本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





翁朝盛

没年月日:1968/04/09

彫刻家、創型会同人の翁朝盛は、4月9日午前7時30分腎臓病のため仙台市の東北大付属病院で死去した。享年61歳。明治39年8月30日仙台市に、宮彫師として東北にその名をうたわれた祐廷(初代翁家)の孫、二代目祐年の一粒種として生まれた。本名、盛。金華山黄金神社の社殿の彫刻はこの祖父子三代の彫刀にかかるという。盛は高等小学校を了え、暫らく父のもとで修業したが、大正13年6月上京して山崎朝雲の門に入り昭和8年まで学んだ。昭和4年日本美術協会展に入選、以後続けて12回出品、主席賞を2回受賞、無鑑査となった。昭和5年第11回帝展に「想出」が初入選した。以来新文展を通じて連続出品して同16年文展無鑑査。20年東京より郷里に疎開、戦後は専ら仙台に定住し、26年にはアトリエをつくって製作活動を続けるとともに地方美術の振興に尽力し、新東北美術展、宮城県連合美術展の審査委員をつとめるなど有力な存在となった。中央への発表は第6回日展(昭25)と第8回日展に出品し、それまでの官展系への発表を中断し、同34年には創型会同人として迎えられ、没前まで同会展へ新作発表を続けた。一方、昭和27年からは、彼独自の長年の研究によって創始した「錦彫」-錦は数多くの糸を紬いで豪華絢爛の美を現出しています。錦彫は詩情を心として、単純化と省略により、立体の芸術美を奏でる彫刻本来の詩情に基づく創作です。依って錦彫の名称が生まれたのです。云々-を公表し、人形風であるがまた別な風趣にとんだ彩色木彫を案出、39年には日本橋三越本店にて錦彫約30点を大々的に発表して個展を開いた。晩年の41年から仙台市三島学園女子大学教授(生活美術彫刻科)をつとめた。諸展覧会発表以外の代表作に「伊達正宗公像」(青葉神社御神体)、「土井晩翠像」(晩翠草居)、「平和母子像」(県庁前広場)、「黄金の館」(仙台市庁舎内)、「仁王尊像」(定義如来西方寺)等がある。

中野四郎

没年月日:1968/02/13

彫刻家、創型会代表の中野四郎は、2月13日午後10時45分、狭心症のため浦和市の自宅で死去した。享年66歳。告別式は18日、同市常盤6-1のカトリック浦和教会で行なわれた。明治34年11月15日、山口県下関市の漢学者の家に生まれた。大正12年東京美術学校彫刻科本科木彫部に入学、特待生に選定され、昭和3年3月同校を卒業、卒業製作「春陽」が学校買上げとなった。卒業の年の秋から帝展、文展に10数回入選、昭和16年以降、文展無鑑査となって官展系の中堅作家として嘱望された。一方、昭和2年より6年までの同窓卒業生の有志が集まって木彫の研究団体、九元社を8年に結成し、その中心的メンバーとして毎年同展に作品を発表した。26年10月、戦時中解散した九元会の会員有志と計って創型会を結成、翌年創立第1回展を東京都美術館彫刻室で開催して以来、毎年美術界唯一の特色ある彫刻単一公募団体展を開き、彫刻の一般社会生活との協和普及をはかり新人作家の養成指導につとめてきたが、彼は最初から事務所を自宅に置き(15回展まで)、率先その代表者となって、会の基礎づくりと育成に偉大な貢献をなしたことは特筆に価する。晩期の作風は、終始写実的態度を堅持しながら、主にセメントを駆使してバロック風の力強く堅実な造型に特色を示した。26年4月より没前まで国立埼玉大学教育学部美術科に講師として彫塑を教授、38年4月から42年2月まで星美短大教授を兼ねた。 主要作品年譜昭和18年 「白衣の天使」日本赤十字本社蔵。昭和19年 「バーモー長官像」ビルマ政府。昭和22年 東京駅貴賓室に裸女立像、およびR・T・Oの共同製作。昭和24年 「高山右近」ローマ、ヴァチカン美術館蔵。昭和27年 「トルソー」(平凡社・世界美術全集に収載)昭和30年 「薫園」(4回創型会展)昭和35年 「掛けた女」埼玉県立公園(別所沼)に設置。昭和38年 「潮風」上野公園に設置。昭和39年 浦和市慰霊塔建設。昭和41年 埼玉国体記念バッジ製作および上尾陸上競技場に同作品拡大せるレリーフ設置。昭和42年 「せせらぎ」「勝利」「髪」「薫園」「1959年」他2点、上尾東邦株式会社庭園に設置。

中川為延

没年月日:1967/11/22

彫刻家、二紀会理事の中川為延は、11月22日午前9時17分、脳出血による心臓衰弱のため死去した。享年63才。明治37年6月1日広島市に生れ、昭和5年3月東京美術学校彫刻選科塑造部を卒業、同8年同校研究科を修業した。在学中の昭和4年第10回帝展に「ポーズせる女」が初人選してより、「銀河の下」(昭5・第11回帝展)、「残夢」(第12回帝展)、「実る秋」(第13回帝展)、「想」(昭9・第15回)と帝展に出品をつづけ、昭和11年の文展には「徒然」、「白衣の凱旋」(昭13・第2回文展)、「海を護る男」(昭16・第4回文展)、「建設譜」(昭17・第5回文展)、「坑内敢闘」(昭19・戦時特別展)を、更に戦後に及んで、昭和21年第2回日展に「博愛紀念館新生日本ノ一部」、「回春」(昭23・第4回日展)、「影」(昭24・第5回日展)、「洋」(昭25・第6回日展)と官展系有数の中堅作家として認められたが、昭和27年二紀会彫刻部創設に当り委員として迎えられた。以後毎年同会展に作品発表をつづけるはもとより、彫刻部の基礎づくりと発展に尽力した。没前、昭和42年4月、二紀会が社団法人となるにおよび理事に推された。はやくよりセメント彫刻を手がけ、殊に戦後昭和25年より小野田セメント株式会社がスポンサーとなって開催している野外彫刻展(白色セメント造形美術会)の委員となって、当素材彫刻の推進普及に寄与したことは特筆される。前記の官展出品時代の主題においても窺われる通り、終始人体の写実主義の領域にありながら、様式化の強い一種の理想主義的作風を示した。

笠置季男

没年月日:1967/09/28

彫刻家、二科会理事、多摩美術大学彫刻科主任教授の笠置季男は、9月28日午後6時25分、じん臓ガンのため東京目黒区の東邦大学医学部附属大橋病院で死去した。享年66才。明治34年1月7日兵庫県姫路に生れた。大正10年大阪府今宮中学校を卒業、昭和3年3月東京美術学校彫刻本科塑造部を卒業した。在学中から藤川勇造に師事し、昭和2年第14回二科展に「首」が初入選し、美校卒業翌年の第16回展では「裸女立像」を出品、樗牛賞を受けた。更に昭和6年第18回展に「顔」「腰かけた裸婦」を出品、二科賞を受賞、翌7年第19回展には、「立像(習作)」「立像」「M嬢の像(習作)」を出品、二科会会友となり、昭和11年第23回展では「少年工」「青年」「書見」で会員に推挙された。以後18年第30回展の中絶に至るまで専ら二科展を発表舞台とした。戦後の21年9月第31回展から二科会の復活をみたが、日展参加に対する会規一部変更の件で僚友の松村外次郎、渡辺義知らと訣別し、ひとり二科会に止まって彫刻部の大黒柱的存在となった。35年には、パリ、コンパレーゾン展出品の機会に渡仏した。40年第50回二科展では青児賞を授賞した。作風は、逸早く戦後の動向に呼応して、幾何学的抽象の方向をとり、毎年、主にセメントによる大作を精力的に発表した。二科展出品の代表作には、「和」(25年)、「力」(27年)、「地上の形態」(30年)、「躍進」(32年)、「裂」(33年)、「生存」(38年)などがあり、野外作品として、「花の精」(セメント・36年作、調布市深大寺バラ園)、「哺」(セメント・36年作、愛知県蒲郡市庁舎中庭)、「自鵬」(セメント・37年作、蒲郡市庁舎前)等がある。なお、戦後早くより、小野田セメント会社が主催してきた野外彫刻展(白色セメント造形美術会)の委員を当初からつとめ、この分野での推進に寄与したことは大きい。

