安田靫彦

没年月日:1978/04/29
分野:, (日)

 日本画家安田靫彦は、4月29日心不全のため、神奈川県中郡の自宅で死去した。享年94。本名新三郎。明治17年2月16日東京市日本橋区の老舗料亭「百尺」の四男として生れた。父松五郎。母きく。病弱な少年期をすごすが、父の没後店舗を人に譲り、一家は根岸御院殿に転居した。近くに上野公園があり、博物館や、共進会ですぐれた美術品に接する機会も多く、その感動が画家への志を決心させることになった。明治31年1月14歳の時、小堀鞆音の門に入り、10月創立された日本美術院展に「家貞」を出品し、初入選となる。この年同門の磯田長秋、小山栄達らと研究会紫紅を結成し、研究をつづけたが、同33年10月今村紫紅を知り同会に迎え、会名を紅兒会と改めた。紅兒会はのちに速水御舟をも迎えるが、はからずも日本画壇に大きな足跡をのこすに至る俊才が集り、研鑽をつんだことは、近代日本画発展の上にその意義はきわめて大きいといわなければならない。明治34年東京美術学校日本画科選科に入学し、1年足らずで退学した。明治40年、日本美術院の研究会で岡倉天心に知られ、茨城県五浦の研究所に招かれ、またその推挽によって、翌年10カ月間篤志家による奈良古美術見学の機会が与えられた。天心にはその後も折々薫陶を受けたが、大正2年天心没するに及び、翌3年門下の横山大観、下村観山の日本美術院再興に際し、同人となり経営者に加わった。作品は、第1回に初入選以来院展に出品をつづけ、再興後は院の中枢的存在として活動をつづけた。そのほか初期文展でもしばしば受賞し、また紅兒会にも多くの作品を送った。制作のほか昭和14年には法隆寺壁画保存会委員となり、またそのための模写事業にたずさわり、戦後は21年に国宝保存会委員、22年正倉院評議会会員、同25年文化財専門審議会委員、26年東京国立近代美術館評議員となるなど、美術行政面にも尽力している。さらに、昭和19年以降26年まで東京美術学校(現東京芸術大学)教授となり、後進の育成にもつとめた。他方良寛の書についても造詣深く、その研究家としてしられるが、古陶に対する関心も深く、東洋古陶、土偶などの蒐集も数多い。作品は歴史面、花卉が最も多く、雅致深く、品格あるその画面は、ふく郁たる花の香りにたとえたれる。代表作、「夢殿」(1912)、「孫子勒姫兵」(1938)、「黄瀬川の陣」(1940)、「王昭君」(1947)など。昭和23年文化勲章受領。日本芸術院会員

◆年譜
明治17年(1884) 2月16日、東京日本橋区に松五郎、きくの四男として生まれる。本名新三郎。生家は江戸時代から続いた料亭「百尺」で、父はその三代目、養子であった。10月、母きく死去。初代松五郎の妻の妹松井きくに育てられた。
明治29年(1896) 日本橋区小網町にあった私塾甲津学舎で『四書』の素読や『日本外史』を学ぶ。この頃から体が弱く、病床に伏すことが多かった。年末頃、日本橋区有馬小学校高等科3年を退学する。この年8月に父松五郎が死去したため、店を父の友人小山某に譲り、一家は下谷区上根岸御院殿へ引越す。
明治30年(1897) 上根岸は上野公園に近く、しばしば帝室博物館に足を運び、法隆寺壁画や飛鳥天平彫刻の構造を見て感動する。また、日本絵画協会の第2回共進会(3月)、第3回共進会(10月)を見て、下村観山、菱田春草、横山大観、小堀鞆音の作品に感激し、画家になろうと決心する。
明治31年(1898) 1月、小堀鞆音の門に入る。10月、日本美術院が創立され、日本絵画協会第5回絵画共進会と連合して開会した第1回展に「家貞」を出品する。この年、同門の磯田長秋、小山栄達、山川永雅ら8名と紫紅会を結成し、互いに研究を続ける。雅号靫彦は、師鞆音の師川崎千虎がつけてくれた。
明治32年(1899) 10月、第3回院展(第7回絵画共進会)「粟津のわかれ」、(褒状二等)、紫紅会「吉野訣別」。
