本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





三国慶一

没年月日:1980/01/16

日展参与の木彫家三国慶一は、1月16日午後8時40分ぼうこうガンのため東京都杉並区の荻窪病院で死去した。享年80。1899(明治32)年4月16日青森県弘前市の生まれ。1916年第10回文展に三国花影の名で「明かたの海」を出品し初入選、22年の第4回帝展で「夜の巷」が再び入選し、以後連続して入選する。26年東京美術学校を卒業し、29年の第10回帝展「訶梨帝母」31年第12回帝展「久遠」が特選となった。その後無鑑査となり31年に審査員をつとめたが、この頃日本木彫会で幹部会務員として活躍している。戦後は50年から日展依嘱出品となり、58年から評議員、76年以降参与をつとめ、この間4度審査員となっている。また、日本表象美術協会にも所属した。主な作品として帝展特選作のほか、渋谷の2・26事件記念慰霊像「平和觀音像」などがある。出品略譜1916年 第10回文展 「明かたの海」1922年 第4回帝展 「夜の巷」1924年 第5回帝展 「路傍」1925年 第6回帝展 「母子」1926年 第7回帝展 「麗日」1927年 第8回帝展 「嶺」1928年 第9回帝展 「雪女」1929年 第10回帝展 「訶梨帝母」 特選1930年 第11回帝展 「地」1931年 第12回帝展 「久遠」 特選1932年 第13回帝展 「白露生草」1933年 第14回帝展 「黒風」 無鑑査1934年 第15回帝展 「緑樹」1936年 文展招待展 「つめ」1937年 第1回新文展 「残照」1946年 第1回日展 「明旦」1946年 第2回日展 「斜面」1947年 第3回日展 「光明」 招待1949年 第5回日展 「秋」1950年 第6回日展 「夏日」 この年より依嘱となる1951年 第7回日展 「裸身」1952年 第8回日展 「涛」1953年 第9回日展 「裸像」1954年 第10回日展 「青新」 審査員1955年 第11回日展 「相」1956年 第12回日展 「海」1957年 第13回日展 「群像」1958年 第1回新日展 「和」 審査員、この年より評議員となる1959年 第2回新日展 「静立」1960年 第3回新日展 「みぎわ」1961年 第4回新日展 「たたずまい」1962年 第5回新日展 「無韻」1963年 第6回新日展 「求心」1964年 第7回新日展 「慰霊記念像」 審査員1966年 第9回新日展 「心象」1967年 第10回新日展 「新樹」1968年 第11回新日展 「溶々」1969年 第1回改組日展 「老剣士」1970年 第2回改組日展 「清秀」1971年 第3回改組日展 「布を持つ立像」 審査員1972年 第4回改組日展 「広庭」1973年 第5回改組日展 「群像第二」1974年 第6回改組日展 「赤とんぼ」1975年 第7回改組日展 「投影」1976年 第8回改組日展 「たなびく」 この年より参与となる1977年 第9回改組日展 「姉妹」1978年 第10回改組日展 「そこはか」1979年 第11回改組日展 「ささやき」

