本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





川村吾蔵

没年月日:1950/03/11

戦後マ元帥、アイケルバーカ中将など進駐軍高官の肖像を製作して注目された川村吾蔵は3月11日胃癌のため米海軍横須賀基地EMクラブ内のアトリエで死去した。享年66才。明治17年8月17日長野県に生れ36年県立上田中学卒業、翌37年美術研究学生として渡米し、以来米国を主として仏、英、伊、独にあること約40年、其の間、明治42年仏国に留学した際は巴里及びジヴアニーの知名の彫塑家ド・F・W・マクモニースの助手として、研究に精進し45年エコール・デ・ボザールに入学しては特待生となつた。作品としては恩師マクモニースと共同して製作した紐育市図書館前の噴水像や同じく市庁前の噴水像等紐育市の著名な記念像製作者として名をなし、大正6年以降にはクーリツヂ大統領胸像や故華頂宮博忠王殿下の胸像等知名の士の胸像製作の他、ホルスタインの模範乳牛牡牝一対製作以来牛馬の研究10ヶ年、作品は教育材料として全米の農科大学及び日、英、仏、独、カナダの農科大学に設置され、牛の彫塑の一人者として認められていた。かく欧米彫塑界では著名となつたが昭和15年帰朝故郷に引揚げ戦時中のこととて不遇のうちに終戦を迎えた。21年3月、第1回日展に「ミスター・ブロクター」を出品し、翌22年9月横須賀米海軍基地司令官デツカー少将の厚意により横須賀に移住、アトリエを貸与され、再起製作に励んだ。マツカーサー元帥、ア中将、デツカー少将等々進駐軍首脳のブロンスを次々と製作、最後に尾崎咢堂、ヘレンケラーの塑像製作半ばにして長逝した。

大国貞蔵

没年月日:1950/02/11

元帝展審査員大国貞蔵は2月11日脳溢血のため芦屋市の自宅で死去した。享年61才。明治23年大阪に生れ大正5年東京美術学校彫刻科を卒業、同年文展初入選以来終始官展に作品を発表し、その間大正9年第2回帝展に「生」が特選、翌年再特選、11年推薦となつた。同年東京平和博覧会彫刻部審査員となり、翌12年第5回帝展審査員を拝命、更に第6回にも審査員に重任され、彫塑界の重鎮として知られた。昭和4年より5年にかけ文部省より嘱託され外遊した。展覧会出品以外の主なる作品に極東選手権競技大会の優勝楯「勝者に栄光あれ」や大阪ビルデイング玄関上部の「少女と鷲」がある。戦後日展出品の「顔」が最終作となつた。大正12年関東大震災以来、関西にあり、大阪近辺の彫塑家の育成に貢献するところがあつた。

関野聖雲

没年月日:1947/10/28

日展審査員関野聖雲は10月28日、国立博物館講堂に於ける第3回日展審査報告会の際、第三部主任として報告中、卒倒不慮死去した。享年59才。名、金太郎、明治22年神奈川県に生れ、38年高村光雲に師事、44年東京美術学校卒業、大正10年母校に助教授として迎えられ、以来昭和19年7月10日退官まで木彫部主任教授として後進の指導に尽瘁した。一方、文展第9回以来毎回入選し、帝展第3回第4回特選となり、以後官展の審査員を勤むること数回、光雲直系の木彫家として高名であった。代表作に木彫「鴦崛摩」「吉祥天」「聖徳太子」などがあり、第3回日展出陳の「大和禅師像」が絶作となつた。

