本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
- なお『日本美術年鑑』掲載時の分類も、個々の記事中に括弧書きで掲載しました。
- 登録日と更新日が異なっている場合、更新履歴にて修正内容をご確認いただけます。誤字、脱字等、内容に関わらない修正の場合、個別の修正内容は記載しておりませんが、内容に関わる修正については、修正内容を記載しております。
- 毎年秋頃に一年分の記事を追加します。
没年月日:1989/06/27 1950年代、60年代の前衛美術運動で活躍した洋画家関根美夫は、6月27日午前11時、急性心不全のため東京都品川の自宅で死去した。享年66。大正11(1922)年、和歌山市に生まれ、昭和20年広島で被爆。同23年自由美術研究会で中村真に師事し、前衛美術を知る。また、同研究会を介して吉原治良を知り、同59年まで指導を受ける。同23年第2回汎美術協会展に初出品。翌年より全関西総合美術展などに出品し、29年の具体美術協会の結成に参加する。同31年第20回新制作協会展に「顔の影のピエロ」を出品。同33年ミッシェル・タピエの発案による「新しい絵画世界展-アンフォルメルと具体」に出品するが翌年具体美術協会を退会する。38年第15回読売アンデパンダン展にソロバンを描いた絵画を出品し、以後「ソロバン」「門」「貨車」のシリーズを制作し、実在の物をつかって、抽象的画面をつくることを追求。同40年第2回長岡現代美術館賞を受賞、翌41年、45年のジャパン・アート・フェスティバル、現代日本美術展、日本国際美術展などに出品し、抽象絵画の隆盛の中で「具象と抽象の混血児」を提起する独自の作風で注目された。同50年「近代日本の美術」展(東京国立近代美術館)、同56年「1960年代 現代美術の転換期」(同)などに作品が展観されるなど、50・60年代の美術を代表する作家のひとりと目された。作家自身による履歴に「具象と抽象の混血児」(『美術手帖』402、昭和51年1月)がある。
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没年月日:1989/06/22 日展評議員、日彫会会員、太平洋美術会会員の彫刻家平野富山は6月22日午後5時20分、肺ガンのため東京都中央区の国立がんセンターで死去した。享年78。明治44(1911)年3月7日、静岡県清水市に生まれる。本名富三。清水市立江尻高等小学校を卒業して昭和3(1928)年に彫刻家を志して上京、池野哲仙に師事する。同16年より斎藤素巌に師事。翌17年第5回新文展に「女」で初入選。この頃から昭和50年代初めまで「敬吉」の号を用いる。同18年第6回新文展に「想姿」を出品したのち一時官展への出品がとだえるが、戦後の同24年第5回日展に「若者」を出品以後は一貫して日展に出品を続けた。同31年第12回日展に「若人」を出品して特選となり、同34年第2回新日展出品作「裸婦」で再び特選を受賞。同38年日展会員、同57年同評議員となった。日展審査員をしばしば務めたほか、同33年より日彫展にも出品を始め、同37年には第58回太平洋展に「習作T」「現」を初出品して文部大臣賞を受け、同年会員に推挙された。団体展出品作は塑像が多く、ブロンズ像を中心に制作したが、彩色木彫も行ない、昭和33年には平櫛田中作「鏡獅子」の彩色を担当。同60年静岡駿府博物館で「平野富山彩色木彫回顧展」が開催された。裸婦像を得意とし、若く張りのある肉体をなめらかなモデリングでとらえる。ポーズによって「流星」「かたらい」等、自然物や抽象的概念を暗示する甘美な作風を示した。
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没年月日:1989/06/17 久留米絣技術保持者会会長で重要無形文化財久留米絣の藍染部門の第一枚者であった松枝玉記は、6月17日午後8時5分、肺炎のため福岡県八女郡の脳神経外科馬場病院で死去した。享年84。明治38(1905)年3月22日、福岡県三潴郡に生まれる。祖父松枝光次が明治15年に織屋を始めるなど、代々久留米絣の染めと織に従事してきた家に生まれ。幼い頃からその制作を見聞し、初歩的な手ほどきを受けた。旧制八女中学校を卒業後、大正11(1922)年本格的に久留米絣の道に入り、昭和2年頃に修業期を終える。父の後を継いで藍染を専門とし、同32年久留米絣が国の重要無形文化財に指定されるに際し、藍染の技術保持者に認定された。同34年久留米絣の重要無形文化財保持者代表森山富吉の死去に併い、同年4月その後を襲い、同51年制度改訂により久留米絣が技術保持者の代表指定から団体(久留米絣技術保持者会)指定に移るまで、久留米絣藍染部門の重要無形文化財保持者であった。日本伝統工芸展のほか、日本伝統染織展、福岡県展等に出品。同45年日本工芸会正会員となった。同56年3月東京・西武百貨店で個展を開催し、同年『藍生-松枝玉記作品集』を刊行。同59年4月東京・銀座和光で個展を開いた。伝統的藍染、手織の技術を用い、古典的絣文様を保存する一方、情感をこめた絵模様のデザインに今日的感性を生かして、昭和初年から衰退し始めた久留米絣の保存、復興に妻一と共に努めた。 日本伝統工芸展出品歴第10回展(昭和38年)「構成」「着尺」、11回不出品、12回「蓮花重文」、13回「筑後路」、14回不出品、15回(同43年)「鳰の住む沼」、16回「天翔る」、17回「家」、18回「初夢」、19回「夢の花」、20回(同48年)「南十字星」、21回「菱と輪」、22回「秋燈」、23回「糸の系譜」、24回「献穀」、25回(同53年)「ふるさとの丘」、26回「水に潜る亀」、27回「機の音」、28回「湖畔の橋」、29回「島」、以後不出品
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没年月日:1989/06/17 国画会会員の洋画家木内廣は、6月17日胆管がんのため東京都新宿区の国立病院医療センターで死去した。享年69。大正9(1920)年1月9日、栃木県上都賀郡に生まれる。昭和15年太平洋美術学校卒業と同時に入隊し、終戦時まで中国北部の戦線に従事した。同21年復員し画業を再開、青山義雄に師事し同23年の22回国画会展に「うさぎ」他1点が初入選する。同24年国画会会友、同26年同会員に推挙された。以後、同展への出品を続けたほか、東京・銀座兜屋画廊をはじめ毎年個展を開催し制作発表を行う。国展への出品作に「父子裸像」(25回)、「鳥と少年」(28回)、「荼毘」(30回)、「構築」(33回)などがあり、著書に『自然を描く』など。