平櫛田中

没年月日:1979/12/30

日本芸術院会員、文化勲章受章者の彫刻界の最長老平櫛田中は、12月30日肺炎のため東京都小平市の自宅で死去した。享年107。旧姓田中、本名倬太郎。1872(明治5)年6月30日、岡山県後月郡に生まれ、82年平櫛家の養子となる。93年中谷省古に弟子入りし木彫の手ほどきを受け95年上京し中谷の次男に伴われ高村光雲を訪れる。この頃から田仲と号す。1901年、日本美術協会展に出品した「童子歌君ヶ代」で銀牌を受け、翌年頃新海竹太郎らが組織した三々会の会員となる。05年東京彫工会第20回彫刻競技会に「太郎歓」を出品し金牌を受ける。07年東京勧業博覧会に「少女と人形」を出品し三等賞牌を授賞したが、審査の不公平を理由に返却し、同年1回文展に「姉ごころ」(石膏)が入選、また、山崎朝雲らと木彫研究団体日本彫刻会を結成、翌年の第1回展に出品した「活人箭」は岡倉天心の推奨を受ける。14年日本美術院再興記念展に「禾山笑」ら4点を出品、会期中同人に推挙され以後同展に制作発表を行う。また、この年から号を田中に改める。35年帝国美術院会員となるが翌年辞表を提出、37年帝国芸術院会員となる。同37年「鏡獅子」の想をねり、38、39年の院展に試作を発表する。(完成作は20年後の58年第43回院展に出品)。42年第2回野間美術賞を受賞、44年東京美術学校教授となり、同年帝室技芸員に任命される。49年東京芸術大学教授となるが、52年に辞任する。50年、自作の彫刻27点、所蔵の現代彫刻作品106点を東京芸術大学に寄贈、翌年紺綬褒章を受ける。この間日展に出品し審査員をつとめる。54年文化功労者として顕彰される。58年日本美術院が財団法人となり理事に就任、同年岡山県井原市名誉市民となる。61年東京都台東区名誉区民となり、翌年文化勲章を受ける。65年東京芸術大学名誉教授となり、翌年同大学付属芸術資料館内に田中記念室が設けられ公開される。69年には井原市に田中館(73年井原市立田中美術館となる)開館する。71年百寿を記念して「平櫛田中賞」(平櫛田中記念会)が設定される。72年東京都小平市名誉市民となる。翌73年東京国立近代美術館で国内現代作家ではじめての「平櫛田中展」が、78年井原市立田中美術館で「平櫛田中特別展」開催された。高村光雲によって確立された近代木彫を大正、昭和にかけて展開、発展し、没年まで制作活動に従事した。最晩年に執念を燃やしていた武原はんと大観像は未完のままとなった。 略年譜1872年 6月30日、岡山県後月郡に生まれる。父は田中謙造、母は以和。本名倬太郎。1882年 5月、広島県沼隈郡平櫛家の養子となる。1885年 1月、後月郡義之尋常小学校を卒業する。1886年 11月、大阪の小間物問屋備貞に丁稚奉公に出される。1893年 5月、中谷省古に弟子入りして本彫の手ほどきを受ける。1894年 胸部疾患のため、この年早々郷里に帰り静養につとめる。1895年 春にまた大阪に出て、作品を直してもらったりした。奈良に2年近く滞在して古仏を見て廻り、また観音像を一体制作する。1896年 暮れに郷里に帰る。1897年 11月、上京して、中谷省古の次男久二郎の下宿先に同居する。1898年 1月、久二郎に伴われて高村光雲を訪れ、持参した観音像の批評を請う。4月、日本美術協会春季美術展覧会に観音像を出品したが落選する。この頃から号を「田仲」とした。7月、谷中の長安寺に寄宿する。11月、湯島の麗祥院で西山禾山の臨済録の提唱を聞く。禾山の提唱は三年にわたり、思想にも制作にも大きな影響を受けた。1899年 日本美術協会秋季美術展覧会に「樵夫」を出品。1901年 5月、日本美術協会美術展覧会に「童子歌君ヶ代」を出品して銀牌を授賞する。1902年 この頃、新海竹太郎、米原雲海、山崎朝雲らが組織した三々会の会員となり、課題制作による研究などを行う。1904年 4月、日本美術協会第35回美術展に「竹刀人物」を出品し、二等賞銀牌を授賞する。1905年 8月、東京彫工会第20回彫刻競技会に「太郎歓」を出品、金牌を授賞する。1907年 3月、東京勧業博覧会に「少女と人形」を出品、7月、三等賞牌を授賞したが、審査の不公平を理由に返却する。当時は彫刻家の団体である成美会の会員であり、褒賞の返却は会として決議した。10月、文部省第1回美術展覧会(文展)に「姉ごころ」(石膏)入選する。10月、第1回文展の監査が終わった頃、高村光雲門下の米原空海、山崎朝雲、加藤景雲、と共に、滝沢天友と森鳳声の2人を加えて、木彫研究の団体日本彫刻会を結成する。1908年 10月、日本彫刻会第1回展に「活人箭」を出品、岡倉天心の推奨を受ける。1909年 8月、東京彫工会第24回彫刻競技会に「竹内宿禰」「布袋」を出品。1910年 9月、日本彫刻会第2回展に「法堂二笑」「応化大師」「竹取翁」を出品。1911年 5月、東京彫工会第26回彫刻競技会に「幼児狗張子」を出品、銀牌を授賞する。9月、日本彫刻会第3回展に「黄初平」「維摩一黙」「老子」を出品。10月、第5回文展に「維摩一黙」を出品、三等賞を受賞する。1912年 9月、日本彫刻会第4回展に「一指頭」「張果」「達摩」を出品。1913年 9月、日本彫刻会第5回展に「尋牛」「灰袋子」を出品。10月、第7回文展に「堅指」「落葉」を出品。この年、内藤伸、吉田白嶺と共同で田端に借家して木彫の研究を設ける。1914年 10月、日本美術院再興記念展覧会に「禾山笑」「横笛堂」「月明」「樹に倚りて」を出品、会期半ばに同人に推挙される。日本美術院の研究所に設けられた彫塑の研究室で、3年にわたり塑造の研究に没頭する。この年から号「田仲」を「田中」とあらためる。1915年 10月、日本美術院第2回美術展覧会(院展)に「沙上」「さす影」を出品。1916年 9月、第3回院展に「遠き思ひ」「淵」「児」を出品。1917年 9月、第4回院展に「森の書」を出品。1918年 9月、第5回院展に「観音」を出品。1919年 9月、第6回院展に「烏有先生」「一休行乞」を出品。1920年 9月、第7回院展に「転生」を出品。1921年 9月、第8回院展に「降魔」を出品。1922年 夏、横山大観、下村大観、木村武山の尽力で東京下谷区に住宅を建てる。1923年 9月、第10回院展に「牧人」を出品。1926年 5月、聖徳太子奉賛会第1回美術展覧会に「観音曼陀羅」を出品。1927年 2月、日本美術院第12回試作品展に「降魔」を出品。1928年 9月、第15回院展に「端老」を出品。1929年 9月、第16回院展に「アイスホッケー」(鋳銅)「小田部助左衛門翁像」「飯村丈三郎翁像」「某博士像」を出品。1930年 3月、第2回聖徳太子奉賛美術展に「良寛来」を出品。8月、日本美術院の経営者に加わる。9月、第17回院展に「五浦釣人」を出品。1931年 9月、第18回院展に「後藤徳乗翁」を出品。1932年 9月、第19回院展に「小室氏母堂像」「蕉翁試作(傚卯観子)其一、其二、其三」を出品。1933年 2月、日本美術院第17回試作展に「釈尊」を出品。9月、第20回院展に「夜半翁」を出品。1934年 9月、第21回院展に「鶴寿老公」を出品。12月、寄木極彩色の古法にならう「浅野長勲公寿像」を完成し、日本美術院において展示する。1935年 3月、日本美術院第19回試作展に「故雅邦先生夫人寿像」を出品。6月、帝国美術院会員となる。9月、第22回院展に「獅頭」「辰沢氏像」を出品。1936年 2月、第1回帝国美術院展覧会に「霊亀随」を出品。6月、帝国美術院会員の辞表を提出する。9月、第23回院展に「源頼朝公」「平安老母」を出品。1937年 6月、帝国芸術院会員となる。9月、第24回院展に「慶典読書奉仕」「獅頭」を出品。12月、「三井高福像」完成する。寄木極彩色の古法復興第二作である。この頃、援助する人があって、六代目尾上菊五郎の像を制作することとなり、「鏡獅子」の想をねる。1938年 9月、第25回院展に「鏡獅子試作」「鏡獅子試作顔」(石膏)を出品。1939年 9月、第26回院展に「試作鏡獅子」を出品。1940年 9月、第27回院展に「杉田氏像」「弘法大師試作」を出品。10月、紀元二千六百年奉祝美術展覧会に「原翁閒日」を出品。1941年 9月、第28回院展に「鑚軒翁」を出品。1942年 9月、第29回院展に「鶴氅」を出品。9月、第5回文部省美術展覧会(新文展)審査員となる。12月、野間奉公会(大日本雄弁会講談社内)から第2回野間美術賞を贈られる。1943年 9月、第6回新文展審査員となる。1944年 6月、東京美術学校教授に任命される。7月、帝室技芸員に任命される。1946年 3月、文部省主催第1回日本美術展覧会(日展)に「如是尊」を出品。9月、第31回院展に「尋牛」を出品。10月、第2回日展に「七十五年頌」を出品。1947年 9月、第3回日展審査委員となる。1949年 6月、第5回日展審査委員となる。6月、東京芸術大学教授となる。10月、第5回日展に「浅野老公」を出品。1950年 10月、自作の彫刻27点、所蔵の現代彫刻作品106点、あわせて133点を東京芸術大学に寄贈する。1951年 3月、紺綬褒章を受ける。6月、第7回日展審査員となる。1952年 3月、東京芸術大学教授を辞任する。中絶していた「鏡獅子」の制作を再開する。1953年 6月、第9回日展審査員となる。1954年 9月、第39回院展に「習作不動」を出品。11月、文化功労者として顕彰される。1957年 9月、第42回院展に「西山逍遥(試作ノ一)「西山逍遥」を出品。11月、第13回展に「坤山老公」を出品。12月、3年を費やして「鏡獅子」が完成し、彩色がのこすだけとなった。1958年 5月、日本美術院は財団法人に組織をあらため、理事となる。9月、第43回院展に「鏡獅子」を出品。試作を発表してから20年を経ている。11月、岡山県井原市名誉市民となる。1959年 1月、朝日新聞社主催第10回秀作美術展に「鏡獅子」を出品。9月、第44回院展に「金蟾公主(がまのおひめさま)」「くまどり(六代菊五)」を出品。1960年 9月、第45回院展に「マダムK」を出品。1961年 2月、日本美術院彫塑部解散する。11月、東京都台東区名誉区民の称号を贈られる。1962年 11月、文化勲章を授与される。12月、日本橋三越において「五浦釣人」完成記念展開催される。1963年 9月、第48回院展に「五浦釣人」を出品。1964年 1月、岡山県総合文化センター美術館主催郷土出身芸術院4人展に「転生」「平安老母」「五浦釣人」など16点出品。1965年 2月、銀座、資生堂ギャラリーにおいて『平櫛田中の仕事場』展(作家のアトリエシリーズ・第6回)開催される。6月、東京芸術大学名誉教授となる。1966年 10月、東京芸術大学附属芸術資新館内に田中記念室が設けられ、公開される。昭和25年10月の寄贈以後、数次にわたって追加寄贈したもの147点に達した。1969年 2月、千代田区永田町尾崎記念会館において『岡倉天心を語る』と題して講演を行う。5月、井原市井原町夏目に設立された田中館開館する。1970年 3月、「ウォーナー像」完成し、茨城大学五浦美術文化研究所において除幕式が行われる。6月、東京都小平市に転居する。10月、小平市の新居にアトリエ完成する。1971年 5月、日本美術院理事長安田靫彦の米寿と理事平櫛田中の百歳を慶祝し、日本美術院の新築落所を披露する祝賀会が行われる。5月30日、百寿祝賀会が帝国ホテルで開かれる。12月、百寿を記念し「平櫛田中賞」が設定される。1972年 6月、銀座、吉井画廊本館において福寿会展(平櫛田中、熊谷守一、武者小路実篤三人展)開催される。書5点を出品。10月、東京都小平市名誉市民に推載される。1973年 2月、東京国立近代美術館において平櫛田中展が開催される。「鏡獅子」を中心に、明治40年から昭和45年にいたる制作33点を出品。4月、広島県立美術館において平櫛田中展開催され、21点を出品。9月、病床に伏し、一時再起をあやぶまれる。10月、伊勢神宮の式年遷宮に際し、「彫馬」を週進する。11月、井原市の田中館が、博物館法に基づく井原市立田中美術館として新しく発足する。1974年 10月、井原市立田中美術館において特別展が開催され、「幼児狗張子」「彫馬」等が展観される。また、新たに鋳造された「鏡獅子」の除幕式が会期中に行われる。1975年 3月、「五浦釣人」(ブロンズ、像高224㎝)制作、福山市へ寄贈、駅前に展示される。7月、京都市立美術館主催、平櫛田中展に47点出品。1976年 4月、井原市立田中美術館において、平櫛田中墨書展を開催。井原市に平櫛田中文庫を開設。井原市西江町に「平櫛田中生誕地」碑建立。1977年 12月、名古屋市松坂屋で平櫛田中展開設、26点出品。芦屋いかりやで平櫛田中展開催、20点出品。1978年 9月、気管支炎をやみ入院、翌年1月退院する。10月、井原市立田中美術館で平櫛田中特別展が開催され、東京芸術大学より20点出品。1979年 12月30日、午前1時52分肺炎のため小平市の自宅で死去。(本年譜は「平櫛田中展」-73年、東京国立近代美術館-所載の土屋悦郎編略年譜に加筆転載したものである。)