内藤伸

没年月日:1967/08/21

彫刻家、日本芸術院会員の内藤伸(号・山上居)は、えん下性肺炎と心不全のため、島根県松江市灘町の市立病院に入院中のところ、8月21日午前0時20分死去した。享年84才。松江市の名誉市民で26日午前10時から松江市公会堂で市民葬が行なわれた。明治15年10月1日、島根県飯石郡に生れ、幼時より松江市の商家に養われていたが、だんだん彫刻を好むところとなり、上京して高村光雲の門に入った。更に明治34年東京美術学校彫刻選科に学び、明治37年同校を卒業した。明治41年第2回文展に「安住と迷想」が初入選してより、第4回に「湯あがり」(褒状)、第6回に「藤原時代の女児」、第7回に「牛刀」(褒状)等を出品して認められたが、これよりきき、平櫛田仲、米原雲海山崎朝雲らが岡倉天心の肝いりで、明治40年以来結成していた日本彫刻会の第4回展(大正元年)に「藤原時代の女児」他3点、第5回展に「木の実」「牛刀」を参加出品していたよしみもあり、大正3年再興日本美術院に参加して、「独房」他1点を出品し、その第1回展の開会中に平櫛田中、吉田白嶺、佐藤朝山らと共に美術院同人に推挙せられ、同彫刻部の基礎をつくった。その第2回展に「山上」「壺」「狩」、第3回に「若葉の頃」、第4回に「浴の乙女」「獅子」と毎年発表を続けたが、大正8年故あって同人を辞した。以後大正9年第2回帝展の審査委員を任命されてより、新文展、戦後の日展にいたるまで官展系の有力な木彫作家としてわが彫刻界の指導的地位にあって多くの後進を育成した。その顕著な業績のひとつとして、昭和4年日本木彫会を創立主宰し(昭和36年解散)、日本近代木彫の振興と普及に尽力し、例えば彼がかつて「木彫の技法と心境」(「中央美術」大正13年7月・8月号)を発表しているように、独自な研究を体系づけて木彫技法を新案工夫し、それを多くの後進に提唱指導し、また作品に彩色を用いるなど、近代木彫の格調高く創造的な新しい展開に寄与したことは大きい。その作風の趣味性として、新古典主義ともいえるローマンチックな想念を形体化したことが特徴づけられる。昭和20年戦災に遭い、郷里に疎開したまま、殊に昭和27年2月から動脈硬化症を発病し、晩年中央での活躍がみられなかったことは誠に惜しまれる。代表作に「牛刀」「山上」「獅子」「芳醇」「六道将軍」「上宮太子」「子安」「竜猛・恵果」「光明皇后」「唯仏是真」「天安川原」等の多くがある。また歌集「山並」(昭和29年)がある。略年譜明治15年 10月1日、島根県飯石郡に生れる。明治34年 東京美術学校彫刻選科に入学。明治37年 7月、同校彫刻選科卒業。明治41年 第2回文展「安住と迷想」入選。明治43年 第4回文展「湯あがり」褒状。大正元年 第6回文展「藤原時代の女児」出品。大正2年 第7回文展「木の実」褒状、「牛刀」。大正3年 再興日本美術院に参加、第1回展に「独房」他1点を出品、同人に推挙される。大正4年 第2回院展「山上」「壺」「狩」出品。大正5年 第3回院展「若葉の頃」出品。大正6年 第4回院展「浴の少女」「獅子」出品。大正10年 第3回帝展審査委員。「芳醇」「獅子」出品。大正11年 第4回帝展審査委員。「六道将軍」出品。大正14年 第6回帝展「子安」「恵果阿闍梨」出品。大正15年 第1回聖徳太子奉讃展に「上官太子」出品。第7回帝展「竜猛菩薩」出品。昭和2年 帝国美術院会員となる。第8回帝展「光明皇后」出品。昭和4年 第10回帝展「国引」出品。日本木彫会創立。昭和5年 第11回帝展「楠公像」出品。昭和6年 第12回帝展「唯仏是真」出品。昭和9年 第15回帝展「東郷元帥之像」出品。昭和12年 第1回文展審査員。「野田中将像」出品。昭和15年 紀元二千六百年奉祝美術展「順天我往」出品。昭和17年 第5回文展「天翔る神」出品。昭和19年 戦時特別展「防人」出品。昭和20年 東京淀橋区の自宅戦災に遭い、郷里飯石郡に疎開。昭和22年 第3回日展「白芙蓉」出品。昭和24年 第5回日展「峰嵐」出品。同展審査員。昭和27年 2月動脈硬化症を発病。日本木彫会を再興し、その第1回展に「聖観音」出品。昭和28年 松江市の自宅に移る。昭和29年 第10回日展「歌神」出品。歌集「山並」出版。昭和33年 社団法人日展顧問。松江市名誉市民に推さる。昭和37年 内藤伸と藤門会木彫展(於・松江市)開催昭和42年 8月21日永眠。

久保孝雄

没年月日:1967/03/12

彫刻家、新制作協会会員の久保孝雄は、3月12日午前1時30分、十二指腸乳頭部ガンのため仁和会八王子病院で死去した。享年49才。告別式は3月13日府中市の自宅で新制作協会葬として行なわれた。大正7年2月17日東京・新宿区に生れた。早稲田中学を経て、昭和13年3月第二早稲田高等学院を卒業し、更に同年4月東京美術学校彫刻科に入学、同17年9月同校を卒業し、まもなく軍隊へ終戦で復員するまで応召した。美校卒業直前の第29回二科展には「Nの首」が初入選したが、本格的な製作活動は戦後まで延期される。昭和22年第11回新制作派展に「刑務官吏の像」が初入選し、以来20年近く新制作に終始所属し、27年には会員に推挙されたが、戦後の混乱期のなかでのスタートは、清新な感受性が好評で、むしろ順調な進展ぶりをみせた。彼が会員に推された頃からは、戦後学校を出た新人たちが活躍しはじめ、先輩も含めて彼の周囲からは抽象彫刻が現われ出し、更に彫刻に対するものの考え方がはげしくゆれ動いた時期であったが、彼はそうした動きに強い関心を寄せながら、質実な写実的作風を頑強に固執するところがみられた。加えて、第18回展(昭29)「ボス」、第20回展「貯金箱」、第22回展「敗け鬼」「捕われた鬼」などには諷刺的で彼独特の自虐内攻型の製作態度がうかがわれ、第25回展(昭36)「真夜中の椅子」になると、意識的に一種のシュールレアリズムヘの志向をみせた。そのように基本的にはマッシヴな量塊の構築にありながら心理的な陰影をこめた作品に特色を示した。晩年の39年、第6回現代日本美術展でコンクール賞を獲得した「留学生M」(ブロンズ)や第7回現代展(41年)出品の「Jの首」(木彫)など、従来の堅実な写実から一歩進めて確信にみちた彼独自のフォルムを示し始めながら、中絶してしまったことは誠に惜しまれる。作品年譜昭和17年 現代彫塑院「胸像」努力賞。第29回二科展「Nの首」入選。昭和22年 第11回新制作派展「刑務官吏の像」初出品東京駅大レリーフ制作。昭和23年 八王子市立第5中学校奉職。第12回新制作派展「Mさんの肖像」出品。昭和24年 5月、第3回美術団体連合展「男の首」出品。7月、八王子第5中学校退職。第13回新制作派展「Uの顔」新作家賞受賞。昭和25年 サロン・ド・プランタン出品佳作賞。第14回新制作派展出品。昭和26年 第15回新制作展「少女の首」「O君の胸像」出品。昭和27年 第16回新制作展「俘囚習作」「彫刻家N」「農夫H」出品、会員に推挙さる。昭和28年 第17回新制作展「首」「坐像」出品。「牧野富太郎博士像」。昭和29年 新制作協会会員展「上林さん」出品。第18回新制作展「ボス」出品。「野上豊一郎博士像」「大内隼人氏母堂像」。昭和30年 第19回新制作展「N氏の像」「私の像」出品。「永戸久四郎氏像」。昭和31年 中央公論社画廊個展(少女像、関取、桃太郎と鬼、他)。第2回現代日本美術展「Sの像」出品。新鋭15人展出品。第20回新制作展「貯金箱」出品。「渡辺氏母堂大黒像」「上林暁氏像」「府中市立プール・少女像(セメント)」。昭和32年 第4回国際美術展「四股」出品。第21回新制作展「歓喜天」「顔」出品。「大西氏像」。昭和33年 木内岬と二人展(於・村松画廊)。第22回新制作展「敗け鬼」「捕はれた鬼」出品。「林譲治氏像」「仙波繁雄氏像」「林国蔵氏像」。昭和34年 第5回国際展「鬼」。木内岬と二人展(かがむ裸婦、他)。第23回新制作展「Aの像」「時代」出品。昭和35年 木内岬と二人展。第4回現代展「腕組む男」「顔」出品。第24回新制作展「Jの像」「O像」「トルソ」出品。昭和36年 第25回新制作展「真夜中の椅子」「女の像」出品。「船堀鍛工所社長像」「夏苅伸光氏像」。昭和37年 2月、扇儔彫塑展(於・新宿第一画廊、戦中世代の彫刻家11名、中村伝三郎協力)「女」「生存のための秩序A」「生存のための秩序B」出品。春の野外彫刻展(於・日比谷公園)「母子(セメント)」出品。第26回新制作展「Uの像」「力士T」出品。「菅礼之助氏像」「朝汐像」「栃光像」。欧州旅行。昭和38年 第27回新制作展「Yの像」「将軍と兵1・2・3」出品。「田辺尚雄氏像」。昭和39年 第6回現代展「留学生M」コンクール賞受賞。第28回新制作展「稽古」「Oの像」出品。「小川氏像」「本田弘敏氏像」。昭和40年 3月、第2回扇儔展(新宿・さくらぎギャラリー)「Iの像」「Mの像」出品。第8回国際展「壁(セメント)」出品。第29回新制作展「トルソ」「Iの胸像」「Tの像」出品。昭和41年 第7回現代展「Rの像」「Jの像(木彫)」出品。第30回新制作展「女立像」「Sの像」出品。10月、国際造形芸術連盟展「留学生M」「Jの像」招待出品。昭和42年 2月入院、3月12日逝去。「水戸清雄氏家族レリーフ」、「女の立像(絶作)」。