明治33年(1900) 4月、第4回院展(第8回絵画共進会)「遣唐使」、(褒状二等)。この頃、師の画風と違った絵を描き始めた遠慮から号を『眠草』としたが、程なくやめる。10月、今村紫紅を知り、意気投合して紫紅会に迎える。このあと会名を紅兒会と改めた。
明治34年(1901) 3月、初めて鏑木清方を訪ねる。4月、東京美術学校日本画科選科入学、古画の模写やモデルの写生を志したがならず、半年程で退学する。
明治35年(1902) 1月、小堀鞆音の主唱によって成立した歴史画風俗画研究会(歴史風俗画会)に参加する。3月、第8回院展(第12回絵画共進会)「北洋水師の末路」(褒状一等)9月、半月ほど奈良、京都に遊び、奈良の古美術に感銘を受けた。11月、紅兒会第2回展に「法隆寺御宴」を出品。
明治36年(1903) 4月、第14回絵画共進会「日蓮入滅」春、歴史風俗画会第2回展「田村麿と葛井親王」。7月、紅兒会第4回展「奈良朝」。9月、歴史風俗画会第3回展「平等院合戦」。
明治37年(1904) 10月、紅兒会第5回展「松山鏡」「戦友」。12日、日露海戦旅順攻撃の錦絵を描く。
明治38年(1905) 4月、巽画会第6回展「日永」を出品。6月、紅兒会第6回展「聚楽茶亭」「白旗の宮」。
明治39年(1906) 3月、歴史風俗画会第4回展「豊公詣白旗宮」「実盛」(二等賞)5月、紅児回第7回展「松風」。10月、江戸子会展「勝海舟」。
明治40年(1907) 3月、東京勧業博覧会「最手」、(二等賞)。8月、紅児会第8回展「新しき光」。9月、岡倉天心を会長とする国画玉成会の創立に加わり、評議員となる。文部省美術展覧会出品準備のため日本美術院の研究会で「福原管弦講」の下図を天心に認められ、五浦(茨城県)の研究所に招かれる。10月、文部省第1回美術展覧会(文展)「豊公」、(三等賞)。12月、岡倉天心、橋本雅邦が篤志家の寄付を得て組織した日本美術学院の事業として、選ばれて奈良に滞留し古美術を研究することとなる。
明治41年(1908) 奈良滞在9カ月の後、健康をそこね、8月、帰京する。10月、国画玉成会主催の日本絵画展覧会「守屋大連」(審査員出品)。12月、発病し、静養を余儀なくされる。この年、小堀鞆音らが発起した人物画研究会に参加する。
明治42年(1909) 春、鎌倉材木座に療養中、親しくしていた修善寺の旅館『新井』のあるじ相原氏の好意により、養気館とも称された『新井』の一室で静養する。晩秋、小康を得て、沼津千本浜に移る。
明治43年(1910) 9月、日本美術社主催絵画展覧会「天女」。10月、紅児会第13回展「観自在菩薩」。この年、沼津八幡町に住む。
明治44年(1911) 2月、巽画会第11回展の審査委員となる。3月、紅児会第14回展「仏陀」「達磨」。9月、日本美術社主催絵画展覧会「達磨」「上宮太子」。この頃、静養中に岡倉天心の見舞を受ける。この年、岡倉天心の配慮により、今村紫紅、小林古径、前田清邨と共に横浜の原富太郎の保護を受けることとなり、小田原に転居する。
明治45年大正1年(1912) 春、今村紫紅と共に小田原に住む。この頃、再び岡倉天心の見舞を受けた。6月、紅児会第18回展「人物」。10月、第6回文展第1部第2科「夢殿」、(二等賞)。この頃、「上宮太子」を制作。しばしば原邸の三渓園に招かれ、紫紅、古径、清邨と古名画等の鑑賞講究の会を催し、以後継続される。この頃、初めて良寛の書を観る。また富岡鉄斎の作品を知る。
大正2年(1913) 8月、紅児会解散。9月2日、岡倉天心赤倉の山荘に没する。この頃、「六歌仙」「黄瀬川之陣」を制作。
大正3年(1914) 9月、日本美術院の再興に発起人として参与し、経営者同人となる。10月、文展と日を同じくして日本橋三越旧館に開催された日本美術院再興記念展覧会(院展)に「御産の禱」を出品する。この年、大磯町に転居。
大正4年(1915) 春秋、病む。この年、「燈籠大臣」「文殊」を制作。
大正5年(1916) 5月、双幅画会(大阪、高島屋)「維摩詰」。6月、日本美術院主催今村紫紅遺作並追悼展覧会「今村紫紅像」。9月、第3回院展「項羽」。
