本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





藤野天光

没年月日:1974/12/30

彫刻家・日展理事の藤野天光は、12月30日午後4時10分、急性心不全のため千葉県市川市のアトリエで急逝した。享年72歳。明治36年11月20日群馬県に生れる。本名隆秋。昭和43年大病を患い声帯摘出の手術をして快気したのを契機に、雅号を天光と改めるまでは舜正と称していた。はじめ後藤良に木彫を習い、のち北村西望に師事し、昭和3年3月東京美術学校彫刻科選科塑造部を卒業した。昭和4年第10回帝展に「時のながれ」が初入選してより、戦後の日展にいたるまで連続作品を発表、官展系の有力作家として重きをなした。その間には、昭和11年、文展鑑査展で「鉄工」が推奨となり、昭和13年第2回文展で「銃後工場の護り」が特選となった。更に戦後は年齢的にも油がのりきって一層の活躍期に入り、昭和24年第5回日展の審査員としての出品作「古橋選手」は、フジヤマのトビウオの頼もしい姿を写して話題作となり、昭和37年三度目の審査員をつとめた第2回新日展では「ああ青春」で文部大臣賞をうけ、40年第8回日展の「光は大空より」は当年度の日本芸術院賞の受賞に輝いた。 始終、人体の解剖学的正確さを基本とする写実主義的作風を堅持しながら、敬愛する北村西望師にも通ずる一種の理想主義を若く逞しい男性像のポーズに托した大作を数多く製作した。なお、昭和6年来、市川市に居住した彼は、昭和13,4年頃より千葉県内の諸芸術文化運動にも関係し、その指導的立場にあって多大な寄与をなし、殊に晩年には県立美術館の建設促進に積極的に献身したことが特筆される。没後、従五位勲三等瑞宝章が贈られた。略年譜明治36年 11月20日、群馬県に生まれる。昭和3年 東京美術学校彫刻科塑造部卒業。「首」(卒業制作)北村西望に師事する。昭和4年 帝展に初入選する。「ときのながれ」(10回帝展)昭和5年 「天華」(11回帝展)昭和6年 「聖女」(12回帝展)昭和7年 「清泉のほとり」(13回帝展)昭和8年 「輝き」(14回帝展)昭和11年 「鉄工」(文展・鑑査展)が推奨となる。昭和12年 「優勝」(1回文展)昭和13年 「銃後工場の護り」(2回文展)が特選となる。昭和14年 ニューヨーク万国博覧会に「銃後工場の護り」を出品する。「大空」(3回文展)昭和15年 「父にまさる」(4回文展)昭和17年 「増産雄姿」(5回文展)昭和19年 「一撃必殺」(臨時特別文展)昭和20年 市川文化会結成、市川交響楽団育成,千葉交響楽団協会常任理事昭和21年 「希望」(2回日展)昭和22年 日本彫刻家連盟の設立に参加する。「古典と平和」(3回日展)昭和23年 千葉県美術会を結成し常任理事となる。「玄潮」(4回日展)昭和24年 日展審査員。「古橋選手の像」(5回日展)昭和25年 27年まで千葉県社会教育委員会。群馬県美術会設立役員。「民主主義者 親鸞聖人」(6回日展)昭和26年 日展依嘱。「新立」(7回日展)昭和27年 日展審査員。「感激」(8回日展) 千葉県文化財専門委員を委嘱され議長となる。昭和28年 日本彫刻家連盟を発展改称し、日本彫塑家倶楽部を創立、創立委員となる。市川美術会委員長。「愛」(9回日展)昭和29年 日展運営会参事。「無心」(10回日展)「ポーズする女」(2回日彫展)昭和30年 「希望」(11回日展)「鼠」(3回日彫展)昭和31年 日展審査員。「冥想」(12回日展)「塊」(4回日彫展)昭和32年 「岩上」(13回日展)「仏光」(5回日彫展)昭和33年 社団法人日展が創立され、評議員となる。「天籟」(1回日展)「ある作家の顔」(6回日彫展)昭和34年 日展審査員。「人生」(2回日展)「顔」(7回日彫展)昭和35年 県立美術館設置準備専門委員を39年までつとめる。文部省文化財保護委員会文化財功労賞を受賞。「人類の祥」(3回日展)昭和36年 この頃、千葉県印西町多聞堂の毘沙門天及び両脇侍3躰を修理する。「心眼」(4回日展)「槍を持つ男」(9回日彫展)昭和37年 日展審査員。「ああ青春」(5回日展)で文部大臣賞を受賞,日本彫塑家倶楽部を日本彫塑会と改称、創立委員となる。「銀裸」(10回日彫展)昭和38年 千葉県印旛村来福寺の薬師坐像1躰を修理する。「神話」(6回日展)「兎」(11回日彫展)昭和39年 「月と語る」(7回日展)「H氏の像」(12回日彫展)社会教育功労者として市川市長感謝状を受ける。昭和40年 「光は大空より」(8回日展)「こころみ」(13回日彫展)千葉県文化功労者・教育功労者として表彰される。千葉県文化財保護協会副会長「光は大空より」で芸術院賞を受賞。昭和41年 千葉県美術会理事長となる。東京家政大学理事兼教授となる。「星和」(9回日展)「和」(14回日彫展)昭和42年 「天啓」(10回日展)「裸婦」(15回日彫展)昭和43年 声帯摘出の手術をする。舜正を天光と改める。群馬県美術会副会長となる。「希望(健康こそ幸である)」(11回日展)「恋知るころ」(16回日彫展)昭和44年 日展が改組され日展理事となる。日展審査員。「若き日のかなしみ」(改組1回日展)「若き日の悲しみ」(17回日彫展)教育功労者として市川市長感謝状を受ける。昭和45年 千葉県美術会会長兼理事長となる。社団法人日本彫塑会の創立に尽力する。日本彫塑会常務理事となる。「清流」(2回日展)「夢」(18回日彫展)昭和46年 日展審査員。「長寿神像」(3回日展)「長寿」(1回日彫展)昭和47年 「すべてを愛す」(4回日展)「夢」(2回日彫展)昭和48年 日展評議員。千葉県で開催された第28回国体のモニュメント「輝く太陽」(男性像高さ約8メートル)及び記念メダル制作。「よくかんがえる」(5回日展)「りんご神像」(3回日彫展)昭和49年 千葉県立美術館協議会委員を委嘱され議長となる。市原市橘禅寺仁王像2躰を修理する。「和」(6回日展)「もの思うころ」(4回日彫展)「天使」(美術館開館記念県展) 12月30日、市川市のアトリエで午後4時10分急性心不全で逝去 享年72歳 御神名 天津光留隆秋比古之命昭和50年 従五位勲三等瑞宝章を授与される。「天使」(7回日展・遺作出品)昭和51年 千葉県立美術館にて「近代房総の美術家たちシリーズ5藤野天光展」を開催(5月18日~6月27日)。

