満州建国十周年慶祝画献納式
1942年10月満洲建国十周年慶祝画献納式は三十一日新京国務院貴賓室に於て張国務総理、武部総務長官、花輪大使館参事官其他祝典事務局文芸聯盟、日満文化協会の関係者列席の上、松林桂月、有島生馬の両使節より張総理へ目録を贈呈、総理は謝辞の後感謝状を贈つて献納式を終つた。
満洲建国十周年慶祝画献納式は三十一日新京国務院貴賓室に於て張国務総理、武部総務長官、花輪大使館参事官其他祝典事務局文芸聯盟、日満文化協会の関係者列席の上、松林桂月、有島生馬の両使節より張総理へ目録を贈呈、総理は謝辞の後感謝状を贈つて献納式を終つた。
東条首相は七日満洲国建国十周年を寿いでわが慶祝会から満洲国に献納する絵画の製作者及び満洲国皇帝陛下に献上した花瓶の製作者の労を犒ふ為これ等の美術家を首相官邸に招待した。出席者は横山大観、河合玉堂、荒木十畝、安田靫彦、前田青邸、鎬木清方、松林桂月、小室翠雲、西山翠嶂、上村松園、安井曽太郎、山下新太郎、有島生馬、南薫造、小林万吾、藤田嗣治、中沢弘光、清水六兵衛の外、陪賓として清水帝国芸術院長、渡部帝室博物館総長、沢田東京美術学校長、岡部日満文化協会副会長、竹内、宮田両慶祝会長等であつた。
高松宮殿下には七日東京帝室博物館表慶館に開催中の満洲国建国十周年慶祝献納絵画展覧会に成らせられ、日満文化協会副会長子爵岡部長景、渡部帝室博物館長の御説明にて御観覧遊ばされた。
東京美術学校興亜部では故岡倉天心の三十年忌に際し、五日同校々内天心銅像前に参集、天心祭を挙行し、又講演、展観等を行つた。
満洲国建国十周年慶祝会は、日満文化協会及び帝国芸術院の斡旋に依り帝国芸術院会員の製作にかゝはる日本画及び油絵を満洲国政府に寄贈する事となり、その発送に先立ち一日より七日迄帝室博物館表慶館に於てこれ等の作品を展観した。
三笠宮並びに同妃両殿下には二十六日満洲国国宝展に御成り遊ばされた。
高松宮殿下には妃殿下と御揃にて十日表慶館に開催中の満洲国国宝展に御成り遊ばされ、渡部帝室博物館長の御先導にて約一時間余に亘り御巡覧遊ばされた。
満洲国建国十周年を記念して日満文化協会の斡旋により満洲国建国十周年慶祝会、東京帝室博物館の共催により、十日より二十五日迄東京帝室博物館表慶館に於て刻糸、刺繍を中心とする満洲国国宝展が開催された。
文部省及び博物館協会等に於て予て大東亜博物館建設計画が進められつつあつたが、その内容の充実を計り、資料の散逸、群小機関の濫立を避ける為、民間団体その他一切の分散的計画を中止せしめ、強力なものとするべく、情報局は七日附を以て「大東亜における天産資源政治経済文化民族等に関する資料を綜合展覧すべき大東亜博物館(仮称)建設に関して政府に於て目下考究中につき、当分の間類似施設の設計計画はこれを進行を差控へしめる旨本日の次官会議において決定を見たり」と発表した。
英国に在つて其の名を知られた洋画家牧野義雄は、日英交換船に依り凡そ五十年振りに帰国した。
旧皇国芸術聯盟は新しく皇芸会と改称し、京都日本画家聯盟に加入、研究団体として杉本哲郎外同志により皇芸会国画研究所を設置した。
美術を通じ我日本民族の伝統的特質を東亜諸国に紹介し、亜細亜民族の文化昂揚を図る為予て設立準備中の大東亜美術協会は、会長に伯爵有馬頼寧を推戴、七日日比谷三信ビルに於て発会式を挙げた。
片山健吉、角浩、泉二勝麿等油彩、染色、陶器、産業美術、書道に関係する有志により扶桑会が結成された。
国威の宣揚とモニユメンタル彫塑への完成並に記念造営に関し挺身隊たらんとする趣旨のもとに、高村光太郎、清水多嘉示、中村直人、泉二勝麿等帝展、院展、旧国展等の彫塑家を網羅して造営彫塑人会が結成され、十五日上野精養軒に於て結成披露を行つた。
創立以来二十三年を経過せる京都の日本自由画壇は、時局に鑑み解散し、五日現在に至る迄の物故同人、其他関係者の追善法要を京都南禅寺天授庵で執行した。
予て岡倉天心偉績顕彰会がその第一回事業として計画中の天心終焉の地赤倉に於ける記念館赤倉山荘及び記念碑が竣工したので、二日竣工式を挙行、同夜同地香岳楼に盛大なる祝賀会が行はれた。
日本美術協会第一部(絵画)有志は、海軍傷病兵慰問の為作品三十五点を献納することとなり、一日上野公園同会列品館に於て内見会を催した。
世界未曾有の大戦時に逢着し、混沌を来しつつある国内建築工芸文化に新しき方向を劃する目的を以て本野精吾を理事長として住料文化研究会が京都に設立され、十四日その発会式及び第一回総会を開いた。
十日は故土田麦僊の七回忌に当るので、京都知積院に於て遺族、門人、知友により法要が営まれた。
日本画家福田翠光は第九回帝展出品の「撃搏」外作品二十点を海軍記念日に当る二十七日舞鶴鎮守府に献納した。