本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
- なお『日本美術年鑑』掲載時の分類も、個々の記事中に括弧書きで掲載しました。
- 登録日と更新日が異なっている場合、更新履歴にて修正内容をご確認いただけます。誤字、脱字等、内容に関わらない修正の場合、個別の修正内容は記載しておりませんが、内容に関わる修正については、修正内容を記載しております。
- 毎年秋頃に一年分の記事を追加します。
没年月日:1988/06/06 美濃古陶器の再現につとめ、「黄瀬戸の景正」と称された陶芸家林景正は、6月6日急性肺炎のため岐阜県土岐市の自宅で死去した。享年97。明治24年(1891)1月24日岐阜県土岐郡に生まれ、同38年泉中央高等小学校を卒業する。昭和初年、美濃古窯出土の陶片に感動し、桃山期を代表する華麗な黄瀬戸の再現に情熱を傾けるに至った。以後、北大路魯山人らとの交友のなかで刺激を受けながら、40年間に及ぶ研究の末、その再現に成功した。荒川豊蔵らとともに今日の美濃焼隆盛の原動力となったとともに、とりわけ黄瀬戸の名人として名をなした。昭和33年、黄瀬戸の技術保持者として、弟景秋とともに岐阜県重要無形文化財保持者に認定された。同40年土岐市文化功労章を、同48年には岐阜県功労者表彰をそれぞれ受けた。
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没年月日:1988/06/04 行動美術協会会員の洋画家田川寛一は、6月4日午前9時51分、心不全のため大阪市住吉区の阪和病院で死去した。享年87。明治33(1900)年11月25日、大阪市に生まれる。高等小学校を卒業して大正6(1917)年赤松麟作の画塾に入門する。昭和2(1927)年第14回二科展に「縞の洋服」で初入選し、戦前は同会に出品を続ける。また、全関西洋画協会展にも出品し、同7年同会会員となる。戦後は、行動美術協会に参加し、21年第1回展より出品して会員に推挙される。昭和初年より戦前は赤松洋画研究所講師、同34年からは大阪市立美術研究所講師をつとめ、関西洋画の興振につとめた。明快な色面で構成した風景、人物画を多く制作している。 行動展主要出品歴第5回(昭和25年)「秋の夜のものがたり」「鳥影」、第10回(30年)「親舟子舟」「奥多摩の衰愁」「渦潮」、第15回(35年)「千早」「吉野」、第20回(40年)「大阪城遠望」「VICTOR」、第25回(45年)「コクリコ」「長者原」、第30回(50年)「踊り子のComposition」、第35回(55年)「半寿のときに」、第40回(60年)「遠雷」
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没年月日:1988/06/03 元自由美術家協会会員の洋画家小貫政之助は、6月3日、すい蔵がんのため東京都立川市の立川病院で死去した。享年63。大正14(1925)年1月10日、東京都京橋区に生まれる。昭和12(1937)年月島小学校を卒業して月島絵画塾に入り、同16年、太平洋美術学校に入学。19年同校を卒業する。27年西田勝、木内岬、木内廣と絵画彫刻四人展をサヱグサ画廊で開催。同年第16回自由美術展に「女人」を初出品する。28年、瀧口修造の推薦によりタケミヤ画廊で個展を開く。31年自由美術家協会会員に推挙され42年に同会を退くまで出品を続ける。以後、フォルム画廊での個展を中心に作品を発表し、47年フジテレビギャラリーで個展開催、53年、銅版画集『小世界』をフジテレビギャラリーより出版する。没後の64年、池田二十世紀美術館で「小貫政之助の世界展」が開催された。
