本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





皆川月華

没年月日:1987/05/11

日本現代染織造形協会会長、日展参事の染色家皆川月華は、5月11日午前1時、脳血栓のため京都市左京区の自宅で死去した。享年94。明治25(1892)年6月4日京都市に生まれ、本名秀一。明治44年安田翠仙に友禅の染色図案を学ぶ。また大正6年都路華香に日本画を学び、関西美術院で洋画を学んだ。昭和2年美術工芸部が新設された第8回帝展に「富貴霊獣文」が初入選、7年第13回帝展で「山海図」が特選を受賞する。以後、天然染料や古代染色の研究に取り組む一方、友禅に絵画的手法をとり入れた「染彩」の技法を確立、染色工芸界のパイオニアとして活躍する。新文展、戦後日展に出品し、35年第3回新日展に出品した「涛」により、翌36年日本芸術院賞を受賞した。また37年より現代工芸美術展、光風会展などにも出品する。この間、京都府嘱託の海外美術工芸調査のため、31年アメリカ各地を巡遊している。46年以後、日展参与、参事などを歴任し、59年には日本現代染織造形協会会長に就任。このほか日本現代工芸美術家協会、光風会の顧問、日本きもの染織工芸会理事長などもつとめた。47年京都市文化功労者、48年京都府美術工芸功労者、58年京都府文化特別功労者となる。また祇園祭の山鉾の銅掛や前掛、後掛などを長年制作し、菊水鉾、月鉾などのほか数多くの山鉾を飾る品々を制作した。54年米寿記念「皆川月華・新彩染彩展」、57年卒寿記念染彩「皆川月華展」、60年「染彩七十年・皆川月華展」を開催。また作品集に『染彩皆川月華作品集』(光琳社)、『皆川月華染彩天井画集』『染芸皆川月華』(京都書院)などがある。

八木敏

没年月日:1987/05/05

京都市立芸術大学教授で、高木敏子の名で染織作家として知られた八木敏は、5月5日肺がんのため京都市上京区の吉岡病院で死去した。享年63。わが国前衛陶芸の推進者として著名な故八木一夫の夫人であり、染織作家として活躍した八木敏は、大正13年1月21日京都市に生まれた。はやくから父に織技法を学ぶとともに、洋画家太田喜二郎、刺繍作家岸本景春にもついた。昭和15年紀元二千六百年奉祝美術展に「秋綴織壁掛」が初入選、その後文展に出品した。戦後の同27年、八木一夫と結婚、また同年から京都市立美術学校(のち京都市立芸術大学)で教えた。同33年改組第1回日展に意欲的な立体作品「綴織室内装飾」を出品し注目された。同50年には日展を離れ、国際展や個展で制作発表を行った。作品は他に「貌」(同51年)などがある。

森野嘉光

没年月日:1987/05/02

陶芸家で日展参事の森野嘉光は、5月2日老衰のため京都市上京区の京都府立医科大学付属病院で死去した。享年88。明治32(1899)年4月15日、京都市東山区入に生まれる。本名嘉一郎。大正10年京都市立絵画専門学校日本画科を卒業、同年の第3回帝展に卒業制作「比叡の山麓」が初入選する。同15年第7回帝展にも日本画で入選したが、この間、李朝陶磁にひかれ、清水焼の陶工であった父峰楽につき青磁、辰砂の研究を始め作陶に転じた。昭和2年第8回帝展に工芸部が新設され、「青流草花文花瓶」を出品し、入選する。同4年東京、日本橋・三越で個展を開催、この頃から塩釉の美しさに注目し独自の研究を始め、また、板谷波山を知った。同16年第4回新文展に「塩釉枇杷図花瓶」で特選を受賞した。戦後は、同24年清水六兵衛、河合栄之助らと京都陶芸家クラブを結成、日展へ出品し、同27年の第8回展以来しばしば審査員をつとめた。同33年社団法人日展発足にともない評議員となる。翌34年頃から緑釉窯変の研究に意欲的にとりくみ、同37年には現代工芸美術家協会設立に参加し、第1回現代工芸美術展に「緑釉窯変耳付花瓶」を発表した。翌38年、前年度日展出品作「塩釉三足花瓶」で日本芸術院賞を受賞する。同46年日展理事となり、現代工芸美術家協会参与となったが、美術家協会は同54年退会した。この間、同42年に京都市文化功労者、翌年京都府美術工芸功労者にあげられた。同55年、日本新工芸家連盟代表委員、日展参事となる。作品集に『森野嘉光作陶集』(同60年、求龍堂)他がある。