山脇敏男

没年月日:1974/09/19

彫刻家、日展会員の山脇敏男は、9月19日午後4時10分、心筋こうそくのため東京都杉並区の河北病院で死去した。享年82歳。明治25年4月20日新潟県村上市で堂宮の建築を業としていた山脇三作の次男として生まれた。本名二太郎。村上中学2年生のとき父に死なれて中退、4年後の明治44年春上京して加納鉄哉の門をたたいた。師に才能を認められ東京美術学校彫刻専科に入学したが、苦学の仕事のため中退した。大正13年第5回帝展に農婦の木彫「田のもの畑のもの」が初入選し、以後順調に第15回帝展(昭和9年)まで毎年入選を重ねた。大正14年木彫界の大先輩内藤伸の知遇を得て師事、その主宰する木生会に加えられ奮起するところがあった。昭和11年文部省招待展には招待出品をなし、翌12年の新文展からは無鑑査出品となった。 昭和20年東京大空襲のためアトリエを焼失罹災して村上市に帰り、帰郷中には仏像製作に専念した。その代表的なものに、光背台座共の高さ18尺に及ぶ「開運観音」、同じく12尺の「聖観音」「揚柳観音」(三体とも新潟県南魚沼郡大和町大崎の竜谷寺に安置)や「釈迦牟尼仏」(大宮市興徳寺本尊)などがある。戦後29年には漸く現住所にアトリエを建てて上京した。昭和31年「母子像」を日展に出品してより再び東京での発表活動を行った。40年第8回日展から委嘱出品となり、第10回日展出品「動」は菊花賞を受け、翌年第11回日展では審査員をつとめ、翌44年改組第1回日展から会員となって木彫一筋に励んできた晩年を飾った。昭和49年9月勲四等瑞宝章を受けた。

林是

没年月日:1974/06/23

彫刻家、行動美術協会会員の林是は、6月23日胃かいようのため東京都目黒区の自宅で死去した。享年68歳。明治39年4月28日、林★の次男として東京市本郷区に生まれた。ちなみに、祖父はお茶の水昌平講を創設した林大学頭であり、父は最初の帝室博物館長となった山高信離(石見守)の次男で林家の養子となった名門の出である。昭和7年3月東京美術学校彫刻科本科塑造部を卒業。在学中の昭和4年院展に初入選してより同展に出品を続け、昭和8年には日本美術院賞を受け、院友に推された。一方、美校塑造部在学中の昭和2年から一年先輩の同窓ら8名で彫刻グループ「沈爾留」を結成、毎年グループ展を開いて後輩たちに非常な刺激を与えた。昭和12年日本美術院を退き、日本彫刻家協会の創立に参加、会員となった。戦後の21年には、それまで出品していた二科会彫刻部の会員となったが、23年には二科会も退会した。昭和25年行動美術協会に彫刻部が新設されるに当ってその創立会員となり、同志の若い仲間たちとともに彫刻部の基礎づくりと発展に尽力した。生前の人柄と作風を偲ぶものに、「林是さんを送る 向井良吉」(第29回行動美術展目録)がある。

長谷川義起

没年月日:1974/02/20

彫刻家・日展参与の長谷川義起は、2月20日午後7時インフルエンザによる肺炎のため東京都豊島区の自宅で死去した。 享年81歳。明治25年3月3日富山県射水郡(現・高岡市)に生れた。本名勝之。大正4年3月東京美術学校彫刻科本科塑造部を卒業。大正9年第2回帝展に「靈光」が初入選してより連続入選を重ね、昭和5年第12回帝展では「円盤」が推薦となり以後無鑑査出品を続け、終始官展系作家として重きをなした。戦後の日展では、依嘱出品を続け、審査員、評議員をつとめ、また日本彫塑家クラブ理事、日本陶彫会委員長、北陽美術会理事などを歴任した。作品には、大正13年東伏見依仁親王北征記念碑制作、昭和11年10月の帝国教育塔の懸賞浮彫に一等入選した「明暗」(大阪大手前公園入口に設置)など例外もあるが、殊に相撲関係のものに特技を発揮した。昭和12年文展出品の「四ツ(梅ヶ谷・常陸山)は政府買上げ(同作品は現在国技館正面玄関にある)となり、昭和7年8月のロサンゼルスオリンピック大会芸術競技招待に「円盤投げ」を出品、昭和11年ベルリンオリンピック芸術競技には、「両構(力士)」が入賞した。また昭和13年1月の双葉山五連勝の表彰額「龍虎」があり、戦後には「大鵬像」などがある。死去前の1月には紺綬褒章を受けた。

齋藤素巌

没年月日:1974/02/02

彫刻家、日本芸術院会員の齋藤素巌は、2月2日午前6時15分、老衰のため東京都世田谷区の久我山病院で死去した。享年84歳。明治22年10月16日東京に生まれた。本名は知雄。同45年東京美術学校西洋画科を卒業、大正2年渡英しロンドンのローヤル・アカデミーで彫塑を修め、同4年帰国した。6年第11回文展に「秋」を出品して入選し、第12回文展の「敗残」は特選となった。8年第1回帝展の「朝暾」を無鑑査出品し、11年、13年には帝展委員に推された。15年日名子実三と彫塑を主とする美術団体「構造社」を創立し、翌昭和2年から東京府美術館で展覧会を開催した。構造社展出品の主なものには「相」(第1回)、「タイス」(第3回)、「母子像」(第6回)、「楠木正成像」(第9回)、「豊穣」(第12回)などがある。同展覧会は18年まで継続開催したが、昭和19年戦争苛烈となって構造社を解散した。昭和10年帝国美術院会員、12年帝国芸術院会員。昭和11年文展「貝」、15年奉祝展「日は昇る」、18年第6回文展「構図」などの官展出品作があるが、戦後は専ら日展に作品を発表した。その出品年譜は次の通りである。 昭和21年第1回日展「戦争・飢餓・甦生」、23年第4回日展「衣と食と」、24年日展運営会理事(29年常任理事)、26年第7回日展「みのり」、27年国立近代美術館評議員、28年第9回日展「自然科学者」、30年第11回日展「晦冥」、32年第13回日展「エゴイスト」、33年第1回新日展「珠」社団法人日展常務理事、35年第3回日展「沼童の一家」、38年5回日展「競技への招待」、39年6回日展「相」、40年7回日展「「老人」、41年8回日展「父と子」、42年9回日展「誕生」、43年10回日展「おちる」、44年11回日展「先人の幻覚」、46年改組第2回日展「誘惑」、47年3回日展「木の実」。 一貫して浪漫的な主題のレリーフを得意とし、殊に構造社時代には建築と彫刻との綜合につとめた。また戦後の晩年には、その主題に社会的諷刺をもとめた場合が多い。