三木宗策

没年月日:1945/11/28

旧帝展、文展審査員、正統木彫家協会々員三木宗策は、昭和20年11月28日疎開先の福島県郡山市で没した。享年54歳。明治24年福島県に生れ、16歳の時上京して山本瑞雲の門に入り、木彫を学んだ。大正5年第10回文展に「ながれ」を出品して入選したのをはじめ、文、帝展に出品し、同14年第6回帝展出品の「不動」は特選となり、昭和2年帝展委員に選ばれ、同7年帝展審査員、同13年新文展審査員に挙げられた。この間、昭和6年内藤伸、沢田晴広等と日本木彫会を結成して毎年東京および大阪で展覧会を開催したが、同15年日本木彫会から分離して正統木彫家協会を起し、毎年展覧会を開いた。伝統的な木彫に写実的手法を加え、新作風を企てつつあつたが、中途に倒れたことは惜しまれる。略年譜明治24年 福島県郡山市に生る。明治39年 東京に出て山本瑞雲に師事し木彫を学ぶ。大正5年 第10回文展に「ながれ」初入選。大正6年 第11回文展に「美しき星の一つに」出品。大正7年 第12回文展に「若き日のなやみ」出品。大正9年 第2回帝展に「愛染」出品。大正10年 第3回帝展に「大風歌」出品。大正11年 第4回帝展に「日本武尊」出品。大正13年 第5回帝展に「威容抱慈」出品。大正14年 第6回帝展に「不動」出品、特選を受く。大正15年 第7回帝展に「降誕」無鑑査出品。昭和2年 帝展委員となる。第8回帝展に「かやのひめの神」無鑑査出品。昭和3年 第9回帝展に「円」無鑑査出品。昭和4年 第10回帝展に「西王母」無鑑査出品。昭和5年 第11回帝展に「矜羯羅童子」無鑑査出品。昭和6年 内藤伸、佐々木大樹、三国慶一、沢田晴広らと日本木彫会を結成す。第12回帝展に「万象授生」無鑑査出品。昭和7年 第13回帝展に審査員となり「制多伽童子」を出品。昭和8年 第14回帝展に「銀河惜乱」無鑑査出品。昭和9年 第15回帝展に「羅馬少年使節」無鑑査出品。昭和11年 文展に「丹花綻ぶ」を招待出品。昭和12年 第1回文展に「国威発揚」を招待出品。昭和13年 第2回文展に審査員となり「粧ひ」を出品。昭和14年 第3回文展に「空海」を招待出品。昭和15年 日本木彫会から分離し沢田晴広らと正統木彫家協会を設立し、毎年展覧会を開く。昭和13年 広島県瀬戸多島耕三寺に七観音を製作(昭和16年完成)。昭和19年 戦時特別展に「北条時宗像」を出品。昭和20年 福島県郡山市で永眠。

安藤照

没年月日:1945/05/25

文展審査員安藤照は5月25日渋谷区の自宅で戦災死した。享年54。明治25年鹿児島県に生れ、大正11年東京美術学校彫刻選科を卒業した。在学中第3回帝展に「K女」を出品してより、卒業の年第4回帝展に「婦」特選となり、引続き第5回無鑑査「肖像」「相」出品、第6回には「踊の構図」にて再度特選、第7回「大空に」にて帝国美術院賞を受け、爾来、帝展新文展の審査員をつとめ終始官展系作家として毎回注目すべき作品を発表すると共に東台彫塑会々員の新人として期待せられていた。一方昭和6年、美校同期卒業生と共に塊人社を結成、自宅をその事務所として活躍、新技巧をとり入れ、能動的彫刻家として斯界に認められていたが、著名作品諸共に悲壮の最後を遂げたことは惜しまれる。作品は生前の魁偉な風貌を映すかの如く重量感に富むスタイルを持つていた。官展出品作品は左の如くであるが、その他に昭和12年南州翁50年祭奉賛会の委嘱に依り、制作した鹿児島市山下町公会堂前の「西郷隆盛銅像」等がある。作品略年譜大正10年 第3回帝展「K女」大正11年 第4回帝展「婦」特選大正13年 第5回帝展「肖像」「相」無鑑査大正14年 第6回帝展「踊の構図」特選大正15年 第7回帝展「大空に」帝国美術院賞昭和2年 第8回帝展「ダンスの一部」委員昭和4年 第10回帝展「啓明」審査員昭和5年 第11回帝展「胸像」無鑑査昭和6年 第12回帝展「豊齢」無鑑査昭和7年 第13回帝展「胸像」無鑑査昭和8年 第14回帝展「日本犬ハチ」審査員昭和9年 第15回帝展「横臥像」無鑑査昭和11年 文展(招待展)「胸像」昭和12年 第1回文展「立像」審査員昭和13年 第2回文展「秋の作」審査員昭和14年 第3回文展「胸像」審査員昭和15年 二千六百年奉祝展「二つの対象に求めて」昭和16年 第4回文展「作」審査員昭和17年 第5回文展「心」審査員昭和18年 第6回文展「二六〇三年作」