宮永岳彦

没年月日:1987/04/19

鹿鳴館シリーズなどの華麗な女性像で知られる洋画家宮永岳彦は、4月19日午前8時50分、消化管出血のため東京都港区の東京専売病院で死去した。享年68。大正8(1919)年2月20日、静岡県磐田郡に生まれる。昭和11(1936)年名古屋市立工芸学校を卒業し、松坂屋に勤務しながら制作を続け、16年より正宗得三郎に師事。17年第29回二科展に「いもん」で初入選。18年第6回新文展に「いもん」で初入選する。戦後は二紀会に参加し22年第1回展に「鏡」を出品して褒賞受賞。同年二紀会同人となる。25年日本宣伝美術協会の創立に参加。29年第8回二紀展に「裸婦A」「裸婦B」を出品して同人努力賞受賞、32年同会委員、47年理事に就任する。豪華、華麗な西欧の王朝風の美人画で知られ、49年日伯文化協会の要請により「皇太子殿下、同妃殿下肖像」を描き、同年ブラジル国公認サンフランシスコ最高勲章グラン・クハース章受章。また同年第28回二紀展に「ROKUMEIKAN 煌」を出品して菊華賞受賞。52年第31回同展出品作「碧」で53年東郷青児美術館大賞を受賞し、53年第32回同展出品作「鵬」で53年度日本芸術院賞を受ける。61年には二紀会理事長に就任した。30年代にはポスターや新聞・雑誌の挿絵でも活躍。広く大衆的人気を博した。『宮永岳彦・現代の美人画』(52年講談社)、『宮永岳彦画集』(54年実業之日本社)が刊行されている。

大森啓助

没年月日:1987/03/31

国画会会員の洋画家大森啓助は3月31日午前零時48分、心不全のため、東京都杉並区の河北総合病院で死去した。享年89。明治31年(1898)年3月15日、神戸市に生まれる。本名多満四郎。大正9(1920)年関西学院高等部を卒業して上京し、金山平三に師事しつつ川端画学校に通う。同15年、フランスへ留学し同年のサロン・ドートンヌに初入選する。サロン・ザンデパンダンなどにも出品し、昭和7(1932)年、欧州巡遊を経て帰国する。同8年第11回春陽会展に「團樂」ほか10点を初出品。同9年同展に「裸婦」ほかを出品して春陽会賞を受賞し同会会友となる。同11年春陽会を退会して国画会に入会。同12年再び渡欧し1年間滞在する。同18年国画会会員となる。装飾的な人物像を得意とし、師金山と同じく歌舞伎絵を描くことでも知られる。文筆もよくし、訳書にモロオ・ヴォチェー著『絵画』(昭和17年)、J・G・グーリナ著『画家のテクニック』(同26年)、著書に『ヴァン・ゴッホ』(同24年)、『印象派の話』(同27)年などがあるほか、随筆にも筆をふるった。

