画科選科に入り、また紅児会にも加わって若い作家と新時代の芸術に対しての共鳴を得、大いに情熱を燃やした。同45年美校を卒業したが、在学中飛び越し進級するなど秀才ぶりがうかがえる挿話もある。卒業の年第6回文展に「乳糜供養」が初入選し、大正3年には今村紫江、速水御舟らと赤燿会を創立した。院展には再興第2回展に「薄暮」を出品して日本美術院同人に推され、その後、院展の中心作家として活躍したが、戦後これを脱退し、以後日展に所属し、ここを舞台に没するまで制作活動をつづけた。この間、六潮会を起し、法隆寺壁画模写主任となり、大阪四天王寺全堂壁画を描き朝日文化賞、毎日芸術大賞をうけた。さらに昭和37年には文化勲章を受与されるなど現代日本画壇の重鎮として、華やかな足跡をのこした。作品は近代西欧絵画の理解による日本絵画への移入を試み、常に意欲的姿勢を示した。日本芸術院会員。新日展運営会常務理事。 年譜明治23年 3月10日静岡県下田に生る。明治33年 上京して本所に住す。明治35年 はじめて野沢堤雨に師事、光琳派を学ぶ。明治37年 土佐派の川辺御楯に師事す。この年「名和長年船上山に登る図」を日本美術協会に出品。明治41年 東京美術学校日本画選科に入学。また紅児会にも入る。「水神」明治42年 「天草四郎時貞」紅児会展に出品。明治43年 美校全期合同競技に「山田長政像」を出し甲の部首席となる。その結果、特別進級されて一挙に卒業期に入る。明治44年 内国勧業博「薬草狩」を出品、三等賞受賞。明治45年 東京美術学校卒業制作「仏誕」を出し首席卒業。第六回文展「乳糜供養」入選。大正3年 今村紫紅 速水御舟らと赤耀会を創立。再興院展第一回「緑蔭の饗莚」入選。大正4年 院展第2回「薄暮」出品と同時に同人に推挙さる。大正5年 院展第3回「維盛高野の巻」。大正6年 院展第4回「大月氏行」。大正7年 院展第5回「にしのひかり」。大正8年 院展第6回「潮鳴」。大正9年 院展第7回「千本桜」。大正10年 院展第8回「輪廻物語」。大正11年 院展第9回「緑蔭嬉遊図」。大正12年 院展第10回「昏光経」(鳥獣戯画絵巻)。大正13年 院展第11回「荒天睨鷲」「動相讃頌」。大正14年 院展第12回「童謡」朝鮮経由北部中国に遊ぶ。大正15年 院展第13回「梳髪」。昭和2年 院展第14回「貴妃腸浴」。昭和3年 院展第15回「流泉四趣」日本美術学校日本画主任教授となる。昭和4年 院展第16回「白狗」日光東照宮社務所障壁画制作。昭和5年 院展第17回「雄鹿鳴く」「鉢かつぎ草紙」日本美術学校教授退職。福田平八郎、山口蓬春らと六潮会を創立。昭和6年 院展第18回「婉膩水韻」多摩美術学校日本画主任教授となる。昭和7年 東京より逗子に移転、六潮会第1回「軍鶏」「狗児」。昭和8年 院展第20回「都会女性職譜」多摩美術学校教授退職。六潮会第2回「雪」。昭和9年 院展第21回「砂丘」六潮会第3回「檜」「筍」「霜晨」両陛下献上画帖「筍」。昭和10年 帝国美術院改組により参与に推さる。院展第22回「爽秋」六潮会第4回展「春朝」「寒牡丹」。昭和11年 帝展第1回「豊幡雲」院展第23回「みづかげ」皇后、皇太后陛下御下命の御末広並びに御勅題のもの謹画。昭和12年 帝国芸術院創設第1回文展審査員に任命さる。文展第1回「砂浜」院展第24回「雨五題」。昭和13年 院展第25回「爽風」六潮会第7回「秋霜」「潺淙」。昭和14年 院展第26回「流紋」六潮会第8回「溪澗」三越にて岳陵個人展を開催「青昼」ほか10点出品。昭和15年 法隆寺壁画模写主任となる。紀元2600年大展覧会審査員となる。「肇国絵巻」執筆。昭和16年 文展第4回審査員に任命さる。昭和17年 院展第29回「緑影」文展第5回審査員に任命さる。昭和18年 院展第30回「まひる」海軍館歴史画制作。文部省美術展覧会委員となり文展第6回審査員に任命さる。昭和19年 陸軍美術展「驀進」出品。昭和20年 逓信院郵務局より新切手図案審査員を委嘱さる。昭和21年 全日本画家協会常務理事となる。文部省第2回日本美術展覧会審査員となる。第2回日展「樹陰」。昭和22年 日本芸術院会員に推挙さる。第32回院展「清夜」。昭和23年 福田平八郎、山口蓬春、小野竹喬らと彩交会を興し、第1回「軍鶏」第4回日展審査主任、「少女」出品。