長谷川仁

没年月日:1976/10/27
分野:, (画商)

日動画廊社長の長谷川仁は、10月27日午前1時45分、心不全のため東京・代々木中央鉄道病院で死去した。享年79。長谷川仁は、明治30(1897)年10月9日、牧師の家の14人兄弟姉妹の第7子として東京市牛込区に生まれ、明治43年茨城県笠間町立尋常小学校をおえ、私立聖学院中学をへて大正14(1925)年3月明治学院神学部を卒業。同年10月には長野県飯田の教会に牧師として赴任したが翌年東京へ帰り、横浜の海岸教会牧師から東京千住の食堂手伝いなどのあと、昭和3(1928)年友人の弟で洋画家であった松村建三郎の助言で洋画商を志し、秋に横浜貿易会館で洋画大展覧を開催、翌4年洗足幼稚園、5年多摩川園で日本洋画綜合展などを開いて基礎をつくり、昭和6(1931)年東京日本橋3丁目高能ビル1階に画廊「大雅城」を開いたが、同年9月には閉鎖、続いて11月3日に日本動産保険会社社長粟津清亮の援助で京橋区銀座5丁目の同保険会社ビル1階に「東京画廊」を開いた。翌7(1932)年1月に店名を「日動画廊」と改称、以後、同所でほとんど洋画だけ(一時期、工芸品も扱った)の画商として活動し、今日の洋画商界の先駆となった。個展としては昭和7年4月の草光信成水彩・油絵展を第1回展として、その後、鈴木千久馬展、高間惣七展、翌8年には木下義謙・雅子滞欧作品展(3月)、大沢昌助展(9月)など、9年にはブラジル経由で帰国した藤田嗣治の個展(2月)、海老原喜之助展(6月)などを開催した。特に、藤田嗣治展は大成功をおさめて注目された。その後の戦前の主な個展をあげると、毎年の藤田嗣治海老原喜之助展などのほか、猪熊弦一郎展(10年11月)、中西利雄展(11年5月)、北川民次メキシコ展(12年11月)、野田英夫展(13年4月)、佐伯祐三遺作展(同9月)、松本竣介展(15年10月)などがあり、そのほかに個展を開いて画家としては、岡田謙三山本鼎三雲祥之助児島善三郎津田正周熊谷守一野間仁根、桂ユキ、林倭衛福沢一郎などがある。また、個展開催はないが作品を扱った重要な画家としては藤島武二があった。戦後も、昭和20年9月の三岸節子展を皮きりに、各個展、画廊企画によるグループ展などをつぎつぎと開き、洋画界の発展に寄与した。昭和23年国際美術協会を組織してジュネーブ、パリで日本現代美術展を開き、28年藤島武二顕彰会を組織して本郷新藤島武二像を東京芸術大学に寄贈、31年日本洋画商協同組合が設立されたとき理事長に就任し5期にわたってその任にあった。昭和39年銀座7丁目に新たに日動本店を開き、それを記念して太陽展を企画、第1回展を開催、同42年には若い世代の美術家のために昭和会をおこし昭和会賞を設け、以後両展とも毎年継続して開催した。昭和39年(1964)には月刊美術雑誌『絵』を創刊し、また個人画集などの美術書の刊行にもあたった。昭和40年(1965)には私財を投じて郷里の茨城県笠間市に財団法人笠間美術館を設立、多くの画家の自画像、パレットを蒐集した特色ある美術館として知られるにいたっている。東京銀座の画廊のほか、大阪、名古屋、熊本、仙台、米子などに支店を開設、昭和48(1973)年10月にはパリに進出してフォブール・サントノレ街にパリ日動を開設した。
 美術界・美術市場におけるこうした功績によって、昭和42年藍綬褒賞をうけ、翌43年笠間市名誉市民となり、51年にはフランス政府よりコマンドール文化勲章をおくられた。著書に、『洋画商』(昭和39年)『へそ人生』(昭和49年、読売新聞社刊)がある。

出 典:『日本美術年鑑』昭和52年版(287頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「長谷川仁」『日本美術年鑑』昭和52年版(287頁)
例)「長谷川仁 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9773.html(閲覧日 2024-03-29)

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