本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





矢崎虎夫

没年月日:1988/09/24

日本陶彫会副会長の彫刻家矢崎虎夫は、9月24日午前2時45分、胸部動脈りゅう破裂のため東京都小平市の自宅で死去した。享年84。明治37(1904)年7月25日、長野県茅野市に生まれ、大正12(1923)年諏訪中学校を卒業して上京、平櫛田中に師事する。昭和4年日本美術院展に初入選。5年第17回同展に「雷鳥」を出品する。6年東京美術学校彫刻科を卒業。9年日本美術院展に「小諸の母」を出品して試作賞受賞。戦後も院展に出品し、28年第38回展に「若き髪」を出品して佳作(白寿賞)、29年には「浴光立女」で、34年には「立女習作」で奨励賞(白寿賞)を受賞する。39年渡欧しオシップ・ザッキンに師事。41年日府展に「雷電像」を出品して文部大臣賞受賞。55年第1回高村光太郎大賞展に「サリーを着た女」を出品して優秀賞、57年同展には「阿修羅」、59年同展には「やまなみ」を出品して同じく優秀賞を受ける。木彫を中心にブロンズ、石膏など多様な素材を使い、仏典や歴史に取材した題材を多く手がける。受賞作のほかに、パリ・バンセンヌ公園の「雲水群像」、川崎大師の「釈迦像」、諏訪湖の「八重垣姫像」、長野市の「大観音像」などの代表作がある。

高藤鎮夫

没年月日:1988/09/10

日展会員の彫刻家高藤鎮夫は、急性出血性胃カイヨウのため、9月10日午前3時55分名古屋市千種区の市立東市民病院で死去した。享年78。明治43(1910)年7月1日愛知県名古屋市生まれ、本名同じ。昭和6年加藤顕清に師事し、昭和15年紀元2600年奉祝展に「女立像」が初入選する。以後新文展に連年出品し、戦後も日展に第1回より出品。29年第10回日展「抵抗」、33年第1回新日展「脱衣」がともに特選となり、34年同第2回に「無風」を無鑑査出品する。翌36年より3年間委嘱出品したのち、38年同第6回で審査員をつとめ、39年日展会員となる。47年第4回改組日展でも審査員をつとめ、63年同第20回に遺作「なぎさ」が出陳された。日展を中心に、日本彫塑会、MC彫塑家集団などでも活動した。主要作品には、このほか40年「健」、42年「光と線」などがある。 新文展・日展出品略歴昭和15年紀元2600年奉祝展 女立像昭和16年第4回新文展 女立像第二昭和17年第5回新文展 女立像第三昭和18年第6回新文展 振起昭和21年第1回日展 腰掛けた女昭和21年第2回日展 希望昭和22年第3回日展 豊秋昭和23年第4回日展 若い女昭和24年第5回日展 若い女(C)昭和25年第6回日展 若い女(D)昭和27年第8回日展 新晴昭和28年第9回日展 萠昭和29年第10回日展 抵抗(特選)昭和31年第12回日展 伸展昭和33年第1回新日展 脱衣(特選)昭和34年第2回新日展 無風(無鑑査)昭和35年第3回新日展 青春讃(委嘱)昭和36年第4回新日展 ある日若く(委嘱)昭和37年第5回新日展 珠(委嘱)昭和38年第6回新日展 陽(審査員)昭和39年第7回新日展 伊勢湾(会員)昭和40年第8回新日展 のぞみ昭和41年第9回新日展 光昭和42年第10回新日展 道程昭和43年第11回新日展 憩う昭和44年第1回改組日展 花ある道昭和45年第2回改組日展 念昭和46年第3回改組日展 心昭和47年第4回改組日展 黙(審査員)昭和48年第5回改組日展 常昭和49年第6回改組日展 顔昭和50年第7回改組日展 はたち昭和51年第8回改組日展 大地昭和52年第9回改組日展 座(77-N)昭和53年第10回改組日展 展昭和54年第11回改組日展 立女昭和55年第12回改組日展 捧ぐ昭和56年第13回改組日展 気構え昭和57年第14回改組日展 粧意昭和58年第15回改組日展 仰ぐ昭和59年第16回改組日展 遥か昭和60年第17回改組日展 若者昭和61年第18回改組日展 立てひざの女昭和62年第19回改組日展 佇む昭和63年第20回改組日展 なぎさ(遺作)

森大造

没年月日:1988/08/05

彫刻家集団創型会創立同人の彫刻家森大造は、8月5日心不全のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年88。明治33年(1900)4月15日滋賀県阪田郡に生まれる。昭和2年東京美術学校彫刻科を卒業。同6年第12回帝展に木彫「うらら」で初入選し、以後戦前の官展出品作に「工場の午后」(木彫、第15回帝展特選)、「若き建男」(昭和11年文展招待展)、「海束之正気」(セメント、第4回新文展)などがある。また、新文展発足とともに無鑑査となった。戦後は同25年第6回日展に「不動明王」を出品したが、翌年同志とともに創型会を創立し第1回展に「竜形地蔵」を発表、以後同展に制作発表を行うとともに、同29年には仏教美術協会を組織した。木彫を主とし、後半期は仏教的題材を多く手がけた。

