本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
- なお『日本美術年鑑』掲載時の分類も、個々の記事中に括弧書きで掲載しました。
- 登録日と更新日が異なっている場合、更新履歴にて修正内容をご確認いただけます。誤字、脱字等、内容に関わらない修正の場合、個別の修正内容は記載しておりませんが、内容に関わる修正については、修正内容を記載しております。
- 毎年秋頃に一年分の記事を追加します。
没年月日:1988/03/12 元文化庁長官、前東京国立近代美術館館長、文化庁顧問の安達健二は、3月12日肺炎のため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。享年69。文化行政全般に多大の功績のあった安達は、大正7(1918)年12月22日愛知県春日井市に生まれ、昭和20年東京大学法学部政治学科を卒業、同年文部省に入省した。終戦直後の同省で教育基本法、文化財保護法などの制定を手がけた。同28年文化財保護委員会無形文化課長となり、国指定重要無形文化財、いわゆる「人間国宝」制度をつくった。以後、初等中等教育局教科書課長、大臣官房人事課長、社会教育局審議官、文化局審議官、文化局長等を歴任し、同43年文化庁次長となり、同47年今日出海に継ぐ第二代文化庁長官に就任、同50年9月まで在任した。同51年1月東京国立近代美術館館長となり、61年3月退官、4月文化庁顧問となった。東京国立近代美術館館長在任10年の間、極めて精力的に同館の運営にあたった。同52年旧近衛師団司令部庁舎跡利用に関し、室内の改装を施し東京国立近代美術館工芸館として開館したのをはじめ、本館の収蔵庫増築を行い、同61年には東京国立近代美術館フィルムセンター相模原分館の竣工をみた。さらに、京橋の同館フィルムセンター建て替え計画も軌道にのせた。一方、同館は開館以来日本近代美術作品の収集を基本としていたが、今世紀の海外作品を含む国際的コレクションとする収蔵方針を打ちたて、ピカソ、ベーコン等の作品を在任中収蔵した。これに関連し海外展の開催にあたっても自ら尽力し、シャガール展(同51年)、マチス展(同56年)、ピカソ展(同58年)、退官後の展観となったゴーギャン展(同62年)等、国内で行われたこれらの作家の展覧会としては最も充実した内容に富む企画展に関与した。また、同52年にはアメリカから日本人画家による戦争画の一括返還を受け、これらを美術作品として部分的に公開する途を開いた。この間、大英勲章(同51年)、フランス芸術文化勲章(同52年)、イタリア共和国勲章(同53年)、世田谷区制55周年特別文化功労章(同62年)等を受章する。没後勲一等瑞宝章受章。著述に『教育基本法の解説』『中等教育の基本問題』『文化庁事始』『悠々閑々 画家の素懐』(日本画家編)などがある。
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没年月日:1988/03/09 日本芸術院会員の日本画家岩田正巳は、3月9日午前5時30分、脳出血のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年94。明治26(1893)年8月11日新潟県三條市の眼科医岩田屯、えつの長男として生まれる。本名同じ。父も愛山と号し日本画を描いた。三条中学校在学中、美術教員秋保親美の影響を受け、44年同校卒業後、翌45年川端画学校で寺崎広業の指導により夜間日本画を学ぶ。大正2年東京美術学校日本画科に入学。小堀鞆音、松岡映丘らに学び、仏画模写に励む。7年卒業後、同校研究科に進み、映丘に師事、10年同科を修了した。同10年映丘、川路柳虹を顧問に、映丘門下の狩野光雄、遠藤教三、穴山勝堂とともに新興大和絵会を結成、同年の第1回展に「写真」を出品する。以後同会を舞台に大和絵の新しい表現を研究、昭和6年の同会解散まで毎回出品した。この間、大正15年には、映丘一門による夏目漱石作「草枕」の絵巻制作に参加している。一方、大正13年第5回帝展に「手向の花」が初入選し、15年同第7回「十六夜日記」、昭和3年第9回「比叡の峯」など、古典や歴史に取材した作品を発表。昭和5年第11回帝展「高野草創」、9年同第15回「大和路の西行」がともに特選となる。その後、新文展にも出品する一方、昭和10年映丘を盟主として結成された国画院の結成に参加、同人となり、12年の第1回展に「聖僧日蓮」を出品した。13年映丘の死去に伴い、国画院は研究会として存続することとなった。が、一方旧同人を中心に翌14年日本画院を結成、会員となり29年まで同会に出品した。この間、11年映丘、服部有恒、吉村忠夫とともに帝室博物館壁画「藤原時代風俗画」を制作している。戦後は日展を中心に活動し、仏教などにも取材し西域に思いを馳せた作品を制作。35年第3回新日展出品作「石仏」により、翌年日本芸術院賞を受賞、37年にはインドに取材旅行している。27年日展参事となって以後、33年同評議員、47年監事、48年参与、54年顧問を歴任した。また戦後間もない24年頃より2年間東劇、27年頃より2年間歌舞伎座の舞台装置や衣裳の時代考証などもつとめた。52年日本芸術院会員となる。 年譜明治26年 8月11日、三条市の眼科医の家に長男として生まれる。明治33年 三条裏館尋常小学校に入学。明治37年 三条裏館尋常小学校を卒業。三条尋常小学校高等科に入学。明治39年 三条尋常小学校高等科を卒業。三条中学校に入学。明治44年 三条中学校を卒業。明治45年 夜間、川端画学校で日本画を学び、寺崎廣業に指導をうける。大正2年 東京美術学校日本画科に入学する。大正3年 第三教室(大和絵)を選び、主任教授小堀鞆音、助教授松岡映丘の指導をうける。この年頃から多くの仏画を模写する。大正5年 「木蘭往戎図」を描く。大正7年 東京美術学校日本画科を卒業する。