勅使河原蒼風

没年月日:1979/09/05

草月流家元で、彫刻、舞台美術なども手がけた勅使河原蒼風は、9月5日心不全のため東京新宿区の東京女子医大日本心臓血圧研究所で死去した。享年78。本名鉀一。1900(明治33)年12月12日大阪に生まれ、東京で市ヶ谷小学校を卒業する。幼時から父のもとでいけ花の修行を始めたが、27年独立して草月流(53年財団法人草月会発足し理事長に就任、70年辞任)を創始し、いけ花の近代化につとめる。33年第1回の個展を開催(神田如水会館)、いけ花の他、油絵、日本画、書も出品する。一方、はやくから彫刻にも手がけ、ことに戦後、石、鉄、巨木などを素材に前衛的な表現を追求するオブジェで注目される。46年二科会会員(工芸部)となる。53年東京国立近代美術館主催「抽象と幻想展」に「群れ」を出品、55年パリにおける第1回個展(バガテル宮殿)、56年東京高島屋で個展を開催する。59年ニューヨークのマーサ・ジャックソン画廊、パリのスタドラー画廊、バルセロナのガスパール画廊で個展を開催、60年ヴェニス、パラッ・グラッシーの「芸術と自然展」に出品。以後も意欲的に海外での制作発表を行い、61年パリのスタドラー画廊で個展、62年パリ、プティ・パレにおける「文人画展」に彫刻を出品、63年パリ、グラン・パレでの「世界現代芸術巨匠展」に出品、64年ニューヨーク、リンカーン・センターで個展、65年ベルリン芸術祭参加の個展、イスラエル博物館に彫刻を出品。67年モントリオール万国博覧会の芸術部門に彫刻出品、第2回ジャパン・アート・フェスティバル(ヒューストン、ダラス)に彫刻を出品する。また、国内では、63年東京高島屋で個展、66年創流40周年を記念して東京高島屋で大個展、67年京都国立近代美術館主催で「勅使河原蒼風の彫刻」展を開催し、62点を出品する。この間、60年と61年にフランス政府から芸術文学勲章、レジョン・ド・ヌール勲章を受章。61年には第12回芸術選奨を受ける。著書に「蒼風随筆」(37年)「私の12ヶ月」(55年)「蒼風の花」など。

長浜虎雄

没年月日:1979/07/19

彫刻家長浜虎雄は、7月19日脳梗塞症のため死去した。享年77。1902(明治35)年8月30日福岡県三池郡に生まれ、29年東京美術学校彫刻科を卒業する。在学中の28年、第7回国画創作展に「三浦婦人像」、第15回二科展に「顔」が入選、31年からは院展に出品し、34年日本美術院院友に推挙される。55年まで院展に出品し、奨励賞を5回受賞、出品作品に「或る神父の像」(18回)「北原白秋先生像」(24回)「熊谷守一氏像」(25回)などがあり、54回第39回院展に出品した「窪田空穂先生像」で白寿賞を受賞した。この間、40年に渡満する。61年から73年まで二科会に出品し、66年二科会会友となる。出品作品に「作品 一」「作品 鉄」など

