本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





西澤笛畝

没年月日:1965/10/24

日本画家で人形研究と蒐集で知られる西澤笛畝は、10月24日胆のう炎のため板橋区の自宅で逝去した。享年76才。葬儀は27日谷中観智院で、「人形葬」が行われた。旧姓石川昂一、後西澤家を継ぐ。号比奈舎。明治22年1月東京浅草に生れ、荒木寛畝、同十畝に師事した。傍ら人形玩具の研究に志し、多くの蒐集、著書と共に終生つづけられた。昭和6年童宝美術院を創設し、また団欒社を起し、昭和11年には童宝文化研究所を設立し、所長として内外人形文化のため活躍した。作品は主として官展に出品し、大正4年9回文展で「八哥鳥の群れ」(対幅)が初入選以来殆ど毎年入選し、昭和9年第15回帝展では審査員となった。戦後日展への出品もみられるが、人形玩具文化での活躍が目立つ。昭和26年文化財保護委員会専門審議員となり、昭和34年には人形保存に寄与した功により紫授褒章となった。 主な著書に「雛百種」、「人形集成」、「日本画の描方」、「虫類百姿」、(いづれも芸草堂発行)、「日本郷土玩具事典」(岩崎美術社)等がある。

土味川独甫

没年月日:1965/08/20

日本画家土味川独甫は、8月20日心臓病のため死去し、翌日杉並区の自宅で葬儀が行われた。享年48才。本名松井基夫。大正7年6月10日静岡県浜松市に生れ、県立浜松工業高校図案科を卒業、川端画学校、本郷絵画研究所等で油絵を学び、昭和20年日本作家協会会員となった。同年全日本画人連盟を創設し、委員長となり、また東京美術研究所を起し、その所長となった。昭和32年新象作家協会の創立委員となったが、その後無所属となり専ら個展によって作品を発表した。昭和39年には銀座画廊で画業30周年記念展を開き、写実からシュールレアリズムに至る新思潮と、日本画を結合した意欲的な実験は、注目され一般にも好評だった。代表作として「女人幻覚」(1947)、「赤松林」(1948)、「女」(1952)、「冬の庭」(1959)、「白夜」(1960)、「伊豆連作」(1962)、「古枯」(1964)等がある。