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没年月日:1988/05/22 木象嵌の重要無形文化財保持者(人間国宝)秋山逸生は、5月22日午前11時44分、狭心症のため千葉県市川市の自宅で死去した。享年86。明治34(1901)年9月27日東京に生まれる。本名清。大正8(1919)年、芝山象嵌の島田逸山に入門し、以後、兄の秋山聴古に木画を、金工の桂光春に彫金を学ぶ。昭和17年第5回新文展に「銀線文象嵌箱」で初入選。以後同展、戦後は日展に出品。また、同41年第13回日本伝統工芸展に「蝶貝象嵌箱」で初入選する。同56年同28回展に「輪華文縞黒檀印箱」を出品してNHK会長賞を受賞。62年重要無形文化財「木象嵌」保持者に認定される。木象嵌の分野では初めての認定となった。奈良時代の木画の技法を取り入れ、貝、象牙などの他に金銀赤銅を用い、モダンで明快な作風を示して木象嵌に新風を吹きこんだ。
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没年月日:1988/05/11 日本美術院理事の日本画家羽石光志は、5月11日午前10時半、肺がんのため東京都千代田区の三井記念病院で死去した。享年85。明治36(1903)年1月1日栃木県芳賀郡に生まれ、本名弘志。大正5年小堀鞆音に師事したのち、同8年川端画学校に入学する。12年卒業し、昭和6年鞆音没後、15年より安田靫彦に師事する。この間、昭和8年第14回帝展に「正岡子規」が初入選、15年紀元2600年奉祝展にも「畑時能」を出品した。靫彦に師してからは、16年第28回院展に「阿部比羅夫」を初出品、以後院展に出品する。翌17年第29回院展「忠度」、21年同第31回「閑日」、22年第32回「片岡山」、23年第33回「古今集撰集の人々」が、いずれも日本美術院賞を受賞。さらに、24年第34回院展「垣野王」、27年第37回「古墳」、29年第39回「黄河」が奨励賞、28年第38回「難波の堀江」が佳作賞を受賞したのち、30年第40回「土師部」が再び日本美術院賞を受賞。31年第41回「正倉院」は日本美術院次賞となり、同年同人に推挙された。この間、昭和19年奥村土牛、村田泥牛とともに東京美術学校講師となり、26年まで後進の指導にあたる。戦後は、新聞、雑誌の挿絵も描き、また時代衣裳の考証のため歴世服飾研究会を組織、世話人をつとめた。43年第53回院展で「いかるがの宮(聖徳太子)」が内閣総理大臣賞を受賞、45年以降日本美術院評議員、理事を歴任する。一方、39年より41年にかけて文化庁の依嘱により「伴大納言絵詞」を模写し、43年の法隆寺金堂壁画再現模写事業でも第2号、第6号壁を模写。46年より翌年にかけては、日光陽明門天井画「双龍図」の復元にあたった。安田靫彦の画風を継ぎながら、歴史や時代、衣裳考証に基づく歴史画を描いた。43年より53年まで名古屋造形短大顧問教授もつとめている。
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没年月日:1988/05/09 日展参与の陶芸家宮下善寿は、5月9日午後8時、肺ガンのため、京都市東山区の京都第一赤十字病院で死去した。享年86。明治34(1901)年6月13日、京都市東山区に生まれる。本名善寿。大正5(1916)年、京都市立陶磁器伝習所でろくろ成形技術を学ぶ。兵役を経て昭和元(1926)年、京城市の高麗焼研究所に入り、朝鮮古窯に興味を抱く。翌2年帰国。4年より日本陶芸協会に参加して、その主宰者河村蜻山に師事。同12年第1回新文展に「瑠璃釉釣花器」で初入選後、同展、日展へと出品を続け、24年第5回日展に「陶器紅映瓷花壷」を出品して特選受賞、30年第11回日展でも「秋慶文盛器」により特選を受け、翌年第12回日展に無鑑査出品、33年第1回新日展では審査員をつとめる。34年、日展会員となる。卓抜なろくろによる成形技術をいかし、均整のとれたふくらみのある形体、独特の紫味を帯びた青釉を特色とする作品を多く製作する。50年には第9回改組日展に「白翠瓷飾瓶」を出品して内閣総理大臣賞を受賞。51年、京都府美術工芸功労者、56年京都市文化功労者に選ばれた。
