本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。
(記事総数 3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
- なお『日本美術年鑑』掲載時の分類も、個々の記事中に括弧書きで掲載しました。
- 登録日と更新日が異なっている場合、更新履歴にて修正内容をご確認いただけます。誤字、脱字等、内容に関わらない修正の場合、個別の修正内容は記載しておりませんが、内容に関わる修正については、修正内容を記載しております。
- 毎年秋頃に一年分の記事を追加します。
没年月日:1995/03/29 読み:まつだなおゆき 日本芸術院会員で、日展参与の彫刻家松田尚之は、3月29日午後2時14分、急性腹症のため京都市左京区修学院大林町の白宅で死去した。享年96。石川県金沢市に生まれ、大正11(1922)年、朝倉文夫に師事して東京美術判交彫刻科を卒業、また在学中の同10年、第3回帝展に「ポーズせる女」が初入選。以後毎回帝展に出品をつづけ、同15年の第7回展に出品の「姿」は特選となった。翌年の第8回展でも、「若きひのかげ」が無鑑査、特選となった。帝展、新文展、そして戦後の日展にいたるまでたびたび審査委員をつとめ、日展では、審査員と同時に運営会参事をつとめた。また、昭和5(1930)年に京都大学建築科講師となり、戦後も金沢美術工芸大学、京都学芸大学教授として、後進の指導にあたった。同32年の第13回日展に出品の「女性」によって日本芸術院賞受賞、同43年には日本芸術院会員となった。ディテールの再現にこだわらない、おおらかな表現による量感のある裸婦像を得意とした。
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没年月日:1995/03/01 読み:わけべじゅんじ 日展参与の彫刻家分部順治は3月1日午前10時35分胆のうがんのため東京都練馬区豊玉北の自宅で死去した。享年84。明治44(1911)年1月6日群馬県高崎市八島町17に生まれる。昭和3(1928)年高崎中学校を卒業して建畠大夢に師事して彫刻を学び始める。同4年東京美術学校彫刻科に入学して木彫を学ぶ。北村西望に師事。同7年第13回帝展に「母と子」で初入選。以後同展に出品を続ける。同9年東京美術学校彫刻科を卒業して研究科に進み、同11年に修了。翌12年第1回新文展に「若い男」を出品して特選となる。同13年第2回新文展では「男立像」で二年連続特選受賞。戦後も日展に出品し、同24年日展出品委嘱、同33年日展会員、同37年同評議員となる。この問、同30年より日本彫刻会にも参加し、日彫展にも出品。同43年第11回日展に「新秋」を出品して内閣総理大臣賞受賞。同47年日本彫刻会理事となる。同50年第6回日展出品作「瞭」により第31回日本芸術院賞受賞。同52年日展理事、同56年同参事となる。人体表現によって季節や「静」「芽」「爽」などの抽象概念を象徴する作品を多く制作し、写実にもとづきながら主題にそってデフォルメを加える作風を示した。ブロンズによる肖像彫刻、モニュメントなども制作している。帝展、文展、日展出品作昭和7年第13回帝展「母と子」、同8年第14回帝展「みのる秋」、同9年第15回帝展「いこい」、同11年文展鑑査展「習作」、同12年第1回新文展「若い男」、同13年第2回新文展「男立像」、同14年第3回新文展「男」、同15年紀元2600年奉祝展「黙する男」、同15年第4回新文展「男の像」、同19年戦時特別展「皇士ヲ護ル人々」(サイパン)、同22年第3回日展「新生の歩み」、同23年第4回日展「うららか」、同24年第5回日展「少女の像」、同25年第6回日展「清純」、同26年第7回日展「若人の夢」、同27年第8回「青年像」、同28年第9回日展「狩」、同29年第10回日展「青年」、同30年第11回日展「若い男」、同31年第12回日展「流れ」、同32年第13回日展「男」、同33年第1回社団法人日展「雪嶺」、同34年第2回日展「霧氷」、同35年第3回日展「道標」、同36年第4回日展「青年像」、同37年第5回日展「黙」、同38年第6回日展「一本杉」、同39年第7回日展「老いた工人」、同40年第8回日展「青年之像」、同41年第9回日展「青年像」、同42年第10回日展「想」、同43年第11回日展「新秋」、同44年第1回改組日展「碑」、同45年第2回日展「謐」、同46年第3回日展「旦」、同47年第4回日展「爽」、同48年第5回日展「暁」、同49年第6回日展「瞭」(日本芸術院賞)、同50年第7回日展「考」、同51年第8回日展「満」、同52年第9回日展「暢」、同53年第10回日展「艶」、同54年第11回日展「寛」、同55年第12回日展「佳」、同56年第13回日展「赫」、同57年第14回日展「遥」、同58年第15回日展「希」、同59年第16回日展「潤」、同60年第17回日展「黎」、同61年第18回日展「惟」、同62年第四回日展「妖」、同63年第20回日展「髪」
