本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





館岡栗山

没年月日:1978/10/16

日本画家館岡栗山は、10月16日心不全のため、秋田県南秋田郡五城目町の湖東総合病院で死去した。享年81。本名豊治。五城目町出身で、秋田師範を中退後京都に出て近藤浩一路に師事した。昭和8年院展に初入選し、同11年には「雨後」で横山大観賞を受賞した。同14年には日本美術院々友に推挙され、43年には日本美術院特待になっている。37年にはまた秋田県文化功労賞を授与されている。

中庭煖華

没年月日:1978/10/12

日本画家中庭煖華は、10月12日心不全のため、大阪市住吉の阪和病院で死去した。享年77。本名幸一。明治34年2月15日兵庫県養父郡に生れ、大正4年(1915)画家を志して横浜に出た。大正8年川端画学校に入学し、山村耕花に学んだ。同12年の関東大震災により大和当麻寺中坊に寄留し、翌年京都において小林柯白に師事した。第12回院展に「牡丹」が初入選し、寂明と号した。ついで下村観山、安田靫彦に師事し、靫彦師より煖華号をもらった。昭和17年法隆寺金堂の解体修理に伴う壁画模写に参加、荒井寛方班に加わり10号壁画(薬師浄土図)の模写にたずさわった。昭和20年戦災により横浜の居宅が焼失したため、法隆寺に転居し専ら仏画制作にあたった。昭和28年模写の仕事を修了し、山内より眞如庵に転居し、同35年には当麻曼茶羅厨子模様模写に従事した。翌年第46回院展「花と観音」により日本美術院特待推挙となり。第63回院展「論議台」が絶筆となった。またこの年文化庁創設10周年記念にあたり、表彰をうけた。代表作「花と実」(昭16、28回院展)、「浄安」(昭40、第50回院展)など

小林巣居人

没年月日:1978/09/25

日本画家小林巣居人は、9月25日肝臓ガンのため茨城県新治郡の筑波大学付属病院で死去した。享年81。本名善。明治30年3月29日茨城県稲敷郡に生まれ、農業補修学校に学んだ。その後画家を志し、小川芋銭に学んだ。大正7年春、芋銭の紹介により平福百穂に師事した。昭和3年日本美術院試作展に「遅稲田」が初入選し、同年秋の日本美術院展に「竹林」が初入選した。昭和6年院友となったが、在籍8年にして昭和12年9月同志と新興日本美術院を結成し、その創立会員となった。同展は第二次大戦により中絶するが、昭和25年社団法人新興美術院を再興し、翌年6月第1回再興新興美術院展を開催した。以後同展並びに個展をもって制作活動をつづけた。代表作に「遊魚」(昭9)「岩」(昭15)「土機光象画巻」(昭18)「山なし画巻」(昭16)「よだかの星」(二曲一双)(昭12)「新色樹葉」(二曲一双)(昭13)等があり、新しい日本画創造のため力を傾け、近代日本画のアウトサイダーとして活躍した。なお昭和23年には武蔵野美術大学(旧帝国美術学校)教授となり、後進の育成にもつとめた。略年譜明治30年(1897) 3月29日、茨城県稲敷郡、農業小林菊次郎、なをの第五子三男として生まれた。本名善。明治36年(1903) 長戸尋常小学校。(現竜ヶ崎市立長門小学校)に入学。明治44年(1911) 長戸農業補修学校修了。大正6年(1917) 画家を志し、牛久城中に住む小川芋銭を訪ね、持参のスケッチを見てもらう。芋銭は、この年の春に日本美術院の同人となっていたが、弟子はとらず、上京を勧める。大正7年(1918) 春、上京し、芋銭の紹介で、芋銭と同じ珊瑚会の同人平福百穂に師事する。のち書生として住込む。大正8年(1919) 8月、世田谷三宿に、百穂の画塾白田舎が新築され、そこに移る。この頃、百穂より巣居の号を、芋銭より枝上人の号をもらう。大正10年(1921) 2回中央美術展(竹の台陳列館)に「初秋の朝」(中央美術賞)「唐黍」初入選。大正11年(1922) 平和記念東京博覧会「仔兎」。3回中央美術展(三越)「白鷺」。大正12年(1923) 1回茨城美術展「兎」大正13年(1924) この年、白田舎を出て、世田谷区玉川瀬田の農家の離れを借り、自炊生活に入る。大正14年(1925) 3月10日、同門の白田舎熟成満村観音子と結婚、府下荏原郡駒沢に居を構える。2回茨城美術展「樫の新芽」(県賞)。大正15年(1926) 長男玄一生まれる。昭和2年(1927) 3回茨城美術展「粟」(県賞)。次男登生まれる。昭和3年(1928) 13回日本美術院試作展「遅稲田」初入選。15回日本美術院展「竹林」初入選。11月24日、長男玄一死去。昭和4年(1929) 4回茨城美術展に「もろこし」(県賞)。10月、帝国美術学校(現武蔵野美術大学)開校し、日本画科長の百穂を援け、助手として勤める。学校勤務の関係から、住居を豊多摩郡に移す。昭和5年(1930) 2回聖徳太子奉賛美術展「森の朝」。8月、長女なつみ出生。17回院展「唐黍」「谿間早春」。昭和6年(1931) 5回茨城美術展「宿鴉」(県賞、無鑑査推薦)。18回院展「渚」院友推薦となる。昭和7年(1932) 三男恒吉生まれる。19回院展「麥の丘」。昭和8年(1933) 6回美術展「游魚」(無鑑査出品)。20回院展「入日」10月30日、師平福百穂没す。昭和9年(1934) 18回院試作展「雪の林」。21回院展「游魚図」。昭和10年(1935) 茨城会館会館記念茨城美術展「牛」(無鑑査出品)。この年、春から夏にかけ、千葉県銚子の海鹿島にある、篠目家の別荘潮光庵に住む小川芋銭と起居を共にし、芋銭の制作の手伝いをする。昭和11年(1936) 7月、母なを死去。23回院展「こぶし」。昭和12年(1937) 院展院友展(松坂屋)「鴨」。9月17日、茨木衫風、保尊良朔、吉田澄舟、田中案山子、内田青薫、小林三季、鬼原素俊、芝垣興生、森山春笑、鈴木三朝、菊池公明、そして巣居の日本美術院院友12名は、同院を脱退し、『自由拘束なき新興清新なる芸術を揚達する』目的を以て、新興美術院を結成する。昭和13年(1938) 1回新興美術院展「苗木の春」「朝霧」「夕霞」。12月17日、小川芋銭没。この年、秋、府下北多摩郡武蔵野町吉祥寺に家とアトリエを新築する。昭和14年(1939) 2回新興展「青嵐」、新興同人小品展「柿」「秋菜」。昭和15年(1940) 3回新興展「岩」、新興院同人小品展「川鳥」。昭和16年(1941) 2月、新興美術院の井ノ頭研究所成り、研究部員となる。4回新興展「やまなし」(宮沢賢治の童話に取材)、岩三部作「暖(春)」「霧(夏)」「雪(冬)」。6月、新興大阪展終了後、芋銭の理解者であり、姻戚にあたる兵庫県丹波の西山邸を訪ね、暫時滞在し、芋銭作品を研究する。昭和17年(1942) 5回新興展「潮光国土(其一、其二、其三、其四)」「火(高熱炎)」「水(溪水底)」昭和18年(1943) 6回新興展に「土機光象巻(上下)」茨木衫風、田山案山子とともに新興美術院を脱退宣言する。しかし、会の運営そのものも、戦時下の混乱のもとで、翌7回展をもって中断する。昭和19年(1944) 9月、銚子海鹿島潮光庵で独居生活に入る。昭和21年(1946) 栃木県那須郡馬頭に住む金子正一郎方で終戦を迎える。この年夏、茨城県新治郡高浜町に移住する。昭和23年(1948) 武蔵野美術大学(元帝国美術学校)の教授に就任する。昭和24年(1949) 3月~10月、再度、海鹿島潮光庵にて独居生活をする。 昭和25年(1950) 10月、茨木、田中、鬼原、芝垣、保尊と巣居人(戦後、巣居から改める。)の旧新興美術院同人六人(三季は日本美術院に復帰し、森山、内田、吉田は既に他界)に、横田仙草、岡田魚降森が加わり、新興美術院を再興する。昭和26年(1951) 1回再興新興美術院「よだかの星(宮沢賢治文より)」、秋季展「岩上雲」。この年、武蔵野美術大学教授を依願退職する。昭和27年(1952) 2回再興新興展「新色樹葉(一)」「新色樹葉(二)」「新色樹葉(三)」、再興新興秋季小品展「鬼蓮」。7回茨城県展の審査員となる。以後、審査委員、運営委員を歴任、出品を続ける。昭和28年81953) 3回再興新興展「海」。秋季新興展「残雪昭和29年(1954) 4回再興新興展「水辺(画巻)」。秋季新興展「小径」。昭和30年(1955) 5回再興新興展「夜の樹」「落葉」。秋季新興展「初夏」「流陰」。12月、新興美術院が社団法人となり、常任理事に就任する。昭和31年(1956) 6回再興新興展「海辺浅春」「海辺晩春」。12月、世田谷区玉川瀬田町434に移る。昭和32年(1957) 7回再興新興展「溪氷」。昭和33年(1958) 1月、1回小林巣居人日本画展(日本橋三越、以下三越個展と略す)「水郷の雪」「雪解ける」「早春の山」ほか。8回新興展「海鵜」。昭和34年(1959) 10回秀作美術展「海鵜」(招待出品)。2回三越個展「浅春」「雪後」「樫若葉」ほか。美術家会館建設展(日本橋高島屋)「游魚」。9回新興展「径」秋季新興展「柳」昭和35年(1960) 3回三越個展「水郷十題」。水郷高浜を描いた「春の雨」「杜」「二本の木」「朝」「夕」ほか。10回新興展「水辺夏」「水辺冬」。15回記念茨木美術展覧会「秋の水」(審査員出品)。昭和36年(1961) 11回新興展「寒さえる」。4回三越個展「白鷺」「三日月」「水辺」ほか。10回五都展「鵜」。昭和37年(1962) 12回新興展「湖」。5回三越個展、水郷の四季の推移を描いた12作「浅春」「冬の水」「水路」「雨止む」「水葵」ほか。昭和38年(1963) 7回二本国際美術展「雲」13回新興展「水郷六月」6回三越個展水郷の水をテーマとした、「朝」「夕」「明るい夜」ほか。昭和39年(1964) 6回現代日本美術展「三月の雲」14回新興展に「水辺の木」7回三越個展に「秋立つ」「冬」「月冱」ほか。昭和40年(1965) 15回新興展「冬の干拓」8回三越個展「静かな日」「風の日」「しぐれる日」ほか。11月9日~18日、20回茨城県美術展に審査員として「晩夏」を出品、20回を記念し、功労者の一人として感謝状をうける。昭和41年(1966) 16回新興展「風なぐ夕」秋季新興展(銀座ヤマト画廊)「冬の日」1回茨城県芸術祭美術展覧会「冬田」昭和42年(1967) 17回新興展「水辺夕」「水辺暁」(文部省買上)9回三越個展「水辺画巻」「うす日」ほか出品。秋季新興展(銀座画廊)「みづうみ」昭和43年(1968) 18回新興展「水辺の若草」秋季新興展(二本美術協会)「ゆき」昭和44年(1969) 1回茨城新興展「水辺画巻」19回新興展「水辺の雨」秋季新興展「潮だまり」10回三越個展「水辺」「雲かげ」「雪後」ほか出品。昭和45年(1970) 20回新興展「春泥(1)」「春泥(2)」10月25日~31日、秋季新興展に「秋出水」を出品する。昭和46年(1971) 21回新興展「氷とける」「雲流れる」9月、茨城県の美術新興に尽した功績により、第8回いばらぎ賞(茨城新聞社)受賞。10月11日~17日、秋季新興展に「明るい夜」を出品する。昭和47年(1972) 22回新興展「雨ふる」(東京都美術館買上)12月1日~7日、秋季新興展(上野の森美術館)に「風にとぶカラス」を出品する。昭和48年(1973) 23回新興展「きりはれる」秋季新興展「みぞれ」昭和49年(1974) 24回新興展「樫若葉」秋季新興展「アシと雲」昭和50年(1975) 25回新興展「明るい夜と潮だまり」秋季新興展「なぐ」12月、石岡市高浜町795に転居。昭和51年(1976) 26回新興展「水辺揺」秋季新興展「春雪」昭和53年(1978) 28回新興展「水辺晨月」この作品は病のため完成にいたらず、空の部分は三男恒吉(新興美術院常任理事)が仕上げて出品。9月25日、肝臓ガンのため、入院加療中の筑波大学病院にて死去、同日付で、芸術文化に対する功績により勲四等瑞宝章を受ける。昭和54年(1979) 29回新興展「みぞれ」(昭和48年秋季新興展出品)が遺作出品される。昭和55年(1980) 9月、小林巣居人遺作展が茨城県立美術博物館にて開催され、作品64点、資料として、遺品、スケッチブック等が展観される。(本年譜は茨城県立博物館開催「小林巣居人遺作展」図録収載の年譜を再録させて頂いた。)

