本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。
(記事総数 3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
- なお『日本美術年鑑』掲載時の分類も、個々の記事中に括弧書きで掲載しました。
- 登録日と更新日が異なっている場合、更新履歴にて修正内容をご確認いただけます。誤字、脱字等、内容に関わらない修正の場合、個別の修正内容は記載しておりませんが、内容に関わる修正については、修正内容を記載しております。
- 毎年秋頃に一年分の記事を追加します。
没年月日:1992/06/26 読み:ぶっしやすお 日展会員の彫刻家佛子泰夫は6月26日午後1時30分、急性心不全のため東京都渋谷区の病院で死去した。享年75。大正5(1916)年12月15日、東京都港区に生まれる。昭和15(1940)年東京美術学校彫刻科を卒業。東京都港区虎ノ門の俊朝寺住職をつぐ一方、同18年第6回新文展に「裸婦立像」で初入選。戦前の官展への入選はこれのみで、戦後の同22年第3回日展に「女の首」を出品して以降、同展に出品を続け、同26年第7回日展出品作「秋の女」で特選・朝倉賞を受賞した。日本彫刻家協会にも出品。写実をもとに理想化を加えた裸婦像により、「月光」「寂光」など自然の趣を象徴する穏やかな作風を示した。
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没年月日:1992/06/20 彫刻家で浪速短期大学教授の増田正和は、6月20日縦隔しゅようのため神戸市中央区の神戸労災病院で死去した。享年61。増田は昭和6年4月24日兵庫県に生まれ、京都市立美術大学西洋画科を卒業した。はやくから石彫に進み、昭和35年に朝日新人展(大阪)に出品したのをはじめ、同36、37年には集団現代彫刻展に出品、また、行動美術協会に所属し同41年彫刻部会員に推挙されたが、間もなく同協会を離れた。同43年、小豆島石彫シンポジウムに企画参加し、制作グループ「環境造形Q」を結成(同63年解散)した。同49年、第4回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に出品、翌年の第6回現代日本彫刻展(宇部)では「二つ折りの座」で京都国立近代美術館賞を、同51年第5回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「寄り添う座」で宇部市野外彫刻美術館賞をそれぞれ受賞するなど、石彫作家として活躍した。同56年、第9回現代日本彫刻展に「碑のトルソ」で大賞を受賞、また、翌年の第8回神戸須磨離宮公園現代彫刻展では神戸市公園緑地協会賞を受けた。同63年、大阪中之島緑道彫刻コンペでは優秀賞。この間、同61年に塚本英世記念国際海外研修員としてイタリアへ赴いた。八王子市彫刻シンポジウム(同59年)、関ケ原石彫シンポジウム(平成3年)等にも参加した。作品は他に、「箱の中」「関ケ原」などをはじめ、環境造形Qとしての作品20店がある。
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没年月日:1992/04/03 二紀会会員の彫刻家山本兼文は4月3日午前7時29分、筋委縮性側索硬化症のため鳥取市の鳥取赤十字病院で死去した。享年73。大正7(1918)年12月19日、鳥取県に生まれる。鳥取大学を卒業。昭和24(1949)年第34回院展彫刻部に「山添氏像」で初入選。以後同展には同26年から34年まで出品を続けた。同34年第13回二紀展に「和」で初入選。同35年第14回同展に「戒(1)」「戒(2)」を出品して褒賞受賞。同46年第25回同展に「戒」を出品して同人賞を受け、同48年同会会員に推された。同52年第31回同展に「石会」を出品して文部大臣賞受賞。院展には写実を基本とする人体像を主に出品していたが、二紀会に移ってからは抽象的作品を制作するようになった。石の量塊感を生かし、変形を加えた直方体を組みあわせた簡素な造形を特色とした。兼文の号も用いている。
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没年月日:1992/03/15 読み:まつひさそうりん 延暦寺東塔五智如来像、大阪四天王寺丈六仏等を制作したほか、京都仏像彫刻研究所を設立するなど仏像制作の普及、教育にも尽力した仏師松久宗琳は、3月15日午後11時、心筋こうそくのため、京都市の自宅で死去した。享年66。大正15(1926)年2月14日、仏師松久朋琳の長男として京都市下京区に生まれる。本名武雄。昭和13(1938)年、朱雀第三尋常小学校を卒業して仏像彩色師八木秀蔵の内弟子となる。一方、日本画も学んだ。同15年12月、脊椎カリエスを患い実家に戻る。この病気により右脚の自由を失う。同16年仏師を志し、奈良、京都を巡って飛鳥、白鳳、天平時代の仏像を研究。同19年10月、陸軍の要請により成吉思汗像に金箔を施すため渡満し翌月帰国。同年12月京都高島屋の家具製造部員として再び渡満して翌年3月帰国する。戦後の同23年、木彫家佐藤玄々に入門。同25年陶芸家河井寛次郎のもとに通い、以後も交遊を続け、「用の美」等、芸術概念をはじめ多大な影響を受けた。同年父朋琳と共に愛媛県出石寺の「仁王像」を制作し、鎌倉時代以降希少となった「賽割法」を復活させた。同36年より宗琳を名のる。同37年、京都市山科区九条山に「京都仏像彫刻研究所」を設立し、工房による仏像彫刻の制作を目指す。同38年、戦災で失われた大阪四天王寺の「仁王像」を制作。同38年滋賀県延暦寺の「智証大師像」「聖徳太子像」(父と共作)を制作。同48年、京都山科区大宅に工房を設立する。