村田徳次郎

没年月日:1973/12/17

旧日本美術院彫塑部同人・粲々会会員の村田徳次郎は、12月17日午前8時、膵臓癌のため、東京都板橋区の日大病院で死去した。享年74歳。明治32年10月15日大阪市南区心斎橋筋の半エリ専門店「ゑ里徳」の長男として生れた。父村田徳松、母ハマ。はじめ家業をつぐため私立大倉商業学校に入学したが、大正3年3月、同校2年修了で中退、4月京都市立美術工芸学校、本科4年制の準備過程予科2年に編入され、翌年4月同校本科(図案科)へ進学、大正8年4月同校を卒業した。本科2年生になってから卒業まで特待生に選ばれたという。卒業の年、徴兵適齢に達し、同年12月一年志願兵として輜重第四大隊へ入営し、翌9年12月現役満期除隊した。同年末の12月30日父徳松が死去したので2年あまり家業に従事した。大正13年4月より家業を義兄にゆずり日本美術院に所属、専ら彫刻研究をはじめた。大正15年第13会院展に「小児像」が初入選してより毎回入選した。昭和2年東京府北豊島郡にアトリエを新築して住居を移し、12月5日から日本美術院研究会員となった。昭和5年5月には日本美術院院友に推挙された。同7年、第19回院展出品の「女座像」他2点で日本美術院賞を受け、同13年第25回院展に「肘つける少女」「女立像」「男半伽像」を出品、同人に推挙された。以後第二次大戦中をはさみ昭和36年2月、日本美術院彫塑部解散にいたるまで、その中堅作家として、とりわけ石井鶴三に尊敬私淑し、また同門の喜多武四郎、松原松造らと共に研鑽、終始きびしい製作態度をもって、対象の外形よりも内面性追究に重きをおいた作品を発表し続けた。戦後は、昭和23年2月末東京美術学校講師に任ぜられ、昭和40年3月31日、定年で東京芸大美術学部基礎実技≪工芸科・建築科≫塑造担当(昭和34年4月以来)を退官するまで後進の指導に尽力した。昭和34年5月には、同士相寄り粲々会(第1回展を日本橋三越で開催)を結成し、昭和47年10月の第12回展開催の晩年にいたるまで中心的存在として活躍した。殊に、かねて会員の分担によって読売ランドに仏教祖師像(村田は「親鸞聖人像」を担当)を建立するため製作中だったのが、いよいよ完成の運びとなり、昭和40年10月の第5回展(読売新聞社主催・新宿京王百貨店)をその成果披露の場となした。また昭和47年10月の第12回展「巨人軍を彫る」(読売新聞社主催・東京読売巨人軍後援)を渋谷東急百貨店で開催、「オーナー正力氏像」「長島選手」「渡辺投手」を出品して、いわば「彫刻と一般大衆との結びつき」を計るなど、会員相互の研究と共に一種の彫刻普及運動を積極的に行った。没後、昭和49年5月の第13回白呂会展(旧称粲々会・銀座ゆうきや画廊)には、「腰かけた女(絶作)」「足を組む」など6点が遺作として出品された。なお故人の全貌は、東京芸大講師時代の教え子たちが中心となった作品集編纂会による『村田徳次郎作品集』昭和50年7月15日発行に詳しいことを附記しておく。

浜田三郎

没年月日:1973/11/10

彫刻家、日展会員の浜田三郎は、11月10日死去した。享年80歳。明治25年12月21日北海道函館市に生れた。大正7年3月東京美術学校彫刻科本科塑造部を卒業。大正15年第7回帝展に「母」が初入選してより、終始官展系作家として活躍した。その間、帝展・新文展時代には、無鑑査出品を重ねた。また斎藤素巌・日名子実蔵らで彫刻の単一団体として起こされた構造社展には、創立当初の昭和2年より参加し、様式化の強い個性的作品を発表して注目された。戦後は専ら日展で活躍、昭和39年には菊華賞をうけ、40年には審査員をつとめて、翌年から日展会員となった。その主要作品には、「少女と猫」(昭7、構造社)、「ジャズ」(昭33、日展)、「楽人」(昭39、日展)、「仮面」(昭40、日展)などがあり、他に「藤村詩碑」がある。死去した折が第5回日展開催中であり、その出品作「陽」が絶作となった。

伊東種

没年月日:1973/06/14

彫刻家、五元美術会会長の伊東種は、6月14日、千葉県茂原市の自宅で死去した。享年68歳。明治38年10月8日茂原市に生れた。昭和4年3月東京美術学校彫刻科塑造部選科を卒業。昭和7年美術団体国土会を設立、9年宗教団体生長の家本部設立の実行委員となりここに就職した。14年には、中国・満鮮旅行をなす。戦後の28年には、日本画家山田皓斎らと協力して新美術協会を創立し関東地方の責任者となると共に、同会展には毎年独自な解釈の精神性の濃い彫刻作品を出品し続けた。その主題には、大黒像、キリスト像、釈迦像、吉祥天像、観音像、木の花開★姫、合掌及び手、無量寿の顔、静物小品などを扱った。30年からは千葉県文化財保存調査員をつとめた。41年日本教文社停年退職。43年五元美術会を設立し会長となった。著書に「無韻の美」(昭和38年10月新美術協会出版部発行)がある。

