国立博物館発足
1947年05月帝室博物館は皇室財産の整理とともに国有となり、三日の新憲法実施の日から文部省の管轄下に国立博物館として発足した。文部省の美術研究所、国宝調査室と奈良帝室博物館を併せ、新しい活動を始めた。館長には安部能成、次長には谷川徹三が就任した。
帝室博物館は皇室財産の整理とともに国有となり、三日の新憲法実施の日から文部省の管轄下に国立博物館として発足した。文部省の美術研究所、国宝調査室と奈良帝室博物館を併せ、新しい活動を始めた。館長には安部能成、次長には谷川徹三が就任した。
三日大阪府三島郡福井村において京大考古学教室の梅原末治らによつて竪穴式船型石室の前方後円墳が発掘された。中国製王恭鏡、和製の鏡その他貴重な資料が多数発見された。
金沢市に市立の美術工芸専門学校が設立され、元東京美術学校教授森田亀之助が校長に就任した。
勤労大衆の文化的意欲を基調とする新美術の創造を目ざして、美術文化協会を脱退した丸木位里、赤松俊子、山下菊二、井手則雄らは前衛美術会を結成し、五月第一回展を東京都美術館で開催した。
東京都と朝日新聞社の共同開催で第一回現代美術綜合展覧会が一日から二〇日迄東京都美術館で開催された。第一部日本画、第二部油絵、第三部彫塑、第四部工芸に分かれ全美術界に渉つて出品招待制をとつた。会期中の一四日には天皇皇后両陛下が御覧になつた。
昭和二〇年新発足をした二科会と別れて、旧二科会々員の正宗得三郎・熊谷守一・黒田重太郎・中川紀元・鍋井克之・宮本三郎・栗原信らによつて第二紀会が創立された。二八日発会式をあげ、九月東京都美術館で第一回展を開催した。
帝国芸術院第一部会員の補充として工芸の海野清の推薦が決定した。
労働組合文化活動の一翼として各会社工場等で美術部をもつものが多くなつたが、京浜地区の組合が発起団体となつて二〇日職場美術協議会が結成された。専門美術家の協力を得て、文化的技術的に向上させることを目ざし、六月東京都美術館で第一回勤労者美術展を開いた。
衆議院の文化関係者による日本社会文化協会によつて宮城内の国有地に劇場・博物館・美術館等の国営文化施設を建設しようとする計画案がたてられた。
帝国芸術院では一七日総会を開き、日展の規則を一部改正して第三回日展から出品招待者制をとることに決定した。第二回日展に際しての改組に無鑑査廃止制をとつたため無鑑査級作家の出品拒否となつたので折衷案として新制度採用となつたものである。
一八日天皇皇后両陛下は帝室博物館の本館陳列、表慶館の日本古美術工芸複製品展覧会と東京都美術館の泰西名画展を御覧になつた。
東京駅の待合室に石膏の浮彫壁画が飾られることになり、中村順平のデザインで本郷新・建畠覚三・田畑一作らの彫刻家が一〇日から原型の製作を始めた。日光・東海道・奈良等の光景を画き浮彫としては日本一の大きさを持つ壁面で四月二〇日に完成された。
帝室博物館では一日から二〇日まで表慶館で正倉院御物を主として桃山時代までの古美術工芸品の精巧な研究と技術による複製品を展観した。
読売新聞社主催、文部省後援の泰西名画展が一〇日から三〇日まで東京都美術館で開催された。国内にある西洋名画が多数集められ非常な好評であつた。
春陽会では一〇日日展不参加の声明書を発表した。従来は日展を総合展とする理想案実現に協力して審査員も出して来たが、昨年の日展の傾向から相反した性格を持つものとして不参加を決定した。
新制作派協会に出品する室田豊四郎、古茂田守介らの新進によつて研究発表会のシツタン会が創立された。二月北荘画廊で第一回展を開いた。
美術行政審議会では彫刻家の協力を求めて国会議事堂内に彫像の配置陳列を行つた。
千葉県山武郡成東付近で日大考古学会の門上秀叡等によつて前方後円墳が発掘された。関東には珍しい大和朝時代の遺跡で新しい型の埴輪なども発見された。