新重要美術品の認定
1947年10月一〇日重要美術品等調査委員会が開かれ、一休墨跡・京都島原の角屋などを含む絵画四三件、彫刻三二件、文書典籍九九件、刀剣三四件、同附属七件、工芸及考古学資料二八件、建造物二〇件の二六三件が認定され、一五日文部省から発表された。重要美術品の認定は戦後始めてゞある。
一〇日重要美術品等調査委員会が開かれ、一休墨跡・京都島原の角屋などを含む絵画四三件、彫刻三二件、文書典籍九九件、刀剣三四件、同附属七件、工芸及考古学資料二八件、建造物二〇件の二六三件が認定され、一五日文部省から発表された。重要美術品の認定は戦後始めてゞある。
北海道網走市内のモヨロ貝塚の発堀が東大の駒井和愛らによつて行われ、葺石被瓶葬跡や耳輪などが発見された。
三日天皇皇后両陛下は目黒駒場の民芸館へ行幸啓になり民芸のコレクシヨンを御覧になつた。
国立博物館では美術普及を計る事業の一つとして新聞形式で月刊の「国立博物館ニユース」を発行した。
一水会は二〇日日展不参加を決定声明書を発表した。
抽象派・超現実派など前衛画派の作家達によつて各自所属団体とは別に共同の研究団体として日本アヴアンギヤルド美術家クラブが結成された。二三年二月には第一回モダン・アート展を開催した。
奈良唐招提寺の秘宝調査が一八日から国立博物館の石田茂作・田中一松らによつて行われた。なお二四日から九月七日まで奈良博物館に於て唐招提寺宝物展が開かれた。
二科会では二三日の総会で日展不参加の態度を決定し、二七日声明書を発表した。
選挙による日展審査員は七日発表されたが、団体の多い第二部油絵では選挙運動が烈しく団体間で協定が行われたところもあり、これに対する非難が強く起つた。
国画会は一一日日展に対して不参加を決定し、声明を出した。
近代美術の常置陳列場の要望は中々実現されないが、国立博物館では一日から八月二〇日まで表慶館において明治以降物故洋画家の作品を時代的に陳列する近代日本洋画展を開催した。
昭和一八年発見された静岡県の登呂遺跡は、登呂調査委員会によつて一三日から発掘を開始し、弥生式文化時代の住居跡、水田跡、銅器具、ガラス玉などの貴重な資料を得たが、資金難のため八月二七日で中止し、九月一日から保存のため再び埋没した。
彫刻家の団結をはかつて日本彫刻家連盟が二五日創立された。第一回展は二四年六月東京都美術館で開かれた。
二五日から六月二五日まで国立博物館において古刀・新刀約二六〇点と外装具・鐔・小道具類を展示する刀剣美術特別展覧会が開催された。
毎日新聞社主催の第一回美術団体連合展が一〇日から三〇日まで東京都美術館で開催された。一水会・二科会・独立美術協会・光風会・国画会・春陽会・新制作派協会・東光会・旺玄会・創元会・現実会・自由美術家協会の一二団体が参加し、在野をふくむ日本洋画壇の展望を示した。会期中の二八日には天皇皇后両陛下が行幸啓になつた。
法隆寺五重塔の解体工事が一四日から始められたが、天井板落書の発見、さらに九月には一階壁面漆喰下から新しい壁面が現われるなど法隆寺研究上重要な資料が次々と発見された。
一七日京都東山の智積院から出火、本堂・寝殿その他の建物を焼失した。一部の床貼付等は建物と共に灰燼となつたが、国宝の襖絵は持出され焼失を免れた。
一九日から二四日まで銀座三越に於て現代中国木刻画展が開かれた。
一〇日東京美術学校彫刻科学生によつて彫刻科石井鶴三教授反対の声明書が学校当局・文部省などに提出され問題となつたが、平櫛・石井二教室制が採用され、六月山本豊市・菊池一雄が迎えられて解決した。
一〇日京都博物館で展観中の仁和寺所蔵金盒子が盗まれた。大正三年仁和寺境内から発堀され昭和一三年国宝に指定された平安朝末期の遺品である。