甲斐莊楠音

没年月日:1978/06/16

日本画家甲斐莊楠音は、6月16日京都市内の知人宅で倒れ、病院に収容中心不全のため死去した。享年84。明治27年12月13日京都に甲斐莊正秀、カツの9人兄妹の5男として生れた。甲斐莊家は、河内国金剛山麓甲斐莊村の豪族で、楠正成の一族という。京都市立銅駝小学校から京都府立一中に入学したが、病弱なため京都市立美術工芸学校に転校し、明治45年3月同校を卒業した。続いて同市立絵画専門学校に進学し、大正4年に同校を卒業、研究科に2年在籍した。またかたわら川北霞峰の塾にも学んだ。大正7年第1回国画創作協会展に「横櫛」が入選し、以後国画創作協会を発表の場とした。第2回出品の「青衣の女」は落選し、第4回帝展に入選するという事態もあったが、国画創作協会解散後は美術界の活動は順調に進まず映画界に入った。時代考証、道具立てなどの仕事にながく携わり、絵画制作とは遠ざかっていたが、昭和38年京都市美術館において国画創作協会回顧展開催に際し、旧作3点が展示された。以後再びその作品が注目されるようになり、昭和50年3月には東京三越において「甲斐莊楠音回顧展」が開催された。作品は自ら美人画専門としていて、対象とする女性像は大正期の風潮を多分に反映した、世紀末的色彩濃いものであった。美人画作品としては、いわゆる綺麗ごとに終始する作風の多い中で、美人画の範疇をこえるものでもあった。そしてその強い個性的作風には、理解ある支持者も少くなかった。国画創作展ほか主要作品はつぎの通り。「舞ふ」「半裸の女」(1924、国創第4回)「南の女」「歌奴」「裸婦」(1926、同第5回展)「雪女(未成)」「娘子」「母」「逃亡」(1927、第6回展)「椿姫」(1928、第7回展)。「横櫛」(1922、第4回帝展)「花子桜子」(第1回京都市展)。なお、甲斐庄の庄は映画の仕事に携って以後用いている。

太田正弘

没年月日:1978/05/21

日本画家太田正弘は、5月21日胃ガンのため、浦和市の自宅で死去した。享年63。大正3年8月21日福島県原町市に生れ、昭和15年(1940)東京美術学校日本画科を卒業した。同20年(1945)まで兵役に服し、22年山本丘人の門に入った。翌年結成された創造美術展に出品の「睡蓮」が初入選し、翌第2回「森」、第3回「森」などの出品がある。その後も創造美術への出品をつづけ、連続入選している。この間創造美術は洋画団体新制作派協会と合流し、またついで創画会として再発足するなどの変遷を経るが、終始ここを拠点に制作活動をつづけ、昭和36年(1961)新制作協会々員に推挙され、49年には創画会々員になった。この間における受賞は、新作家賞1回、春季展賞9回に及び、晩年は個展(銀座文春画廊、1960、京橋孔雀画廊・1964)も開催した。作品は風景を主題としたものが多く、代表作に「北壁」(1963)「遠い薗」(1977)などがある。

秋葉長生

没年月日:1978/05/12

日本画家秋葉長生は、5月12日胃カイヨウのため東京都狛江市の自宅で死去した。享年67。本名武。明治44年4月3日千葉県茂原市に生れ、昭和8年川端画学校を卒業した。山口蓬春に師事し、昭和16年第4回文展に「三月堂」が初入選し、第5回「中門」第6回「問答」が入選した。戦後、日展を舞台に制作をすヽめ、昭和24年第5回日展「夏1日」をはじめ、入選8回、依嘱3回、審査員2回をつとめた。また「山あい」「静境」(昭和38年第6回展)で特選、白寿賞となり、昭和41年第9回日展で「天平の瓷」が菊華賞となった。