日名子実三

没年月日:1945/04/25

国風彫塑会会員、日名子実三は4月15日脳膜出血により急逝。恰も茅ヶ崎の別宅で特攻隊の遺族に贈る額の制作中であつた。享年53。明治26年大分県北海部郡に生れ、大正7年東京美術学校彫塑科卒業、朝倉文夫に師事し、東台彫塑会の新人として嘱望せられていた。昭和4年外遊、昭和3年斎藤素巌等と構造社を創設、其の出品作に於て自ら応用彫塑への活路をも示範し、更に同志と共に帝展改組に当り第三部会を組織した。爾来昭和15年第三部会改称の国風彫塑会々員として今日に至つた。殊に記念碑、メダル等に特異の技を揮い、戦争中主として時局に取材したものを制作、彫塑家の新しい活動を示して注意をひいた。「上海陸戦隊表忠塔」等の代表作がある。作品略年譜大正8年 第1回帝展「晩春」大正9年 第2回帝展「廃墟」大正10年 第3回帝展「草昧の世」大正11年 第4回帝展「艶陽夢」大正13年 第5回帝展「踊」昭和8年 第14回帝展「椅子に凭る女」(無鑑査)昭和9年 第15回帝展「偵察」(無鑑査)昭和10年 第1回第三部会「宗麟像」昭和11年 第2回第三部会「野戦小景」「炊事当番」昭和12年 第3回第三部会「豊後時代」「第一線」「整備兵」昭和13年 第4回第三部会「難民帰る(楓橋のあたり)」「雨の特務兵」昭和14年 第5回第三部会「西湖畔」「座像」「雷」昭和15年 第6回第三部会「陸上日本」「八紘之基柱」(縮尺33分の1)」「航空表忠碑」「上海陸戦隊表忠塔」昭和16年 第7回国風彫塑会展「閑月居像」「韋駄天」

中谷宏運

没年月日:1945/01/21

文展無鑑査中谷宏運は1月21日動脈硬化症の為逝去した。享年56。氏は明治23年富山県に生れ、大正2年東京美術学校彫塑科を卒業、東京府立実科工業学校教諭となつたが、大正12年同校を退職、同14年第4回帝展に初入選し、第5回には「影」、8回には「ほとり」、9回には「姿」、11回には「竚立」、13回には「髪」、14回には「櫛けづる」等を出品した。その他成城学園の沢柳政太郎像、杵屋勝之助像、国分勘兵衛像、楽翁公像などがある。