同50年、京都大覚寺「五大明王像」を父と共に制作し、翌51年、京都金閣寺の「岩屋観音像」「四天王像」を制作する。同53年大阪四天王寺大講堂の「阿弥陀如来像」、同54年同寺太子奥殿の「聖徳太子像」「四天王像」を父朋琳と共に制作し、同寺より「大仏師」の称号を受けた。同55年延暦寺総持院の「五智如来像」を父と共に制作。同58年千葉成田山新勝寺の「五大明王像」「五智如来像」の制作にかかり、4年を費して完成。同寺より「大仏師」号を受けた。同寺には、平成3(1991)年にも「千手観音像」「弥勒菩薩像」「普賢・文殊菩薩像」を制作している。同59年1月、インドへ、同62年5月中国桂林へ、平成元(1989)年5月中国雲崗石窟へ赴く。晩年は国内の古寺をも多く訪れた。天平期の仏像を好み、天平仏の研究を基礎とする鎌倉期の仏師快慶を崇拝し、義軌や古典的様式を守って、流麗な像様を特色とした。個人様式を重視する近代の芸術観に対し、長い仏教彫刻史の蓄積が生んだ古典様式を貴重な遺産と見て踏襲する姿勢と共に、工房による制作を大規模に展開した点でも注目される。一方で、仏像制作を広く一般に普及させるべく、昭和39年に第1回宗教美術展を開催。同40年代前半には彫刻刀の電動研磨機を開発。同48年「宗教芸術院」を創設して講習会を開くなど一般への教育につとめた。著書も多く、『仏像彫刻のすすめ』(昭和48年 日貿出版社)、『仏像彫刻の技法』(同51年 同社)、『仏画と截金』(同52年 中川湧美堂)、『新しい仏像彫刻』(同59年 日貿出版社)などがあり、作品集に『松久宗琳の仏像彫刻』(同63年 秀作社)、『大仏師 松久宗琳』(平成4年 光村推古書院)、伝記に『日本人の魂を彫る』(長尾三郎著 平成2年 講談社)がある。作品の多くは、昭和60年に設立された松久仏像彫刻会館(京都市中京区御幸町三条下ル)に安置されている。
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没年月日:1992/03/04 彫刻家で日展参事、日本彫刻会理事の伊藤五百亀は、3月4日呼吸不全のため東京都三鷹市の病院で死去した。享年73。写実を基礎とした人物像で知られる伊藤は、大正7(1918)年5月11日愛媛県新居郡に生まれた。多摩帝国美術学校彫刻科へ進み、吉田三郎の指導を受け、同校に4年間在籍する。吉田らが結成した白日会に出品(のち白日会会員)した他、昭和17年の第5回新文展に「女立像」で初入選し、翌年の第6回展では「鍬の戦士」で特選を受けた。戦後は日展作家として活躍し、同29年の第10回日展に「潮先」、翌年の第11回に「崖」で連続特選を受け、同31年の第12回日展に審査員に挙げられた。同33年、日展会員、同37年日展評議員となり、同49年の改組第6回日展に「うたかたの譜」で文部大臣賞を受賞、同57年には前年度の第13回日展出品作「渚」で日本芸術院賞を受賞した。この間、日展の彫刻部作家により組織された日本彫塑会(のち日本彫刻会)に同36年会員として参加し、のち同会の監事、理事を歴任した。同58年日展理事に就任、同62年からは参事となった。
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没年月日:1991/09/09 日展理事、日本彫塑会理事の彫刻家中村博直は、9月9日午後零時2分、肺がんのため東京都国立市の自宅で死去した。享年74。大正5(1916)年9月15日神奈川県愛甲郡に生まれる。昭和12(1937)年3月、沢田政廣に入門して木彫を学び、同21年第1回日展に「春庭」で初入選。以後同展に出品を続け、同24年第5回日展に「立女」を出品して特選。同35年第3回社団法人日展に「立つ少女」を出品して再び特選となり、同39年日展会員となった。同40年日本橋高島屋で初めての個展を開催。同57年第14回改組日展出品作「女性」で同展文部大臣賞を受け、翌58年同展に出品した「静秋」などにより同61年度日本芸術院賞を受賞した。裸婦をモチーフとして季節の趣を表わす作品を得意とし、古典的木彫技法を用いて、西洋的に理想化された人体像を彫りあげた。 日展出品歴第1回日展(昭和21年春)「春庭」、2回(同年秋)「秋日」、3回「潮風」、4回「男」、5回「立女」(特選)、6回「若き女」、7回「希望」、8回「裸女」、9回「女性」、10回(同29年)「裸婦」、11回「女性」、12回「深秋」、13回「初秋」、第1回社団法人日展(同33年)「若い女」、2回「裸婦A」、3回「立つ少女」(特選)、4回「秋冷」、5回「女」、6回「望洋」、7回「深みゆく秋」、8回「滴露」、9回「裸女」、10回(同42年)「静観」、11回「秋流」、第1回改組日展(同44年)「初秋」、2回「壷を持つ女」、3回「炎夢」、4回「若い女」、5回「そよ風」、6回「秋想」、7回「衣をまとう女」、8回「女性」、9回「残暑去り初秋の頃」、10回(同53年)「腰かけた女性」、11回「水辺」、12回「粧い」、13回「パラソルを持つ女」、14回「女性」(文部大臣賞)、15回「静秋」、16回「炎夢」、17回「女」、18回「炎夢」、19回「好日」、20回(同63年)「夢」、21回「清楚」、22回「暖秋」