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没年月日:1995/02/23 読み:いちのせひろた 日展会員で名古屋芸術大学名誉教授の彫刻家市之瀬廣太は2月23日午後10時44分、急性肺炎のため名古屋市の病院で死去した。享年85。明治42(1909)年8月20日岐阜県瑞浪市土岐町6645に生まれる。昭和2(1927)年岐阜県多治見工業制支彫刻科を卒業。同年5月大倉陶園に入社するが、同4年11月に退社して、構造社彫塑研究所に入所し斎藤素巌に師事する。同6年構造社展に初入選。同7年同展研究賞を受賞し、両社会友となる。同8年同展構造賞を受賞し、翌9年同社会員となる。戦後、第1回日展に「女ノ坐像」で初入選し以後同展に出品。同29年第10回日展に「流想(ながれにおもう)」を出品して特選となる。同30年日展に無鑑査出品。同36年日展委嘱。同37年日展に「破る」を出品して菊華賞受賞。同39年日展会員となった。写実にもとづく端正な女性像を得意とした。
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没年月日:1994/11/29 日展会員、日本彫刻会運営委員の佐藤蔵治は、11月29日急性心筋こうそくのため東京都文京区の日本医科大学病院で死去した。享年75。大正8年11月6日福島県安達郡岩代町小浜下杉内に生まれる。戦後から制作発表を開始し、昭和33年の日彫展に初入選、同35年には同展で奨励賞を受賞、また同年第3回新日展に初入選した。同42年第10回日展に「孤柳」で特選を受け、日彫展でも日彫賞を受賞、同48年の改組日展第5回に「ポーズする女」で再度特選を受けた。日彫展審査員、日展審査員もつとめ、同56年日展会員に推挙され、同60年には日彫会運営委員となった。
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没年月日:1994/10/19 新制作協会会員の彫刻家田畑一作は10月19日午前10時16分肺がんのため東京都世田谷区の関東中央病院で死去した。享年78。大正4(1915)年5月15日京都市中京区小川夷川上下ル下丸尾町に生まれる。父は菊池芳文門下の日本画家田畑秋濤。昭和8年京都府立一中を卒業。この頃より彫刻に志し、同年関西美術院に入り黒田重太郎に絵を学ぶ。同9年5月上京して二科会の番衆技塾に入学。藤川勇造に学び、恩師藤川の死去以後は、菊池一雄に師事する。同11年第1回新彫塑協会展に「長野君」で初入選。同16年第16回京都市展に「村の道」(油絵)「妹の像」(彫刻)で入賞。同年第6回新制作派協会展に「村井中尉」「千田大尉」で初入選の後同二展に出品をつづける。同19年第9回新制作派協会展に「久子」「戦傷荒木上等兵」を出品して新作家賞受賞。同21年第1回京展に「姑」を出品して京都新聞社賞受賞。同年上京して第10回新制作展に「画家藤田氏」「稲村君」を出品して新作家賞を受け同24年同会会員に推される。同37年9月ガーナのアクラ市内にある国立コルレブ病院に、同院で死去した野口英世の胸像をたて野口博士記念庭園を造るためにガーナを訪れ、同地の人々や黒人彫刻に感銘を受ける。この後、「若いマミー」「運ぶダゴンバ」等大地に根ざした生命感あふれる作品を制作しつづけ、同48年3月16日より21日まで銀座松屋7階画廊で「田畑一作展―アフリカ」を開催。同55年甲府の浅川画廊で田畑一作彫刻展を開く。同58年東京現代彫刻展に「花信園」を出品して大衆賞受賞。同59年大津の西武百貸庖4階画廊で個展を開いた。「肖像彫刻はモデルの一代記のようなもの、また彫刻の設置には周囲の修景が必要」とする藤川勇造の教えをうけ、肖像に佳作を生んだほか、昭和34年のエーザイ本庄工場造園、同37年ガーナ市コルレブ病院構内の日本庭園造庭、同年電気通信労政会館で竣工記念彫刻「飛びたつ白鳥」等彫刻を含む公共空間の制作にあたっては、「岩はきずいて草をすまわせる」ことをモットーに設計等も行なった。作品が「風吹けばにおう花のように」あることを目指し、大地と生命力が均衡を保ちつつ存在する植物のように自然と調和する造形を追求した。
