本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





晝間弘

没年月日:1984/10/06

日本芸術院会員、日展常務理事の彫刻家晝間弘は、10月6日狭心症のため東京都葛飾区の第一病院で死去した。享年68。初期の木彫から塑像、ブロンズ等へと領域を広げ、堅実な写実力で独自の造形をもとめた晝間は、大正5(1916)年3月5日東京都葛飾区に生まれた。東京美術学校在学中の昭和14年第3回新文展に「朝晨」で初入選し、翌年同校彫刻科木彫部を卒業、卒業制作「早蕨」で正木記念賞を受ける。同年の第4回東邦彫塑院展で彫塑院賞を受賞。北村西望に師事し戦後は日展に出品、同22年第3回展で特選を受けたのをはじめ、第5-7回展で連続特選となり、第5回展出品作「希望」は政府買上げとなった。同27年の第8回日展で初の審査員にあげられる。同33年社団法人日展会員となり、同37年評議員、同52年理事、同55年からは日展常務理事をつとめる。この間、同39年第7回日展出品作「大気」で文部大臣賞、同45年改組第1回日展出品作「穹」で日本芸術院賞を受賞し、同55年に日本芸術院会員となる。日本彫塑会(同47年理事)にも所属し、同51年から54年まで筑波大学教授をつとめた。

植木茂

没年月日:1984/06/03

木による抽象彫刻の草分け的存在であり、その代表的作家として活躍した植木茂は、6月3日午前11時57分、前立せんガンのため大阪府吹田市の新千里病院で死去した。享年71。大正2年(1913)2月15日北海道札幌市に生まれる。札幌市立第一中学校を卒業。同郷出身の三岸好太郎に師事し、昭和7(1932)年第2回独立展に油絵「風景2」で初入選。以後、同10年自由美術家協会展の創立に参加するまで同展に出品を続ける。自由美術展には同24年第13回展まで出品。この間に彫刻に本格的に取り組むようになる。同25年モダンアート協会の創立に参加し会員となるが、同29年退会。以後無所属。戦中に合成樹脂を素材とした彫刻を試みるなど先駆的な活動を行ない、戦後は木による抽象彫刻、「作品」「トルソ」のシリーズを制作し、晩年は板、竹ひご、和紙などによるモービルや平面的アッサンブラージュを手がけた。木地と木目を生かし、穏やかなのみ跡を残し、有機的で柔らかいフォルムを持つ独自の作風を築いた。サンパウロ・ビエンナーレ(昭和30年)、ベネツィア・ビエンナーレ(同31年)など国際展にも出品、同45年日本での大阪万博の際はサントリー館のデザインを担当。「現代彫刻の5人展」(同51年、兵庫県立近代美術館)、「近代日本美術の歩み展」(同54年、東京都美術館)、「現代の彫刻展」(同59年、山口県立美術館)など多くの彫刻展に出品している。また、九州産業大学教授として教鞭をとった。

浅野孟府

没年月日:1984/04/16

昭和初期、前衛美術運動に参加し活躍した彫刻家浅野孟府は、4月16日午後2時10分、肝硬変のため大阪市東区の上二病院で死去した。享年84。明治33(1900)年1月4日東京都に生まれる。本名猛夫。大正7年東京美術学校彫刻科に入学し塑造を学ぶ。北村西望に師事。在学中の同9年9月第1回未来派美術協会展に出品、同11年第9回日本美術院展に石膏像「頭」を出品する。同年10月神原泰らとアクションを結成。同12年第10回二科展に「肖像」、翌13年同展に「顔」を出品し、まだ出品数の少なかった二科展彫刻部の草創期に名をつらねる。同13年、アクション、未来派、マヴォなどが合同して三科造型美術協会を結成。同15年第1回聖徳太子奉讃美術展に「造型彫刻立像」「造型彫刻顔」を出品、受賞する。昭和2年、東京美術学校を中退。同3年第1回プロレタリア美術展に「レーニン像」、同5年同展に「習作」を出品する。同5年大阪へ移住し、翌年大阪プロレタリア美術研究所を設立。同12年陶芸研究のため野崎村に窯を開き移住する。同15年徴用されて、松下飛行機工場、東宝映画に勤務する。戦後、二科会の再編に参加して会員となるが、同30年野間仁根、鈴木信太郎らによる一陽会に創立会員として参加し、植木力とともに彫刻部の指導的立場にあって出品を続ける。同45年、ギリシア旅行。同47年大阪彫刻家会議初代会長となる。同48年大阪芸術賞を受賞。肖像彫刻ではモニュメンタリティを加えつつ写実的作風を示したが、自由な制作においては写実にとらわれず、対象の形を簡略化、理想化した。初期作品にはアーキペンコの影響が強く見られる。 一陽会出品作 昭和31年(第2回)「テラコッタの馬」、同32年「女」、同33年「無題」、同34年「立像」、同35年「裸婦」、同36年「裸婦」、同37年「方形婦女」、同38年「裸婦」、同39年「姉妹」(レリーフ)、同40~43年出品せず、同44年「裸婦立像」、同45年「中沢良夫先生」、同46年「無題」、同47、48年出品せず、同49年「大阪(習作)」、同50年以降出品せず。

後藤清一

没年月日:1984/04/11

日展参与の彫刻家後藤清一は、4月11日午後6時45分老衰のため水戸市柳町の青柳病院で死去した。享年90。明治26(1893)年8月19日茨城県水戸市に生まれる。水戸市立三ノ丸高等小学校時代、1級上に木内克がいた。41年上京し遠縁にあたる牙彫家富岡周正に入門、牙彫を学び、大正3年の東京大正博覧会に「竜頭観音花瓶」(牙彫)が入選している。4年東京美術学校牙彫科選科に入学、翌年高村光雲に師事し木彫を始める。8年卒業し研究科に進むが翌年中退、仏教への傾倒を深め思想や仏像の研究を進める。10年美術学校時代の同級生清水三重三らと木牙会を結成、第1回展に「永遠の求道者」を出品する。この後山村暮鳥や小川芋銭、未だ水戸高校の生徒だった小林剛、土方定一らを知る。昭和3年より清水三重三の勧めで構造社にも出品、翌4年第3回構造社展で「少女の顔」が構造賞を受賞した。5年同社会員となり、同年第4回構造社展「弥勒」、6年第5回展「悲母」など深い思索に支えられた内省的な作品を発表する。その後も構造社に「母子」(12年)「誕生仏」(15年)などを出品する一方、帝展、新文展にも出品する。戦後、21年第2回日展よりたびたび審査員をつとめ、25年参事、33年評議員、49年参与となる。この間35年第3回日展で「双樹」が文部大臣賞、39年第1回いばらき賞を受賞、また43年常磐学園短期大学教授、47年日本彫塑会名誉会員となる。主要作品は上記のほか「観世音菩薩」(18年第6回新文展)「笛の声」(29年第10回日展)。48年茨城県立美術博物館で「後藤清一彫刻展」が開催された。著書に青年時代からの断想を抄録した『陰者の片影』がある。