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没年月日:1991/09/05 日展理事、日本彫刻会理事、東京家政大学名誉教授の彫刻家高橋剛は、9月5日午前10時24分、脳出血のため東京都新宿区の病院で死去した。享年70。バレリーナをモチーフとした作品で知られた高橋は、大正10(1921)年8月31日、山形県酒田市に生まれた。本名剛。祖父は宮彫り師、父は日本美術院所属の仏教彫刻家。父に師事して木彫を始め、昭和15年上京。翌16年東京美術学校彫刻科に入学。関野聖雲に師事して同21年同科を卒業する。同22年第3回日展に「夏に立つ」で初入選。同24年より北村西望に師事する。同29年第10回日展に「バレリーナ」を出品した後、このモチーフを中心に追い求め、同31年第12回日展では「踊り子」で特選、翌32年第13回同展では「バレー・ダンサー」で,翌33年第1回社団法人日展では「振付」で3年連続特選を受賞。同35年同会会員となった。同56年改組第13回日展に異色のモチーフをとらえた「房総の女」を出品して内閣総理大臣賞受賞。同61年には前年の第17回改組日展出品作「稽古場の踊り子」で日本芸術院賞恩賜賞を受けた。同62年日本彫刻会理事、委員長に就任。昭和30年代中頃まで木彫を中心に制作したが、のち塑像に転向し、鍛えぬかれたバレリーナの肉体をモチーフに、そこに宿る清新な精神の表出を試みた。同37年より東京家政大学で教鞭をとり同62年同大名誉教授となったほか、同60年より金沢美術工芸大学でも非常勤講師として後進を指導。同63年大阪心斎橋大丸で個展を開いている。 日展出品歴第3回(昭和22年)「夏に立つ」、4回「希望」、8回「水着」、10回(同29年)「バレリーナ」、11回「ハーブを持つバレリーナ」、12回「踊り子」(特選)、13回「バレー・ダンサー」(特選)、社団法人日展第1回(同33年)「振付」(特選)、2回「清光」、3回「立った女」、4回「バレエの女」、5回「踊子抄」、6回「朝の踊り子」、7回「渚」、8回「やすらぎの像」、9回「石を擲つ若者(ヨハネ伝)」、10回(同42年)「バレリーナ’67」、11回「踊り子’68」、改組第1回(同44年)「爪立てた踊り子」、2回「バレエの女」、3回「バレエ・ダンサー」、4回「朝」、5回「レッスン」、6回「鳥と遊ぶ」、7回「踊り子’75」、8回「鏡前に立つ踊り子」、9回「浴」、10回(同53年)「潮」、11回「静なるプリマ」、12回「庄内浜」、13回「房総の女」(内閣総理大臣賞)、14回「踊り子の朝」、15回「髪を持つ」、16回「輝くプリマ」、17回「稽古場の踊り子」、18回「クラシックバレエの女」、19回「開演前(瞑想する踊り子)」、20回(同63年)「磯」、21回(平成元年)「花の精」、22回「腰かけた女」
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没年月日:1991/07/01 日展参与の彫刻家瀬戸團治は7月1日午後5時45分、心不全のため長野県岡谷市の病院で死去した。享年85。明治38(1905)年9月13日、長野県辰野町に生まれる。大正11(1922)年同県上伊那郡伊北農商学校農科を卒業。同13年上京して鶴田吾郎に洋画を学び、翌年曽宮一念に学ぶ。昭和2(1927)年頃より太平洋画会研究所に入り、中村不折、中村彝、中川紀元らに師事。同4年郷里に帰り小学校教員となり、以後11年間在職する。この間の同8年、構造社の斎藤素巌に彫刻を学び、翌年構造社展に初入選、以後出品を続ける。また、同11年文展鑑査展に「女の首」で初入選。13年第2回新文展にも「K子胸像」で入選。同19年帰郷し、農業を営みながら制作を続ける。戦後も日展に出品を続け、同25年第6回日展出品作「たか子さん」、翌26年第7回同展出品作「静姿」で2年連続特選受賞。同33年日展会員となり、同57年同参与となった。人物像、肖像を得意とし、写実を重視した堅実な作風を示した。動きの少ない静的なポーズを好み、モデルの存在への敬意を漂わせる。 新文展、日展出品歴昭和11年鑑査展「女の首」、第2回新文展(同13年)「K子胸像」、4回「立女」、5回「立つ」、6回「男」、日展第1回(同21年春)「裸婦」、2回「男の胸像」、3回「裸婦座像」、4回「裸婦」、5回「女の首」、6回「たか子さん」(特選)、7回「静姿」(特選、朝倉賞)、8回「信濃の娘」、9回「五三年夏の作」、10回(同29年)「静立」、11回「立女」、12回「直立」、13回「立女」、社団法人日展第1回(同33年)「黒塚(市川猿之助氏)」、2回「山によせて」、3回「坦路」、4回「立像」、5回「月光」、6回「静」、7回「静立」、8回「静夜」、9回「香」、10回「裸の塔」、11回「三面」、改組第1回(同44年)「裸像」、2回「一九七〇年作」、3回「裸身仏心」、4回「二柤一如」、5回「龍膽」、6回「静寂」、7回「晨」、8回「如人」、9回「土器を持つ」、10回(同53年)「寂」、11回「山びこ」、12回「首」、13回「女の首」、14回「男の首・D」、15回「画人N先生」、16回から21回(平成1年)不出品
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没年月日:1991/04/22 1965年に渡仏し、長くフランスにあって彫刻制作に清苦した藤江孝は、4月22日午前7時57分、胃がんのため東京都大田区の大田病院で死去した。享年64。大正15(1926)年7月31日、京都に生まれる。昭和18年、神奈川県立湘南中学校を4年で修了し、慶応大学に入学。同23年同大工学部電気工学科を卒業。在学中から彫刻、映画に関心を持ち、卒業後は定職につかずに自活しながらそれらを独学。同27年、岩波映画製作所の嘱託となり、羽仁進、竹内信次、柳沢寿男らの助監督をつとめる。一方、彫刻家の団体である「造形研究会」に加わり、佐藤忠良に師事する。同29年、岩波映画とフリーとして契約し、今井正らによる「愛すればこそ」の製作にも参加したが、その後、記録映画に興味を注ぐ。同36年より39年まで黒木和雄、東陽一らと映画研究を目的とする「青の会」を結成し、その主要メンバーとなる。しかし、同38年、「ある化学プラントの記録」を最後に映画制作から離れ、同40年、渡仏して彫刻活動に専念。同42年、ラ・ジューヌ・スクリュチュールに初入選。