古賀忠雄

没年月日:1979/06/10

日本芸術院会員、日展顧問、日本彫塑会理事の彫刻家古賀忠雄は、6月10日急性心不全のため東京板橋区の日大付属病院で死去した。享年76。1903(明治36)2月3日佐賀市に生まれ、県立有田工業図案絵画科を卒業し東京美術学校彫塑科に入学、1930年卒業する。在学中の29年、帝展第10回に「仏心」が初入選、39年文展第3回に「岬の男」で特選を受け、翌年文展無鑑査となる。この間、東邦彫塑院展に「マドロスの首」を出品し文化奨励賞を受ける。42年陸軍美術協会展(決戦美術展)に「独立ビルマの像」で朝日新聞社賞を受賞、43年第5回文展出品作「建つ大東亜」で帝国芸術院賞を受ける。戦後も日展に出品し、48年第4回日展で最初の審査委員をつとめ、「夏の作」(政府買上)を出品する。54年日展参事、58年評議員、67年理事、68年常任理事、78年顧問となる。また、64年日本彫塑会委員長、66年日本陶彫会副会長、74年会長に就任。この間、67年に日本芸術院会員となる。65年「古賀忠雄彫刻展」(松坂屋)、67年「デッサンと彫刻小品展」(三越)、69年「古賀忠雄陶塑作品展」(三越)を開催する。73年勲三等瑞宝章を受章する。出品作の他、「森の幻想」(74年、佐賀市森林公園)「日本医学発祥記念像」(同年、大分)、「想」(76年佐賀県総合グランド)などのモニュメントがあり、76年には10米にも及ぶ「現代を見つめる西郷隆盛像」の原型を完成した。没後、81年4月佐賀県立博物館で回顧展が開催された。 作品略年譜昭和4年 帝展10回「仏心」(初入選)昭和7 帝展第13回「丘」昭和8 帝展第14回「秋麗」昭和9 帝展第15回「淵」昭和13 文展第2回「工場の老夜警夫」昭和14 文展第3回「岬の男」(特選)昭和15 奉祝展「新鉱開発」(無鑑査)昭和16 第2回聖戦美術展「独立ビルマの像」(朝日新聞社賞)昭和17 文展第5回「建つ大東亜」(無鑑査、帝国芸術院賞」昭和19 文展戦時特別美術展「闘魂沸る」昭和20 日展第1回「農夫」昭和21 日展第2回「街で拾った男」昭和22 日展第3回「黙想」(招待)昭和23 日展第4回「夏の作」(審査員)昭和24 日展第5回「哀情」(依嘱)昭和25 日展第6回「黙行」(依嘱)昭和26 日展第7回「鶏舎の朝」(審査員)昭和27 日展第8回「知多の漁夫」(依嘱)昭和28 日展第9回「男」(依嘱)昭和29 日展第10回「漁夫三想」(参事)昭和30 日展第11回「山を呼ぶ」(参事)昭和31 日展第12回「伸よ次代」(参事、審査員)昭和32 日展第13回「未完記」(参事)昭和33 新日展第1回「シャモと男」(評議員、審査員)昭和34 日展第2回「星牛の坐」(評議員)昭和35 日展第3回「呆心」(評議員)昭和36 日展第4回「生きる」(評議員、審査員)昭和37 日展第5回「二つのみち」(評議員)「敗戦から立ち上がる日本」(読売ランド)昭和38 日展第6回「幻想」(評議員)昭和39 日展第7回「詩」(評議員)昭和40 日展第8回「限界」(評議員)昭和41 日展第9回「思」(評議員)昭和42 日展第10回「圧」(理事、審査員)昭和43 日展第11回「太陽を知る男」(理事、審査員)昭和44 日展改組第1回「間」(理事)昭和45 日展第2回「自然へ帰れ」(理事、審査員)昭和46 日展第3回「草原を行く」(理事、審査員)昭和47 日展第4回「農場の朝」(理事)昭和48 日展第5回「団欒」(理事、審査員)昭和49 日展第6回「晴間を待つ」(理事、審査員)「森の幻想」(佐賀市森林公園)昭和50 日展第7回「浴後」(理事、審査員)昭和51 日展第8回「猫と女」(理事)「想」(佐賀総合グランド)昭和52 日展第9回「飛」(とぶ)(理事、審査員)昭和53 日展第10回「異国の女」(顧問)

上田弘明

没年月日:1979/02/14

京都市立芸術大学教授、無所属の彫刻家上田弘明は2月14日死去した。享年51。1928(昭和3)年1月9日奈良市に生まれ、県立奈良中学校卒業後松山海軍航空隊に入隊、戦後の46年京都市立美術専門学校日本画科に入学、翌年彫刻科へ転じ、52年卒業と同時に同校彫刻科実習助手となる。55年日本美術院院友に推挙され、翌年の第41回展から43回展まで「蝙蝠」「松籟」「牛車」を出品する。57年京都市美術展で市長賞を受賞、以後同展で須田賞を受賞、審査員も歴任する。60年、洋画家、彫刻家、評論家からなるZEROの会の結成に参加し、研究会を行い毎年作品を発表する。70年、京都市立芸術大学助教授(美術学部彫刻科)となり、75年教授となる。この間、71年ニュージーランド国際彫刻シンポジュームに参加しオークランドへ赴き、73年の「花と彫刻展」(大阪エキスポランド)、74年神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「開く石」を出品参加する。一貫して石彫を続け、花崗岩による作品を多く残す。没後、80年京都市美術館で遺作展が開催され、82年『上田弘明の石彫』が刊行された。

阿部正基

没年月日:1978/11/13

彫塑家、日展会員阿部正基は、11月13日肺ガンのため東京都豊島区の癌研究会付属病院で死去した。享年66。大正元年10月1日宮城県仙台市に生まれ、旧制中学卒業後商工省工芸指導所に学んだ。また、斎藤素巌に師事し構造社研究所に学び構造社展に出品した。昭和18年第6回文展に「立像」が初入選、戦後は日展に出品を続け、同29年第10回日展に「雲」を出品し特選を受け、翌年の第11回展に「木立」を無鑑査出品。同31年の第12回展で「空港」が特選を受賞した。同35年日展会員となり、翌年日展審査員をつとめた。改組日展への出品作に「黙」(第1回)、「若い女」、(第2回)、「私」(第5回)、「行雲」(第6回)、「坐る」(第7回)、「憩う」(第8回)、「私の作」(第9回)などがある。

佐々木大樹

没年月日:1978/11/08

彫刻家、日展参与の佐々木大樹は、11月8日心臓衰弱のため東京調布市の山田病院で死去した。享年88。本名長次郎。明治22年12月25日富山県下新川郡に生まれ、大正年東京美術学校彫刻科本科木彫部を卒業、引き続き研究科に進み翌年終了した。大正9年第2回帝展に出品した「誕生の頃」が初入選で特選を受賞、同11年第4回帝展出品作「供養」が特選、同年開催された平和記念東京博覧会に出品した「話」が銀賞をそれぞれ受賞した。昭和3年、第9回帝展に無鑑査出品した「紫津久」で帝国美術院賞を受賞。また、同12年には「塙保巳一の像」をヘレン・ケラー女史に贈った。同13年新文展第2回展を最初に、以後文展、日展の審査員を11回つとめた。この間、同5年に結成された日本木彫会に所属し、同展にも出品し、また同9年帝国美術学校教授(翌年多摩帝国美術学校教授)となった。戦後日展で、同27年参与、同33年評議員、同48年参与となった。また、同26年から同41年まで、多摩美術大学教授をつとめ、同32年には同大学理事となった。出品目録帝展大正9年 第2回 「誕生の頃」大正10年 第3回 「融合」大正11年 第4回 「供養」大正13年 第5回 「私の内在」大正14年 第6回 「中如」昭和2年 第9回 「浄坐」昭和3年 第9回 「紫津久」昭和4年 第10回 「楠公の像」昭和5年 第11回 「相韻」昭和6年 第12回 「天津風」昭和7年 第13回 「虎」昭和8年 第14回 「讃童心」昭和9年 第15回 「姫の像」文展昭和13年 第2回 「蒼生」昭和14年 第3回 「常坐」昭和17年 第5回 「華」昭和18年 第6回 「雲上一角」昭和19年 文部省戦時特別美術展覧会 「大伴家持★」日展昭和21年 第2回 「観音」昭和22年 第3回 「朝霞」昭和24年 第5回 「N姫の讃」昭和25年 第6回 「碧無限」昭和26年 第7回 「獅子」昭和27年 第8回 「無方」昭和28年 第9回 「菩薩頭」昭和29年 第10回 「聖乗」昭和30年 第11回 「観音」昭和31年 第12回 「出美」昭和32年 第13回 「森の曲」昭和33年 第1回 「心象」昭和34年 第2回 「誕生仏」昭和35年 第3回 「大地に」昭和36年 第4回 「獅子」昭和37年 第5回 「如来」昭和38年 第6回 「天飛」昭和39年 第7回 「想見」昭和41年 第9回 「菩薩考」昭和42年 第10回 「虎」昭和43年 第11回 「心象」昭和44年 改組1回 「定念」昭和45年 改組2回 「菩薩頭」昭和46年 改組3回 「暁の讃」昭和47年 改組4回 「みのり」昭和48年 改組5回 「如来」昭和49年 改組6回 「O氏の像」昭和50年 改組7回 「菩薩像」昭和51年 改組8回 「蝶々」昭和52年 改組9回 「菩薩試作」