北村西望

没年月日:1987/03/04

長崎の平和祈念像などで知られる文化勲章受章者の彫刻家北村西望は、3月4日午前8時58分、心不全のため東京都武蔵野市の自宅で死去した。享年102。明治17(1884)年12月16日長崎県南高来郡に生まれる。長崎師範学校に進むが、病気のため中退し、36年京都市立美術工芸学校彫刻科に入学。40年同校を首席で卒業し、同年東京美術学校彫刻科に入学、同期に朝倉文夫、建畠大夢がいた。45年にこちらも首席で卒業する。この間、在学中の41年第2回文展に「憤闘」が初入選し、42年第3回文展「雄風」、44年同第5回「壮者」はともに褒状となった。さらに、大正4年第9回文展で「怒涛」が二等賞、翌5年同第10回「晩鐘」は特選を受賞、6年第11回文展に「光にうたれた悪魔」を無鑑査出品する。帝展では大正8年第1回展より審査員をつとめ、14年には弱冠40歳で帝国美術院会員となった。また大正10年東京美術学校教授となり、昭和19年まで後進の指導にあたった。このほか、大正8年曠原社を組織し、同11年西ケ原彫刻研究所を開設、昭和8年には東邦彫塑院の顧問となるなど、彫刻研究に没頭する。戦前は「寺内元帥騎馬像(寺内正毅)」(大正11年)、「児玉源太郎大将騎馬像」(昭和13年)、「橘中佐」「山県有朋元帥騎馬像」(昭和5年)など、勇壮な男性像で戦意高揚を意図した作品を手がけるが、戦後は平和や自由、宗教などを題材に制作。29年第10回日展「快傑日蓮上人」や、4年がかりで制作した長崎の「平和祈念像」を30年に完成する。このほかにも、広島市民のための「飛躍」など多くの平和祈念像を制作した。また戦後は日展に出品、44年より49年まで日展会長をつとめ、49年日展名誉会長となったほか、日本彫塑会にも出品し、37年名誉会長となっている。22年日本芸術院会員となり、33年文化勲章を受章、文化功労者となる。また28年武蔵野市の都立井の頭公園内にアトリエを建築、東京都にその後の寄贈分も合わせ計約500点の作品を寄贈し、作品は井の頭自然文化園の彫刻館に陳列される。37年武蔵野市名誉市民、47年長崎県島原市名誉市民、55年名誉都民となった。61年12月に風邪をひいてから静養していたが、62年1月に完成した板橋区役所新庁舎前の「平和を祈る」が絶作となった。

小山敬三

没年月日:1987/02/07

一水会創立会員、日本芸術院会員、文化勲章受章者の洋画家小山敬三は2月7日午後10時34分、心不全のため神奈川県平塚市の杏雲堂平塚病院で死去した。享年89。明治30(1897)年8月11日長野県小諸市の旧家に生まれる。大正4年旧制上田中学校を卒業。慶応大学予科に入学するが画家を志して中退。川端画学校に通い藤島武二に学ぶ。同7年第5回二科展に「卓上草花図」などで初入選する。父の友人であった島崎藤村の勧めで同9年渡仏しシャルル・ゲランに師事。同11年サロン・ドートンヌに初入選する。同12年春陽会客員、翌13年同会会員、同15年サロン・ドートンヌ会員となる。昭和3年に帰国し、翌4年第7回春陽会展に滞欧作を特別陳列する。同8年春陽会を退会して二科会員となるが、11年には同会をも退き安井曽太郎らと一水会を創立。同12年再渡仏。1年ほど滞在した後、第二次大戦の激化のため帰国する。戦後は一水会、日展に出品し、34年に白鷺城をモチーフとする一連の作品によって日本芸術院賞受賞、35年日本芸術員会員および日展理事となる。45年文化功労者として顕彰され、50年度文化勲章を受章する。浅間山を好んで描き「紅浅間」など重厚で高雅な風景画を多く残す。著書に『ゴッホ静物篇』『来し方の記』、訳書にヴォラール著『画商の想出』がある。47年に郷里小諸に美術館を建て小諸市に寄贈する。また、油彩画の技法、修復技術の研究の必要を認識し、最晩年に私財を投じて小山敬三美術振興財団を設立し、小山敬三記念賞による油彩画家の表彰、油彩修復技術者の海外派遣を行なうこととするなど洋画の発展に寄与するところが大きかった。