長谷川栄作

没年月日:1944/10/06

文展審査員長谷川栄作は腎臓病の為10月6日逝去した。享年55。明治23年東京に生れ、15歳の時吉田芳明に師事、翌年から芳州と号し、東京彫工会、日本美術工会、日本美術協会等に出品した。明治40年、勧業博覧会において褒状をうけ、大正3年文展に入選以来、連年発表を続け、大正9年帝展無鑑査、11月帝展審査員となり、発病の前年昭和17年まで官展で活躍した。一方、昭和6年には栴檀社を結成、昭和10年東邦彫塑院を結成し在野展の上にも種々の足跡を残した。略年譜明治23年 土浦藩の出、長谷川勝太郎長男として浅草に生る明治30年 栃木県那須郡に移住明治35年 東京品川に移る明治36年 高等小学校中退、象牙彫刻家島村俊明門下の鈴木智明に師事明治37年 鈴木没後、吉田芳明方に起臥師事明治38年 芳州と号す、東京彫工会 日本美術工会、日本美術協会等に出品明治39年 伯父乃木希典の那須野別墅に行き「乃木将軍農耕姿立像」原型をつくる明治40年 東京府勧業博覧会「河辺」(木)を出品褒状明治42年 吉田芳明方を出る大正元年 「乃木将軍の顔」を油土でつくる大正2年 荘原郡に工房成る、「乃木将軍農耕姿」第2回作大正3年 25歳、第8回文展「夢」入選大正4年 「乃木将軍及両親三座像」(木)なり、長府乃木館に置かる、第9回文展「春よ永遠なれ」(木)3等賞大正5年 3月「乃木将軍夫妻像」桃山乃木神社に納む、第10回文展「S氏像」(木)大正6年 6月栴檀社を結成、第1回展に「心を見つめて」「華魁」(木)2点、第11回文展「引接」(木)「私の顔」(銅)「引接」は特選首席となる、早大英文科沙翁祭のため「シェイクスピヤ像」(石膏)をつくる大正7年(29歳) 矢野君江と結婚 第2回栴檀社展「あまい囁に酔える時」「白耀」「羽衣」「習作」(木)、第12回文展「地上にある誇り」(木)特選大正8年 第3回栴檀社展「ゆあみ」「尋声」(木)、第1回帝展「幸よ、人類の上にあれ」(木)冬、北品川御殿山に邸宅及工房を新築大正9年 「後藤恕作立像」をつくる、第4回栴檀社展「齲歯笑」「乙姫」「悩を知らしむ」(木)帝展無鑑査となる大正10年 3月栴檀社解散、「斑鳩皇子像」(木)をつくる大正11年 2月北村西望の曠原社に参加、4月平和博に「男女像」を出品、帝展審査員となる、第4回帝展「母性礼讃」(木)を出す、11月曠原社を脱退大正12年 「聖徳太子十六歳の御像」「坪内博士座像」(木)をつくる大正13年 御殿山桜で「墨染の像」つくる、「原敬胸像」つくる、五日彫塑合同展に「坪内博士座像」、第5回帝展「施薬」(木)委員たり大正14年 赤坂乃木神社内陣の木彫狛一対をつくる昭和元年 「伊豆志乙女」「手古奈」(木)をつくる昭和2年 赤坂乃木神社石彫狛一対をつくる、第8回帝展「華清池の楊貴妃に想を得たる試作」委員たり、この年「彫塑の手ほどき」を博文館より出版昭和3年 第9回帝展「華」、委員たり昭和4年 小石川伝通院の「準提観自在菩薩像」をつくる、赤坂乃木神社石彫狛一対、第10回帝展「女の顔」(鋳)出品、「宝生如来」(木)を作る昭和5年 荻窪古河家希願孤児院の「地蔵菩薩」(木)をつくる昭和6年 品川神社の「漆昌厳像」(銅)、山口玄洞・及夫人のため「観世音菩薩像」「地蔵菩薩像」(木)をつくる、第12回帝展「乃木将軍」(鋳)エチオピア皇帝に納む昭和7年 「吉田松陰座像」「品川弥二郎座像」(鋳)をつくる、帝展審査員たり昭和8年 水戸県庁内「農人形銅像」をつくる、同台座3面に「田植」「刈込」「収穫」の浮彫をなす、「関和知像」(鋳)をつくる、5月満州国へ芸術使節としてゆき、「乃木将軍像」を納む、チチハル・マンチュリ・奉天・熱河へ廻る、伊賀白鳳城建築に与り、「鯱」「川崎克半身像」(鋳)をつくる、第14回帝展審査員「双柿舎に於ける逍遥先生」(鋳)を出品昭和9年 「渡辺海旭半身像」(鋳)をつくる、調布高女の「精進鐘」「栗原幸蔵」をつくる、第15回帝展「徳富蘇峰先生」昭和10年 東邦彫塑院を結成して帝院改組問題に声明す、歌舞伎座「坪内逍遥半身ブロンズ像」をつくる、11月東邦彫塑院第一会展に「玄峰師」を出す昭和11年 「西村庄平像」(鋳)「山脇房子女史像」(鋳)五反田雉宮神社「海老沢啓三郎半身像」をつくる、帝国美術院参与となる、文展(招待展)「宝華素影」(木)昭和12年 岩崎家「釈迦如来」「観世音菩薩」「地蔵菩薩」三尊を作る、第1回文展審査員「のぼるもの」(木)、秋杏雲堂病院に入院昭和13年 「渡会陸二博士胸像」、「山本条太郎胸像」、小石川護国寺の本尊「大日如来」(木)昭和14年 長府覚苑寺の「乃木将軍軍服姿立像」「翁」「伊藤琢磨胸像」をつくる、第2回東邦彫塑院展「病舎にて」(鋳)聖戦美術展「病舎の一隅」(鋳)第3回文展「桂翁」(鋳)昭和15年 東邦彫塑院「舞楽春庭華」(木)「吉田芳明像」(鋳)、瑞穂会展「幸運」(鋳)「伊豆志乙女」(木)長府豊浦国民学校「乃木将軍軍服立像」昭和16年 橿原神宮「聖徳太子座像」第4回文展審査員「以露葉」昭和17年 東邦彫塑院解散、3月日本彫刻家連盟なり幹部委員となる、「伊藤博文立像」(鋳)「鈿女命像」(木)をつくる、第5回文展審査員「山崎朝雲像」(鋳)昭和18年 肺炎をおこし腎臓病再発、調布高女「川村理助立像」(木)をつくる、建艦展「吉田松陰座像」(鋳)10月より伊東に静養昭和19年 「漁夫の首」をつくる、5月帰宅、7月杏雲堂病院に入る、「観世音菩薩像」2体をつくる、8月退院、10月再入院、6日没 一乗年活山道栄居士