杉浦非水

没年月日:1965/08/18

光風会会員、多摩美術大学名誉教授の日本画家・図案家杉浦朝武(号・非水)は、8月19日午後7時30分、老衰のため藤沢市の自宅で死去した。享年89才。明治9年(1876)愛媛県松山市に生れ、松山中学在学中に絵画の手ほどきをうけ、明治30年上京して川端玉章に師事した。34年東京美術学校日本画科卒業。黒田清輝に私淑し、34年欧州旅行から帰国した黒田のもたらしたアール・ヌーヴォー様式に感動して図案研究を志す。大阪三和印刷所、東京三越、都新聞社などの意匠図案を担当し、劇場の緞帳図案、雑誌表紙、ポスターなどを作成する。45年には光風会の創立に参加、また図案研究団体を創立し、デザイン運動をおこすなど多彩な活躍をなした。美術教育にもたずさわる。工芸図案界の先覚者として長年の功績に対して昭和29年度日本芸術院恩賜賞をうけた。主要作品三越-みつこしタイムズ表紙、長岡座緞帳図案、緞帳図案孔雀の図(旧帝劇)、三越新築のためのゼセッション風の美人ポスター、蝶のダンスポスター(三越)、新宿三越落成ポスター、京城三越落成ポスター、銀座三越落成ポスター七人社出品作品-窓、デプレダシォン、人魚のポスター、裸婦の図、七面鳥、浅間四題光風会出品作品-図案風猫の絵(宮内庁)、群鶏屏風、ペリカン屏風、浅間高原、夕の清洲橋、七面鳥、あすは雨か(浅間山残雪風景)、鵜其の他-長良川鵜飼と納涼ポスター、地下鉄ポスター(五種)、勧業債券ポスター(五種)、明治・大正名作展覧会ポスター、産業組合ポスター(五種)、陸軍展ポスター専売局-響、パロマ、桃山、光、扶桑、日光のタバコ図案著書(大正3年以降)非水図案集 非水の図案 しぼりの図案 非水花鳥図案集 非水一般応用図案集 非水創作図案集 非水百花譜(全20輯) 実用図案資料大成(全8巻・渡辺素舟共著)略年譜明治9年(1876) 5月15日愛媛県松山市に生れる。明治29年 松山中学校卒業、在学中に四条派の画家松浦巌暉に師事。明治30年 5月上京、川端玉章に師事、天真画塾に入り黒田清輝に洋画を学ぶ。9月東京美術学校日本画撰科に入学。明治33年 東京外国語学校仏語別科に入学。明治34年 東京美術学校卒業。明治34年 東京外国語学校修了。5月帰国した黒田清輝のもたらしたアール・ヌーヴォー様式に感激し図案研究を志す。明治35年 黒田清輝の推薦により大阪三和印刷所図案部主任に就職。11月大阪商船株式会社嘱託。明治36年 三和印刷所解散のため退職。大阪開催の第5回内国勧業博に出品。明治37年 4月島根県第二中学校教諭として浜田に赴任。明治38年 11月島根県第二中学校教諭辞職、上京。明治39年 11月都新聞社に入社。意匠図案を担当。明治41年 東京三越の招聘により図案部嘱託として入社、中央新聞を兼任(43年まで)明治43年 三越図案部主任となる。明治45年 3月日比谷図書館主催にて自作の書籍装幀・雑誌表紙図案展覧会を開催。6月中沢弘光、山本森之助ら6名と光風会を創立する。大正2年 国民美術協会創立、絵画部・装幀美術部・学芸部会員となる。大正10年 日本美術学校図案科講師となる。カルピス株式会社美術顧問となる。大正11年 11月図案及び絵画研究のため欧州に遊学、パリを根拠地としてドイツ、イタリア、オランダ各国を巡遊する。大正13年 帰国・図案研究の団体七人社を創立・主宰する。大正15年 七人社創作図案第1回展を三越において開催、その後毎年開催、10回に及ぶ。雑誌「アフィッシュ」を発行しデザイン運動をおこす。昭和4年 帝国美術学校創立され工芸図案科長に就任する。昭和9年 三越嘱託を辞職する。昭和10年 帝国美術学校を退職。多摩帝国美術学校を創立、校長兼図案科主任教授となる。昭和13年 専売局図案嘱託となる。昭和19年 太平洋戦争のため軽井沢に疎開する。昭和24年 疎開地帰京。昭和25年 多摩美術短期大学理事長図案科主任教授となる。東京都広告物審議会委員に任命される。昭和26年 文部省社会教育局通信教育審議会委員を嘱託される。昭和28年 多摩美術大学理事長兼図案科主任教授となる。昭和30年 芸術院恩賜賞(29年度)を授賞。昭和33年 紫緩褒章をうける。昭和35年 夫人翠子死去。昭和40年 勲四等旭日小緩賞を叙勲。昭和40年 5月米寿記念杉浦非水日本画展を日本橋三越で開催する。8月18日死去。

佐原修一郎

没年月日:1965/05/27

国画創作協会で活躍した日本画家佐原修一郎は、5月27日死去した。明治28年2月14日長野県東筑摩郡に生れ、大正13年京都市立絵画専門学校を卒業した。同年の第4回国画創作協会展へ「老婆の像」を出品し、樗牛賞を受け、翌14年第5回展「静物」で再び樗牛賞となった。大正15年同展に「風景」を出品して会友となり、翌昭和2年の同展では「秋庭」で国画賞となった。国展解散後は新樹社に参加し、また帝展へ出品した。「幽庭錦繍」(11回帝展)「信濃路の雪」(12回帝展)「桑つむ里」(13回帝展)「木葉刈」(14回帝展)などがある。戦中からは郷里長野に帰り後進の指導にあたっていた。