木下繁

没年月日:1988/08/04

日本芸術院会員の彫刻家木下繁は、8月4日午前11時50分、肝不全のため東京都新宿区の社会保険中央総合病院で死去した。享年80。明治41(1908)年4月25日、和歌山県布田郡に生まれる。昭和3(1928)年東京美術学校彫刻科に入学し建畠大夢に師事し、のち清水多嘉示に師事する。在学中の5年第11回帝展に「女の顔」で初入選。8年東美校を卒業し研究科に進学、10年に研究科を修了する。14年第3回新文展に「れいめい」を出品して特選、22年第3回日展出品作「裸婦」、26年第7回日展出品作「裸婦」でも特選を受賞し、以後たびたび日展審査員をつとめる。44年第1回改組日展に「裸婦」を出品して文部大臣賞、48年第5回日展に「裸婦」を出品して48年度日本芸術院賞を受賞し、52年日本芸術院会員となる。塑像を得意とし、裸婦を好んで制作する。39年より46年まで白色セメント野外彫刻展に出品する。47年より武蔵野美術大学教授をつとめ、56年同名誉教授となった。また、53年より日展常務理事、日本彫刻会常務理事を務めた。 帝展・新文展・日展出品歴昭和5年第11回帝展「女の顔」、6年(12回)「髪」、7年(13回)「A Purple Maiden」、8年(14回)「光に立ちて」、9年(15回)「水のほとり」、11年(文部省展覧会)「生」、12年(第1回新文展)「空のふかみ」、13年(2回)「さわやか」(特選)、14年(3回)「れいめい」(特選)、16年(4回)不出品、17年(5回)「習作」、18年(6回)不出品、21年(第1、2回日展)不出品、22年(3回)「裸婦」(特選)、23年(4回)「裸婦」、24年(5回)「裸婦」、25年(6回)「裸婦」、26年(7回)「裸婦」(特選)、27年(8回)「裸婦」、28年(9回)「裸婦」、29年(10回)「裸婦」、30年(11回)「腰かける女」、31年(12回)「裸婦」、32年(13回)「裸婦」、33年(第1回社団法人日展)「裸婦」、34年(2回)「裸婦」、35年(3回)「裸婦」、36年(4回)「裸婦」、37年(5回)「裸婦」、38年(6回)「裸婦」、39年(7回)「裸婦」、40年(8回)「裸婦」、41年(9回)「裸婦」、42年(10回)「裸婦」、43年(11回)「裸婦」、44年(第1回改組日展)「裸婦」、(文部大臣賞)、45年(2回)「裸婦」、46年(3回)「裸婦」、47年(4回)「裸婦」、48年(5回)「裸婦」、49年(6回)「裸婦」、50年(7回)「裸婦」、51年(8回)「裸婦」、52年(9回)「裸婦」、53年(10回)「裸婦」、54年(11回)「裸婦」、55年(12回)「裸婦」、56年(13回)「裸婦」、57年(14回)「裸婦」、58年(15回)「THE PREVAILING WESTER LIES」、59年(16回)「東風」、60年(17回)「腰かけた女」、61年(18回)「おんな」、62年(19回)「おんな2」