加藤顕清

没年月日:1966/11/11

日本芸術院会員、日展常任理事、日本彫塑会会長加藤顕清(本名、鬼頭太)は、気分すぐれず藤沢市の自宅に引籠り中、9日午後2時半ごろ二階アトリエの階段から誤って転落、藤沢の別府外科病院に入院したが、11月11日午前4時35分不慮の事故による脳内出血、骨盤骨折のため急逝した。享年71才。葬儀は日本彫塑会葬で17日港区芝の青松寺で行なわれた。明治27年12月19日、岐阜県に生まれ、まもなく移住して、幼少年時代を北海道に育った。上京して大正4年東京美術学校彫刻科に入学、同9年3月同科塑造部本科を卒業、12年同研究科を修業した。引続いて西洋画科本科に再入学して油絵を修め、昭和3年3月卒業した。彫刻科在学中の大正10年第3回帝展に「静寂」が初入選し、以後毎年入選した。昭和3年第9回帝展で「女人像」が特選に挙げられ、第10回・11回展と連続特選の栄を担った。その後長年に亙って、帝展、文展、日展等の審査員をつとめるなど、終始官展系の有力作家として活躍し、また後進の指導育成に尽したことは、下記の略年譜で明らかであるが、殊に戦後芸術完成の境地に達した昭和25年第6回日本美術展出品の「人」、第7回展の「人間像」(昭和26年展、日本芸術院賞)の頃より、あたかも死去の時、第9回日展開催中で絶作となった「呼びかける人間像」に至るまで一貫して、造形、精神両面にわたる人間性の追究に重点を置き、そのよりよき表現に向って専念するところが窺えた。一方、早くからヒルデブラント美学を根底にした独自の造形理論を確立し、それに関し、また西洋美術史に対する見解などについて、随時依頼に応じて執筆した原稿も、この世代の実技家として比較的多かった。なお死去直前まで、明治百年記念の北海道開拓者顕彰像を制作中であったが、完成をみずして終ったことはまことに惜しまれる。略年譜明治27年 12月19日岐阜県に生まれる。明治27年 北海道雨竜郡に移住す。大正2年 北海道旭川中学卒業。(現旭川東高等学校)大正3年 上智大学哲学科入学中退。大正4年 東京美術学校彫刻科入学、高村光雲教授、白井雨山教授の教を受く。大正9年 東京美術学校彫刻科卒業、奈良にて古代彫刻の研究をなす。大正10年 第3回帝展に「静寂」を出品し初入選、その後毎年入選。大正12年 東京美術学校研究科修業。東京美術学校油絵科に再入学、藤島武二教授、長原孝太郎教授の教を受く。昭和3年 東京美術学校油絵科卒業。第9回帝展に「女人像」を出品、特選受賞。昭和4年 第10回帝展に「群像」を出品、特選受賞。昭和5年 第11回帝展に「立像」を出品、特選受賞。昭和6年 帝国美術院展覧会審査委員仰付らる。奈良にて上代彫刻の研究(専ら飛鳥仏像について)昭和7年 北海道庁嘱託。昭和8年 阿寒国立公園その他北海道内国立公園の美化施設及びアイヌ人の彫刻技術指導。東京美術学校講師嘱託。昭和9年 日本彫刻家協会創立、会長。昭和10年 北海道庁千島調査委員委嘱、南北千島樺太踏査。昭和11年 文部省美術展覧会審査員委嘱。綜合北方文化研究会常任理事。北方の文化、自然及び生活様式、生産様式の綜合的研究。昭和13年 北海道第二拓殖計画委員委嘱。昭和16年 第4回文部省美術展覧会審査員委嘱。「コタンのアイヌ」を出品。昭和17年 海軍省嘱託アリューシャン方面戦線最高顧問、キスカ島施設監督官。昭和18年 第6回文部省美術展覧会審査員委嘱。昭和21年 東京芸術大学講師。日本彫刻家連盟委員長。東京都都市美委員会委員委嘱。昭和23年 日本美術展覧会審査員委嘱。昭和25年 日本美術展覧会審査員委嘱。日展参事。昭和26年 文部省著作権審議会委員委嘱。昭和27年 日展出品「人間像」に依り26年度芸術院賞受賞。昭和29~30年 イタリー・ローマにてギリシャ古典彫刻の研究。フランス・パリにて近代美術の研究。ドイツ・ミュンヘンにてアドルフ・ヒルデブラントとハンス・マレーヌの研究。スエーデン、デンマーク、ノールウエーにて北欧新古典彫刻の研究。昭和30年 フィンランド、ラップランド、ナルビーク、アイスランド、アラスカ等北方圏旅行。日本、イタリア美術協会会長(在ローマ)。昭和31年 再度奈良にて上代の彫刻及び中国古代彫刻の研究。昭和32年 日本美術展覧会審査員委嘱。日展評議員委嘱。昭和33年 日展実行委員委嘱。昭和35年 日展審査員委嘱。日本都市建設協会技術委員。昭和36年 東京都都市美協会常務理事。アジア善隣協会長、足立正氏の委嘱によりインドネシア・ジャカルタ市にカルティーニ像建設の為出張。昭和37年 2月日本芸術院会員任命。3月日展理事。昭和38年 3月東京教育大学講師委嘱。8月カルティーニ像完成建設除幕式の為インドネシア国に招へいされ再度出張。ジョクジャカルタに滞在ボルブドゥールにてヒンズー教彫像の研究。昭和39年 1月日本放送協会(NHK)美術顧問嘱託。4月文部省中等教育美術講習会講師委嘱。9月弁財天と世界女性群像(江の島・湘南港)完成除幕。昭和40年 2月日展常任理事。4月文部省中等教育美術講習会講師委嘱。10月キスカ会名誉会長。昭和41年 6月日本彫塑会会長就任。11月11日没。

岩田千虎

没年月日:1966/10/06

日展会員、彫刻家岩田千虎は、10月6日午前0時33分、大阪府堺市の自宅で脳卒中のため死去した。享年72才。終始、動物のみの写実彫刻をつくって著名だった千虎は、それにふさわしい職歴の持主である。明治26年10月28日熊本県に生まれる。大正4年大阪府立農学校畜産科卒業、大正10年大阪府立農学校教諭、昭和18年大阪府立獣医畜産専門学校教授、昭和22年大阪府立浪速大学(現、大阪府立大学)獣医科講師、同家畜病院長、同24年同校を退職して、自宅で岩田家畜病院を開業、現在に至った。本業に縁の深い彫刻をはじめたのは農学校教諭時代からで、大阪在住で、元東京美術学校彫刻科助教授であった黒岩淡哉に師事し、昭和8年第20回二科展に出品して初入選し、ついで北村西望にも指導を仰ぎ、昭和9年第15回帝展に石膏像「牡牛」が初入選し、以来帝・文展を通じ10回連続入選した。戦後の日展でも依嘱出品を続け、昭和36年新日展第4回では「闘牛」で菊華賞を受け、翌年第5回日展では審査員をつとめ、38年日展会員となった。以上は主に官展での出品歴であるが、千虎は実に展覧会発表以外の製作歴が豊富である。次に後日の参考のため列挙しておく。東久邇宮御愛馬及御愛犬を製作、東久邇宮盛厚王成年記念作を製作。三笠宮に単独拝謁を賜り騎馬像の彫塑作品を献上。賀陽宮御愛馬奥陸号を製作す。滋賀県大津関寺長安寺の牛仏を寄進す。賀陽宮御愛馬松駒号を製作献上す。閑院宮に騎馬像を献上して御陪食を賜る。李王琅御愛馬秋康号を謹製す。満州国皇帝、蒙古王に作品を献上す。皇太子殿下に単独拝謁を賜り騎馬像を献上す。第四師団司令部に馬像寄贈、第四師団司令部に騎馬奇襲の浮彫額面寄贈、輜重兵暁部隊に輜重難路通過の彫塑寄贈、金岡陸軍病院に桃太郎像寄贈、陸軍獣医学校に騎兵斥候の彫塑寄贈、天王寺動物園にリタの像其他の像製作す、北池田村に緊裸農夫の像其の他石田梅厳像等製作す。京都府綾部市庁前平和像、南極探検カラフト犬15頭慰霊像・堺大浜公園、(33年に、第一次南極観測隊の際、南極に残留したカラフト犬タロー、ジローを彫って話題をまく)、大阪動物愛護会動物慰霊碑像、福岡県若松第三中学校太郎犬の像寄贈、大阪府動物慰霊像寄贈、婦人補導院鬼子母像寄贈、岡山県吉備津鼻ぐり塚牛豚像、百千鳥耳原伝説像、市民会館噴水に子供の像寄贈、和歌山労災病院庭に伏虎の像寄贈、白鷺サナトリウムに純愛の像寄贈。なお死後、正六位勲五等瑞宝章を贈られた。

畑正吉

没年月日:1966/06/24

我国彫刻界の耆宿、畑正吉は6月24日三鷹市の自宅で病没した。享年84才。明治15年2月12日富山県高岡市に生まれた。同39年東京美術学校彫刻科を卒業し、翌年から農商務省海外練習生として滞欧留学3ケ年。帰国の翌44年第5回文展に「歳三十」が入選し、第7回文展では「某人肖像」で褒状をうけ、帝展の初期までは毎回入選。大正2年東京美術学校教授となり、奉職したが、大正9年文部省から1カ年の欧米留学を許された。帰国後の同11年、東京高等工芸学校教授に転任し、以来昭和16年まで本官に任じ、なお講師として長年同校の教職にあった。一方、造幣局、賞勲局の嘱託となり、昭和20年辞任するまで多くの記念メダル彫刻の製作にたずさわった。それらのうちでも殊に薄肉彫の長技を存分に発揮し、佳作も多い、終始官展に作品を発表し、昭和6年には帝国美術院の推薦となった。日本彫刻家連盟、能美会会員を経て、戦後は日本彫塑会会員として、同展及び日展に随意出品していた。特に晩年は能彫刻に力を注ぎ、昭和28年、30年には能彫個展を開くなど、彫刻団体、能彫会の有力な会員でもあった。学校教授時代の門下生に、寺畑助之丞、本郷新ら現在著名作家が多い。

阿部晃工

没年月日:1966/01/17

日府会理事、彫刻家阿部晃工(前号・東晃)は、1月17日午後0時20分、肝臓ガンのため日本大学板橋病院で死去した。享年59才。明治39年4月24日北海道士別市に生まれた。本名、喜二郎。上京して文展無鑑査の彫刻家柴田正重に数年間師事し木彫を修得、昭和5年4月東京美術学校彫刻科塑造部選科に入学し、同10年3月卒業、引続き研究科に残り12年3月修業した。在学中、学生相撲で右手肘関節を傷害して左手で主に製作という不自由さにもかかわらず、卒業前の昭和9年第15回帝展に「蒼」が初入選したのをはじめ、つづく文展や大小美術展に14回も入選するという記録をつくり、新鋭ぶりを発揮した。卒業後も引続き発表をつづけ、通算、文展、日展其他に38回入選、4回受賞、無鑑査・推薦3回、招待推薦2回、審査員推薦と経歴書に自筆している。戦後は官展系の団体展からはなれ、昭和26年6月、同志と計って、戦後唯一の彫刻公募団体、創型会の創立に参加し、翌年3月の旗上げ第一回展以後毎年6月都美術館で開催の創型会展に発表したが、同36年1月創型会を脱会した。美術家代表団の一員として37年と38年の2回、短期間渡欧、40年1月インド政府の招待で、仏像研究のため、インド、カンボジヤ等3週間歴訪。39年2月、社団法人日府会に招かれ常任理事委員となり、40年2月の第12回日府展では最高の日府賞を受賞した。晩年の作風は、なおも具象彫刻の領域にありながら、練熟の彫技を駆使した木彫をしばしば手がけ、大きな面を強調要約した簡潔な形態把握の力作に特色を示した。