山本豊市

没年月日:1987/02/02

文化功労者、東京芸術大学名誉教授の彫刻家山本豊市は、2月2日午後7時25分、肺炎のため東京都新宿区の自宅で死去した。享年87。明治32(1899)年10月19日東京新宿に生まれる。本名豊。錦成中学校在学中に戸張孤雁を知り、大正6年卒業後、孤雁に師事する。一方、同7年より3年間太平洋画会研究所でデッサンを学んだ。10年第8回再興院展に「胴」が初入選し、12年日本美術院院友、昭和7年同人となる。この間、大正13年フランスに渡り、マイヨールに師事。昭和3年帰国し、マイヨール彫刻を日本に紹介する。5年より日本大学で講師として教えた。7年頃、京都や奈良に旅行し仏像に接したのを契機に、ブロンズや石膏などの材料不足もあり10年頃より本格的に乾漆技法を研究。11年の第1回改組帝展に乾漆像「岩戸神楽」を出品する。以後、乾漆の技法を現代彫刻に導入した独特の作風を展開した。戦後院展に出品する一方、25年より新樹会に参加、第4回新樹会展「立女」「群像」などを出品する。また26年第1回サンパウロ・ビエンナーレ、31年第28回ヴェネツィア・ビエンナーレなどにも出品し、29年前年作の「頭像」「エチュード」により第5回毎日美術賞を受賞。33年には、前年ブリヂストン美術館で開催した個展出品作により芸術選奨文部大臣賞を受賞した。35年大船観音を制作。36年日本美術院彫刻部が解散し、新たに結成された彫刻家集団SASに参加、同会が38年国画会と合同するに及んで、国画会会員となり、50年退会まで同会に出品した。この間、22年東京美術学校講師、28年東京芸術大学教授となり後進の指導にあたる。42年停年退官後、同大学名誉教授となるとともに、愛知県立芸術大学で教授として教えた。乾漆の質感と流麗な形態や動感を持つ作品を制作、58年には文化功労者となっている。

村山徑

没年月日:1987/01/23

日展理事の日本画家村山徑は、1月23日午後11時38分、肺気腫のため神奈川県足柄下郡の厚生年金病院で死去した。享年70。大正6年1月21日新潟県柏崎市に生まれ、本名勲。昭和10年児玉希望に師事し、18年第6回新文展に「子等」が初入選する。戦後25年、希望門下の国風会と伊東深水門下の青衿会により組織された日月社に出品、3度にわたって受賞し、委員もつとめた。また27年より日展に出品し、30年第11回日展「たそがれ」、31年同第12回「風景」など、知的で堅固な画面構成の風景画を出品。33年第1回新日展「残雪の高原」、翌34年同第2回「白浜」が、ともに特選・白寿賞を受賞する。続いて、36年第4回新日展「溜」が菊華賞、53年第10回改組日展「朝の火山」が総理大臣賞となり、59年同第16回展出品作「冠」により翌60年日本芸術院賞恩賜賞を受賞した。この間、40年日展会員、47年評議員、60年より同理事をつとめた。

向井久万

没年月日:1987/01/20

創画会会員の日本画家向井久万は、1月20日午前2時47分、肺気腫のため東京都文京区の日本医大付属病院で死去した。享年78。明治41(1908)年12月14日大阪府泉佐野市に生まれる。大正15年大阪府立岸和田中学校卒業後、京都高等工芸学校図案科に学び、昭和4年卒業する。同年丸紅に勤務し、9年の退勤まで図案を担当した。11年西山翠嶂に入門、画塾青甲社に学ぶ。14年第3回新文展に舞妓を描いた「妓筵」が初入選し、翌15年の毎日新聞社主催紀元2600年奉祝日本画展で「新春」が佳作となる。続いて、16年長男の誕生を描いた「男児生る」が第4回新文展で特選を受賞、18年同第6回「紙漉き」も再び特選となった。戦後23年、新しい日本画の創造を目指して結成された創造美術に参加、創立会員となり、24年「娘達」などを出品する。26年創造美術が新制作派協会と合流して新制作協会日本画部となって以後は同会に出品する。この頃、26年「立像」、30年「堕ちる」など裸婦にとり組む。49年新制作協会日本画部が同協会を離脱し創画会を結成して以後、会員として同会に出品した。近年は、48年「如意輪観音」、54年第6回創画展「星宿」などのほか、「普賢と文殊」「十二天」「准胝仏母」など、古典に学んだ明快な描線による格調高い仏画に、多くの秀作を生んだ。