澤田政廣

没年月日:1988/05/01

木彫界の長老澤田政廣は、5月1日午後11時41分、急性肺炎のため東京都目黒区の本田病院で死去した。享年93。明治27(1894)年8月22日、静岡県熱海市に生まれる。本名寅吉。生家は製材業を営む。大正2(1913)年静岡県立韮山中学を中退し画家を志すが両親に反対され、翌年、遠縁にあたる木彫家山本瑞雲をたよって上京、その内弟子となる。同7年太平洋画会研究所に入り彫刻を学ぶ。10年第3回帝展に「人魚」を出品して初入選、翌年第4回展には「沃土」を出品。13年第5回帝展に「銀河の夢」を出品して特選を受賞する。同年東京美術学校彫刻別科に入学し朝倉文夫に師事。15年同校を卒業する。昭和2(1927)年第8回帝展に「白日の夢」を出品して特選受賞。翌3年「七姫」で、同4年「白鳳」で帝展3回連続特選となる。6年、日本木彫会が結成され、同会会員となる。帝展改組後も新文展、続いて日展に出品し、27年前年の第7回日展出品作「五木之精」で芸能選奨文部大臣賞、翌28年には第8回日展出品作「三華」で日本芸術院賞を受賞。33年日展評議員、37年日展理事となる。また、同年日本芸術院会員となる。48年文化功労者として顕彰され、54年文化勲章を受章する。ブロンズ彫刻隆盛の時期に、木彫による新方向を示して注目され、仏像、古代神話にもとづく神像、人物像を多く制作する。巨大な一木からノミ跡を残して彫り出す技法を多く用い、大らかで浪漫的な作風を示した。58年新潟県糸魚川市に谷村美術館(澤田政廣作品展示館)が設立され、62年熱海市に同市立澤田政廣記念館が開設された。 略年譜明治27(1894) 8月22日、静岡県熱海町に父澤田小兵衛(製材業)、母とくの三男として生まれる。大正2(1913) 静岡県立韮山中学校中退。画家を志したが両親の反対にあい断念。上京して遠縁に当る木彫家山本瑞雲宅に内弟子として入る。大正7(1918) 太平洋画会研究所に入る。神田台所町に次兄と共に住む。大正10(1921) 第3回帝展「人魚」初入選。大正11(1922) 第4回帝展「沃土」出品。大正12(1923) 11月、矢下とみと結婚。大正13(1924) 第5回帝展「銀河の夢」特選。東京美術学校彫刻別科入学。大正14(1925) 第6回帝展「太陽に向って」出品。大正15(1926) 第7回帝展「影」出品。東京美術学校彫刻別科卒業。昭和2(1927) 第8回帝展「白日の夢」出品。昭和3(1928) 第9回帝展「七姫」特選。帝展無鑑査に推挙される。昭和4(1929) 第10回帝展「白鳳」特選。昭和5(1930) 第11回帝展「伊呂古の宮」出品。昭和6(1931) 第12回帝展「白夜飛星」出品。同審査員をつとめる。日本木彫会の結成に参加し同会会員となる。昭和7(1932) 第13回帝展「華炎」出品。日本木彫会「吉祥天」出品。昭和8(1933) 第14回帝展「春の女神」出品。昭和9(1934) 第15回帝展「白光」出品。同審査員をつとめる。昭和10(1935) 帝国美術院改組に際し、参与に推挙される。昭和11(1936) 文部省展覧会「光明仏身」「善魔魚身」出品。昭和12(1937) 第1回新文展「火星鳥身」出品。同審査員をつとめる。昭和13(1938) 第2回新文展「護持結身」出品。昭和14(1939) 第3回新文展「聖観世音菩薩」出品。日本木彫会「春風」出品。昭和15(1940) 5月、三木宗策らと共に正統木彫家協会を創立し第1回展に「紅衣笛人」出品。昭和16(1941) 第4回新文展「神通」出品。昭和18(1943) 第6回新文展「救世太子」出品。昭和19(1944) 第7回新文展「天彦」出品。昭和21(1946) 第1回日展「うづめの命」、第2回日展「赤童子」出品。両展とも審査員をつとめる。昭和22(1947) 第3回日展「降魔」出品。昭和23(1948) 第4回日展「男習作」出品。昭和24(1949) 第5回日展「釈迦誕生」出品。昭和25(1950) 第6回日展「十一面観音」出品。同審査員をつとめ、日展参事となる。昭和26(1951) 第7回日展「五木の精」文部大臣賞。昭和27(1952) 第8回日展「三華」出品。昭和28(1953) 前年の日展出品作「三華」で日本芸術院賞受賞。第9回日展「愛子母」出品。昭和29(1954) 第10回日展「母神」出品。昭和30(1955) 第11回日展「大聖不動明王」出品。昭和31(1956) 第12回日展「黄泉のしこめ」出品。号を晴廣から政廣へと改める。昭和32(1957) 第13回日展「国立」出品。日本橋高島屋で個展。昭和33(1958) 第1回社団法人日展「レダ」出品。同評議員となる。昭和34(1959) 第2回社団法人日展「曼珠沙華」、日本国際美術展「海に立つおとたちばな姫」出品。日本橋高島屋で個展。昭和35(1960) 第3回社団法人日展「蒼穹」出品。昭和36(1961) 第4回社団法人日展「魚を持つ女」出品。明治書房より『澤田政廣作品集』刊行。昭和37(1962) 日本芸術院会員、日展理事となる。第5回社団法人日展「炎神を生むイザナミノ命」出品。昭和38(1963) 第6回社団法人日展「隠者」出品。昭和39(1964) 第7回社団法人日展「このはなさくや姫」出品。昭和40(1965) 第8回社団法人日展「稜風」出品。日展常務理事となる。昭和41(1966) 第9回社団法人日展「救世に立ちあがる釈迦」出品。昭和42(1967) 第10回社団法人日展「蝶と遊ぶ」出品。明治書房より『彫刻家のアトリエから–澤田政廣リトグラフ集』刊行。昭和43(1968) 高野山金堂金剛王菩薩完成。第11回社団法人日展「白夢におそわれる稲田姫」出品。昭和44(1969) 第1回改組日展「人魚」出品。明治書房より『みほとけを刻んで』刊行。昭和45(1970) 第2回改組日展「長島選手」出品。名古屋松坂屋にて個展。昭和46(1971) 第3回改組日展「笛」出品。日展顧問となる。3月台湾旅行。三越にて個展。昭和49(1974) 第6回改組日展「出家」出品。昭和50(1975) 第7回改組日展「不動明王」出品。昭和51(1976) 第8回改組日展「レダ」出品。昭和52(1977) 第9回改組日展「天人」出品。昭和53(1978) 第10回改組日展「釈迦誕生」出品。昭和54(1979) 第11回改組日展「彌勒菩薩」出品。昭和55(1980) 第12回改組日展「弥勒菩薩」出品。昭和56(1981) 第13回改組日展「十一面観音」出品。昭和57(1982) 第14回改組日展「金剛王菩薩」出品。昭和58(1983) 第15回改組日展「蓮華」出品。昭和59(1984) 第16回改組日展「母子像」出品。昭和60(1985) 第17回改組日展「釈迦三尊仏」出品。昭和61(1986) 第18回改組日展「観世音菩薩」出品。昭和62(1987) 第19回改組日展「大聖不動明王」出品。