保田龍門

没年月日:1965/02/14

元日本美術院同人の彫刻家保田竜門は、2月14日動脈硬化症のため堺市の自宅で死去した。享年73才。本名重右衛門。明治24年5月13日和歌山県那賀郡に生れ、大正6年東京美術学校西洋画科を卒業した。在学中第2回二科展に入選し、同6年文展で「母と子」(油彩)が特選となった。また在学中から彫刻もはじめ、卒業後は日本美術院に絵と彫刻の両方を出品し、大正9年に日本美術院同人となった。同年7月渡米し、主として紐育でレムブラントの模写に従事した。翌10年3月渡仏し、パリのグランショミエールでブルデルの指導を受け、傍らジョルジオーネ、クールベ等を模写し、また翌11年にはローマでティツィアーノ等を模写している。大正12年帰国し郷里に住んで院展に出品したが10年後、大阪に出て制作をつづけた。戦後中央には出品せず、和歌山大学教授として、また大阪市立美術研究所で後進の指導にあたったが、現在ここ出身で活躍中の彫刻家も少くない。また制作の主なものとしては、名古屋市平和公園の記念塔のレリーフがある。略年譜明治24年(1891) 5月13日和歌山県那賀郡に生る。大正4年 「自画像」等三点、二科展入選。大正6年 3月、東京美術学校西洋画科本科卒業。日本美術院彫刻部に入る。「母と子」文展特選となる。大正7年 「母の像」(油彩)「石井氏像」(樗牛賞)(第5回院展)。大正8年 「男の習作」「K氏の像」「O氏の像」。熊野風景の内「蓬菜山」「成川遠望」「熊野地」(油彩)(第6回院展)。大正9年 日本美術院彫刻部同人となる。渡米。シャヴァンヌ作「漁夫の家族」(シカゴ美術館)模写。レムブラント作「石竹を持てる女」「サスキア入浴」等(メトロポリタン美術館)模写。ミレー作「馬鈴薯の種まき」(ボストン美術館)模写。大正10年 3月パリに入り、グランショミエールでブルデルの指導を受けた。各所美術館で模写に従事。ジョルジオーネ作「田園奏楽」。セザンヌ作「カルタを取る人」モーリス・ドゥニ作「聖母子」(以上ルーブル美術館)クールベ作「セーヌ河畔の娘達」(プチパレー美術館)。大正11年 ティツィアーノ作「聖愛と俗愛」「ヴィナスの教育」(ヴィラボルゲーゼ美術館)。大正12年 10月18日帰国(神戸入港)。郷里に居住。大正14年 「少女」「首」(ベートーヴェン)「臥女」(12回院展)。大正15年 「女の首」(13回院展)、「裸女群像」(聖徳太子奉讃展)。昭和2年 「岳父像」「裸男女群像」(14回院展)「クリスチーヌ嬢」(明治、大正名作展)。昭和3年 「岡崎邦輔翁像」創作鋳造。昭和4年 「河本博士古稀像」「河本夫人還暦像」「M伯像習作」「とわ子嬢」「辻本聾唖学校長像」(16回院展)。昭和5年 「三尾南汀翁像」(17回院展)。昭和6年 「垂井逸水翁像」(18回院展)。昭和7年 「呑天鈴木先生像」「M伯像試作」「赤尾善次郎翁像」(19回院展出品)昭和8年 「寺田元朝翁像」鋳造(岸和田市建立)、「辻利右エ門翁像」(宇治平等院裏に建立)。昭和9年 「岡本先生像」(21回院展)(和歌山高等商業学校建立)。昭和11年 「吉岡訓導殉職像」(23回院展)(山口県教育会蔵)。昭和12年 「牧野環先生像」(24回院展)。昭和13年 「角谷源之助校長像」(静岡師範内に建設)。昭和14年 「裸女立像」「湯川村長像」「坐せる女」(26回院展)「丹生都比壱命」「高倉下命」(和歌山県庁庁舎壁面)。昭和15年 「吉田松蔭」(静岡県教育会委嘱)昭和16年 「水町氏像」(28回院展)。昭和17年 「すさのをの命」(木彫一樟材、紀の川改修のとき川底より掘り出されたる巨材の一部)「阿修羅」(浮彫)。昭和18年 「日本神話」(絵巻)製作はじめる。昭和21年 3月、大阪市立美術研究所彫刻部教授。「クリスチーヌ」(国立近代美術館彫塑展)。昭和22年 「母子像」(6尺、白セメント)(大阪市立美術館野外彫刻展)「技芸天」(7尺立像、セメント着色)(天王寺美術館蔵)。昭和23年 「母子像」(油絵120号)「木村大譲翁銅像」(海南市内海小学校)。昭和24年 「杉本市長喜寿像」(和歌山県新宮市)。昭和26年 「裸行上人絵伝」(那智青岸渡寺)。昭和27年 「玉置吉之烝氏像」。昭和29年 紀陽銀行壁彫四部作完成(林業-春、漁業-夏、柑槍-秋、繊維-冬)森武楠翁胸像(日高郡丹生小学校建立)。昭和30年 「南弥衛門翁胸像」。昭和31年 名古屋平和塔「大壁面」。昭和32年 名古屋平和塔「立像」。昭和33年 名古屋平和塔「立像」。昭和34年 名古屋平和塔「小横面」。昭和35年 「交通安全記念像」(香里成田山)。昭和36年 「樽本夫人胸像」「堀善之助胸像」。昭和37年 「高垣善一胸像」(和歌山市長)。昭和38年 「松下幸之助夫妻胸像」(和歌山市婦人児童会館)、「岡崎清次郎翁像」。昭和39年 「松下幸之助夫妻浮彫」(和歌山市婦人児童会館)。

中野桂樹

没年月日:1965/02/06

彫刻家、日展会員、太平洋美術会・日本陶彫会会員中野桂樹は、2月6日午後5時、脳卒中のため東京都北区の自宅で逝去した。享年73才。明治26年1月27日青森県西津軽郡に生れた。本名健作。少年時代から弘前の彫刻家、早坂寿雲に木彫の手ほどきをうけ、大正7年上京して太平洋画会研究所に入り藤井浩祐に塑造を学び、また東京美術学校彫刻別科の朝倉文夫教授の教室に籍をおき彫塑修業の本格的基礎を沢田晴広らとともに研修し、同10年卒業した。大正7年第12回文展に初入選してより、文・帝展に入選すること12回、その間、昭和4年第10回帝展「慈眼」、第11回帝展「瑞應」、第12回帝展「浄薫」で連続3回特選をかち得、昭和6年以来無鑑査となり、大正12年東台彫塑展には東日大毎賞をうけ、戦後の日展では、出品作「鹿」(昭和24年)が政府買上げとなり、同29年審査員をつとめるなど、終始官展系の木彫耆宿作家として重きをなした。一方、東京美術学校卒業後、内藤伸に師事した縁で昭和6年日本木彫会の創立に参劃して以来同36年2月同会解散に至るまでその中核的存在として活躍し、伝統木彫の新解釈による雅致に富んだ独自の作風をうちたてた。昭和15年には太平洋美術学校教授として北支那五省及び満州、朝鮮など7ヶ月にわたる東洋美術美術見学の旅行をなし、その後の仕事に大きな糧となった。