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没年月日:1988/05/06 春陽会会員の洋画家小川緑は、5月6日午後4時15分、肺炎のため東京都町田市の町田病院で死去した。享年81。明治39(1906)年12月29日、北海道小樽市に生まれる。本名義勝。太平洋美術学校卒業後、本郷絵画研究所、前田寛治自由画室に学び、太平洋画会展、中央美術展などに出品する。昭和4(1929)年より6年まで外遊。14年第17回春陽会展に「教会の窓」で初入選し、以後同展に出品を続ける。23年第25回同展で春陽会賞を受賞し会友に推挙され、28年同会会員となる。長崎市の風景やキリシタン遺跡を好んで描き、「聖なる丘」「天主堂」(昭和34年第36回春陽会展)、「殉教者行く道(西坂の丘)」(39年第41回同展)、「異人館」(43年第45回同展)ほかの作例があり、長崎国際文化協会理事、長崎市「中島川を守る会」会長もつとめた。34年長崎県文化功労者として顕彰される。晩年の作品に「寺中仏煙」(50年第52回春陽会展)「追想PAKISTAN」(49年第51回同展)などがある。
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没年月日:1988/05/04 日本画院顧問の日本画家森村宜永は、5月4日午後4時37分、直腸がんのため名古屋市中村区の鵜飼病院で死去した。享年81。明治39(1906)年6月10日名古屋市に生まれ、本名行雄。東京美術学校在学中より、画才を見込まれて名古屋の画家森村宜稲の娘婿となり、稲門と号す。昭和4年東京美術学校を卒業し、松岡映丘に師事する。同4年第10回帝展に「砂丘」が初入選し、以後5年同第11回「爽空」、6年第12回「志摩の磯わ」、7年第13回「採鮑」、8年第14回「沼」、9年第15回「雨」と連年入選。海辺や水辺の風景に多く取材した大和絵作品を発表する。11年文展鑑査展に「駿牛」、12年第1回新文展に「新樹」を出品。13年義父宜稲が死去したのち、「實と花」を出品した14年第3回新文展以降、宜永の名で出品している。また昭和10年映丘が盟主となって結成した国画院は、13年映丘が死去したのち展覧会活動を休止、国画院研究会として存続したが、同会にも会員として参加している。戦後、能を多く題材とした作品を制作。日展には24年より出品し、同年第5回「秀吉の能」、25年第6回「海のそよ風」、26年第7回「雲影」、27年第8回「熊野」、28年第9回「隅田川」、29年第10回「寂光院」、30年第11回「楊貴妃」、31年第12回「鏡の間」、32年第1回新日展「花」、33年同第2回「鶴」などを出品している。一方、28年日本美術協会展でやはり能を題材とした「黒塚」により日本美術協会総裁賞を受賞。また日本画院にも出品し、29年新同人に推挙された。のち同院顧問もつとめていた。
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没年月日:1988/05/03 日本美術院同人の日本画家高橋常雄は、5月3日午後5時20分、肝蔵がんのため神奈川県南足柄市の大内病院で死去した。享年60。昭和2(1927)年10月27日群馬県前橋市に生まれる。戦後21年、岡部神水の勧めで日本画を始め、25年初め望月春江、次いで同年福王寺法林に師事する。28年第9回日展に津根於の名で「春丘」が初入選、続いて29年同第10回「山」、31年第12回「煙突」などが入選する。33年武蔵野美術学校日本画科に編入学し、奥村土牛、塩出英雄らに学ぶ。34年卒業とともに院展に出品し、35年第45回院展に「嬬恋の山」が初入選した。以後連年入選を重ね、37年院友となる。46年第56回院展「和雅の音」、48年同第58回「修羅」がともに奨励賞を受賞。49年、51年のネパール、ヒマラヤ旅行後は同地に取材した作品を多く発表し、50年第60回院展「聖地巡拝記」、55年同第65回「聖地追想」がいずれも日本美術院賞を受賞した。この間、52年第62回院展「クリシュナ神話より」、54年同第64回「ラト・マチェンドラ祭の灯」、さらに57年第67回「無為」、59年第69回「追想」も、奨励賞を受賞。60年同人に推挙された。このほか、山種美術館賞展にも50年第3回展、58年第7回展「浄境」と出品している。仏教文化の淵源を辿り、、堅固な構図の重厚な作風を展開した。