新井喜惣次

没年月日:1988/01/28

スポーツに取材した人物像で知られる彫刻家新井喜惣次は、4月7日午後2時18分、じん不全のため東京都豊島区の長汐病院で死去した。享年95。明治26(1893)年3月12日、栃木県足利市に生まれる。大正5(1916)年東京府豊島師範学校を卒業し、昭和3(1928)年東京美術学校彫刻科選科に入学。のち本科に転科し、8年同校本科を卒業。11年同研究科を修了する。朝倉文夫に師事し、朝倉塾展に出品を続けるほか、昭和9年第15回帝展に「槍投」で初入選。12年第8回国際美術教育会議に日本側委員として出席するために渡仏する。ひき続きパリで彫刻を研究し、欧米を巡遊して13年に帰国する。戦前は構造社展にも出品。戦後は21年の第1回展から日展に出品し、24年第5回展出品作「鉄鎚投」、36年第4回新日展出品作「タックル」など躍動する肉体の一瞬をとらえたブロンズ像を多く制作する。24年より東京学芸大学助教授となり、26年同教授となって31年停年退官するまで長く後進の指導に当たる。その後も昭和学院短期大学教授、東京成徳短期大学教授を歴任し、54年東京成徳短大名誉教授となった。雅号として孤巌の号を用いた。

冨永朝堂

没年月日:1987/12/12

日展会員の彫刻家冨永朝堂は、12月12日午前10時、肺炎のため福岡市の三信会原病院で死去した。享年90。明治30(1897)年8月4日、福岡県に生まれ、本名良三郎。大正4年上京し、山崎朝雲に師事、木彫を学ぶ。8年日本美術協会展に初入選し、昭和4年より同会審査員をつとめた。また大正13年第5回帝展に「雪山の女」が初入選して以後、帝展に出品し、昭和7年第13回帝展「五比賣命」、翌8年第14回帝展「踊女」がともに特選を受賞。9年第15回帝展に「女子円盤」を無鑑査出品した。その後、新文展、戦後日展に出品。25年第6回日展で審査員をつとめ、33年日展会員となっている。戦後は郷里福岡に住み、福岡県文化財調査委員をつとめたほか、地域文化の向上にも尽力。50年西日本文化賞、51年福岡市文化賞を受賞し、59年地域文化功労者に選ばれた。代表作に、「谷風」(昭和15年ニューヨーク万博)、三部作「歩く」「歩く」「生れる」などがあり、戦後は抽象的感覚を生かした作風を展開した。

佐藤助雄

没年月日:1987/10/19

日展監事の彫刻家佐藤助雄は、10月19日午後7時15分頃、東急世田谷線宮坂第2号踏切で轢死した。享年68。大正8年(1919)年4月22日山形市に生まれる。仏師だった父に木彫を学び、昭和11年上京後、後藤良の内弟子となり同じく木彫を学んだ。14年日本美術協会展で「ことり」が銅賞を受賞。次いで16年第4回新文展に「後庭菜果」が初入選し、18年第6回新文展で「従軍看護婦」が特選を受賞、政府買上となる。戦後、塑像に転じ、23年山形県展で「女の顔」が市長賞、27年「男の首」が日本彫塑家クラブ奨励賞を受賞。29年以後、北村西望、富永直樹らに師事する。30年第11回日展「布を纒ふ女」、翌31年同第12回「清立」がともに特選を受賞。34年日展会員、39年評議員となり、しばしば審査員をつとめている。51年第8回改組日展「地と風」は文部大臣賞となり、54年の第3回グループ絆展出品作「振向く」により翌年日本芸術院賞を受賞、56年日展理事、62年同監事となった。この間、37年ヨーロッパに旅行し、また日本彫刻会にも出品、51年同会委員、55年理事、57年委員長となっている。おおらかで詩的な人物像を得意としていた。

松久朋琳

没年月日:1987/09/01

京仏師の第一人者松久朋琳は、9月1日午後3時43分腹部動脈リゅうのため京都府宇治市の大和六地蔵病院で死去した。享年86。明治34(1901)年10月22日京都市の守護職の家に生まれる。本名茂次。4歳で京仏師松久家の養子となり10歳の頃から仏像制作を始める。昭和19(1944)年京都市佐京区の大悲山峰定寺三滝上人像を制作したのをはじめ、30年代には大阪四天王寺仁王像、比叡山延暦寺大日如来像、弥勒菩薩像、十一面観音像などの代表作を次々と制作。同37年京都仏像彫刻研究所を設立して後進の指導に当たる。38年大阪四天王寺より「大仏師」の称号を受け、54年には延暦寺より「法橋大仏師」の称号を受ける。動感のある仏像を得意とし、51年のアメリカ建国記念に際しニューヨークに建立された大菩薩禅堂金剛寺の本尊菩薩像をも手がけている。自ら主宰する研究所のほか竜谷大学名誉教授として仏教美術を講ずるなど教育面にも尽くし、『仏教彫刻のすすめ』『京仏師六十年』などを著した。