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没年月日:1994/07/07 新制作協会会員の彫刻家山本常ーは、7月7日心不全のため東京都目黒区の国立東京第二病院で死去した。享年84。ニワトリやフクロウなど鳥の彫刻で知らされた山本は、明治45(1912)年4月9日神戸市に生まれ、大分県中津市で育った。日本大学中退、一時、東宝特殊撮影製作に従事した。はじめ国画会彫刻部に出品(第10-14回)したが、昭和11年創立の新制作派協会第1回展出品以来同会に所属し、戦後の同24年同会員に推挙され、以後、新制作協会を中心に制作発表を行った。また、選抜秀作美術展、日本国際美術展などにも出品する。同52年には前年制作の「夜の詩」で長野市野外彫刻賞を受賞、その後も鳥をモチーフに写実的で温かみのある作風を展開した。作品集に『鳥BIRD』(昭和38年、美術出版社)、著書に「鳥粘土でつくるたのしい造形」(同43年)がある。葬儀・告別式は新制作協会葬(葬儀委員長佐藤忠良)として、7月12日東京都杉並区梅里の堀ノ内斎場で執り行われた。
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没年月日:1994/04/30 元東京芸術大学教授で新制作協会会員の彫刻家細川宗英は4月30日午後10時26分肝不全のため東京都文京区の東大病院で死去した。享年63。昭和5(1930)年7月25日長野県松本市に生まれる。東京芸術大学彫刻科で菊池一雄に師事し、同29年同科を卒業。同年同専攻科に進学し、在学中の同30年第19回新制作派協会展に「トルソO」「鳥になる女」で初入選。以後同展に出品を続ける。同31年東京芸術大学専攻科を終了して同校彫刻科副手となり、また、同年の第20回新制作展に「兜をかぶる男」「うつむく女」「三人の立像」を出品して新作家賞を受賞する。同33年秀作美術展に招待出品し、また新制作協会会員となる。同34年世界平和交友美術展に出品し、佳作賞受賞。同展出品に伴いモスクワ経由でウィーンを訪れる。同39年新制作展に「装飾古墳のイメージ」を出品し、翌40年高村光太郎賞受賞。同43年文化庁芸術家在外研修員として渡米し、メキシコ、ヨーロッパをも訪れる。同47年前年の作品「道元」で中原悌次郎賞を受賞し、同55年第1回高村光太郎大賞展で優秀賞を受賞。同52年母校東京芸術大学彫刻科助教授、同56年同科教授となった。同58年東京現代野外彫刻展に招待出品し優秀賞を受賞。上記の他の代表作として「王妃像」「王様と王妃」などがある。対象の形を忠実に再現する人体像から、人体を部分に解体して、静物などのそティーフとともに再構成する象徴的作風を示し、具象彫刻界に指針を示した。時に、号として「無水」を用いた。
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没年月日:1994/02/14 読み:めんやしょうぞう 京人形師で本名岡本庄三の名で新制作協会会員の彫刻家としても活躍した面屋庄三は2月14日午後10時30分、急性心不全のため京都市中京区押小路通富小路角橘町の自宅で死去した。享年83。明治43(1910)年4月20日京都市下京区に生まれる。昭和4(1929)年、京都市立美術工芸学校彫刻科を卒業。人形を先代の12世面屋庄次郎に、彫刻を藤川勇造に学ぶ。伝統的京人形を制作し、昭和28年に三ツ折人形で国の無形文化財保持者に認定された。同33年よりあまがつ会人形展を毎年開催。同38年からは荘人会人形展も開催し、京人形の普及に努めた。同45年に13世面屋を襲名。また、彫刻家として新制作協会展に出品し、昭和26年第15回展に「女像」を出品して新作家賞、翌27年には「習作婦」「首」を出品して同賞を受賞し翌28年同会会員となった。彫刻は婦人像を中心に人体を主要なモティーフとし、表面のマティエール等に人形との共通点が見いだせる。京都市文化功労者、国際芸術文化賞などを受賞。『京人形あれこれ』などの著書もある。三ツ折人形のほか、御所雛、相込人形等も得意とした。京都五條大橋西詰の「牛若弁慶像」を制作したことでも知られる。
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没年月日:1994/02/07 日展会員で、日本彫刻会運営委員の彫刻家西村房蔵は、2月7日午後2時32分、急性肺炎のため東京都墨田区の健生堂病院で死去した。享年74。西村は、大正8 (1919)年7月20日、千葉県に生まれ、仏像彫刻を本業としながら、昭和36年の第4回日展に「立」が初入選。同43年の第11回展に出品の「霞光」が特選を受けた。同45年の第2回改組日展でも、「葦角」が再び特選を受ける。同49年の第6回展では、審査員をつとめ、同59年に同展会員となる。堅実な手法による自然なポーズをとる女性像を毎回日展に発表した。