朝倉文夫

没年月日:1964/04/18

彫塑家、日本芸術院会員朝倉文夫は、4月18日午前9時30分、急性骨髄性白血症のため東京都台東区の自宅で逝去した。享年81才。明治16年3月1日大分県直入郡に生まれる。明治35年9月郷里の中学校を中退し、実兄の彫塑家、渡辺長男を頼って上京、翌36年4月東京美術学校彫刻選科に入学した。明治40年3月同校を卒業し、翌年の第2回文展に出品した「闇」に一躍2等賞が与えられ、世人瞠目の中にひきつづき7度の受賞を重ね、文展初期において麒麟児ぶりを発揮した。大正5年の第10回展では早くも審査員となって官展における地位を確立した。さらに大正13年には帝国美術院会員、これより前大正10年以来昭和19年まで東京美術学校教授をつとめ、実に24年間の長きにわたり後進を育成した。早くからわが彫塑界のみならずひろく美術界で重きをなしていた。作風は、「墓守」(明治43年・第4回文展2等賞)が一転換期の作となって以来、一貫して自然主義的写実を標榜し、いわゆる朝倉イズムの手法として文・帝展彫塑の一つの典型をつくったといえる。また自ら朝倉彫塑塾を主催して子弟の育成につとめ、その確固たる技術と円満寛容な人格的包容力とをもって公私共に多くの後進を養成した。昭和23年文化勲章、26年文化功労者に加えられ、36年には郷里、大分県の竹田市名誉市民におされた。幼時より家庭で特殊教育をした長女・摂が日本画家、次女・響子が彫塑家として活躍、芸術一家としてもよく知られている。略年譜明治16年 3月1日大分県直入郡に生る。父渡辺要蔵、母きみの三男明治24年 9月大分県大野郡の朝倉宗家を継ぐ明治26年 上井田第一尋常小学校卒業、引き続き直入郡竹田高等小学校に入学明治30年 竹田高等小学校卒業、大分中学竹田分校に入学明治35年 9月竹田中学校を中退、上京実兄渡辺長男居住の下谷区に奇寓、彫塑を学ぶ明治36年 4月東京美術学校彫刻選科に入学。在学中は専ら貿易品の原型をつくってアルバイトをする。明治38年 海軍の三提督銅像募集に応じ「仁礼景範像」が1等に当選。これが肖像彫刻を手がけた最初。明治40年 3月東京美術学校彫刻科卒業、谷中にアトリエを新築し、彫塑研究の傍ら子弟を養成し朝倉彫塑塾の発端をなす。卒業制作「進化」明治41年 第2回文部省美術展覧会に「闇」を出品、2等賞となり文部省買上げとなったが、のち破砕して現存せず、2等賞ははじめて与えられたもので無名の青年作家朝倉は一躍世に知られた。同年作「雲」明治42年 第3回文展出品「山から来た男」「宮崎きく像」「吊された猫」。「山から来た男」は3等賞受賞文部省買上げ。実兄渡辺長男と合作で「井上馨像」を興津に設立明治43年 第4回文展出品「墓守」「若者胸像」「九月の作」。「墓守」は2等賞受賞。同年作「桃源」「深田真彦像」明治44年 2月南洋北ボルネオその他を視察して9月帰朝。持ち帰った銅器陶器ジャワ各地の更紗並びに工芸品を10月の東京美術学校記念日に展観。第5回文展出品「土人の顔」2点「産後の猫」。「土人の顔」は3等賞受賞政府買上げ。大正元年 第6回文展出品「若き日のかげ」「父と母の像」。「若き日のかげ」は3等賞受賞。同年作「尾竹翁像」「松田武一胸像」。大正2年 南洋銅器図録を出版。第7回文展出品「含差」「いねむる猫」。「含差」は2等賞受賞。同年作「カチューシャに扮れる松井須磨子」「はるか」。大正3年 同年度の賞美章を授与さる。第8回文展出品「いずみ」「嘉納治五郎」。「いづみ」は2等賞受賞。大正博覧会展の審査員を任命さる。大正博覧会出品「かげとささやき」「酔素袍」「狗(金メタリコン)」。同年より2年間に亘り鹿児島に設立される島津家三代の像の制作に専ら従う。東京朝日紙上に「彫刻界の現在」なる所論を発表し、論理より技巧の重要さを力説、当時のロダン一辺倒の時潮に一矢を報いる。同年作「養老」「瑞狗」「猫(金メタリコン)」「藤山雷太胸像」「梅蘭芳」「ケルネル(農科大学教授)胸像」。大正4年 東京下谷山田許吉次女やま子と結婚。前年度より専念する島津家の作品制作のため第9回文展出品を休む。国民美術協会に「おもい」出品。大正5年 文部省美術展覧会審査員に新任さる。第8回文展で元老が勇退したのでこの年北村四海と新人朝倉文夫が審査員となる。第10回文展出品「加藤弘之胸像」。同年作「北畠治房像」「石川光明胸像」「黒沢鷹次郎胸像」(長野県岡谷)「大隈重信銅像」(東京芝公園9月除幕式)。大正6年 文展審査員を任命さる。第11回文展出品「時の流れ」この作品に対して裸体問題がおこり警視庁の命令で東京美術学校内に特別陳列された。同年作5月鹿児島市山下採勝園内に「島津斉彬」「島津久光」「島津忠義」の銅像が完成除幕。「コマイヌ」一対。大正7年 文展審査員任命。第12回文展作品「衝動」。大正8年 帝展審査員を任命さる。第1回帝国美術院展覧会出品「矜持」「臥たるスター」。同志と「バンドラ社」を起しはじめて彫刻作品をデパート(白木屋)に陳列する。同年作「蔵内次郎作銅像」(福岡県)。大正9年 帝展審査員任命。第2回帝展出品「頬」「田尻稲次郎像」。東台彫塑会作品「スター」。故郷大分市の九州沖縄八県共進会に美術館を設置するため4ケ月間帰省、会場装飾として地球儀に噴水を設置してその上に1丈2尺の「大友宗麟像」を建設する。同年作「黒沢鷹次郎胸像」(上田市)「佐藤三吾像」(東京四谷区役所)。大正10年 5月東京美術学校教授を任ぜられる。帝展審査員となる。第3回帝展出品「浴光」。大正11年 長女摂子(新制作協会会員・日本画家)生れる。帝展審査員となる。第4回帝展出品「花のかげ」これは建畠大夢の作とともに裸婦像の代表作と評さる。同年作「小栗上野之介像」「ウェルニー胸像」(共に横須賀諏訪山)「島津珍彦像」(鹿児島第七高等学校造士館)。大正12年 東京美術学校内の文庫に保存陳列されていた作品が関東大震災のため多数破損し、ロダンの「青銅時代」は数百片に破砕したので、校長正木直彦の依頼により修繕。同年作「獅子」(唯一の木彫作品)。帝展休止。大正13年 帝国美術院会員に選ばれる。第5回帝展出品「砲丸」。同年作「米大使ウツヅ像」「芽」「佐藤章像」(秋田市千秋公園)大正14年 次女響子(彫塑家)生れる。第6回帝展出品「新秋の作」。東京朝日紙上に「帝展彫塑の紛擾」を発表。同年作「和田豊治記念碑」(静岡県小山町)「水島鉄也像」(神戸高商)「山川健次郎像」「安川敬一郎像」「的場中像」(三像とも戸畑・明治専門校)。大正15年 第7回帝展出品「水の猛者」、同年作「佐藤慶太郎像」(東京都美術館)「長瀬富郎立像」「長瀬富郎夫婦胸像」。奉讃会出品「微笑」。昭和2年 第1回朝倉彫塑塾展覧会を東京都美術館で開催する。第1回朝倉塾展出品「N刀自胸像」第8回帝展出品「緑のかげ」(大分市遊歩公園)。了々会出品「仔猫の群」「のどか」(東京三越)。同年作「大浦兼武像」(鹿児島)「大村西崖像」(東京美校)「後藤新平像」(東京愛宕山)「大隈綾子像」(東京早稲田)「石垣隈太郎像」(東京赤坂)「秩父宮胸像」昭和3年 帝展第4部(工芸)審査員に任命さる。帝国美術院会員を辞す、朝倉塾挙って帝展に出品せず。第2回朝倉塾展出品「秩父宮登山姿像」「踊のポーズ」「加藤高明像」。同年作「尾見大連病院長立像」(大連)「大塚信太郎像」「水之江文二郎像」(大分県)「加藤高明銅像」(名古屋鶴舞公園)「豊後和牛」。昭和4年 第3回朝倉塾展出品「頭山満」「古市公威」「東京府立-中川田校長」「西川虎吉」「麻生観八」(大分)「高山樗牛」の各胸像。同年作「瑞獣」「中原市五郎像」「各務謙吉像」「茂木七郎兵衛像」「石井素胸像」「北里柴三郎像」「宮田光雄像」「磯村豊太郎像」「松浦鎮次郎像」など。昭和5年 第4回朝倉塾展出品前年作の「中原像」「各務謙吉像」など。同年作「後藤新平像」(大連星ケ浦)「鳩山春子像」「若き春子胸像」「小林盈像」「渡辺祐作像」「岩村透像」「柳悦税頭像」「松本謙次郎像」(九州)「武井覚太郎像」昭和6年 朝倉塾展で屋外陳列を行なって野外展の先鞭をつける。第5回朝倉塾展出品前年作の「渡辺像」「岩村像」など。同年作「兎の群」「郷誠之助像」「佐藤茂兵衛像」「久保猪之吉像」「佐藤三吉像」「小林作五郎座像」「南次郎像」「高松宮献上 スキーの大文鎮」。昭和7年 早稲田大学校賓に推挙さる。第6回朝倉塾展出品前年作の「郷像」「小林像」など。同年作「大隈重信像」(早稲田大学50年記念)「本山彦一胸像」(毎日新聞本社)「加藤高明胸像」「星野錫胸像」。昭和8年 第7回朝倉塾展出品前年作の「大隈像」「本山像」など。同年作「犬養毅像」(岡山)「渋沢栄一像」(東京常盤橋)。昭和9年 東京台東区谷中天王寺町初音町にわたる旧家屋とアトリエを改造して朝倉彫塑塾とする。第8回朝倉塾展出品前年作の「犬養毅像」など。「彫塑余滴」(隨筆集)を出版。同年作「米山梅吉像」「本田坊秀哉像」「武藤山治像」(神戸)「村山竜平胸像」「上野理一胸像」(朝日新聞大阪本社)。昭和10年 帝国美術院改組により一旦辞した帝国美術院会員に再び推挙される。第1回文展審査員となる。新渡戸稲造の多摩墓地を建設。第9回朝倉塾展出品前年作の「村山像」「上野像」「武藤像」など。同年作「嘉納治五郎像」「田中智学像」「栄原像」(満州)「市川左団次胸像」「市川団十郎胸像」「尾上菊五郎胸像」(東京歌舞伎座)。昭和11年 朝倉塾を朝倉彫塑塾に改め、東京府の特殊学校の認可をうける。第10回朝倉塾展出品前年作の「嘉納像」「左団次・団十郎・菊五郎の胸像」など。第2回文部省美術展覧会出品「九代目団十郎胸像」。東京都美術館10周年展出品「親子猫」。同年作「小村寿太郎像」「大河内正敏像」「郷誠之助胸像」「織田万像」「タウンセント・ハリス像」(米大使館寄贈)「ハリスの碑」(東京麻布)。昭和12年 帝国芸術院会員となる。「彫塑技法」の執筆完了(未出版)。第11回朝倉塾展出品前年作の「大河内像」「小村像」「郷像」など。同年作「斎藤実像・夫人像」「郷誠之助座像」「杉山敦麿像」「野村吉兵衛像」「双葉山像」。昭和13年 第12回朝倉塾展出品前年作の「杉山像」「斎藤像」「野村像」「双葉山像」など。第1回文屋出品「平沼博士像」。同年作「大隈重信像」(国会議事堂)「小林寿太郎胸像」「興国臣民誓旨の柱」(京城)昭和14年 第13回朝倉塾展出品前年作の「大隈像」など第2回文展出品「竿忠の像」。同年作「木下成太郎像」。昭和15年 第14回朝倉塾展出品前年作の「木下像」など第3回文展出品「文武の師」(田辺陽一郎・柏木司馬次郎像)。「東洋蘭の作り方」(蘭栽培手引書)を出版。昭和16年 第4回文展出品「再起の踊」、紀元2600年奉祝展出品「和気清麿像」(橿原神宮献納)同年作「Y君の胸像」。昭和17年 第5回文展出品「餌む猫」。「民族の美」「衣食住」「美の成果」(いずれも隨筆集)を出版。同年作「可美真手命」「佐藤慶太郎像」「立てる女」。昭和18年 戦争のため朝倉彫塑塾生20名とアトリエでゲージの制作に従う。第6回文展出品「翼」同展中唯一点の裸体彫刻。「船南鎖話」(30年前の南洋思出話)を出版。昭和19年 6月在職24年の東京美術学校教授を願に依り免ぜられる。過去40年間に制作した大は1丈6尺、中は等身、小は胸像座像などその数400屋外に建設したもののほとんどは金属回収のため消滅、原型300点は保存し得た。昭和20年 3月帝室技芸院を拝命、春戦禍をさけ一家を挙げて奥多摩へ疎開。昭和21年 第1回日展出品「よく獲たり」(3月)。第2回日展出品「生誕」(10月)。同年作「米人群像」「メモリアルホール」「マックアーサー元帥」(メダル)。昭和22年 第3回日展出品「姉妹」、東京都美術館20周年記念現代美術展出品「のび」。同年作「虎」(小品)「ウォーナー博士胸像」。昭和23年 文化勲章を安田靱彦、上村松園とともに授与さる。第4回日展出品「目」。同年作「岸清一像」「御嶽の白狼」(園芸文化協会メダル)。昭和24年 スタース・アンド・ストライプス紙上で紹介さる。第5回日展出品「三相」。同年作「跡見花蹊像」「跡見李子像」「小林昭旭像」「森永像」「石橋上野女学院長像」。昭和25年 第6回日展出品「動静一如」。同年作「滝廉太郎」「熱田神宮寄進の猫」「斎藤喜一郎胸像」「武井覚太郎胸像」「キッパス」(メダル)「米人イートン・パッティ中佐浮彫」。昭和26年 本年より文化功労者、文化勲章拝受者としての文化功労年金を受ける。第7回日展出品「明暗」(二部作)。野田醤油モニュマン「天使像」を作る。同年作「大谷竹次郎像」「白井松太郎像」「杉山金太郎胸像」「井口誠一胸像」「海野みつ子像」。昭和27年 12月20日妻やま子死去。第8回日展出品「平和来」。仙★会出品「耽々猫」(東京高島展)。同年作「小村寿太郎立像」(日向)「山下亀三郎小像」「田中清一胸像」「古橋選手の首」昭和28年 日本彫刻家倶楽部の顧問となる。国立近代美術館の「近代彫塑展」に「墓中」「時の流れ」が出陳される。第9回日展出品「F子像」。日本彫塑展出品、鋳造の「よく獲たり」「動静一如」。「富士山の歴史性執筆」をはじむ同年作「老猿」「天使の像」(茂木庭園)「井上貞次郎胸像」「麻生益良胸像」「後藤豊三郎二代の胸像」「石井選手の首」昭和29年 朝倉彫塑塾財団法人となる。11月12日より21日まで東京高島屋8階大ギャラリーで朝日新聞社主催の回顧展開催、明治40年作「進化」から昭和29年作まで50余点に亘る作品から87点を選別陳列す。第10回日展出品「立っている」。第2回日本彫塑展出品「F子の首」、同年作「市村高彦像」「日田市慰霊塔」(設計)「古橋記念碑」「山田選手の首」。昭和30年 第11回日展出品「友」。第2回日彫展出品「主婦の友石川翁像」。同年作「郷誠之助翁」(工業クラブ)「小川浪平翁」(日立記念館)「竹中藤左衛門」(竹中工務店)「石橋正二郎」(柳川文化センター)各胸像。昭和31年 日本芸術院第二部長となる。第12回日展出品「青年像」。第3回日彫展出品「女の首」。三越会員天出品「この一投」「瑞狛」「木彫」、同年作「辛島浅彦翁」(東洋レーヨン工場)「藤原銀次郎翁」(慶応大学)各胸像、「末光千代太郎翁頭像」(伊予銀行)昭和32年 第13回日展出品「H氏の像」。昭和33年 「太田道灌銅像」(都庁新庁舎前・2月24日除幕式挙行)。社団法人・日展主催の第1回日本美術展に顧問として「愛猫病めり」出品。