伊本淳

没年月日:1984/02/27

昭和36(1961)年の渡仏後、フランスを中心に活動していた彫刻家伊本淳は、2月27日午後1時15分、悪性リンパ腺しゅようのためパリのパッシー病院で死去した。享年68。大正4(1915)年、東京に生まれ、東京美術学校工芸科鋳金部に学ぶ。同校在学中の昭和12年第24回二科展彫刻部に「婦人首」で初入選。翌年東美校を卒業する。同21年復員帰国し、新制作派協会展に数年出品する。同29年画家野間仁根、彫刻家植木力、浅野孟府らによって創立された一陽会に会員として参加する。同36年春、渡仏、翌37年より42年までサロン・デ・ザンデパンダン展、同38年より42年までサロン・ド・ラ・ジュンヌ・スキュルプチュール展に出品、同40年ギャラリー・サン・ローラン(仏)で個展を開くとともに、ギャラリー・ラ・トゥールでの選抜展にピカソらに混じって出品する。同41年ギャラリー・オー・バットゥリエ(ベルギー)で個展。同42年には7年ぶりに帰国し、高島屋で個展を開いた。マイヨール風の写実的人体彫刻から出発したが、渡仏後、空想や文学から生まれた主題を、人体を基本としてデフォルメした形体で表現する作品に転ずる。金属、特に鉄を主な素材とし、鍵や釘などを熔接してアサンブラージュ的要素をとりいれている。箱根彫刻の森美術館の「断絶」や東京・田町の産業安全会館前の「黎明」などで知られる。一陽展出品歴 第2回(昭和31年)「女人柱像」、3回「女1」、4回「水(テラゾー)」「少女(テラゾー)」「踊る(鋳物)」、5回(同34年)「待望」、6回「作品」、以後出品せず。

廣瀬不可止

没年月日:1983/08/15

二科会員の彫刻家廣瀬不可止は8月15日午前6時11分、食道ガンのため福岡市の福岡大学病院で死去した。享年79。明治36(1903)年12月4日、福岡県三井郡に生まれる。同43年福岡市警固尋常小学校に入学し大正5年卒業。同12年県立福岡中学を4年で中退して上京する。看板屋や、昭和2年ころ安永良徳、サトウハチローなどによってつくられたラリルレロ玩具製作所などで働きながら絵を学ぶ。昭和6年頃帰郷し一時博多人形師に入門。この頃から独学で彫刻を始める。同8年第20回二科展に「女」で初入選、以降同展に出品を続け、同25年同会友、同28年同会員となる。福岡にあって制作し、同9年二科西人社を創立したほか、福岡文化連盟、九州文化協会、福岡美術協会など多くの地元団体に所蔵し、郷里の美術文化の発展に尽くした。戦前は「女の首」(1935年二科展)「農婦」(1943年同展)など具象的作品を制作したが、戦後抽象に転じ「対」(1952年二科展)「歴史」(1967年同展)などの主題を幾何学的形体によって表現している。1970年代以降は再び具象的作風に転じ、簡略化した人体像による「二人」(1973、75年二科展)「立」(1980、81年同展)などの作品を制作した。木、石膏、和紙など多様な素材を積極的に使用した点でも注目される。

八木正

没年月日:1983/01/18

板をつなぎあわせた独自の立体作品を発表していた八木正は、1月18日急性白血病のため死去した。享年26。昭和31(1956)年7月10日、陶芸家八木一夫と織物作家高木敏子の二男として京都市東山区に生まれる。同50年京都市立日吉ケ丘高校普通科を卒業。同54年京都市立芸術大学美術学部彫刻科を卒業し、同大美術専攻科に進学。同56年同科を修了する。大学在学中の同53年京都府彫刻展に出品。翌年より毎年個展を開く。はじめは木彫作品を制作したが、のちに生地の板をつなぎあわせた立体へと移行し、やがて着色した板と生地の板を並列させたり、板の表面に凹凸をもたせたりするようになった。「人がものと等価であるようなあり方」を作品化することを追求していた。京都芸術短期大学、インターナショナル・デザイン学校などで講師をつとめる。同58年、東京伊奈ギャラリー、京都芸術短期大学ギャラリー楽で遺作展が開かれた。

和田金剛

没年月日:1982/12/08

日展評議員の木彫作家和田金剛は、12月8日心不全のため東京都大田区の田園調布中央総合病院で死去した。享年75。明治40(1907)年7月23日静岡県沼津市に生まれ、静岡県立韮山中学校を卒業。昭和8年第14回帝展に「星河」が初入選し、以後帝展、新文展に出品、同16年の第4回新文展に「海紅」で特選を受けた。戦後は日展に出品し、同45年第2回日展に「幻花」で文部大臣賞を受賞。この間、同33年日展会員となり、同39年日展評議員となる。日展への出品作に、「杜の精」(同21年)、「たそがれ」(同33年)、「人」(同39年)、「祈り」(同53年)などがある。

富樫一

没年月日:1982/07/22

自由美術家協会会員の石彫作家富樫一は、7月22日心不全のため茨城県新治郡の筑波大学付属病院で死去した。享年52。本名美津雄。昭和5(1930)年山形県に生まれ、同31年武蔵野美術学校彫刻科を卒業した。自由美術家協会に出品し、同35年会員となる。翌36年ユーゴスラビア第1回国際彫刻シンポジュームに招待参加し、同38年には彫刻の新世代展(国立近代美術館)に出品するとともに、第1回全国彫刻コンクール応募展(宇部)で毎日彫刻奨励賞を受賞する。同39年以降、秀作美術展、現代日本美術展、日本国際美術展、現代日本彫刻展などに出品、同42年の第2回昭和会展で優秀賞を、同47年の第3回現代彫刻展(神戸須磨離宮公園)で神奈川県立近代美術館賞をそれぞれ受賞、また、同48年には石彫家モニュメント制作コンクールに「石の波」で1位となった。国内での制作発表の他、同41年ウィーンでのヨーロッパ彫刻シンポジュームに参加し、同シンポジュームのレギュラー・メンバーとなったのをはじめ海外でも活躍し、オーストリア、西ドイツ、スイス他、海外の野外美術館に多くの作品が展示されている。同56年茨城県筑波学園都市桜大橋、橋詰広場に50個近い彫刻群を制作し注目された。国内でのモニュメント制作に、茨城県政百年記念タイムカプセルモニュメント(同47年)、立教大学校友会館竣工記念モニュメント(同53年)などがある。