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没年月日:1994/01/02 二科会評議員の彫刻家高須賀桂は、1月2日急性肺炎のため東京都品川区の北品川総合病院で死去した。享年80。白色セメント造形美術会にも所属した高須賀は、大正2(1913)年11月27日愛媛県温泉郡拝志村字上村に生まれ、愛媛県立松山中学校を経て、昭和13年東京美術学校工芸科図案部を卒業した。同年森永練乳株式会社宣伝部に入社、制作活動も併行し、同16年の第28回二科展に「女の首」で初入選、以後同展への出品を続けた。同18年応召し同21年に復員、翌年鉱工品貿易公団美術工芸室に勤務、その後、貿易庁、特許庁に勤めた。二科展へは同25年から復帰し、同27年の第37回展に「バラ色の髪」で特待賞を受け、同29年の第39回展に「試作」を発表し二科会会友、同34年の第44回展では「コンポジション」を出品し、二科会会員に推挙された。同58年の第68回展に「コンポジション(競)」で会員努力賞を受賞、翌年二科会評議員となった。この間、同30-45年の問、白色セメント造形美術会野外彫刻展に毎年出品を続けた他、同34年仏国サロン・ド・コンパレーゾンに出品、同47、48年建築と共にある彫刻展に参加、同51年グループ13(東美校昭和13年卒)結成に加わるなど、積極的に制作活動を展開した。同50年特許庁審判長を退官する。野外彫刻作品としては、品川区立図書館など数多く設置されている。
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没年月日:1993/11/17 行 動美術協会会員の彫刻家野口鎮は、11月17日午後2時2分、心不全のため東京都練馬区の高松病院で死去した。享年69。大正13(1924)年4月8日、東京に生まれる。本名鎮夫。昭和12(1937)年東京府湯島尋常小学校、同17年豊山中学校を卒業し、同年東京美術学校彫刻科に入学。同19年学業なかばにして宇都宮の陸軍飛行学校に入る。同20年、東京美術学校に復学、翌21年より加藤顕清に彫刻を学ぶ。同22年第3回日展に「若き人の像」が初入選するが、以後日展へは出品していない。同23年東京美術学校を卒業。父親が人形作家であったことから、翌24年人形劇団プークの美術部員となった。同29年より東京都港区立北芝中学校、同愛宕中学校、都立高等工芸学校の講師を歴任する。同37年UNIMA(国際人形劇連盟)日本代表としてポーランド、ワルシャワ会議に出席。同39年第19回行動展に「En,tropie」で初入選。以後同展に出品を続け、同41年同会会友、同46年第26回同展に「ほぞ」を出品して奨励賞を受賞。同48年同会会員となった。この間、同44年チェコ・プラハで行なわれたUNIMA第10回大会にも出席したほか、同年カンボジア・アンコールをも訪れている。初めは人体像を中心に具象彫刻を制作したが、戦後抽象彫刻へ移行。支柱と直交する角柱による「音叉」のシリーズの簡潔な造形から、昭和60年前後には、水道の蛇口などからしたたる水のしずくを共通のモティーフとする「水は天から貰い水」シリーズへと展開した。このほか、東京都田無福祉法人緑寿園ロビー、神戸市垂水区歌敷山通称院記念碑、泉佐野市犬鳴山七宝滝寺記念碑など公共の場のための制作も行なっている。美術教育にも寄与し、昭和51年から平成5年まで女子美術大学の講師をつとめた。
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没年月日:1993/10/22 日本芸術院会員で日展事務局長をつとめた彫刻家小森邦夫は10月22日午後6時33分、心不全のため水戸市の水戸赤十字病院で死去した。享年76。大正6(1917)年6月6日、東京都浅草今戸に生まれる。赤坂高等小学校を経て日大皇道学院に学ぶ。昭和10年、構造社彫塑研究所に入り斉藤素厳に師事。構造展に出品し、同15年紀元2600年奉祝展に「めぐみ」で入選して官展初入選をはたす。翌16年第4回新文展に「断」で入選するが、後従軍。同21年春、第1回日展に「久遠」で入選し、以後同展に出品を続ける。