武次郎

没年月日:1978/09/04

彫刻家、新制作協会会員武次郎は、9月4日脳卒中のため横浜市旭区の自宅で死去した。享年65。大正2年2月26日山形市に生まれ、昭和13年東京美術学校彫刻科塑造部を卒業、同年から兵役に召集され同20年解除された。在学中の第11年第11回国画会展に「首、習作」が初入選、翌年の第12回展にも「首、習作」が入選した。戦後の同21年から新制作協会に出品、翌22年11回展の出品作で新作家賞を受賞し会友となり、同27年会員となった。また、同50年の第10回神奈川美術展から招待出品した。翌51年、東京美術学校昭和13年卒業生による東美第13年会第1回彫刻部委員となり出品した。同52年には東京国立美術展覧会場建設を促進させる会委員となる。この間、同46年と51年に渡欧した。主要作品に、「トルソー」(同27年)、「首M」(同42年)、「少女2」(同45年)、「N夫人像」(同49年)、「男」(同49年)など。

内堀功

没年月日:1978/06/17

彫刻家、白日会委員内堀功は、6月17日心臓マヒのため長野県小諸市のアトリエで死去した。享年61。対象6年3月6日長野県小諸市に生まれた。戦後、吉田三郎、のち昼間弘に師事する。昭和21年第1回日展に「猿」が初入選、翌22年第23回白日会展で白日会賞を受け、翌年白日会会員となった。同25年日本彫塑会会員、同36年白日会委員となる。同47年第4会日展に「黒耀」を出品し特選と受け、翌年の第5回展に「峰の雪」を無鑑査出品、同49年第6回日展出品作「龍謄」で再度特選を受けた。同50年第51回白日会展に出品した「野路」で特別賞、中沢賞を受ける。同52年には日彫展審査員をつとめた。改組日展の委属出品に「希望」(第7回)、「爽」(第8回)、「木もれ陽」(第9回)がある。

早川巍一郎

没年月日:1978/06/12

彫刻家、多摩美術大学名誉教授早川巍一郎は、6月12日肝臓ガンのため東京お茶の水の順天堂病院で死去した。享年72。旧姓竹本。明治38年7月14日鳥取県東伯郡に生まれ、大正14年東京美術学校彫刻科(塑造部)に入学、個人的に藤川勇造に師事し、昭和4年卒業した。在学中の大正14年第12回二科展に「顔の習作」が初入選(竹本姓)し、昭和3年の第15回展では「女の首」「母の像」を出品して樗牛賞を受賞した。同7年二科会会友に推されたが同10年これを辞退し、同年第三部会展に出品、同16年には新制作派協会会員に推挙され「裸婦」を出品し、以後同会に所属した。戦後は、同26年から多摩美術短期大学教授に就任、同28年からは多摩美術大学教授として後進の指導にあたり、同51年停年退官し、同53年名誉教授となった。また、同41年から同47年まで文部省大学設置審議会専門委員をつとめた。新制作展の出品に「C子像」(7回)、「だんらん」(39回)、「鳩と少女」(40回)等があるほか、「和」(同32年)、「洋」(同40年)「豊穣」(同48年)「内藤先生像」(同53年)などの作品がある。

堀進二

没年月日:1978/03/27

彫刻家、太平洋美術会会長堀進二は、3月27日心筋こうそくのため東京文京区日本医大付属病院で死去した。享年87。明治23年5月5日東京赤坂区に生まれ、同39年谷中の太平洋画会研究所に入り新海竹太郎に師事して塑造を学ぶとともに同44年まで同所でデッサンも学ぶ。同44年隊へ洋画会展に出品、同会正会員となる。大正4年、第9会文展に「若き女の胸像」を出品し褒状を受け、翌5年から7年まで「H老人の肖像」(第10回)「肖像」(第11回)「老人」(第12回)で連続特選を受賞した。同8年第1回帝展に「寺尾亨氏の肖像」他1点を出品、またこの年から審査員をつとめた。また、昭和3年東京帝国大学工学部建築科の講師を依嘱され(同21年まで)、同6年には東京工業大学建築学科講師を依嘱さる。戦後は日展に出品し審査員をしばしばつとめ、一方太平洋画会に所属して戦災より焼失した太平洋美術学校の復興に尽力し、同32年開校と同時に同校々長となって後進の指導にあたった。同33年新日展発足とともに日展評議員となり、同35年第3回展に出品した「人海」で日本芸術院賞を受賞、また、同25年から千葉工業大学教授(意匠学科)をつとめた。作品は他に東大の「浜尾総長像」「足を洗う女」などがある。

中川清

没年月日:1977/03/11

彫刻家、日展参与、日本彫塑会委員長の中川清は、3月11日じん不全のため東京都文京区の東大付属病院で死去した。享年79。明治30年5月21日、滋賀県長浜市に生まれ、大正12年東京美術学校彫刻科を卒業後、同研究科、別科を修業。大正4年二科展に洋画を出品して初入選した。同13年第5回帝展に「腰かけた女」が初入選、以後毎年官展に出品を続け、昭和2年第8回帝展で「立女」が特選、同12年からは文展無鑑査となった。戦後も日展に出品を続け、同27年第8回展に審査員として「裸婦」を出品、以後6回審査員をつとめた。同38年、人間の運動感を表現した「あるく」(第5回日展)で日本芸術院賞を受賞した。同33年日展評議員、同44年日展理事を経て、同48年日展参与に就任する。また、この間東京教育大学講師などを歴任した。日展への出品作に「女と布」(改組第1回)、「萋」(第3回)、「仰視」(第6回)などがあり、他に「三木武吉像」(香川県高松市)、「村上藤一像」(滋賀県長浜市)、「唐獅子(一対)」(東京、静嘉堂文庫)などの作品がある