岩野勇三

没年月日:1987/08/25

東京造形大学教授、新制作協会会員の彫刻家岩野勇三は、8月25日午前11時30分、肺ガンのため東京都千代田区の九段坂病院で死去した。享年56。昭和6(1931)年7月9日新潟県高田市に生まれる。同24年新潟県立高田高校在学中に佐藤忠良にデッサンを学び始め、25年同校を卒業して上京。ひき続き佐藤忠良に師事するうち彫刻家を志し30年第19回新制作展に「タケダ君の首」「立つ女」で初入選。35年同会会員となる。38年第1回宇部野外彫刻コンクールに入選。41年東京造形大学建学と同時に彫刻科の教員となる(42年度助教授、54年度教授就任)。44年第4回昭和会展で林武賞受賞。48、50年、彫刻の森美術館大賞展に指名出品。51年上越市庁舎前広場に『おまんた』を設置。53年横浜市羽衣町広場に『笹と少年』を、55年第一勧業銀行本店に『まつり』を設置する。55年第1回高村光太郎大賞展優秀賞、61年裸婦像「なほ」で第17回中原悌二郎賞を受賞する。一貫して堅実な写実的追求の姿勢を貫き、人物をモティーフとして内面性のにじみ出る作風を示す。初期には「母」「待合室」などの、風俗的主題の着衣像を主に制作し、のち裸婦を多く手がけるようになり「くみ」「あい」「なほ」など少女の面影の残る、若く清新な生命感ある作品を制作した。著書に『彫塑を始める人へ』(アトリエ出版社)、『彫塑』(日貿出版社)がある。63年8月東京、現代彫刻センターで「追悼 岩野勇三」展が開かれた。

高田博厚

没年月日:1987/06/17

求道的制作で知られた彫刻界の長老、高田博厚は6月17日午前1時5分、心不全のため神奈川県鎌倉市の鈴木病院で死去した。享年86。明治33(1900)年8月19日石川県七尾市に生まれ、父の郷里福井で育ち福井中学を卒業。大正7(1918)年絵を学ぶために上京し、高村光太郎、岸田劉生を知る。同8年東京外国語学校イタリア語科に入学。光太郎との交遊からロダンの作品にひかれて彫刻を試みるようになり、同10年東京外国語学校を中退。翌年コンディビの『ミケランジェロ伝』を翻訳し出版。昭和2(1927)年光太郎に促されて大調和展に初出品。同年光太郎らと東京府下牟礼(現・三鷹市)に「新しき共産村」を建設するが失敗。同4年国画会展に参加し「トルソ」など10点を出品するが、「無産者新聞」の記者らをかくまったとして逮捕され、同6年単身パリに渡る。ルオー、ロマン・ロラン、マイヨールらと交遊し、サロン・ザンデパンダンに出品。同10年国画会会員となる。12年パリ日本美術家協会を設立し、第二次世界大戦中も滞欧して、15年毎日新聞嘱託となり、パリ、ヴィシー特派員をつとめ、また、パリのレジスタンス運動を支援する。滞欧中はロダン、マイヨールらを研究して西欧彫刻界の動向を評論や自らの制作を通じて紹介し、日本に新風を吹き込んだ。同32年、28年ぶりに帰国するに際し滞欧作を全てこわし、東京にアトリエを構えて制作を再開する。37年新制作協会会員となったほか、日本美術家連盟委員、日本ペンクラブ理事をつとめ、39年には東京芸術大学講師をつとめる。41年鎌倉に転居。明治44年に洗礼を受けてクリスチャンとなり、インド独立の父マハトマ・ガンジーと滞欧中に出会ってから交友を深め、その救ライ事業に共鳴して無償でガンジー像を制作するなど、求道の人として知られた。代表作にロマン・ロラン、ルオー、川端康成、武者小路実篤らの肖像があり、自己を追求しつつものを存在させていくことの安らかさを制作の意義とし、真摯な写実にもとづく知的で詩情ある作風を示した。著者に『人間の風景』(朝日新聞社、昭和4)、『薔薇窓から』(筑摩書房、昭和47)などがある。