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没年月日:1989/05/30 文教大学教授の陶芸家里中英人は5月30日午後4時35分、交通事故による全身打撲のため茨城県猿島の友愛記念病院で死去した。享年56。昭和7(1932)年6月15日、名古屋市に生まれる。同30年東京教育大学芸術学科を卒業し、翌年同大学芸術学専攻科を修了する。双方とも専攻は工芸・建築学。同31年より宮之原謙に師事し、同36年には東陶会に「陶彫」を出品して板谷波山会長賞、同年の第13回三軌会展では「陶壁」で受賞、翌37年第14回三軌展に「陶壁」を出品して努力賞、ブランシェ賞受賞、38年、44年にも東陶会で受賞。45年より八木一夫に師事して走泥社に参加する。同46年第1回日本陶芸展前衛部門に「シリーズ・公害アレルギー」を出品して優秀作品賞・外務大臣賞を受賞、社会派の前衛陶芸家としての地歩を築いた。翌47年第30回イタリア・ファエンツァ国際陶芸展でラベンナ州知事賞受賞、48年より翌年まで文化庁芸術家在外研究員として欧米に学ぶ。帰国後も走泥社への出品を続けたが八木一夫の死を機に同54年退会。同年国際陶芸アカデミー会員に推挙され、以後国内での展観に加えて同55年フランス・ヴァロリス国際陶芸ビエンナーレ及びイタリア・ファエンツァ国際陶芸展、58年国際陶芸アカデミー学会会員展など国際展にも出品する。同48年の「赤ちゃんの帽子」、50年「シリーズ:ワイングラスの悪夢」、51年「傷痕」、52年「シリーズ:猛想族」、54年「表層シリーズ:天中殺-十大恒星・十二命星」、56年「シリーズ:八木一夫の俳句(私的解釈の軌跡から)」、「陶壁・予兆空間」、57年「陶板・シリーズ韻」、60年「黒の風景」、62年「シリーズ蝕:黒の風景」、63年「陶板、予兆空間」、64年「予兆空間」「僕の世紀末」と一貫して社会への提言を秘めた作品を発表。熱や重力によって変形を加えられた形を石膏型に取り、陶土に形をうつして焼成するなど素材や技法の面でも前衛的な試みを行なった。朝日陶芸展審査員をしばしばつとめ、陶芸を伝統工芸の枠から解き放ち、クレイワークという分野を確立する原動力となった作家のひとりである。事故当時準備中であった個展は作家の計画案をもとに6月2日よりギャラリー森で行なわれ、国会議事堂を主題とした遺作「ザ・日本」が展示された。
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没年月日:1989/05/16 書家、中国書道史家で、日本芸術院会員、文化勲章受章者の西川寧は、5月16日急性心不全のため東京都目黒区の東京共済病院で死去した。享年87。現代書道界の重鎮として活躍した西川寧は、明治35(1902)年1月25日西川元譲の三男として東京市向島区に生まれた。はじめ吉羊と号し、のち安叔と字し、靖庵と号す。父元譲は字を子謙、号を春洞と称した書家で、幼時から神童をうたわれ、漢魏六朝普唐の碑拓法帖が明治10年代にわが国にもたらされるや、その研究に志し、また説文金石の学にも通じ書家として一派をなした。13歳で父春洞を亡くし、大正9(1920)年東京府立第三中学校を経て慶應義塾大学文学部予科に入学、この頃中川一政と親炙した。同15年同大学文学部支那文学科を卒業。在学中、田中豊蔵、沢木梢、折口信夫の学に啓発された。卒業の年から母校で教鞭をとり、のち同大教授として昭和20年に及んだ。昭和4年、中村蘭台主催の萬華鏡社に加わり、翌5年には金子慶雲らと春興会をおこし雑誌「春興集」を創刊、また、泰東書道院創立に際し理事として参加、この時、河井荃廬と相識る。同6年、最初の訪中を行い、同年『六朝の書道』を著す。同8年、金子、江川碧潭、林祖洞、鳥海鵠洞と謙慎書道会を創立。同13年、外務省在外特別研究員として北京に留学、同15年までの間、山西(大同雲崗他)、河南(殷墟)、山東(徳州、済南他)など各地の史蹟、古碑を訪ね、中国古代の書を独力で精力的に研究し、帰国後の創作ならびに研究活動へと展開させた。とくに、創作においては、従来とりあげられることの少なかった篆書・隷書に、近代的解釈を加え独自の書風を確立していったのをはじめ、楷書においては、六朝の書風を基礎とした豪快な書風を確立して書道界に新風を吹き込んだ。同16年『支那の書道(猗園雑纂)』を印行、同18年には田屋画廊で最初の個展(燕都景物詩画展)を開催した。戦後は、同23年に日展に第五科(書)が新設されて以来、審査員、常務理事などをつとめ運営にあたった。同30年、前年の日展出品作「隷書七言聯」で日本芸術院賞を受賞、同44年日本芸術院会員となる。この間、同24年、松井如流と月刊雑誌『書品』を創刊、同56年まで編輯主幹をつとめ、また、同22年から37年まで東京国立博物館調査員として中国書蹟の鑑査と研究にあたったほか、自ら深く親しんだ中国・清朝の書家趙之謙の逝去七十年記念展をはじめ、同館の中国書の展観を主辨した。また、同35年には、「西域出土 晉代墨跡の書道史的研究」で文学博士の学位(慶應義塾大学)を受けた。一方、同34年から同40年まで東京教育大学教授をつとめたほか、東京大学文学部、国学院大学でも講じた。戦後も二度中国を訪問、また、ベルリン、パリ、ロンドン等を二回にわたって訪ね、ペリオ、スタイン、ヘディン等によって発掘された西域出土古文書の書道史的調査を行った。同52年、文化功労者に挙げられ、同60年には書家として初めて文化勲章を受章した。作品集に『西川寧自選作品』(同43年)、『同・2』(同53年)等、著書に『猗園雑纂』(同60年再刊)等がある他、すぐれた編著書を多く遺す。没後、従三位勲一等瑞宝章を追贈される。また、自宅保存の代表作の殆んどを含む遺作百数十点余は、遺志により東京国立博物館へ寄贈された。平成3年春から著作集の刊行が予定されている。
