本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





福井江亭

没年月日:1937/03/08

元東京美術学校教授福井江亭は豫てより千葉県市原郡に於て静養中であつたが3月8日逝去した。享年73。本名信之助。天真堂と称した。明治11年洋画を学び、後南画を学ぶ。同17年川端玉章に師事し同門下の俊才であつた。24年日本美術協会に於て1等賞を受領、36年青年絵画共進会に於て1等褒状を受けた。31年日本画会の設立と共に審査員に挙げられ、又翌年平福百穂、結城素明等と無声会を組織して当時の画壇に新生面を開拓した。36年名古屋高等工業学校教授に任命され、42年東京美術学校教授に任ぜられた。大正5年同校教授を辞し、支那に渡り名蹟勝地を探ること5ケ年に及ぶ。昭和6年在支5年間の作品展を丸ビルに開催した。昭和元年以後は悠々画筆の生活を楽んでゐた。

松島白虹

没年月日:1937/02/22

日本画家松島白虹は2月22日東京帝大附属病院に於て逝去した。本名松太郎。明治28年、岡山市に生れ、大正10年東京美術学校日本画科卒業後、結城素明に師事、大正7年文展第12回に初入選し、その後帝展に9回入選、昭和11年新文展に「占茶」を出品した。尚大正10年より女子美術専門学校の教授の職に在つた。

久保田満明

没年月日:1937/02/14

日本画家久保田満明は2月14日食道狭窄症のため荏原区の自邸で逝去した。享年64。雅号は米?又米所の別号がある。故久保田米僊の長男として京都に生る。小学校を卒へるや直ちに米国オークランド中学校に学び、4年後帰朝。東京に遷り、はじめ洋画を原田直次郎に学び、後日本画を田崎草雲、橋本雅邦に就て学んだ。其後仏国に留学、滞在すること4年、帰朝後は三越呉服店及松竹興業会社に関係して衣裳考証、舞台装置等に従事し、故実考証に専念してゐた。尚日清戦役には成歓、牙山及威海衛に国民新聞記者として画筆をとつて従軍した事がある。 

島崎柳塢

没年月日:1937/01/21

日本美術協会理事島崎柳塢は豫て腎臓病で加療中の処1月21日荒川区の自邸で逝去した。享年73。本名は友輔、別に栩々亭山人、墨水漁夫等の号がある。東京牛込の出身、幼にして桜井謙吉に洋画を学び後竹本石亭、松本楓湖、川端玉章等に就て日本画を学ぶ。明治20年頃より諸会に作品を発表し、旧文展には毎次出品して3等賞2回、褒状3回を受領した。又日本美術協会に於ても早くより?々受賞し、同会委員、理事、審査員の任に就いてゐた。

佐竹永陵

没年月日:1937/01/08

日本美術協会委員佐竹永陵は、1月8日宿痾の為本郷の自邸で逝去した。享年66。旧姓黒田、本名は銀十郎。明治5年東京に生る。同20年佐竹永湖に師事し後佐竹家の養子となつた。永湖の父は谷文晁の高弟佐竹永海であり、永陵は三代に当る。内国勧業博覧会、大正博覧会に出品して受賞し、初期文展に於ては第6回に「夏景山水」「冬景山水」を、第9回に六曲一双「水墨山水」を出品して、3等賞を授与せられた。日本美術協会に於ては?々受賞及宮内省御買上の栄に浴し、又大正天皇の御前揮毫を奉仕したことがある。晩年は専ら日本美術協会に出品して文帝展に関係せず、作画の傍ら文晁の画風を研究し、その鑑定に従事した。