長谷川塊記

没年月日:1973/04/16

彫刻家、日展会員の長谷川塊記は、4月16日脳軟化症のため東京都北区の自宅で死去した。享年75歳。明治31年11月29日鳥取に生れた。本名は枡蔵。大正9年秋上京して朝倉文夫に師事するとともに昭和4年東京美術学校彫塑別科を修業した。大正13年第5回帝展に「少女立像」が初入選してより、終始官展に作品を発表し続けた。昭和16年には文展無鑑査となった。また朝倉文夫に師事した関係で、東台彫塑展、朝倉塾展、塊人社展などにも参加出品した。戦後は日展に出品し、昭和29年に特選、30年無鑑査、31年より依嘱、36年審査委員をつとめ、37年日展会員となった。43年には再度審査員をつとめた。また日彫会の古参会員として活躍した。例年の展覧会発表以外の作品には、弘法大師像(木彫)横浜八聖殿(昭8)、丈六釈迦座像(鋳銅)神戸市追谷霊園(昭和15)、菅公立像(鋳銅)埼玉県東吾野小学校(昭13)、緬羊像(鋳銅)大阪泉大津市駅前(昭20)、湖女像(鋳銅)鳥取市湖山湖畔(昭30)、地蔵尊像(鋳銅)福島県昌源寺(昭44)などがある。

石井鶴三

没年月日:1973/03/17

日本芸術院会員の石井鶴三は、3月17日午後10時20分、心臓衰弱のため東京都板橋区の自宅で死去した。享年85歳。4月2日正午から2時まで、葬儀及び告別式が春陽会葬(委員長・中川一政)として青山葬儀所で行われた。明治20年6月5日、東京・下谷に日本画家石井重賢(号・鼎湖)の三男として生れた。祖父は鈴木我古、長兄は柏亭と三代にわたる画家の家系である。数え12歳の時、千葉・船橋の農家、矢橋安五郎(叔母の夫)の養子となったが、この頃、馬と遊ぶうちに馬体の不思議な触感に感動したのが彫刻を志す契機となったという。明治37年には実家石井へ戻り、4月から小山正太郎が指導する洋画塾「不同舎」へ通学してきびしい素描力を養い、また7月から長姉の嫁ぎ先の縁故にあたる加藤景雲の門に入り木彫の手ほどきを受け、翌年38年9月、東京美術学校彫刻科選科に入学し、43年同校卒業、さらに研究科へ進み大正2年ここも修了した。彼が明治末期から美術界の多方面にわたって活躍してきたのは、この青少年時代の基礎勉強と独自な探求姿勢によるもので、油彩・水彩画、版画、挿絵などにも多彩に秀れた才腕を発揮してきたが、それはとりもなおさず彼の芸術の本領が最もよく発揮された彫刻造型の追究に帰されるものと考えられよう。東京美術学校在学中、荻原守衛の彫刻に感動し、一時は「荒川嶽」に代表される文展出品があり、大正3年再興の日本美術院の彫刻部に入り、その研究所で中原悌二郎、戸張孤雁、佐藤朝山、平櫛田中、保田竜門らと研鑽を重ねた。明治の末期、荻原のフランスからの帰国を契機として漸く近代の扉を開いた日本の彫刻界では、荻原の夭折後その系譜がごく少数の同志が残る院展彫刻部に引き継がれ、官展流とは違った内省の強い写実主義が誠実に追究された。なかでも石井は、対象の表面的で安易なまとまりを避け、内面的な造型の骨格を明示しようとつとめた稀有な存在であり、その実現は「母古稀像」「俊寛」「藤村先生」「風(試作)」などの代表作に窺われるように、峻厳な造型の内発力を示す作調となって、昭和期院展或いは別の場でながく指導的役割を果した。同じく昭和19年から34年まで東京芸大教授として「石井教室」で指導された門生たちの中には、学生時代、造型の原理をきびしくたたきこまれた師恩の深さを今に感謝しているものが全く多い。その業績の大体は、下記の略年譜(信濃教育第1044号の特集・石井鶴三先生追悼号に所載の岡田益雄編のものを主に参照した)で推察されたい。 略年譜明治20年(1887) 6月5日東京市下谷区に生れる。父は重賢(号鼎湖)、母ふじの三男。兄は満吉(柏亭)。明治30年 父重賢没。明治31年 千葉県船橋町の農家矢橋安五郎(叔母の夫)の養子となる。明治37年 実家石井家に戻る。小山正太郎の画塾不同舎に学ぶ。加藤景雲に師事。明治38年 9月東京美術学校彫刻科選科に入学。この頃より肺結核にかかり、20歳のとき医療を廃し、みずからの養生法をおこない快方に向う。明治39年 東京パックに入社、漫画をかく。苦学生の生活が続く。浅間山に登る。明治41年 第2回文展で荻原守衛の「文覚」に感動する。この頃から推古仏に関心を抱き、また埴輪の美にひかれる。明治42年 はじめて日本アルプスに登る。以後しばしば登山し山岳のもつ彫刻美にうたれる。明治43年 東京美術学校卒業、同校研究科に進む。明治44年 第5回文展に「荒川嶽」入選。大正2年 東京美術学校研究科修業。大正4年 日本美術院同人佐藤朝山のすすめで、日本美術院に入り、研究所で彫塑研究をはじめる。福田美佐を知る。第2回二科展に「縊死者(水彩)」入選。第2回日本水彩画会展に「溪谷」「小学校」他2点入選。大正5年 日本美術院同人に推される。第3回二科展に「井戸を掘る」「行路病者」(共に水彩)入選。大正6年 第4回日本水彩画会展に「峠」「山茶花」出品。大正8年 福田美佐と結婚し、東京・田端に移り住む。大正9年  個展(兜屋画廊)を開く。大正10年 東京・板橋中丸の新居に移る。日本水彩画会の会員に推挙される。上司小剣作「東京」に挿絵を描く。大正13年 日本創作版画協会の会員となる。上田彫塑研究会の講師となり、以後毎年夏期講習会において指導する。昭和45年(第46回)まで毎年続ける(但し昭20休講)春陽会会員となる。大正14年 中里介山作「大菩薩峠」の挿絵をかく。以後断続して昭和2年に及ぶ。大正15年 自由学園に美術を教える。(昭和15年まで)。「婦人像」(上田における第1回講習会の作品)を院展に発表。昭和4年 伊那の彫塑講習会の講師となる。(翌年まで2回、3回目からは有志による)昭和5年 院展に「俊寛頭部試作」「踊」を出品。「石井鶴三素描集」を刊行する。直木三十五「南国太平記」の挿絵をかく。昭和6年 院展に「浴後」「信濃男坐像」(上田彫塑講習作)を出品。昭和7年 子母沢寛作「国定忠治」の挿絵をか。昭和8年 長野の彫塑講習会の講師となる。3年続くが昭和11年から上田に合流する。昭和9年 「石井鶴三挿絵集」第1巻(光大社刊・「大菩薩峠」の挿絵)刊行。昭和11年 院展に「針塚氏寿像」「老婦袒裼」(上田の作)を出品。昭和12年 長野美術研究会の絵画講習の講師をつとめ、昭19・20休講しただけで昭和33年まで毎年続く。昭和13年 随筆集「凸凹のおばけ」刊行。吉川英治「宮本武蔵」の挿絵をかく。上田で春陽会絵画講習を開き、3年継続する。昭和14年 日本版画協会会長となる。昭和18年 北中国旅行。上田で「石井鶴三小品展」を開く。院展に「藤村先生坐像」出品。随筆集「凹凸のおばけ」(増補版)刊行。「宮本武蔵挿絵集」刊行。昭和19年 美術学校改組により、東京美術学校教授となる。昭和20年 8月7日妻美佐病没(58歳)甲州棡原の山荘へ往来、以後数年に及ぶ。和田光子(妹)と同居。昭和23年 岩手県に高村光太郎をたずねる。院展に「仕舞」(鷹野悦之輔像)を出品。昭和24年 上田彫塑研究会25周年記念展・講演会開催。昭和25年 院展に「肖像」(石黒忠篤氏)を出品。坂本繁二郎を九州にたずねる。日本芸術院会員に任命される。横綱審議会委員になる。昭和26年 「木曽馬1・2」を院展に出品。「藤村先生木彫像」の第二作に着手する。昭和27年 法隆寺金堂再建修理にあたる。翌28年まで続く。院展に「小学校教師像」(松尾砂氏像)を出品。昭和29年 6月、「石井鶴三彫刻展」を中央公論社画廊で開催。上田彫塑30年記念展・講演会を開催。昭和30年 子母沢寛「父子鷹」の挿絵をかく。和泉保之師につき、狂言、小舞などのけいこを続ける。昭和31年 信濃教育会発行「彫刻家荻原碌山」刊行。昭和33年 兄柏亭没する。院展に「校長像」(山浦政氏)を出品。中国旅行をする。昭和34年 東京芸術大学教授退官。同名誉教授となる。上田で35周年記念「石井鶴三作品展」開催(上小教育会主催)。昭和36年 2月日本美術院彫塑部解散。昭和37年 腸閉塞をわずらい、入院手術。昭和38年 和田光子の孫蹊子(昭和22年より同居)を養女とする。法隆寺中門仁王修理にあたる。昭和41年 ヨーロッパ旅行。昭和44年 相撲博物館長となる。昭和46年 2月病気のため入院。翌年4月退院、自宅で療養。昭和48年 3月17日午後10時20分、自宅で心臓衰弱のため死去。