北村西望

没年月日:1987/03/04

長崎の平和祈念像などで知られる文化勲章受章者の彫刻家北村西望は、3月4日午前8時58分、心不全のため東京都武蔵野市の自宅で死去した。享年102。明治17(1884)年12月16日長崎県南高来郡に生まれる。長崎師範学校に進むが、病気のため中退し、36年京都市立美術工芸学校彫刻科に入学。40年同校を首席で卒業し、同年東京美術学校彫刻科に入学、同期に朝倉文夫、建畠大夢がいた。45年にこちらも首席で卒業する。この間、在学中の41年第2回文展に「憤闘」が初入選し、42年第3回文展「雄風」、44年同第5回「壮者」はともに褒状となった。さらに、大正4年第9回文展で「怒涛」が二等賞、翌5年同第10回「晩鐘」は特選を受賞、6年第11回文展に「光にうたれた悪魔」を無鑑査出品する。帝展では大正8年第1回展より審査員をつとめ、14年には弱冠40歳で帝国美術院会員となった。また大正10年東京美術学校教授となり、昭和19年まで後進の指導にあたった。このほか、大正8年曠原社を組織し、同11年西ケ原彫刻研究所を開設、昭和8年には東邦彫塑院の顧問となるなど、彫刻研究に没頭する。戦前は「寺内元帥騎馬像(寺内正毅)」(大正11年)、「児玉源太郎大将騎馬像」(昭和13年)、「橘中佐」「山県有朋元帥騎馬像」(昭和5年)など、勇壮な男性像で戦意高揚を意図した作品を手がけるが、戦後は平和や自由、宗教などを題材に制作。29年第10回日展「快傑日蓮上人」や、4年がかりで制作した長崎の「平和祈念像」を30年に完成する。このほかにも、広島市民のための「飛躍」など多くの平和祈念像を制作した。また戦後は日展に出品、44年より49年まで日展会長をつとめ、49年日展名誉会長となったほか、日本彫塑会にも出品し、37年名誉会長となっている。22年日本芸術院会員となり、33年文化勲章を受章、文化功労者となる。また28年武蔵野市の都立井の頭公園内にアトリエを建築、東京都にその後の寄贈分も合わせ計約500点の作品を寄贈し、作品は井の頭自然文化園の彫刻館に陳列される。37年武蔵野市名誉市民、47年長崎県島原市名誉市民、55年名誉都民となった。61年12月に風邪をひいてから静養していたが、62年1月に完成した板橋区役所新庁舎前の「平和を祈る」が絶作となった。

山本豊市

没年月日:1987/02/02

文化功労者、東京芸術大学名誉教授の彫刻家山本豊市は、2月2日午後7時25分、肺炎のため東京都新宿区の自宅で死去した。享年87。明治32(1899)年10月19日東京新宿に生まれる。本名豊。錦成中学校在学中に戸張孤雁を知り、大正6年卒業後、孤雁に師事する。一方、同7年より3年間太平洋画会研究所でデッサンを学んだ。10年第8回再興院展に「胴」が初入選し、12年日本美術院院友、昭和7年同人となる。この間、大正13年フランスに渡り、マイヨールに師事。昭和3年帰国し、マイヨール彫刻を日本に紹介する。5年より日本大学で講師として教えた。7年頃、京都や奈良に旅行し仏像に接したのを契機に、ブロンズや石膏などの材料不足もあり10年頃より本格的に乾漆技法を研究。11年の第1回改組帝展に乾漆像「岩戸神楽」を出品する。以後、乾漆の技法を現代彫刻に導入した独特の作風を展開した。戦後院展に出品する一方、25年より新樹会に参加、第4回新樹会展「立女」「群像」などを出品する。また26年第1回サンパウロ・ビエンナーレ、31年第28回ヴェネツィア・ビエンナーレなどにも出品し、29年前年作の「頭像」「エチュード」により第5回毎日美術賞を受賞。33年には、前年ブリヂストン美術館で開催した個展出品作により芸術選奨文部大臣賞を受賞した。35年大船観音を制作。36年日本美術院彫刻部が解散し、新たに結成された彫刻家集団SASに参加、同会が38年国画会と合同するに及んで、国画会会員となり、50年退会まで同会に出品した。この間、22年東京美術学校講師、28年東京芸術大学教授となり後進の指導にあたる。42年停年退官後、同大学名誉教授となるとともに、愛知県立芸術大学で教授として教えた。乾漆の質感と流麗な形態や動感を持つ作品を制作、58年には文化功労者となっている。

井手則雄

没年月日:1986/01/03

元宮城教育大学教授の彫刻家、詩人、井手則雄は、制作と静養のために滞在中であった福島県双葉郡富岡町小浜の小浜海岸で不慮の事故のため1月3日午後2時ころ死去した。享年69。大正5(1916)年8月25日、長崎県北松浦郡に生まれる。則雄とも号す。昭和9年東京開成中学校を卒業し、同年東京美術学校彫刻科塑造部に入学。14年同校を卒業して同研究科に進学する。16年同科を修了して同校セメント美術研究室助手となる。この間、同12年第24回二科展に「窄き門」で初入選。翌13年より構造社展に出品し、14年第12回同展に「亡友Wへの供奉」を出品して研究賞受賞、翌年も同賞を受賞して会友に推され、16年にも研究賞を受賞する。17年美術文化協会に参加。戦後は21年日本美術会の創立に参加。22年には前衛美術会の創立に参加する。27年、戦時中海軍兵として綴った詩集『葦を焚く夜』を出版。34年より鉄彫刻の制作を始める。48年より56年まで宮城教育大学美術科教授をつとめ、美術教育にたずさわる一方、制作、評論、詩作と多岐にわたって活動する。著書に『美術のみかた』(昭和35年 酒井書店)、『西洋の美術』(38年 筑摩書房)、『現代彫刻入門』(44年 造形社)、詩集『終らないもの』(45年 昭森社)などがある。