昭和24年 日展運営会理事に推挙さる。彩交会第2回「白鷲」。昭和25年 日本美術院を脱退、日展第6回「気球揚る」出品、意気を示す。彩交会第3回「薔薇」。昭和26年 日展第7回審査員「孫」出品。昭和27年 彩交会第5回「けし」。昭和28年 皐月会第1回「蝶夢」。在外公館装飾用として外務省より依嘱「燕子花」日展第9回審査員。彩交会第6回「軍鶏」第9回日展「窓辺」。昭和29年 第10回日展審査員。彩交会第7回「鉄線花」第10回記念日展「花と犬」。昭和30年 神奈川県立近代美術館にて自薦展を開く。燦光会第1回「永日」彩交会第8回「金魚」第11回日展「狭霧霽れゆく」。昭和31年 彩交会第9回「楽器と花」燦光会第2回「緑庭」第12回日展審査員。第4回皐月会「こねこ」東西画壇デッサンシリーズ(朝日新聞社主催)「岳陵素描展」第12回日展「雪晴」。昭和32年 五都展「菖蒲」彩交会10回「山かひの春」丹下健三構成による岳陵と蒼風展「月明」日展運営会常任理事に推さる。第13回日展審査員、皐月会第5回「青葉頃」燦光会第3回「叢」武蔵野に因む展「秋皓」大阪四天王寺金堂壁画の小下図に着手す。昭和33年 社団法人新日展運営会理事。高島屋美術部創設50周年展「嘉例」出品。第7回五都展「牡丹」彩交会第11回「冬柿」弥生画廊10周年展「春さき」新日展運営会常務理事となる。百二会第6回「秋光」「巌」皐月会第6回「煙月」燦光会第4回「陽春」。昭和34年 宮内省外国使節接見の間に「紅白梅」大阪四天王寺金堂壁画制作始まる。この年「仏誕図」「出城図」完成、第2回日展審査員。昭和35年 壁画「降魔図」「初転法輪図」「涅槃図」11月3日に完成。東京高島屋にて四天王寺金堂大壁画展開催、称賛を博す。昭和36年 1月、毎日芸術大賞授賞。朝日文化賞授賞。毎日芸術大賞受賞記念展(三越)開催 五都展「新雪」明治座「花菖蒲」彩交会第14回「清暁」第4回日展「残照」百二会第7回「晴れた海」。昭和37年 宮中吹上御殿床掛「春蘭」五都展「永日」春風会「静林」現代日本画巨匠展「清晨」彩交会第15回「風濤」東京美術青年会展「月明」紺綬褒章受章。文化勲章、功労章受賞。郷里伊豆下田町名誉町民に推挙さる。昭和38年 彩交会第16回「海添いの丘」和光展「荒磯海」第6回日展「郷子刀自像」百二会「清晨」昭和39年 新宮殿豊明殿障壁画雛形小下図完成。白寿会「山湖暁靄」「鹿鳴館頃婦女図」フランス、ポンピドー首相の熱望により日仏文化親善の為贈呈。三越60周年記念展「曙の海」百二会第10回「雨霽」。昭和40年 春風会「春柳」彩交会第18回「春月」和光展「緑韻」 高島屋現代美術展「山湖爽晨」浜奈寿会「山湖雨情」第8回日展「磯」。昭和41年 彩交会第19回「爛漫の春」近代日本画巨匠展「晴れし海」 浜名須会「慶雲」白寿会第18回「静韻」百二会第12回「山湖見ゆ」。昭和42年 第9回日展「那智神滝」彩交会第20回「江頭黎明」百二会「光峰暁月」白寿会「那智御滝」。昭和43年 芸術院受賞者展「光峰名月」弥生画廊「朝霧の那智御山」彩交会第21回「明けゆく厳島」和光美術展「潟湖爽晨」白寿会「麓清秋」燦光会展「秋晴山湖」百二会「甲斐の山」。昭和44年 浜奈寿会第9回「駿河路」日本画巨匠展春光会「天地悠久」 彩壺会「山峡爽晨」 五都展「曙光」 松尾「裾野の朝」 高島屋水墨画展「雲門仙境」 彩交会第22回「峻峯溪声」現代日本画巨匠展「天壇内廓」 和光展「濃雲雨意」(絶作) 白寿会(絶筆)11月20日午後1時逝去 (中村溪男編)

田岡春径

没年月日:1969/10/07

日本画家田岡春径(本名時三郎)は、10月17日心臓病のため千葉市、井上病院で死去した。享年81才。明治20年徳島県に生れ、東京府立第三中学校に学んだ。画ははじめ四条派の垣内雲嶙に就き、のち南画家の小室翠雲に師事した。元大東南宗院審査員、南宗院同人で、帝展10回以降官展にも出品をつづけ、戦後は日展に発表していた。主な作品-「勝浦海岸」(奉祝展)、「錦秋」(現代美術展)「羅漢窟」(日展)などがある。

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