木村珪二

没年月日:1971/08/31

日展評議員、白日会常任委員の木村珪二は、8月31日死去した。享年67歳。明治37年6月2日兵庫県出石に生れた。石川県立金沢第一中学校を経て昭和2年3月東京美術学校彫刻科本科塑造部を卒業。在学中の大正15年第7回帝展に初入選してより、官展に出品を続け、その間、昭和13年第2回文展、翌年第3回文展で連続特選となり、戦後は日展で審査員を歴任。堅確な写実的作風で知られ、日展彫塑で重きをなした。昭和25年より白日会彫塑部の常任委員、同31年より日本彫塑家クラブ(のちの日本彫塑会)の運営委員、同27年より東京教育大学教授などをつとめた。

喜多武四郎

没年月日:1970/11/28

彫刻家、日本画府彫塑部会員、元日本美術院同人の喜多武四郎は、11月28日午前6時5分、東京都文京区の東大病院分院でせき髄竹状硬化症のため死去した。享年73歳。号・寒泉、茸々子(じようじようし)。明治30年12月12日、武英三男として東京・本所に生まれた。東京府立第三中学を修業、もともと病弱のため美術家になることを母が止めたが、家出して川端画学校に寄宿した。大正7年偶然の機会に戸張孤雁を知って師事、以後彫刻を志して日本美術院研究所研究員となり、同9年には院展に初入選し、翌年には院友に推された。その頃先輩に中原悌二郎、石井鶴三があり、同輩に木村五郎、橋本平八らがあつて、得難い師友に恵まれながら切磋琢磨を続けた。昭和2年には日本美術院同人に推挙されたが、この年師の戸張孤雁を病気で失なった。震災と其後の不況のため生家衰え、父母相次いで逝去。住居を練馬に移した。昭和3年には会津八一を紹介され、その人格に親炙したが、31年病没後には「会津八一氏肖像」をつくるまでに恩顧を蒙った。昭和34年には院展で文部大臣賞を、同37年には紺綬褒章を受けた。 長年、院展でのよき後輩として終始喜多の仕事を高く評価しつづけた石井鶴三先輩は、昭和29年7月の丸ビル二階・中央公論社画廊での彫刻個展の案内状に、「喜多武四郎君は現代に於て稀に見る彫刻家で、喜多君の仕事を見て小生は純粋彫刻と云ったことがあります。何の景物も添えられていない純粋に近い彫刻活動によって作品が成されているからであります。それだけ一般には理解され難いところがありましょう。喜多君は長年にわたり彫刻を追究し其真摯な態度はもつと認められて然るべきところと思います。」と寄せている。昭和36年2月日本美術院彫塑部解散後は数年間無所属で過ごしたが、昭和43年からは日本画府彫塑部会員に迎えられ、同年第15回日府展から晩年の2、3年を孤高で地味に作人発表を続けた。

安永良徳

没年月日:1970/09/12

日展評議員の彫刻家安永良徳は、9月12日肺炎のため福岡市の自宅で死去した。享年68歳。明治35年横浜市に生れ、大正8年福岡県立中学修猷館を卒え、昭和2年東京美術学校彫刻科を卒業した。昭和6年構造社会員となり、同11年文展無鑑査となる。昭和16年~22年迄応召を受け、戦後、日展に出品し屢々審査員となる。そのほか、福岡美術協会理事長、福岡ユネスコ協会常務理事などつとめる。主要作「青春乱舞」(九州大学教養部)、「裸婦」(福岡県立文化会館前)「愛と美」(小倉市歯科医大前)