橋本高昇

没年月日:1985/11/29

日展参与の木彫家橋本高昇は、11月29日午後5時56分、肺炎のため東京都杉並区の杉並病院で死去した。享年90。明治28(1895)年9月9日福島県二本松市に生まれ、本名留治。高等小学校卒業後上京し、大正11年木彫家三木宗策に入門する。14年第6回帝展に「春の日を受けて」が初入選、昭和2年第8回帝展後連年入選し、鹿や牛を好んで題材とした作品を多く発表する。同7年第13回帝展で「雄牛」が特選を受賞、11年文展招待展出品後、新文展に出品し、18年第6回「大道宣明」などを発表する。また16年正統木彫会展に「心音」を出品し、18年松戸市万満寺蔵「聖観音」を制作している。戦後28年第9回日展で「牡鹿」が特選・朝倉賞を受賞し、翌29年第10回日展でも「緑蔭」が特選となる。30年日展依嘱、31年・37年と審査員をつとめ、33年日展会員、39年評議員、45年参与となった。53年第10回改組日展「牡鹿」を最後に、日展には出品していない。 大正14年第6回帝展「春の日を受けて」、昭和2年同第8回「鹿」、3年同第9回「双鹿」、4年第10回「牡牛」、5年第11回「聖牛」、6年第12回「母性」、7年第13回「雄牛」(特選)、8年第14回「春光」、9年第15回「牡鹿」、11年文展招待展「親子の鹿」、13年第2回新文展「大和の利劍」、14年同第3回「三人の兄弟」、16年第4回「澄心」、18年第6回「大道宣明」、19年戦時特別展「闘魂」、21年第2回日展「鯉」、22年同第3回「観音」、23年第4回「神鹿」、24年第5回「関大僧正」、26年第7回「母牛」、27年第8回「春暁」、28年第9回「牡鹿」(特選・朝倉賞)、29年第10回「緑蔭」(特選・無鑑査)、30年第11回「牡鹿鳴く」(依嘱)、31年第12回「鹿」(審査員)、33年第1回新日展「野性」(会員となる)、34年第2回「丘」、35年第3回「コリー」、36年第4回「かもしか」、37年第5回「猛ける」(審査員)、38年第6回「求道者」、39年第7回「なく」(評議員となる)、40年第8回「仔鹿」、41年第9回「山羊」、42年第10回「白夜」、43年第11回「躍」、44年第1回改組日展「双鹿」、45年第2回「馬」(参与となる)、46年第3回「鷹」、47年第4回「親鸞」、48年第5回「善無畏三蔵」、49年第6回「鵜」、50年第7回「靭生」、52年第9回「仔連れの鹿」、53年第10回「牡鹿」

中野素昂

没年月日:1985/10/18

日展会員の彫刻家中野素昂は、10月18日午前4時45分、肺炎のため東京都板橋区の常盤台病院で死去した。享年88。明治31(1898)年3月21日福岡県豊前市に生まれ、本名昂。東京美術学校彫刻科で関野聖雲、建畠大夢、水谷鉄也らに学び、大正15年卒業する。昭和3年第9回帝展に「立命」が初入選。7年日本美術協会展で「羽衣」が奨励賞が受賞し、16年第4回新文展に「思ひ」、18年同第6回展に「使命」を無鑑査出品する。戦後31年第12回日展に「水泳選手」を依嘱出品、以後依嘱出品し、39年第7回日展で審査員をつとめ、40年日展会員となる。この間36年豊島区新庁舎落成記念に「希望」を制作、39年には北九州合併記念として戸畑区若戸大橋公園に「大気」を制作した。人物を多くモチーフに、確実な写実力を示した。

昆野恒

没年月日:1985/05/03

日本の抽象彫刻の先駆をなし、独自の制作を続けた彫刻家昆野恒は5月3日午後1時33分、肺がんのため東京都世田谷区の関東中央病院で死去した。享年69。大正4(1915)年9月23日仙台市に生まれ、宮城県立仙台第二中学校を経て福岡高等学校文科乙類に入学。同校を中退して東京美術学校彫刻科塑造部を昭和14(1939)年に卒業する。朝倉文夫、北村西望らに師事。同23年自由美術家協会会員となる。同28年東京国立近代美術館で開かれた「抽象と幻想」展に「踊り」を出品して注目され、同30年同館主催の「19人の作家」展、同32年の「現代美術10年の傑作」展、同34年の「戦後の秀作」展に招待出品。同34年日本美術家連盟会員となる。同年秋自由美術家協会を退会。同43年渡欧しイタリア、スペイン、フランスを巡遊する。同30年以降、現代日本美術展、日本国際美術展、集団現代彫刻展に出品し、一時期現代日本彫刻展にも出品。初期の「踊り」のシリーズは人体の動きを鋭く観察し動勢を示す造型的要素を抽出する研究から生まれ、同29年作「生長の形態」などの代表作へつながる。同30年代中期から紙や木など素材の多様化が試みられ、40年代には動きのある柔軟で有機的な形態が多く見られる。50年代に入ると作風は柔らかみを残しながら幾何学的に整えられた形によって構成されるようになり、この時期の代表作に「さなぎのような形」、絶作となった仙台駅前広場のモニュメント「青葉の風」がある。日本美術家連盟においては、昭和47年より52年まで常任理事、同55年理事、57年委員をつとめた。自由美術展出品歴-第13回(昭和24年)「首」、14回「午後」、15回(同26年)「海」、16回「芽」「立像」、17回「踊り-遊び」「海」「海-小舟」「雨-マリオネット」、18回「生長の形態1」「生長の形態2」「横たわる形態」、19回「試作」、20回(同31年)「いるか」「風に向う」、21回「おどりNo.14」、22回「まつり」「ものがたり」、23回「白いトルソ」