大正6年(1917) この頃から、漢、唐、宋、高麗の古陶、土偶などを蒐集する。この年、「聖徳太子」「日蓮」を制作。
大正7年(1918) 9月、第5回院展「御夢」。この頃、良寛の研究を続ける。
大正8年(1919) 1月、多田いとと結婚する。2月、小品画幅展覧会(高島屋呉服店)「朝の富士」。6月、妻と共に越後に良寛の遺跡をたずねる。この年3月、小堀鞆音門下の革丙会が第1回展を開催する。この年、「観音」を制作。
大正9年(1920) 1月から2月にかけて肺炎のため臥床する。4月、革丙会第2回展「春の路傍」。9月、第7回院展「五合庵の春」。この年、「沐猴」「弘法大師」を制作。
大正10年(1921) この頃、写真に凝る。この年、4月から10カ月間アメリカで開催された日本美術院同人作画巡回展に「曙」を出品。この年、「竹に双雀」「牡丹」「上田秋成」を制作。
大正11年(1922) 4月、巴里日本美術展覧会「新篁雨余」。7月、入手した良寛の自筆歌集「布留散東」を複製し、知人に頒つ。9月、第9回院展「二少女(あやとり)」。9月、新潟県出雲崎に藤原風をとり入れた良寛堂を設計する。この年、「狗」「良寛和尚」「摩利支天」を制作。
大正12年(1923) 9月の関東大震災により原家の援助を離れる。大磯町山手の住居は全壊した。この年、「鍾馗」「天人」「神農」「木瓜」を制作。
大正13年(1924) 春、大磯町小磯の鈴木別邸に移る。この年、「其角」「竹林観音」「上宮太子」「鶯を放つ乾山」「茶梅」を制作。
大正14年(1925) 9月、第12回院展「日食」。10月、中央美術十周年記念展「采女」。12月。関尚美堂展「梅」出品。この年、「大伴宿禰白鷹歌意図」「新羅図」「天人異香」「虎」「牛」などを制作。
大正15年昭和1年(1927) 1月、小堀鞆音社中の革丙会が革新の発会式を挙げ、審査員に推される。2月、聖徳太子奉讃美術展の代表委員となる。3月、革丙会展覧会「西廂待月」。12月、東京会展「胡瓜」。この頃から日記をつけ始める。この年、「紅梅に鶯」「挿頭花」「水月観音」「飛兎」を制作。
昭和2年(1927) 4月、革丙会第6回展「霊院寺夜月」。6月、東京朝日新聞社主催明治大正名作展覧会「守屋大連」「夢殿」「御産の禱」。12月、尚美展「蟷螂」。この年、「不動」「秋晩」「竜」。
昭和3年(1928) 3月、一八公会第3回展「鶯」。5月、革丙会第7回展「宛転歌」。9月、第15回院展「居醒泉」。11月、『良寛遺墨集』(第一書房刊)を監修する。12月、自ら設計した大磯町東小磯403の新居に入る。これより先7月に画室が完成し、既に制作を始めていた。この年、「漸入佳境」を制作。
昭和4年(1929) 4月、革丙会第8回展「顧愷之」。6月、坪内逍遥作『良寛と子守』(帝国劇場)の舞台装置をする。7月、『日本風俗画大成』(中央美術社刊)足利時代篇の解説を執筆する。9月、第16回院展「風神雷神」。10月、『日本風俗画大成』奈良平安時代篇の解説を執筆する。11月、第2回聖徳太子奉讃美術展(昭和5年開催)の審査員となる。この年、「瓶花」「不二」を制作。
昭和5年(1930) 4月、ローマで開催された日本美術展「風神雷神」。5月、大磯小千畳敷の安田家別荘内に持仏堂が落成する。初代安田善次郎翁追善のため建てられたもので、かねて依頼を受けて観音堂、五輪塔及び平唐門を藤原式に設計した。5月、東京会春期展「若葉」。9月、第17回院展「風来山人」。12月、琅玕洞展に「小倉の山」。この年、平福百穂、鏑木清方菊池契月小林古径安田靫彦前田青邨土田麦僊を会員とする七絃会が組織され、毎年1回日本橋三越で作品を発表することとなる。この年、「高野草創」「明恵上人」「黄初平」「春生」を制作。
昭和6年(1931) 1月、ベルリンで開催された日本美術展に委員として「沼の朝」を出品。4月、革丙会第10回展「天の川」。11月、七絃会第2回展「朝顔」。12月、三越展「水仙」。