寺畑助之丞

没年月日:1970/06/06

新構造社彫刻部代表の寺畑助之丞は、永らく病気療養中のところ、6月6日死去した。明治25年11月富山県高岡市に生れ、大正7年東京美術学校彫刻科本科を卒業した。大正9年朝鮮総督府技師となり、総督府新庁舎一般建築彫刻を担任した。朝鮮美術展覧会の第2・3.4回評議員及び審査員を、同第5回参与及審査員となり、昭和11年文展第3部無鑑査となった。東京高等工芸学校・東京工業専門学校教授をつとめ、構造社から昭和10年新構造社彫刻部に移り、彫刻・工芸部会員代表となった。そのほか、興亜造型文化連盟常務理事(会長-藤山愛一郎)、日本彫塑家倶楽部理事、愛知県常滑日本陶芸研究所々長等をつとめる。代表作-「母と子」

杵谷精一

没年月日:1970/05/31

彫塑家杵谷精一は、5月31日胃ガンのため東京杏雲堂病院で死去した。享年72歳。明治30年6月鳥取県米子市に生れ、明治45年米子市角盤町角盤尋常高等小学校高等科を卒業した。同年山陰日々新聞社石版部に入り、大正2年退社して上京、米子出身の彫刻家戸田海笛に師事した。同7~8年入営し、除隊後再上京し戸田師に就いた。大正9年日本彫工会第34回展に出品し、同11年には日本美術院第9回展に初入選し、以後入選22回に及ぶ。昭和36年同院彫塑部の解散により、同部有志と共に日本画府に合体し、日本画府彫塑部を新設し、その創立委員となった。主要作「首」(大正11年日本美術院)、「父の像」(大正14年)、「戸田海笛氏像」(日本美術院19回展)、「鈴木千代松先生像」(日本美術院21回展)

雨宮治郎

没年月日:1970/05/13

日本芸術院会員の彫刻家雨宮治郎は、5月13日脳コウソクのため東京大塚病院で死去した。享年80歳。明治22年5月17日水戸に生れ、大正9年東京美術学校彫刻科本科を卒業、同12年同校研究科を卒えた。在学中の大正7年第12回文展に「落花」が初入選となった。その後第4回帝展より引続き官展に出品し、昭和6年第12回帝展審査員となった。翌年も同様で、昭和12年第2回及び同8回の文展審査員をつとめた。戦後は、第3回から屢々日展審査員となり、昭和32年には第12回日展出品作「健人」に対し日本芸術院賞を受け、同39年には日本芸術院会員となった。そのほか、昭和26年から同31年にかけ東京学芸大学教授をつとめ、昭和41年には日本彫塑会々長となった。日展顧問。作風は、堅実な写実的傾向に終始した。展覧会以外の作品の主なもの次の通り。「鍋島直彬公像」(昭10佐賀県鹿島市)(昭44同復元)「槍投」(昭35東京国立競技場)「秋田国体記念像」(昭37秋田県庁前庭)「楽園」(レリーフ)(昭38福岡市体育館)「救世大観音像」(昭39宮崎県一ツ瀬ダム)「板谷波山先生像」(昭40茨城県水戸博物館)「黒田清隆像」(昭42札幌市大通公園)「青年像」(昭44秋田市体育館前)「女人像」(昭45水戸博物館)

宮本重良

没年月日:1969/07/28

彫刻家、元日本美術院評議員、粲々会会員宮本重良は、7月28日午後10時35分、東京都世田谷の井上病院で肺炎のため死去した。享年74才。明治28年7月17日東京日本橋区に生まれた。本名、重次郎。同42年久松尋常高等小学校を卒業して家業の伊勢重牛肉店に従事していたが、大正4年美術を志し、太平洋画会研究所、日本美術院研究所に学び、傍ら石井鶴三に特に指導を受けた。第11回院展(大正13年)より重良と号して出品しはじめ、第17回院展(昭和5年)で「童女像」「男立像」によって日本美術院賞を受け、昭和11年日本美術院同人に推挙された。戦後34年には日本美術院評議員となり、まもなく36年2月彫塑部解散に伴って退会した。 ところで、かねて同志相寄り研究所をもち、その発表展を4回ばかり行なってきたが、そのメンバーのうち6作家が、多摩丘陵にある読売ランドの聖地公園に仏教七宗派の祖師銅像の建立を担当し、(昭和39年11月15日完成除幕式挙行)、このうち重良は浄土宗祖「法然上人立像」を制作した。翌40年10月には、新宿京王百貨店で祖師像完成を機会の記念展、粲々会彫刻展(第5回)を行なった。以後この会の第8回展(昭和43年)まで、毎年参加、主として木彫作品の発表を続けた。翌年11月の第9回展には、「猿田彦神」「婦人像」「脚を拭く」「草平氏像」「うずめの命」「少女坐像」「小林氏像(絶作)」など同志会員らによって代表的遺作が陳列された。他に「風神二題」「首相鈴木貫太郎翁像」「葛野観音」、芭蕉研究に意を用いた関係で「芭蕉像(各種)」など主要作品が数えられる。

佐々木素雲

没年月日:1968/12/23

彫刻家、日本彫塑会会員の佐々木素雲は、12月23日午前5時30分脳卒中のため秋田市の自宅で死去した。享年76歳。明治25年3月28日秋田に生まれた。本名、三之助。明治44年上京して米原雲海に師事、大正15年第7回帝展に木彫「安痒」が初入選、一方東京美術学校彫刻別科に入り朝倉文夫に塑造を学んだ。以来数回帝展に出品を続けた。昭和20年、東京牛込区の住居に空襲をうけ、郷里に疎開した。戦後も尚そのまま秋田市で製作活動を続け、随時、上野の日彫展に作品を送って発表した。かたわら地方美術の振興向上と文化財の保護に尽力し、秋田県総合美術連盟の設立や県文化財専門委員をつとめるなど、その功績のより、同県文化功労章を受ける程の晩年だった。諸展覧会出品以外の代表作に「満州国皇帝勅額」「曹洞宗大本山総持寺後醍醐天皇等身像」などがある。