以後同58年まで同展に出品したほか、同47年より58年までサロンド・メ、同47、52、53年にはレアリテ・ヌーヴュール、同49、53年にはサロン・コンパレゾン、同49~59年にはグラン・エ・ジューヌ・ド・オージュルデュイ、同53、56年にはトリエンナーレ・ユーロペアンヌ・スクリュテュールに出品した。初期には石を素材としたが、次第に木を主に用いるようになり、角材や板を構築的に組み上げたり、並べたりすることにより、人と親和する簡素な造形を展開。同59年4月、ニューヨークのニッポンクラブギャラリーで個展を開き、同年11月東京新宿三井ビル・ロビーで「藤江孝の木遊展」を開催。同60年、東京渋谷の西武百貨店で「藤江孝の木遊展 PART2」を開き、全階でディスプレイ・デザイン風に展示して、美術展という閉じられた会場芸術の枠を超える試みを行なった。この間、同55年、フランス・アルゴン・フィルムの寺山修司作品「上海異人娼館」の演出協力、友人小澤征爾の指揮によるヘネシー・オペラ「マノン・レスコー」の美術コーディネーターなど、求められて映画・舞台美術も手がけた。没後1周年を記して作品集「木遊-藤江孝追悼」(藤江三千発行)が刊行されている。
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没年月日:1990/12/20 二紀会委員の彫刻家藤島茂は12月20日午前5時21分、肺がんのため神奈川県横須賀市の横須賀共済病院で死去した。享年76。大正3(1914)年8月7日北海道札幌市に生まれる。本名板坂茂。札幌市豊水小学校高等科を卒業し、昭和15年より松村外次郎に師事する。同17年第29回二科展に「K氏の顔」で初入選。戦後も同21年より再興された二科展に出品したが、同27年より二紀展へ転じ、同年「女」で褒賞受賞。同33年第12回二科展に「作品」を出品して再び褒賞を受ける。同36年第15回同展に「今日の人間像」を出品して同人賞、同46年第25回同展では「闘」で再び同人賞を受賞し会員に推挙された。同53年第32回二紀展に「シャモ」を出品して宮本賞、翌54年同展には「片目になったシャモ」「ねこ」を出品して文部大臣賞を受けた。木彫、石彫、塑像と多彩な技法を修得し、同35年神奈川県鷹取山磨崖仏を制作、同56年には杉並区阿佐谷世尊院内弘法大師像、同63年には豊島区金剛院弘法大師像を制作するなど、伝統的仏像の分野でも活躍する一方、シャモ、牛等の動物を得意として、勢いのある作風を示した。二紀展出品歴第6回(昭和27年)「女」、7回「女」、8回「女」、9回(同30年)「静子の首」、10回「いなばの白兎」、11回「人魚誕生」、12回「作品」、13回「母子像」、14回(同35年)「愛児」、15回「今日の人間像」、17回「慟哭」、18回「聖火」、19回(同40年)「母子」、20回「杭」、23回「憩」、24回(同45年)「こばかま(シャモ)」、25回「闘」、26回「シャモ」、27回「シャモ」、28回「シャモ」、29回(同50年)「娘」「夏(シャモ)」、30回「朱雀」、31回「シャモ」、32回「シャモ」、33回「片目になったシャモ」「ねこ」、34回(同55年)「オット失敗」、35回「カボチャ(シャモ)」、36回「夏(シャモ)」「ねこ」、37回「シャモ」、38回「手羽鎌(シャモ)」、39回(同60年)「牛」、40回「牛」、41回「作品」、42回「シャモ」、43回(平成元年)「炎」、44回「想」
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没年月日:1990/06/20 彫刻界の長老であり、二紀会名誉会員であった彫刻家松村外次郎は、6月20日午後零時45分、心不全のため東京都新宿区の東京医科大学付属病院で死去した。享年88。明治34(1901)年9月17日、富山県東礪波郡に生まれ、早くから彫刻家を志し、大正5(1916)年、井波尋常高等小学校を卒業して富山県工芸学校(現、富山県立高岡工芸高等学校)木工科に入学する。同9年、同校を卒業し、同年9月に上京して吉田白嶺の内弟子となる。同10年、平和博覧会美術展に「雪の朝」で入選。同12年第10回院展に「女」で初入選する。同13年、東京美術学校彫刻科に入学。同15年、聖徳太子奉賛美術展に「一笑傾国」で入選する。東美校在学中に院展から二科展へ転じ、昭和2(1927)年、第14回二科展に「女の顔」「軍鶏」で初入選。以後二科展に出品を続ける。昭和4年東美校を卒業し、同6年6月に渡仏し古典石彫を中心に研究して同8年帰国する。同年第20回二科展に「真珠王」「女の顔」「マスク」を出品して同会会友となり、翌9年第21回二科展には「パリージェンヌ」「マドモアゼル・マサコ」「神農群像」を出品し「神農群像」で推奨を受ける。同11年二科会会員となり、同19年の二科会解散まで同会に参加する。戦後は、同26年二紀会に彫刻部が設けられると同展に出品を始め、同会委員となる。同29年から隔年で行われた現代日本美術展には1回展より5回展まで招待出品を続け、同30年、32年、34年には日本国際美術展にも招待出品する。また、新素材の可能性を探る「白色セメントによる春の野外彫刻展」にも、同30年第5回展から同41年第16回展まで出品。二紀会においては、同42年副理事長、同51年名誉会員となった。木彫、石彫、ブロンズやセメントを素材とする塑像など幅広い技法を修得し、初期から、形の根源にかかわる様々な古典彫刻に興味を示した。留学期から帰国後しばらくは人物像に西洋古典の研究の跡が認められ、昭和30年代には抽象的傾向を強めるが、晩年には中国など、東洋の古典的彫刻を思わせる作風へと変化した。熊谷守一、中川一政らと親交があり、古典的造型の端麗さと暖かい人間性とを持つ作風を示した。同59年4月郷里の富山県民会館美術館で「松村外次郎回顧展」が開かれたほか、平成元年には出身地庄川町に同町立松村外次郎記念美術館が竣工した。