双幅の「魏の節乳母」を卒業制作する。東京美術学校日本画研究科に入学し、松岡映丘に師事。松岡映丘の指導のもと、東京美術学校倶楽部で月並研究会が開かれる。大正8年 月並研究会の会場が、松岡映丘宅(常夏荘)に移される。大正10年 映丘塾常夏荘同人の狩野光雅らと、四人で新興大和絵会を結成。東京美術学校日本画研究科を終了。第1回新興大和絵会展に「写真」を出品。大正11年 第2回新興大和絵会展「初夏のさえずり」。大正12年 第3回新興大和絵会展「霧たつころ」。石田ミヨと結婚。関東大震災を機に常夏会は一旦解散。大正13年 第5回帝展に「手向の花」が初入選。大正14年 第5回新興大和絵会展「武蔵野の秋」。大正15年 第6回新興大和絵会展「早春浜辺」。映丘一門で夏目漱石作「草枕」の絵巻を制作し、参加。第7回帝展「十六夜日記」。昭和2年 第7回新興大和絵会展「比叡の峯」「金色夜叉」。第8回帝展「春日垂跡」。昭和3年 第8回新興大和絵会展「かげる比叡」「備後の海」「狭井川のほとり」。第9回帝展「比叡の峯」。昭和5年 第10回新興大和絵会展「尾津の一ッ松」、同展はこの回をもって終了。第11回帝展で「高野草創」が特選受賞。昭和6年 新興大和絵会解散。第12回帝展に「神功皇后」を無鑑査出品。昭和7年 第13回帝展「役小角」。昭和8年 第14回帝展「高野維盛」。昭和9年 第15回帝展に「大和路の西行」で特選となる。昭和10年 松岡映丘を盟主とする国画院の結成に参加し、同人となる。昭和11年 松岡映丘らと帝室博物館壁画の「藤原時代風俗画」(4点)のうち1点を制作。新文展招待展に「浜名を渡る源九郎義経」を出品。昭和12年 国画院第1回展に「聖僧日蓮」を出品。第1回新文展に「富士の聖僧日蓮」を無鑑査出品。昭和13年 第2回新文展に「山に住む公時」を無鑑査出品。昭和14年 川崎小虎らと日本画院を創設し、会員となる。第3回新文展に「木下藤吉郎」を無鑑査出品。昭和15年 第2回日本画院展「忠犬獅子」。この年頃から講談社の雑誌を中心に挿絵を描く。昭和16年 第3回日本画院展「忠盛」。昭和17年 第4回日本画院展「降盛出陣」。第5回新文展に「月に躍る」を無鑑査出品。昭和18年 第5回日本画院展「日蓮」。第6回新文展に「上杉謙信」を招待出品。昭和19年 戦時特別文展「吉田松陰」。新潟県加茂市に疎開。昭和22年 第3回日展に「愛犬」を招待出品。昭和23年 第8回日本画院展「初夏」。第4回日展「第一歩」。東京へ帰る。昭和24年 第5回日展の審査員をつとめ「少女」を出品。この年頃から2年間、東劇の舞台装置、衣装などの考証にあたる。昭和25年 第6回日展に「花さす人」を依嘱出品。昭和26年 第11回日本画院展「あみもの」。第7回日展の審査員をつとめ「鳩」を出品。昭和27年 第12回日本画院展「猫」。第8回日展の運営会参事をつとめ「秋好中宮」を出品。この年頃から2年間位、歌舞伎座の舞台装置、衣装などの考証にあたる。昭和28年 第13回日本画院展「牡丹と光琳」。第9回日展「鏡」。昭和29年 第14回日本画院展「幸若」。第10回日展の審査員をつとめ「夢の姫君」を出品。昭和30年 第11回日展「いかづち」。昭和31年 第12回日展「禽舎」。昭和32年 第13回日展の審査員をつとめ「青夜」を出品。昭和33年 社団法人第1回日展の評議員をつとめ「秋苑石仏」を出品。昭和34年 第2回日展「南風舞曲」。昭和35年 第3回日展の審査員をつとめ「石仏」を出品。昭和36年 日展出品作「石仏」により第17回日本芸術院賞を受ける。第4回日展「仁王」。昭和37年 第5回日展「俑4」。インドに取材旅行。昭和38年 第6回日展の審査員をつとめ「黒い服の李さん」を出品。昭和39年 第7回日展「紅床」。昭和40年 第8回日展「熄む」。昭和41年 第9回日展「李さんと七面鳥」。昭和42年 第10回日展「架」。昭和43年 第11回日展「春昼」。昭和44年 改組第1回日展「緑扇」。昭和45年 第2回日展「浴(印度・ベナレス水浴)」。昭和46年 第3回日展「女神」。勲四等旭日小綬章を受ける。昭和47年 第4回日展の監事をつとめ「神祀」を出品する。昭和48年 第5回日展の参与をつとめ「漢拓(漢画像石拓本)」を出品。昭和49年 第6回日展「群飛」。昭和50年 第7回日展「印度新月」。昭和51年 第8回日展「花と漢拓」。昭和52年 日本芸術院会員に推せんされる。第9回日展「宵」。BSN新潟美術館主催で岩田正巳展が開催される。昭和54年 第11回日展の顧問をつとめ「鴬-一将愛鳥鴬の美聲をよろこぶ」を出品。勲三等瑞宝章を受ける。昭和55年 第12回日展「晨」。昭和57年 第14回日展「夢」。昭和58年 第15回日展「供養の女達」。新潟県美術博物館主催で岩田正巳と三輪晁勢展が開催される。(株)美術出版協会から画集刊行記念としてオリジナル石版画「爽」が刊行される。(『岩田正巳画集』美術出版協会より抜粋)
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没年月日:1988/03/03 “モノ派”の先駆的役割を果たした現代作家郭仁植は、3月3日午後8時15分、肺ガンのため東京都板橋区の誠志会病院で死去した。享年68。大正8(1919)年4月18日大韓民国慶尚北道に生まれる。19才の時来日し、昭和16年第11回独立美術協会展に「未完成」が初入選する。戦後26年第36回二科展に「ドリーム」が入選して以後毎回入選、また美術文化協会展にも32年第17回「連作・反逆」などを出品する。同32年新エコール・ド・トーキョー創立に参加するが、34年退会。以後無所属で個展や内外の国際展を活動の場とする。この間、31年第7回読売アンデパンダン展に「進む」「現代」「新しい生」を出品。海外の美術の動向に鋭敏な反応を示していたが、35年頃よりガラスや真鍮、鉄板などを切断したり縫合した独自の作品を探究。素材自体に語らせようとする試みは1970年前後の“モノ派”の先駆的な作品として注目される。40年の第8回日本国際美術展に韓国から招待出品として「作品65-301」「作品65-401」「作品65-402」を出品。44年より和紙を使った作品を制作、和紙にノミをあて円を使った「物と言葉」などを制作する。1970年代末頃からは和紙に彩墨の色斑を施した作品を制作し、「work86-うM」「work86-SK」などを発表、東洋的自然観を現代美術に表現する試みを続けた。44年サンパウロ・ビエンナーレ、51年シドニー・ビエンナーレの代表となり、52年「韓国現代美術の断面」に出品。また版画やガラス、木の立体作品も制作している。59年ギャラリー上田で回顧展が開催された。作品集に58年『郭仁植の世界』などがある。