桜井祐一

没年月日:1981/11/04

国画会会員の彫刻家桜井祐一は、11月4日、肝臓ガンのため、東京都板橋区の日本大学付属板橋病院で死去した。享年67。1914(大正3)年8月24日山形県米沢市に生まれ、24年家族と共に上京した。31年から翌年にかけて小林芳聰に彫刻の手ほどきを受け、32年平櫛田中に師事する。34年の第21回院展に木彫「乞ふ人」が初入選し、以後院展を中心として活動するが、39年の第3回文展に「男立像」が初入選しており、戦前は文展にも出品している。40年日本美術院院友となり、戦後は彫塑に転じて、46年第31回院展で日本美術院賞を、49年には日本美術院奨励賞を受賞する。更に51年第36回院展「青年」52年第37回院展「若い男」で日本美術院賞大観賞を続けて受賞し、55年同人に推挙された。61年美術院の彫刻部が解散したため、彫刻家集団S・A・Sの結成を経て、63年10月国画会に合流、彫刻部の創立メンバーとなる。この頃日本国際美術展、現代日本美術展にも出品している。65年には第1回日本現代彫刻展に「あるポーズ」を出品し宇部市賞を受賞、70年に山形美術博物館で桜井祐一展が開催された。また77年第5回長野市野外彫刻賞を受賞し、79年「レダ」により第10回中原悌二郎賞、翌80年には第1回高村光太郎賞の優秀賞を受賞するなど、戦後の具象彫刻の代表的作家ととして活躍した。代表作は「青年」(51年)「ネグリジェの女」(60年)「若い男」(61年)「あるポーズ」(65年)「レダ」(79年)など。略年譜1914 山形県米沢市に生まれる。1924 上京する。1931 小林秀聰に彫刻の手ほどきを受ける。1932 平櫛田中に師事する。1934 第21回再興院展「乞ふ人」初入選1936 第23回再興院展「壺」1938 第25回再興院展「或る男」1939 第26回再興院展「特務兵」、第3回新文展「男立像」1940 第27回院展「支那の女」院友に推挙される。紀元2600年奉祝美術展「若者」1941 第28回院展「女神像」「女の首」、第3回文展「女立像」1942 第29回院展「梳る」1943 第30回院展「菊子像」「濱の女」1946 第31回院展、日本美術院賞1947 第2回美術院小品展「小児坐像」、第32回院展「祐吉像」「少年」1948 第3回美術院小品展「良寛」、第33回院展「支那服の乙女」「山下義廣先生」1949 第34回院展「相馬氏像」「山下義廣先生」日本美術院賞奨励賞1950 第5回美術院小品展「俳人」、第35回院展「小薗井正一氏像」「女座像」1951 第36回院展「青年」日本美術院賞大観賞1952 第7回美術院小品展「女立像」、第37回院展「若い男」日本美術院賞大観賞1953 第8回美術院小品展「亡き友の像」、第38回院展「裸婦立像」1955 第40回院展「沈む地球」同人推挙1956 第11回美術院小品展「首習作」1957 第12回美術院小品展「かがむ女」、第42回院展「怒りと悲しみと」 1958 第13回美術院小品展「女の像」、第43回院展「おんなの坐像」1959 第14回院展春季展「トルソ」、第44回院展「ネグリジェの乙女」1960 第15回院展春季展「裸婦習作」、第45回院展「ネグリジェの女」1961 日本美術院彫刻部解散、彫刻家集団S・A・Sの結成に参加。1963 国画会彫刻部創立、会員となる。第7回日本国際美術展「ネグリジェの女」1964 第38回国展「腰をかけた女」、第6回現代日本美術展「女」「炎る」1965 第39回国展「裸婦」、第1回日本現代彫刻展「あるポーズ」宇部市賞、第8回日本国際美術展「あるポーズ」、秀作美術展「女」1966 第40回国展「あるポーズ2」1967 第41回国展「あるポーズ5」1968 第42回国展「横たわる裸婦」、第8回現代日本美術展「裸婦坐像」1969 第43回国展「若い女」1970 第44回国展「はじらい」、山形美術博物館で「桜井祐一展」開催。1972 第46回国展「もの想ふ人」1973 第47回国展「やすらい」1974 第48回国展「はたちの女」1975 第49回国展「裸婦」1976 第50回国展「レダ」1977 第51回国展「若い女・淑」、第5回長野市野外彫刻賞受賞1978 第52回国展「腰かけた裸婦」1979 第53回国展「ナイテイの女」、「レダ」により第10回中原悌二郎賞受賞1980 第54回国展「金山国次郎氏像」、第1回高村光太郎賞優秀賞受賞1981 第55回国展「五月の女」

辻晉堂

没年月日:1981/08/18

京都市立芸術大学名誉教授の彫刻家辻晉堂は、8月18日食道がんのため京都市東山区の自宅で死去した。享年70。本名為吉。ユニークな陶彫を中心として国際的に活躍した辻は、1910(明治43)年10月28日鳥取県日野郡に生まれた。31年に上京、洋画研究を志し、翌年独立美術研究所へ入り約1年間素描を学ぶが、33年第20回日本美術院展に「千家元麿氏像」を辻汎吉名で初出品し、木彫作家としてデビューした。独立美術研究所では堀内正和を識る。35年、第22回院展出品作「少女裸形」で奨励賞を受賞し院友に推挙され、同年新海竹蔵の推薦で日本美術院研究所に入る。39年第26回院展「婦人像」、41年第28回院展「村の男」で院賞第二賞を受賞、42年第29回展「詩人(大伴家持試作)」で日本美術院賞第一賞を受賞し日本美術院同人となる。また、38年得度して晉堂と改名した。戦後も57年まで院展に出品したが、58年に脱退し二紀会彫刻部委員となる。戦後、セメントや鉄を素材にした抽象彫刻に先鞭をつけ、昭和30年代からは陶彫による抽象作品に独自の世界を拓いた。57年サンパウロ・ビエンナーレ展に「鳥」他、翌年ベニス・ビエンナーレに「沈黙」他を出品し、国際的な評価を得た。また、日本国際美術展には59年の第5回から8回展まで、現代日本美術展には60年の第4回から6回展まで出品した他、堀内正和、山崎脩との「彫刻三人展」(66年西武百貨店)、「八木一夫、辻晉堂展(67年、東京壹番館画廊)などを開催する。この間、49年に京都市立美術専門学校(のち京都市立芸術大学)教授に就任、63年には美術研究の目的で渡欧、66年にもジャパン・ソサエティの招待で欧米へ旅行した。64年頃、会費滞納のため二紀会より除名処分を受け、以後は京展の他、専ら個展で制作発表を行った。抽象的な陶彫作品の制作は、八木一夫らの走泥社に刺激を与え、その後の京都のオブジェ焼が国際的に注目される端緒を開いたが、最晩年は陶彫作品も具象へ帰っていった。76年に京都市立芸術大学を定年退官し、同年同学名誉教授となり、翌年京都市文化功労者となる。78年、『辻晉堂陶彫作品集』(講談社)を刊行した。没後、83年に「現代彫刻の鬼才 辻晉堂展」(8月3日-9月4日)が京都国立近代美術館で開催された。主要出品歴1933 20回院展 「千家元麿像」1934 21回院展 「田中の頭部」1935 22回院展 「首習作」「少女裸形」1936 23回院展 「Y氏像」「腕をくんでゐる女」1937 24回院展 「裸婦習作」「O氏坐像」「少女頭像」1938 25回院展 「首」「福井博士像」1939 26回院展 「出家」「婦人像」1940 27回院展 「黒田氏像」「こども」1941 28回院展 「夏のあした(平櫛先生古稀像)」「村の男」1942 29回院展 「野良の父と子」「村の女」「詩人(大伴家持試作)」1943 30回院展 「野良の父と子」「鶏と女」1946 31回院展 「胸像」1947 32回院展 「光木氏像」「岩澤惟安老師像」1949 34回院展 「槙本氏像」「琵琶を弾く男」1950 35回院展 「坐像」1951 36回院展 「坐像」「立像」1952 37回院展 「坐像」1953 38回院展 「首」1954 39回院展 「詩人」「旅から旅へ」「虚空はこういう風につかむものだ」1955 40回院展 「トルソ」「クハンダ」1956 41回院展 「切株」「時計」「旅行者」1957 42回院展 「へんな服をきた人物」、4回サンパウロビエンナーレ「★々毿々」「時計」「鳥」1958 39回ベニス・ビエンナーレ「沈黙」「馬と人」「山の人」「牡牛」「寒山」「巡礼者」「蛙」、12回二紀展「拾得」「灯」「人間(椅子に座っている人物)」「迷盲」1959 5回日本国際美術展「詩人(これ我かまた我に非ざるか)」1960 4回現代日本美術展「寒山」、14回二紀展「マウラ」「ホラ男爵」「詰込主義教育を受けた子供」「拾得」1961 6回日本国際展「寒山(HAN SHAN)」、15回二紀展「颱風の四角な眼とムカデ」「薄暮の階段の石にすわるシッド」1962 5回現代日本展「東山にて」(二点)、16回二紀展「水の中に」1963 7回日本国際展「巡礼」、7回全国彫刻コンクール(宇部市)「牡牛(牛)」「山の人(山の男)」「呪術者」1964 6回現代日本展「寒山(HAN SHAN)」1965 8回日本国際展「寒拾(KANJYU)」1966 3回国際現代彫刻展(パリ)「歩く壁」1967 9回日本国際展「非化Q」