木内克

没年月日:1977/03/08

彫刻家、新樹会会員木内克は、3月8日急性肺炎のため、東京都荒川区の関川総合病院で死去した。享年84。明治25(1892)年6月27日、水戸市に生まれ、同45年水戸中学五年生在学中の夏、帰省中の東京美術学校彫金科教授海野美盛の指導を受けた。大正3年海野と相談し彫刻に専念することを決意、この年朝倉文夫の彫塑塾に入る。同5年第10回文展に「平吉」が初入選、以後出品を続け、同9年には第2回帝展に「手」を出品した。翌10年ヨーロッパに留学、ロンドンからパリへ移り、パリではグラン・ショミエール研究所へ通い、ブールデルの指導を受ける。同11年からサロン・デ・ザンデパンダンに出品、翌12年にはブールデルの推薦で第1回サロン・デ・チュイルリ展に「ギタリスト」を出品(昭和3年まで毎年出品)、同13年からサロン・ドートンヌにも出品した。また、昭和2年にはパリ郊外の陶芸家ラシュナルのアトリエで初めて陶芸を試み、この年藤田嗣治、原勝郎らとラシュナルの展示会に招待出品、同5年頃からギリシャのアルカイック彫刻に心をひかれテラコッタの技法を修得する。同10年12月帰国し藤沢市に居住、翌11年第23回二科展に「女の顔」「女のトルソ」「猫」を出品、特待を受け、翌年会友に推挙された。また、この頃から同16年までマジョリカを制作、同15年東京上野桜木町33番地の朝倉文夫分塾に転居した。同16年二科会を退会、文展無鑑査となる。戦後は、同23年第2回新樹会展に招待され、「猫」「首」「マスク」などの滞欧作多数を出品して注目を集め、同26年に新樹会会員となった。この年第1回サンパウロ・ビエンナーレ展に「婦人坐像」を出品、また「臥像」で第3回毎日美術賞を受けた。以後新樹会展に出品を続けるとともに、選抜秀作美術展(第1~9回招待出品)、現代日本美術展、日本国際美術展、国際具象派美術展などに出品、同40年の第1回現代日本彫刻展には16点を出品した。同45年、「木内克の全貌」展(茨城県立美術博物館)を開催、同年紺綬褒章を受け、また第1回中原悌二郎賞を受賞した。翌年の春、ローマに出かけ蠟型ブロンズの制作を試み、ギリシャ、パリを経て帰国、この年『わたしのどろ箱』(求龍堂)を刊行した。同47年木内克をテーマにした映画「土くれ」と「木内克とその作品」が完成、文部省芸術祭記録映画部門の最優秀賞に選ばれた。また、同年勲三等瑞宝章を受賞。同49年『定本木内克』(現代彫刻センター)を刊行、東京と大阪で刊行記念展を開催し、茨城国体のためのモニュメント「女神像」を完成、また『エーゲ海に捧ぐ』(UNAC TOKYO)を刊行した。テラコッタの彫刻に素朴で力動感みなぎる独自の作風を示したが、晩年は大胆にデフォルメされた裸婦像も手がけた。主要出品目録1916 第10回文展「平吉」(初入選)1917 第11回文展「老い」「動揺」1918 第12回文展「パンツ」1920 第2回帝展「手」1922 サロン・デ・ザンデパンダン「猫」「立像」1923 サロン・デ・ザンデパンダン「顔」「猫」(木彫)第1回サロン・デ・チュイルリ展「ギタリスト」1924 サロン・デ・ザンデパンダン「女の首」、サロン・ドートンヌ「わたしの家族」1925 サロン・デ・ザンデパンダン「女立像」1926 サロン・ドートンヌ「猫」「立像」1927 サロン・デ・ザンデパンダン「男のトルソ」1928 サロン・デ・ザンデパンダン「猫」1936 第23回二科展「女の顔」「女のトルソ」「猫」(特待)1937 第24回二科展「女」「鬼の首」(会友)1938 第25回二科展「犬」1940 第27回二科展「トルソ」1942 第5回文展「2602年」1946 新日本美術展(朝日新聞社主催)「猫」(受賞)1947 第3回日展「女と布」1948 第2回新樹会展(東京・日本橋、三越)「猫」「首」「マスク」など滞欧作(招待)1949 第3回新樹会展「牧神の午後」「坐」「波」「トルソ」「ひだり」「動き」(1948年作)(特別出品)1950 第1回選抜秀作美術展(朝日新聞社主催)「アクルピ」(招待)。第4回新樹会展「立像」「伏せる女」「トルソー」「裸婦」など。木内克彫刻小品展(銀座松坂屋)「アマゾーン」「おどり」など。1951 第2回選抜秀作美術展「トルソ」(招待)。(第9回展まで毎年招待出品)。第5回新樹会展「手をつく女」「手を上げる女」「手のあるトルソ」「臥像」(第3回毎日美術賞)など。第1回サンパウロ・ビエンナーレ「婦人坐像」1952 第3回選抜秀作美術展「寝ている女」(第5回新樹会展)。毎日美術賞7作家自選展(東京・上野、松坂屋)「臥像」など12点。第6回新樹会展「猫」「裸婦A」など。日本現代美術展(文部省主催)「寝ている女」1953 第4回選抜秀作美術展「猫」(第6回新樹会展)。近代彫塑展「西洋と日本」(東京・国立近代美術館)「トルソ」。第7回新樹会展「裸婦」「うずくまる」など。1954 第5回選抜秀作美術展「横向き臥像」「坐像」「トルソー」。第1回現代日本美術展(毎日新聞社主催)「女坐像」「見つけたポーズ」。第8回新樹会展「裸婦ASF」など。1955 第6回選抜秀作美術展「見つけたポーズ」(第1回現代展)。第3回日本国際美術展(毎日新聞社主催)「女」「おとな」。第9回新樹会展「手をつく女」「腰かけた裸婦」など。1956 第7回選抜秀作美術展「立っている女」。第2回現代展「女」「寝ている女」。第10回新樹会展「女と布」「寝ている女」など。「日本の彫刻・上代と現代」展(東京国立近代美術館)「女の顔」「トルソ」「女と布」「見つけたポーズ」1957 第8回選抜秀作美術展「女」(第2回現代展)。第4回国際展「女」、第11回新樹会展「女」「坐像」「手を上げる女」1958 第9回選抜秀作美術展「坐像」(第11回新樹会展)。第2回国際具象派美術展「手のあるトルソB」。第3回現代展「手のあるトルソ」「実験作」、第29回ヴェネツィア・ビエンナーレ「見つけたポーズ」「手のあるトルソ」など5点。第12回新樹会展「首」「手のあるトルソ」「裸婦A・B」など。1959 「戦後の秀作」展(東京国立近代美術館)「見つけたポーズ」。第5回国際展「婦人坐像」、第13回新樹会展「坐像」など。1960 第3回具象展「小品」、第4回現代展「トルソ」、第14回新樹会展「寝ているトルソ」「女A・B」1961 第6回国際展に「婦人立像」、第15回新樹会展「立っている女」「女と猫」など。「近代日本彫刻の流れ」展(東京国立近代美術館)「女の顔」1962 第5回現代展「坐像」(優秀賞)。第16回新樹会展「裸婦」など。1963 第7回国際展「足のあるトルソ」、第17回新樹会展「人間立像」「裸婦」1964 「滞欧作とその後」展(東京国立近代美術館)「女の顔」「猫」「寝ている女」など。第5回具象展「裸婦」、第18回新樹会展「コロナ・レリーフ」。「近代日本の名作」展(東京国立近代美術館)「女」1965 第8回国際展「コロナ」。第19回新樹会展「椿姫」など。第1回現代日本彫刻展(宇部野外彫刻美術館)に作品16点。1966 第7回現代展「布をもったポーズ」、第20回新樹会展「女のトルソ」「ねむり猫」など。1967 第9回国際展「微笑」、第21回新樹会展「聖母マリアの像」「天女」など。1968 第8回現代展「露柱」、第22回新樹会展「自刻像・生活」「露柱」。1969 第9回現代展「坐像」、第23回新樹会展「人魚」。「日本近代彫刻の史的展望」(宇部野外彫刻美術館)「手をつく女」「アルカイックな首」など。1970 第24回新樹会展「女人誕生」。1971 第25回新樹会展「マリア」「飛天」。1972 第26回新樹会展「エーゲ海に捧ぐ」。1973 第27回新樹会展「人魚」、「近代美術史におけるパリと日本」展(東京国立近代美術館)「女」。1974 第28回新樹会展「ツルの首」。1975 第29回新樹会展「鶴」「裸婦」1976 第30回新樹会展「裸婦A」「テラコッタ1」など。