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没年月日:1988/05/01 木彫界の長老澤田政廣は、5月1日午後11時41分、急性肺炎のため東京都目黒区の本田病院で死去した。享年93。明治27(1894)年8月22日、静岡県熱海市に生まれる。本名寅吉。生家は製材業を営む。大正2(1913)年静岡県立韮山中学を中退し画家を志すが両親に反対され、翌年、遠縁にあたる木彫家山本瑞雲をたよって上京、その内弟子となる。同7年太平洋画会研究所に入り彫刻を学ぶ。10年第3回帝展に「人魚」を出品して初入選、翌年第4回展には「沃土」を出品。13年第5回帝展に「銀河の夢」を出品して特選を受賞する。同年東京美術学校彫刻別科に入学し朝倉文夫に師事。15年同校を卒業する。昭和2(1927)年第8回帝展に「白日の夢」を出品して特選受賞。翌3年「七姫」で、同4年「白鳳」で帝展3回連続特選となる。6年、日本木彫会が結成され、同会会員となる。帝展改組後も新文展、続いて日展に出品し、27年前年の第7回日展出品作「五木之精」で芸能選奨文部大臣賞、翌28年には第8回日展出品作「三華」で日本芸術院賞を受賞。33年日展評議員、37年日展理事となる。また、同年日本芸術院会員となる。48年文化功労者として顕彰され、54年文化勲章を受章する。ブロンズ彫刻隆盛の時期に、木彫による新方向を示して注目され、仏像、古代神話にもとづく神像、人物像を多く制作する。巨大な一木からノミ跡を残して彫り出す技法を多く用い、大らかで浪漫的な作風を示した。58年新潟県糸魚川市に谷村美術館(澤田政廣作品展示館)が設立され、62年熱海市に同市立澤田政廣記念館が開設された。 略年譜明治27(1894) 8月22日、静岡県熱海町に父澤田小兵衛(製材業)、母とくの三男として生まれる。大正2(1913) 静岡県立韮山中学校中退。画家を志したが両親の反対にあい断念。上京して遠縁に当る木彫家山本瑞雲宅に内弟子として入る。大正7(1918) 太平洋画会研究所に入る。神田台所町に次兄と共に住む。大正10(1921) 第3回帝展「人魚」初入選。大正11(1922) 第4回帝展「沃土」出品。大正12(1923) 11月、矢下とみと結婚。大正13(1924) 第5回帝展「銀河の夢」特選。東京美術学校彫刻別科入学。大正14(1925) 第6回帝展「太陽に向って」出品。大正15(1926) 第7回帝展「影」出品。東京美術学校彫刻別科卒業。昭和2(1927) 第8回帝展「白日の夢」出品。昭和3(1928) 第9回帝展「七姫」特選。帝展無鑑査に推挙される。昭和4(1929) 第10回帝展「白鳳」特選。昭和5(1930) 第11回帝展「伊呂古の宮」出品。昭和6(1931) 第12回帝展「白夜飛星」出品。同審査員をつとめる。日本木彫会の結成に参加し同会会員となる。昭和7(1932) 第13回帝展「華炎」出品。日本木彫会「吉祥天」出品。昭和8(1933) 第14回帝展「春の女神」出品。昭和9(1934) 第15回帝展「白光」出品。同審査員をつとめる。昭和10(1935) 帝国美術院改組に際し、参与に推挙される。昭和11(1936) 文部省展覧会「光明仏身」「善魔魚身」出品。昭和12(1937) 第1回新文展「火星鳥身」出品。同審査員をつとめる。昭和13(1938) 第2回新文展「護持結身」出品。昭和14(1939) 第3回新文展「聖観世音菩薩」出品。日本木彫会「春風」出品。昭和15(1940) 5月、三木宗策らと共に正統木彫家協会を創立し第1回展に「紅衣笛人」出品。昭和16(1941) 第4回新文展「神通」出品。昭和18(1943) 第6回新文展「救世太子」出品。昭和19(1944) 第7回新文展「天彦」出品。昭和21(1946) 第1回日展「うづめの命」、第2回日展「赤童子」出品。両展とも審査員をつとめる。昭和22(1947) 第3回日展「降魔」出品。昭和23(1948) 第4回日展「男習作」出品。昭和24(1949) 第5回日展「釈迦誕生」出品。昭和25(1950) 第6回日展「十一面観音」出品。同審査員をつとめ、日展参事となる。昭和26(1951) 第7回日展「五木の精」文部大臣賞。昭和27(1952) 第8回日展「三華」出品。昭和28(1953) 前年の日展出品作「三華」で日本芸術院賞受賞。第9回日展「愛子母」出品。