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没年月日:1988/02/23 美術評論家、東京学芸大学名誉教授の久富貢は、2月23日午前8時45分、心筋梗塞のため東京都世田谷区の至誠会第二病院で死去した。享年79。明治41(1908)年8月28日福岡県山門郡に生まれる。広島高等学校卒業後、京都帝国大学に入学し、昭和7年同大文学部美学美術史学科を卒業する。同年東京帝国大学文学部大学院に入学したが、10年中退、日本大学講師となる。12年国際文化振興会に勤務し、21年4月同編纂課長となった。22年中央労働学園専門学校講師、23年3月法政大学講師を経て、25年4月東京学芸大学講師、26年同大教授となり、教鞭をとった。同26年「日本来朝前のフェノロサ(1)(2)」(『国華』712、713)、続いて27年「フェノロサについて」(美学2(4))、29年「アーネスト・フェノロサ-その思想と美術上の活動」(東京学芸大学研究報告第6集別冊(1))を発表。32年にはそれらをまとめ、優れた最初のフェノロサ研究書『フェノロサ-日本美術に捧げた魂の記録』(理想社)を刊行した。その後も、39年「Lawrence W.Chisolm,“Fenollosa;the Far East and American Culture”について」(東京学芸大学研究報告16(1))、42年「チゾムの『フェノロサ』を中心として」(本の手帖61)、同年「フェノロサとその周辺」(日米フォーラム13(8))などを発表する。34年より36年まで東京学芸大学附属図書館館長を兼任し、39年には文部省在外研究員として欧米に出張している。47年3月東京学芸大学を停年退官、同年6月名誉教授となった。翌48年4月共立薬科大学教授となり、49年跡見女子大学教授(共立薬科大学教授を引続き兼任)となる。この間、38年10月『小川芋銭・富田渓仙』(講談社『日本近代絵画全集』第19巻)、49年1月『前田青邨』(集英社『現代日本美術全集』第15巻)、『安田靫彦』(中央公論社『日本の名画』第14巻)などを刊行。さらに55年『フェノロサ-日本美術に捧げた魂の記録』に加筆訂正した『アーネスト・F・フェノロサ』(中央公論美術出版社)、56年ジョン・ラファージの日本旅行記を翻訳した『画家東遊録』(中央公論美術出版社、桑原住雄と共著)を出版するなど、フェノロサをはじめ近代日本美術研究に多大の貢献を残した。研究業績については、フェノロサ学会機関誌『Lotus』第9号を参照されたい。
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没年月日:1988/02/21 日本の絵巻物研究の基礎を築く優れた多くの業績を残した、元文化財保護審議会専門委員、元京都国立博物館学芸課長、文学博士、梅津次郎は、2月21日午後10時32分、呼吸不全のため京都市東山区の洛東病院で死去した。享年81。 明治39(1906)年10月19日、三重県宇治山田市に生れた。昭和7(1932)年、東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業、同10年5月から21年3月まで帝国美術院付属美術研究所(現東京国立文化財研究所美術部)嘱託として日本古代中世絵画史研究に従事し、21年4月からは、当時は恩賜京都博物館と称した京都国立博物館に勤務し、同43年3月、学芸課長として定年退官した。退官後は、同年4月から大谷大学講師、奈良国立文化財研究所調査員を兼ねる一方、同年8月から62年3月まで文化財保護審議会専門委員をつとめた。 生涯を通じて追求した主題は絵巻物研究であった。「実証的な基礎に立たない発言は殆ど無意味である。啓示もそこから生れる。」という姿勢に貫かれた研究からは絵巻の絵と詞に関する異本との詳細な校合が行なわれ、多くの作品が日本絵画史の上に新たに意義づけられていった。研究活動の後半は、絵巻物を説話画の一形態と認識する視点から研究を続けたが、実証的研究を標榜した研究成果は鋭い感性と鑑識に支えられていた。絵巻物研究の水準のみか日本絵画史研究の水準を引上げた目覚しい研究業績の中から定期刊行物所載の論考を中心に発表順に次に記す。新名所絵歌合攷(美術研究29、昭和9年5月)男衾三郎絵詞(美術研究38、10年3月)天狗草紙考察(美術研究50、11年2月)池田家蔵弘法大師伝絵と高祖大師秘密縁起(美術研究78、13年6月)地蔵院本高野大師行状図画-六巻本と元応本との関係(美術研究83、13年11月)東寺本弘法大師絵伝の成立(美術研究84、13年12月)能恵法師絵詞について(美術研究104、15年8月)光明真言功徳絵詞(美術研究112、16年4月)伊保庄本並に津田本天神縁起絵巻に関して(美術研究114、16年6月)魔仏一如絵詞考(美術研究123、17年3月)天神縁起絵巻-津田本と光信本-(美術研究126、17年9月)帝室博物館蔵地蔵縁起絵巻考(美術研究131、18年4月)隨身庭騎絵巻雑記(美術研究136、19年5月)法然寺蔵地蔵縁起絵巻について(美術研究143、22年9月)是害坊絵巻の変遷、上・下(