年譜、出品歴は「松村外次郎回顧展」図録に詳しい。 二科、二紀展出品歴第14回二科展(昭和2年)「女の顔」「軍鶏」(初入選)、15回「L子の顔」「中山氏立像」「牧氏の首」、16回「U氏像」「F女の顔」、17回(同5年)「立像」、18、19回不出品、20回「真珠王」「女の顔」「マスク」、21回「パリージェンヌ」「マドモアゼル・マサコ」「神農群像」(推奨)、22回(同10年)「エマージ」「天の川」「桃太郎」「猫」、23回「母と子」「芭蕉」、24回「顔」「モニューマン覇空」、25回「立山縁起」、26回「幼時の鹿之助」「犬」、27回(同15年)「和唐内」「背黒鴎」、28回「東天紅」、29回「タバコ」、30回「大空の決戦へ」第5回二紀展(同26年)「はと」「いぬ」、6回「ユダヤ」「鷹」、7回「うしお」「リング」、8回「朝」「ことぶき」、9回(同30年)「フルーツ」「朝日先生」、10回「蓬瀬由来」「犬」、11回「裸婦」「鳩」、12回「トルソー」、13回「女王+トルソー」「シルクドチェッコ」、14回(同35年)「月輪」、15回「鳳鳥至」、16回「裸婦」、17回「裸婦」、18回「日章旗」、19回(同40年)「草笛」「鴉」、20回「原始居A・B・C」、21回「風の樹」「位相(トポロジー)」、22回「初平の羊」、23回「座る女」、24回(同45年)「リボンの娘」、25回「花たより」、26回「しゃも」「わし」、27回「袈裟山降雪(円空遺聞)」「ふたり」、28回「ゆびきり」、29回(同50年)「ゆらぐ」「西行」、30回「母と子」「とりのエチュード」、31回「天籟」、32回「ドイツ娘の顔」「フロイライン・ジグルン」、33回「熊谷先生」「エマージュ尋牛の友」、34回(同55年)「朱雀」、35回「橋本八百二像」「元武」、36回「鳳龍」、37回不出品、38回「白虎」、39回(同60年)「白虎」、40回不出品、41回「越の川」、42回「ひょうたん」、43回(平成元年)「蓮如上人(吉崎)」
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没年月日:1990/05/15 戦前は院展、帝展、新文展などで活躍し、戦後は太平洋美術会彫刻部で活動を続けた彫刻家白井保春は、5月15日午後零時41分、急性肺炎による呼吸不全のため、東京都練馬区の東武練馬病院で死去した。享年85。明治38(1905)年1月24日、東京日本橋に生まれる。大正12(1923)年東京美術学校彫刻科に入学し、同年第10回院展に木彫「水辺」で初入選、翌年第11回同展に木彫「海」で、同14年第12回同展に塑像「裸婦」で入選を続け、エジプトやギリシアなど西洋古典彫刻に学んだ簡略な造形で注目された。昭和5(1930)年第17回院展に「女立像」「上田氏像」を出品して院友に推され、同8年第20回同展に「父の像」を出品して日本美術院賞を受ける。同展には昭和10年まで出品を続けた。また、昭和4年第10回帝展に「海」で初入選、同11年文展招待展に「婦人姿態」を出品、新文展には第1回展から無鑑査出品し、官展でも活躍した。戦後は昭和35年から太平洋美術展に出品し、同年会友に推挙され、翌年同会会員となった。同43年第64回同展に「トルソ」を出品して藤井記念賞、同49年同会会員秀作賞、同50年も「母子像」で同賞を受賞した。日本メダル協会にも属し、昭和53年芸術メダル協会文部大臣賞を受賞している。木彫のほか石、乾土を素材とする塑像も手がけ、作風も伝統的仏像、対象の科学的観察にもとづく写実的人物像、様式化を進めた裸体像など多様に展開した。官展出品歴第10回帝展(昭和4年)「海」、文展招待展(同11年)「婦人姿態」、第1回新文展(同12年)「童子」、第2回同展「観自在」、第3回同展「小兒の像」、紀元2600年奉祝展(同15年)「施無畏者」、戦時特別展(同19年)「猛進」院展出品歴第10回(大正12年)「水辺」、11回「海」、12回「少女半身像」「裸体習作」、15回(昭和3年)「座像試作」「少女像」、16回「水のほとり」、17回「女立像」「上田氏像」、18回「習作」「坐像」、19回「浴婦半身像」、20回「父の像」、21回「花筺」「肖像試作」、22回「婦人裸像」
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没年月日:1990/02/27 二科会評議員の彫刻家安藤菊男は、2月27日肺炎のため愛知県西加茂郡の三好中央病院で死去した。享年74。本名大沢菊夫。大正4(1915)年3月3日名古屋市に生まれる。昭和10年第22回二科展に初入選、同17年の第29回展には「働ク男」で受賞、二科会会友となる。同18年から21年まで南方に応召、帰還後、MC彫塑家集団結成に参加する。また、翌22年には中部二科会結成に加わり、同年の第32回二科展に「座像」「女ノ首」を出品受賞し、二科会会員に推挙された。同25年MC彫塑家集団を脱退。また、同年「詩聖ヨネ・野口顕彰碑」を完成した。戦後の二科展出品作に「清純」(第33回)、「或る記念像」(第35回)などがある。