泉二勝磨

没年月日:1944/10/03

文展無鑑査、二科会々員泉二勝磨は10月3日逝去した。享年40。明治38年東京に生れ、昭和4年東京美術学校を卒業、昭和6年フランスに留学、同14年帰朝した。その間フランス汽船「ノルマンディー」の装飾に師デュナン氏と共に従事し、ギリシャ、エトリユスク、仏中世の絵画彫刻を主に研究した。昭和14年二科展に「花売娘」等出品、15年二科展に「朔雲童児」出品、16年二科に「東郷大将バルチック艦隊を睨む」を出品して注目され、同年二科会員に推された。また氏は多摩帝国美術学校に彫刻図案を講じている。

高橋英吉

没年月日:1942/11/02

応召中の文展無鑑査高橋英吉は11月2日南方戦線で戦死した。年32。明治44年石巻市に生れ、昭和11年東京美術学校卒業、同年文展に「少女像」を発表、14年には「潮音」を出して特選となつた。16年東邦彫塑院会員となり、同年秋には文展無鑑査に推され「漁夫の像」を出品した。遺作にガダルカナル島に於て制作したる「不動明王」及び「聖観音」等がある。

杉本三郎

没年月日:1942/10/22

文展無鑑査、直土会々員杉本三郎は神経衰弱を患つてゐたが10月22日逝去した。明治31年東京に生れ、初め木彫を森鳳声に学び、のち東京美術学校に入学、大正10年卒業後帝展文展に入選すること9回、昭和16年文展無鑑査となつたものである。

柴田正重

没年月日:1942/09/04

文展無鑑査柴田正重は脳溢血のため9月4日急逝した。享年56。明治20年5月29日愛媛県に生れ、早くより京阪地方にて工芸を修業したが、大正3年上京、白井両山の門に入り、その没後は建畠大夢に師事した。一時桂華と号したが、又本名に帰つた。帝展第2回に「気の進まぬ日」、3回に「後悔」を発表していづれも特選となり、以後無鑑査として連年出品、大正14年12月帝展委員となつた。その後「パツシヨン」「建設」「輝く日」「赤陽のもとに」「業」「希望」「黙せる瞳」「無題」「若さ」「小春日」「双葉」「北満の義人」「放心」「協力」「試曲」等の発表作がある。

長沼守敬

没年月日:1942/07/18

元東京美術学校教授、文部省美術審査委員会委員長沼守敬は、7月18日千葉県館山市の自邸に於て逝去した。享年86歳。安政4年9月23日岩手県に生れ、明治8年在京伊太利亜公使館に雇はれ、同14年渡伊ヴエニス美術学校に入学、エルジ・フエラリ、アントニオ・ダルソツトに就て彫刻術を学び、同18年同校を卒業した。此の間屡々1等賞碑を授与され、又ヴエニス王国高等商業学校に日本語を教授した。同20年帰朝翌21年一時東京美術学校雇、宮内省博物館雇を命ぜられたが間もなく退き同22年第3回内国勧業博覧会事務嘱託或は審査官となつた。此の間明治美術会の創立に参与し、その第1回展覧会に「美人半身」「童子」「肖像」を、第2回展に「肖像」「小女半身」を出品した。同25年明治美術会教場の彫刻科教師となつた。同28年第4回内国勧業博覧会審査官を仰付けられ、自らも「伊太利亜皇帝像」を出品、3等賞を授けられた。同25年山口藩主毛利一家の銅像製作に著手し32年完成した。又30年の明治美術会に「小児半身像」「ガリバルヂ将軍」を出品した。これより前同29年高村光雲の推薦によつて東京美術学校囑託となつたが、30年伊太利亜ヴエニス市設万国美術博覧会の本邦派遣員として渡伊せるため辞した。31年帰朝と共に東京美術学校教授となり、同校に於ける塑像科の基礎を築き、33年退官した。32年には臨時博覧会鑑査官(巴里万国博覧会)を仰付けられ、33年巴里万国博覧会に「老夫」を出品金賞牌を授けられた。同36年第5回内国勧業博覧会審査官、同40年文部省美術審査委員会の設置と共に委員を仰付けられ、第三部員として文部省美術展覧会出品彫刻の審査に当り、以後大正2年に亙つた。此の間、43年には伊太利亜万国博覧会鑑査員を囑託され、又同博覧会出品協会理事として渡伊、同45年帰朝した。斯く吾が彫刻術の発展に寄与する所大であつたが、前述の作品の外、渋沢栄一、山尾庸三、五代友厚、長谷川謹助、ダイバース、ベルツ等の銅像がある。大正3年千葉県館山市に隠棲し閑日月を送つて今日に至つたものである。