養父清直

没年月日:1965/05/20

新興美術院理事養父清直は茨城県に生れた。大正12年に吉村忠夫に師事大和絵を学び、その後日本画院、茨城県展、新興画院展などに出品、31年新興美術院理事となった。5月20日没。略年譜昭和4年(1929) 聖徳太子奉賛展「迎秋の図」。昭和5年 日本画会展「初秋」(以後連続八回入選、「夕」受賞)。昭和14年 日本画院第1回展「浅春」。昭和16年 日本画院第3回展「雪」奨励賞紀元2600年奉祝展「春日」。昭和26年 新興美術院再興第1回展「山」奨励賞、会友推挙。昭和27年 新興美術院再興第2回展「鶏頭之図」受賞。昭和28年 新興美術院再興第3回展「蓮」受賞、会員推挙。昭和29年 茨城県展「黄昏」受賞。昭和32年 茨城県展「船」県買上。昭和40年 5月28日から6月2日まで水戸市南町伊勢甚百貨店で遺作展を開いた。

矢野橋村

没年月日:1965/04/17

日展評議員、日本南画院会長の日本画家矢野橋村(本名一智、別号知道人)は、4月17日午前8時30分、大阪府豊中市の自宅において脳出血のために死去した。享年74才。明治23年(1890)9月8日に生れ、小学校を卒業して南画家永松春洋塾に入る。大正年間に美術文芸研究を目的として直木三十五らと主潮社を起し、個展を主張して審査をうける展覧会への出品を中止したこともある。斎藤与里らと私立大阪美術学校を設立し、日本南画院の設立にも関与した。昭和34年、大阪市民文化賞をうけ、36年には第17回日本芸術院賞を受賞。39年日本南画院会長に就任した。著書に「浦上玉堂」「南画初歩」がある。略年譜明治23年(1890) 9月8日愛媛県越智郡に生れる。明治39年 南画家永松春洋の門に入る。大正3年 第8回文展に「湖山清暁」を出品褒章をうける。大正4年 第9回文展「雨後」出品。大正5年 第10回文展「雲辺浄刹」出品。大正6年 第11回文展「麓」出品。大正8年 直木三十五、福岡青嵐らと主潮社を起し、毎年東京、大阪で個展を開催する。大正10年 日本南画院の設立に関与し同人となる。第1回展「羅浮蓬仙」出品。大正11年 11月、大阪美術協会創立委員となる。第2回南画院展「秋峡・春晝」。大正12年 関東震災のため主潮社展中絶。大正13年 私立大阪美術学校を設立、校長となる(昭和21年閉鎖)、南画院展「十無」。大正14年 南画院展「天竜峡」(6曲1双)。大正15年 南画院展「間人樹芸」「郷国五題」。昭和2年 南画院展「童戯」「待賓留」「浜」。第8回帝展に「雪朝」出品、特選。昭和3年 南画院展「郊外即日」「一飲一啄」。第9回帝展「暮色蒼々」特選。昭和4年 南画院展「夕立」「秋庭」。第10回帝展「盪壑」。昭和5年 南画院展「三保展眸」、第11回帝展「追啄」審査員にあげられる。昭和6年 南画院展「頼山陽絵伝」「峡間猿声」。第12回帝展「大雅堂」。昭和7年 南画院展「筧水」第13回帝展「雪晴」。昭和8年 南画院展「春喧」、第14回帝展「借景画処」、審査員。昭和9年 南画院展「瑞竜」、第15回帝展「砂丘」。大阪府史跡名勝天然記念物調査委員を依嘱される。昭和10年 帝展改組に際し、「指定」に推される。南画院展「華晨」。昭和11年 南画院展「聊爾集」、新帝展「高野草創」、文展「秋与」(2曲1双)、日本南画院解散となる。昭和12年 第1回文展「暮色」審査員。墨人会を起し第1回展「乍雨乍晴」を出品。昭和13年 墨人会展「四季行楽」。昭和14年 乾坤社を創立、主宰し、第1回展「山紫水明」「乳」。第3回文展「山路」。昭和15年 乾坤社展「山岳道者」「初夏」、紀元二千六百年記念展「瑞雪」。昭和16年 乾坤社展「凉宵」、第4回文展「高遊外」。昭和17年 乾坤社展「鯉跳る」「瀞四景」、大阪日本画家報国会結成され、理事長に推される。昭和18年 乾坤社展「或る日の太乙」。昭和21年 第1回日展「朝顔の家」。大阪美術学校閉鎖。昭和23年 第4回日展「幽寂」。昭和24年 第5回日展「寒燈」・審査員。昭和25年 第6回日展「黎明」、関西綜合展審査員。塾展を再会するに当り主潮社の名称を復活する。大阪府芸術賞を受く。昭和26年 第7回日展「不動窟」、審査員。日月社顧問に推される。日月社展「返照」。昭和27年 第8回日展「面河峡」、日展参事、日月社展「北摂風景」関西綜合展「秋晴」。昭和28年 第9回日展「六甲山北面」、日月社展「浦風」。昭和29年 第10回日展「渓潤」、審査員、玉堂賞をうけ文部省買上げとなる。日月社展「雨霽」。昭和30年 第11回日展「旭映雪」・日月社展「雨後」、関西綜合展「豊秋」、主潮社展「瀑布」。昭和31年 第12回日展「箕面」、日月社展「朝色」、関西綜合展「渓潤」、主潮社「箕面」。昭和32年 第13回日展「潮騒」、関西綜合展「魚留」昭和33年 第13改日展改組に当り日展評議員となる。第1回展「旅僧」、日月社展「杉間」昭和34年 第2回日展「峠道」、日月社展「夏山」、関西綜合展「蛸」、主潮社展「夏山」「峠道」。大阪市民文化賞を受ける。昭和35年 第3回日展「錦楓」。主潮社10周年記念展「高山遠水」。日本南画院創立され副会長に就任する。昭和36年 「錦楓」に対し昭和35年度日本芸術院賞受賞。第4回日展「山脈」。昭和37年 第5回日展「山麓」、日本南画院展「晴雪」。昭和38年 第6回日展「牛市行」、日本南画院展「窓雪暁色」。昭和39年 第7回日展「夕照帰急」、日本南画院展「野馬」。日本南画院会長に就任する。昭和40年 日本南画院展「百丈野狐」「青山臨水」、4月17日死去。同日附、従五位勲四等瑞宝賞を授与される。第8回日展に遺作「百丈野狐」出品される。