金子九平次

没年月日:1968/10/29

彫刻家、元国画会会員の金子九平次は10月29日午前9時40分川崎市の関東労災病院で穿孔性胃かいようのため死去した。享年73歳。告別式は31日東京都港区、金光教御田教会で行なわれた。明治28年9月9日東京市芝区に生まれ、岡山県金光中学校を卒業、父金子吉蔵、長谷川栄作に彫刻を学び、大正10年第3回帝展に「春愁」入選、翌11年渡欧し、ブールデルに師事、サロン・ドートンヌ、サロン・デ・チュイレリー、サロン・ナショナル等に出品、大正15年秋帰国し、偶々同年国画創作協会に梅原龍三郎、川島理一郎を迎えて第二部が新設されており、滞仏中知己となった土田麦僊の紹介で、この第二部の彫刻を担当するよう会員に迎えられた。その後国画創作協会は昭和3年7月解散したが第二部は存続して国画会と改称し、金子はそのまま彫刻部の中心的存在となった。昭和7年、第7回国画会展への出品をきりに、同会を退き昭和12年新古典美術協会を創立主宰した。戦後は久しい間中央での活動はみられなかったが、38年11月初旬、日本橋・丸善画廊で「金子九平次彫刻展」を開いて新作を発表、多くの人々はその健在を知った。