同28年第9回日展に「ながれ」を出品して特選・朝倉賞受賞、同年第1回日本彫塑会展に「婦(A)」を出品して、以後同会にも出品を続ける。同30年第11回日展に「裸婦立像」を出品して特選、翌31年第12回展では「若い女」で2年連続特選となり、翌32年には日展依嘱となった。同年中国平和委員会からの招待で茨城県文化人代表として約40日間中国視察旅行、中国の古代遺跡等を訪れた。同33年よりたびたび日展審査員をつとめ、同34年日展会員、同39年日展評議員となる。同55年第12回日展に「腰かけた婦」を出品して文部大臣賞受賞。同60年、戦後間もない同23年から運営委員、審査員を続けていた茨城県展に「青春譜」を出品し、この作品により昭和59年度日本芸術院賞を受賞した。同60年日展理事、日本彫刻会理事となる。平成元(1989)年日本芸術院会員に選ばれた。裸婦像によって抽象的概念や情趣を表現するのを得意とし、流麗なポーズ、穏やかな作風を好んだ。代表作に茨城県立運動公園に立つ「緑に舞う」、勝田市駅前「であい」、土浦市にある「湖畔に佇つ」などがある。 新文展・日展出品歴昭和15年紀元2600年奉祝展「めぐみ」、同16年第4回新文展「断」、同21年春第1回日展「久遠」、同年秋第2回「想」、同22年第3回「女性」、同23年第4回「影」、同24年第5回「追憶」、同25年第6回「蒼茫」、同26年第7回「荒海」、同27年第8回「妻の首」、同28年第9回「ながれ」(特選・朝倉賞)、同29年第10回「残陽」、同30年第11回「裸婦立像」(特選)、同31年第12回「若い女」(特選)、同32年第13回「女の顔」、同33年改組第1回「野性」、同34年第2回「ポーズする女」、同35年第3回「手を組む」、同36年第4回「碧」、同37年第5回「抗」、同38年第6回「あすなろ」、同39年第7回「膝をつく」、同40年第8回「ヴェール」、同41年第9回「腰かけたポーズ」、同42年第10回「雲」、同43年第11回「丘に立つ」、同44年社団法人日展第1回「浴後」、同45年第2回「砂丘」、同46年第3回「樹下佳人」、同47年第4回「佇立女」、同48年第5回「遊歩」、同49年第6回「腰かけた女」、同50年第7回「ポーズするエイ」、同51年第8回「浴」、同52年第9回「渚」、同53年第10回「海辺」、同54年第11回「閑寂」、同55年第12回「腰かけた婦」、同56年第13回「晨(あした)」、同57年第14回「想」、同58年第15回「仰ぐ」、同59回第16回「粧い」、同60年第17回「湖畔に佇つ」、同61年第18回「南国」、同62年第19回「瀬音」、同63年第20回「風」、平成元年第21回「舞う」、同2年第22回「碧」、同3年第23回「佇む婦」、同4年第24回「磯」、同5年第25回「砂」
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没年月日:1993/10/22 日展参与の彫刻家長沼孝三は10月22日午前10時35分、心筋こうそくのため東京都品川区の昭和大学病院で死去した。享年85。明治41(1908)年1月18日、山形県西置賜郡に生まれる。長井小学校を経て大正14(1925)年県立長井中学校を卒業。同15年東京美術学校彫刻科に入学し、昭和6(1913)年、同校を卒業する。同年第12回帝展に「インテリゲンチャ」で初入選。以後官展に出品を続け、同12年第1回新文展には「踊る」を出品した。同14年中国北部を約二ケ月旅する。同15年紀元2600年奉祝展に「山の鎮」を出品。同16年第2回聖戦美術展に「英霊」を出品し陸軍大臣賞を受賞した。同17年7月高村光太郎を顧問とする造営彫塑人会の創立に参加し、同会会員となる。同年第5回新文展に「若者は征く」を出品して特選となる。同18年満州美術学校開校とともに同校教授となった。同20年陸軍美術展に聖戦記念碑「ラバウル」を出品。同21年春第1回日展に「葡萄」を出品。同年秋の第2回日展には「愛と平和」を出品し、以後同展に出品を続ける一方、同22年7月に沢田政廣らが設立した日本彫刻家連盟にも参加し、同23年の第1回同展に「女」を出品した。同24年7月戦後初めての野外彫刻「愛の女神」を東京・上野駅前広場に設置した。同28年日本彫刻家連盟が解散し、日本彫塑家倶楽部が設立されると同連盟に参加して出品を続けた。同35年日展評議員、同59年日展参与となる。後進の指導にも尽力し、同38年から同53年停年退官するまで東京家政大学教授をつとめたほか、同41年に設立された東京デザインアカデミー(現東京デザイン専門学校)の顧問を、設立時からつとめた。