毛利登

没年月日:1987/01/20

元東京芸術大学教授の美術史家毛利登は1月20日午後4時10分、急性心筋梗塞のため神奈川県茅ケ崎市の茅ケ崎徳洲会病院で死去した。享年84。明治35(1902)年12月14日東京下谷区に生まれる。昭和2年東京美術学校図案科を卒業し、同年宮内省嘱託となり即位大礼用神宝類図案設計を担当する。同3年内務省造神宮使庁嘱託となり、同14年同技手、17年同技師となる。終戦後の同21年文部省国宝調査室に勤務し、同22年東京国立博物館嘱託、同23年同調査員を経て、24年文部技官として同博物館に勤務する。同25年文化財保護委員会美術工芸品課に移り、26年同記念物課、27年同無形文化財課を兼務する。同37年東京国立文化財研究所保存科学部修理技術研究室長となるが、翌38年東京芸術大学教授となり文化財保存修復概論を講ずる。同41年東京芸術大学付属芸術資料館長となる。同45年3月同大学を退く。文様美術、日本文様史を研究し、訳書にフランツ・マイヤー著『装飾のハンドブック』(昭和43年、東京美術刊)、著書に『日本の文様美術』(同44年、同上)がある。

菱田春夫

没年月日:1987/01/14

菱田春草の長男で日本美術院理事・前事務局長の菱田春夫は、1月14日午後3時39分、心不全のため東京都目黒区の東京国立第2病院で死去した。享年84。明治35(1902)年1月17日東京府下谷区に、日本画家菱田春草の長男として生まれる。春草が明治44年36歳で死去したのち、大正8年横山大観に師事して日本画を学び、のち日本美術院研究会員となる。大正14年日本美術院の事務を委嘱され、昭和17年財団法人岡倉天心偉績顕彰会の設立に伴い、その事務も兼任した(27年まで)。以後、日本美術院の運営の任にあたり、33年日本美術院が財団法人となるに際し主事(54年3月まで)となった。また、36年日本美術院評議員、54年同理事となるなど、斎藤隆三を継いで日本美術院運営の大任にあたった。春草の画集『菱田春草』(大日本絵画巧芸美術、昭和51年)の編集などのほか、「父春草の思い出」(『ゆうびん』3-10、昭和26年10月)や、数々の春草の図書、展覧会図録の序文などを書いている。春草の作品の鑑定家としても知られた。

田村耕一

没年月日:1987/01/03

東京芸術大学名誉教授、国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の陶芸家田村耕一は、1月3日胆のうがんのため栃木県の栃木県南総合病院で死去した。享年68。陶器に鉄絵で文様を描く分野からは初の人間国宝に認定された田村は、大正7年6月21日栃木県佐野市で生まれた。昭和16年東京美術学校工芸科図案部を卒業し、大阪府下で楽焼を学ぶが翌年応召する。戦後の同20年京都市の松風工業株式会社松風研究所に入所して陶磁器の本格的研究を開始し、富本憲吉に師事した。同23年栃木県佐野市へ帰り、赤見窯の築窯に加わる。翌年新匠工芸会展に出品、同25年には浜田庄司の勧めで栃木県窯業指導所技官となり、ココ工芸の結成に参加、のち生活工芸集団結成に加わった。同31年と33年に現代日本陶芸展で朝日賞を受賞、同32年には日本陶磁協会賞を、さらに同35年と翌年には日本伝統工芸展で奨励賞を連続受賞し、同37年日本工芸会正会員となった。この間、陶器に酸化鉄を付けて文様表現する鉄絵の技法を開発し、銅彩で色彩を加えた創造性に富む作風を展開した。また、同42年トルコ・イスタンブール国際展で金賞を受賞するなど国際的な評価も得、同59年にはミュンヘンで個展を開催した。同42年東京芸術大学助教授、同51年教授に就任し母校での後進の指導にもあたり、同60年停年退官し同校名誉教授となった。同61年国指定重要無形文化財(鉄絵)保持者に認定される。日本工芸会副理事長、佐野市名誉市民でもあった。