都路華明

没年月日:1965/01/16

日本画家都路華明は、16日心臓マヒのため京都市北区の自宅で死去した。享年62才。本名辻宇佐雄。明治36年日本画家都路華香の長男として生れ、京都市立絵画専門学校を卒業し、父華香に就き、父没後は金島桂華に師事し、画塾衣笠会に所属した。昭和2年第8回帝展「北野天満宮絵図」が初入選となり、以来官展出品をつづけ、昭和38年第6回日展「残雪」が最後の出品となった。尚、昭和18年迄は本名を用いている。

酒井亜人

没年月日:1965/01/05

日本美術院院友の酒井亜人は、1月5日心筋梗塞のため死去した。享年59才。本名忠三。明治37年千葉県に生れ、はじめ萓原黄丘に師事し、後独学で絵を学んだ。昭和12年第34回院展で「冬」が初入選以来毎年出品をつづけ、昭和27年第37回展、同38回展では日本美術院賞・大観賞となった。作品は渋い色調と、簡化された近代的画面に特色があって注目された。尚昭和13年新日本画の樹立を目指して創立された新美術人協会にも会員として参加している。主要出品作-「冬」(昭12)、「久我山風景」(昭23)、「垣根」(昭25)、「山」(昭26)(各奨励賞・白寿賞)、「晩秋」(昭27)、「茶室」(昭28)(各日本美術院賞・大観賞)、「太海」(昭29)、「樹」(昭30)(各奨励賞・白寿賞)

板倉星光

没年月日:1964/12/17

日本画家板倉星光(本名捨次郎)は、12月17日心筋こうそくのため、京都府乙訓郡の自宅で死去した。享年69才。明治28年12月2日京都市上京区に生れ、京都市立絵画専門学校を卒業した。本科2年在学中の大正4年第9回文展に「露」が初入選し、文帝展を通じて11回入選している。この間昭和4年第10回展「春雪」翌11回展「春雨」が特選となった。翌6年第12回日展で推薦となったが、新文展となってからは無鑑査となった。戦後は菊地塾に拠り日展に依嘱出品をしている。作品は人物を主とし、ことに美人画を得意とした。