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没年月日:1989/05/13 日本芸術院会員で文化功労者の洋画家鈴木信太郎は5月13日午前9時54分、肺炎のため東京都渋谷区の日赤医療センターで死去した。享年93。洋画界の長老であった鈴木は明治28(1895)年8月16日、東京都八王子に生まれた。同43年赤坂溜池の白馬会洋画研究所に入り黒田清輝に師事。大正2(1913)年、八王子の府立織染学校専科に入学し織物図案を学ぶ。のち上京して染織図案家滝沢邦行に師事し本格的な図案家をめざすが、同5年第10回文展に水彩画「静物」で初入選。同10年図案を断念し油絵の制作に専念する。翌11年第9回二科展に「桃と紫陽花」で初入選。この年より石井柏亭に師事。昭和元(1926)年第13回二科展に「静物」「窓辺静物」「花」他を出品して樗牛賞受賞。同3年同会会友となる。同9年第21回二科展に「桃といちぢく」他を出品して推奨となり、同11年同会会員となる。戦後も二科会に参加するが同30年に退会して同会の同志であった野間仁根、高岡徳太郎らと一陽会を結成、以後没するまで同会に出品を続けた。同35年日本芸術院賞を受賞、同44年日本芸術院会員となり、63年には文化功労者に選ばれた。絵画学校での正規の習学を踏まず、従来の絵画観にとらわれることなく自由に制作を続け、果物、花、人形などの静物や風景を好んで描いた。線遠近法などを無視して画面の大部分をモチーフで埋め、明澄、豊麗な色彩を特色とした童画風と評される陽気で詩的な作風を示した。美術教育にもたずさわり、昭和25年より40年3月まで武蔵野美術大学教授、同28年より41年3月まで多摩美術大学教授として後進を指導。著書に随筆集『阿蘭陀まんざい』『美術の足音 今は昔』などがある。同57年10月に日本橋・大阪高島屋で、同61年8月にそごう美術館で回顧展的な「鈴木信太郎展」が行なわれ、平成2年5月には同じくそごう美術館で「鈴木信太郎遺作展」が開かれた。 年譜1895(明治28)年 8月16日、東京都八王子に、生糸業鈴木金蔵、テルの長男として生まれる。1910(明治43)年 赤坂溜池の白馬会洋画研究所に入所。同研究所で鈴木金平(当時14歳)と親交を結ぶ。鈴木金平を通じ岸田劉生を知る。1911(明治44)年 銀座三原橋近くに下宿する。鈴木金平の紹介で回覧雑誌「紫紅」に入る。1912(明治45)年 八王子に帰郷。10月、第1回ヒュウザン会展を見るため上京。1913(大正2)年 八王子の府立織染学校(現・都立八王子工業高)の専科に入学。織物図案を学ぶ。後再び上京し、染織図案家滝沢邦行のもとで図案を学ぶ。1916(大正5)年 第10回文展に「静物」が初入選する。1919(大正8)年 この頃、俳人荻原井泉水の主宰する絵の合評会「砂文字会」に参加。そこで浜田庄司を知る。井泉水の俳人同人誌「層雲」の表紙・挿絵・カット等を描く。浜田庄司の招きで京都を訪ねる。1921(大正10)年 八王子に帰郷。図案の仕事を断念し、日野の多摩川河畔の善生寺に寄寓、油絵の制作に専念する。1922(大正11)年 第9回二科展に「桃と紫陽花」が初入選する。以後、石井柏亭に師事する。「1920年社」に参加する。奈良に写生旅行をする。以後しばしば奈良旅行を行うようになる。鍋井克之の知遇を得る。1923(大正12)年 志賀周と結婚。1925(大正14)年 鈴木金平の紹介で「中村彝画室倶楽部」に入会する。京都に津田青楓を訪ねる。第12回二科展に「人形のある静物」他を出品。以後退会まで毎年出品する。1926(昭和元)年 第13回二科展に「静物」「窓辺静物」「花」他を出品。樗牛賞を受賞する。曽宮一念の知遇を得る。「柘榴社」同人となる。1927(昭和2)年 第14回二科展に「静物」「八王子車人形」他を出品。1928(昭和3)年 第15回二科展に「孔雀礼讃」「諏訪湖の夏」他を出品。会友となる。9月3~6日初めての個展として、「鈴木信太郎洋画個人展覧会」(日本橋・三越)を開く。1929(昭和4)年 第16回二科展「八王子車人形」他を出品。1930(昭和5)年 八王子より荻窪に転居する。第17回二科展に「象と見物人」「せとものや」「草上の桃」他を出品。1931(昭和6)年 第18回二科展に「靴屋」他を出品。1932(昭和7)年 第19回二科展に「長椅子の女」「松のある村道」を出品。1933(昭和8)年 この頃より本の装幀、挿絵を手がけるようになる。第20回二科展に出品。1934(昭和9)年 3月、長女もゝ代誕生。第21回二科展に「桃といちぢく」他出品。推奨を受賞する。1935(昭和10)年 第22回二科展に「南総の海」「夜の静物」「麻雀と人形」他出品。1936(昭和11)年 第23回二科展に「花と魚貝」「緑の構図」他出品。二科会会員となる。1937(昭和12)年 第24回二科展に「アトリエ」「青い庭(芭蕉と紫陽花)」他出品。1938(昭和13)年 第25回二科展に「青い庭(芭蕉と百合)」他出品。1939(昭和14)年 第26回二科展に「柘榴」他出品。個展(日本橋・高島屋)を開く。1940(昭和15)年 第27回二科展に「枇杷」他出品。この頃「鈴木信太郎個人展」(そごう神戸店)1941(昭和16)年 第28回二科展に「奈良の秋(鷺池の道)」「桃とあぢさい」他を出品。1942(昭和17)年 第29回二科展に「初夏の山中湖」「奈良の春」他出品。1943(昭和18)年 第30回二科展に「奈良新春」「奈良の初夏」他出品。1944(昭和19)年 戦争が激しくなり、西多摩、五日市に疎開。疎開先で林武と知り合う。1946(昭和21)年 4月、疎開先五日市より荻窪に戻る二科再興に加わる。第31回二科展「冬の山川」を出品。1947(昭和22)年 第32回二科展に「秋川風景(小和田橋)」を出品。1948(昭和23)年 第33回二科展に出品。1949(昭和24)年 長崎に、被爆し病床にあった永井博士を訪ねる。同氏の新聞連載の随筆「長崎の花」の挿絵を描く。随筆集『お祭りの太鼓』(朝日新聞社)を出版。第34回二科展に「長崎の家」「阿蘭陀萬歳」他出品。