国華、675、676、23年6月、7月)義湘・元曉絵の成立(美術研究149、23年8月)池大雅筆楡枋園図(国華685、24年4月)秋夜長物語(国華687、24年6月)熊野影向図(国華701、25年8月)石清水八幡宮曼荼羅・八幡若宮像(国華704、25年11月)新出の法然上人伝法絵について(国華705、25年12月)善妙神像讃(大和文華1、26年3月)滝口縁起絵(国華718、27年1月)石山寺縁起絵考(美術史6、27年7月)八幡縁起絵巻(国華740、28年11月)後土御門天皇宸賛の墨画庚申図に就て(国華743、29年2月)フリア画廊の地蔵験記絵と探幽縮図(大和文華13、29年3月)大和絵(平凡社「世界美術全集」15、29年8月)高野大師行状絵の零巻について(国華752、29年11月)鎌倉時代大和絵肖像画の系譜-俗人像と僧侶像-(仏教芸術23、29年12月)五趣生死輪図に就いて-絵解の絵画史的考察その一-(美術史15・16、30年4月)「子とろ子とろ」の古図-法然寺蔵地蔵験記絵巻補記(ミュージアム50、30年5月)志度寺絵縁起に就いて(国華760、30年7月)変の変文-絵解の絵画史的考察その二-(国華760、30年7月)有馬温泉寺絵縁起に就いて(大和文華17、30年9月)謝蕪村筆桃源行図(国華771、31年6月)正嘉本天縁神起絵巻について-その出現並びに弘安本との関係-(国華779、32年2月)平安時代の美術(京都国立博物館特別展目録)(32年10月)徳川美術館の掃墨絵について(大和文華25、33年3月)鳥の物語絵巻断簡(国華793、33年4月)初期融通念仏縁起絵について(仏教芸術37、33年12月)東大寺本善財童子絵巻私考(大和文華29、34年4月)天理本源氏物語絵巻について(ビブリア14、34年6月)伝光信筆平家物語絵巻(美術史35、35年2月)日本の説話画(京都国立博物館特別展目録)(35年5月)華厳入法界品善財参問変相経(大和文化研究31、35年11月)矢田地蔵縁起絵の諸相(美術史39、36年1月)硯破絵巻その他-「小絵」の問題-(国華828、36年3月)瓜子姫絵巻の断簡(ミュージアム125、36年8月)版本の絵巻物-融通念仏縁起と高野大師行状図画-(講談社「日本版画美術全集」1、36年9月)粉河寺縁起絵と吉備大臣入唐絵(角川書店「日本絵巻物全集」5、38年8月)絵巻物残欠愛惜の譜(日本美術工芸316~334、40年1月~41年7月)吉備大臣をめぐる覚え書-若狭所伝の三つの絵巻-(美術研究235、40年3月)弘法大師行状絵巻の系譜(日本美術工芸319、40年4月)藤原兼経像(国華884、40年11月)上野家の法華経冊子について(大和文華44、41年1月)常謹撰「地蔵菩薩応験記」(大和文化研究101、41年9月)長谷雄双紙(角川書店「日本絵巻物全集」18、43年7月)十二類合戦絵巻(角川書店「日本絵巻物全集」18、43年7月)福富草紙(角川書店「日本絵巻物全集」18、43年7月)絵と絵詞(文学42-3、49年3月)山王霊験記絵巻雑記(国華984、50年9月)なお、これらの論考の大半は、『絵巻物叢考』(43年6月、中央公論美術出版)、『絵巻残欠の譜』(45年1月、角川書店)、『絵巻物叢誌』(47年2月、法蔵館)に収められている。
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没年月日:1988/02/10 空気膜構造建築の第一人者として知られる建築家村田豊は2月10日午後6時58分、心不全のため東京都千代田区の半蔵門病院で死去した。享年70。大正6(1917)年11月16日新潟市に生まれる。昭和16(1941)年東京美術学校建築科を卒業し、同年坂倉準三建築研究所に入る。32年坂倉建築研究所を退き、フランス政府招聘技術留学生としてパリに留学、ウージェーヌ・ボードワン、ル・コルビュジェに師事。34年に帰国し、同年村田豊建築事務所を開設する。42年万博本部ビル、45年万博フジグループ・パビリオン及び電力館水上劇場を管圧式空気構造で設計、建設し、45年「管圧式空気構造建築技術の開発」により科学技術庁長官賞を受賞する。46年国際空間構造学会議議長をつとめ、国際会議での講演などでも活躍する。56年神戸ポートピア呼芙蓉グループ・パビリオン、62年国際蘭博覧会の為のパビリオンなど、多くのパビリオン建築のほか、公共のスポーツ・娯楽施設を主に制作した。
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没年月日:1988/01/31 日本芸術院会員、一水会運営委員の洋画家中村琢二は1月31日午前8時4分、急性心筋こうそくのため横浜市金沢区の横浜南共済病院で死去した。享年90。明治30(1897)年4月1日、新潟県佐渡相川町に生まれる。洋画家中村研一の実弟。福岡県立中学修猷館在学中、兄の影響で油絵を始める。大正5(1916)年第五高等学校理科に入学。健康上の理由により同校を中退し第六高等学校英法科に入学する。同13年東京大学経済学部を卒業。フランス留学から帰った兄に画家になることを勧められ昭和5(1930)年第17回二科展に「材木座風景」で初入選。同年より安井曽太郎に師事する。12年一水会が創立されると同会に参加し、13年第2回同展に「母と子」ほかを出品して岩倉具方賞を、14年第3回展に「ボレロの女」ほかを出品して一水会賞を受賞し、17年同会会員となる。また、16年第4回新文展に「女集まる」を出品して特選となる。28年第15回一水会展出品作「扇を持つ女」で芸能選奨受賞。37年第5回日展出品作「画室の女」で文部大臣賞を受賞。同作品および同年第24回一水会展出品作「男の像」により38年日本芸術院賞を受け、56年日本芸術院会員となる。風景、人物を主な題材とし、明快な構図、軽妙な筆触を示す。著書に『一日で描く風景画』(共著、58年)、作品集に『中村琢二画集』(59年)がある。