昭和29(1954) 第10回日展「母神」出品。昭和30(1955) 第11回日展「大聖不動明王」出品。昭和31(1956) 第12回日展「黄泉のしこめ」出品。号を晴廣から政廣へと改める。昭和32(1957) 第13回日展「国立」出品。日本橋高島屋で個展。昭和33(1958) 第1回社団法人日展「レダ」出品。同評議員となる。昭和34(1959) 第2回社団法人日展「曼珠沙華」、日本国際美術展「海に立つおとたちばな姫」出品。日本橋高島屋で個展。昭和35(1960) 第3回社団法人日展「蒼穹」出品。昭和36(1961) 第4回社団法人日展「魚を持つ女」出品。明治書房より『澤田政廣作品集』刊行。昭和37(1962) 日本芸術院会員、日展理事となる。第5回社団法人日展「炎神を生むイザナミノ命」出品。昭和38(1963) 第6回社団法人日展「隠者」出品。昭和39(1964) 第7回社団法人日展「このはなさくや姫」出品。昭和40(1965) 第8回社団法人日展「稜風」出品。日展常務理事となる。昭和41(1966) 第9回社団法人日展「救世に立ちあがる釈迦」出品。昭和42(1967) 第10回社団法人日展「蝶と遊ぶ」出品。明治書房より『彫刻家のアトリエから–澤田政廣リトグラフ集』刊行。昭和43(1968) 高野山金堂金剛王菩薩完成。第11回社団法人日展「白夢におそわれる稲田姫」出品。昭和44(1969) 第1回改組日展「人魚」出品。明治書房より『みほとけを刻んで』刊行。昭和45(1970) 第2回改組日展「長島選手」出品。名古屋松坂屋にて個展。昭和46(1971) 第3回改組日展「笛」出品。日展顧問となる。3月台湾旅行。三越にて個展。昭和49(1974) 第6回改組日展「出家」出品。昭和50(1975) 第7回改組日展「不動明王」出品。昭和51(1976) 第8回改組日展「レダ」出品。昭和52(1977) 第9回改組日展「天人」出品。昭和53(1978) 第10回改組日展「釈迦誕生」出品。昭和54(1979) 第11回改組日展「彌勒菩薩」出品。昭和55(1980) 第12回改組日展「弥勒菩薩」出品。昭和56(1981) 第13回改組日展「十一面観音」出品。昭和57(1982) 第14回改組日展「金剛王菩薩」出品。昭和58(1983) 第15回改組日展「蓮華」出品。昭和59(1984) 第16回改組日展「母子像」出品。昭和60(1985) 第17回改組日展「釈迦三尊仏」出品。昭和61(1986) 第18回改組日展「観世音菩薩」出品。昭和62(1987) 第19回改組日展「大聖不動明王」出品。
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没年月日:1988/04/28 美術評論家、大阪芸術大学名誉教授の村松寛は、4月28日午前11時50分、胃ガンのため大阪府寝屋川市の青樹会病院で死去した。享年75。明治45(1912)年6月24日京都市中京区に生まれる。昭和11年京都大学文学部史学科(国史)を卒業し、同年滋賀県立八幡商業学校教諭となる。15年朝日新聞大阪本社に入社。20年同社学芸部勤務となり、美術担当記者として美術評論を手がける。37年同企画部となったのちも美術評論を続け、42年6月同社を停年退職。同年10月大阪芸術大学美術学科教授となり、のち同大学名誉教授となる。一方、47年より梅田近代美術館館長、のち大阪府立現代美術センター所長となり、美術館活動にも携わった。著書に昭和35年『美術館散歩』(河原書房)、42年『京の工房』(同)などがある。
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没年月日:1988/04/27 独立美術協会会員の洋画家和気史郎は、4月27日午前9時、肺気腫のため大阪市阿倍野区で死去した。享年62。大正14(1925)年8月29日、栃木県塩谷郡に生まれる。昭和12(1937)年栃木県塩谷町玉生尋常高等小学校を卒業。21年宇都宮師範学校本科を卒業する。27年東京芸術大学油画科を卒業。安井曽太郎に師事する。30年第23回独立展に「女」で初入選。以後同展に出品を続け、31年第24回展に「夜の誘惑」「夜の対話」を出品してプール・ブー(奨励)賞、翌年第25回展に「分裂」「抵抗」を出品して独立賞、33年第26回展に「紫野」「翁」を出品して広び独立賞を受け、翌34年同会会員となる。能面や能舞台など能にちなむ主題を多く選び、写実にもとづきながら妖気漂う夢想的世界を描き出した。57年大阪府立現美センターで回顧展が開かれている。