1950(昭和25)年 4月、武蔵野美術大学教授就任(1965年3月まで)。第4回日本国際美術展(主催毎日新聞社)に「港(長崎風景)」を出品。第35回二科展に「長崎の丘」「天主堂の中」「腰かけた女」他出品。1951(昭和26)年 荻窪より久我山に転居。第36回二科展に「人形の図」「長崎大浦天主堂」他出品。1952(昭和27)年 第37回二科展に「蝶々夫人の家(グラバー邸)」「皿の人形」「菊」「芍薬」を出品。1953(昭和28)年 3月多摩美術大学教授就任(1966年3月まで)。国立公園協会から依頼を受け、「厳島」を制作する。第38回二科展「石のある庭」「カルメンスペイン人形」「春雪」「ガラスの皿のある静物」「宮島風景」出品。1954(昭和29)年 随筆集『阿蘭陀まんざい』(東峰書房)を出版。画集『日本現代画家選10、鈴木信太郎』(美術出版社)を出版。第39回二科展に「武蔵野の一隅」「林檎園」「長崎の丘(天主堂のある風景)」他出品。1955(昭和30)年 第40回春季二科展に「長崎風景」「花(芍薬)」「雪晴れ」出品。二科展を退会し、一陽会を野間仁根、高岡徳太郎等と結成する。第1回一陽展に「窓」「海と漁船」他を出品。1956(昭和31)年 第2回一陽会に「長崎の家」「伊豆の漁村」他を出品。1957(昭和32)年 第3回一陽展に「夏の樹々」「長崎風景(丘の眺め)」他を出品。11月「鈴木信太郎先生近作油絵展」(日本橋・三越)1958(昭和33)年 第4回一陽展に「牧草の窓」「札幌風景(ポプラの池)」他出品。第1回日展に「札幌風景(北大構内)」を招待出品。1959(昭和34)年 第5回一陽展に「窓の静物」他出品。1960(昭和35)年 日本芸術院賞を受賞する。第6回一陽展に「熱海風景」「伊豆山風景」を出品。第3回日展に「白樺湖」(東京都美術館蔵)を招待出品。1961(昭和36)年 6月、「鈴木信太郎スケッチ展」(銀座松屋 主催朝日新聞社)第7回一陽展に「林檎園」「バスの通る道」を出品する。11月「鈴木信太郎先生油絵展」(日本橋・三越)1962(昭和37)年 第8回一陽展に「熱海風景」「静物」「芍薬」を出品。第5回日展に「白樺湖」(信濃美術館蔵)を招待出品。第6回現代日本美術展(主催毎日新聞社)に「新緑熱海風景」を出品。11月「鈴木信太郎油絵展」(日本橋・三越)1963(昭和38)年 第9回一陽展に「静物」「伊豆漁村」を出品。1964(昭和39)年 第10回一陽展に「海」「桐の花」を出品。11月「鈴木信太郎新作長崎油絵展」(日本橋・三越)1965(昭和40)年 第11回一陽展に「長崎風景(新緑の丘)」他を出品。11月「鈴木信太郎新作長崎油絵展」(日本橋・三越)1966(昭和41)年 第12回一陽展に「高原」「田園風景」を出品。「鈴木信太郎個展」(日本橋・三越)1967(昭和42)年 第13回一陽展に「新緑の山」「燈台のある街」を出品。「鈴木信太郎個展」(日本橋・三越)1968(昭和43)年 第14回一陽展に「室内」「伊豆伊東風景」を出品。5月「鈴木信太郎ミニアチュール展」(日本橋・高島屋)11月「鈴木信太郎個展」(日本橋・三越)1969(昭和44)年 第15回一陽展に「桃と向日葵」「春の瀬戸内田園風景」を出品。日本芸術院会員となる。「鈴木信太郎個展」(日本橋・三越)1970(昭和45)年 第16回一陽展に「室内静物」「人形の国」を出品。「鈴木信太郎個展」(日本橋・三越)1971(昭和46)年 第17回一陽展に「下田港風景」「壷」を出品。11月「鈴木信太郎油絵展」(日本橋・三越)1972(昭和47)年 第18回一陽展に「伊豆伊東風景」「伊豆の海」を出品。1973(昭和48)年 第19回一陽展に「山の家々」「ペルシャ更紗と万暦赤絵」を出品。1974(昭和49)年 5月「鈴木信太郎油絵展」(銀座和光)第20回一陽展に「ばら」「絵箱のある静物」を出品。1975(昭和50)年 第21回一陽展に「古風な時計」「早春の丘(伊豆)」を出品。1976(昭和51)年 第22回一陽展に「森の中の洋館」「初夏の伊豆風景」を出品。5月「鈴木信太郎油絵展」(銀座和光)9月「鈴木信太郎自選展」(銀座和光 主催日本経済新聞社)1977(昭和52)年 第23回一陽展に「伊豆の春」「黄色い壷の静物」を出品。1978(昭和53)年 5月「鈴木信太郎油絵展」(銀座和光)第24回一陽展に「河沿いの村」「伊豆の山」を出品。1979(昭和54)年 第25回一陽展に「窓の静物」「天城高原」を出品。1980(昭和55)年 第26回一陽展に「早春武蔵野」「絵箱と壷のある静物」を出品。5月「鈴木信太郎新作展」(そごう神戸店)5月「鈴木信太郎油絵展」(銀座和光)1981(昭和56)年 第27回一陽展に「新緑の道」「窓ぎわの棚」を出品。1982(昭和57)年 第28回一陽展に「石垣の上の家」「人形二人」を出品。10月「鈴木信太郎展」(日本橋・大阪高島屋 主催読売新聞社)1983(昭和58)年 第29回一陽展に「ばら」「緑の中のすべり台」の出品。11月「鈴木信太郎油絵展」(銀座和光)1984(昭和59)年 第30回一陽展(創立30周年記念)に「突堤のある港(伊豆)」を出品。9月「鈴木信太郎油絵展」(日本橋高島屋)1985(昭和60)年 第31回一陽展に「武蔵野風景」「百合のある静物」を出品。1月「鈴木信太郎自選展」(徳島そごう)1986(昭和61)年 第32回一陽展に「みかん畑の見える海」「新緑の伊豆高原」を出品。4月「鈴木信太郎油絵展」(日本橋三越)8月「鈴木信太郎展」(そごう美術館 主催(財)そごう美術館)1987(昭和62)年 第33回一陽展に「ばらとざくろ」「海の見える丘(伊豆)」を出品。7月、随筆集『美術の足音 今は昔』(博文館新社)を出版。8月「鈴木信太郎展」(八王子そごう 主催(財)そごう美術館)11月、文化功労者として顕彰される。1988(昭和63)年 第34回一陽展に「ひまわりとくだもの」「絵箱と桃」を出品。5月「鈴木信太郎油絵展」(日本橋・大阪高島屋)7月「鈴木信太郎展」(長崎県立美術博物館 主催(財)そごう美術館・長崎県立美術博物館)1989(平成元)年 2月、日本赤十字社医療センターに入院。5月13日、9時54分 日本赤十字社医療センターにて逝去(享年93歳)。絶筆「伊豆の山」「ばら」「柘榴」5月17日、本願寺和田堀廟所に於て一陽会葬が行われる。9月、第35回一陽展に絶作「函館」「晴れた日の港」「ざぼんと人形」「柿若葉」「ばら」を出品。1990(平成2)年 5月「鈴木信太郎遺作展」(そごう美術館 主催読売新聞社・(財)そごう美術館)6月「鈴木信太郎遺作展」(奈良そごう美術館 主催読売新聞社・(財)奈良そごう美術館)(「鈴木信太郎遺作展」(そごう美術館)図録より転載)