安田靫彦

没年月日:1978/04/29

日本画家安田靫彦は、4月29日心不全のため、神奈川県中郡の自宅で死去した。享年94。本名新三郎。明治17年2月16日東京市日本橋区の老舗料亭「百尺」の四男として生れた。父松五郎。母きく。病弱な少年期をすごすが、父の没後店舗を人に譲り、一家は根岸御院殿に転居した。近くに上野公園があり、博物館や、共進会ですぐれた美術品に接する機会も多く、その感動が画家への志を決心させることになった。明治31年1月14歳の時、小堀鞆音の門に入り、10月創立された日本美術院展に「家貞」を出品し、初入選となる。この年同門の磯田長秋、小山栄達らと研究会紫紅を結成し、研究をつづけたが、同33年10月今村紫紅を知り同会に迎え、会名を紅兒会と改めた。紅兒会はのちに速水御舟をも迎えるが、はからずも日本画壇に大きな足跡をのこすに至る俊才が集り、研鑽をつんだことは、近代日本画発展の上にその意義はきわめて大きいといわなければならない。明治34年東京美術学校日本画科選科に入学し、1年足らずで退学した。明治40年、日本美術院の研究会で岡倉天心に知られ、茨城県五浦の研究所に招かれ、またその推挽によって、翌年10カ月間篤志家による奈良古美術見学の機会が与えられた。天心にはその後も折々薫陶を受けたが、大正2年天心没するに及び、翌3年門下の横山大観、下村観山の日本美術院再興に際し、同人となり経営者に加わった。作品は、第1回に初入選以来院展に出品をつづけ、再興後は院の中枢的存在として活動をつづけた。そのほか初期文展でもしばしば受賞し、また紅兒会にも多くの作品を送った。制作のほか昭和14年には法隆寺壁画保存会委員となり、またそのための模写事業にたずさわり、戦後は21年に国宝保存会委員、22年正倉院評議会会員、同25年文化財専門審議会委員、26年東京国立近代美術館評議員となるなど、美術行政面にも尽力している。さらに、昭和19年以降26年まで東京美術学校(現東京芸術大学)教授となり、後進の育成にもつとめた。他方良寛の書についても造詣深く、その研究家としてしられるが、古陶に対する関心も深く、東洋古陶、土偶などの蒐集も数多い。作品は歴史面、花卉が最も多く、雅致深く、品格あるその画面は、ふく郁たる花の香りにたとえたれる。代表作、「夢殿」(1912)、「孫子勒姫兵」(1938)、「黄瀬川の陣」(1940)、「王昭君」(1947)など。昭和23年文化勲章受領。日本芸術院会員 ◆年譜明治17年(1884) 2月16日、東京日本橋区に松五郎、きくの四男として生まれる。本名新三郎。生家は江戸時代から続いた料亭「百尺」で、父はその三代目、養子であった。10月、母きく死去。初代松五郎の妻の妹松井きくに育てられた。明治29年(1896) 日本橋区小網町にあった私塾甲津学舎で『四書』の素読や『日本外史』を学ぶ。この頃から体が弱く、病床に伏すことが多かった。年末頃、日本橋区有馬小学校高等科3年を退学する。この年8月に父松五郎が死去したため、店を父の友人小山某に譲り、一家は下谷区上根岸御院殿へ引越す。明治30年(1897) 上根岸は上野公園に近く、しばしば帝室博物館に足を運び、法隆寺壁画や飛鳥天平彫刻の構造を見て感動する。また、日本絵画協会の第2回共進会(3月)、第3回共進会(10月)を見て、下村観山、菱田春草、横山大観、小堀鞆音の作品に感激し、画家になろうと決心する。明治31年(1898) 1月、小堀鞆音の門に入る。10月、日本美術院が創立され、日本絵画協会第5回絵画共進会と連合して開会した第1回展に「家貞」を出品する。この年、同門の磯田長秋、小山栄達、山川永雅ら8名と紫紅会を結成し、互いに研究を続ける。雅号靫彦は、師鞆音の師川崎千虎がつけてくれた。明治32年(1899) 10月、第3回院展(第7回絵画共進会)「粟津のわかれ」、(褒状二等)、紫紅会「吉野訣別」。明治33年(1900) 4月、第4回院展(第8回絵画共進会)「遣唐使」、(褒状二等)。この頃、師の画風と違った絵を描き始めた遠慮から号を『眠草』としたが、程なくやめる。10月、今村紫紅を知り、意気投合して紫紅会に迎える。このあと会名を紅兒会と改めた。明治34年(1901) 3月、初めて鏑木清方を訪ねる。4月、東京美術学校日本画科選科入学、古画の模写やモデルの写生を志したがならず、半年程で退学する。明治35年(1902) 1月、小堀鞆音の主唱によって成立した歴史画風俗画研究会(歴史風俗画会)に参加する。3月、第8回院展(第12回絵画共進会)「北洋水師の末路」(褒状一等)9月、半月ほど奈良、京都に遊び、奈良の古美術に感銘を受けた。11月、紅兒会第2回展に「法隆寺御宴」を出品。明治36年(1903) 4月、第14回絵画共進会「日蓮入滅」春、歴史風俗画会第2回展「田村麿と葛井親王」。7月、紅兒会第4回展「奈良朝」。9月、歴史風俗画会第3回展「平等院合戦」。明治37年(1904) 10月、紅兒会第5回展「松山鏡」「戦友」。12日、日露海戦旅順攻撃の錦絵を描く。明治38年(1905) 4月、巽画会第6回展「日永」を出品。6月、紅兒会第6回展「聚楽茶亭」「白旗の宮」。明治39年(1906) 3月、歴史風俗画会第4回展「豊公詣白旗宮」「実盛」(二等賞)5月、紅児回第7回展「松風」。10月、江戸子会展「勝海舟」。明治40年(1907) 3月、東京勧業博覧会「最手」、(二等賞)。8月、紅児会第8回展「新しき光」。9月、岡倉天心を会長とする国画玉成会の創立に加わり、評議員となる。文部省美術展覧会出品準備のため日本美術院の研究会で「福原管弦講」の下図を天心に認められ、五浦(茨城県)の研究所に招かれる。10月、文部省第1回美術展覧会(文展)「豊公」、(三等賞)。12月、岡倉天心、橋本雅邦が篤志家の寄付を得て組織した日本美術学院の事業として、選ばれて奈良に滞留し古美術を研究することとなる。明治41年(1908) 奈良滞在9カ月の後、健康をそこね、8月、帰京する。10月、国画玉成会主催の日本絵画展覧会「守屋大連」(審査員出品)。12月、発病し、静養を余儀なくされる。この年、小堀鞆音らが発起した人物画研究会に参加する。明治42年(1909) 春、鎌倉材木座に療養中、親しくしていた修善寺の旅館『新井』のあるじ相原氏の好意により、養気館とも称された『新井』の一室で静養する。晩秋、小康を得て、沼津千本浜に移る。明治43年(1910) 9月、日本美術社主催絵画展覧会「天女」。10月、紅児会第13回展「観自在菩薩」。この年、沼津八幡町に住む。明治44年(1911) 2月、巽画会第11回展の審査委員となる。3月、紅児会第14回展「仏陀」「達磨」。9月、日本美術社主催絵画展覧会「達磨」「上宮太子」。この頃、静養中に岡倉天心の見舞を受ける。この年、岡倉天心の配慮により、今村紫紅、小林古径、前田清邨と共に横浜の原富太郎の保護を受けることとなり、小田原に転居する。明治45年大正1年(1912) 春、今村紫紅と共に小田原に住む。この頃、再び岡倉天心の見舞を受けた。6月、紅児会第18回展「人物」。10月、第6回文展第1部第2科「夢殿」、(二等賞)。この頃、「上宮太子」を制作。しばしば原邸の三渓園に招かれ、紫紅、古径、清邨と古名画等の鑑賞講究の会を催し、以後継続される。この頃、初めて良寛の書を観る。また富岡鉄斎の作品を知る。大正2年(1913) 8月、紅児会解散。9月2日、岡倉天心赤倉の山荘に没する。この頃、「六歌仙」「黄瀬川之陣」を制作。大正3年(1914) 9月、日本美術院の再興に発起人として参与し、経営者同人となる。10月、文展と日を同じくして日本橋三越旧館に開催された日本美術院再興記念展覧会(院展)に「御産の禱」を出品する。この年、大磯町に転居。大正4年(1915) 春秋、病む。この年、「燈籠大臣」「文殊」を制作。大正5年(1916) 5月、双幅画会(大阪、高島屋)「維摩詰」。6月、日本美術院主催今村紫紅遺作並追悼展覧会「今村紫紅像」。9月、第3回院展「項羽」。大正6年(1917) この頃から、漢、唐、宋、高麗の古陶、土偶などを蒐集する。この年、「聖徳太子」「日蓮」を制作。大正7年(1918) 9月、第5回院展「御夢」。この頃、良寛の研究を続ける。大正8年(1919) 1月、多田いとと結婚する。2月、小品画幅展覧会(高島屋呉服店)「朝の富士」。6月、妻と共に越後に良寛の遺跡をたずねる。この年3月、小堀鞆音門下の革丙会が第1回展を開催する。この年、「観音」を制作。大正9年(1920) 1月から2月にかけて肺炎のため臥床する。4月、革丙会第2回展「春の路傍」。9月、第7回院展「五合庵の春」。この年、「沐猴」「弘法大師」を制作。大正10年(1921) この頃、写真に凝る。この年、4月から10カ月間アメリカで開催された日本美術院同人作画巡回展に「曙」を出品。この年、「竹に双雀」「牡丹」「上田秋成」を制作。大正11年(1922) 4月、巴里日本美術展覧会「新篁雨余」。7月、入手した良寛の自筆歌集「布留散東」を複製し、知人に頒つ。9月、第9回院展「二少女(あやとり)」。9月、新潟県出雲崎に藤原風をとり入れた良寛堂を設計する。この年、「狗」「良寛和尚」「摩利支天」を制作。大正12年(1923) 9月の関東大震災により原家の援助を離れる。大磯町山手の住居は全壊した。この年、「鍾馗」「天人」「神農」「木瓜」を制作。大正13年(1924) 春、大磯町小磯の鈴木別邸に移る。この年、「其角」「竹林観音」「上宮太子」「鶯を放つ乾山」「茶梅」を制作。大正14年(1925) 9月、第12回院展「日食」。10月、中央美術十周年記念展「采女」。12月。関尚美堂展「梅」出品。この年、「大伴宿禰白鷹歌意図」「新羅図」「天人異香」「虎」「牛」などを制作。大正15年昭和1年(1927) 1月、小堀鞆音社中の革丙会が革新の発会式を挙げ、審査員に推される。2月、聖徳太子奉讃美術展の代表委員となる。3月、革丙会展覧会「西廂待月」。12月、東京会展「胡瓜」。この頃から日記をつけ始める。この年、「紅梅に鶯」「挿頭花」「水月観音」「飛兎」を制作。昭和2年(1927) 4月、革丙会第6回展「霊院寺夜月」。6月、東京朝日新聞社主催明治大正名作展覧会「守屋大連」「夢殿」「御産の禱」。12月、尚美展「蟷螂」。この年、「不動」「秋晩」「竜」。昭和3年(1928) 3月、一八公会第3回展「鶯」。5月、革丙会第7回展「宛転歌」。9月、第15回院展「居醒泉」。11月、『良寛遺墨集』(第一書房刊)を監修する。12月、自ら設計した大磯町東小磯403の新居に入る。これより先7月に画室が完成し、既に制作を始めていた。この年、「漸入佳境」を制作。昭和4年(1929) 4月、革丙会第8回展「顧愷之」。6月、坪内逍遥作『良寛と子守』(帝国劇場)の舞台装置をする。7月、『日本風俗画大成』(中央美術社刊)足利時代篇の解説を執筆する。9月、第16回院展「風神雷神」。10月、『日本風俗画大成』奈良平安時代篇の解説を執筆する。11月、第2回聖徳太子奉讃美術展(昭和5年開催)の審査員となる。この年、「瓶花」「不二」を制作。昭和5年(1930) 4月、ローマで開催された日本美術展「風神雷神」。5月、大磯小千畳敷の安田家別荘内に持仏堂が落成する。初代安田善次郎翁追善のため建てられたもので、かねて依頼を受けて観音堂、五輪塔及び平唐門を藤原式に設計した。5月、東京会春期展「若葉」。9月、第17回院展「風来山人」。12月、琅玕洞展に「小倉の山」。この年、平福百穂、鏑木清方、菊池契月、小林古径、安田靫彦、前田青邨、土田麦僊を会員とする七絃会が組織され、毎年1回日本橋三越で作品を発表することとなる。この年、「高野草創」「明恵上人」「黄初平」「春生」を制作。昭和6年(1931) 1月、ベルリンで開催された日本美術展に委員として「沼の朝」を出品。4月、革丙会第10回展「天の川」。11月、七絃会第2回展「朝顔」。12月、三越展「水仙」。昭和7年(1932) 3月、日本美術院同人派遣軍慰問展「盾」。4月、革丙会第11回展「高野明神」。7月、白日荘展「人麿」。9月、第19回院展「挿花」。11月、七絃会第3回展「鴨川夜情」、東京会展「倭媛命」。12月、三越絵画展「桓野王」、関尚美堂展「一休」。この年、「鶏」「水仙」を制作。昭和8年(1933) 2月、琅玕洞展「朝顔」。4月、清光会第1回展「木瓜」、革丙会第12回展「清盛」。清光会が座右宝刊行会の主宰者後蔵真太郎によって組織された。会員は小林古径、安田靫彦、土田麦僊、梅原龍三郎、安井曾太郎、坂本繁二郎、佐藤朝山、高村光太郎、。10月、吉田絃二郎作、中村吉右衛門初演の『二条城の清正』(東京劇場)の舞台装置をする。10月、日本美術院同人作品展「ざくろ」。11月、東京会展「鎌倉右大臣」、七絃会第4回展「宮本二天像」。12月、尚美展「春到」。この年、「源氏若紫図」を制作。昭和9年(1934) 2月、日本美術院同人新作展「太子供養」。3月、日本美術院第18回試作展「市の聖」。4月、革丙会第13回展「横川の僧都」。6月、関尚美堂展「芍薬」。9月、第21回院展「月の兎」。9月、修善寺の旅館『新井』のために設計した浴室が完成する。天平風呂と名付けられた。9月から11月にかけて新京、ハルピン、奉天で開催された日満合同美術展に「蘭花」を出品、展覧会終了後宮廷に納められる。10月、第2回日本美術院同人作品展「北斗」。11月、七絃会第5回展「吉水の庵」。12月3日、帝室技芸員に任命される。12月、東京会展「相模太郎」。この年、「羅浮仙」「焔の兎」「利休居士」を制作。昭和10年(1935) 2月、墨心荘展「聾米翁」。3月、太白洞展「春日野」。4月、東京府美術館開館十周年記念現代綜合美術展「風神雷神」(昭和4年)。踏青会第1回展(日本橋高島屋)「不動明王」。5月、清光会第3回展「梅」、革丙会第14回展「朝顔」。6月1日、帝国美術院会員。7月、関尚美堂展「凉棚」。11月、七絃会第6回展「一茶」、東京会展「大伴家持」。昭和11年(1936) 2月、第1回帝国美術院展覧会(改組帝展)(審査員出品)「役優婆塞」。4月、踏青会第2回展「華会」。5月、革丙会第15回展「役行者」。7月、尚美堂展に「武蔵」、多聞洞展「孔子観河」。10月、第4回日本美術院同人作品展「不動明王」。11月、七絃会第7回展「仏性房」、井南居展「大雅と蕭白」。12月、現代邦画結集展「白玉椿」、九品庵展「摩訶迦羅天」昭和12年(1937) 3月、革丙会第16回展「牛」。4月、明治大正昭和三聖代名作美術展覧会(大阪市立美術館)「守屋大連」(明治41年)「日食」(大正14年)「風神雷神」(昭和4年)6月、清光会第4回展「めじろ」。6月23日、帝国芸術院会員となる。9月、第24回院展「花づと」。第1回文部省美術展覧会(新文展)審査員となる。11月、井南居展に「龍胆」、七絃会第8回展「方丈閑日」。12月、三昧堂日本画展「明恵上人」。昭和13年(1938) 1月、茶道を習い始める。矢来荘展「菊御作」。2月、関尚美堂展「うさぎ」。3月、多聞堂展「百合」、第5回日本美術院同人作品展「赤人」。6月、第5回展「うさぎ」、本山竹荘展「豊公」。9月、白日荘展「上宮太子」。10月、第2回新文展「孫子勒姫兵」(審査員出品)。11月、七絃会第9回展「観自在」。12月、井南居展「行秋」、関尚美堂展「曾呂利」。昭和14年(1939) 1月、川崎小虎ら革丙会の有志と朱弦会を組織し、第1回展「紅梅」出品。3月、碧牛居展「壬生忠岑」。4月、紀元二千六百年奉讃展(日本橋高島屋)合作「肇国創業絵巻」出品。同巻に「天孫降臨」を描く。5月、東京会展「鎌倉右大臣」。6月、法隆寺壁画保存調査会成り、その委員となる。清光会第6回展「観音」。9月、第26回院展「天之八衢(天鈿女命と猨田彦神)」。11月、七絃会第10回展「菊慈童」。12月、井南居展「夜咄」、関尚美堂展「益良男」。昭和15年(1940) 2月、朱弦会第2回展「布都御霊之太刀」、春芳堂展「行成卿」。5月、東京会展「伝教大師」。6月、清光会第7回展「瓢箪の花」。11月、紀元二千六百年奉祝美術展「義経参着」(委員出品)、七絃会第11回展「秋色」。この年、秋から法隆寺金堂壁画模写始まる。昭和16年(1941) 3月、関尚美堂主催尚絧会第1回展「伊那佐の山」。6月、清光会第8回展「すまふ」。9月、第28回院展「黄瀬川陣」。この作品は前年の「義経参着」に対する右隻を完成し、左右揃えて出品した。11月、七絃会第12回展「源氏挙兵」。12月、第1回野間美術賞を受賞する。この年、11月から細川護立、児島喜久雄の肝煎で、小林古径、安井曾太郎、梅原龍三郎らと横山大観の肖像を描く二十五日会が始まる。昭和17年(1942) 1月、「黄瀬川陣」に対して昭和16年度朝日文化賞を贈られる。2月、日本美術院軍用飛行機献納同人作品展「重盛」「水仙」。3月、日本画家報国会軍用機献納作品展「益良男」、現代大家先哲画像展「良寛」。7月、清光会第9回展「櫛名田比売」。海軍省から山本五十六聯合艦隊司令長官の肖像制作を依嘱される。9月、第5回新文展審査員となる。10月、満州国建国十周年慶祝絵画展「鑑真和上」。11月、七絃会第13回展に「憶良の家」を出品。12月、尚絧会第2回展「九郎義経」。この頃「豊太閤」を制作。昭和18年(1943) 1月、全日本画家献納画展「楠正行」。2月、日本歴史画展「神皇正統紀(北畠親房卿)」。7月、清光会第10回展「行墓菩薩」。この年、4月と12月に法隆寺壁画模写監督のため奈良へ赴く。この年、「薄紅梅」「赤星母堂像」を制作。昭和19年(1944) 2月、戦艦献納帝国芸術院会員美術展「保食神」「豊太閤」。4月、日本歴史画展「相模太郎」。6月、東京美術学校教授となる。11月、文部省戦時特別美術展に「山本元帥像(十二月八日の山本元帥)」を海軍省が特別出品。この年、「若き射手」を制作。昭和20年(1945) 7月、山中湖畔に疎開し、富士の山容に心をひかれる。9月、帰宅する。11月、日本美術院小品展「さくら」。この年、「古事記」「兎と薊」「不動明王」を制作。昭和21年(1946) 6月、国宝保存会委員となる。文部省主催日本美術展覧会(第1、2回日展)審査員となる。この頃、大磯在住の若き学徒徳川義恭と宗達の研究を続ける。7月、清光会第11回展「観世音菩薩像」。この年、「白椿」を制作。昭和22年 2月、七絃会復活展「火亦凉し」。3月、第2回日本美術院小品展「毬」。6月、清光会第12回展「牡丹」。7月、正倉院評議会会員となる。9月、第32回院展「王昭君」11月、東京国立博物館評議員会評議員となる。この年、「六朝文官俑」「翡翠」を制作。昭和23年(1948) 2月、川端康成全集(新潮社版全16巻昭和29年4月完結)の表紙装画の制作を始める。3月、第3回日本美術院小品展「春到」。4月、兼素洞主催清流会第1回展「春禽」。5月、清光会第13回展「春暁(紅梅)」、五月会第2回展「欝金香」。11月3日、文化勲章を受領。昭和24年(1949) 1月、法隆寺火災にて金堂壁画焼失する。4月、清流会第2回展「瓶花(桜)」。11月、宮中において『岡倉天心先生について』と題し御進講を行う。この年、「山百合」を制作、また春から病気がちであった。昭和25年(1950) 2月、壺中居展「紅梅青華壺」。5月、清光会第15回展「チューリップと白磁壺」。6月、東華会展「白椿」。9月、第35回院展「大観先生像」。12月、文化財専門審議会の専門委員となる。清流会第3回展「つばき」「水仙」「兎」。昭和26年(1951) 4月、清流会第4回展「朝霧」。5月、東京芸術大学において『気品について』と題し講義を行う。5月、清光会第16回展「菖蒲」。7月、国立近代美術館設立準備委員を委嘱される。9月、第36回院展「窓」。10月、北斗会展「秋野」、五都展「壺と花」。11月、東京芸術大学教授を辞任する。昭和27年(1952) 4月、東京銀座松坂屋において朝日新聞社主催古径、靫彦、青邨代表作展が開催される。26点出品。3月、壺中居展「飛天」、柏風会展「紅花青瓷」。5月、仙皓会展に「八仙花」、五月会第6回展「菖蒲」。6月、清流会第5回展「牡丹瓶」。11月、五水会第2回展「在五中将」、尚美展「黄菊白菊」、北斗会展「高砂百合」。昭和28年(1953) 1月、中央公論社画廊(丸ビル)において古径、靫彦、青邨素描展が開催される。「梅」「大観先生像」「俑」などが出品。2月、十大家新作画額装展(兼素洞)「南窓瓶花」「椿」。4月、壺中居開業三十周年記念展に「紅花青瓷」、東西新作日本画五十人展(西武百貨店)「白百合」。5月、清光会第18回展「女楽俑」。6月、薫風会第1回展(日本橋三越)「山霧」、清流会第6回展「淡妝」、北斗会展「牛」。9月、第38回院展「木花開耶姫」。10月、神奈川県立近代美術館において安井曾太郎、安田靫彦、三宅克己自薦展が開催される。20余点出品。11月、尚美展「柿」、白寿会第6回展「菊慈童」。昭和29年(1954) 5月、清光会第19回展「送春雅缾」。11月、文化財専門審議会専門委員を辞任する。昭和30年(1955) 2月、大虚会展「紅菊白瓷」を出品。3月、朝日新聞社主催日本美術院回顧展「夢殿」「御産の禱」「日食」「居醒泉」「孫子勒姫兵」「黄瀬川陣」「王昭君」「大観先生像」。3月、横山大観の米寿を祝い日本美術院同人一同が「八十八竜画帖」を贈呈する。竜車の故事に因む「孔明図」と他に書を2点執筆した。4月、五水会第4回展「花晨」「兎」「六朝女俑(素描)」。5月、薫風会第3回展「菖蒲」。6月、北斗会第7回展「雨後」。7月、清流会第7回展「須磨」。9月、第40回院展「鴻門会」を出品。11月、白寿会第8回展「瓶梅」、尚美展「柿と手鉢」。この年から「暁」「秋晴」などの富士の制作が見られる。12月、七大家新作画展(兼素洞)「暁」、丁亥会第9回展「秋晴」。昭和31年(1956) 1月、双青会展「富士」。5月、大虚会展に「曙富士」。6月、清流会第8回展「帚木」。7月、瓊韻会展「三茄子」、尚美展「良寛和尚像」。8月、厳島神社の国宝「平家納経薬草喩品」装画執筆を依嘱される。9月、第41回院展「伏見茶亭」。10月、丹桂会展「朝富士」。11月、関尚美堂四十周年記念展「六朝宮人俑」、日本芸術院会員作品展「富士暁色」、玄皎会第2回展「鷺」、中央公論社新社屋落成記念展「紅梅白瓷」、白寿会第9回展「「紅梅」出品。昭和32年(1957) 2月、松寿会展「梅」、第6回五都展「夜梅」。3月、柏光会展「坩梅」。5月、歌舞伎座菊五郎劇団公演『源氏物語』の舞台美術を監修する。7月、毎日新聞社主催現代美術十年の傑作展「伏見茶亭」(昭和31年)。7月、清流会第9回展「菩薩思惟」を出品。11月、むさしのに因む日本画展「桔梗」高樹会第1回展(中央公論画廊)「薔薇瓶」、白寿会第10回展「坩梅」、丁亥会第11回展「夜の梅」、玄皎会第3回展「瓶梅」。昭和33年(1958) 3月、高島屋美術部50年記念展「柿と赤絵皿」。5月、日本美術院が財団法人に組織を改め、理事長に就任する。7月、清流会第10回展「薔薇」。9月、第43回院展「飛鳥をとめ」。この年、5月頃まで健康がすぐれなかった。昭和34年(1959) 1月、『歌会始の儀』の召人として勅題『窓』を詠んだ召歌「家ぬちふかく窓より見ゆる枯山になごめるいろの冬となりにし」を詠進する。1月、文化財専門審議会専門委員を辞任する。1月、国立近代美術館、朝日新聞社主催『戦後の秀作』展に「伏見茶亭」(昭和31年)を出品。2月、厳島神社「平家納経薬草喩品」の表紙「厳島早春」と、見返し「説法釈迦」の図が成り修理が完成した。5月、薫風会展「薔薇」。6月、九品庵展「菖蒲」、尚美展「芥子」。7月、清流会第11回展に「王昭君」を出品。9月、第44回院展「大観先生像」。10月、浜奈寿会第1回展(横浜高島屋)「菊」、丹桂会展「桔梗」。11月、白寿会第12回展に「蓬生」、高樹会第3回展「富士」。第19回半弓会展「女楽偶人」「菖蒲」昭和35年(1960) 6月、酒田市の本間美術館において安田靫彦名作展が開催され。20余点出品。6月、中国の北京、上海で開催された現代日本画展「芥子」。11月、銀座松屋において朝日新聞社主催安田靫彦スケッチ展(松屋画廊スケッチ展シリーズ第36輯)が開催される。57点出品。12月、筑摩書房版『良寛』を監修する。12月、尚美展「芥子」。この年、新東宮御所のために「富士朝陽」を制作する。昭和36年(1961) 4月、第16回春季院展「木瓜遼瓶」。6月、尚美展「牡丹瓶」。7月、清流会第13回展「洛陽花」。9月、第46回院展「紅梅」。10月、玄皎会第6回展「瓶花」。11月、開業四十五周年記念尚美展「紅梅」「白梅」、白寿会第14回展「白梅」、高樹会第5回展「曙梅」。昭和37年(1962) 4月、第17回春季院展「黎明富士(曙富士)」。6月、清流会第14回展「薔薇」。9月、第47回院展「茶室」。この年、「宋瓷梅花」を制作。昭和38年(1963) 4月、紺綬褒章を受ける。4月、第18回春季院展「蘭」。5月、新椿会展に「女楽偶人」、小林一哉堂創立五十周年記念展に「富士」。6月、清流会第15回展「室内」。9月、『近代日本美術における1914年』展(国立近代美術館)「夢殿」「御産の禱」「今村紫紅像」。10月、丹桂会展「瓶花」。11月、白寿会第16回展「湘南富士」、高樹会第7回展「梅花定窯瓶」。12月、尚美堂展「女楽俑人」、丁亥会展「鶏頭」、玄皎会第7回展「ざくろ」。この年、「小泉信三像」を制作。昭和39年(1964) 3月、第19回春季院展「紅白椿」。4月、日経ギャラリー開設記念絵画新作展「曙梅」。7月、朝日新聞社主催スケッチ展シリーズ完結記念『五十人の画家』展(銀座松屋)「谷崎潤一郎氏像」。9月、第49回院展「飛鳥の春の額田王」9月、横浜高島屋において神奈川県文化財協会、朝日新聞社主催安田靫彦展が開催される。戦後の中型作品を中心に40余点出品。11月、谷崎潤一郎新々訳源氏物語(中央公論社版)の装幀をする。昭和40年(1965) 3月、第20回春季院展「藤壺女御」。5月、銀座松屋において朝日新聞社主催安田靫彦展が開催される。自選の85点を出品。5月、大磯町名誉町民の称号を贈られる。6月、東京芸術大学名誉教授のとなる。6月、清流会第7回展「刷毛目壺に百合」。9月、第50回院展「平泉の義経」。国立近代美術館、朝日新聞社主催『院展芸術の歩み』展に戦前の作品5点、戦後の作品3点を出品。院展同人展(銀座松坂屋)「黎明富士」。10月、浜奈寿会第6回展「笙を吹く宮人」、高島屋増築記念現代美術展「箕を持つ宮人」、玄皎会第8回展「曙梅」。昭和41年(1966) 3月、第1回神奈川県展(招待展)「曙梅」。7月、山種美術館開館記念展「双舞」。この年、健康すぐれず、1年間休みがちに過す。昭和42年(1967) 2月、昭風会第1回展「暁梅」。3月、第22回春季院展「黎明富士(富嶽)」。6月、歌集『高麗山』(中央公論美術出版)を上梓する。6月から9月にかけて、レニングラードのエルミタージュ美術館とモスクワのプーシキン美術館で開催された近代日本画名作展に「伏見茶亭」(昭和31年)を出版。6月、清流会第19回展「紅花青花」。9月、第52回院展「酒折宮」。法隆寺金堂壁画再現模写を前田青邨と監修し、12月、吉田善彦らと6号壁をほぼ仕上げる。9月、「春暁富士」(東洋バルヴ株式会社カレンダー)制作。10月、浜奈寿会第8回展「暁の富士」、玄皎会第9回展「富士晴景」。11月、白寿会第19回展「馥郁」を出品。12月、中央公論秋季展「胡服新粧」を出品。昭和43年(1968) 4月、第23回春季院展「伎楽面」、三越での同人小品展「白梅」。9月、第53回院展「卑弥呼」。この年、10月に完成した新宮殿千草の間に万葉の秀歌(書)を執筆する。10月、「紅白梅」を制作。11月、法隆寺金堂壁画再現模写完了し、落慶法要を行う。金堂壁画再現記念法隆寺幻想展(彩壺堂)に書(自詠和歌)三首を出品。昭和44年(1969) 4月、第24回春季院展「酔胡王随従」。4月、彩壺会展「彩壺と偶人」。5月、松屋創業百年記念現代大家日本画展「富士晴旦」。6月、清流会第21回展に「酔貴妃」、錦銀装会金蘭会合同展「富士黎明」、尚美展「桔梗」。9月、第54回院展「森蘭丸」。11月、白寿会第21回展「木瓜磁州瓶」。12月、中央公論秋季展「紅白梅織部瓶」。昭和45年(1970) 5月、薬師寺慈恩大師(国宝)の補筆を行う。9月、第55回院展「出陣の舞」。9月から10月にかけて、東京日本橋高島屋、名古屋名鉄百貨店、大阪高島屋において朝日新聞社主催米寿記念安田靫彦展が開催される。自選の84点(うち書4点)を出品。この年、名古屋松坂屋展「宋赤絵人形」。昭和46年(1971) 3月、第26回春の院展「一服一銭」。3月、彩壺堂五周年記念展「富士曙光」。5月、日本美術院の新築落成を披露し、併せて安田靫彦理事長の米寿と平櫛田中理事の百歳を慶祝する祝賀会が行われる。6月、清流会第23回展「牛若と吉次」。7月、墨彩会展「相模国府寺」。8月、北辰画廊三周年記念展「木瓜古瀬戸瓶」。9月、第56回院展「吾妻はや」。10月、浜奈寿会第12回展「箱根富士」。12月、中央公論秋季展「菊花遼瓶」。この年、「志賀直哉氏像」を制作。昭和47年(1972) 1月、天心と現代日本画展(東京セントラル美術館)に「五合庵の春」「日食」「孫子勒姫兵」と新作「飛鳥大仏と止利仏師」(昭和46年)を出品。3―4月、『描かれた歴史―近代日本画にみる-』展(山種美術館)に「卑弥呼」「森蘭丸」「守屋大連」「平泉の義経」「出陣の舞」。4月、第27回春の院展「富士晴るる」。9月、第57回院展「大和のヒミコ女王」を出品。9月、東京国立近代美術館二十年記念展『現代の眼-近代日本の美術から』「五合庵の春」「日食」「黄瀬川陣」「王昭君」「大観先生像」。昭和48年(1973) 4月、第28回春の院展「後南朝自天王像」。5月、サカモト画廊十周年記念展「さくら」。7月、清流会第24回展「菖蒲」、高島屋墨彩展「浦辺」。9月、第58回院展「草薙の剣」。9月、玄輝会第1回展「曙富士」。10月、現代日本美術展に「梅花赤絵瓶」。12月、第17回中央公論秋季展「朝暾富士」。昭和49年(1974) 7月、「高橋誠一郎氏像」を制作。9月、第59回院展「鞍馬寺参籠の牛若」。このあと体調がすぐれず、暮に容態が悪化する。この年、前年から引き続いて、薬師寺金堂薬師三尊の光背制作監修に携わる。昭和50年(1975) 1月、平塚の杏雲堂病院に入院する。同病院で91歳の誕生日を迎えることとなった。2月、白寿会第26回展「富士朝暾」(昭和49年)3月、57日ぶりに退院し、自宅で静養する。7月、自筆歌集『高麗集』が中央公論美術出版から刊行される。9月、日本美術院、日本経済新聞社主催院展60年の歩み展(日本橋三越)「窓」(昭和26年)昭和51年(1976) 6月、東京国立近代美術館において「安田靫彦展」を開催(6.10-7.11東京国立近代美術館。日本経済新聞社主催)し、約80点が出品された。昭和53年(1978) 4月29日、心不全のため払暁永眠。5月10日、葬儀が東京築地本願寺で、日本美術院葬(葬儀委員長奥村土牛理事)をもって、執行された。戒名、朝陽院青梅靫彦大居士。本年譜は土屋悦郎編「安田靫彦年譜」(安田靫彦展図録所収、東京国立近代美術館昭和51年)を再録し、一部追記した。