佐藤清蔵

没年月日:1963/09/14

彫刻家、元日本美術院同人、日本芸術院会員の佐藤清蔵は、9月14日午前2時15分、老衰のため京都市で逝去した。享年75才。旧号、朝山。号、阿吽洞・玄々。明治21年8月19日福島県相馬郡に生まれた。幼時から父祖相伝の宮彫師の家業たる木彫を父と伯父に学び、のち出京して18才頃から山崎朝雲に師事した。大正3年再興日本美術院の第1回展に際して同人となり、院展木彫の中心的存在として多くのすぐれた問題作を次々と発表した。その主なものに、「呪咀」「シャクンタラ姫とドウシャンタ王」「釈迦に幻れた魔王の女」など、豊満で官能的な作品をつくり、一脈インド彫刻にも通うような呪術的で神秘的な作調を示した。大正11年日本美術院から派遣されてフランスに留学し、ブールデルに師事し、またルーブル美術館などで古典彫刻を研究して同13年帰国した。「哺牛」「田中氏像」「牝猫」「鷹」など、西欧留学によって得た西洋近代彫刻への咀嚼と彼の内にもある伝統的要素とがよく結晶した作調が生まれてきた。その後松田改組の帝展に、モニュメンタルな力作「八咫烏」を発表、また新文展の審査委員となったが、自作の発表はなく、むしろ昭和14年11月大日本護国会で紀元2600年紀念事業として計画した和気清麿銅像の建立に、朝倉文夫、西村西望とともに原型の依嘱をうけ、三者競作のかたちで製作した同像の採用実現や、戦後三越岩瀬社長の懇望によって約10年の歳月を費した労作「天女像」(昭和35年4月完成除幕)などの衆目の話題作が、彼の晩期を飾る仕事となった。略年譜明治21年 8月18日、福島県相馬郡に生まれる。生家は代々宮彫師で、この家業を父や伯父に学んだ。本名清蔵、号、朝山(山崎朝雲に師事した頃より昭和14年頃まで)、阿吽洞、玄々(この両雅号は大体、昭和21年以降より)18才より木彫家山崎朝雲に師事する。大正2年 「問答(悉達多太子と婆羅門僧像)」を製作。大正3年 10月、再興日本美術院第1回展に「呪咀」「野人」「シャクンタラ姫」を出品する。10月24日、平櫛田中、内藤伸、吉田白嶺とともに、日本美術院同人に推される。他に「聖徳太子像」「婆羅門像」を制作。大正4年 9月、第2回院展に「シャクンタラ姫とドウシャンタ王」「阿具尼」「シャクンタラ姫」を出品する。他に「嵐」(塑像)を制作。大正7年 9月、第5回院展に「愛染」を出品する。大正8年 9月、第6回院展に「上宮太子」「釈迦に幻れた魔王の女」を出品、他に「冬日行」を制作。大正9年 「閑来」「蘇東坡」「巣鶏」を制作。大正11年 9月、第9回院展に「木花咲耶姫」を出品。9月2日に創立25年記念祭を行った日本美術院からフランスに派遣される。(同人として、他に小林古径、前田青邨が同行)。アントワーヌ・ブールデルについて彫刻を学び、ルーブル美術館などで古典を研究する。大正13年 7月22日帰朝。「イタリーの女」「インディアン」「悲しきエトランゼの娘」(以上素描)「エジプト彫刻断片」「眼」「影」「憂」(以上木版画)などを制作。9月、第12回院展に「女の顔その一」「女の顔その二」「或る構図の一部」、「男」(以上ブロンズ)を出品する。他に「童女」(木版画)。大正15年 5月、聖徳太子奉讃展に「或る構図の一部の二」を出品。9月、第13回院展に「哺牛」「ベコ」「牛」を出品する。その他「裸女」(塑像)「寒山拾得」を制作。その頃より、現在の大田区に居住。昭和2年 9月、第14回院展に「画家の像」、「青年の顔」(ともにブロンズ)、「青年」(塑像)を出品。他に麋(木彫下絵素描)二図など。昭和3年 9月、第15回院展に「田中氏像」(ブロンズ)、「牝猫」「冬眠」「銀鳩の子」「鳩巣」(木心乾漆)を出品する。昭和4年 3月、院第14回試作展に「銀鳩」を出品する。9月、第16回院展に「筍」「猫」「蜥蜴」を出品、他に「双鹿」など。昭和5年 9月、第17回院展に「鷹」「鼠」を出品。他に「蒼鷹」「大黒」「猫」。昭和6年 9月、第18回院展に「鷹」「白菜」「麋」「鳩」を出品する。他に「鷹(習作)」「銀鳩」「山鳩」「琵琶」など。昭和8年 皇太子誕生を祝して「鷹」(浮彫)を制作献上。他に「青鳩」など。昭和10年 3月、東京府美術館10周年記念展に「蔬筍」(昭和4年院展出品の「筍」と昭和6年院展出品の「白菜」を一組にしたもの)を出品する。5月、松田改組帝国美術院第二部会員に平櫛田中とともに任命される。11月、日本美術院より図録「朝山彫刻集」が刊行される。昭和11年 2月、第1回改組帝展に「八咫烏」を出品、政府買上げとなる。昭和12年 4月、明治・大正・昭和三聖代名作美術展に「牝猫」(昭和3年、第15回院展出)が出品される。6月、帝国芸術院会員となる。10月、第1回文部省美術展第三部の審査委員に任命される。昭和14年 10月、第3回文部省美術展第三部の審査委員に任命される。11月、大日本護国会では紀元2600年記念事業として和気清麿銅像の建立を計画、北村西望、朝倉文夫、佐藤朝山の3名に原型を依嘱し、その中から一つを選出することになったが、北村西望、朝倉文夫はともに辞退し、朝山の制作だけが実現することになった。昭和15年 12月18日和気清麿銅像除幕(宮城の濠端)。この頃より朝山号を廃し、本名の清蔵を名のる。昭和16年 「二宮尊徳像」(帝国農業会より献上)。昭和20年 5月24日に戦災で馬込のアトリエが焼失、「八咫烏」など多くの作品を失い、無常感にとらわれて、郷里福島県山中の神社へ疎開隠遁する。終戦後、高島屋の招待により兵庫県西宮市甲東園芝川山荘に移る。昭和22年 「大黒天」(第13回清光会)を制作。この頃より、京都市右京区に定住する。昭和24年 「大黒天像」「鼠像」などを制作。昭和25年 「柿」(置物)、「聖大黒天」、「鼠」(置物)など。この頃より玄々、阿吽洞の号を用いる。昭和26年 「大慈大悲救世観音菩薩像」「栗鼠」(置物)、「大黒天」「笑門福来」などを制作。昭和27年 「山兎」「蒼鷹」(置物)、「巣籠鶴」(置物)、「鶴」(置物)、などを制作。昭和28年 「宝の小槌」「大慈大悲救世観音菩薩像」「笑門福来」「福来面」(置物)、「山彦」などを制作。昭和29年 「麝香猫」「神狗」などを制作。昭和35年 4月、約10年の歳月を費した労作「天女像」三越本店で除幕される。なお同店で開かれる。昭和38年 9月14日、京都市で老衰のため逝去。