関野聖雲に師事し寓意的女性像を得意としたが、同49年からその後ライフワークのように連続してつくられることとなる念仏踊を主題とする作品の制作を始める。一方で、社会批判を含む作品を日展に出品し続けた。平成4年郷里長井市の生家、丸大屋敷内に長沼孝三彫塑館(山形筈長井市十日町1-11-7)が開設された。 帝展・新文展・日展出品歴第12回帝展(昭和6年)「インテリゲンチャ」、第13回「子供の家」、第14回不出品、第15回「坊やは春」、第1回新文展(同12年)「踊る」、第2、3回不出品、紀元2600年奉祝展(同15年)「山の鎮」、第4回新文展「熟慮」、第5回(同17年)「若者は征く」(特選)、第6回不出品、第1回日展(同21年春)不出品、第2回(同年秋)「愛と平和」、第3回「スタイル」、第4回「おとめ」、第5回(同24年)「風」、第6回「女」、第7回「女」、第8回「女」、第9回「ひととき」、第10回(同29年)「山羊と女」、第11回「手」、第12回「女」、第13回「女」、改組第1回日展(同33年)「女二人」、第2回「若い二人」、第3回「一姫誕生」、第4回「母の像」、第5回(同38年)「風」、第6回「辰年のうた」、第7回「七夕」、第8回「仮面」、第9回「縄文」、第10回(同43年)「女」、第1回社団法人日展(同44年)「若衆」、第2回「念」、第3回「うそふき」、第4回「傀儡」、第5回(同48年)「1973怪」、第6回「怪いよいよ怪」、第7回「ありうべからざる怪」、第8回「話があわない」、第9回「お先真っ暗」、第10回(同53年)「歌う」、第11回「居直り時代」、同12回「まず損得」、第13回「キナ臭い」、第14回「凶器を持たすな」、第15回(同58年)「心中はごめん」、第16回「桜下念仏」、第17回「雪国」、第18回「念仏踊 枕打」、第19回「舞う」、第20回(同63年)長井橋「今」、第21回(平成元年)「けん玉」、第22回「現代うかれ雛」、第23回「さかさに見るとおもしろい」、第24回「渋茶も結構」、第25回(同5年)「黒衣讃歌」(遺作)
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没年月日:1993/09/20 元日本美術家連盟理事長で日展参与の彫刻家山本雅彦は、9月20日腎不全のため東京都中野区の横畠外科病院で死去した。享年92。山本は明治34(1901)年4月29日東京・芝に木彫家山本瑞雲の子として生まれた。はやくから父瑞雲のもとで木彫に親しんだが、やがて塑造の道へ進み、大正15年東京美術学校彫刻科塑像部を卒業した。在学中の大正13年、第5回帝展に「永却の詩」で初入選し、以後帝展への出品を続け、新文展では無鑑査出品となった。戦前は官展の他、サンフランシスコ万国博などにも出品する。昭和16年応召し戦後旧ソ連エラプカに抑留され、3年間在官労功などに携わる側ら小仏像の制作を続け、これらの小仏像は「エカプカ仏」と呼ばれ供養する会ができた。同23年9月帰還し、同25年第5回日展に「寂寥」を出品し特選、ついで第6回、7回日展にも「静華」「芽ざす」でそれぞれ特選、朝倉賞を受賞した。同33年第1回新日展では「北のひと」で文部大臣賞を受賞。人物をモチーフに独自の造形世界を拓いた。日本現代美術展、日本国際美術展、国際具象展にも出品し、日展では評議員、参与をつとめた。また、日本彫塑家クラブ理事、日本美術家連盟理事長などを歴任した。
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没年月日:1993/08/26 読み:くわはらひろもり 女子美術大学名誉教授、二紀会委員の彫刻家桑原巨守は8月26日午後7時28分、呼吸不全のため東京都大田区の自宅で死去した。享年66。昭和2(1927)年7月15日、群馬県沼田市に生まれる。同24年東京美術学校彫刻科を卒業。関野聖雲に師事した。同38年第17回二紀展に「裸婦B」「裸婦A」で初入選し同年同人に推される。同41年第20回二紀展に「しゃがむ」を出品して同人賞受賞、同50年第29回展では「風と花(その2)」「砂山」で菊華賞を受賞した。同57年第2回高村光太郎大賞展に招待出品し、美ケ原高原美術館賞受賞。この間の同48年彫刻の森美術館に「Fur Coat」が設置され、その後も同館に「風と花」等が設置された。公共の場のための制作としては、広島市中央公園の「風と花」、北海道中標津町公民館の「讃太陽・中」、日比谷シティの「風と花」、「凱風新頌」、「風の戯れ」、神奈川県民共済ビルの「貝を聴く」、名古屋市名城公園内「水の広場」の「風」、三洋証券白金研修センターの「花のロンド」、静岡県清水市の「大空に」、群馬県渋川市の「讃太陽」、名古屋市通町公園の「讃太陽」、群馬県沼田市の「新頌麗陽」などがある。裸婦像を得意とし、そのポーズによって抽象的概念を暗示しようとした。著書に『彫刻の四季』(絵本)、『彫刻の出来上るまで』(ポプラ社)などがある。