昭和7年(1932) 3月、日本美術院同人派遣軍慰問展「盾」。4月、革丙会第11回展「高野明神」。7月、白日荘展「人麿」。9月、第19回院展「挿花」。11月、七絃会第3回展「鴨川夜情」、東京会展「倭媛命」。12月、三越絵画展「桓野王」、関尚美堂展「一休」。この年、「鶏」「水仙」を制作。
昭和8年(1933) 2月、琅玕洞展「朝顔」。4月、清光会第1回展「木瓜」、革丙会第12回展「清盛」。清光会が座右宝刊行会の主宰者後蔵真太郎によって組織された。会員は小林古径安田靫彦土田麦僊梅原龍三郎安井曾太郎坂本繁二郎、佐藤朝山、高村光太郎、。10月、吉田絃二郎作、中村吉右衛門初演の『二条城の清正』(東京劇場)の舞台装置をする。10月、日本美術院同人作品展「ざくろ」。11月、東京会展「鎌倉右大臣」、七絃会第4回展「宮本二天像」。12月、尚美展「春到」。この年、「源氏若紫図」を制作。
昭和9年(1934) 2月、日本美術院同人新作展「太子供養」。3月、日本美術院第18回試作展「市の聖」。4月、革丙会第13回展「横川の僧都」。6月、関尚美堂展「芍薬」。9月、第21回院展「月の兎」。9月、修善寺の旅館『新井』のために設計した浴室が完成する。天平風呂と名付けられた。9月から11月にかけて新京、ハルピン、奉天で開催された日満合同美術展に「蘭花」を出品、展覧会終了後宮廷に納められる。10月、第2回日本美術院同人作品展「北斗」。11月、七絃会第5回展「吉水の庵」。12月3日、帝室技芸員に任命される。12月、東京会展「相模太郎」。この年、「羅浮仙」「焔の兎」「利休居士」を制作。
昭和10年(1935) 2月、墨心荘展「聾米翁」。3月、太白洞展「春日野」。4月、東京府美術館開館十周年記念現代綜合美術展「風神雷神」(昭和4年)。踏青会第1回展(日本橋高島屋)「不動明王」。5月、清光会第3回展「梅」、革丙会第14回展「朝顔」。6月1日、帝国美術院会員。7月、関尚美堂展「凉棚」。11月、七絃会第6回展「一茶」、東京会展「大伴家持」。
昭和11年(1936) 2月、第1回帝国美術院展覧会(改組帝展)(審査員出品)「役優婆塞」。4月、踏青会第2回展「華会」。5月、革丙会第15回展「役行者」。7月、尚美堂展に「武蔵」、多聞洞展「孔子観河」。10月、第4回日本美術院同人作品展「不動明王」。11月、七絃会第7回展「仏性房」、井南居展「大雅と蕭白」。12月、現代邦画結集展「白玉椿」、九品庵展「摩訶迦羅天」
昭和12年(1937) 3月、革丙会第16回展「牛」。4月、明治大正昭和三聖代名作美術展覧会(大阪市立美術館)「守屋大連」(明治41年)「日食」(大正14年)「風神雷神」(昭和4年)6月、清光会第4回展「めじろ」。6月23日、帝国芸術院会員となる。9月、第24回院展「花づと」。第1回文部省美術展覧会(新文展)審査員となる。11月、井南居展に「龍胆」、七絃会第8回展「方丈閑日」。12月、三昧堂日本画展「明恵上人」。
昭和13年(1938) 1月、茶道を習い始める。矢来荘展「菊御作」。2月、関尚美堂展「うさぎ」。3月、多聞堂展「百合」、第5回日本美術院同人作品展「赤人」。6月、第5回展「うさぎ」、本山竹荘展「豊公」。9月、白日荘展「上宮太子」。10月、第2回新文展「孫子勒姫兵」(審査員出品)。11月、七絃会第9回展「観自在」。12月、井南居展「行秋」、関尚美堂展「曾呂利」。
昭和14年(1939) 1月、川崎小虎ら革丙会の有志と朱弦会を組織し、第1回展「紅梅」出品。3月、碧牛居展「壬生忠岑」。4月、紀元二千六百年奉讃展(日本橋高島屋)合作「肇国創業絵巻」出品。同巻に「天孫降臨」を描く。5月、東京会展「鎌倉右大臣」。6月、法隆寺壁画保存調査会成り、その委員となる。清光会第6回展「観音」。9月、第26回院展「天之八衢(天鈿女命と猨田彦神)」。11月、七絃会第10回展「菊慈童」。12月、井南居展「夜咄」、関尚美堂展「益良男」。