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没年月日:1988/04/15 日展会員、東光会名誉会員の洋画家辻利平は、4月15日肺炎のため長崎県松浦市の押淵病院で死去した。享年87。明治33年(1900)長崎県松浦市に生まれる。昭和3年東京美術学校図画師範科を卒業、同年から大阪に居住し大谷学園に勤める側ら、斎藤与里に師事した。同8年第1回東光会展に出品し奨励賞を受賞、また、第14回帝展に初入選した。同15年東光会会員となり、第8回東光会展に「黒いショール」を発表する。戦後も東光会展、日展に出品、日展出品作に「玄関」(同23年)、「花咲く庭」(同36年)などがあり、同41年第9回日展出品作「窓ぎわ」で菊華賞を受賞した。同44年改組第1回日展審査員をつとめ、翌年日展会員となった、この間、夙川学院短期大学教授として美術科で教え、同47年同短大名誉教授となる。同50年松浦市名誉市民。同56年『辻利平画集』を刊行、回顧50年記念展を開催した。長崎新聞文化章(同56年)、特別教育功労賞(同57年)、長崎県民表彰(同58年)などを受ける。
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没年月日:1988/04/13 日本版画協会理事、国画会会員の版画家関野凖一郎は4月13日午前5時45分、肺ガンのため東京都新宿区の東京医科大学病院で死去した。享年73。大正3(1914)年10月23日青森市に生まれる。青森県立青森中学校在学中に、学友の根市良三の版画に感銘して版画を始める。昭和8(1933)年青森中学を卒業、今純三に銅版画と石版画を学ぶ。11年文展(第二部)にエッチング「河畔」で初入選。13年日本版画協会会員となる。14年に上京し鈴木絵画研究所で油絵を学ぶ一方、恩地孝四郎にも師事。15年日本エッチング協会を設立する。国画会展にも出品し22年同会会員となる。戦後は、32年アジア・アフリカ国際美術展など国際展に多く出品して注目され、33年ロックフェラー財団の招聘により渡米し、一年間アメリカ各地で版画の講義を行なう。35年アメリカ・ノースウエスト国際版画展に「フィレンチェの屋根」を出品してシアトル美術館賞受賞。36年リュブリアナ国際版画展では「花・墓・車」三部作で特別賞を受ける。38年フォード財団の招きで再び渡米しロスアンゼルスのタマリンド石版研究所で石版画を制作する。43年日本美術家連盟常務理事となる。50年、版画集「東海道五十三次」で芸術選奨文部大臣賞受賞。創作版画の創成期にあたって、戦後日本の版画が国際的に評価されるとその代表的作家の一人として活躍した。肖像、裸婦、風景を主な題材とし、木版、銅版、石版など多様な技法を用いた。多作であり、私家本も多く制作したが、一方著作もよくし『版画を築いた人々』『わが版画師たち』『文人画像』『木版画の楽しみ』など、日本近代版画史、版画技法についての著書を刊行している。
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没年月日:1988/04/09 プロレタリア美術運動に参加し釣り史研究家としても知られた洋画家の永田一脩は、4月9日午前5時35分、肺線維病のため横浜市の神奈川県立長浜病院で死去した。享年84。明治36(1903)年11月11日、福岡県門司市に生まれる。大正12年東京美術学校西洋画科に入学。同期生であった大月源二らと共に前衛美術運動に参加し、未来派美術協会展などに出品。昭和2(1927)年東京美術学校を卒業し、同年11月に結成された前衛芸術家連盟(前芸)に参加する。3年3月全日本無産者芸術連盟(ナップ)の結成に参加。同年11月の第1回プロレタリア美術大展覧会に出品された「プラウダを持つ蔵原惟人像」は現存する数少ないプロレタリア美術の作例のひとつである。5年一斉検挙にあう。16年東京日日新聞社(現毎日新聞社)に入社。戦後は日本美術会会員となり日本アンデパンダン展などに出品する。33年毎日新聞社を停年退職。48年に初めて個展を開催。著書に『プロレタリア絵画論』『ドオミエ/クールベ/ゴッホ』のほか、釣り史研究による『江戸時代からの釣り』などがある。42年に創立された東京勤労者つりの会の会長を長くつとめた。