須田珙中

没年月日:1964/07/10

日本美術院同人の須田珙中(本名善二)は、7月10日食道ガンのため文京区の自宅で死去した。享年57才。明治40年1月21日福島県岩瀬郡に生れ、昭和9年東京美術学校日本画科を卒業した。在学中の昭和7年第13回帝展に「白河の夏」が初入選となり、翌8年同展に「秋」が入選、この年松岡映丘に師事した。同9年第15回帝展に「高原」が入選した。昭和11年の改組文展には「渓の葉月」を出品し、同13年には松岡映丘の死去により前田青邨門下となった。この後も官展への出品をつづけ昭和15年2600年奉祝展「梢」、同16年第4回文展「南覇の井」、同5回「楽士」などがあり、第6回文展「琉球」では特選となり、政府買上となった。戦後は昭和21年第2回日展「ピアノ」、同3回「燁燭」、同5回「夕映」、同6回展「浴女」(依嘱出品)などがあるが、昭和26年には東京芸術大学美術学部講師となった。翌27年には長年出品をつゞけた日展を脱退し、日本美術院に所属し第38回院展に「牛」を出品し、佳作賞、白寿賞を得た。また同34年には芸大助教授となり、同38年には大学院研究科生等も指導し、後進のため尽力した。尚昭和36年には日本美術院同人となったが、院展での主な作品には第40回展「馬」(奬勵賞・白寿賞)、同41回展「山水石組」(日本美術院次賞・大観賞)、42回展「念持仏」日本美術院次賞・大観賞)、43回展「深海曼陀羅」、44回展「篝火」(日本美術院賞・大観賞)、45回展「正倉院」(日本美術院賞・大観賞)などがあり、穏健な近代的傾向を帯びたアカデミックな作風を示した。

小川翠村

没年月日:1964/05/11

日本画家小川翠村(本名俊一郎)は、5月11日胃ガンのため京都市東山区の自宅で死去した。享年61才。明治35年5月15日大阪府泉南郡に生れ、19才で京都に出、西山翠嶂に師事した。大正9年第2回帝展に「朝」が初入選し、後第6回展「庭園晩秋」、9回「老園逢春」、10回「残る秋」が特選となった。昭和5年第11回帝展で推薦となり、戦後は日展に出品し、依属になっている。作品は専ら花鳥風景を得意とする。

野長瀬晩花

没年月日:1964/03/31

国画創作協会で活躍した日本画家野長瀬晩花は、昭和39年3月31日東京都北多摩郡の自宅で逝去した。享年76才。本名弘男。明治22年和歌山県に生れ、15才の年大阪に出て中川芦月の門に入った。後谷口香喬に師事し、明治42年京都絵画専門学校設立に際して第一期生として入学した。同校中退後、大正7年国画創作協会の創立に参加し、同会の主要メンバーの一人となった。また大正10年には土田麦僊、小野竹喬らと欧州各地を巡遊し、2年の後帰朝した。後満州にも数回旅行し、此際の著書「北満国境線をかく」(昭和11年発行私家版)がある。国画創作解散後は無所属として在ったが、晩年は実業面にたずさわり制作からは遠ざかっていた。主要作品は次の通り。「初夏の流」(大正7年国展1回)「休み時」(大8年2回国展)「夕陽に歸る漁夫」(大9年3回国展)「スペインの田舎の子供」(大13年4回国展)「水汲みに行く女」(大15年5回国展)「海近き町の舞妓」(昭和2年6回国展)

登内微笑

没年月日:1964/03/02

日本画家登内微笑(本名正吉)は、3月2日脳血せんのため京都市北区、鞍馬口病院で死去した。享年72才。明治24年長野県に生れ、大正14年京都絵画専門学校を卒業した。其後菊池契月、寺崎広業に師事し、官展に活躍した。この間大正9年第2回帝展で「奈良の作」(春日若宮、不退寺3枚、末社の山)が初入選となり、第6回「歓喜光」、第8回「多武之岸春雪」では特選となった。又昭和3年9回展では推薦になり翌10回展では審査員となった。新文展では無鑑査による出品をつゞけ、戦後日展では依嘱となった。