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没年月日:1989/11/08 日展参与の彫刻家森野圓象は11月8日午後零時35分、心不全のため東京都世田谷区の三軒茶屋病院で死去した。享年85。明治36(1903)年12月18日、神奈川県横須賀市に生まれる。本名円蔵。工学院大学を卒業し、大正11(1922)年より木彫家内藤伸に師事。同14年第6回帝展に「旅」で初入選。以後、新文展、日展と出品を続ける。昭和6(1931)年内藤伸を中心とする日本木彫会の創立に参加する。同8(1933)年第14回帝展にボールを追う男性3人の群像「蹴球」を出品して特選となり、翌年第15回帝展には牛と組み合う人物をあらわした彩色木彫「力闘」を出品して2年連続特選受賞。運動する力強い人体群像を彫り出す木彫家として注目される。戦後は人々の生活に取材した制作が続くが、昭和30年代に入って東洋の古話、伝説に取材するようになり、同38年第6回改組日展出品作「このはなさくや姫」で文部大臣賞を受賞する。裸体像、着衣像ともに対象にデフォルメを加え、ノミ跡を残して素材の質感と木彫技法の性格を生かした。ブロンズ像の制作も行ない「池田勇人像」等の作品がある。同55年日展参与となった。 帝展・新文展、日展出品歴第6回帝展(大正14年)「旅」、7回「夕陽」、8回「かへり」、9回「馬鍛冶」、10回(昭和4年)「獵」、11回「武人像」、12回不出品、13回「豺」、14回「蹴球」(特選)、15回(同9年)「力闘」(特選)、文展招待展(同11年)「篭球」、第1回新文展(同12年)「レスリング」、2回「人柱架橋」、3回「錬金」、紀元2600年奉祝展(同15年)「火神」、戦時特別展(同19年)「小楠公」、第1回日展(同21年春)「石狩の女」、2回(同年秋)「秋の夜」、3回「カメラの前」、4回「文殊」、5回(同24年)「ラグビー」、6回「朝」、7回「火の幻想」、8回「石狩の娘」、9回「風と家族」、10回(同29年)「都會の女」、11回「石狩の男」、12回「美術展にて」、13回「きくじどう」、第1回新日展(同33年)「制作する私」(以下略歴)、5回(同37年)「イザナギとイザナミ」、10回(同42年)「虎渓山の乙女」、第1回改組日展(同44年)「なたでらのにわの此女たち」、5回(同48年)「ある僻地の青年医」、10回(同53年)「フラメンコ」、15回(同58年)「白秋」、20回(同63年)不出品
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没年月日:1989/11/04 新制作協会創立会員で和光大学教授の彫刻家吉田芳夫は、11月4日午後8時2分、急性心不全のため東京都中野区の自宅で死去した。享年77。明治45(1912)年2月7日、東京都本郷区に生まれる。祖父島村俊明、父吉田芳明(本名芳造)、伯父吉田白嶺と代々彫刻家を家業とする。昭和11(1936)年東京美術学校彫刻科塑像部を卒業。同13年第13回国画会展に「農婦木彫原型」で初入選しK氏賞を受けるが、翌年、東美校同級生で国展での同志であった柳原義達らと共に新制作派協会彫刻部を創立し、その創立会員となる。工匠、芸術家など深い内面性を含んだ人物塑像を主に制作し、同51年には第40回新制作展出品作「白道」で中原悌二郎賞受賞。一貫して具象彫刻を制作し、実在感のある物の生成を追求してレアリストを目指した。的確な観察にもとづき、制作の跡の残る生気あるモデリングを行ない、静かな緊張感と精神性を秘めた作風を示した。 新制作展出品歴第4回(昭和14年)「演技者」、5回「生(四つの門の内)」、6回「畫家の像」、7回「肖像試作」「青年像」、8回「青年像」、10回(同20年)「首」、11回「首」、12回「首」、13回「婦人像」、14回(同24年)「S嬢」、15回(同26年)「童子像」、16回「少女」、17回「青年」、18回「村松梢風氏像」、19回(同30年)「少女」「青夫人」、20回「青年」、21回「K氏像」、22回「老匠試作」、23回「工匠」「本庄氏像」、24回「老匠」、25回「残菊」「父の像」、26回「女」、27回「少年」、28回「吉田石松翁の記録A」「吉田石松翁の記録B」、29回(同40年)「楽匠宮本金八」、30回「オカリナ」、31回不出品、32回「演技者」、33回「H君」、34回「演技者」「梅根先生」、35回不出品、36回「秋艸道人会津八一」、37回「書人」、38回「彫刻家G氏」、39回(同50年)「哭 山内壮夫」「吟遊詩人T」「画作する禾雨亭」、40回「白道」、41回「林生」「林生」「薄墨」、42回「抜海」「杜良」「クレ」、43回「林生」、44回「馬山の漢」「彫刻十戒」、45回「哲学者O氏」、46回「青年」「青年」、47回「演技者」、48回「陶人K」、49回(同60年)「演技者」、50回「若き日の内田巌」、51回「建築家佐藤次夫」、52回「鶴化」「鶴化」、53回「曼珠沙華抱くほどとれど」。
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没年月日:1989/06/22 日展評議員、日彫会会員、太平洋美術会会員の彫刻家平野富山は6月22日午後5時20分、肺ガンのため東京都中央区の国立がんセンターで死去した。享年78。明治44(1911)年3月7日、静岡県清水市に生まれる。本名富三。清水市立江尻高等小学校を卒業して昭和3(1928)年に彫刻家を志して上京、池野哲仙に師事する。同16年より斎藤素巌に師事。翌17年第5回新文展に「女」で初入選。この頃から昭和50年代初めまで「敬吉」の号を用いる。同18年第6回新文展に「想姿」を出品したのち一時官展への出品がとだえるが、戦後の同24年第5回日展に「若者」を出品以後は一貫して日展に出品を続けた。同31年第12回日展に「若人」を出品して特選となり、同34年第2回新日展出品作「裸婦」で再び特選を受賞。同38年日展会員、同57年同評議員となった。日展審査員をしばしば務めたほか、同33年より日彫展にも出品を始め、同37年には第58回太平洋展に「習作T」「現」を初出品して文部大臣賞を受け、同年会員に推挙された。団体展出品作は塑像が多く、ブロンズ像を中心に制作したが、彩色木彫も行ない、昭和33年には平櫛田中作「鏡獅子」の彩色を担当。同60年静岡駿府博物館で「平野富山彩色木彫回顧展」が開催された。裸婦像を得意とし、若く張りのある肉体をなめらかなモデリングでとらえる。ポーズによって「流星」「かたらい」等、自然物や抽象的概念を暗示する甘美な作風を示した。