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没年月日:1988/01/28 元日本工芸会理事の陶芸家宇野三吾は、1月28日午後7時10分、心不全のため京都市左京区の比叡病院で死去した。享年85。明治35(1902)年8月10日、陶工宇野仁松の四男として京都市東山区に生まれる。京都市立美術工芸学校を経て京都市立陶磁器試験所特別科に入り、大正9(1920)年同科を卒業する。昭和4(1929)年第10回帝展に「金魚彫文辰砂壷」で初入選し翌年第11回帝展にも「麦文紅釉花瓶」で入選するが、以後は個展を中心に作品を発表する。昭和18年国画会展に出品したほか戦後の一時期二科会展に出品している。22年四耕会を創設。24年滋賀県に上代緑釉の窯跡を発見し、水野清一、藤岡了一らと共にその研究に従事。30年より日本工芸会会員となり同年第2回日本伝統工芸展に「黄釉壷」を出品、以後同展に出品を続け、33年同会理事となる。50年京都府美術工芸功労者、55年京都市文化功労者として顕彰された。古陶磁とその釉薬の研究を続け、ペルシャ陶器の青に着想を得た独自の青色陶磁器を作りあげた。前衛的な試みも行ない、古典に根ざした代的造形で知られる。著者に「日本のやきもの・京都」(昭和48年)がある。
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没年月日:1988/01/28 スポーツに取材した人物像で知られる彫刻家新井喜惣次は、4月7日午後2時18分、じん不全のため東京都豊島区の長汐病院で死去した。享年95。明治26(1893)年3月12日、栃木県足利市に生まれる。大正5(1916)年東京府豊島師範学校を卒業し、昭和3(1928)年東京美術学校彫刻科選科に入学。のち本科に転科し、8年同校本科を卒業。11年同研究科を修了する。朝倉文夫に師事し、朝倉塾展に出品を続けるほか、昭和9年第15回帝展に「槍投」で初入選。12年第8回国際美術教育会議に日本側委員として出席するために渡仏する。ひき続きパリで彫刻を研究し、欧米を巡遊して13年に帰国する。戦前は構造社展にも出品。戦後は21年の第1回展から日展に出品し、24年第5回展出品作「鉄鎚投」、36年第4回新日展出品作「タックル」など躍動する肉体の一瞬をとらえたブロンズ像を多く制作する。24年より東京学芸大学助教授となり、26年同教授となって31年停年退官するまで長く後進の指導に当たる。その後も昭和学院短期大学教授、東京成徳短期大学教授を歴任し、54年東京成徳短大名誉教授となった。雅号として孤巌の号を用いた。
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没年月日:1988/01/28 日本南画院副理事長の日本画家福田青藤は、1月28日午後3時30分、心不全のため大阪府池田市の市立池田病院で死去した。享年91。明治29(1896)年9月29日大阪市福原区に生まれ、本名忠雄。大阪市立西野田尋常高等小学校高等科を卒業後、永松春洋に師事する。大阪美術学校に学び、同校を卒業。春洋門下の矢野橋村に師事し、南画を学ぶ。昭和5年第11回帝展に「秋山夕照」が初入選し、8年第14回帝展に「水濱暮色」が再び入選。11年の文展鑑査展にも「幽翠」を出品し、洋風を加味した繊細な南画作品を制作した。13年第1回日本新興南画院展「幽禽還山」、17年第1回大東南宗院展「秋晨」など、南画をめぐる新たな創作運動にも参加。また南京、揚州、抗州、盧山など2ケ月にわたって中国を遊歴し、風景を探勝した。戦後、35年に再興された日本南画院に参加し、同展で文部大臣賞、桂月賞、南画院賞などを受賞、常務理事、副理事長などを歴任した。また大阪美術協会にも参加し、会長、顧問をつとめている。
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没年月日:1988/01/15 新制作協会会員の洋画家山東洋は、1月15日午前3時2分、脳出血のため東京都中野区の中野江古田病院で死去した。享年66。大正10(1921)年8月12日、和歌山市に生まれる。昭和21(1946)年中央大学法学部を卒業。戦後間もなく猪熊弦一郎に師事し、その主宰になる田園調布純粋美術研究所に学ぶ。21年第10回新制作展に「花と少女」で初入選し、以後同展に出品を続ける。26年第15回展に「海辺の詩」「裸婦二人」「対話」を出品して新作家賞受賞。27年第16回展に「海辺」「鳥篭」を出品して同じく新作家賞、29年第18回展に「鳥」「海辺の家族」を出品して三度同賞を受賞する。30年第19回展に「午後の海」「鳥と女」を出品して新制作賞受賞、翌31年同会会員となる。43年より2年間、欧米を巡遊。大胆にデフォルメした女性像を明快な原色を用いた抽象的背景の中に配し、「神々の祝福」「女神達の賛歌」など神的なイメージを追求した。53年東京セントラル美術館で個展を開いたほか、安井賞展にも2度出品している。
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没年月日:1988/01/12 重要無形文化財保持者(人間国宝)の彫金家内藤四郎は、1月12日午後6時30分、心不全のため浦和市の自宅で死去した。享年80。明治40(1907)年3月14日東京に生まれる。東京府立工芸学校で金属工芸を学んだのち、東京美術学校金工科に入学。清水亀蔵、海野清に師事して、昭和6(1931)年同校を卒業する。この間、昭和4年第10回帝展に「銀製草花文打出小箱」で初入選。同9年東京美術学校研究科を修了する。同11年文展鑑査展に「柳波文平脱小箱」を出品して特選となる。また、同年より国画会展工芸部にも出品し、同14年同会同人に推薦される。のち同会を退き新匠会に参加して会員となる。26年新匠会を退会して翌27年生活工芸集団を設立。36年より日本工芸会会員として日本伝統工芸展に出品する。一方、後進の育成にもつとめ、昭和16年より国立工芸技術講習所に勤務、24年より東京美術学校助教授となり、35年より49年まで東京芸術大学で教授としてデザイン基礎理論を講じた。蹴彫、平脱を得意とし、線条文様をいかした小箱を多く制作し、53年重要無形文化財保持者に認定された。