吉田光甫

没年月日:1986/12/29

日本工芸会正会員の染色作家(手描友禅)吉田光甫は、12月29日心筋こうそくのため滋賀県志賀町の自宅で死去した。享年70。本名弘。大正5年7月23日京都市に生まれる。昭和5年関谷雨溪の門に入り友禅を学び、同11年独立した。戦後の同39年、日本伝統工芸展に初入選し、以後同展に出品、同43年日本工芸会正会員となった。同46年には、第8回日本工芸会染織展で優秀賞を受賞する。

高橋信一

没年月日:1986/12/16

佐渡版画村理事長として版画の制作、指導に尽力した版画家高橋信一は、12月16日午前5時15分、気管支ぜんそくによる気道閉そくのため、新潟県両津市の自宅で死去した。享年69。大正6(1917)年7月25日佐渡に生まれる。小学校在学中、図画教師中田吉三に学んで油絵を描き始め、のち、平塚運一の弟子笹井敏雄、斎藤正路に版画を学ぶ。昭和32(1957)年現代版画コンクール佳作賞受賞、34年日本版画協会展賞受賞。35年には日本版画協会展賞および恩地賞を受けて同会会友に推される。38年3ケ月間滞欧して13ケ国を巡遊。39年日本版画協会会員となる。41年フランス、イタリア政府の招きで国立美術大学教育者の講師として東洋絵画、版画の実技の指導に当たる。44年国画会版画部会員となる。クラコウ国際版画ビエンナーレなど国際展への出品も多く、51年スイス・ザイロン国際版画展では受賞している。常に郷里佐渡にあって制作するとともに、昭和23年より51年停年退職するまで、両津高校で教鞭をとり、版画指導に尽力。48年より島民への版画指導も始め、全島に版画制作の輪を広げ、佐渡版画村をおこして57年サントリー地域文化賞を受賞。59年7月には相川町に佐渡版画村美術館が設立された。仏教の二河白道に触発された「白い道」シリーズで知られ、トキをモティーフとして好んで描く。『佐渡名所百選』(51年、新潟日報事業社)、『高橋信一の世界』(58年、教育書籍)、『佐渡版画村作品集』(59年、教育書籍)、『捨てない教育』(59年、渓水社)などを刊行している。

オノサト・トシノブ

没年月日:1986/11/30

抽象画家オノサト・トシノブは11月30日、急性肺炎のため桐生市の自宅で死去した。享年74。本名小野里利信。明治45(1912)年6月8日長野県飯田市に生まれ、大正11年から群馬県桐生市に住む。昭和6年津田青楓洋画塾に入り、同10年第22回二科展に初入選する。同年、津田洋画塾出身の野原隆平、浅野恒、山本直武と4名で黒色洋画展を結成したが、翌年展覧会開催後退会し、同12年自由美術家協会の創立に参加した。同15年の制作「黒色の丸」は、当時試みられることの少なかった構成主義的内容をもつ作品として注目された。翌16年応召し、戦後は同23年迄シベリアに抑留された。帰国後、錯視的な空間をつくる独特な抽象画を展開、同28年タケミヤ画廊で初の個展を開催した。同29年の国立近代美術館主催「抽象と幻想」展、同31年の「世界・今日の美術」展などに出品。また、同31年には自由美術家協会を退会し、以後個展を中心に制作発表を行った。同38年、第7回日本国際美術展に「相似」で最優秀賞を受賞する。同39年にはグッゲンハイム賞国際美術展、第34回ヴェネツィア・ビエンナーレ展、翌40年にはニューヨーク近代美術館の「新しい日本の絵画・彫刻展」、チューリッヒ市立美術館の「現代の日本美術展」への出品をはじめ、海外展へ数多く出品し国際的評価を得た。同53年、文集『実在への飛翔』(叢文社)を刊行する。