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没年月日:1993/08/07 一陽会常任委員の彫刻家中村輝は8月7日午後8時30分、脳出血のため横浜市中区の警友総合病院で死去した。享年80。大正2(1913)年1月26日、岐阜県大垣市に生まれる。本名二郎。昭和6(1931)年、東京美術学校図案科を中退。同10年帝国美術学校彫刻科を卒業する。在学中の同8年第20回二科展に「習作」で初入選。この頃は「暉」と号した。以後同展に出品を続け、戦後も同21年第31回二科展に「牛」を出品するが、同29年に同展への出品を停止し、同30年、一陽会の結成に参加して、同会会友となった。同31年第2回一陽展に「人馬」を出品して同会会員となる。同49年同会が委員制を採択するに際し、同会委員となった。同39年日本橋高島屋、同42年新宿ステーションビル、同48年西武百貨店渋谷店、同52年日動画廊で個展を開催。同63年大垣市制70周年記念として「中村輝彫刻展」を開催している。野外彫刻も多く、「金森吉次郎翁」(大垣公園、昭和25年)、「ダイアナ女神像」(京成電鉄谷津公園、同33年)、「鶏」(岐阜駅前、同34年)、「一粒の種(女神像)」(大垣市水上公園、同58年)等がある。初期には人体像を多く制作したが、のち馬を好んでモティーフとするようになり、人物と馬を組みあわせた像を得意とするようになった。一陽展出品歴1回(昭和30年)不詳、2回「人馬」、3回「A女」「ポーズ」「マダム」「裸」「少女」、4回「男神」、5回「火の記録」、6回「女体」、「女体エスキス」「馬」「青銅の鳩」、7回「女体」「騎乗」「深尾氏の首」、8回「歓喜」「風雪」「鳥郡」「鵜」、9回「方舟」、10回(同39年)「馬」「少女」、11回「馬」、12回「馬」「裸」「手」、13回「モンゴル人馬」、14回「群鳥」「鳥」、15回「馬」、16回「オロチヨンの火の鳥」、17回「馬」「馬」、18回「無題」「馬」、19回「古代の昼と夜の記憶」「馬」、20回(同49年)「女体」「駿馬」「一孤庵哄笑」、21回「原始(浮彫)」「武帝の汗血馬」、22回「女賊アマゾンの休日1」「女賊アマゾンの休日2」、「笛」、23回「躍上する馬」「駿馬」、24回「嘶く駿馬」、25回「酒神バッカス」、26回「舞上る(広場の為の試作)」、27回不出品、28回「酒杯を掲ぐ」、29回「女賊アマゾニ」、「一粒のたね」、30回(同59年)「青銅小品」「記念碑の為の未完原型」、31回「一粒の種」、32回「象徴の馬」、33回「浮彫無題」、34回「浜辺の女」、35回(平成元年)「駿馬」「馬」、36回「少年と馬」、37回「婦人と馬」、38回「由美坐像」、39回「駿馬」「鵜」
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没年月日:1993/04/05 二紀会委員の彫刻家板橋一歩は4月5日午後6時46分、肺がんのため富山県東礪波郡井波町の病院で死去した。享年82。明治44(1911)年3月12日、鹿児島県姶良郡に生まれる。本名政義。昭和6(1931)年鹿児島県立薩南工業学校建築科を卒業。同8年東京高等工芸学校図案選科を修了。同9年富山県井波町立井波尋常高等小学校の教員となり、同16年富山県立高岡工芸学校、同17年同県立高岡商業学校教員となった。同36年富山県立高岡工芸学校へ移り同45年停年退職するまで同校で教鞭をとる一方で制作を続けた。同26年第7回日展に「靴磨きの少年」で初入選。以後同展に出品を続ける。同28年JCA世界彫刻コンクールロンドン展に「無名政治犯像」を出品して入賞。日展には同39年まで出品を続けたが、同40年第19回二紀展に「歩け歩け」を出品し、以後同展に出品を続ける。同43年第22回二紀展に「ベトナム母子像」を出品して同人優賞受賞。同年9、11月にはこの作品をサイゴンに設置するためベトナムを訪れた。同51年欧州にスケッチ旅行に赴き、ギリシャ、イタリア、フランス、スペイン、オランダを巡った。同55年第34回二紀展に「難民キャンプの子供」を出品して文部大臣賞受賞。同61年インドへスケッチ旅行。同63年二紀会評議員となった。平成3年第46回二紀展に「朝のジョギング(ゆっくり走る)」を出品して田村賞を受けた。社会問題を作品に反映させた制作が多い。富山県の芸術文化にも寄与し、同48年より富山県彫刻家連盟委員長、同50年同県芸術文化協会参議となったほか、同55年富山県井波彫刻伝統産業会館館長となった。同49年には富山県文化功労者として表彰されている。作品集に同50年刊行の『板橋一歩彫刻作品集』がある。