清水多嘉示

没年月日:1981/05/05

日本芸術院会員、文化功労者の彫刻家清水多嘉示は、文化功労者に選ばれた記念展(5月5-10日、三越)開催初日の5月5日心不全のため東京大田区の東邦医大付属大森病院で死去した。享年83。戦後の具象彫刻をリードした一人である清水は、1897(明治30)年7月27日長野県諏訪郡に生まれ、最初洋画から出発し、1920(大正9)年第6回二科展に「風景」「カルタ」が初入選し、同展に第9回展まで出品した。23年に美術研究のため渡仏しブルデルに師事、その建築的構造性を重んじる彫刻を学んだ。28年までの渡仏中、サロン・ドートンヌに絵画及び彫刻を毎年出品、また、サロン・デ・チューレリー、サロン・デ・ザンデパンダンの各会員に推された。28年に帰国後、院展、国展、春陽会展等に出品したのち、文展へ出品し、43年第6回文展ではじめて審査員をつとめ「植樹」を出品する。戦後は日展を中心に活躍し、53年第8回日展出品作「すこやか」で芸術選奨文部大臣賞、54年第9回日展「青年像」で日本芸術院賞をそれぞれ受賞した。また、51年には上野公園内設置の彫刻コンクールに応募した「みどりのリズム」が一位入選、翌52年にはサンパウロ・ビエンナーレに出品。54年ヴェニスで開催された国際造形芸術会議に日本首席代表として出席し、国際造形芸術連盟設立とともに、その執行委員に選任された。64年、ジュネーヴの国際電気通信連合(ITU)創立百年記念事業としてのモニュマンのための「国際彫刻コンクール」の審査員にザッキン、マリニらとともに挙げられ、翌年審査に携わる。65年に日本芸術院会員、80年文化功労者に選任されたほか、日展顧問、日彫会名誉副会長などを歴任、また武蔵野美術大学名誉教授でもあった。著作に『ドナテルロ』(1940年)『ブルデル』(1956年)などがある。日展出品歴1946年 第1回 「母子像」1946年 第2回 「婦人の頭」1947年 第3回 「海」1948年 第4回 「裸婦」1949年 第5回 「村上翁像」(依嘱)1950年 第6回 「La Meditation」(参事)1951年 第7回 「フラートン少佐」1952年 第8回 「裸婦」1953年 第9回 「青年像」1954年 第10回 「F子の頭」1955年 第11回 「マドモアゼル・カリーン」1956年 第12回 「裸婦」1957年 第13回 「裸婦」1958年 社団法人日展第1回 「青年」(評議員)1959年 第2回 「裸婦」1960年 第3回 「裸婦」1961年 第4回 「裸婦」1962年 第5回 「響」1963年 第6回 「浩」1964年 第7回 「爽」1966年 第9回 「裸婦}(理事)1967年 第10回 「裸婦」1968年 第11回 「裸婦」1969年 改組第1回 「裸婦」1970年 第2回 「裸婦」1971年 第3回 「純」1972年 第4回 「裸婦」1973年 第5回 「裸婦」1974年 第6回 「母子」(顧問)1975年 第7回 「裸婦」1976年 第8回 「躍動」1977年 第9回 「陽光」1978年 第10回 「躍動」1979年 第11回 「飛躍」1980年 第12回 「飛躍」1981年 第12回 「瞑想」