高橋周桑

没年月日:1964/02/27

新製作協会会員の高橋周桑(本名千恵松)は、2月27日心臓衰弱のため、東京都目黒区東京共済病院で死去した。享年63才。尚葬儀は、目黒区の自宅で新制作協会葬により行われた。明治33年12月23日愛媛県周桑郡に生れ、大正12年速水御舟の門に入った。昭和5年第17回展で「秋草」が第二賞となり、同17年第29回展で「双華」、32回展で「陳列室」を出品し、無鑑査となった。となった。昭和23年には新日本画の創造を目ざして、新しく「創造美術」が結成された。これを機会に周桑は、長年出品していた院展を退きその創立会員となったが、昭和26年同会が新制作協会と合併したので、新制作協会会員として現在に至ったものである。師御舟の作風を追ったかに見える沈静な趣の画風を特色とし主な作風に次の様なものがある。「春開」「春の枝」「秋草」(昭和5年)「銀座」(第1景~第3景)(昭和7年)「競馬」(昭和9年)「樹と鳥」(昭和13年)「文楽」(吉田栄三)(昭和8年)(陳列室)(昭和22年)「ダリヤ」(昭和23年)「群像」(昭和24年)「松林」(昭和26年)などがある。

小畠鼎子

没年月日:1964/01/26

青竜社社人の小畠鼎子は、宿痾の心臓病のため、1月26日東京武蔵野市の自宅で死去した。享年65才。明治31年2月14日東京神田美土代町に生れ、大正4年東京府立第1高女(現白鳳)を卒業した。この年池上秀畝に師事し、後大正13年より川端竜子に就いた。昭和4年第1回青竜社展で「山百合」が初入選となり、その後第6回展「ペリカン」出品により社友となった。また昭和23年の第20回展では白孔雀と蘇鉄を描いた「白冠図」により社人に推された。この間14回展「睡蓮池」、19回展「山6月」等で奨励賞を受け、第25回展では、連続25回出品記念賞を、第35回展では連続35回出品により表彰された。画壇でも稀なこととされる35回連続出品の記録は、この年出品した「秋雨海裳」の制作を最後に終った。家庭の主婦として育児の傍ら続けられた画道精神を讃えた小文が、35回展の出品目録にみられる。作品は専ら花鳥が多く、美しい色感と、女性らしい素直な観照に特色がみられる。

福田眉山

没年月日:1963/10/28

日本画家福田眉山は、10月28日芦屋市の自宅で脳出血のため死去した。享年88才。本名周太郎。明治8年兵庫県赤穂に生れ、同28年久保田米僊に従って東上し、国民新聞社に入社した。苦学して東京美術学校に通ひ、この間徳富蘇峰に敬事する。明治33年在学3年にして学校を中退し、同年日本美術院に所属する。ここで岡倉天心、橋本雅邦らの指導を受けた。明治42年より45年にわたり中国大陸を、また大正10年には朝鮮各地を昭和13年には再度中国旅行を試み、内外の山水を探索し、それに材を得た絵巻、屏風等の作品が数多い。主なる作品に「兄の刺嘛」(平和博覧会大正3年)、「支那大観」(二冊大正5年)、「支那三十画巻」(大正8年)「金剛秋色図巻」(大正12年献上)「「洞庭湖真景」(大正14年大覚寺客殿襖)「大峨眉」(昭和11年神護寺地蔵院襖絵)他。

榊原苔山

没年月日:1963/09/18

竹杖会々員の日本画家榊原苔山は、9月18日夕狭心症のため京都市の自宅で死去した。享年74才。本名秀次。明治23年京都に生れ、京都市立美術工芸学校、京都市立絵画専門学校本科を卒業後同研究科を経て竹内栖鳳の門に入った。以後第3回文展に初入選以来主として官展に作品を発表し、昭和5年には帝展推薦となった。榊原紫峰は実兄にあたる。

勝田蕉琴

没年月日:1963/09/09

日本画家勝田蕉琴は、9月9日老衰のため東京都北区の自宅で死去した。享年84才。本名良雄。明治12年福島県に生れ、若くして南画家野出蕉雨に師事した。明治32年橋本雅邦の門に入り、同35年東京美術学校日本画選科に入学した。同38年同校卒業後岡倉天心の推薦により印度王族タゴール家に招聘され渡印、仏画製作並びに仏教美術の研究に従事し、また印度政府の依嘱により、同国美術学校で東洋画を教授する。明治40年帰国し、その後は第1回文展をはじめ、戦後まで官展を舞台に活躍した。尚昭和26年以後は毎年革新美術協会に出品していた。主要作品明治40年 第1回文展「出城」「降魔」明治45年 第7回文展「林の中から」大正4年 第9回文展「曾根づたい」大正8年 第1回帝展「粉雪降る朝」大正15年 第7回帝展「無塵地」昭和3年 個展開催。「玉子と玉葱」他。昭和4年 第10回帝展「海濤図」昭和14年 第3回文展「仔牛」昭和16年 第4回文展「玄豹」(伊大使館買上)昭和17年 第5回文展「夏の夕」(文部省買上)昭和25年 第6回日展「鮮菜」