生田花朝女

没年月日:1978/03/29

日本画家生田花朝女は、3月29日老衰のため、大阪市阿倍野区の自宅で死去した。享年88。本名ミノリ。明治22年(1889)11月22日、大阪市天王寺区に生れた。父生田南水(1860―1934)は学者で、大阪を代表する文化人であった。明治29年3月大阪師範学校附属小学校に入学し、この頃から家学として父南水より俳句を学び、漢学を藤沢黄波、国学を近藤尺天より学んだ。明治38年16才で父の俳句の弟子である四条派の画家喜多暉月につき絵を学び、大正2年(1913)24才で菅楯彦の門に入った。師楯彦からは大和絵のほか万葉集をはじめ国学、有職故実を学び、また師の許可を得て美人画家北野恒富に教えをうけた。大正14年第6回帝展に「春日」が初入選となり、翌15年には「浪花天神祭」が特選となった。その後も帝展、新文展、日展などに出品し、昭和27年には大阪市民文化賞、同33年には大阪府芸術賞を受賞した。作品は師楯彦の逸脱な画格を引継ぎ、さらに女流特有の優雅さを加えて、香り高い大和風画面を特色とした。大阪を愛し、生涯大阪の風物を描きつづけたことも師楯彦同様画壇でも稀有な存在であった略年譜明治22年(1889) 0才 11月22日現在の大阪市天王寺区に生れた。父生田南水。明治29年(1896) 7才 3月大阪師範学校附属小学校入学。明治30年(1897) 8才 この頃から家学としての俳句を父南水に、漢学を藤沢黄波、国学を近藤尺天に学んだ。明治45年 23才 菅楯彦に入門。又北野恒富に学ぶ。大正14年 36才 「春日」6回帝展初入選。大正15年 37才 「浪花天神祭」7回帝展特選。昭和2年 38才 「四天王寺曼荼羅」8回帝展、無鑑査出品。昭和6年 42才 「閑窓」12回帝展。昭和8年 44才 「観漁亭」14回帝展。昭和9年 45才 「遠つ飛鳥の里」15回帝展。昭和14年 50才 「春日の巫女」3回文展、無鑑査出品。昭和16年 52才 「麻須良多家乎爾美伎多氐麻都流」4回文展、無鑑査出品。昭和21年 57才 帝塚山に画室竣工。昭和27年 63才 大阪市民文化賞受賞。昭和31年 67才 父南水の句碑を四天王寺に建てる。昭和33年 69才 「鑑真和上来朝」第1回日展。昭和34年 70才 「薬師寺花会式」第2回日展。昭和35年 71才 「遅日」第3回日展。昭和36年 72才 「太陰女」第4回日展。昭和37年 73才 「だいがく」第5回日展。昭和38年 74才 「春昼」第6回日展。昭和39年 75才 「住吉大社御田植」第7回日展。昭和40年 76才 「極楽門の春」第8回日展。昭和41年 77才 父南水の句碑を住吉大社に建てる。昭和42年 78才 「宵官」第10回日展。昭和43年 79才 「十日戎」第11回日展。勲四等瑞宝章受領。昭和49年 85才 阿倍野神社に自画賛碑建立。昭和53年     3月29日没。