富田渓仙

没年月日:1936/07/06

帝国美術院会員、日本美術院同人富田渓仙は7月6日午後1時40分京都嵯峨の自宅で突然脳溢血のため逝去した。享年58。渓仙名は鎮(シゲ)五郎、別号渓山人。明治12年12月9日福岡県博多に生る。13歳の時元福岡藩の絵師衣笠探谷に就き狩野派を学ぶ。同29年上洛、翌年都路華香に師事し四条派を学ぶ。同32年前期日本美術院第2回展に「鯉」を出品した。大正元年秋文展第6回に「鵜舟」を、更に翌年の第7回展に「沈竃容膝」を出品したが、横山大観等の認むるところとなり、大正3年、日本美術院再興さるるや院友に推薦され、翌年同人に挙げられた。再興院展には第1回に「鼎峠行人」を出品した。以後連年、其の四条派の筆技に発し、独自の工夫を凝した清新な画風を以て、画壇に特異なる存在を示した。昭和5年同展第17回に「雲ケ畑の鹿」を出品してその画境に一期を劃し、同8年の同展第20回に名作「御室の桜」を出品して好評を博した。同10年6月帝国美術院改組と共に其の会員に挙げられ第1回の帝展に「万葉春秋」を出品したが、同11年6月横山大観等と共に帝国美術院会員の辞表を提出した。渓仙の作風に就ては?に詳述する遑を有しないが、現在の画壇に於て最も芸術的な風格に富む画人の一人であり、匠気なき渾然たる其の画境は世に尊ばれる所であつた。彼は趣味広く俳諧、和歌に親しみ、昭和6年頃より浪漫詩を創作した。又読書を愛し、初めは好んで経書を読み中頃は仏典に親しみ、晩年は本朝の古文学に沈溺したと言ふ。著書に「渓仙八十一話」がある。富田渓仙略年譜年次 年齢明治12年 12月9日福岡県博多に生る。明治24年 13 元福岡藩の絵師衣笠探谷に就きて狩野派を学ぶ。明治29年 18 上洛、伏見桃山に住す。頓奥園主人、燕巣楼、渓仙の号あり。明治30年 19 都路華香の門に入り四条派を学ぶ。明治32年 21 前期日本美術院第2回展「鯉」「鷲」明治33年 22 京都美術協会主催新古美術品展「隠者」1等褒状。明治34年 23 日本美術協会展「春郊牧童」1等褒状明治35年 24 新古展「蒙古襲来」。京都後素協会展「白楽天」明治36年 25 第5回内国勧業博「神功皇后釣鮎図」褒状明治39年 28 新古展第11回「伎芸天」明治40年 29 新古展第12回「雪」明治41年 30 新古展第13回「訶利帝母」明治42年 31 2月台湾より南支旅行、8月帰洛。博多聖福寺に「龍」の天井画を描く。明治43年 32 新古展第15回「想思樹の橋」大正元年 34 新古展第17回「山海経」4等賞、「若菜摘」。文展第6回「鵜船」大正2年 35 文展第7回「沈竃容膝」大正3年 36 再興日本美術院第1回「鼎峠行人」。日本美術院々友に推挙。大和達摩寺の襖絵揮毫大正4年 37 院展第2回「宇治川の巻」。日本美術院同人に推挙さる。大正5年 38 院展第3回「沖縄三題」大正6年 39 院展第4回「風神雷神」「淀」大正7年 40 院展第5回「南泉斬猫、狗子仏性」。院試作展「西行桜」。この頃より久彭山人、久彭庵、久彭子の別号を見る。大正8年 41 院展第6回「嵯峨八景」大正9年 42 院展第7回「列仙」大正10年 43 院展第8回「八瀬の春」「大原の秋」。同院主催米国展「奔鹿」「祇園夜桜」。11月、大阪高島屋に個展を開催し、画集「京洛季」を上梓。大正11年 44 院展第9回「漁火」「岬」。この頃より渓山人の落款散見す。仏国大使ポール・クローデルと詩画集「皇城十二景」を合作。大正12年 45 院展第10回「春日野」大正13年 46 博多の櫛田神社へ「騏麟鳳凰屏風」を献納、博多虚白院の仙厓堂再興にかかる。11月土井撰美堂にて西村五雲との合同展開催。大正14年 47 院展第11回「幻化」大正15年 48 この夏頃の作より専ら渓山人の落款を用ふ。昭和2年 49 院展第14回「日本六十余州」の内「淡路」「筑前」「長崎」「山城」「讃岐」を出品。ポール、クローデルとの合作詩画集「四風帖」「雉橋集」成る。10月大阪高島屋に個展開催、画冊「近畿柳桜」成る。仏国ルクサンブール美術館に「神庫」を寄贈。昭和3年 50 院展第15回へ続日本六十余州の内「伊勢神宮」「悠紀田」「紙漉き」を出品。11月大阪高島屋に個展開催、画集「春夏秋冬」成る。昭和4年 51 仙厓堂再興成る。昭和5年 52 院展第17回「雲ケ畑の鹿」。「聖徳太子奉讃会第2回展「糺の森」。チエツコスロバキヤ展「淀城」及「歳寒三雅」。3月佐藤梅軒にて個展開催。大倉男主催イタリー美術展「聖地の華」昭和6年 53 院展第18回「梢の鷺、迅瀬の鵜」。ドイツ展「幽谷の鹿」。此頃より浪漫詩を作る。昭和7年 54 5月土井撰美堂にて個展開催、画集「独活大僕」を上梓。院展第19回「優曇婆羅」昭和8年 55 院展第20回「御室の桜」朝香官御買上。昭和9年 56 院展第21回「伝書鳩」昭和10年 57 3月随筆集「無用の用」を上梓。6月帝国美術院会員に挙げらる。昭和11年 58 新帝展「万葉春秋」6月帝院会員の辞表を提出。7月7日逝去。