菅楯彦

没年月日:1963/09/04

日本画家で関西画壇の長老である菅楯彦は、4日肝硬変のため大阪市の自宅で死去した。享年85才。本名藤太郎。明治11年3月4日日本画家菅盛南の長男として鳥取市に生れた。幼時父母に従い大阪に移り、明治22年父の病気により高台小学校高等小学科第2年を中退し、絵筆により一家を支えることになった。終生画道の師につかず独学で研究をすすめたが、その間大和絵、四条円山、北南宋、狩野派、浮世絵等、実地研究の他国学を本居派鎌垣春岡に、漢学を山本憲に就いて学び、併せて仏教美術史、宗教史等の研究も積んだ。ことに鎌垣師には有職故実を学び、後年歴史画を描く基礎をつくった。又雅楽を好み、舞楽を習って、晩年は四天王寺舞楽協会長を勤め、伝統の雅楽保存に貢献した。明治33年より37年迄大阪陸軍幼年学校歴史科画事嘱託となり、ここで多くの歴史参考図を製作した。作品は、きめの細い大和絵風の歴史画や、洒脱な大阪の庶民風俗に画材を求めたものが多い。昭和24年に大阪府芸術賞、同26年大阪市民文化賞のほか、同33年には日本画家としては最初の芸術院恩賜賞を授与された。また同37年には初の大阪名誉市民に選ばれた。略年譜明治11年 3月4日 鳥取県に生れる。明治22年 大阪高台小学校高等小学第2年中退。この頃より絵筆により一家を支えた。明治33~37年 大阪陸軍幼年学校歴史科画事嘱託となり、多くの歴史参考図を製作した。大正12年 東京三越にて個展開催。昭和4年 「春宵宜行」(仏国政府買上)日仏展出品。昭和10年 明治神宮聖徳絵画館壁画制作「皇后冊立」。昭和24年 大阪府文芸賞受領。昭和26年 大阪市文化賞を受ける。「山市朝雨」日展招待出品。昭和33年 日本芸術院恩賜賞を受ける。昭和37年 大阪市名誉市民にえらばれる。昭和38年 9月4日没す。代表作明治神宮絵画館壁画、「菊池千本槍」(大阪市立美術館)他、鏑木清方と共著の画集「東京と大阪」(毎日新聞社刊)などがある。

江崎孝坪

没年月日:1963/06/27

日本画家江崎孝坪は、6月27日脳軟化症のため目黒区の自宅で死去した。享年62才。本名孝平。明治37年6月15日長野県に生れ、のち前田青邨に師事した。終始官展を発表の場とし、人物画を多く描き、強い線描と、明快な色彩に特色を示した。晩年は挿絵や映画、舞台芸術等にも多く活躍している。主要作品昭和2年 第8回帝展 「晩秋」(初入選)昭和4年 第10回帝展 「山路」昭和11年 第1回改組帝展 「浜正月」昭和15年 日本画大展覧会(大礼記念京都美術館)「雲と防人」(大毎・東日賞)昭和15年 2600年奉祝展「出発」昭和16年 第4回文展 「撃て」(特選)昭和17年 第5回文展「基地」昭和18年 第6回文展 「出発」(招待)昭和19年 戦時特別展 「海犬養岡麿」昭和22年 第3回日展 「像造」(招待、特選)昭和33年 第1回日展 「フラメンコ」昭和35年 第3回日展 「スパニッシュ」昭和36年 第4回日展 「少年」挿絵「乞食大将」(大仏次郎作)、「太閤記」(吉川英治作)「雲と風と砦」(井上靖作)。映画「七人の侍」他(衣裳考証)舞台装置「新忠臣蔵」他。

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