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没年月日:1989/04/26 元二科会会長の洋画家北川民次は、4月26日肺線維症のため愛知県瀬戸市の陶生病院で死去した。享年97。特特なデフォルメによる生命感あふれる作風で知られ、はやくから児童美術教育のすぐれた実践者でもあった北川民次は、明治27(1894)年1月17日静岡県榛原郡に生まれた。生家は農業で製茶業を営み、アメリカへも茶を輸出していた。明治43年県立静岡商業学校を卒業し早稲田大学へ入学したが、大正2年中退しカリフォルニア在住の伯父を頼って渡米した。翌3年ニューヨークのアート・ステューデンツ・リーグに入り、社会的主題を描いたジョン・スローンに師事、ここで国吉康雄と相識った。大正10年、アート・ステューデンツ・リーグを卒業するまでの間、苦学を重ね主に舞台美術家として生計をたてていた。同12年、アメリカ南部からキューバへ放浪、同年9月メキシコのオリサバに着き、サンテーロ(聖画行商人)となって村々を転々とした。同年中、サンカルロス美術学校に入学、特待生となり3カ月で卒業する。翌13年、チュルブスコ村の旧僧院で研修する画学生の一員となり、この頃、リベラ、オロスコ、シケイロスらと交際、彼らの推進する野外美術学校に関わることになり、同14年からのトランバムの野外美術学校奉職を経て、昭和6年タスコに移した野外美術学校の校長となった。同8年には、メキシコ旅行中の藤田嗣治が訪問する。同11年、学校を閉鎖して帰国し、一時愛知県瀬戸市に寓居した。翌12年上京し豊島区長崎仲町1-241に居住、藤田嗣治の紹介で同年の第24回二科展に「メキシコ、タスコの祭日」「同、銀鉱の内部」「同、悲しき日」「メキシコの三人娘」「瀬戸の工場」を出品し、会員に推挙された。同年、数寄屋橋の日動画廊で第1回目の個展「メキシコ作品展」を開催する。同13年久保貞次郎を知る。戦前は、二科展の他、聖戦美術展(同14年)、紀元二千六百年奉祝美術展(同15年)、新文展(同18年)にも出品した。同18年、瀬戸市安土町23番地に転居し、以後同地に定住した。戦後は、二科展をはじめ、美術団体連合展、日本国際美術展、現代日本美術展、国際具象美術展、国際形象展、太陽展などに制作発表を行う。その間、瀬戸の民衆生活を題材に、独自のデフォルメによる原始的な生命感の横溢する作風を展開、1960年代からは色彩の上で一転し、それ以前のいわゆる「灰色の時代」から鮮烈な原色の明るさをました。一方、メキシコ時代に身につけた銅版画をはじめ、石版、木版画もよくした。また、児童美術教育にも力を注ぎ、昭和24年名古屋市東山動物園内に名古屋動物園美術学校を開設(同26年迄)、同26年名古屋市東山に北川児童美術研究所を設立、翌27年には創造美育協会の創立に発起人として参加した。同30年から翌年にかけ、メキシコを再訪したのち、中南米、フランス、スペイン、イタリアを巡遊する。同39年、第6回現代日本美術展出品作「哺育」で優秀賞を受賞。同48年東急日本橋店他で「画業60年北川民次回顧展」(毎日新聞社主催)が開催された。同53年、東郷青児の死去のあと二科会会長に推されたが、「残る人生は、ただ描くために」と同年9月会長を辞し、翌年二科会も退会した。『北川民次画集』(昭和31年、美術出版社、同49年、日動出版)のほか、『絵を描く子供たち』(岩波新書、同27年)、『子供の絵と教育』(同28年、創元社)、『メキシコの誘惑』(同35年、新潮社)などの著書がある。 主要出品歴二科展24回 「メキシコ、タスコの祭日」「メキシコ、銀鉱の内部」「メキシコ、悲しき日」「メキシコの三人娘」「瀬戸の工場」25回 「メキシコ舞踏図」「静物」「見物人(メキシコ)」「戦後図(メキシコ)」26回 「大地」「ゆあみ」27回 「南国の花」「琉球首里城外の森」「薔薇」28回 「修学」「勤労」「舞妓」29回 「浜に行く道」30回 「農漁之図」「鉱士之図」31回 「景色」「重荷」32回 「雑草の如く」33回 「雑草の如く(其二)」34回 「雑草の如く(其三)」35回 「夏の小川」「森の泉」「黒」36回 「黒と灰色の風景」「花火を弄ぶ少女達」「白い工場」37回 「窯と働く人々」「少女とキリギリス」38回 「降霊術者」「陶工」39回 「女のつどい」41回 「タスコの教会」「メキシコ市場の一隅」「サボテンの樹」42回 「寺院の前の人たち」43回 「ファンダンゴ」44回 「蝗のむれ」「陶器を作る」45回 「白と黒」46回 「工場A」「工場B」47回 「画家とその家族」48回 「母子家族像」49回 「三人の女客」「花」50回 「二十年目の悲しみの夜」51回 「食後」52回 「メキシコ三姉妹」53回 「陶房の人々」54回 「画家の家族」55回 「夏の宿題」56回 「真夏の花」「太陽の花」57回 「花と母娘」58回 「百鬼夜行」59回 「少年像」60回 「茶畑」61回 「茶園のある風景A」「茶園のある風景B」62回 「風景」日本国際美術展1回 「瀬戸の工場裏」2回 「三河花祭の鬼」4回 「花嫁」5回 「砂の工場」6回 「工場」7回 「労働者の家族」8回 「セトモノ」9回 「瀬戸風景」現代日本美術展3回 「ファンダンゴ(乱ちき騒ぎ)」4回 「客人」5回 「花」6回 「哺育」「平和な闘争」7回 「花と幼女」8回 「アトリエの母子」9回 「哺育」(1964年作)