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没年月日:1992/12/21 彫刻家で日展参与の赤堀信平は、12月21日急性心不全のため福岡県春日市の福岡徳洲会病院で死去した。享年93。号に苔石。明治32(1899)年3月15日現在の福島県いわき市に生まれる。太平洋美術学校から東京美術学校彫塑別科へ進み、朝倉文夫に師事、大正14年まで同校に学ぶ。在学中の同10年、第3回帝展に「御灯」で初入選し、以後同展に出品を続け、同14年の第6回帝展の「地に立ちて」から、翌年の第7回展「大地を行く」、さらに昭和2年の第8回展「空」で三年連続特選を受けた。同14年には初めて新文展の審査員をつとめる。この間、聖徳太子奉讃美術展などへも出品した他、東京・上野公園内の五条天神社の狛犬などを制作する。また、同10年、東邦彫塑院会員となる。戦後は日展に所属し、会員、評議員をつとめたのち参与となり、しばしば審査員をつとめた。同27年、日展出品の彫刻家による日本彫塑会に会員として参加、同29年には日本美術家連盟会員となる。木彫、塑像とも制作し、肖像彫刻にすぐれ、衆議院内の「尾崎咢堂胸像」(昭和30年)をはじめ、「広池千九郎像」(同38年)などがある。制作は他に「聖観音菩薩像」(京都・高山寺)など。
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没年月日:1992/09/18 古仏の模刻、補修などを行なった仏像彫刻家大川逞一は9月18日午後10時35分、心不全のため千葉県八日市場市の守病院で死去した。享年93。明治32(1899)年5月17日、千葉県匝瑳郡に生まれる。昭和2(1927)年東京美術学校彫刻科を卒業。高村光雲らに師事。同校研究科に進学し、3年間在籍した。同7年第19回二科展に「女の首」「坂本先生」「Yの首」で初入選する。同展には数回入選したが、それ以後は団体に属さず、日本彫刻史を独自に研究しつつ、法隆寺慈恩大師像、奈良薬師寺の玄奘三蔵法師像等を制作し、日光輪王寺の薬師如来像などの補修にも当たった。胤真、白湾とも号し、俳句をもよくした。
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没年月日:1992/08/11 新制作協会会員でキリスト教関係の作品で知られる彫刻家小坂圭二は、8月11日午前1時25分、急性肺炎のため東京都世田谷区の有隣病院で死去した。享年74。大正7(1918)年4月8日、青森県上北郡に生まれる。野辺地中学校在学中に阿部合成に師事するが、同13年より16年まで中国で兵役につき、一時制作から離れる。同17年東京美術学校彫刻科に入学して柳原義達に師事。同18年より21年までラバウルで兵役についた。同21年東京芸術大学に復学し、菊池一雄教室に学ぶ。同25年同校を卒業。同年から菊池一雄教室の助手をつとめた。また、同年の第14回新制作協会展出品作によって新作家賞、同27年第16回同展では「裸婦」で同賞受賞。同27年より翌年まで、東北十和田湖畔の「乙女の像」を制作中の高村光太郎の助手をつとめた。兵役の体験からキリスト教に興味を抱き38才で洗礼を受ける。以後キリスト教関係の主題を多くとりあげて制作。同34年新制作協会彫刻部会員となる。同35年渡仏し、フランス国立美術学校に入学。ヤンセスに師事し、エジプト、ギリシャ、ヨーロッパ各国を旅して、同37年帰国した。同45年大阪万国博覧会Expo’70のキリスト教館に「世界の破れを担うキリスト」を出品。同48年「断絶の中の調和」がバチカン現代宗教美術館買上げとなり、翌49年東京カテドラル大聖堂に「太平洋の壷」が納入された。同55年第1回高村光太郎大賞展に「人間1980」を出品して優秀賞受賞。同57年第2回同展には「漁る人」を出品して再び優秀賞を受けた。十字架の造型に興味を抱き、「ザ・クロス」(昭和42年)、「連立の十字架」(同42年、青山学院初等部礼拝堂)等、幾何学的形態に象徴性を持たせる作品を制作する一方で、「新渡戸稲造」立像等、肖像彫刻も多く手がけた。
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