土田麦僊

没年月日:1936/06/10

帝国美術院会員土田麦僊は6月10日逝去した。享年50。麦僊名は金二、明治20年2月新潟県佐渡郡に生る。16歳の時上洛、翌年鈴木松年に入門したが37年秋、竹内栖鳳門に転じた。同38年初めて第10回新古美術品展に「清暑」を出品し4等に入賞。又同40年には文展第2回に「罰」を出品し一躍3等賞に挙げられ新進作家の名を成した。その後文展に「島の女」、「海女」、「大原女」、「三人の舞妓」、「春禽趁晴」等の問題作を出陳したが、此の期には或は仏蘭西近代絵画を学び或は桃山芸術に傾倒する等の大胆なる追究が試みられた。大正7年1月官展を去り同志と共に国画創作協会を結成して昭和3年の同会解散に至る迄在野人として活躍した。「湯女」、「三人の舞妓」更に外遊後の「大原女」等は此の間の力作である。尚大正10年秋欧洲に遊び12年に帰国した。昭和4年帝展第10回に「罌栗」を出品、官展に復帰した。爾後毎回出品し又七弦会、清光会等にも力作を発表した。晩年の仕事は漸次理智的に冷徹になつて、技巧的な巧緻さが行き渡り構図、色彩の完美さが際立つて来てゐた。同9年帝国美術院会員に任命さる。同10年夏渡鮮し、改組帝展に「妓生の家」を出品すべく既に画稿は完成し本図に着手し乍ら遂に起たなかつた。土田麦僊略年譜年次 年齢明治35年 16 上洛明治36年 17 鈴木松年の門に入る明治37年 18 栖鳳門に移る明治38年 19 新古美術品展第10回「清暑」4等賞明治39年 20 新古美術品展第11回「残陽」3等賞明治40年 21 新古美術品展第12回「春の歌」2等賞1席明治41年 22 文展第2回「罰」3等賞明治42年 23 絵画専門学校入学明治42年 23 新古展第14回「徴税日」2等2席明治43年 24 新古展第15回「春山霞壮夫」2等2席明治44年 25 京都絵専選科卒業明治44年 25 文展第5回「髪」褒状大正元年 26 文展第6回「島の女」褒状、「冬」大正2年 27 文展第7回「海女」大正3年 28 文展第8回「散華」褒状大正4年 29 文展第9回「大原女」3等賞大正5年 30 文展第10回「三人の舞妓」大正6年 31 文展第11回「春禽趁晴」大正7年 32 1月国画創作協会組織。国展第1回「湯女」大正8年 33 国展第2回「三人の舞妓」大正9年 34 国展第3回「春」大正10年 35 秋西欧美術巡礼に旅立つ。大正12年 37 3月帰朝大正13年 38 国展第4回「舞妓林泉図」大正14年 39 国展第5回「罌栗」、「鮭と鰯」、「舞妓」、「大原女」大正15年 40 聖徳太子奉讃展出品「鶉」昭和2年 41 国展第6回「大原女」昭和3年 42 国展第7回「朝顔」、7月国画創立協会解散。昭和4年 43 帝展第10回「罌栗」昭和5年 44 帝展11回「明粧」、審査員任命。七弦会第1回展「蓮華」、「麗日」昭和6年 45 帝展第12回「娘」。七弦会第2回展「舐瓜図」「菊」。瓜図(久迩宮家御所蔵)昭和7年 46 第13回帝展審査員任命。七弦会第3回展「黄蜀葵」昭和8年 47 帝展第14回「平牀」。清光会第1回展「芍薬」、「菊」。七弦会第3回展「山茶花」昭和9年 48 帝展第15回「燕子花」。10月20日帝国美術院会員任命。昭和10年 49 春虹会第1回展「舞妓」。清光会第3回展「蓮」、「舞妓」。七弦会第5回展「歌妓図」。秋渡鮮。「妓生の家」画稿成る。昭和11年 50 「妓生の家」製作中罹病。5月27日大学病院入院。6月10日逝去。