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没年月日:1989/04/19 光風会常任理事、日本芸術院会員の洋画家西山真一は4月19日午前8時7分、脳梗塞のため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。享年82。明治39(1906)年7月20日、福井県今立郡に生まれる。福井県今立郡片上尋常小学校を経て大正15(1926)年福井県師範学校を卒業。同年福井県今立郡岡本尋常高等小学校教員となる。昭和4(1929)年文部省検定試験(図画、用器画)に合格。翌年上京し、東京府荏原郡旭小学校の図画専科訓導となり、9月より自由ケ丘研究所に入る。同6年第18回光風会展に「風景」で初入選、鈴木千久馬に師事し、同年第12回帝展に「初秋風景」で初入選する。同13年第25回光風会展に「描く子供達」「蜜柑畠」「初秋」を出品してI氏賞を受け、同15年同会会友、17年同会会員に推挙される。戦後も光風会展、日展に出品を続け、同24年第5回日展出品作「夏日」で特選受賞、同29年正月に渡仏し、アカデミー・グラン・ショーミエールに学んで翌30年の夏に帰国する。従来は人物を多く描いたが、渡欧後は風景画を主に制作する。同33年日展会員、39年日展評議員となり、48年第5回改組日展に「トレド風景」を出品して文部大臣賞受賞。同55年、前年の第11回日展に出品した「六月の頃」などにより日本芸術院賞を受賞し、同59年日本芸術院会員に任命された。翌60年には日本芸術院会員就任記念展(東京渋谷・東急本店)が開かれ、また62年には郷里の福井県立美術館で「西山真一回顧展」が開催された。奔放で力強い筆致、重厚なマチエル、明快な色彩で箱根、東尋坊ほか各地を描いた風景画で知られる。渡欧期には石造建築のある都市風景に興味を示したが、晩年になるにつれ郊外の豊かな自然に多く画因を得ている。
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没年月日:1989/04/09 パリに長く居住してフランス画壇で活躍した洋画家増田誠は、4月9日午後6時40分、肺炎のため横浜市中区の日本赤十字病院で死去した。享年68。大正9(1920)年5月24日、山梨県南都留郡に生まれ、昭和13(1938)年旧制都留中学校を卒業。代用教員をつとめたのち戦後は入植農業に従事し、看板かきなどをしながら独学で絵を学ぶ。同25年上野山清貢を知る。中島由多禾、岩井弥一郎にも師事。同27年一線美術展に初入選し、翌年同展森永賞を受け会員に推され、同31年一線美術奨励賞を受賞する。同32年渡仏。パリに住んで下町の生活感あふれる情景や庶民を描き、35年シェルブール国際展に招待出品してグランプリ受賞、38年ル・サロン展銀賞、40年同展金賞およびLa Societe des Amie de Conflans月桂樹賞、41年Salon International Paris-Sud銀メダル、42年同展ゴーギャン賞、54年Salon National des Beaux-Arts GILLOT DARD賞と受賞を重ねる。個展のほかフランスの団体展にも出品し、38年サロン・ドートンヌ会員、40年サロン・ナシォナール・デ・ボザール会員、42年サロン・デ・ザンデパンダン会員となった。ギリシア神話や旧約聖書などにも取材し、人間への興味と暖かいまなざしが独自の画趣の基盤となっている。明るい色彩と軽妙な筆致で即写風に生き生きとした街や居酒屋を描いた作品で広く知られたが、晩年帰国し、富士山の風景画に取り組んでいた。フランスのほかロンドン、ニューヨークでも個展を開き、日本でも昭和51年「在パリ20年の歩み展」(東京新宿・小田急百貨店)などしばしば作品の展観が行なわれている。同64年郷里の都留市名誉市民となり、「郷土を描く増田誠展」が開催された。呑舟とも号した。(なお各展出品歴等は第15回「増田誠展」(東京新宿・小田急、昭和63年)図録に詳しい。)
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没年月日:1989/03/28 京都市美術館長、京都市立芸術大学名誉教授の元井能は、3月28日午前5時38分、急性心筋こうそくのため京都府長岡京市の済生会京都府病院で死去した。享年69。大正9(1920)年1月5日、京都市上京区に生まれる。昭和17(1942)年、大阪外国語学校仏語部を卒業し、同21年4月京都大学文学部に入学。美学美術史学を専攻し同24年同大学を卒業して同大学院に進学する。同32年より京都市立美術大学講師として教鞭をとり、38年同助教授となる。同45年、前年に京都市立芸術大学と改称した同大学教授となって、同60年停年退職するまで長く後進の指導に当たる。停年後は、京都市美術館館長をつとめたほか、京都国立近代美術館評議員、文化庁文化財保護審議会専門委員でもあった。工芸史、特に染織、服飾を専攻し、著書に『西洋被服文化史』『日本被服文化史』『彦根更紗』『フランス装飾裂』、共著に『芸術的世界の論理』『インドネシヤ染織』などがある。
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没年月日:1989/03/25 新聞4コマ漫画「轟先生」で親しまれた漫画家秋好馨は、3月25日午後9時15分、肺ガンによる呼吸機能不全のため、神奈川県鎌倉市の自宅で死去した。享年76。明治45(1916)年、東京に生まれる。中学校在学中に胸を病んで2年間休学し、この間に描いた漫画が雑誌に認められて昭和10(1935)年、「フレッシュマン神童君」でデビューする。同12年、横山隆一などの所属する「新漫画派集団」に入り、同16年近藤日出造主宰の雑誌「漫画」に「轟先生」を発表して注目された。中学教師を主人公とし、世相を敏感に反映した同作品は、戦後の同24年から読売新聞夕刊に4コマ漫画として連載され始め、同26年からは朝刊に移って同48年2月まで、通算7762回にわたって続けられた。主要作品としては、他に「ますらを派出夫会」「あわもり君」などがある。晩年は油絵に親しみ、個展なども開催している。