大内青圃

没年月日:1981/02/21

日本芸術院会員の彫刻家大内青圃(本名正)は、2月21日午前10時28分、肺炎のため東京・本郷の東大医学部付属病院で死去した。享年82。1898(明治31)年12月12日東京市麻布区に仏教運動家大内青巒の五男として生まれる。幼時から父に仏教及び篆刻を学び、兄青坡から絵画・素描を学んだ。1922(大正11)年東京美術学校彫刻科木彫部を卒業したが、高村光雲に師事して木彫を学び、水谷鉄也に塑造を学んでいる。24年第11回院展(再興)に「羅刹婆」が初入選、27(昭和2)年第14回院展出品作「魔王女染欲」により同人となる。戦後58年に、日本美術院の財団法人化に伴い評議員となり、60年の第45回院展出品作「龍女献珠」が文部大臣賞を受賞する。一方、院展を活動の中心としながら新文展・日展にも出品しており、36年の改組第1回帝展に「牧神クリシュナの扉・夕」が初入選、同年の第1回新文展から無監査となる。43、47年に招待出品し、48年第4回日展では審査員をつとめ、翌年から委嘱出品となったが、58年に日展が社団法人となって以降は出品していない。また、院展も61年2月に彫刻部が解散したため、以後は個展を作品発表の場とした。父青巒からの影響もあり、一貫して信仰を背景とした仏教彫刻を彫り続けたが、63年には、前年の個展出品作「多羅菩薩」と一連の仏教彫刻により、日本芸術院賞を受賞、69年に日本芸術院会員となった。71年勲三等瑞宝章を受賞、77年には10年をかけて制作した永平寺東京別院長谷寺の本尊「十一面観音像」が完成した。同像はクスノキの一木彫としては世界一のものであったが、これが最後の大作となった。代表作品は、上記の「魔王女染欲」「龍女献珠」「多羅菩薩」「十一面観音」のほか、「金剛力士二尊」(51年、北海道旭川市真久寺)「薬師瑠璃光如来及十二神将」(54年、長野県野沢村薬師堂)など。略年譜1898 東京市麻布区に生まれる。1922 東京美術学校彫刻科木彫部を卒業。高村光雲に木彫、水谷鉄也に塑造を学ぶ。1924 第11回再興院展「羅刹婆」1925 第12回再興院展「龍女」1926 第13回再興院展「習作(頭部)」1927 第14回再興院展「魔王女染欲」「瞿曇沙彌」、美術院同人となる。1928 第15回院展「夢の花採む」「眠れる蛾」「青巒先生像」「地より湧出せるもの」1929 第16回院展「女」「山口氏像」「持水像」1930 第17回院展「持国天」「生」「老」「来迎佛」「病」「死」「誕生佛」「観音像」1931 第18回院展「香炉」「婦人団体」「無量寿佛印顆」「大慈観世音菩薩」「舎利瓶」1932 第19回院展「菊」「牧女献糜」「白鳥」1933 第20回院展「クリシュナの扉、朝・夕」「濕婆」1934 第21回院展「大弁才天女」「大吉祥天女」1935 第22回院展「婦人裸像」「月神」「日神」。新宿中村屋印度間「釈尊傳」浮彫制作1936 第23回院展「佛母摩耶婦人」「アモ」「富士選手像習作」。改組第1回帝展「牧神クリシュナの扉、夕」1937 第24回院展「施無畏者」「クリシュナの扉部分、朝の一・二、夕の一・二」「阿修羅鬼王面」「クロド」第1回文展「トリムルチー東方阿★佛」(無鑑査)1938 第25回院展「狗頭」「無量寿佛」「少女像」。第2回文展「施無畏者」(無鑑査)1939 第26回院展「舞踏王涅濕婆」。第3回文展「食堂二天(大弁才天女、大吉祥天女)」(無鑑査)1940 第27回院展「飛行天女」1941 第28回院展「大自在天」「木花開耶姫」。第4回文展「日月(神器・禊祓)」(無鑑査)1942 第29回院展「聖観自在尊」「観音菩薩」「不生居士像」1943 第30回院展「勝鬘夫人」「十三佛塔」。第6回文展「大気津比賣神」(招待)1944 戦時特別文展「東方ノ扉ノ内神遊」1946 第31回院展「聖観自在菩薩」「大地神女」「開蓮」。第1回日展「摩尼宝珠」。第2回日展「不死鳥フェニックス」1947 第32回院展「天皇像」「信貴英蔵氏像」「即現婦女身像」「観自在菩薩像」。第3回日展「佛母摩耶」(招待)1948 第33回院展「安達潮花師壽像」「大吉祥天女像」「春妖」。第4回日展「吉祥天女面」(文部省買上げ)、審査員をつとめる。1949 第34回院展「阿彌陀佛三尊」「観自在菩薩」。第5回日展「花の観音(テラコッタ)」(依嘱)1950 第35回院展「月神」「村昌院開山頂相」「毘蘆遮那佛試作」。第6回日展「餓鬼と観音」(依嘱)1951 第36回院展「那羅延金剛力士像」「密迹金剛力士像」。第7回日展「婦人」(依嘱)。北海道旭川市真久寺仁王門の「金剛力士」二尊像制作。1952 第37回院展「摩利支天」「不動明王」。第8回日展「詞梨帝母」(依嘱)1953 第38回院展「大弁財天女像」「紫紅園主人像」。第9回日展「孔雀」(依嘱)1954 第39回院展「薬師瑠璃光如来像」「月光菩薩像」「日光菩薩像」。第10回日展「光明女像」(依嘱)。長野県野沢温泉村薬師堂本尊「薬師瑠璃光如来像」及び「十二神将像」完成。1955 第40回院展「佛母子像」「薬叉神薬叉女」。第11回日展「花鬘菩提像」(依嘱)1956 第41回院展「釈尊成道」「持戒二尊」。第12回日展「牧女献糜」(依嘱)1957 第42回院展「勝鬘夫人幻想」。第13回日展「大地神女像」(依嘱)1958 第43回院展「法音輪菩薩像」評議員となる。1959 第44回院展「摩耶夫人像」1960 第45回院展「龍女献珠」文部大臣賞受賞。1961 日本美術院彫刻部解散、院展を離れる。1963 前年度個展出品作品「多羅菩薩」により、日本芸術院賞を受賞。1965 埼玉県熊谷市報恩禅寺「釈迦牟尼仏、摩阿迦葉、阿難」三尊及び「鬼王焔摩天」を制作する。1967 東京・駒沢学園「釈迦牟尼仏三尊」を制作する。1968 永平寺東京別院長谷寺「十一面観音像」制作に着手。1969 日本芸術院会員となる。1971 勲三等瑞宝章を受ける。1977 永平寺東京別院長谷寺「十一面観音像」完成。

山畑阿利一

没年月日:1980/10/14

日展参与の彫刻家山畑阿利一は、10月14日午前6時20分、胆道がんのため東京都文京区の日本医科大学附属病院で死去した。享年72。1908(明治41)年9月12日大阪府枚岡市に生まれ、大阪府立泉尾工業学校窯業科を卒業後上京、小倉右一郎に師事し、また川端画学校で学んだ。1928年第9回帝展出品作「女立像」が初入選、38年、39年の新文展で「母子」「みのり」がそれぞれ特選となり、42年無鑑査となった。一方、第一美術協会、構造社にも出品し、34年第一美術協会に無鑑査となり、38年の構造社第11回展「胸像」が研究賞、翌年第12回展「愛撫」が構造賞を受賞した。戦後、55年の都市美展出品作「大地」が文部大臣賞を受賞、日展では56、62年に審査員をつとめ、58年に日展会員、64年評議員、70年からは参与となった。日本彫塑会委員、日本陶彫会委員も兼務。主な作品は上記受賞作のほか、「関東大震災慰霊碑」「慈愛」「聖観音像」など。主要出品歴1928 第9回帝展 「女立像」1930 第11回帝展 「若き日」1934 第15回帝展 「姿」1936 文展鑑査展 「母と子」1938 第2回新文展 「母子」 特選1939 第3回新文展 「みのり」 特選1940 紀元2600年奉祝美術展 「斧」1942 第5回文展 「慈愛」 無鑑査1944 文部省戦時特別美術展 「名和長年公」1946 第2回日展 「清影」1949 第5回日展 「果物を持つ女」1950 第6回日展 「残夢」1951 第7回日展 「憩」1952 第8回日展 「いづみ」1953 第9回日展 「潮風」1954 第10回日展 「はぐくみ」1955 第11回日展 「髪」1956 第12回日展 「連」 審査員1957 第13回日展 「雲」 依嘱1958 第1回新日展 「腰かけた群像」 会員となる1959 第2回新日展 「浴後」1960 第3回新日展 「ねぐりじぇの母と子」1961 第4回新日展 「母子」1962 第5回新日展 「雲」 審査員1963 第6回新日展 「足を拭う女」1964 第7回新日展 「合奏」 評議員となる1965 第8回新日展 「憩う女」1966 第9回新日展 「腰かけた女」1967 第10回新日展 「海に生きる」1968 第11回新日展 「母子」1969 第1回改組日展 「裸婦立像」1970 第2回改組日展 「はぐくみ」 参与となる1971 第3回改組日展 「髪」1972 第4回改組日展 「若い女」1974 第6回改組日展 「若き女」1975 第7回改組日展 「母子の像」1976 第8回改組日展 「若き母」1977 第9回改組日展 「腰かけた若い女」1978 第10回改組日展 「浴後」