佐藤仁宗

没年月日:1942/06/15

構造社会員佐藤仁宗は6月15日急逝した。享年32。明治44年熊本県に生れ、昨年構造社展に構造賞を獲得第4回文展には「男」を出品して初入選と同時に特選に推され、将来を嘱望されてゐた。逝去と同時に構造社では会友から会員に推挙した。

建畠大夢

没年月日:1942/03/22

帝国芸術院会員東京美術学校教授建畠大夢は昨年末より持病の喘息に悩んでいたが、肺気腫を併発し3月22日荒川区の自宅に於て逝去した。享年63。本名弥一郎、明治13年2月29日和歌山県有田郡建畠喜助四男として生れ、初め医学校に学んだが、間もなく京都美術学校に転じ、つづいて東京美術学校に入学、明治44年卒業した。在学中より文展に出品して存在を明らかにし、連年温和にして多感な優作を発表、次第に名声を挙げた。大正9年美術学校教授、昭和2年帝国美術院会員となり、昭和15年には門下を率ゐて直土会を組総、16年その第1回展を開いて益々精進を重ねていた。昭和17年3月30日特旨を以て位1級を追陞せられ、正4位に叙せられた。なほ俳句、絵画等にも嗜むところがあつた。略年譜明治13年 2月29日和歌山県有田郡建畠喜助四男として生る明治30年 大阪に出て医学校に学ぶ明治36年 京都市美術学校入学明治40年 東京美術学校入学明治41年 文展「閑静」、文部省買上となる明治42年 文展「ゆく秋」(褒状)明治43年 文展「埃」(3等賞)明治44年 3月彫刻選科卒業、文展「ながれ」(3等賞)大正元年 文展「ねむり」「磯の女」(3等賞)大正2年 文展「おゆのつかれ」大正3年 文展「のぞき」(3等賞)、大正博覧会「こだま」(2等賞)大正4年 文展「夜の深み」「まゝごと」(3等賞)大正5年 文展「絶望」(特選)北村西望、国方林三、池田勇八と共に八ツ手会を組織「山の男」「女の首」を同会展に発表大正6年 文展「子供」「激昂の人」(推薦となる)大正7年 文展「山の蔭から」「あやふき歩み」、結婚す大正8年 帝展審査員、以後毎年審査員となる、帝展「雀の子」「浴後の女」、日暮里にアトリエを建つ、下村観山、川端龍子等と南紀美術会を起す、「伊達巻」「虎」を同会展に出品大正9年 2月東京美術学校教授となる、帝展「地上の讃」大正9年 帝展「煩悶の人」「十八の女」、法隆寺舞楽面を作る、12月北村西望と曠原社を結成大正11年 帝展「破局」「悔悟」、竹内栖鳳像を作る大正12年 「ほたる」「柴田正重氏の首」「膝に吻する女」曠原社展に出品大正13年 帝展「幻想」大正14年 帝展「憩ふ女」、勧業銀行建築装飾を作る大正15年 帝展「陽炎」、聖徳太子奉讃展「腰かけた女」「考へる女」昭和2年 帝国美術院会員となる、帝展「生気」、北軽井沢に南紀美術倶楽部を新築、又楢ノ木山荘を建つ、「魔法使ひの女」「めだか」「花野」了了会展に出品昭和3年 帝展「女の胸像」昭和4年 帝展「若い女」昭和5年 帝展「壷」昭和6年 帝展「福原先生」昭和7年 帝展「感に打たれた女」、「木村静彦氏像」「岡米吉氏像」を作る昭和8年 帝展「H博士」昭和9年 帝展「谷愛之助氏像」、姫井繁次氏像を作る昭和10年 東邦彫塑院顧問となる、「牛の記念碑」を作る昭和11年 改組文展審査主任、「十七の女」出品昭和12年 帝国芸術院会員被仰付、文展「若い男」、「伊藤博文氏像」「本間氏像」「浜口吉兵衛氏像」を作る昭和13年 文展「幸ちゃん」昭和14年 文展「夢」、「藤山雷太氏像」を作る、東邦彫塑院展に「恩師の顔」「女の顔」を出品昭和15年 紀元二千六百年奉祝展「頬杖」、「喜田君の首」(後に直土会に発表)「通洲事件慰霊碑」「今井五介氏像」を作る、直土会を組織昭和16年 文展「坐せる女」、直土会1回展「井原氏の体」「井原氏の顔」「睦奥宗光」、「天使」(後に直土会展に発表)を作る昭和17年 3月22日没