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没年月日:1989/03/22 新制作協会会員で霞が関ビル前庭の「よろこび」で知られる彫刻家村田勝四郎は、3月22日午後4時4分、肺炎のため東京都渋谷区の井上病院で死去した。享年88。明治34(1901)年8月10日、大阪市北区に生まれる。大阪府立天王寺小学校、同中学校を経て大正9(1920)年東京美術学校彫刻科塑像部に入学する。北村西望教室に学んで同14年に同科を卒業。続いて同科研究科に入り朝倉文夫の指導を受ける。同年第6回帝展に「道程」で初入選。翌15年第7回帝展に「女性」を出品して特選、翌昭和2(1927)年第8回帝展に「少女像」を出品して再び特選となる。また。同年より朝倉文夫の主宰する朝倉彫塑塾に参加し、朝倉塾彫塑展第1回展に出品。翌3年、同塾の帝展不出品に連座する。同4年、安藤照らと朝倉塾を退会し塊人社を結成し、帝展にも復帰する。同11年、塊人社が主線協会と合同して主線美術協会となるに際し同展に出品するが、同14年同会が解散したため、その彫刻部のみで再び塊人社を興す。戦後は同24年より新制作派協会に会員として参加し、以後同展に出品を続けた。同33年福岡・RKB毎日放送内に「牧神の午后」を制作して以降モニュメントやレリーフも手がけ、同45年東京霞が関ビル前庭にモニュメント「よろこび」を制作。同48年2月、日本橋三越で初の個展「村田勝四郎彫刻展-野鳥と少年-」を開催した。人体像をモチーフとし、戦前は対象の観察に忠実にもとづく温和なポーズの人体を、戦後は鳥と少年、少女を組みあわせたのびやかで軽みのある作品を中心に制作した。昭和10年から日本野鳥の会会員であり、晩年は特にトキを好んで主題としていた。清潔で無垢な作風を特色とする。同60年48点の作品を在住地である渋谷区立松涛美術館に寄贈したのを受けて、同年同美術館で「受贈記念特別陳列 村田勝四郎の彫刻」展が開かれている。(なお、年譜、出品歴は同展図録に詳しい。)
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没年月日:1989/02/09 日展会員、日本彫刻会会員の彫刻家原田新八郎は、2月9日午後3時5分、肝不全のため福岡市中央区の浜の町病院で死去した。享年72。大正5(1916)年11月22日福岡県糸島郡に生まれる。昭和9(1934)年東京美術学校彫刻科本課に入学し、在学中の同13年第2回新文展に「若い女」で初入選。以後官展に出品。また、構造社にも参加して斎藤素巌に師事した。同14年東美校を卒業。翌15年の紀元2600年奉祝展に「若き時代」で入選する。同17年8月、東京府立青年学校教諭となる。戦後は郷里福岡に住んで同21年秋の第2回日展から日展への出品を続け、同31年第12回日展に「働く人」を出品して特選、翌32年同展に無鑑査出品した「漁婦」で再度特選を受賞。同35年第3回新日展に「漁婦」を出品して菊華賞を受け、同38年日展会員となる。美術教育にもたずさわり、同28年5月より福岡教育大学講師をつとめ、同37年10月同大助教授、46年7月同大教授となった。同51年福岡教育大学附属中学校校長に就任し、同55年に退官した後、私立近畿大学で教鞭をとった。同41年3月、及び同50年3月に行なわれた福岡博覧会に大作を出品するなど郷里の文化活動に積極的に参加し、同60年福岡市文化賞を受賞する。ブロンズ像を得意とし、労働にいそしむ人の姿など、人生に真摯に向かう人体像を多く制作した。 日展出品歴第2回新文展(昭和13年)「若い女」、紀元2600年奉祝展(同15年)「若き時代」、第5回新文展(同17年)「若き男」、6回「男」、第2回日展(同21年)「布を洗ふ女」、3回「憩へる女」、4回「青年の碑試作」、5回不出品、6回「或る首像」、7回「女」、8回「憩える人」、9回「海女」、10回(同29年)「海女」、11回「語る人」、12回「働く人」(特選)、13回「漁婦」(特選)、第1回新日展(同33年)「午後の陽」、(以下略歴)、5回(同37年)「土の音」、10回(同42年)「筑紫路の人」、第1回改組日展(同44年「憩う人」、5回(同48年)「旅をする人」、10回(同53年)「此処に人あり」、15回(同58年)「野火雲」、20回(同63年)「青い星」
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没年月日:1989/01/25 自然や生命を主題に独創的な活動を続けた木彫家砂澤ビッキは、1月25日午後9時21分、大腸ガン骨髄転移のため札幌市中央区の愛育病院で死去した。享年57。郷里北海道を拠点とし、その自然に執着を抱き続けた砂澤は、昭和6(1931)年3月6日、北海道旭川市近文の近文アイヌのエカシ(長老)の一族として旭川市に生まれた。本名恒雄。アイヌ文化の伝承に積極的に参加していた両親のもとで幼少期から木彫に親しみ、高校卒業後、同27年に上京して作家渋沢龍彦やマンガ家石川球太らと親交しつつ独学で彫刻を学ぶ。同30年第7回読売アンデパンダン展に「夜の動物」「うめき声」を出品。同32年第7回モダンアート展に「もず」「月蝕」「農夫」で初入選し、翌33年第8回同展に「動物」「小動物」「ATAMA2」「動物2」を出品して新人賞受賞。同35年同会会友となる。また、同年第1回集団現代彫刻展にも出品する。同37年モダンアート協会会員となるが同39年には退会して、同42年札幌に帰り独自の制作活動に入った。同53年には札幌から中川郡音威子府村筬島に移住し、小学校の廃校を制作の場とする。翌54年から音威子府中央公民館で「樹を語り作品展」を開催し、没年の第11回展まで毎年出品。