毛利教武

没年月日:1963/08/27

彫塑家、日展委嘱、日本彫塑会会員、毛利教武は、8月27日午後8時、かねて療養中だった胆石症のため、東京都杉並区の自宅で逝去した。享年77才。明治17年4月2日東京で生まれ、はじめ松本正春に彫刻の初歩を学び、明治32年高村光雲に師事、のち東京美術学校彫刻科に入り36年卒業した。同年及び翌37年東京彫工会出品、つずけて銀賞牌をうけた。38年陸軍看護兵として出征。39年海軍省銅像懸賞に応募、2等賞、また40年春行われた東京勧業博覧会には2等賞及び協賛賞を受けた。同年秋の第1回文展では、彫刻部に出品した「ゆくへ」が3等賞に挙げられ、米原雲海の「神来」と共に、僅か2名の受賞者の1人となり、記念すべき歴史的な栄誉をになった。翌41年には東京彫工会展審査員となり、若くして頭角をあらわした。以後文展に出品したが、43年第4回文展に落選したので暫らく出品を控え、大正元年第1回フューザン会に只1人の彫刻家として参加出品した。その後、意のおもむくままに官展に作品を発表したが、昭和3年御大典博覧会美術顧問及び審査員、翌4年名古屋市美術展の審査員をつとめた。6年帝国美術院の推薦となり、16年文展審査員また直土会結成に参加。戦後の晩年は、つとめて日展に依嘱の資格で、作品を発表した。戦災で過去の作品は殆ど焼失したが、現存の代表作には、「手」「クレオパトラとカルミニヨン」(ともに大正8年作)などがある。彼はわが彫刻界の先達的な耆宿作家であり乍ら、作風には、初期の「ゆくへ」のような浪漫的な作調にはじまって、常に一歩時流に先んじた尖鋭な近代的要素を示す作調を示し、むしろ官展系としては破格で進歩的な制作態度が窺われた。一方、彫刻界の煩瑣な俗流人事にも恬淡とし、それは晩年の現日展の委嘱出品のままの処遇でも知られよう。長男に武彦(新制作・日本画)、次男に武士郎(無所属・彫刻)、三男に建築デザイナーと美術一家として知られる。

武石弘三郎

没年月日:1963/05/11

わが明治彫塑界以来の長老だった武石弘三郎は5月11日午後4時58分老衰のため、鎌倉市の自宅で逝去した。享年85才。明治11年7月新潟県に生まれ、明治34年、わが洋風彫塑界の先覚、長沼守敬の愛弟子として東京美術学校塑造科最初の卒業生となった。間もなくベルギーに渡り、8年間滞留研究を続け、その間ブリュセル国立美術学校で優等生にあげられた。また当時のベルギーの世界的な巨匠コンスタンタン・ムニエを比較的早く紹介した。明治42年帰国、青壮年期は文展、帝展に出品したが、殊に戦後は全く発表がなく、殆んど穏棲の老後生活だった。大理石彫刻も早くから手がけ、代表作には、秩父宮登山姿や西園寺公、北白川宮、森鴎外、川端玉章らの胸像がある。

池田勇八

没年月日:1963/03/31

彫塑家、元帝展審査員・旧日展依嘱、池田勇八は、3月31日午後1時、狭心症のため東京都練馬区の自宅で逝去した。享年76才。明治19年8月28日香川県綾歌郡の牧畜業の家に生まれた。明治36年3月琴平工芸学校を卒業して、9月上京、東京美術学校彫刻選科に入学した。同窓に朝倉文夫がいた。明治40年3月同校を卒業。間もなく開かれた東京勧業博覧会に出品、銅牌を受賞、早くも彫刻界へデビューした。明治42年第3回文展に「馬」が初入選し、以来文展・帝展と、終始官展に拠って連年動物彫塑を発表、常に題材を自己の愛好する動物にしぼり、愛情をもって地道にその姿体を追求して特色を示し、官展の重鎮として、“馬の勇八”の異名を天下にとどろかせた。詳しい経歴や作品については、次に揚げる年譜で知られるが、殊に戦後の晩年は、公設展への発表を殆んど控え、渋谷東横百貨店の画廊で個展を開催、毎年一般鑑賞者に親しまれた。略年譜明治19年 8月28日香川県綾歌郡に生まれる。父池田森杉、母きよの次男明治33年 香川県琴平工芸学校入学。明治36年 3月同校卒業。9月上京。9月東京美術学校彫刻選科に入学。入試作「鳩」明治40年 3月同校彫刻科卒業。卒業製作「笛声」(芸大蔵)東京勧業博に出品「柔術」(銅牌)明治42年 文展初入選「馬」を出品。その他「仔馬追込み厩舎」明治43年 東京滝の川田端にアトリエを建てる。文展初入選「ぼんやりした馬」(褒賞)「動物園の犬」を出品。明治44年 「うさぎ馬」(褒賞)「川まで」を文展出品。明治天皇御料馬「金華山号」(宮内省買上げ)大正天皇御料馬「ダップ号」(宮内省蔵)大正元年 「山羊」(文展出品、文部省買上げ)「坂路」「平原の夕」等。大正2年 「心いき」(東宮御所蔵)「神山詣り」(近代美術館蔵)「鬨声」(梨本宮買上げ)を文展に出品。「春陽をあびて」大正3年 「まぐさ」(褒賞)「餌」「熊の名残」を文展出品。東京大正博に「山羊の群れ」(銅牌)「乳」「手入れ」を出品。その他「長白山と仔豚」「桜木」等。大正4年 「坂路」(その2)「みづかい」(褒賞)を文展出品。太平洋画会展に「堆積の横」出品(宮内省買上げ)。その他「草」「馬の群像」(宮内省蔵)「土手の草」「歩ゆむ豚」「母仔」「羊」等(子安農園蔵)大正5年 「川辺にて」(文展特選)「雄姿」「俄か雨」「たぬき」「牛頭」等。大正6年 「目かくし」(特選)「となかい」を文展出品。「仕事に出掛る」「日向ほっこ」等。大正7年 「麓そだち」(文展特選)「微風」(文展出品)「農馬」「水飲の場」等。大正8年 朝鮮、支那へ仏像研究のために行く。第1回帝展に無鑑査出品となる。「昔日の夢」「放牧地」「羊の群」(その1.その2)大正9年 帝展審査員となり、「春日」「高原の夕」を出品。その他「秋田犬」「二匹の仔犬」「うす日」等。朝鮮、支那へ再度視察研究に行く。大正10年 帝展審査員。「馬上の新山氏」「収穫」(生命保険協会蔵)を帝展に出品。第1回個展を生命保険協会で開催。「夕日を浴びて」「路傍の会話」等。以後昭和15、16年までに個展を20回開催。大正11年 北村西望、北村正信、国方林三、建畠大夢、関野聖雲、長谷川栄作氏らと昿原社を作る。帝展審査員。「小憩」(宮内省蔵」「頸環」を帝展出品。個展出品作「午後の陽」「優勝馬」等。大正12年 支那へ美術視察研究に行く。関東大震災のため帝展なし。「はがいまき」「斜陽」「秋深かし」「放牧地へ行く道」等個展に出品。大正13年 昿原社解散。帝展無鑑査出品。以後1934年(昭和9年)まで同じ。帝展出品作「嶺」「揚柳下」個展出品作「種牛」「雛」等。大正14年 「スタート所見」(帝展出品)個展出品作「駝鳥の雄雌」「曇り日」「虎」「吼える獅子」等。大正15年 今上陛下御料馬「吹雪」(宮内省蔵)「放牧地所見」(御大典時に献上)「若草」「静か」「仔牛」「門飾り」等を個展に出品。昭和2年 「イレネー号銅像」(十勝農場に建設)昭和3年 「雲」(帝展出品)「放牧地の所見」(個展出品)昭和4年 「轡心地」(帝展出品)「トールヌソール号」(個展出品)昭和5年 「名馬オーバーヤン」(日展出品)「ピアゴールドとトールヌソール初仔」「水辺」「噴水」等(個展出品)。昭和6年 「残月」(帝展出品)「神翁銅像」昭和7年 「開墾地の人」(帝展出品)「山下太郎氏像」ロスアンゼルス国際オリンピック芸術部審査員に任命される。「打球」を出品。昭和8年 「真崎将軍胸像」(帝展出品)この年の前後に「北白川宮成久王」御像および三笠宮、東久邇宮稔彦王、竹田宮恒徳王、朝香宮殿下の各御乗馬像製作。昭和9年 「渚の若武者」(帝展出品)「犬50題彫塑展」を三越本店で開催。「名犬ロー」「母性愛」「深き眠り」「和犬」「グレーハウンド」「羊を追う犬」「ボーズ」等。昭和10年 松田文相帝展改組により、畑正吉、石川確治、日名子実三、吉田久継、開発芳光、上田直氏らと共に第三部会を組織し、第一回三部会を開催。出品作「古式打球」等。以後15年まで同会の審査員をつとむ。昭和11年 ベルリン国際オリンピック審査員を任命される。「スタート地点へ」を出品。「ダービーのゴール」「優勝馬」等三部会出品。昭和12年 「尾花なびく」「T氏乗馬像」(三部会出品)昭和12年 「繋駕競争」「新田長次郎氏妻像」等を三部会へ出品。昭和14年 「李王殿下御乗馬像」「愛馬行進曲六曲対立木彫」三部会出品。昭和15年 「軍用動物供養塔」「閑」「新田長次郎氏銅像」三部会出品。昭和16年 三部会を退く。昭和19年 戦時特別展出品「大地を征く」昭和20年 北区にて戦災にあい、神奈川県藤沢市の家に移る。この間に原型や作品その他参考資料の殆んどを破損あるいは焼失する。昭和21年 日展復帰、無鑑査出品「スタートの前の種々相」昭和22年 彫刻材料不足のためこのころ主として線彫りまたはうす肉による木彫の製作多し。「羊の群れ」「鶏」「牧場」等。昭和25年 日展依嘱出品「皐月晴れのある日」以後1957年(昭和32年)まで同じ。昭和26年 「母仔」(日展)その他「山下汽船会長胸像」「トキノミノル号」等。昭和27年 「勝馬」(日展)「母子情溢」(現代美術展)等。昭和28年 「スタート」(日展)(芸術院蔵)等。「牧場の晨」(伊勢神宮遷宮奉賛綜合美術展出品)(伊勢神宮蔵)等。戦後第1回個展「馬とともに50年記念展」を日本橋三越で開く。「乳」「戯れ」「群れ」「馬場所見」等20数点を出品。以後1961年(昭和36年)まで毎年個展を日本橋三越、渋谷東横で開催。昭和29年 「生存の様相」(日展)「暁」(都市美彫塑展出品)個展出品作の主なものは「哺乳」「土龍を嗅ぐ」「飛越後」「尾花を蹴って」「若草をけって」等。昭和30年 住居を東京練馬区に移す。高松市美術展審査員を依頼され郷里へ赴く。出品作「草原の所見」(高松美術館蔵)「羽音」(日展)個展出品作「春風を嗅ぐ」「炎陽たつ頃」「駿馬」「仔牛」「眠る仔犬」「天馬」「母に寄り添う」等。昭和31年 「犬」(日展)「大木赴夫氏の像」。個展出品作「放牧地の母仔」「勝馬」「牡牛」「雄たけび」「蝶を追う」等。昭和32年 「放牧地の母仔」の馬像建設(馬事公苑蔵)「神翁銅像」建設(大楽毛市場蔵)「釧路の馬」(日展)個展出品作「空」「コリー」「嬉しさのあまり」「哺乳後」「ボルゾィ」「エヤデル」「ドイツポインター」「和犬」「愛犬太郎」「主を見送る」昭和33年 「春風旗★共合唱」の馬像建設(日高牧場蔵)この年より専ら個展に専念。個展出品作「日は暮れかかる阿寒の山路」「駒」「障碍」「銜味」昭和34年 「放牧地への楽しき道」の馬像建設(東京競馬場蔵)個展出品作「のきば」「二頭の若駒」「スワン」「ライオン」「松崎伊三郎氏像」「仔犬のたわむれ」等。昭和35年 個展出品作「三頭の駒」「はなれ馬」「嘶き」「楽しき足どり」「はみかえし」「咆哮」「挽馬」「虫」等。昭和36年 個展出品作「和合」「虎親子」「猿の母仔」「遽か構え」「孔雀水盤」「あひる水盤」「母の懐」「松崎薫氏像」「羊の親仔」等。昭和37年 「塩野八五郎氏像」2月より健康すぐれず、静養。秋にやや回復し、木彫「牧場のスケッチ」などを数点製作したが、11月末軽い脳溢血のため再び床に伏す。昭和38年 1月末健康やや回復し、「卯年の始作兎」「兎の紙切り」(献上)を作る。その後もっぱら回顧展の準備に専念。十勝農場の依頼「イレネー号」製作予定中であった。3月31日突然狭心症のため死去。11月19日-24日、日本橋三越にて故人が生前から希望企画していた「動物彫刻60年回顧展」(毎日新聞社後援)を開催。