昭和15年(1940) 2月、朱弦会第2回展「布都御霊之太刀」、春芳堂展「行成卿」。5月、東京会展「伝教大師」。6月、清光会第7回展「瓢箪の花」。11月、紀元二千六百年奉祝美術展「義経参着」(委員出品)、七絃会第11回展「秋色」。この年、秋から法隆寺金堂壁画模写始まる。
昭和16年(1941) 3月、関尚美堂主催尚絧会第1回展「伊那佐の山」。6月、清光会第8回展「すまふ」。9月、第28回院展「黄瀬川陣」。この作品は前年の「義経参着」に対する右隻を完成し、左右揃えて出品した。11月、七絃会第12回展「源氏挙兵」。12月、第1回野間美術賞を受賞する。この年、11月から細川護立児島喜久雄の肝煎で、小林古径安井曾太郎梅原龍三郎らと横山大観の肖像を描く二十五日会が始まる。
昭和17年(1942) 1月、「黄瀬川陣」に対して昭和16年度朝日文化賞を贈られる。2月、日本美術院軍用飛行機献納同人作品展「重盛」「水仙」。3月、日本画家報国会軍用機献納作品展「益良男」、現代大家先哲画像展「良寛」。7月、清光会第9回展「櫛名田比売」。海軍省から山本五十六聯合艦隊司令長官の肖像制作を依嘱される。9月、第5回新文展審査員となる。10月、満州国建国十周年慶祝絵画展「鑑真和上」。11月、七絃会第13回展に「憶良の家」を出品。12月、尚絧会第2回展「九郎義経」。この頃「豊太閤」を制作。
昭和18年(1943) 1月、全日本画家献納画展「楠正行」。2月、日本歴史画展「神皇正統紀(北畠親房卿)」。7月、清光会第10回展「行墓菩薩」。この年、4月と12月に法隆寺壁画模写監督のため奈良へ赴く。この年、「薄紅梅」「赤星母堂像」を制作。
昭和19年(1944) 2月、戦艦献納帝国芸術院会員美術展「保食神」「豊太閤」。4月、日本歴史画展「相模太郎」。6月、東京美術学校教授となる。11月、文部省戦時特別美術展に「山本元帥像(十二月八日の山本元帥)」を海軍省が特別出品。この年、「若き射手」を制作。
昭和20年(1945) 7月、山中湖畔に疎開し、富士の山容に心をひかれる。9月、帰宅する。11月、日本美術院小品展「さくら」。この年、「古事記」「兎と薊」「不動明王」を制作。
昭和21年(1946) 6月、国宝保存会委員となる。文部省主催日本美術展覧会(第1、2回日展)審査員となる。この頃、大磯在住の若き学徒徳川義恭と宗達の研究を続ける。7月、清光会第11回展「観世音菩薩像」。この年、「白椿」を制作。
昭和22年 2月、七絃会復活展「火亦凉し」。3月、第2回日本美術院小品展「毬」。6月、清光会第12回展「牡丹」。7月、正倉院評議会会員となる。9月、第32回院展「王昭君」11月、東京国立博物館評議員会評議員となる。この年、「六朝文官俑」「翡翠」を制作。
昭和23年(1948) 2月、川端康成全集(新潮社版全16巻昭和29年4月完結)の表紙装画の制作を始める。3月、第3回日本美術院小品展「春到」。4月、兼素洞主催清流会第1回展「春禽」。5月、清光会第13回展「春暁(紅梅)」、五月会第2回展「欝金香」。11月3日、文化勲章を受領。
昭和24年(1949) 1月、法隆寺火災にて金堂壁画焼失する。4月、清流会第2回展「瓶花(桜)」。11月、宮中において『岡倉天心先生について』と題し御進講を行う。この年、「山百合」を制作、また春から病気がちであった。
昭和25年(1950) 2月、壺中居展「紅梅青華壺」。5月、清光会第15回展「チューリップと白磁壺」。6月、東華会展「白椿」。9月、第35回院展「大観先生像」。12月、文化財専門審議会の専門委員となる。清流会第3回展「つばき」「水仙」「兎」。
昭和26年(1951) 4月、清流会第4回展「朝霧」。5月、東京芸術大学において『気品について』と題し講義を行う。5月、清光会第16回展「菖蒲」。7月、国立近代美術館設立準備委員を委嘱される。9月、第36回院展「窓」。10月、北斗会展「秋野」、五都展「壺と花」。11月、東京芸術大学教授を辞任する。
