三雲祥之助

没年月日:1982/08/19
分野:, (洋)

武蔵野美術大学名誉教授、春陽会会員の洋画家三雲祥之助は、8月19日午前11時28分、すい腫瘍のため、東京都杉並区の東京衛生病院で死去した。享年80。1902(明治35)年7月19日、京都市に生まれる。23年京都帝国大学文学部史学科を中退。翌24年、中学時代同級であった批評家田近憲三に誘われ渡仏し、仏文学者小松清を知り、油絵を描き始める。同年10月よりアカデミー・コラロッシに通いシャルル・ゲランに師事。26年サロン・ドオトンヌに初入選する。滞仏中、スペイン、イギリス、スイス、イタリア等を旅行。35年帰国し、春陽会へマヂョルカ島風景を描いた作品を出品するが、36年には第11回国画展に「風景」を出品し褒状を受け、翌年も国展に出品する。39年北京を訪れる。同年より1年間「文芸」に連載された高見順の小説『いかなる星の下に』の挿絵を担当。41年バリ、ジャワなどを訪れ、42年青樹社での個展にその成果を発表する。43年春陽会に「婦人像」を出品して会員に推され、以後同会への出品を続ける。57年日本国際美術展に「パリスの審判」を出品し佳作賞を受賞。72年より82年まで国際形象展にも出品しているほか、美術団体連合展、現代日本美術展にも出品している。美術教育の方面では、38年日本大学芸術科で講師をつとめた他、51年より武蔵野美術大学教授となり、74年退官し名誉教授となるまで長きに渡り後進を指導する。73年には武蔵野美術学園長となった。渡欧中は印象派を目標としたが、戦後は形体を思いきってデフォルメした斬新な画風を展開し、活発な言論活動による理論的影響力もあいまって画界のリーダー格に位置した。晩年はパスキン風の裸婦を多く描いている。『美の秩序』『ピカソ』など著作も多い。
春陽展主要出品作
1935年 第13回 「マヂョルカの海」「マヂョルカ島デヤの谿」「マヂョルカ島パルマ港の夕暮」
1944年 第21回 「ジャハバリーの舞踏諸姿」
1948年 第25回 「りんごかご」「アトリエの一隅」「制作」「ぶどう」「静物」
1953年 第30回 「婦人座像」「制作」「彫刻家」
1958年 第35回 「婦人像」「バラのある静物」「家造り」
1963年 第40回 「おお季節よ城よ」「ヴィナスと侍女」
1968年 第45回 「オーバード(朝の曲)」
1973年 第50回 「手鏡」
1978年 第55回 「まどろみ」
1982年 第59回 「砂丘と女」

出 典:『日本美術年鑑』昭和58年版(282頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「三雲祥之助」『日本美術年鑑』昭和58年版(282頁)
例)「三雲祥之助 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10131.html(閲覧日 2024-04-20)

以下のデータベースにも「三雲祥之助」が含まれます。

外部サイトを探す
to page top