鬼原素俊

没年月日:1978/03/16

日本画家鬼原素俊は、3月16日心筋硬ソクのため東京都渋谷区の自宅で死去した。享年75。本名、熊造。明治35年8月15日新潟県岩舟郡に生れ、日本大学芸術科に学んだ。大正12年荒井寛方に師事し、日本美術院展に出品し、昭和5年日本美術院々友に推挙された。昭和12年院展を退き、同志と新興美術院を結成し、その創立同人となった。昭和16年中支方面に従軍し、翌年「中支風物個人展」を東京高島屋で開催した。戦後も昭和22年新作個人展を資生堂に開催し、作品展を屡々開催、また昭和25年には新興美術院を再興した。戦後は専ら仏画を描き昭和30年世界仏教徒会議に出席、同38年にはイラン、パキスタン、アフガニスタン、東南アジア方面に旅行している。代表作として「佛懐」(1937院展)、「炭焼く家族」(1941新興展)、「九軍神の母」(1943新興展)、などがある。

横山大玄

没年月日:1977/12/04

日本画家横山大玄は、12月4日心筋コウソクのため東京都台東区の自宅で死去した。享年79。本名善信。京都伏見に生れ、東京の中学を卒え東京美術学校日本画科を卒業した。昭和初年故横山大観の夫婦養子となり、大観没後は自宅を大観記念館として開放し、大観の作品や資料を公開、その館長をつとめていた。院展には昭和8年第10回院展で初入選し、昭和27年第37回院展「竹林」で院友となり、第59回「弥生」で特待となった。