昭和27年(1952) 4月、東京銀座松坂屋において朝日新聞社主催古径、靫彦、青邨代表作展が開催される。26点出品。3月、壺中居展「飛天」、柏風会展「紅花青瓷」。5月、仙皓会展に「八仙花」、五月会第6回展「菖蒲」。6月、清流会第5回展「牡丹瓶」。11月、五水会第2回展「在五中将」、尚美展「黄菊白菊」、北斗会展「高砂百合」。
昭和28年(1953) 1月、中央公論社画廊(丸ビル)において古径、靫彦、青邨素描展が開催される。「梅」「大観先生像」「俑」などが出品。2月、十大家新作画額装展(兼素洞)「南窓瓶花」「椿」。4月、壺中居開業三十周年記念展に「紅花青瓷」、東西新作日本画五十人展(西武百貨店)「白百合」。5月、清光会第18回展「女楽俑」。6月、薫風会第1回展(日本橋三越)「山霧」、清流会第6回展「淡妝」、北斗会展「牛」。9月、第38回院展「木花開耶姫」。10月、神奈川県立近代美術館において安井曾太郎安田靫彦三宅克己自薦展が開催される。20余点出品。11月、尚美展「柿」、白寿会第6回展「菊慈童」。
昭和29年(1954) 5月、清光会第19回展「送春雅缾」。11月、文化財専門審議会専門委員を辞任する。
昭和30年(1955) 2月、大虚会展「紅菊白瓷」を出品。3月、朝日新聞社主催日本美術院回顧展「夢殿」「御産の禱」「日食」「居醒泉」「孫子勒姫兵」「黄瀬川陣」「王昭君」「大観先生像」。3月、横山大観の米寿を祝い日本美術院同人一同が「八十八竜画帖」を贈呈する。竜車の故事に因む「孔明図」と他に書を2点執筆した。4月、五水会第4回展「花晨」「兎」「六朝女俑(素描)」。5月、薫風会第3回展「菖蒲」。6月、北斗会第7回展「雨後」。7月、清流会第7回展「須磨」。9月、第40回院展「鴻門会」を出品。11月、白寿会第8回展「瓶梅」、尚美展「柿と手鉢」。この年から「暁」「秋晴」などの富士の制作が見られる。12月、七大家新作画展(兼素洞)「暁」、丁亥会第9回展「秋晴」。
昭和31年(1956) 1月、双青会展「富士」。5月、大虚会展に「曙富士」。6月、清流会第8回展「帚木」。7月、瓊韻会展「三茄子」、尚美展「良寛和尚像」。8月、厳島神社の国宝「平家納経薬草喩品」装画執筆を依嘱される。9月、第41回院展「伏見茶亭」。10月、丹桂会展「朝富士」。11月、関尚美堂四十周年記念展「六朝宮人俑」、日本芸術院会員作品展「富士暁色」、玄皎会第2回展「鷺」、中央公論社新社屋落成記念展「紅梅白瓷」、白寿会第9回展「「紅梅」出品。
昭和32年(1957) 2月、松寿会展「梅」、第6回五都展「夜梅」。3月、柏光会展「坩梅」。5月、歌舞伎座菊五郎劇団公演『源氏物語』の舞台美術を監修する。7月、毎日新聞社主催現代美術十年の傑作展「伏見茶亭」(昭和31年)。7月、清流会第9回展「菩薩思惟」を出品。11月、むさしのに因む日本画展「桔梗」高樹会第1回展(中央公論画廊)「薔薇瓶」、白寿会第10回展「坩梅」、丁亥会第11回展「夜の梅」、玄皎会第3回展「瓶梅」。
昭和33年(1958) 3月、高島屋美術部50年記念展「柿と赤絵皿」。5月、日本美術院が財団法人に組織を改め、理事長に就任する。7月、清流会第10回展「薔薇」。9月、第43回院展「飛鳥をとめ」。この年、5月頃まで健康がすぐれなかった。
昭和34年(1959) 1月、『歌会始の儀』の召人として勅題『窓』を詠んだ召歌「家ぬちふかく窓より見ゆる枯山になごめるいろの冬となりにし」を詠進する。1月、文化財専門審議会専門委員を辞任する。1月、国立近代美術館、朝日新聞社主催『戦後の秀作』展に「伏見茶亭」(昭和31年)を出品。2月、厳島神社「平家納経薬草喩品」の表紙「厳島早春」と、見返し「説法釈迦」の図が成り修理が完成した。5月、薫風会展「薔薇」。6月、九品庵展「菖蒲」、尚美展「芥子」。7月、清流会第11回展に「王昭君」を出品。9月、第44回院展「大観先生像」。10月、浜奈寿会第1回展(横浜高島屋)「菊」、丹桂会展「桔梗」。11月、白寿会第12回展に「蓬生」、高樹会第3回展「富士」。第19回半弓会展「女楽偶人」「菖蒲」