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没年月日:1988/04/08 昭和初期、江戸川乱歩らの小説挿絵を描き挿絵界の寵児となった挿絵画家竹中英太郎は、4月8日午前11時54分、虚血性心不全のため東京都新宿区の東京医科大病院で死去した。享年81。明治39(1906)年、12月18日、福岡県博多に生まれる。6人の兄姉を持つ末子。2歳で父と死別し困窮のうちに幼年期を送る。のち熊本県菊地郡大津に住む義兄のもとに母子ともにひきとられ、熊本北警察署の給仕となり、熊本中学の夜学に通う。林房雄ら第五高等学校社研のメンバー、徳永直らと交遊を始め、共産主義にひかれるようになり、熊本水平社の創立に参加、無産者同盟を結成して活動に熱中する。そのため警察署を解雇され、のち、検挙されて熊本を去り北九州で坑夫となる。生活難から雑誌『苦楽』に挿絵見本を持ちこみ、大正13(1924)年同誌に大下宇陀児作「盲地獄」の挿絵を発表。陰湿で妖しい独自の画風で注目され、昭和3(1928)年8月『新青年』に江戸川乱歩が発表した「陰獣」の挿絵を手がけて流行作家となる。『新青年』誌を中心に江戸川乱歩、横溝正史らの作品の挿絵を発表。夢野久作、佐々木白羊、下村千秋、三上於莵吉らの挿絵も担当したが、思想的疑問から昭和10年『平凡社名作挿絵全集』に『大江春泥画集』を制作したのを最後に筆を折り、大陸へ渡る。同14年秋、ハルピンで憲兵隊に逮捕され強制送還されて帰国するが挿絵界には復帰せず、15年東京都品川区に町工場を開く。16年第二次世界大戦に伴う企業整備のため工場を閉じることとなり、翌17年山梨日々新聞社記者となって勤労動員署を担当。戦後も同社に奉職し山梨日々新聞論説委員長、山梨県地方労働委員会会長をつとめた。正式な絵画教育は受けておらず、画歴については不明な点が多い。デフォルメされた人体を特色とし、不具、畸型を好んで描き、退廃的で魅惑的な雰囲気を持つ画風を示した。江戸川乱歩との主な作品に昭和3年『新青年』「陰獣」、同4年『朝日』「孤島の鬼」、『新青年』「押絵と旅する男」「悪夢(芋虫)」、同5年『新青年』「江川蘭子」、同6年博文館刊『江川蘭子』装幀・口絵、『探偵趣味』「地獄風景」、『朝日』「盲獣」があり、横溝正史との仕事には、昭和5年『新青年』「芙蓉屋敷の秘密」、同10年同誌「鬼火」、甲賀三郎との仕事には昭和3年『新青年』「瑠璃玉」「緑色の犯罪」、同5年平凡社刊『幽霊犯人』装幀、同6年『週間朝日』「悪魔の勝利」などがある。
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没年月日:1988/04/06 作家菊池寛の小説挿絵で知られる挿絵画家高木清は、4月6日午後10時58分、肺炎のため東京都練馬区の練馬総合病院で死去した。享年77。明治43(1910)年8月23日、愛知県一宮市に生まれる。小学校を卒業した後、看板などを描きながら独学し、のち伊東深水に師事。昭和9(1934)年ころ小説家菊池寛に認められ、菊池の雑誌小説の挿絵を手がけるようになる。女性像を得意とし優美な画風で人気を得、菊池寛のほか丹羽文雄、横溝正史、高木彬光の挿絵も担当した。 昭和10年 菊池寛「愛欲二代」(講談倶楽部)、林芙美子「女の部屋」(小樽新聞)昭和11年 菊池寛「紅白の絆」(富士)昭和12年 菊池寛「現代の英雄」(キング)昭和13年 菊池寛「黒白」(講談倶楽部)、「美しき鷹」(大阪毎日新聞、東京毎日新聞)、佐藤紅緑「花咲く丘」(少女倶楽部)昭和14年 佐藤紅緑「美しき港」(少女倶楽部)、丹羽文雄「銀座化粧」(サンデー毎日)、尾崎士郎「空に残れる」(小樽新聞)昭和16年 丹羽文雄「この響き」(報知新聞)昭和25年 横溝正史「八ツ墓村」(宝石)昭和26年 横溝正史「悪魔がきたりて笛を吹く」(宝石)、田村泰次郎「女学生群」(りべらる)昭和27年 高木彬光「我が一高時代の犯罪」(宝石)昭和28年 島田一男「事件記者」(宝石)昭和31年 佐賀潜「第三の殺人」(東京タイムズ)昭和33年 青柳淳郎「皇太子」(東京タイムズ)昭和45年 富島健雄「女の部屋」(大阪スポーツ)昭和51年 丹羽文雄「魂の試されるとき」(読売新聞)