山田眞山

没年月日:1977/01/29

日本画家で彫刻もよくした山田眞山は、1月29日過労による脳血センのため沖縄県宜野湾市の自宅で死去した。享年91。明治18年那覇市に生れ、14才で上京した。戦前は中国の北京美術学校教授をつとめ、帰国後の昭和10年には明治神宮外苑絵画館の「琉球藩設置」の壁画を制作し代表作となった。戦後は昭和32年以来、糸満市摩文仁の丘に建つ平和記念堂に安置するための平和像の制作に打込み、その完成が間近であった。

土方久功

没年月日:1977/01/11

彫刻家、新樹会出品者土方久功は、1月11日肺炎のため東京都新宿区の東京電力病院で死去した。享年76。明治33年7月13日東京市小石川区に生まれ、大正6年学習院中等科卒業後、同13年東京美術学校彫刻科塑造部を卒業。昭和2年2月丸善画廊で初の個展を開催、同4年3月ミクロネシヤ、西カロリン群島のパラオ島へ渡航し、遺跡、慣習、伝承等を調査蒐集、同6年10月にはヤップ離島サトワヌ島に入り以後7年間滞在して島民土俗、民話等を採集した。同13年末再びパラオ島へ移り翌年春帰国、同年南洋庁物産陳列所嘱託となり、帝国大学人類学教室(収集品を同教室へ寄贈)及び南洋文化協会で南洋土俗蒐集品を展観、また、この年新古典派協会へ特別出品し会員となったが、夏には再度パラオに赴き同17年3月まで滞在した。帰国後、陸軍軍属として民族班に加わり、同年から同19年3月まで北ボルネオに滞在し北ボルネオ軍政府調査室に勤務した。戦後は昭和25年から日本アンデパンダン展、読売アンデパンダン展に木彫を出品、同26年丸善画廊で個展を開催したのをはじめ、主に南洋に取材した木彫レリーフによる作品を発表、また同42年からは水墨画による小品展も開いた。この間、同30年第9回新樹会展に招待出品し、以後同51年第22回展まで毎年出品を続けた。新樹会展への出品作に、「パラオ連作」(木彫、第9回展)、「仁王」(木彫レリーフ、第12回)、「ガルミゾの大女」(木彫レリーフ、第17回)、「洗身池」(水彩、第25回)などがある。著書に『パラオの神話伝説』(大和書店)、『サテワヌ島民話』(三省堂)『流木』(小山書店)、絵本『おおきなかぬー』(福音館書店)など

高畠陽雲

没年月日:1976/04/26

仏像彫刻家、洋画家高畠陽雲は、4月26日午前11時膀胱腫瘍のため大阪市の厚生年金病院で死去した。享年52。本名猪之吉。大正12(1923)年11月30日大阪市に生まれた。昭和20年8月6日の広島への原爆投下を体験し、仏像彫刻家の修行を始めたが、そのかたわら原爆投下の悲惨な光景を再現し後世に伝えようと油絵制作に取り組み、試行錯誤ののち同46年完成した「その瞬間」を広島市に、翌47年の「原爆炸裂」を長崎市に寄贈した。また、同50年には700号大の大作「原爆一号」を携えて渡米、国連ビルで展示するなど話題をよんだ。この間、数千枚にのぼる地獄絵を描き続けたほか、同45年原水爆物故者供養促進委員会を組織、同48年には福井市真宗三門徒派本山専照寺御影堂に被爆者の冥福を祈る「余間蓮華化生の図」を完成した。

安達貫一

没年月日:1976/02/03

日本彫塑会々員、日展委嘱の安達貫一は、2月3日急性心不全のため、中野区の自宅で死去した。享年78。明治31(1898)年3月21日島根県松江市に生れ、大正2(1913)年島根県松江工業学校木材工芸科を卒業した。16才の年に彫刻家を志して上京し、木彫家内藤伸に師事した。同7(1918)年の頃から彫塑を学ぶため彫刻家で東京美術学校教授の建畠大夢にも師事した。ついで大正10(1921)年には東京美術学校彫刻科塑造部に入学、同15(1926)年同科を卒業、同年4月より研究科に入った。作品は在学中の第5回帝展に「自刻像」首を初出品して、初入選となった。その後作品は主として官展に発表したが、そのほか直土会展、日彫展にも出品した。作品歴大正14年 第六回帝展出品 「彌五像」大正15年 第七回帝展出品 「拗た子供」昭和2年 第八回帝展出品 「北見の女」昭和3年 第九回帝展出品 「逍遙」昭和4年 第十回帝展出品 「絲遊」昭和5年 第十一回帝展出品 「虚」昭和6年 第十ニ回帝展出品 「少女」昭和7年 第十三回帝展特選 「三人の子供」昭和8年 第十四回帝展特選 「すもうとるこども」昭和9年 第十五回帝展推薦 「あそび」昭和13年 第一回文展無鑑査 「少年像」昭和14年 第二回文展無鑑査 出品作品不明昭和15年 第三回文展無鑑査 「若き男」紀元二千六百年奉祝美術展昭和16年 第四回文展無鑑査 「働く少年」直士会出品昭和18年 第六回文展無鑑査 「子供」昭和32年 新日本美術展覧会(日展)委嘱出品 「ひらく」昭和33年 日展委嘱 「髪を持つ少女」昭和34年 第二回日展委嘱 「希」昭和35年 第三回日展委嘱 「ボールを投げる少年」昭和36年 第四回日展委嘱 「少女」昭和37年 第五回日展委嘱 「裸婦」昭和38年 第六回日展委嘱 「少女」昭和39年 第七回日展委嘱 「女の像」昭和40年 第八回日展委嘱 「立膝の女」昭和41年 第九回日展委嘱 「女の像」昭和42年 第十回日展委嘱 「裸婦」昭和43年 第十一回日展委嘱 「裸婦」昭和44年 改組日展第一回展 「闘技」昭和45年 第二回日展委嘱 「佇む女」昭和46年 第三回日展委嘱 「裸婦」昭和47年 第四回日展委嘱 「裸婦」