菊池一雄

没年月日:1985/04/30

彫刻家で東京芸術大学名誉教授、新制作協会会員の菊池一雄は、4月30日心不全のため東京都港区の前田外科病院で死去した。享年76。戦後の具象彫刻を代表する作家の一人であり、その流麗なモデリングによる作風で知られた菊池は、明治41(1908)年5月3日京都市上京区に日本画家菊池契月の長男として生まれた。第一高等学校文科在学中の昭和3年、藤川勇造について彫刻を学び、小林万吾の同舟社に通い石膏デッサンを学ぶ。翌年には創設された二科技塾で塑像をはじめた。同5年17回二科展に「トルソ」「カリスト君」が初入選。同7年東京大学文学部美学美術史科を卒業する。二科展への出品を続け、同9年21回二科展に「A子像」で特待を受賞するが、翌10年故藤川勇造門下で結成された新彫塑協会に早川巍一郎らと参加し、翌年の1回展に「ミューズの女」などを発表する。同11年渡欧、パリでシャルル・デスピオ、ロベール・ブレリックに師事、翌年のサロン・ドートンヌ展に「花束」が入選する。同14年帰国、翌15年5回新制作派協会展に滞欧作「ギリシャの男」「裸婦像」など4点を招待出品し、同会会員となる。同20年京都に転じ、同22年京都市立美術専門学校彫刻科教授に就任する。同23年12回新制作派展に「青年像」を発表、翌24年同作で第1回毎日美術賞を受賞した。また、同24年刊行した著書『ロダン』で、翌25年度毎日出版文化賞を受ける。同27年から51年まで東京芸術大学教授をつとめ、退官後同名誉教授となる。この間、同30年に大作「自由の群像」(東京・千鳥ケ渕公園)を完成したのをはじめ、「原爆の子の群像」(同33年、広島平和公園)「坂本龍馬・中岡慎太郎」(同37年、京都円山公園)、「海の男たち」(同45年、神奈川県三浦半島観音崎)、「平和の群像-あけぼの-」(同58年、高松市中央公園)などの記念像を次々に制作した。一方、日本国際美術展、現代日本美術展へも同44年まで制作発表、同42年には9回アントワープ国際彫刻ビエンナーレ展に出品した。同51年神奈川県立近代美術館と京都市美術館で退官記念回顧展が開催される。同57年10回長野市野外彫刻賞を「転生」で受賞する。同58年には、創設された本郷新賞の運営委員、選考委員をつとめた。作品は他に「坐」(同39年)「アトリエの女王様」(同50年)などがあり、作品集に『菊池一雄』(同51年)がある。

黒田嘉治

没年月日:1984/12/12

日展参与の彫刻家黒田嘉治は、12月12日脳血栓のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年76。明治41(1908)年3月29日東京市浅草区に生まれ、東京中学校を経て昭和6年東京美術学校彫刻科塑造部を卒業。在学中の同4年第10回帝展に「立女」で初入選し、第12回「習作」、第15回「習作」で特選を受け、同8年帝展無鑑査となる。その後も官展に出品するとともに、同15年から戦後の同38年まで大須賀力と彫刻二人展を18回開催する。戦後は日展に出品した他、国立近代美術館主催「近代の彫刻展」(同28年)をはじめ、日本国際美術展(同32、34、38、40、42年)、現代日本美術展(同33、39、41、43年)、秀作美術展等にも出品。同33年日展評議員となり、翌34年改組第2回日展出品作「立つ女」で文部大臣賞を受賞した。同54年日展参与となる。主要作品は他に「靴下をはく女」(同36年改組第4回日展)、「立つ女」(同42年日本国際美術展)など。

竹林薫風

没年月日:1984/12/11

奈良一刀彫りの第一人者竹林薫風は、12月11日午前6時8分、脳出血のため奈良市内の県立奈良病院で死去した。享年81。明治36(1903)年7月10日、奈良市に生まれる。本名薫。大正14(1925)年、東京美術学校鋳金科教授であった沼田一雅(勇次郎)、および木彫家吉田芳明(芳造)に師事する。昭和3(1928)年第9回帝展に「禿鷹」を出品して初入選、以後新文展、戦後は日展に出品を続ける。動物を得意とし、写実的で均整のとれた形体と切れ味の良いのみ跡をいかした仕上げを特色とする。同43年皇居新宮殿の宮内庁雅楽部舞楽用大太鼓の鼓縁に鳳凰、竜を彫刻、同48年には大阪石切神社の八道将軍像を制作した。『奈良の一刀彫』(同53年刊)を著したほか、奈良工芸協会理事長、奈良木彫家協会会長をつとめ、古くからの伝統を持つ奈良一刀彫りの保存と発展につくした。 出品歴 帝展第9回「禿鷹」、10回(昭和4年)「駄鳥」、11回「鹿」、12回「鹿」、13回「軍鶏」、文展昭和11年「満州白鹿」、同第5回(同17年)「大東亜の指導者」、日展第3回(同22年)「暁」、4回「飛火野」、6回「若兎」、7回「飛ぶ鹿」、11回「軍鶏」、改組日展第2回(同34年)「朝日ケ丘」

to page top