同58年、北海道美術派遣員としてカナダ・ブリティッシュ・コロンビア州に渡り、カナダの大自然の中で意欲的に制作。同地で異色作家として注目されImages of British Columbia展を開催した。個展を中心に作品を公にし、同37年の第1回個展から同39年までは、“ANIMAL”を主題に、同40年から50年代にかけては、“TENTACLE”を主題として追求。動物の生態、木の触感の研究は、カナダ渡航を機にさらに展開し、季節や風、大気の生命感を木彫にあらわす作品が登場した。北海道現代美術展(同53~57年)、北海道の美術展(同59、61、63年)のほか、「現代彫刻の歩み“木の造形”展」(神奈川県立県民ホール、同60年)など、企画展にも多く出品している。同63年10月から入院療養中であったが、翌年1月21日から開かれる「上野憲男・砂澤ビッキ・吹田文明展」(神奈川県立県民ホール・ギャラリー)のための制作、準備に自ら当たった。同年、第11回「樹を語り作品展-砂澤ビッキ遺作展」が音威子府公民館で行なわれている。また、用美社から『砂澤ビッキ作品集』(1989年)、『砂澤ビッキ素描 北の女』(1990年)が刊行された。
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没年月日:1988/12/30 世界的な彫刻家として活躍した日系米人イサム・ノグチは、12月30日午前2時半(日本時間同日午後4時半)肺炎のため入院中のニューヨーク大学付属病院で死去した。享年84。1904(明治37)年11月17日、英米詩壇にヨネ・ノグチとして知られた詩人野口米次郎とアメリカの女流作家レオニー・ギルモアの長男として、ロサンゼルスに生まれる。1906(明治39)年家族とともに帰国、少年期を過ごし、小学校卒業後1918(大正7)年渡米する。1919年(以下西暦で略記)より翌年にかけて彫刻家ガストン・ボーグラムに彫刻を学び、25年ナショナル・スカルプチャー・ソサエティの会員となる。同22年ニューヨーク・コロンビア大学に入学、薬学を学び、27年卒業する。この間、在学中の24年よりレオナルド・ダ・ヴィンチ芸術学校に学び、27年コロンビア大学卒業後、グッゲンハイム奨学金を得て渡仏。ブランクーシに師事しそのアトリエに出入りする一方、パリのグラン・ショーミエール、アカデミー・コラロッシに学ぶ。翌28年いったん帰米し、ニューヨークのユージン・シェーン・ギャラリーで初個展を開催。30年再渡仏、さらに日本、北京、ベルリン、モスクワを経て31年帰米する。この間、日本で宇野仁松に陶芸、北京で斉白石に水墨を学ぶ。帰米後、35年マーサ・グラハム舞踏団の舞台装置を制作。同35年から翌年にかけてメキシコに滞在し、41年にはアーシル・ゴーキーとアメリカを横断旅行している。38年AP通信ビル玄関に設置するステンレス・スティールのレリーフ・コンペで1等賞を受賞、一躍名を知られる。戦後51年女優山口淑子と結婚(55年離婚)。52年広島市の依頼により設計した平和記念碑が、抽象的すぎることなどを理由に採用を拒否されるといったこともあったが、54年の「あかり展」は、紙、竹、鉄による彫刻として話題を集める。56年から58年にかけてパリ・ユネスコ本部の日本庭園、61年から64年にかけニューヨーク・チェイス・マンハッタン銀行の庭、70年大阪万博噴水、77年シカゴ・アート・インスティテュート噴水、82年カリフォルニアの彫刻庭園「カリフォルニア・シナリオ」の設計、84年フィラデルフィア・ベンジャミン・フランクリン記念のための「ライトニング・ボルト」などを制作。舞台美術からインテリアデザイン、石彫と幅広く活躍する。National Institute of Arts and letters,American Achademy of Arts and letters,American Achademy of Arts and Science,Architectural Leagueなどの会員でもあった。61年ニューヨークのロングアイランドにアトリエを構え、85年にはクィーンズ区ロングアイランドシティに「イサム・ノグチ・ガーデン・ミュージアム」を完成。マンハッタン・イースートサイドの自宅マンションから同館へ通い、同館と香川県木田郡牟札町に設けたアトリエを拠点に世界を飛び回る多忙な生活を送った。当初、その活動は日米の中間で定位置を確保できなかったが、終戦直後ニューヨーク近代美術館で行なわれた「14人のアメリカ人展」に選ばれ世界的に名を知られるようになり、86年のヴェネツィア・ビエンナーレにはアメリカを代表して出品。68年ホイットニー美術館で回顧展、80年には同美術館50周年記念イサム・ノグチ展を開催している。東西両洋を融合させた作品は「三次元に書かれた書」とも評され、晩年の石彫は自然の性質を生かし枯淡の妙味を示した。代表作は上記のほか、広島の平和大橋、イスラエルのエルサレム国立美術館(60-65年)、メキシコ市の浮き彫り記念碑(35-36年)などがあり、著書に『イサム・ノグチ ある彫刻家の世界』(69年)がある。86年第2回京都賞精神科学・表現芸術部門賞、88年春の叙勲で勲三等瑞宝章、87年レーガン大統領より国民芸術勲章を受賞している。88年12月初めよりイタリアのティエトラ・サンタ市のアトリエで制作し、ニューヨークに戻った16日、疲労による肺炎のためニューヨーク大学病院に入院。23日から悪化し集中治療を受けていた。没後89年2月大阪ガレリア・アッカでブロンズによる新作展が開催された。晩年はマンハッタンのマンションに一人住まいだったが、東京に実弟の写真家野口ミチオ、アメリカ・ニューメキシコ州サンタフェに妹のアイリス・スピンデンがいる。
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