前田青邨

没年月日:1977/10/27

日本画家前田青邨は10月27日老衰のため東京文京区本郷の順天堂医大附属病院で死去した。享年92。本名廉造。なお葬儀は29日鎌倉市の円覚寺で密葬が行われ、11月9日東京中央区築地本願寺で、日本美術院葬による本葬が執行された。青邨は、明治18年岐阜県恵那に生れ、小学校の頃から画才を示して、早くより画道への志をたてた。当初14才で上京するが、病のため一旦帰省し、満16才で再上京した。当時大和絵に造詣深い大家であり、また新聞小説に新味ある挿絵を描いて、時代の寵児でもあった梶田半古の画塾に入った。その頃、先輩に小林古径がいて、二人は小堀靹音門下の安田靱彦、松本楓湖門の今村紫紅らによる紅児会へ明治40年頃参加する。青邨は明治35年日本絵画協会日本美術院連合共進会へ「金子家忠」(三等褒状)が初入選するが、紅児会グループの人たちも同展への出品者であって、岡倉天心の指導を仰ぐこれら気鋭の青年作家たちはそのまま、再興院展への参加とつながっていく。青邨の日本美術院への参加は、師の梶田半古が院の幹部でもあったことからその宿縁ともいえるわけだが、再興院展以後における青邨の目覚ましい活躍は、瞠目すべきものがある。日本美術院は大正から昭和にかけて、さらに激動的な戦後にわたり、官展に対抗して日本画の理想を着実に発展させた。天心の意図した日本画の伝統に基盤を置いた新しい日本画の創造を、青邨らは深く追求しいわゆる新古典主義の作風を展開した。青邨の作品を概観すると、明治期は時代の一般的な傾向でもあった歴史画にはじまり、大正に入ってからは旅行による取材の、写生にもとづく風景画の作品が多く、「朝鮮之巻」「京名所八題」「燕山の巻」「イタリー所見」等が制作された。大正期にはこのほか、大正11年古径とともに日本美術院留学生として渡欧し、大英博物館で顧愷之筆と伝えられる「女史箴図巻」の模写など行い、大いに画嚢をこやすが、日本美術の優秀性を再確認するという日本画家としての根本的問題の解決を得、この研修旅行が画家としての転機をもたらしたと考えてよいであろう。昭和になってからは、5年に前年の院展出品作「洞窟の頼朝」で第1回朝日賞を受賞し、10年には帝国美術院会員となり、戦後昭和30年には文化勲章を受領し、世に大きく認められた。そして作品の上では、大正の写生による風景画に対し、昭和期には鋭い写生と、新しい大和絵風の技法による独特の肖像画の制作が声価を高めた。また晩年には東京芸術大学教授として後進の育成にあたり、文化財行政面でも、文化財保護委員会専門審議会委員、法隆寺金堂壁画再現模写事業総監督、高松塚古墳壁画模写総監督など委嘱され、これらに尽力するところ少なくなかった。青邨はまた若い頃から美術雑誌その他に直截な文章を載せているが、これらを集成した随筆集「作画三昧」(昭和53年新潮社)があり、日本経済新聞紙上連載の「私の履歴書」(昭和44年1月日本経済新聞社)も、同社から刊行されている。そのほかの著書に、スケッチによる「日本の兜」(昭和32年10月中央公論美術出版)がある。年譜明治18年(1885) 1月27日、岐阜県恵那郡に父前田常吉、母たかの二男として生まれる。本名廉造。生家はその頃、木曾への入口である街道筋に面し、乾物商をいとなむ。明治24年 4月、中津川尋常高等小学校に入学。明治30年 3月、中津川尋常高等小学校を卒業する。明治31年 母死去。上京し、叔父の経営する本郷根津の下宿屋「東濃館」に寄宿。明治32年 4月、本郷京華中学に入学。この頃、健康を害し、静岡県吉原の知人宅で2ケ月程療養生活を送り、一旦郷里に帰郷。明治34年 秋、再上京、親戚のつてで尾崎紅葉を知り紅葉のすすめで梶田半古の塾に入る。当時塾頭に小林古径がいた。明治35年 塾では古画の習得と同時に、写生に励み、また有職故実についての研究もつむ。この頃、師半古から「青邨」の雅号をもらう。「金子家忠」(3等褒状)第12回日本美術院・日本絵画協会共進会(初入選)明治36年 国学院大学聴講生になり、古典文学を学ぶ。半古の代筆で小栗風葉の新聞小説「青春」の挿絵を描き、また徳田秋声の連載小説の挿絵も描いた。「防箭」(褒状)第5回内国勧業博覧会。「夕顔」(1等褒状)第14回日本美術院・日本絵画協会共進会。「小碓」第15回日本美術院・日本絵画協会共進会明治37年 住居を半古塾から本郷菊坂の下宿の移す。明治39年 巽画会研究会に参加。「天照皇大神」(銅牌)第3回真美会展。「春遊」日本絵画展(日本美術院主催)。「粧ひ」(1等)廿日会明治40年 紅児会に入り、今村紫紅、小林古径、安田靫彦らの俊英と研究をともにすすめる。「御輿振」(3等賞牌)東京勧業博覧会明治41年 「囚はれたる重衡」国画玉成会展(3等賞第1席)明治43年 国画玉成会幹事となる。「市」第11回紅児会展。「竹取物語」(絵巻)「鶏合せ」第12回紅児会展明治44年 横浜の豪商原富太郎(号三渓)より研究費の援助を受ける。「菅公」「鉢の木」第15回紅児会展。「法華経」「竹取」(褒状)第5回文展。「辻説法」日本美術社展明治45年 紅児会々場で岡倉天心から「にごりを取りなさい」との批判をうけ発奮する。11月、荻江節の家元初代荻江露章の妹、松本すゑと結婚。この年、健康を害し、神奈川県平塚に転地療養する。「椿」「須磨」第17回紅児会展。「二曲屏風」第18回紅児会展。「御輿振」(画巻)(3等賞)第6回文展大正2年(1913) 8月、紅児会解散。9月、長女千代子誕生。「橋合戦」「蝦蟇仙人と鉄拐」第19回紅児会。「月下洗馬」大阪高島屋月百幅会大正3年 10月、日本美術院同人に推挙される。神奈川県藤沢石上に移転する。この頃、小山栄達、磯田長秋、吉田白嶺らと絵巻物研究会を創める。「つれづれ草鼎の巻」(銅牌)東京大正博覧会「竹取」(其1=1段-12段、其2=13段-18段)(絵巻)「湯治場」(其1、其2、其3)再興記念日本美術院第1回展大正4年 朝鮮に旅行する。6月、次女正子誕生。「朝鮮の巻」(画巻)第2回院展。「渡船場」松屋東都大家新作展大正5年 神奈川県鶴見に転居。小林古径と関西に旅行する。「京名所八題」(八幅対、本願寺、三十三間堂、清水、祇園会、先斗町、四条大橋、上賀茂、愛宕山)第3回院展。「曳船」大阪高島屋双幅画会。「戦の巷」「丹霞焼仏」高島屋三都大家新作展大正6年 4月23日、梶田半古死去。神奈川県渡辺山に転居。「切支丹と仏徒」(双幅)第4回院展。「地獄変相」「江の島詣」日本美術学院記念展。「元寇殲滅」立太子礼奉祝文官献納画帖。「厳島舞楽」琅★洞展。「厳島詣」三越新作絵画展。「船」「武将」「立葵」日本美術院同人作品展大正7年 3月、大阪高島屋で、初の個展開催。3月、長男裕造誕生。日本美術院評議員に推される。「社頭」日本美術院同人展。「六歌仙」三越東西大家新作画展。「維盛最期之巻」(画巻)第5回院展大正8年 中国に旅行する(往路上海、南京、蕪湖、漢口、宜昌、新潭等で、復路は漢口、北京、奉天、朝鮮を経由する)。「早春」「晩秋」(双幅)日本美術院同人展。「燕山之巻」(画巻)第6回院展。「★魚」琅★洞展。「遊魚」三越絵画展。大正9年 延暦寺より伝教大師絵伝「根本中堂落慶供養の図」を委嘱され、小林古径と共に比叡山に赴く。日本美術院同人らと瀬戸内海写生行。「根本中堂落慶供養の図」比叡山延暦寺に納入「秋風五丈原」第7回院展。「入唐」琅★洞、院同人高野紀行展。大正10年 「鯰」「地獄変相」日本美術院同人米国巡回展。「遊魚」(六曲一双)第8回院展。大正11年 10月26日日本美術院留学生として、小林古径と共に約1年間泰西美術研究のため渡欧する。マルセーユ到着後、ローマに赴き、フィレンツェほかイタリア各地美術館を見学し、ついでパリに滞在している。「赤坂離宮御苑」東京府より英国皇太子へ献上大正12年 ロンドン滞在中、東北大学の依嘱によって、中国古代名画として有名な「女史箴図巻」(顧愷之筆)を、所蔵する大英博物館で古径と分担して模写を行う。模写実施に当っては、当時ロンドン滞在中の東北大学教授福井利吉郎の斡旋による。ロンドンから再びイタリアに赴き、さらにエジプト、その他各地を巡って8月22日帰国した。顧愷之筆「女史箴図巻」(模写)大正13年 「花賣」「彦火火出見尊」(絵巻)第11回院展。「沙魚」「摂政官御慶事記念東京府献納瑞彩帖。「芥子」尚美堂展大正14年 3月、長男裕造(8歳)をジフテリアで失う。4月、三女日出子誕生。11月、「女史箴図巻」(模写)の展観を行う。「やなぎはや」第10回日本美術院試作展。「伊太利所見」(三幅対)(ペルジャの山上市)(フローレンスの朝)(ポンテベッキヨの雨)第12回院展。「礼讃」尚美堂展大正15年 第1回聖徳太子奉讃美術展の鑑査委員となる。「漢江の朝霧」「漢水の夕」(双幅)第1回聖徳太子奉讃美術展。「冬瓜」尚美堂展。「瀬満王」東京会展。「五月雛」白日荘現代50大家新作展。「東海道」郷土美展。「芥子」松屋東西会昭和2年 3月、四女照子誕生。「羅馬使節」「西遊記」(画巻)第14回院展。「芥川」中央美術社主催東西大家展。「山幸海幸」(双幅)三越京都大家新作展。「祭日」尚美堂展昭和3年 この年再び健康を害し、夏の間那須鮎ケ瀬別荘に療養生活を送る。「祝い日」御即位記念御下賜品として依頼を受ける。「朝鮮の風俗」大婚25年奉祝文武官献上画帖「踊」尚美堂展。「あまご」白日荘展昭和4年 「洞窟の頼朝」第16回院展。「住吉詣」銀座美術園新作展。「粟」尚美堂展。「雪」東京会展。「那須スケッチ」第14回日本美術院試作展昭和5年 第2回聖徳太子奉讃美術鑑査委員。前年作「洞窟の頼朝」で第1回朝日賞受賞する。ローマ日本美術展に前年の「洞窟の頼朝」出品。日本美術院経営者に推挙される。「罌粟」(六曲一双)第17回院展。「大嘗祭」明治天皇聖徳絵画館。「鵜飼」「愛茶」第1回七絃会展昭和6年 「縫取」第2回七絃会展昭和7年 「石棺」第19回院展。「扇面散し」第3回七絃会展昭和8年 「鵜飼」「初茸」日本美術院同人展。「鵜飼」(三幅対)第20回院展昭和9年 満州国建国三周年記念美術展の審査員として渡満する。帰途熱河を回る。「鷹狩」(六曲一双)第21回院展(李王家買上)「武将弾琵琶」(満州国皇帝献上画)「絃上」日本美術院同人展。「大柿手に入る」第5回七絃会。「粧ひ」日本美術院試作展。「白鷺」東京会「乗合船」角谷二葉新作画展昭和10年 6月、帝国美術院改組され、その会員となる。「毛抜形」第19回日本美術院試作展。「唐獅子」(六曲一双)岩崎家よりの御即位記念献上画。「秋深し」「鷺」第6回七絃会展。「真鶴沖」第1回踏青会展昭和11年 2月、改組第1回帝回美術院展審査員。「観画」第1回新帝展。「白河楽翁」第23回院展。「唐獅子」(衝立)「蘭陵王」「白鷺」第2回踏青会展。「楯無」日本創作画協会展。「応永の武士」日本美術学院記念展。「原の白隠」「魚」第7回七絃会展昭和12年 6月、帝国芸術院会員に推挙される。「清正」第8回七絃会展。「名犬獅子」(畠時能)松島画舫新作展。「楽翁」(双幅)「凱旋武将」高島屋新作展昭和13年 5月、日満美術展審査のため二度目の渡満をする。帰途は新京から大同に赴く。10月、第2回新文展審査員。「大同石佛」第25回院展。「大楠公」第9回七絃会展。「鴨」「兎」高島屋新作画展昭和14年 歌舞伎座上演「太閤記」(吉川英治原作)の舞台装置担当。この年、北鎌倉に画室竣工。第3回新文展審査員。「朝鮮五題」(五面)第26回院展。「熊野御難航」(画巻一合作肇国創業絵巻ノ内)紀元2600年奉讃展。「猫」「豊公」第10回七絃会「洞窟の頼朝」三越日本画展。「豊公」高島屋新作画展昭和15年 歌舞伎座にて「続太閤記」の舞台装置担当。紀元2600年奉祝美術展審査員。「鵜」第27回院展。「阿修羅」紀元2600年奉祝美術展。「菊」第11回七絃会展。「月輪」昭和16年 「静物」第12回七絃会「椿」第1回尚絅会展昭和17年 「奎堂先生」第29回院展。「祝日」満州国建国十周年慶祝記念献納展。「凱旋の旗手」「静物」日本美術院同人軍用機献納作品展。「清正」日本画家報国会軍用機献納展。「関ヶ原の家康」第13回七絃会展。「陣中愛茶」高島屋現代名家新作展昭和18年 第6回新文展の審査員となる。昭和19年 7月、帝室技芸員に推挙される。「牡丹」「激流」「おぼこ」戦艦献納帝国芸術院会員美術展。「景清」「鉢」陸軍献納帝国芸術院会員美術展昭和20年(1945) 郷里中津川に疎開。8月、疎開先で終戦を迎え、11月、北鎌倉の自宅に戻る。昭和21年 第1回日本美術展覧会(日展)審査員。前年海軍兵学校よりの依頼画「大楠公」を湊川神社に納入する。「二日月」第1回日展。「魚絞」第31回院展。「大楠公」湊川神社奉納昭和22年 3月、柴田ギャラリーでスケッチ展開催。「郷里の先覚-夜明前の香蔵と景蔵-」(双幅)第32回院展。「豊公」「応永の武者」「かちかち山」(画巻)昭和23年 「洞窟の頼朝」第1回清流会展。「水鉢」五月会展昭和24年 1月、法隆寺金堂壁画焼損。「猫」「風神雷神」第34回院展。「真鶴沖」第2回清流会展昭和25年 12月、文化財保護委員会専門審議会委員。「鯉」(三面)第35回院展。「山鳥」第3回清流会展昭和26年 12月、東京芸術大学日本画科主任教授。「Y氏像」(安井曾太郎)第36回院展。「赤絵」日本美術協会展。「山吹」第4回清流会展昭和27年 4月、「古径・靱彦・青邨代表作展」(於銀座松屋)開催。「湯治場」第37回院展。「絵島詣」第5回清流会展昭和28年 「耳庵老像」(松永安左衛門)第38回院展「伊勢遷宮図」伊勢神社へ奉納昭和29年 10月、古稀記念「前田青邨展」(於東京銀座松屋、朝日新聞社主催)開催。「紅梅」(二曲半双)第39回院展昭和30年 6月、「前田青邨作品集」(大塚巧芸社)が前年の古稀展を記念して刊行される。11月、文化勲章受賞。郷里中津川市名誉市民となる。「出を待つ(石橋)」(二曲半双)第40回院展。「石橋」皇居仮宮殿饗応の間、壁面用に制作。「愛茶」「川の幸」第8回清流会展昭和31年 4月、東京芸術大学陳列館で「文化勲章受章記念前田青邨教授作品展」開催。7月、日本美術家連盟会長に推挙される。ブリジストン美術館の美術映画「前田青邨」が制作開始される。「浴女群像」第41回院展。「宇治川」第9回清流会展。昭和32年 川合玉堂に代り、皇后陛下の絵の指導役となる。文化財専門審議会委員を辞す。五月、「前田青邨写生展」(於銀座松屋)開催。「日本の胄」(中央公論美術出版)出版。ブリヂストン映画「前田青邨」完成。「プランセス」第42回院展。「洞窟の頼朝」日本美術院十大家名作展。「梅日和」第1回高樹会展昭和33年 「動物の舞踏会」「鵜」第29回ベニスビエンナーレ国際美術展。「みやまの四季」(六曲半双)第43回院展。「秋の花」第6回薫風会展昭和34年 1月、東京芸術大学日本画科主任教授を定年退職し、同大学名誉教授となる。「御水取」(御水取を迎える奈良の旧家、總別火(行事の支度)が堂の役人衆、わらび餅の茶屋・籠り堂・湯屋・食堂・行法を待つ参籠衆、鈴を振る咒師、御水取(若狭井)、松明をみる群衆、松明のぼる、内陣の幕をしぼる堂童子、達陀の行法、社頭の終了報告、二月堂は明けゆき)第44回院展。「遊魚」第11回清流会展。「景清」巨匠日本画展。昭和35年 5月、訪中日本画家代表団の団長として約1ケ月間、中国を旅行する。9月、「中国を描く前田青邨展」(於東京日本橋高島屋・日中文化交流協会・朝日新聞社主催。「赤い壁」(天壇)「黄色い屋根」(紫禁城)。「南の街」(広州)中国を描く前田青邨展。「貝」第12回清流会展。「魚」第4回恵下会展。「駒勇む」昭和36年 中津川市で恵下会記念展開催。10月、喜寿記念前田青邨展(於東京日本橋高島屋・朝日新聞社主催)。12月、「前田青邨作品集」(喜寿記念画集)が大塚巧芸社から刊行される。「白頭」、「洋犬」第46回院展、「牡丹」第13回清流会展昭和37年 9月、「前田青邨先生喜寿記念陶展」(荒川豊蔵賛助出品。香合、小品置物、茶碗絵付等)(於日本橋三越)「石棺」午前時」第47回院展。「紅白梅」ローマ日本文化会館壁面用昭和38年 「出羽の海部屋」(画巻)「鯉」第48回院展。「静物」(赤絵皿にリンゴ)「ペルシャの鉢」昭和39年 2年前依頼された日光二荒山神社宝物館壁画の完成を記念して、日光二荒山神社壁画完成記念「前田青邨壁画と発掘宝物展」(於東京日本橋三越)が開催された。「K氏像」「椿」「山霊感応」日光二荒山神社宝物館壁画昭和40年 「千羽鶴」「薔薇」「奥の細道」昭和41年 郷里中津川市に前田青邨記念館が設立される。「前田青邨展」(於横浜高島屋、朝日新聞社主催)「転生」(平櫛田中)第51回院展。「三浦大介」山種美術館開館記念展。「ペンギン」第1回神奈川県美術展昭和42年 法隆寺寺壁画再現事業の総監修に安田靱彦とともに就任。前田班は「10号大壁(薬師浄土)」「3号小壁(観音菩薩)」「12号小壁(11面観音)」の三面を担当し制作する。「胡猫」第22回日本美術院春季展。「蓮台寺の松蔭」第52回院展昭和43年 「大物浦」第53回院展昭和44年 「徒然草」(二面)第24回日本美術院春季展。「異風行列の信長」第54回院展。「須磨」第21回清流会展。「熊野詣」第21回白寿会展「真鶴ケ浜」「蘭陵王」「燃える水献上」「川魚」昭和45年 新宮殿「石橋の間」壁面として、昭和30年に仮宮殿のために謹作した「石橋」に加筆し新たにその左右に「紅牡丹」「白牡丹」の二面を制作する。「腑分」第55回院展。「新石橋」(「紅牡丹」「白牡丹」)「連雀」「梅日和」「八橋」昭和46年 「米寿記念前田青邨展」(於3.30-4.4東京日本橋高島屋、4.13-4.18大阪高島屋、4.20-4.25名古屋松坂屋。朝日新聞社主催)11月、すゑ夫人(荻江露友)が古典荻江節継承者として日本芸術院第三部会員となる。「知盛幻生」第56回院展。「応永の武者」「宋磁壺紅白梅」「晩秋(1)」昭和47年 「前田青邨作品集」(朝日新聞社)刊行。高松塚古墳壁画模写の総監督を委嘱される。「鴨」日本美術院春季展昭和48年 高松塚古墳石室に入室。「奈良の鶴の子」日本美術院春季展。「水辺の春暖」「土牛君の像」第58回院展。「大楠公」五都展昭和49年 春、高松塚古墳壁画模写が完成。東京国立博物館で内示が行われる。2月、ローマ法皇庁からの依頼によりバチカン美術館に納める「細川ガラシヤ夫人像」を完成、東京国立近代美術館でその贈呈式が行われる。「富貴花」第59回院展。「古事記」(絵巻)日本美術院春季展。「細川ガラシヤ夫人像」バチカン美術館昭和50年 5月14-7月6 東京国立近代美術館において「前田青邨展」が開催される(現存作家の個人形式展として「平櫛田中展」についで2回目の企画)。「鶺鴒」日本美術院春季展昭和51年 6月5-7月4 京都市美術館において「前田青邨展」(京都市(財)日本文化財団・京都新聞社・近畿放送主催)開催。昭和52年 10月27日、老衰のため死去。戒名は画禅院青邨大居士。「桃花」日本美術院同人小品展。「晩秋」五都展昭和54年 3月17日、前田青邨先生筆塚建立供養会施行(於鎌倉市東慶寺)。9月、前田青邨 三周忌記念展(於東京日本橋高島屋)

長谷川朝風

没年月日:1977/08/31

日本画家長谷川朝風は、ボウコウガンのため東京都立駒込病院で死去した。享年75。本名慎一。明治38年11月29日岐阜県安八郡に生れ、京都市立絵画専門学校を卒業、安田靱彦に師事した。昭和14年第26回日本美術院展に「秋盡」「湊二題」が初入選し、以後殆ど毎回出品をつづけた。昭和31年「絃」で日本美術院次賞(大観賞)を受賞、翌年「転生」で無鑑査となった。その後、第50回「出雲神楽」、第52回「苑」、第54回「濤歌」、第57回「鬼燎」などで無鑑査となり、昭和40年頃より院特待となった。画業のほか俳句をたしなみ、俳句作家協会会員、雲母同人で、俳誌「青唐」を主宰する。著書-「木偶微笑」「魚紋」