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没年月日:1988/01/12 美術史家で、元東京芸術大学教授、国華編輯委員、文化財保護審議会専門委員の吉澤忠は1月12日、心不全のため横浜市西区東ケ丘の自宅において死去。享年78。明治42(1909)年6月15日、東京の医師の家に生れた。幼児の頃隣家に住していた板谷波山に可愛がられ、後年『板谷波山伝』等波山に関する著作があるのもそうした縁による。浦和高等学校から東京帝国大学文学部美術史学科に入学、同大学院へ進み、昭和8年同研究室副手となる。大学では瀧精一の下で中国美術を専攻。昭和10年文部省重要美術品等鑑査事務嘱託、昭和16年東方文化学院研究員嘱託を経て昭和21年文部省重要美術品等調査嘱託となった後、東京国立博物館嘱託から同23年文部技官として同館に勤務。しかし、同館の民主化運動の推進者としての活動が起因となり翌24年に依頼免官となった。この時同じく退職した藤田経世等と文化史懇談会を創設した。この会の成果のひとつとして、『日本美術史叢書』(東京大学出版会)があげられるが、自身は『渡辺崋山』を執筆している。 昭和27年より多摩美術大学講師として教鞭をとる一方、昭和33年9月より国華編輯委員として古美術研究誌「国華」の編輯に参加。爾来没するまで、南画を中心として30余の論文を発表し、170点余の作品を紹介している。昭和38年には東京芸術大学講師となり、同52年の退官まで同大で教鞭をとる(同40年助教授、同42年教授)。同61年には同大名誉教授に推された。 その研究領域は昭和17年「国華」に発表した「南画と文人画」以後、主として日本の南画にしぼられ、南画を体系的に把握し、日本南画研究の骨格をつくった業績は高く評価される。その研究の大要は『日本南画論攷』によって窺うことができるが、自己の仕事をふりかえりみて述べたその後書きでもわかるように、一貫して画も思想であるという観点に立ち、画家の生き方と画との関連を追求するものであった。 またその関心はいわゆる古美術にとどまらず、近現代の美術に及んで『横山大観』等を著し靉光を語り、昭和24年制定された文化財保護法をはじめとする文化財行政にも強い関心をもち「明治・大正時代と現代との古美術評価の変化」等の論文を著わすとともに、日本の現代美術の舌峰鋭い批判者でもあった。こうした研究上の課題や関心は、すでに昭和29年に刊行された『古美術と現代』において鮮明に語られており、上記の仕事が一貫して美術と人間と社会をめぐる問題意識のもとに展開されたものであることが理解される。同時に本書で示されている美術史家・作家の姿勢、伝統と創造、美術行政などについてのするどい指摘はいまなお古びていない。 病躯をおして「国華」百年の論文に目を通し、選択し編んだ『国華論攷精選』が、最後の仕事となった。 主な著作・論文等南画と文人画 国華 622、624~626 昭和17年9月、昭和18年1月美術界の封建性 日本評論 21-12 昭和21年12月参議院文化財保護法批判 日本歴史 19 昭和24年9月田能村竹田の敗北 国華 696~699 昭和25年3月、昭和25年6月浦上玉堂筆東雲篩雪図 国華 706 昭和26年1月崋山-特にその描線について- 美術史 9 昭和28年6月古美術と現代 昭和29年8月崋山の周囲と大鹽事件 上、下 国華 765、766 昭和30年11月、12月渡辺崋山 日本美術史叢書 昭和31年11月大雅 日本の名画 昭和32年3月池大雅画譜 第1-5輯(編集、図版解説) 昭和32年2月、昭和34年5月横山大観-日本近代画のたたかい- 美術出版社 昭和33年9月関西の南画と江戸の南画 萌春 61 昭和33年11月大雅二十代の作品-年記のある作品を中心に- 美術研究 201 昭和34年3月池大雅における様式転換-二十代・三十代の作品を中心に- 国華 811 昭和34年10月渡辺崋山筆 一掃百態図について 国華 812 昭和34年11月彭城百川筆陶原家の襖絵について 国華 619 昭和35年12月浦上玉堂筆煙霞帖について 国華 830 昭和36年5月大雅伝説の信憑性 国華 836 昭和36年11月横山大観 日本近代絵画全集 15 昭和37年8月菱田春草 日本近代絵画全集 16 昭和38年6月崋山の田原塾居とヒポクラテス像 国華 873 昭和39年10月彭城百川筆秋山風雨図 国華 882 昭和40年9月板谷波山伝 昭和42年大雅・蕪村と十便十宜画冊 十便十宜画冊(解説) 昭和45年5月日本美術史(編集分担執筆) 昭和45年横山大観の人と芸術 重要文化財「生々流転」(複製)解説 昭和46年11月明治・大正時代と現代との古美術品評価の変化 国華 949 昭和47年8月池大雅 ブック・オブ・ブックス日本の美術 26 昭和48年3月立原杏所筆葡萄図 国華 967 昭和49年4月放蕩無頼の絵画-日本南画の主流として- 文学 42-10 昭和49年10月如意道人蒐集画帖について 国華 975 昭和49年11月玉堂・木米・米山人 水墨美術大系 13 昭和50年3月総論、南画の先駆者 水墨美術大系 別巻1 昭和51年3月久隅守景筆夕顔棚納涼図再論 国華 1004 昭和52年9月池大雅筆遍照光院襖絵-特にその制作年代を中心にして- 国華 1007 昭和52年12月浦上玉堂画譜 第1-3輯(編集、図版解説) 昭和52年12月、昭和54年日本南画論攷 昭和52年8月岡田米山人の人と作品 文人画粋編 15 昭和53年3月山水図屏風序説 