高光一也

没年月日:1986/11/12

文化功労者、日本芸術院会員、日展顧問の洋画家高光一也は、11月12日午後4時41分、くも膜下出血のため石川県河北郡の金沢医大病院で死去した。享年79。明治40(1907)年1月4日、石川県金沢市に生まれ、大正14年石川県立工業学校図案絵画科を卒業。小学校教師を経て、昭和4(1929)年第16回二科展に「卓上静物」で初入選。同年より中村研一に師事する。7年第13回帝展に「兎の静物」で初入選し画業に専念する。12年第1回新文展に「藁積む頃」を出品して特選となり、14年第1回聖戦美術展に「叢中忘己」を出品して陸軍大臣賞受賞。21年光風会会員となり、同年金沢美術工芸専門学校(現・金沢美術工芸大学)の創立に参加する。22年第3回日展に「南を思う」を出品して特選となる。27年第38回光風会展に「裸婦」を出品して光風相互賞受賞、28年金沢市文化賞受賞。29年渡欧し翌年帰国する。38年第6回新日展に「収穫」を出品して文部大臣賞受賞。39年再び渡欧する。46年、前年の第2回改組日展出品作「緑の服」などにより日本芸術院賞受賞。48年スペイン、50年ポルトガル、53年サウジアラビア、55年にはフランス、イタリア、ギリシア等を旅行して取材し、得意としていた人物像に異国趣味を導入する。59年石川県立美術館、東京大丸デパートで回顧展を開催。61年文化功労者に選ばれた。また、昭和22年金沢美術工芸専門学校講師となり、以後26年金沢美術工芸短期大学教授、30年金沢美術工芸大学教授となり44年同校を退官して名誉教授となるまで長く美術教育にも尽くした。日展に出品を続け46年日展理事に就任。文筆もよくし、仏教書『生活の微笑』(37年)、『近作画集と歎異鈔ノート』(49年)などを著し、『高光一也自選画集』『高光一也画集』を刊行している。

安田武

没年月日:1986/10/15

「わだつみ会」の再建などでも知られた社会・文化評論家の安田武は、10月15日午後10時25分こう頭がんのため東京都中央区の国立がんセンターで死去した。享年63。大正11(1922)年11月14日東京府北豊島郡に生まれる。昭和16(1941)年京華中学校を卒業して17年上智大学英文科に入学するが、18年学徒出陣し20年ソ連軍と闘って捕虜となり、22年1月帰国。上智大学へ復学する。23年上智大学を退学して法政大学国文科へ転入学するが同年中退。24年『きけわだつみのこえ』に衝撃を受け、出版関係の仕事に従事しつつ執筆活動を続け、34年「わだつみ会」の再建に加わったほか、38年『戦争体験』、42年『学徒出陣』を出版する。また、第二次世界大戦を風化させまいとする姿勢から独自の文化論を持ち、市井の生活を基盤として息づく日本の伝統に目を向け、芸人や職人の型に関する評論活動を行なった。著書に『日本の美学』(45年)、『芸と美の伝承』(47年)、『型の文化再興』(49年)、『を読む』(54年)などがある。