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没年月日:1988/04/05 日本美術家連盟相談役で美術家の国際交流に貢献した和田新は、4月5日午前4時10分、肺炎のため東京都三鷹市の杏林病院で死去した。享年88。明治32(1899)年5月7日大阪市浪華女学校内の主幹住宅に、牧師の青山彦太郎の長男として生まれる。45年単身上京し、母の兄和田英作宅に寓居、明治学院普通部を経て東京美術学校西洋画科に入学し、大正13(1924)年同科を卒業する。昭和2年1月より現在の東京国立文化財研究所の前身である帝国美術院附属美術研究所設立準備事業にたずさわる。4年、東京美術学校助教授となり西洋美術史を講ずる。同年より翌年にかけ文部省の派遣により西アジア美術史研究のため欧州、イラン、イラク等を巡遊する。5年帝国美術院附属美術研究所嘱託となる。10年5月東京美術学校教授となるが同8月依願退官。この年青山家より和田家へ転籍する。12年帝国美術院附属美術研究所所員となり、17年退官。22年日本博物館協会幹事となる。26年日本美術家連盟事務局長となり46年まで長きにわたり美術家の国際交流に尽くし、46年以後も同連盟相談役をつとめる。また、46年よりほぼ毎年油絵個展を開催した。著書に『イーラーン芸術遺跡』(昭和20年、美術書院)などがある。
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没年月日:1988/03/24 古代織物研究家で正倉院古裂調査研究員をつとめた佐々木信三郎は、3月24日午後3時59分、老衰のため京都市右京区の双ケ丘病院で死去した。享年89。明治31(1898)年5月10日京都市上京区に生まれる。東山中学校を卒業して第三高等学校理科甲類に学び、昭和4(1929)年京都大学文学部史学科を卒業。考古学を専攻する。西陣織物同業組合西陣史編纂室に入り、7年上代からの流れを追った労作『西陣史』を刊行する。15年より川島織物研究所研究員となり、50年まで同所で古代裂の研究に従事した。また、28年宮内庁嘱託古裂調査員となり29年より45年まで正倉院古裂調査研究員として正倉院御物の研究に従事するほか、華頂短期大学家政学科で日本服飾史を講じた。著書に『西陣史』のほか『日本上代織技の研究』(昭和26年)、『上代綾に見る斜子技法』(33年)、『神護寺経帙錦綾私見』(同年)、『羅技私考』(35年)、『正倉院の羅』(46年)、『上代錦綾特異技法攷』(48年)などがある。51年京都新聞社文化賞を受賞している。
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没年月日:1988/03/23 京都市立芸術大学学長、北海道立近代美術館館長をつとめた美術史家佐藤雅彦は、3月23日午後7時40分、脳出血のため京都市東山区の京都第一赤十字病院で死去した。享年62。大正14(1925)年10月10日、東京都品川区に生まれる。昭和25(1950)年慶応義塾大学文学部美学美術史科を卒業。翌26年大阪市立美術館に入り東洋美術史を研究する。47年より京都市立芸術大学美術学部教授となり、55年より58年まで同大学学長をつとめる。北海道立近代美術館館長でもあった。西アジアの伝統工芸、中国、日本の陶磁史を専門とし、著書に『中国の土偶』『中国陶磁史』『やきもの入門』『中国やきもの案内』『京焼』『乾山』『白磁』『中国の陶磁』、共著に『漢代の美術』『六朝の美術』『隋唐の美術』などがある。
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