西村雅之

没年月日:1942/03/16

文展無鑑査、正統木彫家協会々員西村雅之は疽膿炎のため3月16日逝去した。享年58。本名は平蔵、明治18年11月神田に生れ、明治45年木彫を林美雲に学び、その没後は高村光雲に師事した。また松岡映丘について大和絵風の彩色を研究するところがあつた。

吉田白嶺

没年月日:1942/01/21

日本美術院再興第1回以来の彫刻部同人文展無鑑査吉田白嶺は心臓性喘息のため1月21日日暮里の自宅で逝去した。享年72。明治4年12月19日本所区に生れ、本名は利兵衛、最初商業に従事したが、弟芳明が彫刻家として名を成したのに発奮し、明治34年以来志を立てて独学、大いに斯業を研鑽、或は日本彫刻会に入り、又は平櫛田中内藤伸等と研究社を結び、遂に一家をなすに至つた。文展第3回に「念」を出品、同第7回に「寂静」を出して褒状に推され、大正3年再興院展第1回に「楽女」を発表、直に彫刻部同人に推挙された。以後今日まで院展に活躍、「清韻」(第7回)、「土部臣」(第14回)、「異教徒」(第20回)、「西行」(第21回)、「迦羅仙」(第23回)、「蓮月尼」(第25回)等は世に記憶されるところである。又好んで?毛の類を刻み独自の刀法を示した。

中村七十

没年月日:1941/10/20

文展無鑑査中村七十は10月20日脳溢血のため板橋の自宅で逝去した。享年31。本名永男、明治44年長野県に生れ、昭和9年東京美術学校卒業、在学中より構造社展、文展等に出品し、卒業後も連年文展に発表して早くも無鑑査となつた。没前の航空美術展には「荒鷲」を出品した。

山本瑞雲

没年月日:1941/03/13

彫刻家山本瑞雲は3月13日中野区の自宅で脳溢血のため逝去した。享年75。号護月、慶応3年9月13日静岡県熱海市に生れた。明治13年出京、15年高村光雲の門に入り、明治23年内国勧業博覧会には「亀」を出品し、東京彫工会競技会には「鹿」を出して共に褒状を得た。25年大阪に移り33年再び上京したが、この間の諸種の展覧会に出品し、米国シカゴ博覧会出品の「垣野王」は銅賞牌を得た。その後仏像の製作補修にあたり、また諸種の模型を製作し、明治41年には東京彫工会競技会審査員におされ、43年には日英博覧会のため東京市から依嘱をうけて英国へ出張した。大正6年栴檀社を組織して木彫界の新運動のため気を吐いた。大正11年聖徳太子奉讃委員となり、昭和に入つてからも本郷東片町大円寺の聖観音、六臂如意輪観音、八臂不空羂索観音、八臂馬頭観音、十八臂準捏観音脇侍二龍人等を製作し、昭和11年には浅草寺待乳山祥天の毘沙門天、三方荒神両脇侍を作つて努力精進を重ねてゐた。

渡辺小五郎

没年月日:1941/02/28

二科会の彫刻家渡辺小五郎は2月28日逝去した。享年31、明治44年宮崎県延岡に生れ、昭和10年東京美術学校卒業、同年以来毎年二科会に出品死後二科会々員におされた。

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