尾竹竹坡

没年月日:1936/06/02

尾竹竹坡は旧冬以来気管支喘息を病み、本郷区の自宅で療養中であつたが、6月2日遂に逝去した。享年59。本名染吉、明治11年1月新潟に生る。兄弟3人、兄は越堂、弟は国観。4歳にして笹田雲石に就いて南画を学ぶ。同27年、第4回内国観業博覧会に「少年書画会図」を出品。同29年出京し、川端玉章に入門した。同31年東京文学社出版の小学毛筆画8冊、中学毛筆画8冊の原図浄写の代筆を橋本雅邦に依嘱され完了した。同39年同志安田靭彦、今村紫虹、尾竹国観、飛田周山等と共に大同画会を創立、之は後日本美術院の同人合同して国画玉成会となつたが、同41年国画玉成会展に「仏舎利分与」を出品、この時岡倉覚三と衝突して退会し、次で同会も解散となつた。大正2年7月越堂、国観と合同して八華会展覧会を開催、翌年代議士候補に立ち選挙に争つた。同8年秋自ら八火社を創立し門人を率ゐて展覧会を開いた。昭和2年帝展第8回に際し無鑑査に推薦さる。11年1月以来病勢一進一退、病床にあつて没する前日に至る迄1日も筆を休めなかつたと言ふ。作品略年表年次 年齢明治28年 18 日本美術協会展「観桜図」明治30年 20 日本美術協会展「石川麿」明治31年 21 日本絵画協会4回展「空中声」褒状1等。日本美術協会「静吉野雪」褒状1等明治32年 22 日本絵画協会7回展「春曙」褒状1等明治33年 23 日本絵画協会8回展「四季山水」褒状1等明治40年 30 文展1回「羅喉羅」明治42年 32 文展3回「茸狩」3等賞明治43年 33 文展4回「おとづれ」2等賞明治44年 34 巽画会11回展「梅」「太子」1等賞。文展第5回「水」2等賞大正4年 38 文展8回「豪華」3等賞大正5年 39 文展10回「ゆたかなる国土」大正6年 40 文展11回「みそのの秋」大正7年 41 文展12回「健雷神」大正8年 42 八火社展12点大正9年 43 八火社展2回展10点大正10年 44 八火社展3回展8点大正13年 47 帝展5回「市町村」3点大正14年 48 帝展6回「大地円」大正15年 49 帝展7回「峠」昭和2年 50 帝展8回「山中の水」昭和3年 51 帝展9回「雑草」昭和4年 52 帝展10回「生常四幅」昭和5年 53 帝展11回「唱」昭和6年 54 帝展12回「鶏頭」昭和7年 55 帝展13回「阿寒原始林」昭和8年 56 帝展14回「安楽豊蚕」昭和9年 57 帝展15回「日盛」