滝川毘堂

没年月日:1980/10/09

二紀会委員、日本陶彫会会員の彫刻家滝川毘堂は、10月9日午後8時45分スイ臓ガンのため東京都板橋区の木村病院で死去した。享年66。本名美一。1914(大正3)年3月24日新潟県上越市に生まれる。1928年渡辺長男に師事し、36年構造社彫塑研究所に入り斎藤素巖に学んだ。39年の第3回新文展に「女」を出品し初入選。戦後51年に創設された日本陶彫会に所属し、同会副会長をつとめていた。また53年二紀会の同人、58年同会彫刻部委員となり、76年の第30回二紀展で「花かんざし」が宮本賞を受賞している。主な作品は「謙信公像」(69年、上越市春日山城址)「M画伯頭像」(76年)「花かんざし」「鎮魂像」(79年、三峰山秩父の宮記念館)「武者群像」(80年)など。

水船六洲

没年月日:1980/06/30

日展理事の彫刻家水船六洲は、6月30日午前2時20分脳出血のため東京都杉並区の阿佐ヶ谷病院で死去した。享年68。本名田中六洲。1912(明治45)年3月26日広島県呉市に生まれる。東京美術学校彫刻科卒業。36年文展鑑査展に「ウクレレを持つ女」を出品し初入選。41年の第4回文展「江川太郎左衛門」で特選となり、46年、47年、50年の日展でも特選となった。51年審査員をつとめ、60年、66年、70年、73年にも審査員、また62年からは評議員をつとめ、74年に日展理事となっている。木彫に絵画的な彩色を施す手法を用い、67年第10回日展の「燭明り」で内閣総理大臣賞を受賞、71年には前年の第2回改組日展に出品した「紡ぎ唄」により芸術院賞を受けた。古くは造型彫塑人会、造型版画協会などにも所属し、近年は日本彫塑会、日本版画協会の会員でもあった。また、36年に関東学院の教師となり、60年から77年まで同学院小学校校長をつとめ、教育面での尽力も大きい。出品歴1936年 文展鑑査展 「ウクレレを持つ女」1937年 第1回新文展 「鏡を持つ女」1938年 第2回新文展 「父」1939年 第3回新文展 「従軍看護婦像」1941年 第4回新文展 「江川太郎左衛門像」 特選1942年 第5回新文展 「神農像」1943年 文部省戦時特別美術展 「学徒挺身」1946年 第2回日展 「手套」 特選1947年 第3回日展 「草の葉」 招待 特選1948年 第4回日展 「少年の唄」1949年 第5回日展 「斧」 依嘱1950年 第6回日展 「光あれ」 特選1951年 第7回日展 「マリア・マグダレナ」 審査員1952年 第8回日展 「ヨブ記42章1-6」 依嘱1953年 第9回日展 「関東学院院長坂田祐先生像」 依嘱1954年 第10回日展 「立っている人」 依嘱1955年 第11回日展 「傘をさしている人」 依嘱1956年 第12回日展 「輪廻しをする子」 依嘱1957年 第13回日展 「烏」 依嘱1958年 第1回新日展 「月の暈」 会員1959年 第2回新日展 「白夜」1960年 第3回新日展 「蟲の王様」 審査員1962年 第5回新日展 「天使の椅子」 評議員となる。1963年 第6回新日展 「椅子の唄」1964年 第7回新日展 「馬頭」1966年 第9回新日展 「僧衣」 審査員1967年 第10回新日展 「燭明り」 内閣総理大臣賞1968年 第11回新日展 「指人形」1969年 第1回改組日展 「鳥の季節」1970年 第2回改組日展 「紡ぎ唄」 審査員、この作品により翌年芸術院賞受賞。1971年 第3回改組日展 「挽歌」1972年 第4回改組日展 「はつ雁抄」1973年 第5回改組日展 「魚座」 審査員1974年 第6回改組日展 「冬の旅」 理事

北村正信

没年月日:1980/04/22

日展参与の彫刻家北村正信は、4月22日午前2時10分老衰のため東京都杉並区の自宅で死去した。享年91。1889(明治22)年1月3日新潟県西頚城郡に生まれ、太平洋画会で彫刻を学ぶ。制作期間が長く、1911年第5回文展に「炭臺の男」が初入選して以来、極めて旺盛な制作意欲により78年の第10回日展まで出品を続けている。18年第12回文展で「ひかり」が特選となり、翌年から無鑑査出品となった。また22年を最初として62年までたびたび審査員をつとめ、55年から57年まで参事、58年からは評議員となり、74年以後参与をつとめた。主な作品は、前述「ひかり」、文部省買上げとなった36年文展招待展出品「羞恥」、51年第7回日展「ポーズ」、日比谷公会堂内の「安田善次郎像」など。出品歴1911年 第5回文展 「炭臺の男」 初入選1912年 第6回文展 「鍛工」1913年 第7回文展 「女労働者」1914年 第8回文展 「絶望」1915年 第9回文展 「髪」三等賞受賞、「花の精」1916年 第10回文展 「希望」1917年 第11回文展 「若い女」「闇の力」1918年 第12回文展 「ひかり」 特選1919年 第1回帝展 「花のしづく」 無鑑査1920年 第2回帝展 「蝶の夢」1921年 第3回帝展 「某氏の母」「浴後」 無鑑査1922年 第4回帝展 「夢」 審査員1924年 第5回帝展 「女」「越壽三郎氏の像」 委員1925年 第6回帝展 「曙光」「岡崎氏の像」 委員1926年 第7回帝展 「春のささやき」「あこがれ」 委員1927年 第8回帝展 「水のほとり」 委員1928年 第9回帝展 「新緑」 無鑑査1929年 第10回帝展 「凝視」1930年 第11回帝展 「春の作1930年」 審査員1931年 第12回帝展 「髪」1932年 第13回帝展 「つぼみ」1933年 第14回帝展 「静寂」 審査員1934年 第15回帝展 「髪をまく女」1936年 文展招待展 「羞恥」1937年 第1回新文展 「みのり」 無鑑査1938年 第2回新文展 「髪を洗ふ女」 審査員1939年 第3回新文展 「光を浴びて」 無鑑査1942年 第5回新文展 「夢」 無鑑査1946年 第1回日展 「かげ」1946年 第2回日展 「手鏡」 審査員1947年 第3回日展 「よあけ」招待、審査員1948年 第4回日展 「湖畔」 依嘱1949年 第5回日展 「みのりの秋」 依嘱1950年 第6回日展 「女性」 依嘱1951年 第7回日展 「ポーズ」 依嘱1952年 第8回日展 「凝視」 審査員1953年 第9回日展 「山脇先生像」 依嘱1954年 第10回日展 「浴後」 依嘱1955年 第11回日展 「早春」 審査員、この年より参事。1956年 第12回日展 「こかげ」1957年 第13回日展 「陽光」1958年 第1回新日展 「薫風」審査員、この年より評議員。1959年 第2回新日展 「朝」1960年 第3回新日展 「あけぼの」1961年 第4回新日展 「想」1962年 第5回新日展 「姿」 審査員1963年 第6回新日展 「裸婦」1964年 第7回新日展 「砂丘」1966年 第9回新日展 「髪」1967年 第10回新日展 「みどり」1968年 第11回新日展 「蔭」1969年 第1回改組日展 「初夏」1970年 第2回改組日展 「渚」1971年 第3回改組日展 「さわやか」1972年 第4回改組日展 「夕ぐれ」1973年 第5回改組日展 「浴後」1974年 第6回改組日展 「夏の日」、この年より参与となる。1975年 第7回回組日展 「シャワーのあと」1976年 第8回改組日展 「初秋」1977年 第9回改組日展 「水かがみ」1978年 第10回改組日展 「時のながれ」