植中直齋

没年月日:1977/08/12

日本画家植中直齋は、8月12日京都市の自宅で死去した。享年91。本名直治郎。明治35年より36・7年にかけて、一時養子縁組により戸田姓を名乗るが、再び旧姓に復した。明治18年10月1日奈良県天理市に生れ、はじめ(明治35年頃)大阪の画家深田直城の画塾に学んだ。日本美術協会大阪支部展「雲の中の西王母」(明治35年)、明治36年春日本美術協会展「具足飾図」(宮内省買上)、同年同協会歴史風俗画展「那須与一」等の作品があり、専ら歴史風俗画を描いた。明治38年上京し橋本雅邦に師事した。明治40年東京勧業博覧会に「念誦ノ図」(二等賞)を出品、また同年第1回文部省美術展覧会には「落日」(三等賞)を出品した。翌41年鎌倉に居を定め、田中智学師に師事日蓮宗教義及国文学を専ら修めた。しかし大正元年に至り偶々病を得て大阪に帰省し、ついで西宮で療養生活を送った。大正2年山元春挙の門に入り、文展に出品した。大正8年京都帝国大学教授沢村専太郎に師事し、大学研究室教務用絵画の嘱託を受け、傍ら東洋絵画史及美学の聴講をし、またこの年日本自由画壇に入り、大正13年退会した。昭和に入ってからは帝展に出品、専ら宗教画を描いた。画歴明治35年 「雲の中の西王母」日本美術協会大阪支部展。明治36年 「具足飾図」(宮内省買上)日本美術協会展。「那須与一」日本美術協会歴史風俗画展明治38年 上京、橋本雅邦に師事。明治40年 「念誦ノ図」(二等賞)東京勧業博覧会。「落日」(三等賞)第1回文展明治41年 「虫干ノ図」(三等賞)巽画会展大正2年 山元春挙に師事。大正4年 「得意」第9回文展。大正5年 「征途ノ楽」(六曲一双)第10回文展。大正6年 「勝者ノ誉」(六曲一双)第11回文展。大正7年 「隠退の聖日蓮と宗徒」(六曲一双)第12回文展。大正9年 「宗旨建立の聖日蓮」自由壇展。大正10年 「金色堂」自由画壇展。大正11年 「龍女出現」自由画壇展。大正12年 「灌頂を授クル女性」大正14年 大正天皇皇后両陛下御成婚満廿五年御祝儀奉祝記念献上画昭和2年 「然燈供養」第8回帝展。昭和3年 「高野ノ維盛」第9回帝展。昭和4年 「無間業(重盛)」第10回帝展。昭和5年 久邇宮家御襖御用画「御庭ノ夕」「建札門院」第11回帝展。昭和6年 「賜豊酒」第12回帝展。帝国美術院推薦。昭和7年 「供燈(春日若宮)」第13回帝展昭和9年 「松ノ下露」第15回帝展。昭和11年 「獅子及献馬」吉田神社本殿壁画。昭和13年 「小楠公」第2回文展。昭和14年 「木村重成夫人」山元春挙追悼展。

山田申吾

没年月日:1977/07/07

日本画家山田申吾は、7月7日ジン不全のため、東京都板橋区の日大板橋病院で死去した。享年68。本名申吾。明治41年12月5日、当時著名な日本画家山田敬中の次男として東京田端に生れた。大正15年東京美術学校日本画科に入学し、昭和6年同校を卒業した。美校在学中の昭和5年第11回帝展に「水辺初夏」を出品し、初入選した。その後も帝展新文展等に出品をつづけ、戦後は日展を舞台に発表し、役員としても活躍した。官展のほか、戦前には大日美術院、国士会等に参加し、戦後は美校同期生により結成された六窓会、一采社等にも出品した。また昭和19年から10年間、東京麻布中学校(現麻布学園)に教鞭をとった。戦後は、一時病に倒れたが再起して、印度、ネパール、台湾等へ旅行し画なうをこやした。その作品は、穏健な写実にもとずく近代的画面を示した。略年譜昭和6年 東京美術学校日本画科を卒業。昭和9年 「冬日」第15回帝展。昭和11年 「霜晨」新文展(鑑査展)。豊島区要町に移転。昭和12年 「断崖」(大毎東日賞)第1回大日美術展。昭和13年 「海」第2回大日美術展。大日美術院々僚となる。昭和14年 「海」第3回文展。「緑のかげ」」第3回大日美術展。昭和16年 「夏野」第4回文展。昭和17年 「朝和」第5回文展。「麦秋」第5回大日美術展。大日美術院離脱。昭和18年 「地底敢闘」第6回文展。12月、研究グループ国士会結成。昭和20年 3月、海軍に召集され、8月解除となる。昭和22年 「干潟」第3回日展。昭和23年 「良夜」第4回日展。美術学校同期有志による“六窓会”結成。昭和24年 「夏山」第5回日展昭和25年 「馬」(特選)第6回日展。一采社参加。12月国土会解散。「丘」「秋」第1回芝英会(高島屋主催)昭和26年 「森」第7回日展。昭和28年 「山」第9回日展(特選、白寿賞、朝倉賞)昭和29年 「武蔵野風景」(出品依嘱)昭和30年 「雲」第11回日展。日展審査員。昭和31年 「雨後」(出品依嘱)第12回日展。昭和32年 「道」(出品依嘱)第13回日展。昭和33年 「田園譜」第1回新日展。日展会員。新作個展(兼素洞)昭和34年 「麓」第2回新日展。審査員。昭和35年 「牧馬」(文部大臣賞)。第3回新日展。昭和36年 「礁」第4回新日展。審査員。政府買上。昭和37年 「嶺」(日本芸術院賞)第5回新日展。日展評議員。昭和38年 前年度日展出品作「嶺」日本芸術院賞受賞。「群馬」第6回新日展。昭和39年 2月脳出栓で倒れ一時半身不随となったが、半年後に回復する。昭和41年 「蒼原」第9回新日展。昭和42年 「皎」第10回新日展。12月印度、ネパールへ写生旅行。昭和43年 「塔」第11回新日展。日展審査員。個展(三越)。12月ネパール、印度、タイ、カンボジヤへ旅行。昭和44年 「シェルパの歌」改組第1回日展。日展理事。昭和45年 「水を運ぶ娘(ネパール)」改組第2回日展。日展審査員。印度、ネパール方面に写生旅行。昭和46年 「尼蓮禅河」改組第3回日展。2月台湾旅行。昭和47年 「遠いヒマラヤ」改組第4回日展。昭和48年 「宙」改組第5回日展。役員改選により理事就任。新作個展(銀座弥生画廊)昭和51年 「靜かな朝」改組第8回日展。12月虎の門病院入院。昭和52年 「麓」改組第9回日展。3月退院。「山の辺」(緑映会)絶筆。7月逝去。

中村正義

没年月日:1977/04/16

日本画家中村正義は、4月16日呼吸不全のため、川崎市高津区の聖マリアナ医大付属病院で死去した。享年52。大正13(1924)年豊橋市に生れ、昭和16(1941)年豊橋市立商業学校を病気療養のため中退した。療養のかたわら日本画家夏目太果に就いたが、昭和21(1946)年には中村岳陵門下となった。この年10月の第2回日展に「斜陽」が初入選となり、昭和25年第6回日展では「谿泉」が特選となった。以後も日展で好成績をおさめ、昭和35(1960)年には日展審査員となった。しかし翌年には日展を脱退し、以後は無所属として、自由で幅広い制作活動を展開する。また病のため屡々入院して絵筆に遠ざかったが、快瘉後は再び制作をつづけ独自の画風を創造して多くの作品を発表した。代表作に「源平合戦絵巻」があり、東洲斎写楽の研究をすすめ著書に「写楽」がある。そのほか昭和50年の東京展では事務局長として活躍している。略年譜昭和21年(1946) 中村岳陵門下となる。「斜陽」第2回日展(10月)昭和22年(1947) 「爽凉」日本美術院展昭和23年(1948) 「少女」第4回日展。昭和24年(1949) 「夕陽」第5回日展。昭和25年(1950) 「谿泉」(特選)第6回日展。一采社同人となる。昭和26年(1951) 「空華」第7回日展無鑑査出品。昭和27年(1952) 「女人」(特選・白寿賞政府買上)第8回日展。朝倉賞受賞。豊橋文化賞受賞。昭和28年(1953) この年より昭和31年まで病気のため、制作中断する。昭和32年(1957) 「女」第13回日展依嘱出品。昭和33年(1958) 「舞妓」(出品依嘱)第1回新日展。昭和34年(1959) 「舞子」(出品依嘱)第2回新日展。中部日本文化賞受ける。昭和35年(1960) 日展審査員。「太郎と花子」第3回新日展。個展-風景と人物-(高島屋)昭和36年(1961) 日展を脱退し、岳陵門よりも去り、以後無所属となる。「太郎と花子」朝日秀作美術展出品。ヨーロッパに旅行。昭和38年(1963) 個展-男と女-(上野、松坂屋)名古屋、御園座の緞帳制作。個展(ロンドン・キャセー画廊)昭和39年(1964) 石原愼太郎作「一の谷物語」(日生劇場)の美術を担当。映画「怪談」のための「源平海戦絵巻」展(日本橋白木屋)(國立近代美術館買上)。名古屋國際ホテル会議場緞帳制作。昭和40年(1965) 個展(東京、大阪、名古屋)昭和41年(1966) 朝日秀作美術展、現代日本美術展などに出品。個展-顔の自伝-(東京日本画廊)。(名古屋・丸栄)。名古屋中日劇場緞帳制作。ヨーロッパ、アメリカ旅行。昭和42年(1967) 病気入院。個展(新宿、紀伊国屋画廊、赤坂・ガラスの城画廊)昭和43年(1968) 個展(名古屋・丸栄)日本國際美術展出品。昭和44年(1969) 現代日本美術展出品。個展-太陽と月のシリーズ-(銀座・三越)(山種美術館買上げ。)昭和45年(1970) 『写楽』(ノーベル書房)出版。個展(名古屋・丸栄)昭和46年(1971) 「美人画の系譜」展(京王百貨店)「戦後美術の展開」展(東京國立近代美術館)等に出品。個展-佛-(大阪・松坂屋、京都・祇園画廊)昭和48年(1973) 現代日本美術展に出品昭和49年(1974) 「人人」展(日本橋・三越)出品。個展-顔の自伝(ギャラリー・ヤエス)昭和50年(1975) 個展-象徴の顔-(紀伊國屋画廊)東京展事務局長となる。昭和51年(1976) 「中村正義展」(横沢市民ギャラリー)「人人」展、「東京展」出品。昭和52年(1977) 「人人」展出品、「中村正義」展(飯田市商工会議所)

中田晃陽

没年月日:1977/03/24

日 本画家中田晃陽は、3月24日心不全のため京都市右京区の自宅で死去した。享年75。本名一雄。明治34年5月9日神戸市に生れ、竹内栖鳳に師事した。昭和9年第15回帝展に「山の畑」が初入選し、昭和13年第2回文展では「緑蔭」が入選している。紀元2600年奉祝展には「河原」を出品し、戦後は日展に発表した。この間、大毎展、京都市展、関西展などに出品屡々受賞した。改組日展で会友となった。日展出品目録第3回日展 昭22 春晝第4回日展 昭23 春丘第5回日展 昭24 水辺第6回日展 昭25 洛北(特選)第7回日展 昭26 若狭座古山(無監査)第8回日展 昭27 初秋風景第9回日展 昭28 丘第10回日展 昭29 浅春第11回日展 昭30 池畔第12回日展 昭31 暮色第13回日展 昭32 新緑第1回新日展 昭33 新緑の杜第2回新日展 昭34 叢林第3回新日展 昭35 深秋第4回新日展 昭36 樹第5回新日展 昭37 丘第6回新日展 昭38 森(出品依嘱)第7回新日展 昭39 森(出品依嘱)第8回新日展 昭40 くぬぎ林(出品依嘱)第9回新日展 昭41 北山(出品依嘱)第10回新日展 昭42 水辺(出品依嘱)第11回新日展 昭43 淀(出品依嘱)

亀井玄兵衛

没年月日:1977/03/11

日本画家亀井玄兵衛は、3月11日肝臓ガンのため京都市上京区の上京病院で死亡した。享年75。本名英一。旧号藤兵衛。明治34年3月25日和歌山県湯浅町で生まれ、大正8年上洛し、山田耕齋師方に寄寓した。初め号藤兵衛を名乗り、昭和28年玄兵衛に改めた。昭和7年京都絵画専門学校を卒業、引続き研究科に入学した。早くより創作木版画を手がけ帝展、春陽会等に作品を発表した。前者に「理髪室」(11回帝展)があり、後者には「花」(第11回)、「車中」(第12回)、「椿花二種」(第13回)などがある。昭和12年以降は専ら青竜社に作品を発表し、昭和41年同社解散に至るまでここを拠点とした。この間、昭和17年社友に推挙され、同25年社人となり、また屡々受賞している。同社解散後は同年6月同志と東方美術協会を創立、昭和52年東方美術協会第11回展では、最後の作品となった「花籠」を出品した。また毎日新聞社主催の日本国際美術展、現代日本美術展にも招待出品し、前者に「風景」(第3回)、「台風」(第4回)、「かいぱん」(第5回)など、後者に「谷」(第1回)がある。そのほか京都、大阪等での個展も数多く開催している。川端竜子に私淑し、師の作風でもあった豪快な画面に特色を示した。青竜社出品目録昭和12年 9回「甲胄」(二曲一双)昭和14年 11回「舩鉾」(二曲片双)昭和15年 12回昭和16年 13回「渓」(二曲一双)昭和17年 14回「懸繍」昭和18年 15回「野鍛冶奉公」(六曲片双)昭和20年 17回「深秋」昭和21年 18回昭和22年 19回「S先生」昭和23年 20回「賀茂の踊子」昭和25年 22回「母子像」昭和26年 23回「つきふるゆき」昭和27年 24回「谷水」昭和28年 25回「顔」「少女」昭和29年 26回「石」「奔流」昭和36年 33回「みのり」昭和37年 34回「くつみがき」昭和38年 35回「捻じれた樹」昭和39年 36回「文楽」昭和40年 37回「観音立像」