石川寒巌

没年月日:1936/03/25

日本南画院同人石川寒巌は盲腸炎で赤十字社病院に入院中3月25日逝去した。享年47。名は寅寿、明治23年2月11日栃木県那須郡に生る。同42年大田原中学卒業後、秋上京し、故佐竹永邨に師事、同44年春病気の為帰省し、大正9年秋再度上京、小室翠雲の門下となり、同14年9月日本南画院の同人に列した。作品略年表(年次) (年齢)大正14年 36 日本画会展「麓」1等賞大正14年 36 日本南画院「煙雨」昭和5年 41 日本南画院「一芳四鮮」昭和6年 42 日本南画院「仔牛」「十六賞心事」昭和7年 43 日本南画院「松石不老」「碧岩画冊」昭和8年 44 日本南画院「雪文」「桃花扇伝奇」昭和9年 45 日本南画院「永春」「世説新語冊」

岸浪柳渓

没年月日:1935/12/10

名静司。安政2年江戸に生る。田崎艸雲及福島柳圃に師事した。享年81。

榛沢菱花

没年月日:1935/05/20

名清、明治36年金沢生。蔦谷龍岬に師事した。旧帝院第8回展に初入選してより旧帝展の常連であつた。享年33。

速水御舟

没年月日:1935/03/20

名は栄一、明治27年8月2日、東京市浅草質商蒔田良三郎の二男に生れ、明治41年15歳の時近隣の松本楓湖の安雅堂画塾に入門した。明治44年巽画会に出品した18歳の作「室寿の宴」は宮内省御買上の栄に浴した。同年楓湖より禾湖の号を授かつた。但し同年の作と推定されるものに浩然の号を用ひたものがあり、その後御舟と号するに至る迄多く此の号を用ひたらしい。紅児会会員となり今村紫紅に近づくに至つたのも此の年の事である。父方の姓に復して速水姓を名乗る様になつたのは明治末年の事であつた。 大正2年小茂田青樹、牛田鶏村等と京都南禅寺畔に籠居、ひたすら画業にいそしんだが翌年東京目黒に移転し今村紫紅に従つて赤耀会を起し「樵夫」を出品した。又同年「近村」を美術院再興第1回展に出品し、巽画会に於ては「萌芽」によつて1等賞を受けた。 大正6年日本美術院試作展に「伊勢物語」を出品して受賞したが其の年の秋の第4回展には同年京都に移転後製作した「京都の近郊六題」を出品して認められ院の同人に推された。其後の院展出品作品は次の如くである。 「洛北修学院村」(大正7年)、「比叡山」「京都の舞奴」(大正9年)、「菊」「渓泉二図」(大正10年)、「広庭立夏」(大正11年)、「平野点景」「圃畦」「収穫の図」「晴篁図」「早春薄暮」「暁靄」(大正13年)、「供身像」「朝鮮牛之図」「樹木」(大正15年)、「京の家、奈良の家」(昭和2年)、「翠苔緑芝」(昭和3年)「名樹散椿」(昭和4年)、「女二題」(昭和6年)、「花の傍」(昭和7年)、「青丘婦女抄」(昭和8年)。 之等院展出品作以外の主なる作品は大正14年聖徳太子奉賛展出品の「昆虫二題」昭和3年ローマ日本画展に出品の「鯉魚」昭和6年初頭ドイツで開かれた日本美術展出品の「雪夜」(此の作はベルリンの国立博物館東洋部に寄贈された)昭和9年七弦会の会員となつて同会に出品した「白鷺紫閃」、同年東方絵画協会の手で満洲国皇帝に献上された「罌栗」等である。 之等多数の名作を遺した後、「まどかなる月」(大阪松宮文明主催松作画出品展)を絶筆として昭和10年3月20日腸チブスに殪れた。享年42。 御舟は現代に於ける甚だ勝れた一人の進歩的な画家であつたばかりでなく、その人自身の画境に於て常に滞ることなき進展を見せ、且その急速な進展の途上に殪れた若き画人であるから、概括的に固定した画風といふものを規定し難い。が強いてその画風の変遷の中に期を分つならば大体三期を劃することが出来るであらう。 第一期はその初より大正7、8年頃まで、作品から云ふならば「京の近郊六題」「洛北修学院村」等を頂点として之に至るまでの道程と見るべき期間である。人事上にあつては大正8年3月浅草駒形にて隻脚を失ふ程の奇禍に逢つている。之は恐らく深刻な衝撃であつて一つの転換期を作る素因を成してゐると考へられる。此期の代表作として「京の郊外六題」を採る。これには極めて早期の楓湖の影響は既に殆ど見出し難く、之に代つて紫紅の影響を濃厚に見る。そして初期の作「萌芽」「伊勢物語」等に現れていた甘い叙情的なものが多少形を変へながら未だ豊富に残存し、之に加ふるに写実的な基礎を段々に深めて行つたと見らるべき所のものである。 第二期は之に続き昭和5年頃に至る。「翠苔緑椿」「名樹散椿」の偉作を発表し、昭和5年ローマに於ける日本美術展に際し2月より10月迄外遊したまでの期間である。この間に御舟は種々なる試みをなし、各様の注目すべき作品を発表しているが、その基調となるものは写実への徹底である。或は極度なる細密描写へ、或は大胆なる装飾化へ。好き意味に於ける野心的な試みが一見多様な画風の変遷を示しているやうであるが、その帰一する所は徹底せる自然観照による写実であらう。此間に於てその描線も色彩も甘いふつくらしたものから次第に雋鋭なものへと深められて行つた。「菊」「広庭立夏」「早春薄暮、暁靄」「昆虫二題」「京の家、奈良の家」等は此間の各様の画風の現れとして注目すべき作品であり「翠苔緑芝」「名樹散椿」に至つてこの期間に於ける一の到達点を見出したと云ひ得るのであらう。構成に関する深い研究と、忠実なる写生が真摯なる思索によつて濾過された勝れた単純化に於て、此2作は現代日本画中に於て甚だ高き評価を有すべき作品である。 「青丘婦女抄」はこの作家の最後期に於けるよき進展を示す大作であつた。然し寧ろ之以上に注目すべきは晩年に好んで画いたと思はれる芙蓉、牡丹等の小品に見られる巧まずして滋味の溢るる4、5の作品である。鋭い神経を見せながら温藉な画品を保つているその画風こそ今後の御舟の進展を約束するものではなかつたであらうか。 院展に於ける所謂目黒派の中堅として先進の注目を集め、後進の目標となつてゐた御舟の作品が画壇に及ぼした影響力は甚だ強いものがあつたと云ふべきである。