矩幸成

没年月日:1980/04/18

金沢美術工芸大学名誉教授、日展評議員の彫刻家矩幸成は、4月18日午後1時、心不全のため金沢市の自宅で死去した。享年76。1903(明治36)年9月28日石川県金沢市に生まれ、旧姓河村。28年東京美術学校彫刻科を卒業し、続いて同校研究科を修了、在学中の26年第7回帝展に「女性」を出品して初入選し、28年から北村西望に師事した。36年の文展招待展に「裸婦」を出品して以後無鑑査となり、52年から委嘱出品、58年新日展となると同時に委員に就任、61年審査員、翌年会員となった。68年から評議員をつとめ、69年第1回改組日展出品作「昔日の影」が内閣総理大臣賞を受賞した。一方、郷里金沢の文化振興にも力を注ぎ、51年金沢美術工芸大学教授となり、58年の日彫会北陸支部結成以来支部長をつとめた。61年には金沢市文化賞、北国新聞社賞を受賞、69年金沢美術工芸大学を退職し同大の名誉教授となっている。また72年から日本彫塑会監事をつとめ、76年勲四等旭日小綬章を受章、80年逝去の後正五位に叙せられている。主な作品は「平和記念像」(65年)「鈴木大拙先生碑」(67年)「自由ト正義ノ像」(68年)「昔日の像」(69年)「浄」(75年)など。日展出品歴1926 第7回帝展 「女性」1927 第8回帝展 「孤影」1928 第9回帝展 「女立像」1929 第10回帝展 「大影」1930 第11回帝展 「芽生え行く力」1931 第12回帝展 「洗心」1932 第13回帝展 「春日の讃」1933 第14回帝展 「想」1934 第15回帝展 「惜身」1936 文展招待展 「裸婦」1938 第2回新文展 「踊のひとふし」 無鑑査1939 第3回新文展 「破邪顕正」1940 紀元2600年奉祝美術展 「民族萌ゆる唄」1942 第5回新文展 「攅峯の雪」 無鑑査1944 文部省戦時特別美術展 「関頭に立つ」1947 第3回日展 「青春の鼓動」1948 第4回日展 「無言の憩」1949 第5回日展 「赤裸」1950 第6回日展 「青春」1951 第7回日展 「幻想」1952 第8回日展 「女性」 依嘱出品1953 第9回日展 「裸婦」 依嘱出品1954 第10回日展 「静かなる動き」 依嘱出品1955 第11回日展 「青春女体」 依嘱出品1956 第12回日展 「潮」 依嘱出品1957 第13回日展 「巌頭に立つ」 依嘱出品1958 第1回新日展 「裸婦」 委員1959 第2回新日展 「追想」 委員1960 第3回新日展 「鼓動ヲ聞ク」 委員1961 第4回新日展 「天来の声」 審査員1962 第5回新日展 「しぶき」 会員となる1963 第6回新日展 「泉ヲ汲ム」1964 第7回新日展 「粧い」1965 第8回新日展 「春の息吹」1966 第9回新日展 「無明」1967 第10回新日展 「巌頭の風」 審査員1968 第11回新日展 「自由ト正義ノ像」 評議員となる1969 第1回改組日展 「昔日の影」 内閣総理大臣賞1970 第2回改組日展 「久遠の幻想」1971 第3回改組日展 「虹の門」1972 第4回改組日展 「白光」 審査員1973 第5回改組日展 「空」1974 第6回改組日展 「春の息吹」1975 第7回改組日展 「浄」1976 第8回改組日展 「岬」1977 第9回改組日展 「闘志」1978 第10回改組日展 「流に返す」1979 第11回改組日展 「潮の響」