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没年月日:1989/03/22 新制作協会会員で霞が関ビル前庭の「よろこび」で知られる彫刻家村田勝四郎は、3月22日午後4時4分、肺炎のため東京都渋谷区の井上病院で死去した。享年88。明治34(1901)年8月10日、大阪市北区に生まれる。大阪府立天王寺小学校、同中学校を経て大正9(1920)年東京美術学校彫刻科塑像部に入学する。北村西望教室に学んで同14年に同科を卒業。続いて同科研究科に入り朝倉文夫の指導を受ける。同年第6回帝展に「道程」で初入選。翌15年第7回帝展に「女性」を出品して特選、翌昭和2(1927)年第8回帝展に「少女像」を出品して再び特選となる。また。同年より朝倉文夫の主宰する朝倉彫塑塾に参加し、朝倉塾彫塑展第1回展に出品。翌3年、同塾の帝展不出品に連座する。同4年、安藤照らと朝倉塾を退会し塊人社を結成し、帝展にも復帰する。同11年、塊人社が主線協会と合同して主線美術協会となるに際し同展に出品するが、同14年同会が解散したため、その彫刻部のみで再び塊人社を興す。戦後は同24年より新制作派協会に会員として参加し、以後同展に出品を続けた。同33年福岡・RKB毎日放送内に「牧神の午后」を制作して以降モニュメントやレリーフも手がけ、同45年東京霞が関ビル前庭にモニュメント「よろこび」を制作。同48年2月、日本橋三越で初の個展「村田勝四郎彫刻展-野鳥と少年-」を開催した。人体像をモチーフとし、戦前は対象の観察に忠実にもとづく温和なポーズの人体を、戦後は鳥と少年、少女を組みあわせたのびやかで軽みのある作品を中心に制作した。昭和10年から日本野鳥の会会員であり、晩年は特にトキを好んで主題としていた。清潔で無垢な作風を特色とする。同60年48点の作品を在住地である渋谷区立松涛美術館に寄贈したのを受けて、同年同美術館で「受贈記念特別陳列 村田勝四郎の彫刻」展が開かれている。(なお、年譜、出品歴は同展図録に詳しい。)
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没年月日:1989/03/20 松岡美術館館長で美術蒐集家の松岡清次郎は、3月20日午後4時31分、呼吸不全のため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年95。明治27(1894)年1月8日、東京都京橋区に生まれる。同45年中央商業学校を卒業して銀座の貿易商に勤務し、数年後に独立。雑貨輸出入業に従事し、第一次世界大戦時に不動産業、冷蔵倉庫業、ホテル業など多角的に事業を拡大。昭和7(1932)年、松岡創業を開設する。一方、古美術品蒐集を始め、初期には日本画を、戦後は中国陶磁を中心に蒐集。昭和49年6月「青花双鳳草虫図八角瓶」を落札して注目されたほか、「青花龍唐草文天球瓶」の入手、昭和55年シャガールの「婚約者」、同61年「釉裏紅牡丹蓮花文大盤」の落札などで話題となった。同50年11月、コレクションの公開のために東京都港区新橋5-22-10の自社ビル内に松岡美術館を設立。中国陶磁、日本画、西欧絵画、インド仏教彫刻など幅広いコレクションが展観されている。
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没年月日:1989/03/13 美術品蒐集家、平野政吉美術館館長の平野政吉は、3月13日午後7時2分、心筋こうそくのため秋田市の中通病院で死去した。享年93。明治28(1895)年12月5日秋田県秋田市に生まれる。米穀商から広大な田畑を所有する大地主となった初代政吉を祖父に、家業を継ぐ一方金融業をもとにした「平野商会」を設立した二代政吉を父に、その長男として生まれ、幼名精一。明徳小学校卒業後、秋田中学に入学するが中退。20歳頃から飛行機に興味を持ち、日本帝国飛行協会の小栗常太郎の主宰する小栗飛行学校に5年間ほど学ぶなど、新奇なものに逸早く傾倒。一時、画家を志すなど美術にも興味を持ち、昭和4(1929)年、洋画家藤田嗣治の帰国展を見、同9年の二科展で藤田の知遇を得、その作品に強くひかれ蒐集を始める。同12年には藤田を秋田に招き大壁画「秋田の行事」の制作を依頼するなど、藤田嗣治のコレクターとして知られるようになる。同13年、私立美術館設立に着手するが、第二次世界大戦下の資材不足のため頓坐し、戦後の42年5月5日、財団法人平野政吉美術館を開館してその館長となった。藤田嗣治のコレクションのほか、郷里に関連する秋田蘭画を中心とした初期洋風画、西洋絵画など幅広く蒐集、公開を行ない、豪胆放逸な人柄とともに広く世に知られた。
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没年月日:1989/03/12 日本最初の超高層建築、霞が関ビルを設計し日本の「超高層建築の生みの親」と言われた東大名誉教授の建築家、武藤清は、3月12日午前8時30分、急性心不全のため東京都新宿区の自宅で死去した。享年86。明治36(1903)年1月29日、茨城県取手市に生まれる。大正14(1925)年東京帝国大学工学部建築学科を卒業。同科在学中の大正12年に関東大震災を経験し、耐震建築の研究を始める。昭和10(1935)年東京帝国大学教授となり、さらに本格的に耐震構造や地震工学に取り組み、木造五重塔の耐震性に注目して、地表の震動を建築構造内で吸収する「動的設計法」を打ち立て、また、構造物の振動解析を行なう「耐震計算法」を生み出すなど、地震国日本では不可能とされていた超高層建築を可能とする柔構造理論を打ち立てた。同38年東京大学を退官して同大学名誉教授となり、のち、鹿島建設副社長に就任。同43年には、当初15、6階建てで計画されていた霞が関ビルを36階建てに自ら構造設計し、日本最初の超高層建築を実現させた。のち、新宿三井ビル、世界貿易センタービル、新宿京王プラザホテル、サンシャイン60、赤坂プリンスホテル新館など超高層ビルの構造設計を担当。東京都庁新庁舎の構造設計も手がけた。この間、日本建築学会会長、国際地震工学会会長などをつとめ、昭和39年日本学士院賞恩賜賞受賞、50年日本学士院会員、54年文化功労者となり、58年文化勲章を受けた。日本の伝統建築をもとに、その地理国土に適した新しい構造によって超高層を可能とし、高度経済成長期以降の都市景観を大きく変化させ、また国際的にも、地震多発地域の耐震建築法を提起して、多大な影響をおよぼした。