笹村草家人

没年月日:1975/09/26

彫刻家、碌山美術館理事、元東京芸術大学美術学部助教授の笹村草家人は、9月26日午前9時頃脳血栓のため山梨県北都留郡の自宅で急逝した。享年67歳。明治41年2月11日東京市芝区に笹村銕熊の長男として生まれた。本名良紀。昭和10年から草家人と号した。昭和7年3月東京美術学校彫刻科本科塑造部を卒業。この年第7回国画会展に「塑像試作」が入選、翌年第8回国展では「若き芸術家の像(試作)」が再入選、さらに第9回国展では「恩師猪狩先生像」で国画奨学賞を受けた。翌昭和10年第10回国展にも「高謙堂先生古稀像」を出品したがこの年から石井鶴三を尊敬して師事、翌昭和11年の第23回院展には「作男の首」を出品して入選した。以来院展に継続して出品、昭和18年第30回院展で「坐女」を出品、日本美術院院友に推された。昭和19年3月教育召集で赤坂の第一聯隊へ入隊していたが、母校東京美術学校の大改組に当り、新しく就任した石井鶴三教授に招かれ、新学期より助教授に着任した。以後、私淑する石井教授のもとで後進を自他共にきびしく導くとともに、石井教授が就任の際、真の近代日本彫刻の流れは荻原碌山、高村光太郎に発し、いまその流れがここに入ったと挨拶した精神を肝に銘じ、戦後まもなくから「碌山の人と芸術」の研究と顕彰運動に手をそめた。昭和28年になると長野県南安曇教育会に碌山研究委員会を設置するのに協力し、その指導者となって、研究・顕彰・作品保存の事業を推進させた。研究の成果は『彫刻家荻原碌山』(東京芸術大学石井教授研究室編、昭和29年12月・信濃教育会刊)となり、顕彰については県下各地で碌山展や講演会を開き、作品保存については、石膏原型のブロンズ化、素描類の裏うちなど、ひいては美術館建設へと発展させた。昭和33年4月22日荻原の郷土、穂髙町に碌山美術館開館をみるまでの5年間、稀にみる実行力をもって情熱をもえたたせ、あらゆる困難を克服しての初志貫徹ぶりは、末だに彼を知る多くの人々の語り草となっている。以下に簡略な作家暦を附載するが、その詳細は、彼が生前に私家版として上梓を重ねた『笹村草家人作品集』(昭和33年初版―昭和48年第三版増補)を参照されたい。略年譜明治41年(1908) 東京市芝区に生れる。昭和2年 東京美術学校彫刻科入学。昭和7年 同校卒業。「父の首」。昭和9年 第9回国画会展に「猪狩史山先生像」を出品、国画奨励賞を受く。昭和10年 石井鶴三に師事。昭和11年 「作男の首」(院展出品)。日本中学校に奉職。昭和12年 「津田非仏老人」(翌年院展出品)。結婚。昭和15年 「岡三保子刀自」。翌昭和16年、日本中学を辞任。昭和18年 「母子像試作」。前年制作の「坐女」(院展出品)。日本美術院・院友。昭和19年 応召、解除。東京美術学校助教授に任官。山梨県棡原村に永住。昭和21年 「山口民蔵氏」(翌年院展出品)。昭和23年 「母子像試作(その二)」(翌年院展出品)。昭和24年 「鈴木迪三氏」(翌年院展出品、日本美術院賞)。昭和25年 「裸者の首」(翌年院展出品)。昭和27年 「激怒せる天使」(「福音」と題して院展出品、日本美術院賞)。法隆寺再建のため建築彫刻作成に従事。昭和28年 「芙莉の首(ヂュニア)」(院展出品)。碌山研究委員会の指導。昭和29年 『彫刻家荻原碌山』の編纂。日本美術院を脱退。昭和31年 「人体立像」。『坂本繁二郎文集』の編纂。昭和32年 碌山美術館の建設を推進。昭和33年 財団法人碌山美術館落成、同理事。秋、個人展。作品集を上梓。昭和34年 「遠山元一像」、「川口さんの顔」、「田中徳松氏像」。昭和35年 「蛇ぬけの碑(長野県・木曾)」、「灯をかかげる女」、「松本源三郎翁記念碑」、「津田左右吉先生米寿像」。昭和36年 「河童池(長野県松本)」、「沖縄の老女」「沖縄舞踊家の首」。琉球大学より招聘。東京芸術大学助教授を退官。第2回個人展。作品集改訂。昭和38年 「光岑農子の首及び小坐像」、「山口延勝翁観魚像」、「最後の渋沢敬三先生」。昭和39年 「五輪競歩記念碑(府中)」。翌年欧州旅行。昭和43年 数年来厖大な資料を集めて製作にあたった「明治天皇御肖像」完成。昭和45年 「騎馬戦の石像(長野県更級)」、「加藤耕山老師像」。昭和46年 「山神像(木曾)」、同像設計、指揮。翌年「山田玉田老師像」。昭和48年 「大観禅師像」、「月の人(原敬吾氏像)」。『中原悌二郎彫刻作品集』を編著。作品集改訂(第三版)。蒙古旅行。紀行文『蒙古行』上梓。昭和50年(1975) 前年の中央アジア旅行についで、インド旅行をなす。後輩の長野英夫、基俊太郎らの勧請により新協美術展に「最後の渋沢敬三先生」「月の人」を出品。同展覧会開催中の9月26日、急逝する。

山内壮夫

没年月日:1975/04/11

彫刻家、新制作協会会員の山内壯夫は、4月11日午前5時7分、胆のう炎のため東京都大田区の荏原病院で死去した。享年67歳。山内は明治40年8月12日札幌市に生まれた。大正14年札幌第二中学校を卒業、上京して東京高等工芸学校彫刻科に入学、昭和4年3月同校を卒業した。続いて同校研究科に進み、昭和5年その課程を修了した。卒業の年、第4回国画会展に「女の首」が初入選、以来同郷出身で同じ東京高等工芸の一年先輩にあたる本郷新らと共にこの彫刻部の若い行動力の中心となり、第7回展(昭和7年)には「男の坐像」で国画奨学賞を受けた。翌年第8回展では会友に推され、昭和12年度には、同会従来の会員・会友制が同人制に改められ、本郷新や明田川孝、柳原義達らと共に新同人に推薦された。昭和14年の第14回展終了後の7月、国画会彫刻部同人全員と共に脱会して新制作派協会彫刻部設立に際し創立会員となった。以後、新制作協会運営委員長を度々つとめるなど会の運営に重要な役割を果たした。戦後の晩年には、中原悌二郎賞選考委員、建築美術工業会評議員などをつとめた。殊に戦後も早い時期からについての幾多のすぐれた実績があげられる。昭和24年北海道夕張市の労働会館に具象的なテラコッタ作品を設置したのを皮切りに、平和の母子像(長崎国際文化会館中庭)、産業祈念像(宇部市)、意志と思索(栃木文化会館ピロティー)、家族(アルミニウム・1958年新潟市庁舎)、本庄陸男文学碑(当別市)、新潟港震災復興記念碑(新潟市)、ソンミの慟哭(作者蔵)、子を守る母たち(箱根彫刻の森美術館)など主要な作品がある。

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