荻須高徳

没年月日:1986/10/14

パリ在住の洋画家荻須高徳は、10月14日午前2時(日本時間同10時)パリ市18区の自宅近くのアトリアで制作中死去した。享年84。戦前・戦後を通じ半世紀以上フランスに滞在し、パリの古い街並などを描き続け、フランスで最もよく知られた日本人画家の一人であった荻須は、明治34(1901)年11月30日愛知県中島郡に生まれた。愛知県第三中学校を卒業し、大正9年画家を志して上京、川端画学校で藤島武二の指導を受け、翌10年東京美術学校西洋画科に入学した。同期に小磯良平、牛島憲之、猪熊弦一郎、山口長男、岡田謙三らがいた。卒業の年の同15年、フランスから帰国中の佐伯祐三を山口長男と訪ね、佐伯に鼓舞されてフランス留学を決意し、同年山口とともに渡仏した。パリでは佐伯の側らで制作を進め、当初は画風の上で佐伯の強い影響を受けて出発した。しかし、昭和2年佐伯没後は、ユトリロの作品に強くひかれる。翌3年からはサロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザルティスト・アンデパンダンに出品を続け、同11年サロン・ドートンヌ会員となる。この間、同6年にパリのカティア・グラノワ画廊で個展を開催したのをはじめ、以後ジュネーヴ、ミラノなどでも個展を開いた。また、同11年作の「プラス・サンタンドレ」がフランス政府買上げとなり、翌12年のサロン・ドートンヌ出品作「街角」がパリ市買上げとなった。同14年第2次世界大戦勃発にともない翌年帰国し、新制作派協会会員に迎えられ、同年の第5回同協会展に滞欧作が特別陳列された。同17年には陸軍省嘱託として仏領インドシナなどに派遣される。同23年、日本人画家としては戦後はじめてフランスへ渡り、以後パリを中心に制作活動を展開、同26年、サロン・ド・メに招待出品したのをはじめ、サロン・ド・テュイルリやヨーロッパ各地での個展で制作発表を行う。パリの街角を独自の明快で骨太な筆触で描き続けた作品は、広くパリ市民にも愛された。同31年、フランス政府からシュヴァリエ・ド・レジオン・ドヌール勲章を受章、同49年にはパリ市からメダイユ・ド・ヴェルメイユを受けた。同54年、パリ市主催でパリ在住50年記念回顧展が開催される。また、松方コレクションの日本返還やゴッホ展日本開催に協力するなど、日仏文化交流にも尽した。一方、日本では同29年第5回毎日美術賞特別賞を受賞、同30年に神奈川県立近代美術館、翌年ブリヂストン美術館でそれぞれ回顧展が開催され、同37年には国際形象派結成に同人として参加した。また、同40年、17年ぶりに一時帰国した。同55年、東京新聞紙上に連載したパリ生活の回想をもとに『私のパリ、パリの私』を刊行、中日文化賞を受けた。翌56年、文化功労者に選任される。同58年、郷里の稲沢市に稲沢市荻須記念美術館が開館した。戦後の作品に「サン・マルタンの裏町、パリ」(同25年)、「路に面した家・パリ」(同30年)などがある。葬儀は10月17日モンマルトル墓地で執行され、画家のジャン・カルズー、アイスビリー、カシニョル、ワイスバッシュ、シャプランミディをはじめ、本野盛幸駐仏大使ら在パリ日本人会など三百人余が参列した。また、没後日本政府から文化勲章が追贈された。

池辺一郎

没年月日:1986/10/13

一水会常任委員の洋画家池辺一郎は、10月13日午後4時15分、老衰のため東京都千代田区の日比谷病院で死去した。享年81。明治38(1905)年6月11日、東京に生まれる。麻布中学校を卒業し、昭和7年に渡仏。アカデミー・グラン・ショーミエールなどで学び13年に帰国する。21年一水会に参加して会員となり一水会賞を受ける。27年第14回一水会展に「けやき並木」「けさん夫妻と牛」「東京風景」を出品して会員優賞を受賞し同会委員に推される。同年第8回日展に「三人」を出品して岡田賞受賞。以後も日展、一水会展に出品を続ける。フォービスムの影響を受けた明るい色彩を用い、人物画にはドラン風の、風景画にはゴーギャン風の作風がうかがえる。文筆もよくし、著書に『近代絵画のはなし』(40年、南窓社)、『ルドン』(50年、読売新聞社)などがある。

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