昭和35年(1960) 6月、酒田市の本間美術館において安田靫彦名作展が開催され。20余点出品。6月、中国の北京、上海で開催された現代日本画展「芥子」。11月、銀座松屋において朝日新聞社主催安田靫彦スケッチ展(松屋画廊スケッチ展シリーズ第36輯)が開催される。57点出品。12月、筑摩書房版『良寛』を監修する。12月、尚美展「芥子」。この年、新東宮御所のために「富士朝陽」を制作する。
昭和36年(1961) 4月、第16回春季院展「木瓜遼瓶」。6月、尚美展「牡丹瓶」。7月、清流会第13回展「洛陽花」。9月、第46回院展「紅梅」。10月、玄皎会第6回展「瓶花」。11月、開業四十五周年記念尚美展「紅梅」「白梅」、白寿会第14回展「白梅」、高樹会第5回展「曙梅」。
昭和37年(1962) 4月、第17回春季院展「黎明富士(曙富士)」。6月、清流会第14回展「薔薇」。9月、第47回院展「茶室」。この年、「宋瓷梅花」を制作。
昭和38年(1963) 4月、紺綬褒章を受ける。4月、第18回春季院展「蘭」。5月、新椿会展に「女楽偶人」、小林一哉堂創立五十周年記念展に「富士」。6月、清流会第15回展「室内」。9月、『近代日本美術における1914年』展(国立近代美術館)「夢殿」「御産の禱」「今村紫紅像」。10月、丹桂会展「瓶花」。11月、白寿会第16回展「湘南富士」、高樹会第7回展「梅花定窯瓶」。12月、尚美堂展「女楽俑人」、丁亥会展「鶏頭」、玄皎会第7回展「ざくろ」。この年、「小泉信三像」を制作。
昭和39年(1964) 3月、第19回春季院展「紅白椿」。4月、日経ギャラリー開設記念絵画新作展「曙梅」。7月、朝日新聞社主催スケッチ展シリーズ完結記念『五十人の画家』展(銀座松屋)「谷崎潤一郎氏像」。9月、第49回院展「飛鳥の春の額田王」9月、横浜高島屋において神奈川県文化財協会、朝日新聞社主催安田靫彦展が開催される。戦後の中型作品を中心に40余点出品。11月、谷崎潤一郎新々訳源氏物語(中央公論社版)の装幀をする。
昭和40年(1965) 3月、第20回春季院展「藤壺女御」。5月、銀座松屋において朝日新聞社主催安田靫彦展が開催される。自選の85点を出品。5月、大磯町名誉町民の称号を贈られる。6月、東京芸術大学名誉教授のとなる。6月、清流会第7回展「刷毛目壺に百合」。9月、第50回院展「平泉の義経」。国立近代美術館、朝日新聞社主催『院展芸術の歩み』展に戦前の作品5点、戦後の作品3点を出品。院展同人展(銀座松坂屋)「黎明富士」。10月、浜奈寿会第6回展「笙を吹く宮人」、高島屋増築記念現代美術展「箕を持つ宮人」、玄皎会第8回展「曙梅」。
昭和41年(1966) 3月、第1回神奈川県展(招待展)「曙梅」。7月、山種美術館開館記念展「双舞」。この年、健康すぐれず、1年間休みがちに過す。昭和42年(1967) 2月、昭風会第1回展「暁梅」。3月、第22回春季院展「黎明富士(富嶽)」。6月、歌集『高麗山』(中央公論美術出版)を上梓する。6月から9月にかけて、レニングラードのエルミタージュ美術館とモスクワのプーシキン美術館で開催された近代日本画名作展に「伏見茶亭」(昭和31年)を出版。6月、清流会第19回展「紅花青花」。9月、第52回院展「酒折宮」。法隆寺金堂壁画再現模写を前田青邨と監修し、12月、吉田善彦らと6号壁をほぼ仕上げる。9月、「春暁富士」(東洋バルヴ株式会社カレンダー)制作。10月、浜奈寿会第8回展「暁の富士」、玄皎会第9回展「富士晴景」。11月、白寿会第19回展「馥郁」を出品。12月、中央公論秋季展「胡服新粧」を出品。
昭和43年(1968) 4月、第23回春季院展「伎楽面」、三越での同人小品展「白梅」。9月、第53回院展「卑弥呼」。この年、10月に完成した新宮殿千草の間に万葉の秀歌(書)を執筆する。10月、「紅白梅」を制作。11月、法隆寺金堂壁画再現模写完了し、落慶法要を行う。金堂壁画再現記念法隆寺幻想展(彩壺堂)に書(自詠和歌)三首を出品。