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没年月日:1989/03/03 日本芸術員会員、法政大学工学部名誉教授の建築家大江宏は、3月3日午前11時25分、肺炎のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去した。享年75。大正2(1913)年6月14日、建築家大江新太郎を父に秋田市に生まれる。昭和13(1938)年、東京帝国大学工学部建築学科を卒業。同15年三菱地所建築部技師となり、21年大江新太郎建築事務所を継承する。同23年法政大学工業専門学校教授、25年法政大学教授となり、28年同大学大学院の設計を行なったのを皮切りに、30年には同大55年館、33年には58年館、37年には62年館と、法政大学ならびにその関係施設の建築設計を行ないインターナショナル・スタイルの一連の作例を発表。43年には、窓により大幅に外光を取り入れた普連土学園、53年には和洋を折衷させた角館伝承館、58年には日本の伝統建築を新しい時代の要請の中で生かした国立能楽堂を設計し、多様な中にも独創的な個性を感じさせる作家とされた。法政大学校舎で昭和33年度日本建築学会賞および34年度文部大臣賞芸術選奨を受け、35年建築業協会賞、49年毎日芸術賞、56年丸亀武道館で日本芸術院賞、60年国立能楽堂で再度建築業協会賞を受賞。同年日本芸術院会員となる。63年日本建築学大賞を受賞。64年の三渓記念館、大塚文庫の設計が最後の仕事となった。著書に『建築を教えるものと学ぶもの』(昭和55年、鹿島出版会)、『新建築学大系・第一巻・建築概論』(同57年、彰国社)、『歴史意匠論』(同59年、南洋堂)などがある。(なお、作品歴、作風については「建築文化」6に詳しい。)
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没年月日:1989/03/01 東京文化会館などの設計にたずさわった構造設計家横山不学は、3月1日午前5時14分、肺炎のため東京都新宿区の東京厚生年金病院で死去した。享年86。明治35(1902)年5月22日、東京都文京区に生まれ、昭和3(1928)年3月、東京大学工学部建築学科を卒業。同年4月より13年5月まで日本銀行臨時建築部技師、13年5月より17年6月まで東京市建築部技師、17年6月より20年11月まで内閣技術院参技官をつとめる。戦後は20年11月より23年3月まで戦災復興院計画局技官、のち特許標準局(23年3~8月)、工業技術庁(23年8月~25年1月)を経て、同25年1月に独立し、横山建築構造設計事務所を開設し、その所長となった。東京大学での同級生であった前川国男と組み、東京文化会館、東京海上火災本社ビル、東京都美術館、熊本県立美術館、国立西洋美術館、山梨県立美術館などの構造設計を担当したほか、町田市立国際版画美術館、水戸芸術館の設計にもたずさわった。この間、昭和36年「建築構造設計技術の推進」によって日本建築学会賞受賞。著書に『建築構造設計論:理念の追求と展開』(昭和54年)、『建築構造設計論:世界のランドマークを求めて』(同56年)、『遥かなる身と心の遍歴を求めて』(同57年)などがある。公共建築、特に美術館などの文化事業を目的とする建築の設計に多く参画した。晩年は絵画に興味を抱き、竹林会等に出品している。時に暁と号した。
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没年月日:1989/02/23 美術品蒐集家、財団法人高麗美術館理事長の鄭詔文は、2月23日午後2時、肝不全のため京都市東山区の京都第一赤十字病院で死去した。享年70。大正7(1918)年11月2日、朝鮮半島慶尚北道に生まれる。同14年、両親と共に来日。働きながら小学校を卒業し、戦後、飲食店などを経営する一方、朝鮮半島の美術品を蒐集。また、昭和44年から56年まで朝鮮文化社から季刊雑誌「日本の中の朝鮮文化」を刊行した。同63年10月25日、蒐集した高麗青磁、李朝白磁などの陶磁器、仏像、書画、家具など1700点あまりを所蔵する高麗美術館を自宅のあった京都市北区紫竹上ノ岸町15に設立し、財団法人とした。在日韓国人一世としての自己の体験から、美術品を通して故国の文化を理解、顕彰し広く共感を分かとうとしたもので、朝鮮考古・美術の調査、研究もあわせて行ないたいとの遺志を汲んで、現在は「高麗美術研究所」があわせて設立されている。
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没年月日:1989/02/22 痛烈な風刺のきいた政治漫画で近藤日出造、清水崑と並び称された日本漫画家協会会員、日本ペンクラブ会員の那須良輔は、2月22日午後1時、ぼうこうガンのため神奈川県の自宅で死去した。享年75。大正2(1913)年4月15日、熊本県球磨郡に生まれる。中学校在学中に洋画家を志し、上京して太平洋美術学校に学ぶ。同校卒業後、昭和9(1934)年講談社刊行の雑誌「日本少年」に「のんきな殿様」を発表して漫画家としてデビュー。新漫画派集団に所属し、昭和15年、近藤日出造の主宰する漫画誌「漫画」に執筆し始め、この頃から政治漫画に筆を染める。戦中は参謀本部の秘密機関の大田天橋の下で嘱託として外地向けの漫画謀略のビラを描くなどの仕事に従事し、同19年出征地より帰国。同25年より毎日新聞の嘱託となって政治漫画を担当。国会記者席からオペラグラスを使って議員、政治家の写生を行ない、洋画修学を基礎とした巧な似顔絵を用いて動感ある溌刺たる画風に鋭い批判、風刺をこめた。同33年にロンドンで開催された第1回国際政治漫画展に出品し、国際的にも認められる。主な政治漫画集の著作に『吉田から岸へ』(昭和34年、毎日新聞社)、『漫画家生活50年』(同61年、平凡社)などがある。また、水墨画、随筆もよくし、諷刺随筆『魚眼レンズ』(同42年、雪華社)、『かまくら素描』(同51年、かまくら春秋社)、『釣り春秋』(同53年、大陸書房)などを著した。
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