日本屏風絵集成 2 昭和53年3月序説-近代日本画の展開 日本屏風絵集成 17 昭和54年2月与謝蕪村筆夜色楼台図について 国華 1026 昭和54年8月南画屏風論-大雅・蕪村を中心に 日本屏風絵集成 3 昭和54年11月与謝蕪村 日本美術絵画全集 19 昭和55年4月与謝蕪村筆紅白梅図屏風について 国華 1044 昭和56年8月与謝蕪村の若描きについて-弘経寺墨梅図襖絵にふれながら- 国華 1054 昭和57年8月浦上玉堂筆 圏中書画組合について 国華 1066 昭和58年9月円山応挙筆四季遊楽図巻下絵について 国華 1081 昭和60年3月岡田米山人筆 福寿草図 国華 1091 昭和61年2月久隅守景筆四季山水図屏風について 国華 1095 昭和61年7月同じ図のある池大雅筆蘭亭曲水屏風について 国華 1096 昭和61年8月青木木米筆薦寿南星図扇面を中心にして 国華 1107 昭和62年9月日本の南画 挿花清賞 昭和63年2月
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没年月日:1988/01/09 一水会委員、日展参与の洋画家福田新生は、1月9日午後4時45分、自然気胸のため東京都八王子市の陵北病院で死去した。享年82。明治38(1905)年3月3日、福岡県小倉市に生まれる。大正11(1922)年福岡県豊津中学校を卒業。13年第11回光風会展に初出品し、14年第12回同展に「洗足の丘」「白き温室の見える風景」を出品して光風賞受賞、15年同展に「静物」「帽子のある静物」を出品して再び光風賞を受け、翌昭和2(1927)年にも同賞を受賞する。この間の大正15年川端画学校修了。同年第7回帝展に「静物」で初入選。また、同年より槐樹社に出品する。昭和4年槐樹社の解散により旺玄社の会員となるが9年に退会。15年より一水会展に出品を始め同年の第3回展に「日向葵」「喇嘛廟」を出品して岡田賞受賞。21年同会会員となり、25年第12回展に「哀しい平和」「巷の女たち」を出品して会員佳作賞、27年にも「鉄骨作業」「白い建物」で同賞を受け同年一水会委員に推される。また、23年には第4回日展に「戦おわる」を出品して特選となる。30年渡欧し翌年帰国。日展審査員をたびたびつとめ、35年日展会員となる。45年第2回改組日展に「土蔵の前で」を出品して内閣総理大臣賞受賞。55年日展参与となる。農漁村で労働する人々を好んで描き、生活の力強さを画面に表した。著書も多く、『北満のカザック』『拓け行く満州』『人民の日本美術史』『美術と思想の話』『レーピン伝』『抽象美術の解体』『画家の日記』『土に生きる画家たち』などを著している。 帝展、新文展、日展出品歴大正15(1926)年第7回帝展「静物」、昭和2(1927)年(8回)「支那壷のある静物」、3年(9回)「酒場」、4年(10回)不出品、5年(11回)「渓流」、6~13年不出品、14年第3回新文展「カザックの娘」、16年(4回)「北満の農夫たち」、17年不出品、18年(6回)「牧草刈り」、21年第1回日展不出品、同年(2回)「男体山を望む」、22年不出品、23年(4回)「戦おわる」(特選)、24年(5回)「小春日」、25年(6回)「復興させ給え」、26年(7回)「冬濤ひびく」、27年(8回)「新宿零時」、28年(9回)「職場の娘」、29年(10回)「鵜飼図」、30~32年不出品、33年第1回社団法人日展「北九州風景、小倉」、34年(2回)「英彦山」、35年(3回)「コロンボの少年たち」、36年(4回)「足摺岬の朝焼」、37年(5回)「ヴェトナムの農夫」、38年(6回)「種いも撰り」、39年(7回)「白鷺の藪」、40年(8回)「祈り」、41年(9回)「釜ケ崎のタロー君」、42年(10回)「メコン・デルタ」、43年(11回)「帆曳船の若者(霞ケ浦)」、44年第1回改組日展「山の老人」、45年(2回)「土蔵の前で」、46年(3回)「なまはげ」、47年(4回)「炉ばたの人」、48年(5回)「朝市の女」、49年(6回)「しょいこ(背負い子)」、50年(7回)「老いたる海女」、51年(8回)「馬橇が往く」、52年(9回)「運ぶ女たち」、53年(10回)「漁村にて」、54年(11回)「春耕」、55年(12回)「稲架かけの農婦」、56年(13回)「豚を飼う農婦」、57年(14回)「英彦山・南岳」、58~62年不出品
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没年月日:1988/01/03 美人画で知られる日本画家梶原緋佐子は、1月3日午後8時10分、老衰のため京都市北区の自宅で死去した。享年91。明治29(1896)年12月22日京都祇園の造り酒屋に生まれ、本名久。大正3年京都府立第二高等女学校卒業後、竹内栖鳳門下で同校で教えていた千種掃雲の勧めにより画家を志望し、菊池契月に入門。木谷千種、和気春光らとともに、契月塾の三閨秀と称される。同7年第1回国画創作協会展に「暮れゆく停留所」を出品し、選外佳作となる。次いで、9年第2回帝展に「古着市」が初入選し、以後10年第3回帝展「旅の楽屋」、13年同第5回「お水取りの夜」、14年第6回「娘義太夫」、15年第7回「矢場」など、下層に生きる女性風俗を題材に社会性の強い作品を描く。昭和に入り、5年第11回帝展「山の湯」、6年第12回「いでゆの雨」、8年第14回「機織」など、師契月の画風を受けた明澄な作風へと移行。戦後、22年第3回日展で「晩涼」が特選、27年同第8回「涼」が白寿賞を受賞する。30年頃より舞妓や芸妓を多く題材に、上村松園亡きあとの京都画壇の美人画の伝統を守り続けた。また昭和5年大阪府女子専門学校の日本画講師となり、8年韓国、10年中国、43年欧州を旅行。43年日展評議員となり、49年より同参与をつとめた。また51年京都市文化功労者となり、54年には画業60年記念「梶原緋佐子展」が開催された。早くより吉井勇に師事して和歌も学び、歌集『逢坂越え』(大正13年)なども出版している。