昭和44年(1969) 4月、第24回春季院展「酔胡王随従」。4月、彩壺会展「彩壺と偶人」。5月、松屋創業百年記念現代大家日本画展「富士晴旦」。6月、清流会第21回展に「酔貴妃」、錦銀装会金蘭会合同展「富士黎明」、尚美展「桔梗」。9月、第54回院展「森蘭丸」。11月、白寿会第21回展「木瓜磁州瓶」。12月、中央公論秋季展「紅白梅織部瓶」。
昭和45年(1970) 5月、薬師寺慈恩大師(国宝)の補筆を行う。9月、第55回院展「出陣の舞」。9月から10月にかけて、東京日本橋高島屋、名古屋名鉄百貨店、大阪高島屋において朝日新聞社主催米寿記念安田靫彦展が開催される。自選の84点(うち書4点)を出品。この年、名古屋松坂屋展「宋赤絵人形」。
昭和46年(1971) 3月、第26回春の院展「一服一銭」。3月、彩壺堂五周年記念展「富士曙光」。5月、日本美術院の新築落成を披露し、併せて安田靫彦理事長の米寿と平櫛田中理事の百歳を慶祝する祝賀会が行われる。6月、清流会第23回展「牛若と吉次」。7月、墨彩会展「相模国府寺」。8月、北辰画廊三周年記念展「木瓜古瀬戸瓶」。9月、第56回院展「吾妻はや」。10月、浜奈寿会第12回展「箱根富士」。12月、中央公論秋季展「菊花遼瓶」。この年、「志賀直哉氏像」を制作。
昭和47年(1972) 1月、天心と現代日本画展(東京セントラル美術館)に「五合庵の春」「日食」「孫子勒姫兵」と新作「飛鳥大仏と止利仏師」(昭和46年)を出品。3―4月、『描かれた歴史―近代日本画にみる-』展(山種美術館)に「卑弥呼」「森蘭丸」「守屋大連」「平泉の義経」「出陣の舞」。4月、第27回春の院展「富士晴るる」。9月、第57回院展「大和のヒミコ女王」を出品。9月、東京国立近代美術館二十年記念展『現代の眼-近代日本の美術から』「五合庵の春」「日食」「黄瀬川陣」「王昭君」「大観先生像」。
昭和48年(1973) 4月、第28回春の院展「後南朝自天王像」。5月、サカモト画廊十周年記念展「さくら」。7月、清流会第24回展「菖蒲」、高島屋墨彩展「浦辺」。9月、第58回院展「草薙の剣」。9月、玄輝会第1回展「曙富士」。10月、現代日本美術展に「梅花赤絵瓶」。12月、第17回中央公論秋季展「朝暾富士」。
昭和49年(1974) 7月、「高橋誠一郎氏像」を制作。9月、第59回院展「鞍馬寺参籠の牛若」。
このあと体調がすぐれず、暮に容態が悪化する。この年、前年から引き続いて、薬師寺金堂薬師三尊の光背制作監修に携わる。
昭和50年(1975) 1月、平塚の杏雲堂病院に入院する。同病院で91歳の誕生日を迎えることとなった。2月、白寿会第26回展「富士朝暾」(昭和49年)3月、57日ぶりに退院し、自宅で静養する。7月、自筆歌集『高麗集』が中央公論美術出版から刊行される。9月、日本美術院、日本経済新聞社主催院展60年の歩み展(日本橋三越)「窓」(昭和26年)
昭和51年(1976) 6月、東京国立近代美術館において「安田靫彦展」を開催(6.10-7.11東京国立近代美術館。日本経済新聞社主催)し、約80点が出品された。
昭和53年(1978) 4月29日、心不全のため払暁永眠。5月10日、葬儀が東京築地本願寺で、日本美術院葬(葬儀委員長奥村土牛理事)をもって、執行された。戒名、朝陽院青梅靫彦大居士。本年譜は土屋悦郎編「安田靫彦年譜」(安田靫彦展図録所収、東京国立近代美術館昭和51年)を再録し、一部追記した。

出 典:『日本美術年鑑』昭和54年版(296-305頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2016年11月21日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「安田靫彦」が含まれます。
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