新海竹蔵

没年月日:1968/06/13

彫刻家、国画会会員の新海竹蔵は、6月13日午前10時、心筋梗塞のため東京都北区の自宅で死去した。享年71歳。告別式が16日東京青山葬儀場で行なわれた。明治30年6月12日山形市の仏師の家に長子として生まれた。明治45年3月郷里の高等小学校を卒業し、10月上京、伯父の新海竹太郎のもとで彫塑を修業した。大正4年第9回文展に「母子」が初入選、以後文展、帝展に出品したが、大正13年第11回院展に木彫「姉妹」を初出品し、若手作家として嘱望され、昭和2年には日本美術院同人の推挙された。以来院展彫刻部の主要メンバーとして活躍、「出羽ケ岳等身像」(昭8)、「婦人像」(昭12)、「砧」(昭14)など、殊に木彫による秀作を発表、昭和17年には茨城県五浦に岡倉天心記念碑として天心像レリーフ(ブロンズ)の優品を作った。円熟期に入った戦後の製作活動は多くの識者の間で評価が高まり、わが伝統素材である乾漆の手法を工夫するなど、堅確質実な作風の多くの佳作を生んだ。「在田翁試作」(昭23)、「少年トルソー」(昭28)などその代表的なものであり、29年第1回現代美術展出品作「少年」が芸術選奨文部大臣賞の授賞となった。36年2月日本美術院彫塑部が解散となり、9月院展当時の同志や有望な後進と共に、彫刻家集団(S・A・S)を結成、11月銀座松屋にてS・A・S第1回展を開催した。出品作「三味線試作」「二つのトルソー」はまた好評を博した。38年10月国画会彫刻部新設に際し、S・A・Sの主要メンバーがそのまま迎えられ、国画会会員として参加した。同会彫刻部が漸く軌道にのりはじめた時、新海の急逝は誠に惜しまれる。年譜明治30年(1987) 6月12日山形市、父新海義蔵、母新海たけの長男に生まれる。新海家は竹蔵の曽祖父母の頃より仏師と称せられる業に従事したものである。明治37年 山形市立第二尋常小学校に入学明治45年 3月山形市立高等小学校を卒業。10月上京して本郷区彫刻家伯父新海竹太郎の家に寄居す。大正4年 第9回文展に「母子」を出品して初入選。大正6年 徴兵適齢となり甲種合格。第5回国民美術協会展に「凝視」を出品二等賞。第11回文展に「日向に立つ土工」を出品入選。12月東京中野通信隊に入隊。大正9年 ハルピン戦時逓信所に配属、その夏陸軍上等兵となる。12月内地に帰還。大正10年 正月中野通信隊除隊、再び新海竹太郎の下に寄居し彫刻に従う。第3回帝展に「木の実持つ女」出品入選。大正11年 7月9日竹太郎の助手として千駄木観潮楼にて森鴎外のデスマスクをとる。第4回帝展に「二人裸女」出品。大正12年 鶴見総持寺、大観音製作の助手をする。大正13年 第11回院展に木彫「姉妹」出品し入選(院展初出品)。大正14年 2月院展試作展に「二人裸女」鋳銅小品作品して試作賞。3月前年の大震災によって破損せる鎌倉長谷大仏の修理が始まり、伯父竹太郎に従ってこれに従事す。第12回院展に「S・Hの首」ブロンズを出品し、院友推挙。10月東京府北豊島郡に家を作り独立。大正15年 2月院試作展に「宮本重良氏像」を出品、試作賞。第1回聖徳太子奉讃展に「浴女」を出品。9月第13回院展に「浴女」2人群像を出品。昭和2年 第14回院展に「花」群像を出品。日本美術院同人推挙。昭和3年 3月院試作展に「大尉S」出品。第15回院展に「春」「秋」「若き母」出品(春秋は東大図書館装飾のもの)10月17日武井トミ次女幸野(明治40年3月23日生)と結婚す。昭和4年 3月院試作展に「父と子」出品。第16回院展に「春秋」「若き母」出品。昭和5年 3月府下に転居3月第2回聖徳太子奉讃会「道化役者」木彫出品。第17回院展に「菅原教造像」木彫と「羊」「松」出品。11月14日同年春より製作中の伯父、竹太郎の胸像を完成。昭和6年 3月院試作展に斎藤氏小銀像を完成。9月第18回院展に「排便」セメント作出品。昭和7年 3月試作展に「たらいと少女」木彫出品。昭和8年 2月馬越恭平氏立像を作る。3月東大図書館壁の装飾原形を作る。4月靖国神社に献納の狛犬(石彫)を作り13日、献納式。5月東大医学部附属外来患者診療所入口上の装飾レリーフを作り9月に完成。第20回院展に「出羽ケ嶽等身像」木彫出品。昭和9年 文部省美術研究所より依頼され、竹太郎伝記の資料蒐集に旅すること多し。昭和10年 3月院試作展に「S翁の首」出品。4月山形県護国神社社頭の狛犬成り24日献納式。東京府美術館10周年記念展に(昭和5年作)「道化役者」を出品する。9月樺太護国神社に建立の狛犬を製作する。昭和11年 4月改組帝展第1回に「結髪」木彫出品。9月第23回院展に「試作」泥漆を出品。昭和12年 第24回院展に「婦人像」三味線を持つ木彫出品。9月国立公衆衛生院に「羊」「芦鷺」レリーフ製作。昭和13年 第25回院展に「葦鷺」出品。昭和14年 第26回院展に「朝鮮にて、砧、老人」を出品。昭和16年 第28回院展に「兵士」セメント像出品。昭和17年 10月五浦にて岡倉天心記念碑を彫る。11月8日除幕式。昭和18年 第30回院展に「若鷺頭部」木彫出品。9月8日第6回満州国展開催につき彫刻部審査員を依嘱され渡満す。昭和22年 第32回院展に木彫乾漆「M・H翁頭部」を出品。昭和23年 3月第3回小品展に「控へ力士」出品。第33回院展に「在田翁試作」木彫乾漆を出品。昭和24年 第4回院小品展に「吉田氏頭部」出品。昭和24年度文部省主催日本現代美術展に「在田翁試作」を再度出品。第34回院展に「少年のトルソー」横臥木彫乾漆を出品。日本美術家連盟を結成のため創立委員となる。昭和25年 3月1949年度第1回選抜秀作美術展覧会(朝日新聞社主催)に昨年の「少年トルソー」を出陳。10月新潟県美術展に審査を依嘱される。12月美術出版社より「彫刻の技法」を出版、その中で木彫の部を執筆する。昭和26年 第36回院展に「少年トルソー」立像、木彫乾漆を出品。10月ブラジル・サンパウロ第1回国際ビエンナーレに「在田翁試作」を出品。10月山形県展審査を依嘱され山形に行く。昭和27年 1月第3回秀作美術展(朝日新聞社主催)に「少年のトルソー」出品。7月白樹会に「少女」木心乾漆出品。第37回院展に「半迦像試作」出品。10月東京教育大学教育学部彫塑専攻科非常勤講師を依嘱される。昭和28年 6月国立近代美術館にて近代彫塑展-日本と西洋-に「少年トルソー」出品。1月第4回秀作美術展(朝日新聞社主催)に「半迦像試作」出品。教育大学内芸術学会誌スクール・アートに「木彫の基本」を執筆。昭和29年 5月白樹会に「トルソー」テラコッタを出品。5月第1回日本現代美術展(毎日新聞社主催)に「少年」を出品する。昭和30年 1月第6回選抜秀作美術展(朝日新聞社主催)に「少年」出品。4月昭和29年度の作品「少年」に対し、芸術選奨(文部大臣賞)を受賞。8月山形県展審査のため山形に行く。第40回院展に「少女のトルソー」出品。11月9日山形市の有志の努力により、以前供出されたる新海竹太郎胸像の再建なる。昭和31年 第41回院展に「少年の首」木心乾漆を出品。国立近代美術館、日本の彫刻(上代と現代)展に「砧」出品。昭和32年 5月第8回選抜秀作美術展(朝日新聞社主催)に「少年の首」出品。7月現代美術10年の傑作展(毎日新聞社主催)に「少年」を招待出品。第42回院展に「K氏の顔」出品。9月文部省主催地方巡回10周年記念明治、大正、昭和名作展に「少年トルソー」出陳。昭和33年 1月第9回選抜秀作展(朝日新聞社主催)に「K翁の首」出品。5月第3回現代美術展(毎日新聞社主催)に「肩衣のトルソー」出品。8月山形市制70年記念日に際し、美術の指導と啓蒙の功により表彰と銀盃を受く。昭和34年 1月近代美術館戦後秀作展に「少年」出品。2月日本美術院監事に選ばれる。5月「砧」国立近代美術館の収蔵となる。第44回院展に「U・S博士」出品。9月文部省主催、明治、大正、昭和美術回顧展(日本芸術院会員と受賞作家の秀作展)に「少年の首」出品。昭和35年 5月第5回現代美術展(毎日新聞社主催)に「トルソー」を出品。5月玉川百科辞典造型の部木彫を執筆。7月文部省、明治、大正、昭和名作巡回展に「U・S博士」を出品。昭和36年 2月日本美術院彫塑部解散。5月現代美術展(毎日新聞社主催)に「半迦の女」を出品。9月文部省主催明治、大正、昭和名作展に「半迦の女」木彫出品。9月「S・A・S」彫刻家集団を結成し発会式。11月銀座松坂屋にてS・A・S第1回展「三味線試作」「二つのトルソー」出品。昭和37年 1月第13回選抜秀作美術展(朝日新聞社主催)に「三味線試作」を出品。2月文部省主催第1回全国県選抜展の賞選考委員を依頼さる。2月「三味線試作」文部省36年度優秀美術品買上げ。5月現代美術展に「D・H翁」出品。12月5日S・A・S第2回展を大丸に開く。「扇を持つ女」プラスチック出品。昭和38年 5月S・A・S春季展に「海人」レリーフ出品。5月国際美術展(毎日新聞社主催)に「海女」を出品。白樹会第10回展(白木屋)に「少年」「扇を持つ女」「メヂィチのヴィナス」出品。10月国画会とS・A・Sの合同宣言。国画会会員となる。10月文部省主催、明治、大正、昭和名作巡回展に「扇を持つ女」出品。昭和39年 1月第15回秀作美術展(朝日新聞社主催)に「少年のトルソー」を出陳。(山形の美術博物館建設と、伯父竹太郎の傑作である、大山元師像再建に努力する)。9月文部省主催、明治、大正、昭和名作美術展に「D・H翁頭部」を出品。昭和40年 39回国画会展に「海女」出品。5月国際美術展(毎日新聞社主催)に「三味線」出品。9月文部省主催、明治、大正、昭和名作巡回展に「M嬢」を出品。12月近代美術館に「砧」を寄贈せる件による紺綬褒章をうける。昭和41年 第40回国展に「少女」出品。5月阪大初代総長、長岡半太郎博士胸像完成。文部省主催、明治、大正、昭和名作展に「海女」小品鋳銅を出品。昭和43年(1968) 1月東京教育大学講師を辞任。42回国画展に「K・Sの首」出品。5月第8回現代日本美術展(毎日新聞社主催)に「海女」出品。5月山形美術博物館に伯父新海竹太郎遺作陳列室完成、陳列指導のため山形に行く。6月13日午前10時急激な心筋梗塞のため死去す。満71歳。勲4等瑞宝章授与される。9月山形美術博物館において代表作品37点による新海竹蔵遺作展が開催される。開催中平櫛田中翁「新海竹蔵の人と芸術」と題して講演。「新海竹蔵作品集」(44年4月、国画会彫刻部刊)年譜参照。

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