宇田大虚

没年月日:1977/02/23

日本画家宇田大虚は、2月23日肺ガンのため京都市伏見区の国立京都病院で死去した。享年78。本名喜三郎。明治32年12月28日大阪市に生れ、大阪育英高等学校を卒業し、堂本印象の東丘社に入塾した。最初は花鳥を専門とし、東丘社幹事をつとめた。日展には昭和24年第5回展以降殆ど毎回の出品が見られ、主なもの下記の通りである。「池頭」(昭24)、「閑日」(昭26)、「建設」(昭27)、「船骨」(昭33)、「網を干す」(昭35)、「静閑」(昭43)など。

川崎小虎

没年月日:1977/01/29

日本画家川崎小虎は、1月29日老衰のため東京都杉並区の自宅で死去した。享年91。本名隆一。明治19年5月8日、中野金之助、あゆの長男として岐阜市に生まれた。家は名古屋に在ったが、父が岐阜県庁に勤務のため同市で生まれた。祖父川崎千虎は、明治画壇の大家として知られ、父は余技に南画と詩文をよくし、母も画道に親しんだ。岐阜師範附属尋常小学校に入学したが在学3年にして上京し、祖父千虎に大和絵を学んだ。根岸尋常小学校に入学するが、千虎が佐賀県有田陶芸学校長に赴任したため同行し、白川尋常小学校に入学、同時に有田陶芸学校専科で絵画と図案を学んだ。明治30年再び上京し、根岸尋常小学校に再入学した。またこの頃近くに小堀鞆音、安田靱彦がいて、屡々訪問して絵や故実を学んだ。同32年岐阜にもどり、翌年岐阜県立岐阜中学校に入学し、昆虫や植物に親しんだ。明治35年(1902)川崎千虎は68歳をもって没するが、その後は門下の小堀鞆音に師事し、同38年東京美術学校に入学した。在学中下村觀山、川端玉章、寺崎広業、小堀鞆音、結城素明、松岡映丘に日本画を、藤島武二、和田英作に洋画を、高森砕巌に南画をそれぞれ学んだ。明治43(1910)年東京美術学校を卒業し、その後3年程小、中学校図画教師として教職にあった。また同45年には新日本画の研究会行樹社を同窓の広島晃甫、川路柳虹らと結成し、赤坂三会堂で3回程展覧会を開催した。大正になってからは作品を主として文展、帝展に発表し、前者には「花合せ」(10回)があり、後者には「伝説中将姫」(2回)、「萌え出づる春」(6回)などがある。この間、大正6年31才で神谷清子と結婚し、翌年長女すみ子が、ついで翌8年次女あい子が誕生し、大正14年には長男鈴彦が誕生した。この年、帝展委員に推挙され、昭和2年には帝展審査員となり、以後帝展、新文展、日展等屡々審査員をつとめた。また大正12年第1回展を開催した日本画会革新には毎回出品をつづけ、昭和4年第7回展には後年代表作となった「オフィリヤ」の出品がある。この年帝國美術学校(現武蔵野美術大学)の教授となり、次男春彦が出生している。翌昭和5年には朝鮮美術展(9回)審査のため渡鮮し、各地に写生旅行を行い、その後も台湾、満蒙へ写生旅行をしている。昭和6年師の小堀鞆音は没したがその門下生による革丙会、東京美術学校卒業生の東邦画会等に官展外では出品し、さらに昭和14年には小堀鞆音門下生の朱弦会が結成され、これにも出品した。翌昭和15年には従軍画家として北支、満蒙へ旅行、また長女すみ子が東山魁夷と結婚した。昭和17年には第21回朝鮮美術展審査員として渡鮮し翌18年には東京美術学校教授となった。またこの年、加藤栄三、山本丘人、山田申吾、小堀安雄、東山魁夷の5名で國土会を結成し、のち高山辰雄、橋本明治らも加わり毎年高島屋で展覧会を開催し第7回に及んだ。翌19年東京美術学校教授を辞任し、山梨県中巨摩郡落合村に疎開し多くの写生をのこしている。戦後は、日展、日本画院展を中心に作品を発表、また昭和36年3月には初めての個展を日本橋高島屋で開催、15点を出品し、この年5月日本芸術院恩賜賞を受賞した。昭和38年77歳を迎え、その記念として喜寿記念展を銀座松屋で開催した。同42年には武蔵野美術大学名誉教授となったが、翌年1月脳血栓で倒れ入院した。半年後に回復するが以後左手で制作することが多くなった。昭和45年9月には大阪梅田阪神百貨店で、毎日新聞社主催により画業60年記念川崎小虎展を開催し、代表作70点を出品した。なお、没後の昭和53年2月にも山種美術館で「川崎小虎の回顧」展を開催し、約100点が出品された。 小虎はこのように大和絵に出発し、東京美術学校では他の伝統的諸画派及び洋画を学んだので、その作品は確かな日本画技法の上に立った、新しい感覚のものであった。作風は地味で堅実な傾向にあったが、画面は甘美な情緒の漂うロマンチックな画情の持味に特色を示した。なお晩年は水墨画も多く描いている。作品歴明治43年  「草合せ」(卒業制作)明治44年  「歌垣」2回國民美術展。明治45年  「雨後」「夜の蔵」「うどんげの花を植える女」「童謡(天平の少女)」「黒衣の支那美人」「朝の牧場」「聖書をもつ少女」行樹社展。大正3年  「月草」(初入選)大正4年  「人形作り」第3回國民美術展。大正6年  「御産養」第11回文展。大正7年 「起願」第12回文展。大正9年  「伝説中将姫」第2回帝展。大正10年 「囲碁」第3回帝展。大正11年 「丘の藥師堂」第4回帝展。大正12年 「釣二題」日本画会革新第1回展。大正13年 「春の訪れ」第5回帝展。「砂丘」日本画革新第2回展。大正14年 「萌え出づる春」第6回帝展。「青い鳥」日本画会革新第3回展。「狐火」第1回聖徳太子奉賛展。「西天求法」第7回帝展。昭和2年 「豆」「ばら」「茄子」日本画会革新第5回展。昭和3年 「ふるさとの夢」第9回帝展。「源氏物語絵巻」(11巻54帖)尾上柴舟を中心に松岡映丘、中村岳陵ら6名により制作。昭和4年 「オフィリヤ」日本画会革新第7回展。昭和5年 「こだま」第11回帝展。「踐祚」明治神宮奉讃会聖徳記念絵画館。「春」第5回東台邦画会展。昭和6年 「岩清水」第6回東台邦画会展。「荒凉」第12回帝展。「壺と翁草」「汀の朝」第10回革丙会展。昭和7年 「牧笛」第13回帝展。「つぐみ」第11回革丙会展。昭和8年 「童謡」第14回帝展。「柏に栗鼠」第8回東台邦画会展。「南国の鳥」第12回革丙会展。昭和9年 「森の梟」第15回帝展。「梟と雛」「壺に猫柳」第9回東台邦画展。「木菟」第13回革丙会展。「枯木に梟」第14回愛知社展。昭和10年 「さぼてん」第10回東台邦画会展。「蘭」第14回革丙会展。昭和11年 「山・浜」文展招待展。「猿」「芥子」第11回東台邦画会展。「あざみと壺」第15回革丙会展。「麦と野鼠」日本画会革新第14回展。昭和12年 「焼野の春」第16回革丙会展。「そよふく風」第1回大日美術院展。昭和13年 「七面鳥」第2回新文展。「雲海」第13回東台邦画会展。「ひまわりとかんな」第2回大日美術院展。昭和14年 「崖」第3回新文展。「麦とギリシャ壺」「さぼてん」「砂丘の夕」第3回大日美術院展。「小兎」「冬瓜に鼠」「海芋」第1回朱弦会展。(小堀鞆音門下)昭和15年 「沼の生活」ニューヨーク万國博。「木蓮」紀元2600年奉祝展。「沼三題」「冬日」「みそさざい」第2回朱弦会展。「磯風」第2回日本画院展。昭和16年 「雄飛」第4回新文展。「雨後の砂浜」海洋美術展。「砂浜」「葉牡丹」第4回大日美術院展。「南国攻略戦」陸軍美術展。「雪の朝」第3回日本画院展。昭和17年 「仔鹿」「海芋」第5回大日美術院展。「向日葵の実」第4回日本画院展。「摘草」「仔犬」昭和18年 「蒙彊の秋」第6回新文展。「黍に雀(金風)」「兎」「早春」「仔鹿」「昼顔(あひるの子に昼顔)」「初夏」第1回國土会展。「砂丘」第6回大日美術院展。昭和21年 「木の実拾い」第1回日展。「木の間に遊ぶ」第2回日展。昭和22年 「支那町の宵」第3回日展。昭和23年 「佐保姫」第4回日展。「麦秋」第2回毎日現代展。「若葉の林」第8回日本画院展。昭和24年 「小梨の花」第5回日展。「裏町」第9回日本画院展。昭和25年 「仔兎」「ばら」第6回國土会展。「卓と野草」第6回日展。「裏町」「橋」昭和26年 第1回森々会展。川崎塾々展「野の草」第7回國土会展(國土会解散)。「舗道」第7回日展。昭和27年 「山羊」第2回森々会展。「白鳳凰」桑港現代美術展。「ジャンク」第8回日展。「カラーの花」第12回日本画院展。絵師の旅絵巻制作。昭和28年 「つる草(夕顔)」第3回森々会展。「鵜戸の産屋」第9回日展。「秋の園」第13回日本画院展。昭和29年 「葉牡丹」第4回森々会展。「望郷」第10回日展。「洋蘭」第14回日本画院展。「若芽」第7回美術協会展。昭和30年 「城外」第11回日展。昭和31年 「薄氷」第12回日展。「たこ壺に猫柳」第16回日本画院展。昭和32年 「砂丘」第13回日展。「秋の草」第17回日本画院展。「クリスマス草」第10回美術協会展。「春の女神」深川八幡宮のために制作。昭和33年 「白土の丘」第1回新日展。昭和34年 「靜韻第2回新日展。「秋の草」第18回日本画院展。「樹蔭(仔狸)」第12回美術協会展。「勅使参向図」靖国神社大祭記念のため制作。昭和35年 「室内」第3回新日展。「裏町」第13回美術協会展。昭和36年 川崎小虎作品展「猫柳」「麦」「野草」「陽だまり」「秋果」「アロウカシヤ」「あざみ」「白い花」「七面鳥」「梟」「稲むら」「灯」等(日本橋・高島屋)「秋瓷」第4回新日展。昭和37年 「銅鐔」第5回新日展。「よしきりの巣」「梟」「滝」(以上水墨画)昭和38年 「沈鐘」第6回新日展。昭和39年 「薄明」第7回新日展。昭和40年 川崎小虎水墨画展「孤舟」「野の鳥」「ガード下の夕」等、(日本橋・高島屋)「深山の春」第8回新日展。昭和41年 「白い花」第9回新日展。昭和42年 「ななかまど」第10回新日展。昭和43年 「曠野」第11回新日展。昭和44年 川崎小虎作品展「猫柳」ほか20数点。(銀座・村屋)「海辺」改組第1回日展。昭和45年 川崎小虎展「仔犬」ほか30点(北辰画廊)画業60年記念川崎小虎展(梅田阪神百貨店・毎日新聞社主催)「初夏の森」改組第2回日展。昭和46年 川崎小虎水墨画展「荒磯」「富士山」「鵜」ほか38点(北辰画廊)。「谷間の雨」改組第3回日展。昭和47年 川崎小虎展。水墨と陶器(北辰画廊)「雪靜か」改組第4回日展。昭和48年 「森の梟」(絵と随筆集明治書房)。川崎小虎作品展(ミニチュアによる)(高島屋)「仔鹿の秋」改組第5回日展。昭和49年 「墨彩画の歩み」川崎小虎展(「林」「薫風」「蕗のとう」「雪の街灯」等、銀座松屋、北辰画廊)昭和50年 「日本の四季展」(陶芸家坂倉新兵衛と共催)「行く秋」改組7回日展。「曠野」「水辺」制作。昭和51年 川崎小虎展(北辰画廊)。「七面鳥」改組8回日展。「秋」制作。昭和52年 川崎小虎展(北辰画廊)1月29日没昭和53年 2月「川崎小虎の回顧」展開催。(山種美術館)3月川崎小虎追悼展(北辰画廊)9月、日本画の巨匠川崎小虎展(名古屋松坂屋)昭和54年 川崎小虎小品展(北辰画廊)

山田眞山

没年月日:1977/01/29

日本画家で彫刻もよくした山田眞山は、1月29日過労による脳血センのため沖縄県宜野湾市の自宅で死去した。享年91。明治18年那覇市に生れ、14才で上京した。戦前は中国の北京美術学校教授をつとめ、帰国後の昭和10年には明治神宮外苑絵画館の「琉球藩設置」の壁画を制作し代表作となった。戦後は昭和32年以来、糸満市摩文仁の丘に建つ平和記念堂に安置するための平和像の制作に打込み、その完成が間近であった。

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