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没年月日:1988/01/03 官展を中心に活躍した洋画家内藤隶は、1月3日午後2時27分、老衰のため千葉県大原町の自宅で死去した。享年87。明治33(1900)年4月21日、東京都江東区に生まれる。本名能福。東京府立第三中学校を中退して本郷絵画研究所に入り岡田三郎助に師事。大正15(1926)年第7回帝展に「花畑」で初入選し、9回帝展には「初秋の丘と庭」、10回展には「初秋」を出品。新文展にも第1回展から「木蔭の池」で入選し官展に出品を続ける。庭に取材した作品が多く、色彩豊かで穏やかな作風を示す。春台美術展に参加して同会会員、委員となり、また千葉県美術会創設委員となって郷里の美術振興に尽くし千葉県展名誉会員となる。晩年は無所属となって画壇を退いた。
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没年月日:1987/12/12 日展会員の彫刻家冨永朝堂は、12月12日午前10時、肺炎のため福岡市の三信会原病院で死去した。享年90。明治30(1897)年8月4日、福岡県に生まれ、本名良三郎。大正4年上京し、山崎朝雲に師事、木彫を学ぶ。8年日本美術協会展に初入選し、昭和4年より同会審査員をつとめた。また大正13年第5回帝展に「雪山の女」が初入選して以後、帝展に出品し、昭和7年第13回帝展「五比賣命」、翌8年第14回帝展「踊女」がともに特選を受賞。9年第15回帝展に「女子円盤」を無鑑査出品した。その後、新文展、戦後日展に出品。25年第6回日展で審査員をつとめ、33年日展会員となっている。戦後は郷里福岡に住み、福岡県文化財調査委員をつとめたほか、地域文化の向上にも尽力。50年西日本文化賞、51年福岡市文化賞を受賞し、59年地域文化功労者に選ばれた。代表作に、「谷風」(昭和15年ニューヨーク万博)、三部作「歩く」「歩く」「生れる」などがあり、戦後は抽象的感覚を生かした作風を展開した。
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没年月日:1987/12/03 社団法人日本南画院会長・理事長の日本画家河野秋邨は、12月3日午前6時50分、急性心不全のため京都市上京区の自宅で死去した。享年97。明治23年8月8日愛媛県新居浜市に生まれて本名循。明治40年京都に出て、45年京都の田辺竹邨に師事し、南画を学ぶ。大正4年日本美術協会に出品した「赤壁舟遊図」が伏見宮買上げとなった。同6年第11回文展に「夏雨新霽」が初入選、帝展にも15年第7回展より入選し、昭和2年第8回帝展「月下敲門」、3年第9回「山光欲暮」などを出品する。この間、大正10年水田竹圃らと発起し、富岡鉄斎を顧問として、田辺竹邨、山田介堂、池田桂仙ら京都南画壇の元老とともに日本南画院を結成。同人として出品する一方、その運営にあたる。同院は昭和11年に解散となったが、松林桂月、矢野橋村らとともに35年日本南画院を再興、理事長となった。また大正12年中国を巡遊して以後、たびたび中国、朝鮮半島に渡航。戦後43年にはアメリカ各地で講演と実技指導を行なう。日本南画院再興後は、46年パリ、47年ボストン、53年オーストラリアのシドニー、キャンベラ、58年ブエノスアイレスなどで日本南画院展を開催。このほか、57年日中国交回復10周年記念合同展、58年、60年の日ソ合同美術展、61年日中ソ三国合同展の開催など、国際文化交流にも大いに尽力した。「寒影湛」「寒風嶺」(以上40年)、「富獄騰霊」「幻想★湖」など大作を多く描き、近年は「コーカサス紀行」など、ソ連コーカサス地方の風景を描いている。51年日本学士会名誉会員となり、59年京都府文化功労賞を受賞した。没後の同年5月中国東方美術交流協会より最高栄誉賞を受賞した。
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没年月日:1987/11/21 国選定・本藍染技術保持者、滋賀県無形文化財保持者の森卯一は、11月21日急性肺炎のため滋賀県守山市の県立成人病センター付属病院で死去した。享年84。明治36(1903)年8月25日滋賀県野洲郡に生まれる。号紺九。15歳の時から、明治3年創業の生家の染色業に従事し藍染に携わった。和紙の染色を得意とし、昭和34年桂離宮松琴亭ふすまと壁紙の市松藍染紙を制作したのをはじめ、同43年には皇居新宮殿の連翠の間、無双窓明障子の市松模様紙の藍染を担当した。この間、同33年滋賀県文化財に認定され、同54年には国選定の技術保持者(本藍染)となった。
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没年月日:1987/11/16 日展参与、光風会名誉会員の洋画家江藤純平は、11月16日午後10時43分、脳出血のため東京都三鷹市の杏林大学病院で死去した。享年89。明治31(1898)年3月25日大分県臼杵市に生まれる。大正7年東京美術学校西洋画科に入学し、岡田三郎助に師事して同12年同校を卒業。同年第5回帝展に「アトリエにて」で初入選。昭和3年第9回帝展に「S氏像」、翌年第10回帝展に「F君の像」を出品し、2年連続特選となる。同8年第14回帝展出品作「室内裸婦」でも特選受賞。同12年光風会に会員として参加。戦後、日展、光風会展に出品し、44年第1回改組日展に「小豆島」を出品して内閣総理大臣賞を受ける。50年より日展参与となる。戦前は人物画を中心に研究したが、戦後は風景画を多く描く。セザンヌに傾倒し、その画風は「セザンヌの草書風」とも評される。
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