吉田久継

没年月日:1963/03/10

彫塑家、日展評議員吉田久継は、3月10日午後0時20分東京駿河台の三楽病院で狭心症のため逝去した。享年74才。明治21年12月12日東京市本郷区に生まれる。本名久次。数え13才より高橋楽水につき蝋型技術、馬場正寿に彫金を学んだ。また白井雨山彫塑研究所で彫塑を学ぶ。明治41年東京美術学校彫刻選科に入学し、大正2年同校卒業、研究科に入る。大正5年同研究科を修了、つずいて太平洋画会研究所、本郷洋画研究所に通い、岡田三郎助についてデッサンを修めること約10年間に及んだ。大正7年、第12回文展に初入選、続いて帝展に入選し、第2回帝展に出品した「霊光」は特選となり、第4回にまた特選となり、翌年「母性」を出して推薦され、第7回からは委員となった。以来晩年に至るまで終始官展系に依拠し、その耆宿作家として重きをなした。代表作として、「髪」(昭和3、第9回帝展)を自薦している。印象派風の肉付をもち、重厚な作風のうちにも、青年時代特にデッサンに励んだだけに絵画的構図にすぐれ浪漫的構想のものに長じていた。作品略年譜大正7年 第12回文展初入選。大正8年 第1回帝展出品。東台彫塑会組織。大正9年 第2回帝展、特選。大正10年 赤洵社組織。平和記念東京博覧会に出品、金牌を受く。第3回帝展無鑑査。大正11年 第4回帝展、特選。大正13年 総合彫塑展で入賞、賞金を受く。第5回帝展、特選。大正14年 帝展無鑑査に推挙される。第6回帝展出品。大正15年 聖徳太子奉賛美術展及び第7回帝展出品。昭和2年 明治大正名作展(朝日新聞社主催)出品。昭和3年 第9回帝展出品、帝展審査員。昭和4年 日本美術学校彫刻部教授となる。第一美術協会結成。第10回帝展出品。昭和5年 第11回帝展出品。昭和6年 東土会結成。洋風版画会結成。第12回帝展出品。昭和7年 第13回帝展出品。帝展審査員。昭和8年 第14回帝展出品。昭和9年 靖国神社燈籠ブロンズレリーフ作製。第15回帝展出品。昭和10年 帝展松田改組にあたり、三部会結成、第1回展出品。昭和11年 三部会、第一美術展に出品。昭和12-16年 三部会(→国風彫塑会)出品。昭和17年 第4回文展出品、審査員。昭和18年 第5回文展出品。昭和22年 第3回日展出品、招待(審査外)。昭和28年 第9回日展出品、審査員。昭和29-31年 第10回日展-第12回日展出品、参事。昭和32年 第13回日展出品、参事・審査員。昭和33年 第1回日展出品、評議員。昭和35年 第3回日展出品、審査員。昭和33年12月、心筋梗塞を発病、以来継続して三楽病院に入院、38年3月逝去。

渡辺義知

没年月日:1963/02/17

彫刻家、元二科会々員渡辺義知は、2月17日脳軟化症のため東京都豊島区の自宅で逝去した。享年73才。明治22年4月11日東京の都心、銀座で生れた。はじめ日本美術学校で彫刻を研修、大正末年頃より二科展彫刻部に作品を発表しはじめ、第12回二科展(大14)に「女の首」、第13回二科展に「マダムAの首」「マルマゲの首」など初期には頭像を主に出品した。昭和3年第15回展で「泉の一部」他2点で二科賞を受け、同会会友に推され、昭和6年3月には会員に推挙された。同年、二科会の研究所である番衆技塾の指導者になり、先輩の藤川勇造と共に彫塑科を担当指導した。昭和7年渡欧した。以来二科彫刻の中心的存在となり、殊に昭和8年から戦争渦中にかけて、連年二科展に発表した「国土を譲る」の記念像連作は、時局精神作興の要望に応え、斯界における有力作家としての名声を高からしめた。戦後、二科会復活に逸早く参加したが、昭和21年、民主日展への参加問題に関する意見の衝突のため、同会から除名され退かざるを得なかった。晩年の主な作に、「シジフォス」(昭35・第3回日展招待)、「白雲」(昭36・第4回日展招待)や「広島赤十字原爆殉職者慰霊塔」(昭36)などがある。

森山朝光

没年月日:1962/08/10

彫刻家、日展会員の森山朝光は、8月10日午後11時心臓衰弱のため茨城県水戸市の自宅で死去した。享年65歳。明治30年7月10日水戸市に森山元光の三男として生まれる。本名元治。明治45年立志上京し山崎朝雲に師事した。大正13年日本美術協会展に出品した「天界の誇り」が銅賞首席となり、公会発表の緒となったが、昭和2年、第8回帝展へ「垂乳根」を出品、初入選以来毎年入選、帝展から文展へ、戦後の日展へと終始師朝雲から修得した日本伝統木彫の刀技を生かした穏健な木彫作品を出品した。昭和32年日展会員に推挙され、木彫界の中堅作家として嘱望された。

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