本郷新

没年月日:1980/02/13

新制作協会の彫刻家本郷新は、2月13日午後5時40分肺ガンのため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年74。1905(明治38)年12月9日札幌市に生まれ、28年東京高等工芸学校彫刻科を卒業、同年の第3回国画展(彫刻部第1回)に「女の顔」が初入選した。この頃から高村光太郎に師事するとともに、ロダンやブールデルの影響を受けた作品を制作し、31年の第6回国画展で国画奨学賞を受賞した。39年6月国画会を脱退した舟越保武・佐藤忠良・柳原義達らとともに新制作協会彫刻部を創設し、中心的メンバーとして活動を続ける。44年には「援護の手(母子像)」で野間美術賞受賞、翌45年終戦直後の10月に日本美術会創設に参加した。戦後もヒューマニズムに貫かれたモニュメンタルな作品を多く手がけ、戦没学生の苦悩を表現し日本平和文化賞を受けた「わだつみのこえ」(50~52年、立命館大学)、樺太引揚者記念碑「氷雪の門」(稚内市)、北海道開拓百年記念「風雪の群像」(旭川市)、広島市平和公園の「嵐の中の母子像」、冬季オリンピック記念碑「雪華の舞」、鹿児島国体シンボルモニュメント「太陽の讃歌」、大阪市シンボルモニュメント「緑の讃歌」など、豊かな表現力に溢れている。また、59年から68年まで高村光太郎賞選考委員、70年から79年まで中原悌二郎賞、73年から75年まで彫刻の森美術館大賞の選考委員をそれぞれつとめた。79年札幌宮の森にあるアトリエと敷地、彼自身の作品及びピカソ、三岸好太郎などのコレクションを札幌市に寄贈し、同年勲三等瑞宝章を受章している。主な作品は上記モニュマンのほか「泉の像」「哭」「石川啄木像」「牧歌」など。略年譜1905年 12月 9日 札幌に生まれる。1928年 東京高等工芸学校(現千葉大)彫刻科を卒業。国画創作協会第3回展(彫刻部第1回展)に「女の顔」初入選。この頃より高村光太郎に師事。1929年 恵泉女学園教師となる。            国画会第4回展「女の首」「Y氏の像」            この頃より、奈良・京都に仏像研究のため毎年出かける。1930年 同第5回展「男の首」「朝鮮の女」            ロダン、ブールデル、マイヨールなどの彫刻に刺激される。1931年 同第6回展「男の習作」「山内氏像」「メノコの顔」「男の首」 国画奨学賞受賞1932年 同第7回展「「花と虫」の虫」「浩子像」「温子像」1933年 国画会第8回展「裸婦座像」「婦人像」会友に推挙される。1934年 同第9回展「男の習作」「女の習作」            この頃より大作に取り組み始める。1935年 同第10回展「女の首」「子供の首」「男A」「男B」1936年 同第11回展「生誕」「母子」「悦子嬢胸像」1937年 同第12回展「提琴家千葉氏像」「翁像」1938年 同第13回展「母子像」「精A」「精B」「精C」「攻勢と守勢」「像を持つ」試作「冬に寄す」オリンピック記念像1939年 同第14回展「女の首」「男の首」「赤十字記念像白妙」            6月 吉田芳夫、山内壮夫、柳原義達、舟越保武、佐藤忠良、明田川孝らとともに国画会彫刻部を脱退し新制作派協会彫刻部を創設。            新制作派協会第4回展(彫刻部第1回)「氷雪」(ホロカメトック遭難記念碑)1940年 新制作派協会第5回展「藤島先生の像」1941年 同6回展「青年座像」「S嬢」「端座」1942年 同7回展「古老」            『彫刻の美』(富山房)出版1943年 同8回展「老人」1944年 「援護の手(母子像)」野間美術賞受賞。            戦火のため秋より唐招提寺にこもり、鑑真和上像の模刻に専念。1945年 10月 日本美術会創設に参加、美術研究所「ユマニテ」をつくる。1946年 新制作派協会第10回展「婦人像」1947年 同第11回展「湖」「泉」「青年の首」「女の首」1948年 同第12回展「青年」「南欧の人」1949年 同第13回展「夜明け前」(自由独立平和記念碑の一部)1950年 同第14回展戦没学生記念像「わだつみのこえ」1951年 同第15回展「塔(わだつみのこえ2)」1952年 同第16回展「わだつみのこえ3」、東欧・ソ連を歴訪する。1953年 同第17回展「母と子と」                        日本平和文化賞受賞。            「わだつみのこえ」立命館大学校庭に建つ。1954年 同第18回展「平和とパンとバラと子供たちの笑いのために-ローゼンバーグの夫妻に棒ぐ-」1955年 同第19回展「駄々っ子」            第3回日本国際美術展「女座像」「女立像」1956年 新制作第20回展「穹」「食む」「腕をくむ女」            アジア・アフリカを歴訪。1957年 新制作第21回展「かがむ」「砂」            第4回日本国際美術展「堰」1958年 新制作第22回展「裸婦」「里女」「摩周の舞」            札幌市の市民広場に「泉」を建てる。1959年 同第23回展「裸婦」            第5回日本国際美術展「哭く」優秀賞受賞。函館市大森浜に「石川啄木像」、札幌駅前に「牧歌」を建てる。            高村光太郎賞選考委員となる。(43年まで)1960年 新制作第24回展「少年(石)」            広島市平和公園に「嵐の中の母子像」を建てる。1961年 新制作第25回展「飛天」「石の首」            第6回日本国際美術展「母子像」1962年 札幌で個展開催。            新制作第26回展「鳥を抱く女」1963年 同第27回展「氷雪(樺太慰霊碑の一部)」            樺太引揚者のための記念碑「氷雪の門」を稚内市公園内に建てる。第7回日本国際美術展「鳥の碑」            国際近代彫刻シンポジウムに参加。1964年 新制作第28回展「S夫人像」1965年 同第29回展「北洋の男(ある文学碑の一部)」            第8回日本国際美術展「馬の首」            小樽市春香町の山麓にアトリエを建て、テラコッタ作りを始める。1966年 新制作第30回展「ヤン衆」            国際現代彫刻展(ロダン美術館主催)「鳥を抱く女」            開拓者総合慰霊碑「太陽の手」を釧路市白糠町に建てる。1967年 新制作第31回展「原生の譜」            第9回日本国際美術展「少年の壁」1968年 新制作第32回展「不死鳥」1969年 同第33回展「火と土のまつり」1970年 同第34回展「無辜の郡1-10」「砂」            中原悌二郎賞選考委員となる。(53年まで)            北海道開拓記念碑「風雪の群像」を旭川市常盤公園に建てる。1971年 新制作第35回展「花束(南)(北)」(橋のための彫刻)            冬季オリンピック記念碑「雪華の舞」を札幌市真駒内に建てる。1972年 新制作第36回展「太陽の讃歌」(国体シンボルモニュメント)同年鹿児島市鴨池運動公園に建てられる。1973年 同第37回展「沖の人」「ふたり」            彫刻の森美術館大賞選考委員となる。(50年まで)            大阪市シンボルモニュマン「緑の讃歌」を中之島公園に建てる。1974年 モニュマン「緑の環」三基を苫小牧市周辺に建てる。1975年 新制作第39回展「孤愁の友」「H嬢」            東京日本橋高島屋と札幌で本郷新彫刻五十年展開催。1976年 新制作第40回展「天の扉」            北海道新聞文化賞受賞。1977年 新制作第41回展「オホーツク海」1978年 新制作第42回展「顔のない母子像」            北海道文化賞受賞1979年 新制作第43回展「鳥の碑」            札幌宮の森のアトリエを札幌市に寄贈。            勲三等瑞宝章を受章。

河内山賢祐

没年月日:1980/01/25

彫刻家河内山賢祐は、1月25日午後3時15分、肺炎のため、山口県宇部市宇部興産中央病院で死去した。享年79。1900(明治33)年11月30日、山口県熊毛郡に生まれ、1930年東京美術学校を卒業した。卒業の前年、第10回帝展に「壮者」を出品し入選している。41年には第4回文展に「群像試作」を無鑑査出品、この間、39年春に主線美術協会の解消に伴い同会彫刻部が旧称に復帰した塊人社の同人となっている。制作活動の期間は55年すぎまでであり、日展では50年第6回日展の「女性像」が最後の出品となっている。主な作品は、山口県平生町にある伊藤博文像、山口市湯田の井上公園の井上馨像(31年作)など

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