坂田耕雪

没年月日:1935/02/06

名万之助、明治4年金沢生。尾形月耕に師事し巽画会会員であつた。享年65。

高取稚成

没年月日:1935/01/30

名熊夫、慶応3年に生る、幼名は熊若と云つた。幼時住吉広賢の隣家に住した関係から其の門に入つて大和絵を修め、明治16年広賢の没するや山名貫義に就いた。明治18年より同21年に亙つて行はれた皇居御造営に際して奉仕したが、当時青年輩は何れも諸調度品の下絵をつけるに止つたのであるから今日此等のものは熊若の作品としては現存してゐない。この御造営以後青年画家の中に確たる地歩を占めるに至り、その後青年絵画協会或は日本美術協会、文展等にその作品を発表した。文展に於ては第3回に「赫耶姫天上の図」を、第6回に「藤房卿の草子」(2等賞)を第7回第一科に「南淵魚水」(2等賞)を第9回に「四家文躰」(3等賞)を出品して大正10年より3年間審査員を命ぜられた。其の他世に聞える作品としては宮内省蔵「大正四年御即位大典絵巻」、今神宮徴古館に保管せらるる昭和4年度皇太神宮式年遷宮絵巻12巻、明治神宮絵画館奉献壁画「有栖川征東大将軍宮建礼門御通過の図」等がある。 嘗て久迩宮家御用掛たり、現に伊勢神宮技芸員、宮内省嘱託であつた。 最後迄生き残つた純粋な土佐派の画家として、取材なり、技法なり忠実に古法を墨守した其の画風は不幸時世の顧る所とならなかつたが、歴史的には甚だ貴重な存在であつた。享年69。

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